[3] さらに昔――変わり者の怨霊、語る
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小屋の扉が開かれました。
「姫様!」
なだれ込んできたのは、王様の兵士たちでした。
兵士たちはお姫様の姿を見つけると、あっという間に男たちを捕らえました。
お姫様は、ただうつろな目で、その様子を眺めるだけでした。
「マリー!」
入り口から別の声が聞こえました。
お姫様は、はっと顔を上げました。
「お父……王……様」
「無事か!? 酷いことはされなかったか!? 痛いところはないか? ほ、ほらとりあえず手を上げてみるんだ。ばんざーい。ちょっと動かすだけで痛かったら後で長引くこともあるからな、早期発見、早期撃退だ」
「……」
お姫様は、反応に困りました。
この人は、本当の父親ではない――と、白いリボンに出ていたのです。
「……撃退するのは、病気だと思うわ」
「おお! こいつはうっかりだった! いやなに、落ち着いた返事ができるようなら大丈夫だな。よしあとは帰ってからゆっくり医者にみてもらおうな」
「……聞かないの?」
「ん? さすがの私も娘のスリーサイズまでは聞き出したりするつもりはないが――」
娘、と王様は言いました。
ぴく、とお姫様は反応します。
「私がどうしてここにいるのか」
「おお。完全に無視とは冷たいなわが娘よ。なに、言いたいことがあるならそれもまたゆっくり聞こう。土産話が楽しみだな」
あまりに相変わらずの王様の様子に、お姫様は、なんだか、ばかばかしくなってきました。
もう一度こっそりと手元のリボンを覗き込みます。すっかり灰色になったそこには、お姫様と王様のことなど何も書いてありません。すでに真相はわからなくなりました。
それならきっと、目の前のこの現実こそが、真実なのかもしれません。お姫様は、そう思って、やっと笑いました。
「のんきね、お父様は」
「いいや物凄く心配したぞとても心配したぞ。具体的には仕事を全部投げ打って大臣に丸投げしてだな」
「可哀想だから早く帰ってあげましょ!」
きゅ、と王様の手を握ります。とても暖かい手でした。
「いいかマリーよ。世の中、正しいことだけでも間違ったことだけでもないぞ。みんな混ざり合って、今、おまえが手にしているものが、世の中の本当の姿だ」
ふと、王様が言いました。
え? とお姫様は驚いた顔で王様を見上げましたが、そのときにはもういつもの、おちゃらけた表情に戻っていました。
「ようし今日は帰ったら久しぶりに家族で工作でもするか! 今日は椅子作りなんてどうだ? こう、心休まる柔らかい雰囲気の」
「仕事しなさい」
「おおうっ」
くすくす。お姫様は心の底から笑いました。
きっと、リボンに書かれていたことを忘れることはできないでしょう。
けれど、真相がどうあれ、今というこの時間に変わりはないのです。
「お父様、大好き」
「おっと。それじゃ、結婚するか!」
「調子に乗るな」
むしろ、今日の日を忘れないように。
お姫様は生涯、灰色のリボンを大切に持ち続けました。
おわり。
「さて、この話を読んで得られる教訓は何だと思う、さとりん?」
物語を読み終えたさとりに対して、すぐさま彼女は言ってきた。
「情報が武器だなんて過信だということ」
さとりは即答する。ため息とともに。
目の前にいるのは、物好きな怨霊だった。
怨霊でさえ恐れて近寄らないという定評が立っていた地霊殿にいきなり乗り込んできては、「一緒に世界征服しよう!」とさとりに声をかけてきた、相当の変人だ。
「だって、他の怨霊の連中ったら愚痴を延々言ってるだけで、話にならないんだもん。恨みを晴らしてやりたいけど地上に行けない、なんて嘆いてるだけ。うるさいだけで行動力がないんだよね、あいつら」
初対面のときから実にぺらぺらと、聞きもしないことをよく話す怨霊だった。
あまりの唐突な登場、その言葉の内容に、さとりは驚き呆れた。第一印象は、なんだこの変なのは、だった。
「聞いたわよ。あなた、心が読めるんでしょう? 相手が人でも妖怪でも」
その言葉を、恐怖の感情なしに聞くのは非常に珍しいことだった。
呆気に取られているうちに、怨霊――彼女は、次々に言葉を紡いでいった。
「あらゆる秘密を簡単に暴くことができるのよ。これって最強の能力じゃない。誰にだって弱みになる秘密はあるわ。必要だったら、暴いた秘密の証拠集めだってその気になれば簡単でしょう。全部相手の心が教えてくれるんだから。ねえ弱みを握るってことは相手を自由に操れるってことよ。事実上の権力だよ」
彼女は力強く言って、ねえそうでしょう、と同意を求める。
「ペンは剣より強し。情報は最大の武器よ。それを活かしたいと思わない?」
「思わない。というか、あなた、何」
「見ての通り怨霊だけど。ねえ、考えてもみてよ。世界は広いのよ。あなたが本気になれば世界中の素敵な場所を家にできるわ。世界中の美味しいものが食べられるわ。世界中の権力とお金を手にできるわ。素晴らしいじゃない」
「興味ないわ」
「嘘ね。美味しいもの、のところでちょっと反応があったわ」
「そういうあなたも嘘つき。あなたは世界征服なんて興味ないでしょう。世界を壊して混乱させたいだけ」
「あら。なるほど、確かにバレバレねー。そのとおりだけど。でも、それは思い切り楽しんで飽きたあとでいいじゃない。ただ壊すだけじゃさとりんにメリットないから、まずは第一段階として世界征服よ」
「……さと……りん?」
生まれて初めてそのような呼ばれ方を体験して、さとりの思考は硬直した。
「さとりんりん」
「……増やさないで」
「サツゥルィン」
「発音しにくくしないで」
「佐藤燐」
「もう別人」
何なんだこの怨霊は、という混乱に近い思いは増すばかりだった。
先ほどの第一段階という言葉は心からそう思っていることはわかった。馬鹿げている。
「そもそも私にその意図がない以上、私側のメリットなんてないんだけど」
「さとりんには現状を打破する力がある。あたしは、さとりんの力を最大限引き出す方法や戦略を与えることができるわ」
「打破するつもりもないと言ったら」
「さとりんは現状に満足しているということ?」
「そうね」
「嘘ね」
彼女は一切戸惑わず、さとりの言葉を否定してきた。
あまりの平然とした態度に、思わずさとりのほうが一瞬気圧される。
「引きこもって誰も訪れない状況が理想なら、こんなところには住まないわ。さとりんは、自分の役割が欲しくてここの管理という仕事を受け入れた。だけど、実際は一人では何もできなくて放置している。結果的に何もできなくなっただけ。まだ探していた居場所を見つけたわけじゃない」
「……随分、事情に詳しいのね」
「情報は武器なのよ。本当は隠しながら少しずつ使うんだけど、さとりんの前で隠したって意味ないでしょ」
「そう。ひとつ質問。あなた、私を怒らせることが怖くないの?」
「さとりんは怒らない。話はちゃんと聞いてくれる」
まるで、さとりのことはしっかりわかっていると言わんばかりの口調だった。
さとりは、これは今は怒ったほうがいいのだろうか、と思いつつも、そう考えている時点で怒ってないなあと自覚せざるを得ない。
「ね。まあ、いきなりだったけど話を聞いてくれてありがとう。ちょっと考えておいてね。また来るわ!」
唐突に現れた彼女は、唐突に去っていった。
さとりが何か返事をする前に。呆然としている間に、さっさと飛び去っていってしまった。
これが彼女との初対面の思い出。
実際、このあとも彼女は何度も訪れては、話の手順を変えて、何度もさとりを説得にきた。さとりはそのたびに断る。それの繰り返しだった。
「いやー今日は暑いね。神様も支配下に置いたら気温もコントロールできるかな?」
「それにしても太陽が見えないのにちゃんと暗くなったり明るくなったりするのはどういう仕組みなんだろね。これもどこかの神様に頼んでるのかな? やっぱりどんな生き物でも、昼夜がないとうまく生きていけないんだろうね」
「星空が見えないのは残念かな。ここもちゃんとみんなが住めるようにいろいろ工夫してるみたいだけど、やっぱり地上には及ばないよね。あ、さとりん、日食って知ってる? たまたま死ぬちょっと前に一回だけ見たんだけど、すごく綺麗だったなあ。うん、あれを見ないで死ぬのは一生の損だね」
「あーもうやんなっちゃう。聞いてよさとりん、どっかの怨霊がさあ、あたしがさとりんと仲良しだって聞いて――え、あたしたち友達でしょ? 違うっけ? まあいいや、どっかから聞きつけたのかさ、地上に出られるよう頼んでくれってあたしに言ってきたのよ。そんなの自分で交渉すればいいじゃないの! 自分で動けないならどうせ脱出なんてできやしないっての、ねえ?」
