[Moment]

 真っ赤な花畑が広がっている。
 彼女はその真ん中で、寂しそうに微笑んでいた。
 私は走った。走った。走った。飛ぶことは出来なかった。
 赤くて黒い花。血の色の花。
 花の色に紛れてはいるが、彼女の体もまた血で染まっていた。全身至るところが、赤く黒く、染まっていた。唯一、その美しい金色の髪だけは、なお輝きを失っていない。
 私は、ただ、走った。どこに向かっているのか、よくわからない。彼女に背を向けて、走った。
 急いでいた。もう時間が無いことを知っていたから。
 血の色をした花畑を抜けて、なお走る。
 どこまで走っただろう。ゴールはどこだろう。
 走り続けた私の体から、がくんと力が抜ける。
 私を後押ししていた力が、消える。
 このとき私は、彼女がついに息絶えたことを知った。
 間に合わなかったのだ。
 私は間に合わなかったのだ。
 それでも私は歩いた。もう走る力は残っていない。歩いた。
 どうして歩けるのかわからない。言葉どおり残った魂を削って歩いているのかもしれない。
 一心に求めて歩き続けた。
 歩き続けて、そして。
 力尽き、倒れた。




 魔法には絶対に出来ないことが二つある。
 死者を生き返らせること。
 そして、人を幸せにすることだ――




[Flowering Days]

 ――また、変な夢を見た。
 魔理沙は軽く頭を振って、夢の後味を脳から追い払う。
 朝日が部屋に射している。悪夢にうなされて起きたわけではない。目覚めは悪いわけではない。ただ、もやもやした感じが残る。
 最近、こんな日が多い。
 毎回同じような夢を見る。目を覚ましたときには「変な夢を見た」という感覚だけが残り、夢の内容はほとんど覚えてはいないのだが、同じような夢だということはわかる。
 ベッドから起き上がり、窓のカーテンを開ける。
 眩しさに目を細める。やがて光に目が順応して映ってくる視界には、これでもかと必死に咲き誇る花畑。
 こんな夢を見るようになったのは、ちょうど花たちが急に元気に咲き始めた頃からだった。偶然ではないだろう。
 花が元気なのは、ここに限った話ではない。幻想郷の至るところで同じ現象が起きている。そして、この「異変」は自然現象であり、特に気にする必要のあるものではないということもすでに明らかになっている。
 だから、まあ、夢のこともそう気にすることはないだろう――それが魔理沙の出した結論だった。ぼんやりと窓の外の花畑を眺める。
 と。
 花畑の中に、人影を見つけた。
 遠く。魔理沙は目の焦点を合わせて、その人影に注目する。
 花畑の中でしゃがんでいる少女。それが誰であるかは、考えるまでもない。ここ魔法の森で魔理沙以外に見られる人影など一人しか心当たりがない。
 魔理沙は窓から離れると、すぐさま洗面所に向かって、顔だけ簡単に洗うとまた部屋に戻ってきて、さっとパジャマを脱いで、普段着に着替える。普段着、すなわち黒を基調にしつつ白を織り交ぜる、魔理沙流の魔法使いコーディネートだ。魔法使いたるもの、いつでも魔法使いらしい格好を。譲れないこだわりだった。
 鏡で軽く乱れがないかをチェックして、帽子を被る。もちろん、魔法使いらしい黒の三角帽。
 身だしなみチェックが完了すると、部屋を飛び出して、玄関で箒を掴んで家の外まで出る。目覚めからここまでの間、約十分。あの着辛い魔女服をこれだけ早く着ることが出来るのは、経験の成果だ。
 さて、あの人影がいる場所は、間違いなくこの霧雨邸の敷地内だ。今なら不法侵入の現行犯で捕まえることが出来る。魔理沙自身は日常的にその相手側の家にお邪魔しているわけだが、それはそれ、これはこれ、だ。
 花畑を見回すと、件の少女はまだそこにいた。しゃがんだりうろうろとしたりと、何やら熱心に探し物をしているような様子だった。
 ゆっくりと歩いて近づいていく。足音を消したりはしていないが、気付く気配はなかった。
 もうあと十歩ほども行けば捕まえることができるといったあたりで、少女の様子を観察する。
 少女はもちろん、予想通りに、アリスだ。いつもより少し簡素な装いで、密集する花の間にしゃがみこんでは一つ一つの花を観察している。時折ぶつぶつと何やら独り言が聞こえてきたりもする。これはなんとかの花、原産地はどこ、季節は、花言葉は――どうやら、花についての情報を記憶から取り出しながら確認しているようだ。
 魔理沙はその様子を近くからずっと眺めていたのだが、放っておくといつまでも気付きそうにない。それくらい集中している。魔理沙は、こほんとひとつ咳払いをしてみる。アリスは気付かない。
 やれやれ。ため息をついて、もう一歩だけ踏み出す。
「あー。知らないでいるかもしれないから一応言ってやろうか。ここは私の家の敷地内だ」
「きゃっ……!」
 背中からの声に、アリスはびくっと反応して、小さく悲鳴をあげる。
 振り向いて魔理沙の顔を確認してから、丸くしていた目を少しずつ細めていく。
「……驚かせないでよ。今忙しいんだから」
「おい。今の私の言葉、聞いてなかったのか?」
「魔理沙の家だってことでしょ。それがどうしたのよ。いつも私の部屋の中まで平気で上がってくるくせに」
「私は特例で許されるんだ」
「私も特例ね。じゃ、そういうことで」
 くるり。
 それだけ言うと、アリスはまた花を調べ始める。
 もう魔理沙の存在など気にしていないように、夢中になってぶつぶつと独り言を再開する。
「……ま。いいけどな」
 魔理沙は軽く肩をすくめる。
 別に本気で追い出すつもりだったわけでもない。なんとなく邪魔したかっただけだ。不法侵入も何も今更だというは確かに共通認識ではあった。
 それにしてもここまで簡単にあしらわれるとは思っていなかったが。
 一体アリスは何にそこまで夢中になっているのか。
「何やってるんだ?」
「情報収集」
 一応、魔理沙の質問にはすぐに答えが返ってきた。無視するつもりではないらしい。
 答えになっているかどうかはさておくとして。
「何の」
「見ればわかるでしょ。花畑で花を観察してる人が今宇宙誕生の神秘について調べていますなんて言ったら信じるの?」
「信じる信じない以前にとりあえず立ち去るぜ、私は」
「……例えが少し不適切だったかもしれないけど。つまり、花を見てるのよ」
 アリスは喋りながらも、次々に場所を変えてまたしゃがんで次の花を見て……と繰り返している。
「はあ。人形に花に、ずいぶんと少女趣味だな」
 呆れ声で言うと、アリスはくるっと魔理沙のほうに顔だけ振り向く。
「何言ってるのよ。魔法使いがただお花好きで花を見てるとでも思うの?」
「アリスなら似合いそうだぜ」
「っ……と、とにかくもちろん、ちゃんとした意図はあるわよ。さっき人形って言ったでしょ。その繋がりよ」
「繋がり?」
 きょとんとして、首を傾げる。
 人形と花の繋がり。
 ――想像すれば色々と類似点はありそうだが、魔法使いという言葉を持ち出した以上は、ただ可愛い繋がりとかそういう話ではあるまい。
 魔理沙が考えている間にも、アリスはまた移動を始める。よく見るとスカートはかなり土で汚れている。だから、いつもよりも地味な格好なのだろう。それならもっとボロでもいいだろうにと思うものだが、アリスはどんなどきでも少女全開の可愛らしいファッションをやめない。魔理沙が魔法使いらしい格好にこだわるのと同じようなものだろうか。
「おまえ、いつからここでそんなことやってるんだ?」
「まだ三時間くらいじゃないかしら」
「……それは日が昇る前からなんじゃないか」
「明るくはなっていたわよ。魔理沙の朝が遅いだけ」
「むぅ」
 細かい時間はともかく、相当熱心にやっているということは確かだ。そして、当分続きそうだ。
 実際、自分の家の中で宝探しのようなことをされるととても気になる。何かいい物を見つけたのなら当然魔理沙がそれを受け取る権利があるわけだ。勝手に持っていかれても困る。魔理沙が知らないような宝物が眠っているのなら教えてもらわなければ。
「あ」
 どうしたものかとアリスを眺めているうちに、ようやく魔理沙はアリスの行動の意味に思い当たった。
「人形と花。あいつか。アリスも実際に会ってきたのか?」
 アリスはまた、魔理沙のほうに振り向く。
 振り向くと振り向かないときの違いは、自分が話したい内容かどうかなのだろう。
「ええ。話も聞いてきたわ。毒の力だとか――簡単には納得しがたい内容だったけどね」
「でもそこからヒントを得て、今何か探し物してるわけだろ?」
「残念ながら、そこまでの段階じゃないというのが本音ね。今はヒントを探しているだけ。鈴蘭の花が関係しているのは間違い無さそうだし、花について調べるなら今が六十年に一度の大チャンスだし。その程度よ、今は」
「なるほどな。で、なんで私の家なんだ? 今なら幻想郷のどこにでも花は咲いてるぜ」
「魔理沙の家なら変な魔法の道具がいっぱいあるし、影響受けてちょっと突然変異した面白い花があるんじゃないかって思ったのよ」
「私の家は放射能汚染地域扱いかよ……」
 突然変異とは言わないまでも、今は、本来咲く季節ではない時期、または本来咲く場所ではないような場所に花が咲いているという例はどこにでも見られる。多少は変なものが混ざっていても不思議に思わないのではないか。
 アリスが実際のところ、どこまで考えて調べものをしているのかはわからないが、かなり本気であることは違いない。
 そして、アリスの調査が、魔理沙に何か宝物をもたらす可能性は極めて低いということも同時に明らかになった。魔理沙は自立人形になど興味はない。正しくは、まったくないわけではないが、アリスが何か完成させたならそれを見ればいい、くらいのものだ。
 そうとわかれば、アリスの動きに注目している必要もない。好きなようにさせればいいだろう。
「ま、頑張れよ」
 一言だけ言うと、魔理沙は歩き去る。魔理沙は魔理沙でいつもの一日があるのだ。
「ありがと」
 背中から、同じように一言だけ返ってきた。
 堂々と不法侵入しているくせに、正式に許可が出たとなると一応でも礼を言う律儀さが、アリスの不思議なところだった。
 魔理沙は隠れて笑いながら、花畑をあとにした。




[Alice in bloom I]

 その後もアリスは毎日、魔理沙の花畑に通いつめてきた。
 魔理沙はたまに暇つぶしに声をかける程度で、それに干渉はしない。
 よく毎日飽きないなあと思う。こんなに通いつめていてちゃんと家事など出来ているのだろうか。などと心配になるが、考えてみれば魔理沙はもっと長い間家を空けることも珍しくない。しっかり者のアリスなら何も問題はないのだろう。
 魔理沙は花のことは気にせず、普通の日常を送っていた。
 ふと、アリスが家を空けているということは、今ならアリスの家に勝手にお邪魔して何でも盗りたい放題なのではないかと思ったりもしたが、犯人がすぐにバレる以上あまり意味がないと気付いた。同じバレるなら目の前で堂々と奪っていくほうが好きだ。
 何か間違っているような気もするが、それが魔理沙なりのプライドだった。
 というわけで、アリスは魔理沙の家に毎日訪れているのに会話を交わすことはあまり多くないという奇妙な日々が続いて――

 アリスの様子が変わってきたことに気付いたのは、初めてアリスを目撃してからちょうど十日目のことだった。
 真剣な表情で一つ一つの花をじっくり観察していたアリスが、最近は妙に晴れやかな笑顔でやってきている。
 何かいいものでもあったのだろうかと、ある日気になって近づいてみると、アリスは花畑の一箇所でしゃがみこんでいた。昨日と、一昨日と、同じ場所だ。
 相変わらず魔理沙が近づいても気付かないようで、魔理沙はそのままアリスがしゃがんでいる場所のすぐ隣まで行って、立ち止まる。アリスはその場所で、一つの花をずっと観察していた。
 不思議な花だった。背は低く、肘を立てた程度の全長。葉は根元だけに生えており、硬そうな葉が数枚、ぴんと立っている。
 そして何より特徴的なのは、葉より上の部分にびっしりと生えている花だった。赤い花弁、より正確にはやや黒ずんだ赤の小さな花弁が六枚で一つの花を成しており、その花が一つの茎に無数に密集している。
 そして、その花は、そこにある一つ以外は周囲のどこにも見られなかった。淡い色彩の花に囲まれて、こうして一つだけぽつんと明らかに存在が浮いている。
「これ、なんて花なんだ?」
 魔理沙はアリスの隣に座って、一緒にそれを眺めてみる。
「あ、触っちゃダメよ」
 魔理沙の声でやっと気付いたアリスの、第一声はそれだった。
 伸ばしかけていた手を止める。
「毒でもあるのか?」
「ううん。いえ、わからないけれど。あってもおかしくはないかも」
「ん? なんだ。この花がなんだか分かってるわけじゃないのか」
「いいえ。それははっきりしてるわ」
 アリスは目を輝かせて、魔理沙の顔を正面から見つめる。
 嬉しそうに、笑っている。
 すぐに花のほうにまた視線を戻して、言葉を続ける。
「これは、今ここに咲いていること自体が奇跡なのよ」
 花を指差して。
「形の特徴、そしてこの色。間違いないわ。これは自然界には存在しないはずの花。どこかの魔法使いが作った人工の花よ」
「魔法使いが……花を?」
「ええ。何の意図で作られたかは知らないけど、記録にはそう書いてあるわ。ある魔法使いが作った花。用途不明。ただし失敗作で、呪われた花になってしまったため後に当人によって全て処分された。そのため現在はどこにも存在していない、ってね」
「存在していないって……じゃあ、これは違うんじゃないか?」
「この花の特徴は、血の色をした花弁がびっしりと密集していること。――間違いないでしょ」
 なるほど。
 言われてみれば、この花の色は間違いなく血の色だった。もちろん、人間の血の色。
 そう思うと、呪われた花だというのはいかにもだ。わかりやすい。
「じゃ、なんで咲いてるんだ」
「さあ。全部処分したつもりになってたけど種が残ってたんじゃない? で、他の花がいっせいに咲き出す今の時期になってひょこっと顔を出したとか」
「人工の花なんだから種も何もないだろ?」
「あるわ。確認したもの。慎重に調査したから、まず間違いないわ」
 アリスは、もう一度魔理沙の顔を見る。
 力強い口調で、続ける。
「重要なのは、とにかく今ここにあるってこと。魔法使いが作った呪われた花――いかにもじゃない。人形と呪いとは切っても切り離せない関係よ。私は、この花を足がかりにしてみせる」
 ああ。魔理沙は納得する。
 最近アリスが元気だった理由は、簡単なことだった。まさに探していた何かを見つけていたのだ。すでに。
 無論、それっぽいヒントになりそうな花を見つけたというだけの話であって、これで自分で動く人形が完成するなんて話ではないだろうが。
「それで、花の名前だったわね」
 アリスの声はますます弾んでいる。
 こんなに上機嫌なアリスを見るのは久しぶりかもしれない。
「ブラッディ・ドール。これが花の名前よ。――どう、素敵じゃない? まるで私に発見されるのを待っていたみたい。私がこの花を見つけたのは、運命なのよ」
 同意を求めるように、ぐっと魔理沙に迫る。
 目はきらきらと輝いている。
「あ……ああ。いや、面白い偶然だな」
「偶然? 運命よ。こんな偶然はないわ」
 燃えている。
 そうまで言われると、魔理沙も否定する気はなかった。実際、何らかの力が働いているのかもしれない。
 呪われた花。
 もう一度よく眺めてみる。
 ――どこかで見たような気もする。
 少しだけ気になったが、魔法使いが作った花ということで、どこかで情報を手にしていたのだろうと。
 このときはそれ以上は特に考えなかった。




[Magician's...]

「魔法使いとは、何だ?」
「え……えっと……魔法を使って、魔法を極める人。……かな?」
「魔法の力であらゆる障害を打破しながら生きていく存在。それが魔法使いだ。しかし――」
 魔法使いは少女に向かって言う。
 何度も繰り返してきた言葉を。
「魔法には絶対に不可能なことが二つある」
「うん……わかってる。死者を生き返らせることと、人を幸せにすること」
「ちゃんと理解していればいい。魔法で人を幸せにしようなどと絶対に考えてはいけない。魔法は自分のためだけに使え。いや、どんな無駄な使い方でも構わない。人のために使うなどと考えなければ。大切なものを失いたくなければ、これだけは必ず守るんだ」
「何回も聞いたよ。でも魔法は人を守ることだってできるはずで……」
「守るのはいい。――まだ難しいかもしれないが、幸せにするということは、違うんだ。人を幸せにするものは、決して魔法ではない。死者を生き返らせたいと願ってはいけない。人を幸せにしたいと願ってはいけない。いずれも、魔法使いには手が届きそうなことのように思えてしまうからこそ危険なんだ」
「うーん」
 少女は少しだけ納得いかない表情を見せるが、それ以上逆らったりはしない。
「いいか。おまえは必ず強い魔法使いになる。今の瞳で真っ直ぐ突き進め。自分勝手でいい。優しくなくていい。強くあればいい」
「……うん」
「よし。いい子だ……魔理沙」
 魔法使いの声は厳しくもあり穏やかでもあり。
 部屋に日が射してきて――


 そこで、目が覚めた。
 意識を現実に戻すと、魔理沙は右手を天井に向かって伸ばしていた。何かを求めるように。
「……あ……なんだ……」
 夢。
 最近見る不思議な夢と違って、今度はしっかりと内容を覚えていた。
「なんだよ……おじいちゃん……もう、しつこく聞いたって……」
 天井が目に入る。
 もう古くなった部屋の汚れた天井。
 夢は過去の記憶。魔法使いは、魔理沙の実の祖父。少女は魔理沙本人。
 その会話が交わされたのは、まさに、この部屋だった。
 昔、幼い頃は何度もこの夢を見た。成長と共に見なくなっていた。実家を飛び出して、祖父が一人で住んでいたこの家に住み始めたそのときでさえもうこの夢は見なかったというのに。
 今更何を伝えたいというのか。
「ちゃんと、言われたとおりやってるぜ……心配か?」
 開いている目が、熱くなる。目を閉じると、目尻に溜まっていた涙が頬を伝わって枕に流れ落ちる。
 今にして思えば、無茶苦茶な遺言だった。優しくなくていい、自分勝手に生きろ。本人は、それが自分の最後の言葉になることを知っていたのだろうか――知っていたのだろう。魔理沙にはまったく何の前兆も見せないまま、もっとも言いたい言葉を遺したのだ。
 祖父は一人実家を離れてこの広い家で暮らしていた。森の中で暮らしていた。そんな祖父のもとに遊びに行くのは魔理沙くらいのものだった。唯一の友達だったと言っていい。その魔理沙にさえ死に際は見せなかった。一人でひっそりと去ってしまった。
 指の根元で涙を拭う。
 本当に、今更だった。祖父が今の魔理沙の姿を求めていたのかどうかはわからないが、少なくともその教えはしっかりと覚えている。文句はそれほどないはずだ。
 ベッドからのろのろと立ち上がり、ゆっくり顔を洗って。
 鏡をぼんやりとしばらく眺めて。
 ふるふると顔を振る。
「……よし!」
 気合を入れなおした。
 そして、なんとなく天井をもう一度眺める。
「ああ、もしかしたら一人で寂しがってるかもしれないってわざわざ出てきてくれたのか? ありがとな、おじいちゃん。でもすぐ近くに友達もいるから心配すんなって。嫌なやつだけどいいやつだぜ。……あー、それじゃわけわからんか。まあ、そんな感じだ。大人しく寝ててくれていいから、無理すんな」
 それだけを伝えて。
 また、いつもどおりの一日を始める。