むしろ、回を重ねるごとに説得の量は減っていき、雑談のほうが増えていくような状態だったため、さとりのほうも断りを入れる手間はなくなっていった。
まだこの頃のさとりはペットも飼っていなかった。事実、言葉を発するのは独り言のときか、彼女と話すときかのどちらかしかない日々が続いた。それが、彼女を出入り禁止にまではしなかった最大の理由かもしれない、とさとり自身は後になってから認める。
一方的に話しまくる彼女にうんざりしながらも、実のところ、彼女と話をするのは嫌ではなかった。
本を紹介したのも彼女だった。
どこからどうやって手に入れたのか不明だが、これこれ読んでみてよ、と持ってきたのが、先ほどまで読んでいた物語だった。
読み始めるとすぐに、さとりに読ませる意味が何かしらはあるのだろうとわかるような内容だった。単純化された他愛のない話ではあるが、このお姫様とさとりを結びつけて発想することは自然だった、というより、結びつけずに読むほうが無理だった。
「違うね。情報は武器、だけど使い方を間違えると無力。それがあたしが見た答え」
「世の中の真実全てを把握したとして、一人の人間に扱いきれるとも思えないけど」
「全部を捌こうとしたらね。そんな必要はないの。武器として使うだけなら、必要最小限でいい。取捨選択にはテクニックがいるけど、あたしにはできる」
「過信は身を滅ぼすわ」
「んもー、こっちは既にこんなザマよ。怨霊よ怨霊。もう堕ちようがないって。だから開き直れるんじゃない。さとりんも、うん。今のままだとジリ貧だよ」
だからって世界征服、ましてや破壊などまったく興味がないと。
そのあたりの言葉はもう何度も言い尽くしているのでいちいち言わず、さとりはただ深いため息で応えた。
「お姫様の間違いは、一人で動いたことよ。せっかくの武器を手に入れたんだから、使い方を教えてくれる相棒が必要だった。相棒が信頼できるかどうかは、簡単に判定できるんだしね」
「相棒ね。あなたは、私を利用しようとしているだけじゃないかしら」
「否定はしないわねえ。だからあとは、さとりんがあたしを利用するつもりになってくれればそれで何の問題もないんだけど」
「諦めなさい」
「ちえ」
勧誘の割には、どれだけ断っても、本当に残念と思っているのかどうかよくわからない反応が続く。心の中までもが、同じような微妙な残念さしか表現されていない。
そんなところまで含めても、不思議なところが残る怨霊だった。
「さとりんの力って、例えば言葉が通じない相手でも大丈夫なの? 外国人でも」
「いいえ。あくまで思考している言語に依存するわ。だから、言語以外で思考しているものであればわかるときもあるんだけど」
「言語以外で?」
「例えばあなたが星空をイメージするとき、空の様子を言葉で表現して思い浮かべるかしら。どこにどんな星があって、どれが明るくて、どこに月があって――なんて、一つ一つ」
「んー」
「そう、今みたいな感じね。絵としてイメージするでしょう。そうすれば、私に絵が伝わってくるわ」
「便利ねえ。……あ、じゃあ、日食の話のときもちゃんとイメージ見えていたんだ。もったいないことしちゃった!」
「残念だけど、頭で作ったイメージって実際よりものすごく情報が落ちてるみたい。ああこんな感じなのか、というのはわかるけど、感動を伝えるにはまったくの不足ね」
「あ、それ、わかるかも」
「それにしてもここ、本当にあたし以外来てる雰囲気ないねー」
「事実来てない。あなたはわかって言ってる」
「まあね。寂しくない?」
「別に」
「あたしがいるから?」
「あなたが来る前から、ずっと一人よ。今更別に。自惚れないの」
「そっかー、残念だなあ。あたしはさとりんがいなかったら話ができる相手がいなくなるから寂しいかな」
彼女が話し、必要に応じてさとりが答える。
ずっとその関係だったが、珍しくさとりのほうが話を主導することもあった。
「あなたの一番変わっているところは、自分の話をしないことね」
「え? そうかな。主張は遠慮なくしてるよ」
「それはうんざりするくらいわかってるけど。怨霊って、そもそもこうやって会話できるような相手じゃないのよ。口を開けば恨み言と自己弁護――自分がいかに不幸だったか、いかに世界を恨んでいるか、それだけを繰り返す存在のはずなのよ」
「ああ、そんな奴ばっかり。心当たりありまくって嫌になるなあ」
「あなただってそうしてもおかしくはないのよ。世界の破壊を望むなら、なぜ望むのか、私をその気にさせるために、むしろ恨み言を語ってもいいくらい」
さとりのその言葉に、彼女は、苦々しく表情を歪めた。
珍しく、視線を横にやって、頭を軽く振る仕草を見せる。
「あたし、そういうの、大嫌い」
会って以来初めて、言葉に棘が生える。
さとりの心にも、深い嫌悪の念が痛いほどの勢いで届いた。
「……ごめんなさい」
驚いて、さとりは反射的に謝っていた。理由はわからないまま。
ただ、少しだけ、他の誰かの姿のイメージが伝わってくるのを感じた。今までにないことだった。
「善意や同情なんて裏切られるわ。具体的な利益の約束が前提よ」
「そう」
さとりは、彼女の怨霊らしい一面を初めて見たような気がした。
そして、ほんの少しだけ見えた、彼女の背景が気になってくる。もちろん、世界を滅ぼそうなどという望みを持っているような相手だ。今までもその過去は気にならないわけではなかったのだが、今初めてその手がかりが見えかけて、やはりもう少し知りたいという思いが強くなった。
その後の彼女も、特にさとりをその気にさせるような工夫をするような気配もなく、来るペースはだんだん上がりながらも、単なる雑談の割合はますます増えていった。
「こうしてやたらに私を訪れるのは、あなたの言う情報収集なのかしら」
「それもあるね。でもまあ、一番大きいのは」
「……暇つぶし、と」
「さすが話が早いね、さとりん相手だと。どうせさとりんも暇でしょ?」
「否定はできないわ」
「何か生きがいを持たないとボケちゃうよ。大きな目標、何か持ってみるとかさ。手初めに世界征服なんてどう?」
「どう考えてもラストステージなんだけどそれ」
「お手軽なところで、そうね。ペットでも飼ってみたら? さっき可愛いいぬころがこのあたり彷徨ってたよ」
「……考えておくわ」
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[4] すこし昔――新しい朝、新しい暮らし
目を覚ます。
なにやら昔の夢を見ていたような気がする。が、目を覚ましたらすぐに忘れてしまった。
それよりも差し迫った問題をまだ抱えているのだ。
燐と、今日こそは別れなければ。昨日は結局流されて流されて、随分を親交を深めてしまった。
仲を深めれば深めるほど痛い目にあうということは思い知らされているというのに、まだ懲りないのかと自分で自分を責めたくなる。
「……あれ?」
そういえば、隣に燐の姿がない。
間違いなく一緒に寝たはずなのだが、ベッドの上にも、その近くにも、ついでに起き上がってからベッドの下を覗いてみても、燐の姿は見当たらなかった。
ベッドの中、燐がいたであろう場所に触れてみると、確かに誰かがここで寝ていたと感じ取れる温もりがあった。
先に起きてどこか行ってしまったのか。
消えてしまったのか。
「燐……?」
少し不安になって、さとりは念のため部屋中の隠れられそうな場所を探した後、部屋を出て広い廊下を見渡した。
「燐。いないの?」
声を大きめにして呼んでみるが、返事はない。
しん……と、いつもの朝のように静まり返っている。
近くの部屋から一つ一つ、覗きまわってみる。
普段開けたことのない扉はすっかり重くなっているところもあった。無駄にたくさんある部屋を調べまわるが、しかし、燐の姿も気配もどこにもなかった。
思い立って、今度は玄関に向かう。
人への変化とは便利なもので、活動するための装いは変身したときに自動的に揃えてくれるようになっているうえ、着脱も可能だった。燐が人型になったときに、靴もちゃんと生成されていたが、家の中だったのでまず真っ先に脱がせた。
昨日も出かけるときには靴を履かせて、帰ってきたときにはしっかりと玄関で外した。
さて玄関で靴を確認してみると、燐の靴はそこにはなかった。
ということは、家の中にはいない。どこかに外出したということだ。
まずはさとりは、ほっとする。靴がなくなっているということは、自分の意思でどこかに出かけたと考えていいだろう。仮に燐が急に猫の姿に戻ったり、または何らかの事情で消滅してしまったりしても、そのとき脱いでいた装いは消えずに残るからだ。
と、なると今度はどこに出かけてしまったのか気になるところだった。