[My little friend]

 アリスはその後も毎日花畑に通っては、花を観察し――
 というより、むしろ、花の世話をしにきていた。
 魔理沙は以前、アリスが人形の世話をしている様子を目撃したことがあったが、そのときと同じくらい、楽しそうな表情と雰囲気だった。
 実験器具を使って慎重に水の量を測りながら水をやっていたり、近くの土を掘って何か埋めていたりと、実験なのか栽培なのかよくわからないことを毎日繰り返している。
 時折見覚えのないよくわからない測定器のようなものを持ち出しているところを見ると、やっぱり魔法が絡む実験をしているんだというのがわかるが、そうでなければただのお花好き少女になっていた。
 毎日やってきては花の世話をして、時には話しかけたりもしている。
 花に関する情報はアリスが魔理沙に話した程度の内容が全てで、栽培方法などの情報もまったくなかった。すでに存在していないはずのものと書かれている以上は当然なのだろう。アリスはたった一つの花を慎重に時間をかけて根気よく調べ続けている。
 普段はインドア派のアリスなだけに、毎日これだけ姿を見るということは今までにはなかった。今やっていることが果たしてアウトドアなのかどうかはやや疑問点ではあるが。
 アリスは花を育て、魔理沙はそれを横目に変わらない日常を送る。

 そして、ある日。
「魔理沙! 見て! 見て!」
 家を出て花畑の様子をちらりと覗きにきた魔理沙に、アリスは大きな声で呼びかけた。
 顔もまだはっきり見えないほどの距離だが、何かいいことでもあったのだろうと、その声だけでわかるほど弾んだ声だった。ゆっくりと歩いて近づいていくと、アリスは待ちきれないのか、ねえ、とか、はやくー、とか、そんな言葉を投げかけてくる。
 こっちこっちと手を振るアリスに、別に見えてるから振らなくてもいいとよほど言いたくなったが、無意味に機嫌を損ねることもあるまいとここは堪える。
「ほら! 見て!」
 魔理沙がそこに到着すると、アリスは興奮顔で花を指差す。
「?」
 覗きこむと、そこには、例の花があった。
 ……何度か見たとおりに、そのままに。
 別に花が巨大化しているとか増殖しているということもなく。色が青くなっていたりすることもなく。
「……? 何を見ろって?」
 魔理沙には、何の変化も感じ取れなかった。毎日見ているアリスならわかる程度の違いなのか。
「もう、気付かないの? その花の隣!」
「ん……」
 花の隣。
 何があるというのか。
「あ。あった」
 そこにちょこんと、小さな芽が生えていた。確かにこんなものは、以前に見たときにはなかった。
 アリスは、満足そうに頷く。
「間違いなくこの花の芽よ。栽培に成功したの! もう育て方もわかったわ。ちょっと手がかかる子だけど、なんとかなる。私はこの子をしっかり育ててみせるわ」
「そうか。よかったな」
「……感動が少ないわねえ。結構凄いことしたつもりなのよ?」
「ああ。そうなんだろうな。凄いと思うぜ」
「むー……まあ、いいけど。それでね、もう育て方もわかったし、あとはどこででも育てられるわ。ずっとここにお邪魔するのも効率も悪いし、これからは自分の家で育てようと思うの」
 新しい芽を見つめて。
 きらきらと目を輝かせながら言う。これからの期待と希望に胸が一杯という様子だ。
 しばらく経ってから、魔理沙を見て。
「ありがとう。長い間お邪魔して悪かったわ。この芽は貰って帰るけど、いい?」
「ああ。別に邪魔でもなかったし。芽だけじゃなくてその花ごと持っていってもいいぜ」
「ううん。これは、ここにそっとしておくわ。きっとそのほうがいいから」
「そうか。まあ、あとは頑張ってくれ」
「うん、ありがとう。成果が出たらすぐに教えてあげるわ」
「期待しないで待ってるぜ」
「もうっ」
 アリスは立ち上がる。
 花畑を包み込もうとするかのように、両手を広げる。
「お世話になったお礼に、一ついいこと教えてあげる」
「お? そっちは期待するぜ」
「この子はね、成長するにも生命を維持するにも、魔力の欠片を必要とするの」
「ふんふん。そりゃなかなか面倒なやつだな」
「でね。ここで咲いていたっていうことは……たぶん何か、埋まってるわよ。この辺に。この子をひっそりとずっと生き延びさせてきた魔力の素がね」
 両手を広げたまま、くるりと半回転。ふわりとスカートが舞う。
 このへん、というのを指し示しているのだろう。
「なかなか魅力的な話だな。教えないでこっそり探して持って帰ればよかったんじゃないか?」
「それはそれで素敵だけど。でも、この場の魔力だけだと新しいこの子を育てる力まではなかったみたいだから、掘り返して探すほどのものでもないわ。今の私にとってはね」
 魔力の素が埋まっているということは、いくつかの可能性が考えられる。
 このへんの土が魔力を帯びているという場合。
 魔力を発することそれ自体を目的とした何かがそこにある場合。
 そして、強力な魔法道具が埋まっていて、そこから魔力が漏れ出ている場合。
 無論、後者になるほどその価値は高い。三番目の可能性も十分にある以上は、魅力的な話であることに違いはない。
 それをアリスは、わざわざ探すだけの価値はないと言い切った。それは、少なくとも感じ取れる魔力だけでは花を育てるには足りないから。アリスの価値の判断基準は、すでに花を育てることができるかどうかだけが全てになっている。
「もともと魔理沙の家だしね。探して持っていったとしても、泥棒になっちゃうし」
「わかった。ありがたく受け取っておくぜ」

 アリスは一度家に帰って、色々と細かい道具を持ってまた戻ってきた。
 そして、新しい芽を土ごと掘り返して、小さな鉢に入れ替える。
 この日、その鉢を持って帰って以降、アリスがこの花畑に足を踏み入れることはなくなった。


 このときまでに、魔理沙には花のことを思い出すための時間は十分にあったはずだ。
 後から思えば、このときが与えられた最後の機会だったのだ。
 ――呪いから、逃れるための。




[Treasure]

 霧雨邸は広い。
 魔法の森の一部を借りて建てられているこの家は、魔理沙一人が住むには広すぎるほどだった。洋風建築であり、建てられてからすでに数十年は経過している古い家だったが、問題なく住むことができている。夏に湿気が篭ってしまうことが最大の欠点だったが、そこさえ我慢すれば快適に住めるほうだと言える。
 もともとは、魔理沙の祖父がやはり一人で住んでいた家だった。魔理沙が幼い頃に祖父が逝ってから、実家を飛び出した魔理沙がこの家で暮らし始めるまでの間は、誰も住まない空き家となっていた。
 広い家の中は、多種多様な魔法の道具で溢れかえっている。そのほとんどが、魔理沙がどこかから持ち込んだものだ。もとからこの家にあったものはごくわずかしかない。この家に残っていた、おそらくは祖父が遺したと思われる貴重な道具の数々は全て実家の人間が回収してしまった。持ち帰るだけの価値がないと判断されたものだけがそのまま残された。
 回収された、とはいえ。地面を掘り返してまで必死で探したりはしなかっただろう。実家の者も。
 つまり、地面の中に何か大切なものが隠されているという可能性はありえない話ではない。魔法使いが住んでいた家に常識的な感覚を持ち込むのは間違いだ。それこそ壁の中にでも何かが塗りこまれていたところでおかしくはない。
 魔理沙は花畑に立つ。幼い頃、まだここが自分の家ではなかった頃、この花畑にももちろん来たことがあった。今みたいに狂ったように花が咲いているということはなく、密やかに小さな花が、短い間だけ咲き誇るだけの普通の花畑だった。