もともと猫なのだから、気まぐれなのはごく普通のことだった。とはいえ、あれだけ誰よりもさとりに甘えていた燐が、寝ているさとりを置いてどこかに行ってしまうというのは、さとりには少し残念なことに思えた。
「まあ、そのうち帰ってくるでしょう」
誰が聞いているわけでもないのに、呟く。
少し寂しい朝を迎えてしまったが、そんなことに関係なく、日課は待っている。軽くため息をついて、さとりは靴を履いて、玄関から外に出た。
まずは中庭に向かう。
近づくと、声が聞こえた。
「……いへん?」
「こん……は……て、いや……」
「な?」
片方は間違いなく、燐の声だった。どこかに出かけたのかと思いきや、思ったより近くにいたようだ。
ただ、もう一方の声は聞きなれない。
すぐには姿を現さず、声の聞こえてくる方向を覗き見る。
燐の姿が見えた。そのすぐ近くに、半透明の人型の姿があった。怨霊だ。
怨霊がこんなところまで来るとは珍しい。驚いていると、燐のほうがすぐにさとりの姿に気がついた。
「さとり!」
手を上げて、さとりの名前を呼ぶ。
先に反応したのは、怨霊のほうだった。びくっと震えると、さとりのほうを見もせずに、慌てて飛び去っていった。
「?」
急に立ち去った怨霊を見て、燐は首を傾げる。さとりは小さくため息をついて、燐の側まで歩いていく。
「怨霊なんて久しぶりに見たわ」
「おんりょ?」
「今、あなたが話していた相手よ。本当はまともに話せるような相手じゃないんだけど」
元地獄とすぐ繋がっている場所だけあって、近所に怨霊は多い。ここ、地霊殿の周辺だけを例外として。
さとりの姿を見て逃げるような怨霊が、わざわざこんなところまで来るというのは不思議だった。ちら、と燐の姿を見る。
「?」
特に悪いことをされたような形跡は見当たらない。
「どんな話をしたのかしら」
「はなしー」
「まさかね。単にあなたに話しかけたいだけだったりして」
怨霊は基本的に恨みの塊だ。何かに好意を持つということは、通常、考えられない。
ちら、と、さとりの脳内に、話もできる、さとりを避けることもなかった極めて例外的な怨霊の姿がちらつく。
頭を軽く振って、その残像をすぐにかき消した。先ほど聞こえた声は男の声だ。第一、彼女こそ、もうここに姿を現すことなど考えられない。
「まあ、どうでもいいわ」
何かを企んでいるのかもしれないが、さとりにはさして興味のない話だった。
「さて、今日もまずは――」
くい。
くいくい。
燐がさとりの袖を引っ張る。
「何?」
ちょいちょい。
人差し指で、下のほうを指差す。
さとりの視線は、それを追いかける。
「……え」
そこに、四つの鉄製のバケツが置かれていた。水汲みに毎日使っている、すっかり年季の入ったバケツ。その中は、たっぷりと水で埋められていた――四つとも、全て。
「え……え、もしかして、燐が?」
にぱぁ。燐は笑って、誇らしげに握りこぶしを突き上げた。
さとりは、呆然とそのバケツを見つめる。
水汲みは、テクニックこそいらないが、純粋にきつい作業だった。バケツを持って、川まで歩いて、汲んで、帰ってくる。それを四往復。食料採集に比べると近い分時間はかからないとはいえ、朝一番にへとへとになる作業だ。
「……燐が、やってくれたの?」
「やってくれたー!」
「あ、うん……あの」
さとりは、驚き、戸惑い、軽いパニックになりかけている。
水汲みはペットを飼う前からずっと続けている作業だ。長い間、長い年月。朝起きたらすでに水があるなどという体験は、まさに、初めてだった。
「……ありがとう」
なんとか、その言葉だけ漏らす。
まだ夢見心地だった。
「あ……燐」
「なー」
「……おはよう。遅くなったけど」
「おはようー!」
今日の挨拶はもう完璧になっている。
さて、今日もまずは、燐にどうやって別れを切り出そうか考えないといけないという状態だったはずだ。
――
もちろん、言い出せるはずもなく、その気にも到底なれなかった。
食料のほうも、燐は当然のようについてきた。
そして、昨日覚えたもの、今日新たに覚えたものは、さとりの指示なしで綺麗に抜き取っていく。たまに失敗はするが、物覚えが早いと感心せざるを得ない。
おかげでこちらのほうも、通常のほぼ半分の時間で終えることができた。
さらに、その後の調理のときも(相変わらず簡単に煮込むだけだが)、細かい作業まで燐はじっと見つめて観察していた。さとりに伝わってくる心の中では、作業のイメージが繰り返し繰り返し再生されていた。思わずさとりのほうが緊張してしまうほどの集中力だった。
箸の使い方はまだぎこちないが、ゆっくりながら、もう自分で食べ物を口に運ぶこともできるようになっていた。危なっかしく、途中で落とすこともあったが、めげずに何度も挑戦して、最後まで自力で食べきった。
少し寂しいと思うくらいに、燐の学習能力は高かった。
だが、さらに驚くのは、そのまた次の日だった。
さとりが目を覚ますと、また燐は姿を消していた。今日も水を汲みにいってくれたのだろうか、と思って廊下に出る。玄関で靴を調べる。靴は、ある。出かけていない。
おや、と思い、燐の名前を呼んでみる。
ここー、という返事が返ってきた。どこかから。
「どこよ」
呟いて、とりあえず間違いではなさそうな方向に歩き出す。
しばらくすると、できたー、という声が、さらに近くになって聞こえてきた。
「燐?」
「さとりー」
燐の姿は、台所で発見した。
後姿。ふるふると尻尾が揺れている。
くるり。燐が振り向く。
「さとり、ごはんー」
「え?」
まさか、という思いで、歩いて燐の側まで行く。
燐の、大いなる達成感と、少しの不安と混ざったような感情が、さとりに伝わってきた。
そっと、鍋を覗き込む。
「……嘘」
まさかとは思っていたが、すっかり、いつものペットたちの食事が、出来上がっていた。
狼狽して、さとりはまず窓から外を見る。明るさからして、まだ夜が明けてそんなに時間が経っている感じはしない。大幅な寝坊をしたわけではない。
「……これ。燐が?」
燐以外に誰がするのか、と自分で自分の質問に呆れながらも、聞かずにはいられなかった。
「できたー」
誇らしげに。
晴れやかに笑って、燐は頷いた。
「嘘」
嘘のはずがない。それでもつい呟いてしまう。
水を汲んで、食料採集をして、調理をする。
この三段階を一人で行う場合、どれだけの時間がかかるかはさとりがもちろん一番よく知っている。
逆算すると、燐はろくに寝ていない。そうとしか考えられない現実が目の前にあった。
「どう……して?」
「さとりも、食べる」
「え?」
燐は言うと、鍋に直接箸を突っ込んで、中からしいたけを一つ、取り出した。
それを、さとりの口の前にまで運んでくる。
「え? え?」
にぁ、と燐は笑って、箸をさらに近づける。
二日前、さとりが燐に食事をさせるためにしたときと、まるで同じように。
「さとりも、食べる」
先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「あ、わ……たしは」
混乱中のさとりは、とりあえず落ち着くためにと、一度断る。
が、燐が持つ箸が、ふるふると細かく震えているのを見て、気が変わる。そうだ、これを断ってどうするのだと。
「……いただきます」
しいたけを口に運ぶ。
じゅわ、と汁が口の中に広がる。
「あ、あふっ、あふ……」
熱かった。
考えてみれば、鍋から直接持ってきているのだから当たり前だった。
口の中で少しずつ覚ましながら、噛んで、ゆっくりと喉に流し込む。きのこの風味が口に広がる。しっかりと食感が残っている。
心配そうな顔で見ている燐を安心させるように、さとりは優しく微笑む。
「ありがとう、燐。よくできてるわ」
「!」
食材の選び方も、量も、柔らかさも、ちょうどよかった。いつものペットたちの食事と同じようにできているという意味で。
つまり、さとりにとっては味気のないものなのだが、それは当然のことであって、今言うべきことではない。
味付けなど足りなくても、単純なものでも、これは燐が初めて作った料理だ。そして、さとりが燐に――誰かに、初めて作ってもらった料理だ。
暖かさが体に広がるようだった。
錯覚などではない。さとりは、本心から、美味しいと思った。
「……ありがとう」
そっと頭を撫でると、安心したように体の力を抜いて、さとりに身を預けてきた。
それを受け止めて、燐の背中に手を回す。きゅ、と軽く抱きしめる。
「こんなに朝早く、全部一人でするのは大変だったでしょうに」
「……な」
小さな声。
「燐?」
さとりの体にかかる体重が、ぐんと重くなった。
身を預けるというより、ほとんど脱力している。
「燐、大丈夫なの? やっぱり、無理するから――」
「だいじょぶー……」
半分眠っているかのような弱い声。
ただ眠いというわけでもなさそうに聞こえる。呼吸が少し荒い。相当の疲労が溜まっているように感じ取れる。