 さて、何かが埋まっているとする。当然、真っ先に探す場所は、魔力の欠片で育つという花が咲いていたまさにその場所だ。ここを掘って何も見つからなければ、そのときまた考えればいい話だ。
 スコップを持ってきて、例の花の根を傷つけないように気をつけながら、花の周囲を掘り始める。
 どこまで掘ればどんなものが出てくるのか、それとも出てこないのか、何の情報もないため、まずはゆっくりと花の周囲を円で囲むように、深さをほぼ均等にしながら少しずつ奥へと掘っていく。
 小さなスコップで地面を掘り進めるのは、思った以上に時間がかかる。体力も使う。根を傷つけないようにと神経も使う。
 焦る必要はない。根がもう無さそうだと判断したあたりで、花を一度地面から抜く予定だった。そして一時的に移植してしまえば、あとはもう少し豪快に掘っていくことができる。
 花を囲む円を、二十センチほどまで掘り進めた。掘った土が大きな山を作っている。
 もういいだろう。今度は、より花に近い地面の土を少しずつ削っていく。花を持ち上げるときに少しでも軽くするためだ。出来る限り下の方で今まで掘った穴同士が繋がって、花の根のある部分の土だけが周辺の土から分離されるようにする。完全にはもちろんできないが、出来る範囲までやっておけばよい。
 その作業も終わると、いよいよ花の茎を手に持って、地面から土ごと引き抜きにかかる。もちろん素手ではなく、穴を掘り始めたときから軍手をつけている。よほど強力なものでない限り、毒があったとしても問題はない。
 力を込めて、根や茎を切らないようにゆっくりと、持ち上げる。
 重みは感じられたが、特に大きな抵抗はなく持ち上がる。どうやら根は掘った範囲より深い位置までは届いていないようだ。安心して、そのまま持ち上げて地面から離し、花についた土の塊を手で払う。

 それは、実にあっさりと姿を現した。
 宝探しというにはあまりに簡単すぎたのではないかと思ってしまうほどに。
 花の根元の土を払っていると、その土の中からぽろりと零れ落ちる紅い何かを見つけた。
 指輪だった。そして指輪の先には小さな丸い宝石。
 魔理沙はその指輪を一度土が盛られていない地面に移すと、手に持った花を再び地面に簡単に埋める。
「こいつは……」
 魔理沙はそれを知っている。知識として。
 実際に見るのは初めてだったが、有名なアイテムだからおそらく間違いはないだろう。
「継承の証、か」
 有名なアイテム。間違いない。とはいえ、そうそう目撃できるものでもない。
 相当な貴重品だ。その中身によっては計り知れない価値を産むものとなる。中身がまだないものであれば、それはそれで極めて貴重な存在である。
 継承の証。この小さな指輪の中には、人の意思、言葉、知識、その他無形財産――そういった情報を閉じ込めることができる。知識がそのまま武器となる魔法使いにとっては、書物よりも何よりも強力な自己存在証明とすることができ、同時に後継者に直接的に自らの知識を与えることができる。
 一度誰かの情報を入れる道具として使われると、その人以外に「記録」はできなくなる。情報を引き出すことは、誰でも可能である。記録者が設定した解放の言葉さえわかれば。
 通常は、後継者に指輪を渡し、解放の言葉を教え、使用させた後は廃却するのが慣例だ。しっかりと、壊してから。だから、普通はこのようにどこかから発掘されるということは、まずない。
 霧雨家の花畑に埋められているということは――
「……おじいちゃん?」
 まさか。とも思う。
 それならば自分が直接手渡されていたはずだ。埋められている理由がわからない。
 となれば、もっと昔からここに埋まっていたか。
 魔法使いのものであることは間違いないだろう。魔力を放出していたアイテムはこれだ。何らかの意思を持ってこの継承の証が魔力を解き放っていた。その力で花は育っていた。そういうことになる。
「この花を育てるために埋めた……のか?」
 首を傾げる。
 そうとも考えられるし、単に埋めたところに花が咲いただけとも考えられる。後者のほうが自然だろう。魔力を放出するだけなら、何もこんな貴重品を使う理由などはないのだ。
 何であれ、魔理沙は解放の言葉などもちろん知らない。これが誰の者であるかがわからないことには推測もできない。
 となれば、持っていても仕方ない。もう一度それを土に戻して、同じ場所に花を植えなおす。
 これでまた花は生き残り続けるだろう。
 継承の証のことは、また機会があれば調べてみればいい。また今度でもいいだろう。
 今は、あるべき場所に、そのままに。




[Alice in Bloom II]

 一週間経っても、一ヶ月経っても、相変わらずどの花も元気に咲き続けている。
 アリスは花の芽を持って帰って以来、花畑どころか魔理沙の前に姿を現したこともなかった。お互いもともとそれほどコミュニケーションを取っているわけでもなく、魔法使い同士ということもあって研究に没頭し始めればどちらかがしばらく外に出なくなるというのは珍しいことではない。その意味では、一ヶ月くらい顔を見せなくてもそんなに不思議ではないとも言える。
 しかし、魔法の基本的な実験等に使用する植物採集などは、当然のようによく場所がバッティングしたりするものだ。何せ、同じ魔法の森に住んでいるというだけでなく、家同士もそれほど離れていない。いい場所というのは自然に取り合いになったりする。あの日以降は、そういうこともなくなっていた。
 てっきり、あの様子からすると、新しい芽が生えたり花が生えたりするたびに喜んで魔理沙に報告にきたりするのではないかと思っていただけに。本音のところを言えば、魔理沙も少し寂しいのだった。
 うちの花畑で採れたものを育てているのだから少しくらい経過報告があってもいいのに、と思ったりもしてしまう。もちろん本当に来たら「ああ、そう。よかったな」の一言で追い返してしまうのだろうが。なかなかに乙女心とは複雑なものだ。

 というわけで。
 ちょうど、比較的日常的によく使用する薬品が切れたことをきっかけに、それを貰いにいくついでに様子でも見てこようかと思うのだった。
 薬品や薬草がなくなるとアリスから貰いに行くのはすでにごく当たり前のことになっていた。比較的行き当たりばったりの魔理沙と違って、アリスはいつでも在庫管理をしっかりしている。魔理沙にとっては第二の倉庫のようなものだ。
 アリスの家の扉の前に立つ。
 ここに来るのも久しぶりだった。
 そして、ノックをするでもなく、躊躇せずにドアをそのまま開ける。当たり前に、自分の家に帰ってきたかのように。
「おーい。アリス、いるかー?」
 玄関に上がって扉を閉めると、大きな声で呼びかける。
 そして、しばらく待つ。
 そうすると、いつものようにアリスは怒った顔をしながら現れるのだ。だから勝手に入らないでって言ってるでしょ! などと、言っても無駄なことを叫んで。
 現れるのだ。
 ……
 ……現れない。
「アーーーリーーースーーーーー?」
 もう少しボリュームを上げてみる。
「聞こえてるわよ。何の用?」
「お」
 声だけが、返ってきた。珍しい。
 普段はなんだかんだいいつつも必ず姿を見せてとりあえずは魔理沙に怒鳴るものなのだが。
「いや、ちょっとまた少し貰いにきた」
「泥棒なら帰って」
「いやいや。いつものアレだ。薬とかちょっと」
「なんでそれなら普通に貰えるものみたいにっ。……ま、いいわ、ちょうどその部屋だから勝手に上がって」
「おう。勝手にするぜ」
 遠慮なく。
 魔理沙は、アリスの家の構造は完全に把握している。行ったことのない部屋のほうが少ないくらいだ。
 その大半はアリスに案内されたわけではなく勝手に歩き回った成果だ。その辺についてはアリスもすでに諦めている節がある。
 ちょうどその部屋、ということは、薬品がある部屋。実験部屋だろう。ごく僅かな確率で奥の倉庫。
 とりあえず普通に実験部屋に向かう。入る。
 アリスはそこで机の前に座って、何やら作業中だった。机の上には白い粉末があって、秤にも一部乗せられていたりして、いかにも怪しい実験中といった感じだ。
「おお。悪い。忙しかったか」
「あんたと違って私はいつでも忙しいの」
「へーへー。ま、とりあえずは貰ってくぜ――って」
 綺麗に区画に分けられた薬品棚。魔理沙は既に、どこに何が置いてあるかも完全に把握している。
 目的の場所に手を伸ばそうと思い、とりあえず棚を見て。
 目を疑う。
「なんだこりゃ」
 区画のそこかしこが、空になっていた。ない薬品や薬草がいくつも見られる。
 入手の難しいものだけでなく、すぐに採取できるようなものの中にも、在庫切れになっているものがあった。
 アリスの薬品棚がこのような状態になっているのは、魔理沙が知る限り初めてだ。
「ない」
 魔理沙の目的のものも、品切れだった。
 困惑する。アリスの棚から物がなくなっている可能性など、考えもしない。それくらいアリスの在庫管理はいつも徹底しているはずだった。
「おい。なんだこれ。どうしたんだ? 全然物が足りてないぜ」
「ん……あ、欲しいもの、なかった? 倉庫にならまだあるかもしれないから、必要なだけ探して持っていっていいわよ。今忙しくて手が離せないから自分で探してね」
「いや、おかしいだろ。なんでこんなに切れてるんだ? このへんのなんて、朝ちゃんと摘みに行けばすぐ採れるようなものじゃないか」
「言ったでしょ。私は忙しいの。予備は倉庫にあるから、必要だったらそこから使えばいいんだから」
「……」
 おかしい。
 魔理沙は眉を顰めて、アリスの顔をじっと見つめる。
 まるで魔理沙の適当癖がうつったかのようだ。なんでもしっかりと計画立てて行動するアリスとは思えない言動だ。
「なあ。何がそんなに忙しいんだ?」
 不安になって、尋ねる。
 あるいは、予感はあった。その答えについては。
「決まってるでしょ。あの子達を育てるためよ」
 あの子……達。
 花のことだ。達というからには、すでに増やすことにも成功しているのだろう。
 魔理沙は、アリスの顔を見ながら、はっと気付いて、手を伸ばす。
「おい……おまえ、かなり、痩せてないか?」
「そうかしら。もっと綺麗になった?」
「……」
 会話を重ねるごとに、違和感が積もっていく。
 研究に没頭すれば他の日常的な作業が疎かになることは珍しいことではない。食事もまともに取らなくなることも、まあ、ある。ただ、そのイメージがアリスにはどうしても当てはまるとは思えないのだ。
「それは……何をやっているんだ?」
「魔力結晶の欠片を作ってるの。あの子達の食事ね」
「げ。それ、魔力結晶かよ。粉々にしちまって、もったいないな。高いのに」
「仕方ないじゃない。これしか食べないんだもの」
 なんだ。
 だんだん、このアリスと話していると気分が悪くなってくる。これはアリスではない。アリスはもっとしっかり者で、そんなところを間違いなく魔理沙は信頼しているのだから。
「……花は、どこに?」
「第二実験室よ。見たい?」
 ここで。
 ここに至ってやっとアリスは、魔理沙のほうに振り向いた。笑顔を見せた。
 我が子を自慢したいと、輝いた瞳で。
 魔理沙は、その笑顔に嫌なものを感じながらも、首を縦に振って頷いた。
「ふふ。驚くわよ。扉を開けてみて」
 にこにこ。
 満面の笑みで、さあどうぞと扉のほうを指差す。
 魔理沙は、そんなアリスの顔を少し睨んでから、ふいっと顔を逸らして扉に向かう。
 息を吐く。
 覚悟を決めて、扉を開く。

「う……わ……」
 そこは、血の世界だった。
 棚で埋まったその部屋は、全ての段が、あの花で埋め尽くされていた。
 ブラッディ・ドール。こうしてたくさん並ぶと、まさに血の花としての存在感を発揮する。
 大きな長方形の鉢に数本ずつ植えてあるようだ。ざっと見ただけでも、数十本はある。この一ヶ月ほどで、ここまで増やしたというのか。
「――綺麗でしょ?」
 突然真後ろから聞こえるアリスの声に、びくっと背中が震える。
 あまりの光景に呆然としていて、近づいてきたことにも気付かなかった。
 ゆっくりと振り向いて、目の前のアリスに向かって、言う。
「おまえ……こんなに増やして、どうするんだ?」
「こんなに? まだ全然足りないでしょ。あの生きてる人形は花畑の中で育ったのよ。私はこの花で花畑を作るの。そのときは魔理沙にも見せてあげるわ」
「馬鹿な。おまえにわからないわけがないだろ。こいつは魔力を食うんだ。多くなればすぐにもう育てられなくなるのは考えればわかるだろう! いや、もうこの数はすでに危険なんじゃないのか」
「あら。大丈夫よ。私はあなたと違って本物の魔法使いだから。心配してもらわなくても結構」
「くっ……」
 魔理沙の訴えかけは、簡単に却下されてしまう。
 しかしそれは何の理屈でもない。素人は黙っていろ、と言われただけだ。
 到底納得は出来ない。アリスの薬品棚からいくつかのものが消えていることが、すでにこの花の育成が日常生活を侵食していることは明らかだ。
「こんな状態じゃ、花畑なんて作る前にアリスがどうかなってしまう!」
「しつこいわね。この花のことは私が誰よりも知っているの。いいえ、私だけが知っているのよ。あなたの口出しは不要よ。邪魔する気なら出て行ってもらうわ」
「……狂ったか、アリス」
「あなたなら理解してくれていると思ったけれど。残念だわ。帰って頂戴」
「……」
 アリスに説得は通じそうになかった。
 呪われた花。こういうことなのか。あるいは、アリスの生きる人形へのこだわりはこれほどのものなのか。
 魔理沙は追い出されるような形で、部屋を、アリスの家を後にする。
 こんなアリスを見ているのが耐えられなかった。しかし、なんとかして止めないといけない。力ずくで従わせるか? それこそ魔理沙が呪われそうだ。いや、それくらいの覚悟は必要なのか。花を全て処分してしまうか。種の一つでも残されてしまえば変わりはしないだろう。それに、ここまで思い入れをこめて育ててきたものを完全に壊してしまうのは、心苦しいものだ。何もそこまでする必要は本来はないのだから。
 考えなければならない。少しでも早く。




[Automaton]

 ブラッディ・ドールについて。あるいは呪いについて。花について。
 過去の文献や資料は漁れるだけ漁った。
 それでも、似たような話さえ出てこない。何の情報も無い。
 魔理沙は確かにその花をどこかで見ている――ような気がする、というのに。


「ブラッディ・ドール?」
「ああ。アリスはそう言っていた。聞いたことはあるか?」
「そうね。聞き覚えはあるわ。どこだったかしら」
 紅魔館の図書館。
 魔理沙の知る限り、もっとも魔法に詳しい者がここに住んでいる。
 いつもは魔理沙が調べ物に使ったり必要であれば本を「借り」たりする場所であるが、魔理沙は今日は真っ先にパチュリーに本題を投げかけた。
 パチュリーは魔理沙の真剣な雰囲気を感じ取ってか、急な訪問や質問にも特に苦情を言わず対応する。こういうときは話が早くてありがたい。
 しばらくパチュリーは目を閉じて頭を働かせている様子だったが、十秒ほどもするとすっと目を開けて、立ち上がる。
 そして迷わず無数にある本棚の一つの前まで歩いて、そこから一冊の本を取り出した。
「これね」
 テーブルに戻って、魔理沙に見えるように本を開く。
「あっ」
 その中の一ページに、確かにブラッディ・ドールという項目があった。真っ先に目に付いたのは手書きのイラストだった。色がないためわかり辛いが、それでも確かにあの花だった。
 説明の文章を読む。じっくりと、一文字も逃さないように。
 何度も、読み返す。何度も。
「……これだけか?」
「この花について触れている文章は、これ以外には思い当たらないわね」
「そうか……」
 そこに書かれていた情報量は、アリスが以前に魔理沙に話した内容と変わらないものだった。まず、アリスもこの本を見て知ったと思っていいだろう。
 呪いに関する詳しい情報も、当然対処法も何も載っていない。魔理沙は肩を落とす。
「この花がどうかしたの?」
「……こいつを見つけてから、アリスがおかしいんだ。あんなのはアリスじゃない。そうだ、思えば、最初に見つけたあたりからこいつに執着しすぎていた……」
「――詳しく聞かせて」

 魔理沙の話を聞き終えると、パチュリーはしばらく何かを考え込んでいた。
 長い沈黙が続いた。
「……ブラッディ・ドールについて書かれた本は、これだけ。この本はまだ書かれてから何十年も経っていない、新しい本。おそらく、その花が生み出されたのも、そう昔のことじゃないわ」
 話しながら、自分の中で情報を組み立てているのだろう。パチュリーは魔理沙の顔を見ないで、テーブルの上に視線を置いたまま話す。
「呪われた花と書かれているけれど、今聞いたような呪いにかかった人の話というのは、聞いたことがない。植物栽培に無心になってしまうとすれば、それが麻薬の素である場合が考えられる。薬物中毒になっている場合ね」
「麻薬……!?」
「わからないわ。可能性の一つというだけ。あるいは、似たような作用を生み出してしまう魔法。そのほうが自然かしら」
「……」
「ごめんなさい。こうやって推測の情報しか与えることは出来ないわ」
「いや……ありがとう。わざわざ時間とってくれたんだ。感謝している」
 椅子に座ったままだが、ぺこりと小さく頭を下げる。
 それを見て、パチュリーは小さく微笑んだ。
「魔理沙の大切な人なのね。今回は役に立てなかったけど、また新しい情報があればいつでも聞きにきて」
「……悪い」
 もう一度、今度は深く頭を下げた。


 パチュリー・ノーレッジは、魔理沙が知るもっとも当てになる情報源だ。彼女でもアリスと同等の情報しか持ち合わせていないとなると、切り口を変えて考えたほうがいい。
 魔法に詳しい者といえば、パチュリーだ。呪いに詳しい者となれば、アリスだろう。無論、アリス本人に話を聞ける状況ではない。除外する。
 あとは花に詳しい者に何か聞けることはないか。花といえば一人すぐに思い当たるが、彼女の居場所など知らない。少し前にふらりと魔理沙の前に姿を現したかと思えばまたどこかに消えてしまった。彼女を当ても無くさがすというのは、現実的ではない。
 ならば、あまり期待は出来ないが、もっと根本的な繋がりということで――


「ブラッディ・ドール。生きる人形を生み出す、呪われた花ね」
「え……」
 あまりに予想外の言葉に、ぽかんと口を大きく開けて固まってしまう。
 あまり空気を吸い込むと毒に侵されてしまうため危険なのだが、そんなことも忘れてしまうほどの衝撃だった。
「知ってるのか!?」
「うん。それがどうかしたの?」
「私の友達が! ――アリスのことは、知ってるか? おまえにも会いにきて話をしているはずなんだ」
「うん、覚えてる。私の生まれにすごく興味があったみたいだけど」
「そいつが、ブラッディ・ドールの呪いにやられてるんだ! おまえみたいな、生きている人形を作ろうとして……」
 魔理沙の言葉に、人形、メディスン・メランコリーは眉を顰める。
「アリスはどこにいるの?」
「え……魔法の森、私の家の近くだ。そこに住んでいる」
「案内して。今から行くわ」
「……! よし、わかった!」
 魔理沙はすぐに鈴蘭畑を飛び出す。
 遠い魔法の森へ逆戻り。
 目指すはアリスの家へ。
「呪いを解く方法、知ってるのか?」
 飛びながら、期待を込めて聞く。
「……」
 魔理沙の期待の声に、返答はしばらく返ってこなかった。聞こえたのか聞こえていないのかもわからない。
 待ちきれずもう一度尋ねようとするとき、メディスンは口を開いた。
「……まずは、本人の様子を見させて」
 それは期待に沿った返事ではなかった。
 だが、少しでも手がかりになる可能性があるのならば、それにすがるしかない。
 メディスンが自力で飛べる最高の速度にあわせて飛んだ。魔理沙の全力よりはずっと遅いが、魔理沙一人で行ったところで道案内にはならない。毒の塊の人形を抱きかかえて飛ぶわけにもいかないため、これ以上は速くはできない。
 何時間も休み無く飛び続けたが、メディスンは問題なくついてきていた。このあたりは人形だから疲れ知らずなのか。ありがたいことだ。
 そして。