さとりが様子を見るために一度体を離そうとすると、その前に燐は、さとりの顔の真横で、背中にむかって話すかのように、小さな声で言った。
「できてた?」
「え? ……ええ。驚くしかないくらいにね。美味しかったわ」
「さとり」
まだ弱い声で、続ける。
流れてくる思考は、緊張と不安で固まっている。
「燐、どうしたの?」
「りんは、おわかれ、する?」
「……え」
「りんは、いていい?」
衝撃に、頭を、全身を強く殴られたかのようだった。
燐を抱きしめる手も、固まって動かなくなる。
さとりに伝わってくる燐の心は、今や強い恐怖に覆われていた。恐れている。何かを恐れている。
何を。決まっている。
燐は気付いていたのだ。おわかれ、という言葉も今は理解している。
最初から実は気付いていたのか――いや、そんなことはない。さとりは、それはないと確信できる。さとりの行動や言葉の端々から、少しずつ感じ取っていったのだろう。
「あ……」
だから、恐れていたから。
自分は邪魔にならないと、自分は役に立てるんだと。
ずっと必死にアピールしていたのだ。
凄い集中力だとか、飲み込みが早いだとか、感心している場合ではなかった。単純に、燐にとっては全てが勝負だったのだ。限界の努力の成果だ。
「あ……ああ」
手が震えだす。
燐は、人の形を得たばかりだ。効率よく体を動かす術もまだよくわかってはいないだろう。動くだけでもそれなりに消耗するはずだ。ただでさえ、新しく学ぶことは多い。そこに、この三日間だけで、もうさとりが日常行っている作業のほとんどを吸収しようと注力して、実行した。
無理をするから、などという自分のつい先程の言葉を、苦い思いでさとりは振り返る。無理をさせたのは誰なのだ。
「さとり?」
「ごめん、なさい」
ぴく、と燐の体が震えた。
「あ、違うの、そうじゃなくて……」
さとりは慌てて、その背中を撫でる。
うまく声が出せなかった。喉がからからに渇いている。だというのに、目からは涙が溢れ出てくる。
己を悔い、恥じる言葉が頭を埋め尽くしそうになる。
だが今は、今必要なのは、決してそんな言葉ではない。間違えてはいけない。
自分にできることを必死に探して、体が動く限りに頑張って、ここまでのことをしてくれた燐を裏切ってはいけない。
強く、腕に力を込めて、抱き寄せる。
「……しない。お別れなんて、しない」
「しない?」
「しない。絶対に」
「ありがとうー」
「違う……そうじゃない」
「?」
「ありがとう……は、私。私の……言葉」
涙が止まらない。
声がでなくなってきそうになりながら、まだダメだと、必死で堪える。まだ伝えきってはいない。
「燐。私の側に、いて。いて……ほしい」
いてもいい、に答えるだけではまだ半分。
大切なことはしっかりと言葉にして伝えないといけない。
こく、と燐が頷いた――ように感じた。同時に、ますますさとりにかかる体重が大きくなった。
「燐……?」
「すー……」
首の横で、寝息が聞こえる。
心の声も、ふっと消えた。完全に眠りに落ちたようだ。
さとりは、燐の体をしっかりと抱きとめる。長い時間、ずっと、立ったまま抱きしめる。
やがてやってくるであろう別れなど、今この燐の気持ちを裏切ることに比べれば大したことがない、そう思えた。今後のことも、決して一人で考えて一人で勝手に決めてしまうのはやめようと決意する。
いや、裏切るとか裏切らないとかでは、もう、ない。
まさに今燐に伝えたとおりの気持ちは、こうして抱きしめていると強くなるばかりだ。
燐と、一緒にいたい。
この後は、燐とさとりと、二人で日課をこなすようになった。
燐にはあまり無理をさせない程度のペースで、色々なことを教えていった。
材料を集めて、燐専用の布団も一緒に縫った。
他のペットたちも燐の人型の姿にも慣れて、以前のように一緒に遊ぶようにもなった。鴉だけは相変わらず燐に反抗的なところがあってなかなか懐きはしなかったが、燐も以前よりも余裕をもって対応できるようになっていった。
言葉はやはり急速に身に着けていった。家にいるときは主にさとりとの会話で学んでいたが、一人で外出しているときは怨霊たちとよく話をしている、ようだった。
どうやら変わり者の怨霊がいるというわけではなく、燐が怨霊とも普通に会話できる珍しい体質なのだろうと知ることになった。
おかげでというべきなのかどうかはよくわからないが、燐の言葉も次第にさとりの影響を色濃く受け継いだものから離れていき、燐としての言葉遣いが確立していくことになった。
「あたいは闇夜に潜む黒猫、血染めのお燐。――あの世でまた、会いましょう」
「……」
ぽかん。
帰ってくるなり唐突に言い出した(そして謎のポーズつきの)燐を見て、思わずさとりは繕っていた最中の服を床に落とす。
ごしごし。なんとなく目を擦ってみる。
燐はさとりに対してやや斜めの角度を保ったまま、びしっと決めている。
「……燐。今のは……?」
「かっこよくないかな?」
「え? あ、ええと、そうね。……それっぽいイメージがないでもないけど」
「あ、やっぱりー! 今日の怨霊さんがねえ、猫の妖怪なんだからそれなりのキャラ付けが必要じゃないかって言ってね。最初はよくわからなかったんだけど、なんだか真剣に考えてくれて。今の台詞と構え、全部アドバイスどおりにやってみたんだけど、悪くないかなって」
「あ、ああ、そう。色んな怨霊がいるものね……」
なぜ暗殺者キャラなのだろうかと疑問に思わないでもなかったが、ともあれ本人はお気に入りのようだった。
「たっだいまー! えへー」
「あら、燐。ご機嫌ね」
「ちょっとね。あのねあのね」
ちょこちょことさとりに近づいてきて。
うふふ、と笑いながら。
「さ・と・り・さ・ま」
すぐ近くまできて。まるで耳に息を吹きかけるかのように。ゆっくりと。
ぞく、とさとりの背筋が震えた。
「さ、様?」
「ペットの身分だからね。やっぱりこういうのはしっかりしておかないと」
「……って、またどこかの怨霊に言われた?」
「いんや、あたいの考えだよ! ……ま、怨霊さんに影響受けたのは事実だけど。なんか、遠い目で誰かのことお嬢様って呼んでたんだけど、そのときの顔がちょっと嬉しそうっていうか幸せそうっていうか」
「幸せそうな怨霊なんて聞いたことないわ」
「いやいや。こうして呼んでみるとその気持ちもわかるよ。さとり様。ああ、あたいのさとり様」
「……今までどおり呼び捨てでいいのよ、別に」
「嫌!」
「……うう」
「さとり様ぁ〜」
「……なぁに、『お燐』」
「うっ!?」
楽しそうにころころ笑っていた燐が、狼狽して固まった笑顔になる。
「あら、どうしたのお燐何か悪いものでも食べてあたったのお燐」
「う、うう……」
燐はみるみる間に顔を赤くしていき、俯いてしまった。
「これは……恥ずかしい……ようで……」
「わかればよろしい。だから今までどおり」
「それはそれ! さとり様はさとり様っ」
「……えー」
「大丈夫! すぐに慣れる!」
実際、すぐに慣れた。
燐のおかげというのか、最近、地霊殿の周辺でも怨霊を見かけるようになった。
とはいえ相変わらずさとりの姿を見ると逃げていくので、さとりとしてはあまり状況は変わっていない。
「怨霊さんも色々だね。今の状態が自由でいいって子もいれば、無法地帯すぎて住みづらいって子まで」
「実際、管理は完全に放置してるからね」
ある程度はなんとかしたほうがいいのだろうかとたまに思うときも、ないでもなかった。
そう思うようになったこと自体が、燐との新しい暮らしが始まったことによる影響だった。これまで怨霊の情報など聞きもしなかったし、聞こうともしなかった。現状を知らないものにわざわざ手を加えようとは思わないものだ。
燐ならば現場管理の適役ではないだろうかと、ふと思う。
ただ、広大な元地獄を一人で管理するというのはかなり大変だろう。さとりも一度は挑戦したのだ。では、さとりと燐と二人でと発想したくもなるが、それはありえない。怨霊を扱う仕事となれば、さとりは邪魔者にし かならない。少なくとも二人で組むのは完全に二人の特性を打ち消しあってしまって何もできなくなってしまうだろう。
そうでなくても、最近ペットの数はますます増えてきていた。特に、猫が増えた。
ペットたちの世話は、燐と二人でしているからいいものの、昔よりもむしろ大変になっている。ペットたちを放っておくわけにはいかない。元地獄の管理人としては本来許されない理屈ではあるが、現実そうなっていた。
そのうちなんとかしよう、とは思うものの、当面は動けない状況が続いた。
「あら」
じり、とノイズがさとりの脳に届く。
なつかしい感覚だった。
椅子に座って裁縫をしていたさとりの足元に、ふらふらと鴉の空が歩いてきた。