 アリスの家の前の花壇は、すでに血の色に染まっていた。
 ブラッディ・ドールは実験室を飛び出して、ついに屋外にまで移植されている。
「なるほど、間違いないわね」
 花を見て、メディスンは呟いた。
 魔理沙が何か言おうとすると、ちょうどそのとき、玄関の扉が開いた。
 扉の奥から、アリスが現れる。手にはブラッディ・ドールを植えた鉢を持って。
 まさに今移植作業が進んでいるところなのだろう。魔理沙とアリスは、真正面から見つめあう。アリスは魔理沙の隣にいるメディスンに、ちらっと視線を移す。
「わざわざ二人して見学かしら? それともお祝いにでも来てくれたの?」
「アリス……」
 アリスの服は汚れていて、手足は見てわかるくらいに細くなっていた。
 それなのに目だけはしっかりと輝いていて、逆に見ていて痛々しい。
「もう止めるんだ。おまえ、そんなに衰弱してるじゃないか」
「ちょっと忙しくて疲れてるだけよ。心配はご無用」
「アリス、聞いてもいいかしら」
 メディスンが、アリスに言葉を投げる。
 アリスは、無表情で反応する。
「なに?」
「それだけの花を育てるには、たくさんの魔力が必要のはずよ。あなたの余剰魔力だけじゃ全然足りないでしょう。どうしてるの?」
「魔力結晶があるじゃない。町に出てそれなりの店に行けば、ちゃんと質のいいものが売っているわ」
 メディスンは、首を傾げる。
 今度は魔理沙に向かって尋ねる。
「そんなのがあるの?」
「ああ。確かにある。しかし、安いものじゃないぜ」
「そう。それならお金はどこから出ているのかしらね、アリス」
 二人揃ってまた、アリスに視線を移す。
 そうだ。その点も気にしなければいけない場所だった。これだけの数の花に魔力結晶を与えているのだとすると、相当な買い物になる。アリスがそんなに大金持ちだという話は聞かない。
「私だって魔理沙と同じ、色んなものを持っているの。いくらでもお金を作る手段くらいあるわ」
「なっ……それじゃ、財産を削ってるだけじゃないか! そんなものはすぐに尽きるぜ」
 魔理沙も確かに、売ればかなりの値がつく道具を持っていたりするが、そんなものは集めたガラクタのうちの本当にごく一部だ。その事実は自覚している。
 価値のあるものばかり集めようとしたところで、そんなに多くは集まらない。宝探しなど、所詮は常にガラクタ集めになるということを、魔理沙はよく知っている。知った上で、趣向として割り切って楽しむのが蒐集家というものだ。その中でわずかに存在する本当の貴重品を売るなど、貧窮したときの最後の手段として考えることだ。アリスだってもちろん、蒐集で生計を立ててきたわけではない。
「尽きる前に完成させてしまえばいいこと。問題はないわ」
「そんな――」
「そこまでして花を育てて、何がしたいの?」
 メディスンの声は、あくまで平静だ。
 責めているというわけではなく、ただ純粋に質問している。
「あなたがそれを聞くの? わかるでしょう。あなたみたいな人形を作るためよ」
 アリスは、確信を持って言った。
 花畑を作れば目的が達成されると疑わない声。
「私みたい、なんて、言って欲しくないわ」
 メディスンの声が、少し暗くなる。
「どういうこと?」
「私だってよくできたほうだとは思わないけれど、今のあなたよりはまともなつもりよ、アリス」
「……言いたいことがよくわからないわ」
「ブラッディ・ドールは生きる人形を生み出す呪われた花。生きる人形、あなたのことよ、アリス。あなたはもうブラッディ・ドールを増やして育てるだけの自動人形。人じゃないわ」
 その、容赦のない言葉に。
 ずっと目だけは輝かせながらも無表情だったアリスの顔が、ぱっと朱に染まる。
「な……なんですって……!」
「もう、とっくに判断力は失われている。それが何も生み出さないかもしれないという可能性が最初から除外されている。あなたはもう破滅するだけ」
「ふざけないで! あなたに何がわかるのよ!」
「はっきりとわかるのは、その花畑からあなたが得るものは後悔と空虚だけということ。保障してあげるわ。今やめればまだ、それほどのダメージではないでしょう」
「……やめないわ。そう、あなたは、自分と同じ存在ができるのを恐れているのね。自分だけが特別な人形でいたいから止めさせようというのね」
「いいえ。本当に私の仲間が出来るなら、歓迎するわ。でも決してそんなことはない」
「帰って。もうそんな言葉は聞きたくない」
 アリスはまた、すっと無表情に戻る。
 また。昨日と同じ、何も言葉を受け入れない構えに入ってしまう。
「アリス……」
 魔理沙の呼びかけにも。
「帰って! もう、邪魔しないで! これは私の研究なの。私の夢なの!」
 それだけ叫ぶと、もう二人の存在を無視して、手に持った鉢から花壇に移植する作業を再開する。
 ブラッディ・ドールはまた一つ、花壇を紅く染める。

 メディスンは、魔理沙の隣で俯いて、ぽつり、言った。
「……ごめんなさい、魔理沙。私はやっぱり呪いを解く方法は知らなかった。交渉もできないくせに一人で喋ってしまった」
「いいや。仕方ないさ。わざわざ、ありがとうな。でも――」
 魔理沙は、メディスンの頭を何度か撫でてから、言う。
 これくらいなら触れても問題はないだろうと、あまり根拠のない判断で。
「おまえさ、生まれてからずっとあの鈴蘭畑で生きてきたんだよな」
「うん」
「なんで、ブラッディ・ドールのこと、知ってるんだ? それも、誰よりも詳しいみたいだ」
「え――」
 魔理沙の問いかけに、メディスンは目を丸くする。
 ……そして、また、沈黙してしまう。
「……なんでかな?」
「なんだ、昔見たことがあるからとか、そういう話じゃないのか」
「うーん。私、そんなに長く生きていない……いえ今も生きてはいないみたいだけど。とにかく外の世界のことはほとんど知らないの。最近まで全然知らなかったくらい」
「そうか。なんだろうな。実は、私も、どこかで見たことがあった気がするんだ」
「不思議ね」

 結局のところ事態が改善されることはなかった。
 メディスンとはここで別れた。
 まだ作業を黙々と続けているアリスをじっと眺める。唇を噛む。
 もう本当に、力ずくで従わせる――殴って拘束してしまうくらいの手段しかないのか。明らかに通常より弱っているアリスなら、本気で戦えばそれも可能だろう。だが、それができたとして、その先が読めないのが怖い。依存性の強さによっては、下手をすると死なせてしまうことになるかもしれない。
 とはいえ、放っておいてもいずれ取り返しのつかないことになる。どうするのか。まだ何か見落としがあるような気がしている。まだこの花には秘密がある。




[Precious]