さとりが椅子から立ち上がると、空は、ぱたんと倒れた。
さとりは、空の体をそっと持ち上げる。手が火傷しそうなほどに、空の体は熱くなっている。
テーブルの上に横たえる。
「空!? どうしたの!?」
ばたばたと、燐が走ってやってきた。
心配そうに、狼狽して空の体に触れて、熱さに驚いて手を離す。
「さとり様!」
「心配はいらないわ、お燐」
さとりは燐を安心させるように微笑む。
空はすでに意識を失っている。まるで重い病気にかかっているように見えるが、二回目の経験となるさとりは落ち着いていた。
「賑やかになるわね」
「え?」
「大丈夫よ、あなたのときもこうだったわ。あと数日見守ってあげましょう。――そうね、その間に、新しい毛布を縫わないといけないわね」
「あ……! もしかしてっ!」
「お燐、手伝ってくれる?」
「……うん!」
「『さとり様』よ。はい、繰り返し」
「さ、と、り、さ、ま」
「よくできましたー♪ あたいは、お燐だよ。お燐。言ってみて」
「……」
ぷい。
「なんで言わないのー!」
空の教育係は、燐が率先して担当した。主人の存在をちゃんと主張しておこうというつもりなのか、大抵の場合はさとりの側で教育は行われていた。
とにかく手に入れた体で急に走り回ったりどんどんと壁を叩いたり飛び跳ねたりと実に落ち着きのない空だったが、燐は辛抱強くしつけを行っていった。言うことをなかなか聞かないときはさとりが空を嗜めることもあったが、そのときは大抵素直に言うことを聞くのだった。
「もうー。じゃあ、あなたの名前は?」
「うつほ」
「うんうん。……うーんせっかくだからうつほもあたいみたいな呼び方できないかなあ。おうつほ、ってなんだか言いにくいししっくりこないよね」
うーん。
燐が悩む。ぐるぐると色んな単語が頭の中を回っている。
「うつほは、空という字で書くのよ」
「そら? あのそら?」
「ええ。同じ字で、から、という意味も持つの」
「そうだったんだ。……おそら。おから。うーん。ちょっといい感じになったけど、もう一歩……」
「くう、とも読むわね」
「おくう! それよ!」
ぐ、と燐が拳を握る。
くうという読みを聞いた瞬間に、もうこれしかないと言わんばかりに喜びはしゃいだ。
「よし、あなたはお空よ。おくう」
「おくう?」
「そうそう。いい感じでしょ?」
「おくう」
「うんうん。あたいは?」
「……」
「なんで言わないのー!!」
「お空はまた遊びにいってるの?」
「そうみたい。また、元地獄のほうだって」
空は、人の形になる前から、普段どこで遊んでいるのか誰も全く把握していなかったのだが、どうやら元地獄に行くのが好きらしいということが判明した。
人の姿になっても、自由にふわふわと飛び回っているらしい。
特に灼熱地獄跡と呼ばれる、灼熱の世界を好んでいた。というより、純粋に熱いところが好きだということがだんだんわかってきていた。
話を聞くと、そこがまだ現役の地獄だった頃から住んでいたらしい。が、その頃の話を聞こうにも、さあ、よく覚えていないという返事しか返ってこないと、燐は嘆いていた。昔話も色々聞いてみたかった、とのことだ。
「もう、お空は全然家の仕事手伝わないんだから」
むー、と燐は膨れる。
「お空は冷たい水は苦手みたいだし、細かい作業も向いてないみたいだから、仕方ないわね」
さとりが宥める。
実際、要領のいい燐に比べると、空はあまり家庭の仕事はできそうになかった。
「いいんじゃないかしら。みんな同じことをしても面白くないし」
「でもー」
「それに、お空にぴったりの仕事が準備できそうな気がしてるの。今はまだ早いと思うけど、そのうちね」
「そうなんだ」
「お燐も行ってみたら? お空も喜ぶんじゃないかしら」
「喜ぶ……? すごく嫌がられそう、の間違いじゃなくて?」
「そんなことないのよ、それが」
ふふ、とさとりは少し嬉しそうに笑う。
「そうかなー」
「そうよ。お燐はまだ灼熱地獄跡は見たことないんでしょう? ちょうどいい機会だし、見てみるといいわ」
「う、うん。行ってくる」
「決めたわ。あなたたちに、灼熱地獄跡の管理をお願いしようと思うの」
「管理?」
「何するの?」
空のほうも普通に話ができるくらいになってきたのを見計らって、さとりが切り出した。
二人とも大人しく聞いてくれそうだということを確認して、具体的な説明に入る。
仕事の内容自体は、難しいものではない。ただ、基本的に仕事の間はずっと元地獄に篭ることになる。二人ともが暑さへの耐性は問題なさそうであることは確認している。そして、燐のほうは怨霊との相性がいい。空は特に熱に強く、身体能力が高い。
二人で組んで仕事をすれば十分に管理できるのではないかとさとりは判断した。
「本来は私の仕事なんだけどね。今まで全然できてなかったから、お願いしたいの」
「さとり様がそう言うなら!」
「いいけど〜」
元気よく返事を返す燐と、あまりやる気のなさそうな空。
「あ、でもさとり様、家の仕事はどうするのかな?」
「管理の仕事と両方やるのは大変だろうから、そっちは私がするわ。今までありがとうね、お燐」
「え? 大丈夫……かな?」
「昔に戻るだけよ、大丈夫」
「そっか……」
寂しそうに、声を小さくする燐。空は、燐の様子を横目でちら、と眺めて、同じように少しだけ寂しげな目を見せた。
二人の寂しさの意味の違いが微笑ましくて、さとりは口元を緩める。
「まあ、難しくはないわよ。二人ともあそこで快適に過ごせているみたいだから、楽しく仕事できると思うわ」
こうして、やっと本来の仕事、元地獄の管理も手をつけることになった。
仕事を始めると、燐は以前に増して怨霊たちと会話する機会が増えた。
怨霊たちとの会話を色々聞かせてくれるのが、さとりも楽しみになってきた。
空のほうはあまり仕事の話をしないが、燐から聞く限り、割と楽しんでいるようだった。いまいちやる気の感じられない返事だった割には、真面目に淡々と仕事をこなしているらしい。やはり、二人に仕事を任せたのは正解だったとさとりは判断する。
「それじゃあ、二人ももう独立した管理人として、いよいよ名前もちゃんとしないとね」
朝食の後、燐と空が揃っているところで、さとりが言い出す。
「へ?」
「いつまでも名字なしというわけにはいかないわ。ペットといっても、もう自分の役割、立場を持ってるわけだからね」
「名字……」
「私は、古明地っていう名字があるのよ。たぶん覚えてないだろうけど」
「う……」
「初めて聞いたけどー」
「そうね、お空には言ってなかったわね。この世界、一人の責任ある立場であることを示すためには、必要なのよ。名字……というより、姓が」
「……うーん。あたいはお燐でいいんだけどなあ。それじゃ、さとり様と同じで」
「ダメよ。二人とも基本は私と離れて仕事をすることになってるわけだからね。――と、いうわけで、いきなり考えろと言われても思いつかないだろうから、私が案を考えてきたわ」
じゃん、と布を取り出してみせる。
墨で書かれた文字が二つ、並んでいる。
火焔猫 燐
霊烏路 空
自信満々に取り出したさとりとは対照的に、燐、空は、顔にハテナを浮かべて、ぽかんとその文字を眺める。
――しばらく、謎の沈黙。
「さとり様、なんて読むの?」
「あ、そうね、ごめんなさい」
考えてみれば文字の読み方など教えていない。というか教えていたとして、これは読めないだろう。
「燐は、かえんびょう。空は、れいうじ、よ」
「さとり様」
「はい、意見どうぞ、お燐」
「長い」
「ぐ」
「難しい」
「へふ」
「言いにくい」
「しくしく」
割と容赦のない燐だった。
一方で空のほうは、すぐに頷いて、「わかった。それでいい」と言った。
「お空!?」
悲鳴に近い声で、燐が叫んだ。
「さとり様がくれた名前だから、いいと思う。ちょっとかっこいいし」
「あ、ありがとう、お空。考えた甲斐があったわ……」
「ぅー」
「あ、あの、お燐もね、別に呼び方は今までと変えるつもりないから、ほら」
「それなら、まあ。そうね、さとり様がくれた名前だから、きっといい意味があるんだよね」
火と猫の組み合わせなだけだとは言いにくい流れになった。
軽く冷や汗を流しながら、さとりはとりあえず、じゃあこれで決まりね、と手を叩いた。
ともあれ姓を持ったことで、いよいよ妖怪として立派な格を持ったと言えるようになる。やはり仕事をする上で、こういった建前のようなものも重要になってくるのだ、実際。ただのペットなので姓なんてありません、ではやりにくいことも多いはずだった。
――
それにしてもネーミングセンスは何かで勉強したほうがいいだろうか、と悩むことになるさとりだった。
[5] ちょっとだけ昔――見えるもの、見えないもの
燐や空、たくさんのペットたちとの暮らしは、平和に、幸せに、時を進めていった。
特に事件もなく、さとりも、燐も、空も、毎日変わらない仕事をして、毎日変わらない生活を送った。元地獄の管理人を任されてから、二人が地霊殿にいる時間は短くなったが、それでも毎日のように食事を共にした。
長い落ち着いた時間に、さとりのほうも油断していたのかもしれない。
事件は、起こるべくして起こるものだと、振り返れば気付く。
「んもーっ、お空、それはあたいの分だって言ってるでしょ! とらないの!」
「ちょっとくらいいいでしょー。お燐、ちょっとダイエットしたほうがいいんじゃないの?」
「なんですってー! あたいはこんなにスマートなのに! お空のほうがぷにぷにしてるんじゃないのぉ」
むにむに。
「いひゃひゃひゃ」
「はいはい、食事中は大人しくするの」
「だって〜、お空が〜」
「お燐がちょっとしたことで騒ぐからじゃない」
「きいぃ」
騒がしい二人を眺めて、さとりはくすくすと笑う。
すまし顔の空に目を向けると、空は気まずそうにさとりから目を背けた。
「まったく、お空もそろそろ落ち着きなさい。それじゃお燐も困るだけよ」
ぴく。
空の肩が少し反応して震えた。
「そうよー、さとり様もっと言っちゃってー」
「困らせたいわけじゃないんだから。もう少し素直にならないと――」
「やめて」
空が、ぽつり、呟いた。
視線を横にずらしたまま、少し不機嫌そうに口を尖らせている。
「?」
展開がよくわからず首を傾げる燐に、さとりは、そろそろ長いことだしいいのではないかと思い、告げる。
少し、気分も高揚していた。
「お空はね、私じゃなくてもっとお燐に構って欲しいのよ。お燐のほうが――」
「や……」
「本当はね、すごく嬉しいの、お燐に話しかけられると」
「やめてってば!!」
がたん、と激しい音を立てて椅子を倒しながら、空が立ち上がった。
数秒、テーブルに両手を置いたまま、何かを堪えるようにぐっと俯いていたが、燐が空の名前を呼ぶと、もう一度びくっと反応した。
顔を上げて、きっ、とさとりを睨みつける。
「そういうの、やめてよ! 何でもわかったみたいに――さとり様は本当にわかっているんだろうけど……っ! だからって言わなくてもいいじゃない! 一人でわかった気になって心の中で笑われるのだって嫌だけど……でも、でも」
ぐ、と拳に力を入れて、もう一度俯く。
目に浮かんでいた大粒の涙がテーブルに落ちて、染み込んでいく。
「……あ、ご、ごめんなさい、お空――」
「私は今のままでもよかったのに! さとり様は、そういう、ところが、わからないのっ!」
「あ、お空!」
燐の呼びかけも届かず、空は俯いたまま誰にも目を合わせず、走り去っていった。
部屋を出ると、すぐに飛び立ってしまう。
「お空……」
燐は立ち尽くす。追いかけようと走りかけたが、ちら、とさとりのほうに視線をやる。
「あ……ああ……」
さとりは、目を大きく開いて、空が逃げた方向を――どこか遠くを、見ていた。
口も開いたまま、手を震えさせている。
「さ……さとり様、お空が」
「私……私、また……またやって……」
「さとり様――」
「……あ、ご、ごめんなさい、お燐。追いかけて……あげて」
「さとり様は……?」
「お願い……お燐」
「う、うん」
燐は心配そうに、二度、さとりのほうを振り返りながらも、決断するとすぐさま勢いよく駆け出した。
がくん。
燐の姿が見えなくなると、さとりはテーブルに肘をついて、前のめりになって、震える。
「ああ……私、私は……やっぱり……」
あまりに幸せな時間が続きすぎた。
自分がこのようなどうしようもない生き物だということを忘れかけていたのだ。
震えが止まらない。
生きている限り、何度でも繰り返すのだ。
『……あのね、あたしにも、触れられたくないことって、あるんだ』
そう言って彼女は、寂しげに微笑んだ。
は、とさとりが口を閉ざしたときには、もう遅かった。
気になった彼女の過去。会話の中から連想させるようにして、少しずつ調べていった。
そうして知った彼女の復讐心の核心。
世界の破壊の願望など無意味だと、ただ説得する材料にするつもりだった。傷つける意図などなかった。
『あ、情報が武器だなんて言ったのはあたしだったね。やるじゃん、さとりん』
彼女は笑顔を作ってみせた。
誰が見ても無理やりに作った、痛々しい笑顔だった。
『ごめん。そうだね、こんなやり方、残酷だね』
長い間ずっと、楽しそうに世界征服を語っていた彼女。情報を武器にすれば可能だと語っていた彼女が、初めて、その意見を撤回した。それは、さとりの狙い通りといえば狙い通りだったかもしれない。
だがその代償は、小さくはなかった。
『……ごめんね』
それが、彼女が残した最後の言葉になった。
二度と、彼女がさとりの前に姿を現すことはなかった。
また、あのときと同じだった。
例外の相手などいないと学習したはずだったのに、また繰り返してしまった。
燐と、空と、長い時間をかけて一緒に暮らして、その間にいくらでも、正しい身の振り方を考える暇はあったはずなのに、幸せすぎて、考えるのを忘れていた。
ずっと繰り返す。無策と、後悔。
もう、いっそ心を閉ざしてしまおうか。
そんな考えも脳を過ぎる。
決して幸せな道ではないことはわかっている。だが、こんな自分のまま幸せを求めてどうするのだ、と責める声もまた、自分の中から聞こえる。
燐の顔。空の顔。頭の中から離れない。
決心はつかない。結局私は一生迷い続けるのだ、とさとりは自嘲気味に呟く。
その日は、さとりは一人寝室に引きこもった。
燐や空が帰ってきたのかどうかも、知らない。知りたくなかった。
次の日の朝、いつもどおりに日課はこなした。燐はそこに現れた。おはよう、と言った。
「お空、ちょっと膨れてたけど……そんなに、すごく怒ってるとか、落ち込んでるとか、そんなことはなかったよ?」
「……そう」
「だから、さとり様、いつもどおり――」
「ごめんなさい、お燐。私は私の仕事をするから、お燐は自分の仕事をやってきて」
「……あ」
しゅん、と落ち込んで、燐はとぼとぼと去っていった。
さとりの声は、燐をすぐに諦めさせるほど、冷たく、拒絶を示していた。
まだ、どうすればいいのかわからない。今空と会って普通に話をできるようになったところで、何も問題は解決はしない。これはさとりの、根深いところにある問題だった。
夜は、燐と空が二人揃って現れた。
「ごめんなさい、お燐、お空。あなたたちは何も悪くないの。それだけは知っておいて。私は、私の問題で悩んでいるだけだから……」
二人が口を開く前に、さとりが言った。
だから、二人はいつもどおりにしていてほしいと。
さとりの問題だから、一人で悩んで答えを見つけるからと。
そう、宣言した。
そして、一週間が経った。
結局堂々巡りで、何も進展のないまま。
「さとり様、ちょっといい?」
作り笑顔を浮かべながら、燐は椅子に座るさとりの前に現れる。
さとりは、燐の姿を見ようともせず、俯いたまま払うように手を前に出した。
「ごめんなさい。今は放っておいてほしいの」
柔らかな口調ではあるが、明確に燐を拒否する。
燐のほうも負けない。暗い声音に気圧されそうになりながらも、一歩前に進む。
「少しだけでいいから」
「あのね、お燐――」
「えいっ」
前に出していたさとりの手に、燐は何かを握らせる。
びっくりしてさとりは手を引く。反射的に顔を上げる。
「ちょっと、一体――」
「えっと、とりあえずそれ、見て」
「……?」
さとりは言われるがままに、掌を開く。
そこにあったのは、星型の石だった。
「これは」
以前に燐から貰った石と同じ石、というより、そのものだった。ずっと机の上に飾っていたのだが、そこから持ってきたのだろうか。
さとりは眉をひそめる。この石に何かの意味があるのか、読めない。
ちら、と燐の顔を覗き見る。にこにこと微笑んでいる。
流れてくる思考からは、ただ、これでさとりが元気になれるんだと信じているらしいことしか伝わってこない。
以前に貰ったプレゼントを改めて渡されて、それで元気になると考える、その理屈がわからない。
心から元気付けようとしてくれているのだとわかるだけでも、確かに意味はあるのかもしれないが。それでも、さとりにとって問題解決にならないことは燐もわかるだろうに、とさとりは思う。
「ごめんなさい、ちょっとよくわからないわ」
「あれ?」
燐の笑顔が消えて、不安そうな表情に変わる。
おかしいなあ、という思考がさとりに伝わる。
「プレゼントを見せろって言ってたんだけどな」
うーん。燐は悩む。
「言っていた?」
「あ、いつもよくお話する怨霊さんがね。さとり様が苦しんでいるからって言ったら、プレゼントを見せればいいって言われた……んだけど」
「……」