「どこへ行くんだ?」
 捕まえる。
 魔理沙は朝から――朝、普段なら寝ている時間から、アリスの家の前にずっと立って見張っていた。
 アリスが大きな鞄を持って玄関から現れるのを見て、すぐにその前に立ちはだかる。
 アリスは冷たい目でそんな魔理沙を見つめ返す。
「あなたには関係ないわ」
「おまえ……それ……」
 鞄の開いた口から、中を覗くと、そこに人形が押し詰められているのが見えた。鞄の大きさを考えると、相当な数が入っているだろう。何十体と。
 ぎゅ……と、魔理沙は強く拳を握り締める。
「それも……売るのか」
「あなたには関係ないと言ったでしょ」
「自分が何やろうとしてるのかわかってるのか……! 人形がなかったら、そもそも花を育てる意味もないだろう!」
「必要になったときにまた新しく作ればいいわ。今は動かない人形なんて邪魔なだけ。そんな人形でも売ってお金になれば役に立つでしょう」
 アリスのどこまでも冷たい声に。
 堪えきれなかった。
 魔理沙は右手でアリスの服の胸元を掴み、ぐっと引っ張る。アリスのほうが一回り大きな体格だったが、今の弱っているアリスなら無理なくできた。
 引っ張ったときのあまりの軽さが痛々しくて、魔理沙は表情を歪める。だが、ここで手を抜くわけにはいかない。
 胸倉をつかまれてなお冷たい目を向けるアリスに。
「私は、アリスがその人形達をどれだけ大切にしてきたか知っている。使い捨てと言っても何度も修繕していた。すぐに汚れて破れるのにいつも服まで綺麗にしているのも見てきた。それだけの手間をかけるほど大切なものなんだろう?」
「……あなたは、一生価値観が変わらないとでも言うの?」
「なんだって……」
「かつてこの人形たちも私にとって大切なものだったのかもしれない。だけど今はもっと大切なものがある。もっと大切なもののために役立てるのは自然な発想でしょう。誰だって読まなくなった古本は売って新しい本を買うわ」
「そんなものじゃないだろう! どの人形も、長い間ずっと使ってきて、アリスと一番馴染むように成長してきているんだ。すぐにどこででも買える人形とはまったく意味が違う。例えば今見えている一番上のそいつ、私はそれに足を少し切られたのを覚えている。今ではもうアリスの手足と何も変わらないくらい、おまえに馴染んでいるんだ。……アリス自身が、それは、誰よりもわかっているはずだろ?」
 必死に語りかける。
 アリスの人形とは何度か戦った。また、一度は共同戦線を組んだことがあるからこそ、なおのことアリスと人形の馴染み具合を思い知らされ、それに驚かされている。人形達との間にある信頼関係のようなものを羨ましく思ったこともある。人形は決してただの道具ではない。それは、魔理沙がアリスに教えられたことだ。
 たとえアリスがこの先人形遣いの道を捨てることになろうとも、人形達はアリスのパートナーとしてもはやかけがえのない存在のはずだった。失ってはいけない財産だ。
「たのむ……アリス。もう一度考えてくれ。おまえが求めるものは、何よりもかけがえのない宝物を失ってまで必要なものなのか? そもそも何も手に入らないかもしれないというのに――」
「それなら」
 アリスは。
 少しだけ苦しそうな表情を見せた、ような気がした。
「あなたがあの子達の世話を手伝ってくれるの? あなたが代わりに魔力結晶を買ってくれるのなら、喜んで従うわ。そうでなければ、わざわざそんなこと言わないで。私にはもう、これしか売るものがないの。持っていけるくらいのものだとね」
「アリス……」
 もう、そこまで。
 魔理沙は悲しそうに目を細める。
 それでもやはり、アリスは最後の最後まで人形を残したのだ。やはりアリス自身も、その大切さはちゃんと理解している。魔理沙があえて言うまでもなかった。
 わかっていながら、しかし、その人形達を手放してまでも、花を育てなければいけないのだ。アリス本人も苦しんでいる。花をもっとたくさん育てたいという衝動は、人形への思いを無理やりに断ち切らせるほど強いのか。
 もう、アリス自身にもその衝動の意味がわかっていないのだろう。生きる人形ができるなどというのは自分の衝動を理由付けるための建前でしかないのだ。本人も、もしかすると、そこまで信じてはいないのかもしれない――しかし、必死で信じようとしている。心が壊れないように。最後の希望を持ち続けるために。だから、否定の言葉に耳を貸すわけにはいかない。
「……魔理沙。一つ、教えてあげる。魔法使いの血はね、とても純粋で強力な魔力結晶なの。あなたがこれ以上私の道を塞ぐなら……私は、あなたを殺してしまうかもしれない」
「な――ぐっ!?」
 アリスの右拳が、魔理沙の鳩尾を強く突いた。
 力が弱っているとはいえ、まったく予期せぬ攻撃に防御姿勢も取れず、魔理沙の体は崩れ落ちる。
 ――それでも、アリスの服を掴んだ手は離さず。
「だから、もう、私の前には現れないで」
 ごん、と後頭部に重い衝撃。
 殴られたのだと理解する前に、意識が暗転していく。
「あ……りす……ダメ、だ……ぜったい……」
「――ごめん……ありがとう」
 意識が途切れる直前に、確かにアリスのその言葉を聞いた。




[Extinction]

 初めてそれ見たとき私は確かに、その絵を綺麗だと思った。
 絵の中に咲いている花は血の色でちょっと怖いと思ったけれど、血の色の花が並んだ花畑のその絵は、すごく優しくて、温かい。
「ねえ、この絵、なにー?」
 すたすたと前を歩くおじいちゃんを呼び止めて、私は壁にかけられたその絵を指差して尋ねた。
 おじいちゃんは、怖い顔で振り返った。すごく嫌なことを聞かれた、なんて顔をしていた。
 絵を見て、おじいちゃんは言った。
「それは呪われた花だ」
「え?」
「もう世界のどこにも存在していない。私は生涯かけて責任を持って全ての種や欠片まで処分してきた。どこにも残っていない、はずだ」
「え? え? どういうこと……?」
「それは、大切な人の力になるためと愚かにも魔法に頼ってしまった人間が生み出した、魔法の負の遺産だ。いいか、魔理沙。もうこの花はどこにも存在していないはずだ。しかし、万が一どこかで見かけることがあったなら――」
 おじいちゃんは、真剣な顔で、私に言った。
「すぐに、完全に燃やし尽くせ。必ずだ」
 私はただ、おじいちゃんが怖いと思った。
 次に来たときには、その絵は壁から消えていた。
 花畑の絵。
 それは思い出の片隅に――




[Tenderness]

「絵! 絵だ! そうだ……なんで忘れていたんだ!」
 夢の終わりと同時に目を覚ます。目を覚ますと同時に叫ぶ。
 視界に映るのは闇。真っ暗だった。
 上半身だけ起き上がると、ずきんと頭が痛む。顔をしかめる。
 そうだ、アリスに殴られて気絶させられていたんだ、と思い出す。そのまま眠りに落ちて――
 ならば何故、ここはいつもの魔理沙のベッドなのか。
「……アリス」
 ぐっと布団の中で手に力を入れる。
 必ず助ける。助けてみせる。誓う。
 痛む頭を気にせず、そのまま起き上がる。
 そして、まっすぐに古い倉庫へ走った。

 祖父が死んだとき、価値のありそうなものはほとんど実家の者が回収してしまった。そして、それだけの価値がないと判断されたものが、そのまま残された。
 大きな絵だった。倉庫のガラクタをかきわけて奥に進むと、それはすぐに見つかった。
 以前のように飾られていることもなく、他のガラクタに埋もれていた。
 魔理沙は絵を引っ張り出して、両手でしっかりと額縁を持つ。
 そこに間違いなく、幼い頃に一度だけ見た、あの花畑の絵があった。
 ――優しい絵だ、と思う。もう見たくもないはずのブラッディ・ドールが、ここでは確かに慈しむべきものとして描かれている。
 間違いない。この絵を描いた者は、この血の花を確かに愛していたのだ。そうでなければ、このような温かい絵にはならない。
 しばらくそれを眺める。絵に署名はない。
 思い当たって、絵を裏返してみる。そこに長年の湿気を吸って劣化した木の表面を見て。
 そして、そこに描かれた文字を見つける。
 落ち着いた、綺麗な文字だった。
 魔理沙は、ゆっくりと、目を通していく。


 この絵は私の心です。
 私の気持ちをずっと忘れないでください。
 忘れそうになったときはどうか、
 私の名前を解放してください。
 大切な思い出とともに。

 霧雨 百合花


 名前は。
 一度だけ、やはり、聞いたことがあった。
 会ったこともない、絵も写真も見たことがない、ほとんど彼女の話を聞いたこともない。
 彼女の痕跡は、こんなところに残っていた。
「おばあちゃん……」
 綺麗なその文字を、何度も読み返す。
 果たして祖父はこれを知っていたのだろうか。気付いていたのだろうか。
 知っていたならば、この花の事をあのように悪く言ったりはしなかったのではないだろうか。真相はわからない。
 もう一度絵を裏返す。
 いい絵だ。魔理沙には美術のことはほとんどわからないが、とても優しい気持ちになれる、それだけで十分いい絵だと思った。祖父にはこの優しさが理解できなかったのだろうか。あのときに一言でも、だけど私はこの絵が好きだと言っておけばよかった。
 絵をそっと、壁沿いに置かれている木箱の上に立てておく。これなら、倉庫に入れば絵をすぐに見ることができる。いずれまた、もとのあるべき場所に戻しておこう。
 魔理沙にはまだ、先にしなければいけないことがある。
 急ごう。
 彼女を解放するために。


[Alice]

 夜が怖い。
 朝が来るのが怖い。
 何もない空っぽの部屋。ベッドはある。テーブルもある。家具はちゃんとある。それ以外が、何もない。
 このベッドルームにも、今朝までは、ちゃんと人形がいた。二人。もう、どこかに行ってしまった。遠くの町で、もう明日にも次の主人の手に渡っているかもしれない。もう二度と会うことはないだろう。アリスのことを知っている相手だと詮索されてやりにくいからと、わざわざ普段行かないような遠い町まで売りに行ったのだから。
 彼女、その人形に一言声をかけてから寝るのが日常だった。今日も声をかけた。そこに、声を受け止めてくれる彼女はいなかった。
 怖くなった。
 ずっと一緒だったのに、別れの挨拶もなく、彼女は去ってしまった。違う。自ら捨ててしまった。どうして?
 会いたい。明日からは我慢するから、今日だけでももう一度会いたい。今日だけでも。今から急げばあの店が開店する前には必ず着く。扉を叩けば起きてくれるはず。そうして、最後の挨拶だけ交わして帰ってくれば、何も問題はない。
 そんなことをしている余裕はない。そんな時間があるのなら、もっとたくさん魔力結晶の粉を作る作業を進めなければ。そうだ、忙しいのだから、寂しがっている暇などない。
 でも、寂しい。
 寂しい。
 怖い。
 朝が来るのが怖い。部屋を出るのが怖い。
 誰も出迎えてくれない自分の家が怖い。
「いや……」
 堪えていた言葉が、漏れ出してしまう。
 どんな苦しい気持ちも、言葉にしなければまだ耐えられると信じて、ずっと堪えていたけれど。
「いやだ……寂しいよ……もう、いや……怖いの、寂しいの……」
 ベッドを背もたれにしてしゃがみこんで、気持ちを吐き出す。
 涙が、ぽたり、ぽたりと絨毯の上に零れて、吸い込まれていく。
 寂しい。
 寂しい。
 怖い。
 今更、本当に身勝手だと思うけれど。
「寂しいよ……助けて……魔理沙……」
 大切なものを何もかも失った。
 だけど、最後に、本当に失ってはいけない、絶対に失ってはいけないものもある。人形がそれだと魔理沙は言った。違う。一番大切なものは、まだ失っていない。でもそれも時間の問題かもしれない。本当に怖いのはその未来。
 その大切なものも、今日の出来事で、去っていってしまったかもしれない。望んだのはアリス本人だ。仕方の無いことだ。
 ――それでも、永遠に失ってしまうよりは。