怨霊と普通に話ができるというのは燐の特技だ。だからこそ、今の仕事を任せることになった。
とはいて、特定のひとりと仲がいいということまでは知らなかった。
「その人……怨霊は、私のことを知っているの?」
「う……うん。よくわからないけど、そんな感じみたい」
「……」
また、さとりは考え込む。――今、燐の反応に僅かな乱れを感じたが、それ以上は何も伝わってこなかった。
聞いてはみたものの、このあたりに長く居座っていてさとりのことを知らない怨霊など逆にいないかもしれない。ただ、知っているとはいっても、さとりのことで燐の相談にのるような怨霊がいるとも思えない。
プレゼントを見せろと、その怨霊は言ったという。
変なことに気を取られないほうがいい。いや、しかし、何か気になる。さとりの中で、二つの意見がぶつかり合う。
こんなこと考えている時間があるのなら、今後どうするかを考えないといけないのではないか。今まで問題を先送りにしてきた結果が今なのだと思うと、寄り道ばかりしていてはいけないのではないか。そう思うものの、頭から燐の言葉が離れない。
「プレゼント」
何かが引っかかるのだ。
何かを思い出しそうなのだ。
目を閉じる。燐の、どうしようと慌てている様子が感じ取れる。その流れをなんとか意識してせき止めようとする。
燐の思考にも改めてプレゼント、という単語が現れたのを感じて、は、とさとりは閃く。
「……ぷりせんと」
小さく呟く。
「え?」
燐がきょとんとした声で聞き返す。
もう、さとりは必死で頭を回転させている。燐の声は届かない。
燐が今の、人の形を得てすぐの時のことだ。あの時も疑問に思ったことがあった。さとりの記憶間違いでなければ、燐の前でプレゼントという言葉を使ったことなどなかったはずだった。しかし、あのとき確かに、この星型の石を渡したときに、ぷりせんと、と言った。内容から考えてプレゼントと言おうとしていたのは間違いない。
つまり、さとり以外の誰かが、燐に……そのときはまだ猫だった燐に、プレゼントという言葉を聞かせたことがある。
なぜ聞かせたのか。誰かが、燐に何かプレゼントをやったからではないか。
そのことが今のさとりに何の関係があるのかはわからないが、直感が告げる。この思いつきは重要だと。
燐とよく話をする怨霊。
燐に与えられたプレゼント。
プレゼントは何か?
「――!」
目を開ける。
燐が、急に動き出したさとりを見て驚いている。
さとりの視線は、一点に向かう。
「お燐、それ」
「え?」
「その頭のリボン。少し貸してくれないかしら」
お燐の頭についているもの。
髪を結ぶ白いリボンのうち、一つだけ色あせているもの。猫のとき、さとりが尻尾につけたリボン。
かつて、燐が口にくわえて持って帰ってきたもの。
燐は、首を傾げながらも、自らリボンを外す。さとりにそれを手渡す。
怨霊。
白いリボン。
この二つを繋げるものを、さとりは知っている。
まさか、という思いがある。さとりの知るその怨霊――彼女が、まだこの近くにいるとは信じられない。それどころか、燐と親しくしている理由がわからない。
さとりは、リボンをじっと見つめる。
リボンを見るのは、昔燐の尻尾にこれを巻きつけたとき以来だった。そのときは何も考えずに巻いた。
目を近づけて、裏返して、よく見てみる。
――確かに、そこに、文字が書かれていた。
さとりはそれを見て、読んで。
まず驚いた顔をして、呆れた顔をして、がっくりと肩を落とした。
「ああ……どう見ても、あの子ね。なんというか……懲りない子」
『.今度こそさとりんと一緒に世界征服!』
リボンには元気な字でそんなことが書かれていた。
驚くといえば驚く。
あんな別れがあったというのに、まださとりに近づく意図があるという事実は、さとりにとっては驚きだった。てっきりもうとっくに、他の怨霊たちと同様、さとりを憎むか恐れるかして避けてどこかを彷徨っているものだと思っていたのだ。
実際、最後に見た彼女は、完全にさとりを拒絶していたのだ。それなのに何故、という思いがある。
メッセージの内容は、まるであの日の事件などなかったかのように陽気で、昔からの彼女そのものを現していた。今になってさとりにこんなことを告げて、何になるのだろうとも思う。
さとりの頭はまだ混乱している。
一つ明らかになったのは、彼女がまだ健在で、燐と親しくしていて、さとりにまた接近してきているということだった。
そのことが意味することは、まったくわからないわけでもなかった。
「……あのときのことを、許してくれると、言いたいの?」
遠くか、もしかすると意外に近くにいるかもしれない彼女に向かって、さとりは呟く。
私は許している、だからくよくよするなと元気付けてくれているのだろうか。
「でも……」
それなら、直接会いに来て言ってくれればいいのだ、とさとりは思う。
会わずに遠くからメモを送るというのは、やはり会うことを恐れているからなのではないか、と。
邪推にすぎないのかもしれないが、さとりはその疑念を捨てることができない。もともと、自分はさとりを利用したいだけだと公言していたような相手だ。以前の反省を生かして今後は近寄らず話をするようにしたい、なんてことを言っているだけなのかもしれない。
ぶんぶん。さとりは頭を横に振る。
思考が悪いほう、悪いほうに流れてしまう。本当の意図など、目の前にしないとわからないのだ。一度冷静に返ってみると、要するに今回明確になったのは、彼女がまだ今もさとりに興味を示しているという、それだけのことだ。
「……ごめんなさい、お燐」
「え?」
考え込むさとりをじっと見守っていた燐に、声をかける。
ごめんなさいの言葉に、表情の不安の色は濃くなる。
「少し、考えさせて」
このことの意味を。
改めて、今後のことを。
夜、地霊殿は静寂に包まれる。
燐も、空も、眠りについている。
真っ暗な中、うっすらと目を開けて考える。
何故、傷つくのか。何故、傷つけるのか。
余計なことを言うからだ、とわかってはいる。もし、心の声が聞こえてきたとしても、聞かなかったことにして普通に会話をしてやればいいのだと。それは一つの答えだ。
理屈は簡単だ。だが、本当にそれができるだろうか。少なくともさとりには自信がなかった。そもそも、相手側は思考を読まれていることに気付いているのだ。最初はそれを知らない相手だったとしても、いずれ事実を知ることになるだろう。読まれているのにそれを指摘されないというのも逆に気持ち悪いのではないか。結局のところ、表だけ取り繕っても意味はないのだ。
では、やはりいっそ心を閉ざしてしまうのか。妹が、そうしたように。
それも躊躇われるというのがさとりの本音だった。確かに誰にも恐れられず、誰にも迷惑をかけないようになれたかもしれないが、結果はどうか。本人でなければ本当のところはわからないかもしれないが、少なくともさとりが見る限り、さとり以上の孤独に陥っている。幸せそうにはとても見えない。
すぐに思考は行き詰る。本当に答えは出るのだろうかと不安になる。
「……私は、どうしたいのか」
長く生きてきた。
それなのに、何も見つからない。
白いリボンを手にとって、目の前にかざす。
「これが、答えをくれるの?」
白いリボンは正しい道を導いてくれるのだろうか。
それとも、物語どおり、リボンを頼れば痛い思いをするだけなのだろうか。
今度こそ世界征服。書いてあること自体はつまらない戯言にすぎない。
それでも、今は藁をも掴む思いだ。掴んでいるのはリボンだが、柔らかく頼りないという意味では似たようなものだ。
リボンを摘んで、撫でる。
ざらついた、古いリボンだ。彼女はどこからこれを手に入れたのだろう。
何を思って、さとりにメッセージを送ったのだろう。
どうして、会いにこないのだろう。
リボンの端が、指先を通り抜ける。はらり、とリボンの端が頬に落ちる。
「――」
ほんのわずかな、違和感だった。
「……あ……?」
リボンをもう一度、撫でる。左端から、右端まで。
はらり、とリボンがまた、頬に触れる。
左端と右端で、指を通る感触が違う。
左端は、すっと抜けるのに、右端は、ざらざらと破れた生地が絡み付いてから、抜ける。
まるで、左と右で新しさが異なるかのように。
「――あ」
そうではない。
異なるのは――切り口だ。
「あ、ああ」
暗闇の中、リボンに目を近づける。
闇に慣れた目が、微かに文字を捉えてくれる。
「ああ……っ!」
綺麗な切り口のほうから、文章は始まっていた。
今度こそ、と書き始められている文章。その左。
わずかに、汚れと見まごうような、小さな点があった。今という文字の、左下。点は、リボンの切れ端にかかっている。
さとりは、体を起こした。
はやる気持ちを抑えられない。
この点は、切れ端で分断されている。
この文章には、前半がある――!
リボンを手に入れたのはいつだったか。燐がそれを持ってきた。
そして、燐の尻尾にそれを結びつけた。
確かにそのときさとりは、長さを調整するために、リボンを半分に切った。
では残った半分のリボンは――
「おはよう、お燐、お空」
「……! おはよう! さとり様!」
「あ……おはよう……」
さとりも、燐も、空も。
全員がぎこちない声で、朝の挨拶を交わす。
これだけのことから、もう一週間も遠ざかっていた。
「あ、あの、さとり様」
話ができたということで、真っ先に空が次の言葉を放とうとする。
だが、それをさとりは、今回も押し留めた。
「ごめんなさい、お空。今は少し、お願いがあるの。そっちのほうを先に解決していいかしら」
「え? ……うん。さとり様のお願いなら、何でも」
遮られて戸惑いつつも、強い口調で空は頷いた。
「あなたのリボンを、貸してちょうだい」
「リボン……?」
空は、髪に巻いたリボンを指差して、これ? とさとりに尋ねる。さとりは、しっかりと首を縦に振る。
リボンを解いて、さとりに渡す。
「ありがとう、お空。少し待ってね」
白いリボンの、残り半分。
さとりはそれを手にとって、開いた。
そこに書かれているのも、簡潔な文章だった。
『もし、許してくれるなら、』
「……え?」
さとりはまた、混乱した。
文章の書き手は彼女だ。つまり、この文章の意味するところは、さとりが彼女を許すならば、ということだ。
「どういう……こと」
逆ならば何の問題もなく理解できる。許すとなれば、彼女がさとりを許すかどうかという問題なのだ。
なぜ彼女がさとりに許しを請わなければならないのか、まったく理解できなかった。
許すも何もない。さとりが彼女の心の傷に触れた、それが全てなのだから。
「お燐。……プレゼントの件の怨霊とは、よく話をするの?」
「うん。……あ、あのね、さとり様。黙っておいてくれってずっと言われてたんだけど、その子、さとり様のこと、いつも気になってるみたいだった。元気にやってるかって。落ち込んだりしていないかって……」
「え……」
ますますわからなくなる。
それまた、立場は逆のはずなのだ。さとりが彼女のことを心配していたかといえば、嘘になるのだが。本来であれば、ともあれ、逆なのだ。
「あの、さとり様。もう、いい……?」
戸惑っているさとりに、今度は空が話しかける。
「あ、リボンは、もう少し」
「そうじゃないの。私から、ちゃんと、言わないといけないことがあるから」
「あ、そう、だったわね。何度も遮ってごめんなさい」
「うん。えっと……あの時は、酷いこと言っちゃって、ごめんなさい。ちょっと、悔しくて言ってしまいました」
「え」
「さとり様がずっと抱えている悩みにも気付かないで、勝手なこと言って、ごめんなさい」
「ま、待って。どうしてお空が謝るのよ……そうよ、私が謝らないといけないのに。ダメね、私、そういえばそんなこともしてないじゃない、まだ」
「私は、そんな、あのときちょっと怒っただけで、なんともないから。さとり様のほうが、ずっと傷ついてるみたいだから」
「……!」
――声が、出なくなった。
空は、ずっとさとりのことを心配していたというのだ。さとりに心を覗かれ、触れられたくないところに触れられた、純粋に被害者のはずなのに。
リボンのメッセージと重なる。まるで同じだった。
どうして。なぜ。
なぜ、空が謝るのか。なぜ、彼女が許しを請うのか。
どうして二人とも、さとりの心配をするのか。
空は、不安そうな、心配そうな顔で、さとりを見つめていた。ごめんなさい、という声が心にも届く。
「あ……ああ」
その謎の答えが、少しだけ。
見えた。
恨まれると思っていた。嫌われると思っていた。それを仕方がないことだと思っていた。
それが、間違いだと、今気付いた。そんなに単純なことではなかった。
さとりが迷い、悩むように、さとりに触れる人々も、迷い、悩む。
さとりのことをただ拒絶するだけなら悩む必要などまったくない。
悩むのは、苦しみながらも、さとりを受け入れようとするからだ。
さとりが、今のさとりである、そのままを受け入れようと、戦っているからだ。
「私は……また、一人で戦っていたのね」
自分のことしか見えていなかった。自分のことしか考えていなかった。
空も、彼女も、さとりと共に戦おうと手を差し伸べてくれていたのだ。気付いてもよかった。ずっとそれを、見ないフリをしてきただけだった。
リボンに書かれた本当のメッセージが、今、見えた。
そして、やっと、さとりの長年の悩みにも、答えを求めるための道筋が、見えた。
「お空。お燐。……ごめんなさい。私はもう、大丈夫よ」
「!」
「さとり様!」
リボンを握り締める。
さとりは一度目を閉じて、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫よ。私は、戦える」
燐が一緒なら。
空が一緒なら。
みんなが、いてくれるなら、必ず。
燐が、さとりに向かって飛び込んできた。さとりの小さな悲鳴に構わず、真正面からぎゅっと抱きしめてきた。
ああっ、と空の非難する声が聞こえた。空も飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと、二人とも」
「さとり様〜」
「さとり様っ」
「もう。落ち着いて、二人とも――」
ぎゅ、と二人まとめて、小さな腕で抱きしめる。
「大好きよ」
[6] 返歌
「さて、このリボン、その怨霊に届けてくれるかしら。あ、渡すんじゃなくて、見せるだけね」
「あ、うん」
燐にリボンの配達を頼む。
特に新しく準備したものではない。彼女が届けてきたもの、そのものだ。
今はすっかり燐、空のリボンになっているため、返すわけにはいかない。
いや、そのものというのは、少しだけ間違いだ。――これから一つだけ、手を加えることになる。
「ところで、お燐。ちょっと提案があるんだけど」
「なになに?」
さとりは、いたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべて、言った。
「お燐には黒いリボンのほうが似合うと思わない?」
FIN.
【あとがき】
言葉を持たない動物たちに好かれる、という設定があるさとりさん。
ですが、お燐もお空も当然言葉を持っております。
これはいったいどういうことだ!!
という疑問から始まって書き始めてみたら色々と盛り込みすぎて100KBになってしまいました。
むやみやたらに長くてすみませんっ
お燐かわいいよ! お燐!
いつもどおり、感想意見などなど物凄くお待ちしております。
いただけると嬉しくて健康になってしまうかもしれません。