 花にとって、魔理沙の存在、魔理沙の家の存在は、宝の山だった。
 アリスが数少ない財産を削る必要などない。奪ってしまえばいい。
 すぐ近くにこんなすばらしい財宝があるのに、何故手を出さないのか。
 今までずっと、その衝動を断ち切って、ただ自分の中だけで事を治めるようにしてきた。どうしても必要なものがあって出かけなければいけないとき以外は、ずっと家の中にいるようにした。魔理沙には意図的に会わないようにしてきた。アリスに残された、本当の聖域。
 だけど本当は会いたい。勝手とは思うけれど、助けて欲しい。矛盾。
 会ってはいけない。アリスにはもう売れるものがない。家を売れば金になるだろうが、今すぐに必要な資金源にはならない。
 内側が限界ならば、もう外に向かうしかない。だから、魔理沙に会ってはいけない。
 寂しい。苦しい。怖い。
 朝が来るのが怖い。朝の自分が怖い。
 花が怖い。あれを見ると、こんな理性も吹き飛んでしまう。
 世界が怖い。




[Your....]

 掘り返す。
 少し前に一度掘った地面。暗い中、色が分からなくても、その場所はもう間違えない。
 土は既にまた固くなり始めていたが、また同じように慎重に掘る。どこに何があるかはわかっている。前回よりはずっと楽な仕事だ。
 ブラッディ・ドールを地面から引き抜いて、土をかきわけて、指輪を見つけ出す。
 継承の証。付着した土を、布切れで拭き取る。
 指輪の大きさを確かめて、一番ぴたりとあう指を探す。
 左手の中指に、継承の証をはめる。
 温かい魔力を感じる。
 きっと優しい、穏やかな魔法使いだったのだろう。会ったことのない相手だが、そう思えた。
 指輪の上にそっと手を重ねる。
 解放しよう。
 きっと、ずっと伝えたかったことがあるはずだ。
「霧雨 百合花」
 名前を呼んで――




[KIRISAME]


 ありがとう。
 きっと、私の話を聞くあなたは、私よりずっと未来を生きる人でしょう。私の名前を呼んでくれて、ありがとう。
 私は花の魔法使い。弱っていた私の力はもう、六十年に一度しか外の世界に影響を与えることはないでしょう。この話を聞いてくれるあなたは、花を見たはずです。私はそれをとても嬉しく思います。誰かが魔力を供給しない限り育たないこの花を、ちゃんと後世まで残すことが出来たことを嬉しく思います。
 私はこの花が大好きです。けれど、きっと、私の大切な人は、この花を憎んでしまうのでしょう。
 もしあなたが私の大切な人なら……もう一度この気持ちを伝える機会があったことを、とても嬉しく思います。黙ってあなたの花を生き残らせてしまってごめんなさい。きっと驚いたことでしょう。あなたのことだから、私が死んだ後、花を全て殺してしまうと考えて、先に手を打っておきました。あなたがこれを見つけたということは私の勝ちですね。嬉しいです。
 私は、この花が大好きです。




[Bloody Doll]

 私がかかった病気は、魔法使いの職業病と呼ばれていた。
 人間の体はもともと魔法を使うために設計されているわけではない。魔法を使うことは、体内にどうしても歪を生み出し、歪を蓄積させていってしまう。
 やがて歪をごまかしきれなくなった体が悲鳴をあげて、発病する。体重の急激な減少から始まり、少しずつ衰弱していく。やがて日常生活が送れなくなり、体の末梢の壊死が始まり、寝たきりになり、そのまま衰弱死する。発病した時点で近い未来の死が約束されている病気だった。
 発病する人は、そう多くはない。私は魔法を使うのに鈴蘭の花を好んで用いていたため、毒によってもともと体が弱っていたのかもしれない。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだと諦めた。
 心苦しいのは、私がこの病気を患ったと知られた途端に、我が子を夫の実家に預けさせられてしまったことだった。確かに私はもう子供をしっかりと育てることなど到底適わない体ではあったのだけれど。


 子供が預けられてからは、この家は夫と私の二人だけの家となった。
 私は、病気を患ってからは、魔法もほとんど使えなくなっていた。もともとそれほど優秀だったわけでもない。花を使うことだけが得意だった。花がたくさん咲いているところでは、存分に力を発揮することが出来た。


 夫は、まだ夫ではなかった頃、私に可愛らしい人形をプレゼントしてくれた。そのときに添えてあったのが、あの花だった。自分が作った花だ、と恥ずかしそうに笑っていた。気持ち悪い花になってしまったと彼は言っていたが、私はそれをとても綺麗だと思った。嬉しかった。とても嬉しかった。私はそれが好きだと言った。ただ、最初花と人形を一緒に渡されたとき、血まみれの人形を渡されたように見えて驚いた。そう言うと彼はしまったという顔になって、花と人形をもう一度じっと見つめて、笑った。花の名前はこのときに決まった。


 私が病気でほとんどベッドに寝ているような状態になったとき、最初に部屋に持ってきてくれた花がその花だった。嬉しかった。


 彼は自分の研究もあって忙しいのに、ずっと私の世話をしてくれていた。私は自力で歩くこともできたが、家事などは簡単なことしかできなかった。ほとんどは彼に頼りきりになっていた。
 体がまともに動かせないことと同じくらい、魔法がほとんど使えないという事実が苦しかった。優秀ではなかったとはいえ、私も幼い頃から魔法使いとして生きてきた。その力を失い、自らの拠り所を見失ってしまった。彼がいつまでも一緒にいてくれること――そして、あの日からずっと一緒に過ごしてきた一体の人形だけが、私の支えだった。


 ある日。
 彼が言った。魔法で作ったこの花で満たした場所なら、私も存分に魔法が使えるのではないかと。
 もともと私は花が咲いているほど魔法の力が強くなる。このときでも、花畑の中にいけば少しだけは魔法が使えた。
 それならば、普通の花ではなくてこの魔法の花ならもっと魔法が使えるのではないかと言い出したのだ。彼は興奮気味に、是非試してみようと自分のアイデアに歓喜していた。
 彼も私ももう、私の命が残りわずかであることを知っていた。せめて魔法を自由に使うくらいの願いは叶えさせようとしてくれたのだろう。
 とても嬉しかった。もう本当にあとわずかの命となると、私は少しでも長く彼と一緒にいられればそれでよかったけれど、彼が私のために頑張ってくれることが、とても嬉しかった。
 このときは、少しでも長く一緒にという一番の願いがやがて叶わなくなるなんて、想像もしていなかった。


 花は、そのときにはまだ種から成長して育つようにはできていなかった。彼はこの日から、花畑をこの花で埋め尽くそうと改良を重ねていった。
 最初は、彼の研究時間を全てその改良作業に充てるというだけだった。
 それが、やがて彼の日常時間、そして私と一緒にいる時間も削り始めた。
 私は、人形を撫でながらぼんやりと過ごす時間が少しずつ増えていった。
 寂しかったけれど、ついに芽が生えた、やっと作るのに必要な魔力も減らせるようになってきた、屋外に植えても大丈夫だと彼が喜んでいるのを見るのは、嬉しかった。
 少しずつ花畑は赤色に染められていった。窓の外から彼が働いている様子をよく見るようになった。
 花畑にこの花が増えるにつれて、私達の時間は少なくなっていった。
 彼の言葉も少なくなって、やつれ始めていて、心配だったけれど、もう少しだ、もう少しで花畑がいっぱいになると私に笑顔で語りかける彼を止めることはできなかった。彼が私のために頑張ってくれているのに、もっと一緒にいたいなんて私のわがままで彼を止めたくはなかった。


 ついに、数日前――私が最後の記録をしているこの数日前から、彼は私の前に姿を見せなくなった。起き上がって歩くだけでも体力を使い果たしてしまうほどになっていた私は、どうすることもできなくなっていた。
 彼の異常に気付けなかった私の責任だった。彼は花を育てるのに想像以上に魔力を使い果たしていて、さらに昼も夜も働き続けた結果、ついに狂気に侵されてしまったのだ。なんとか廊下まで歩いて、通りかかった彼に声をかけても、私の存在など見えていないように、ただ新しい花を花畑に運んでいった。
 私は、絵を描いた。彼が作ってくれた窓の外のこの素晴らしい景色を、生きている間に残しておきたかった。もともと時間潰しのために絵を描く道具は揃えていた。左手だけで絵を描くのは大変だったけれど、時間さえあればなんとでもなった。


 今日。私は部屋に彼への手紙、感謝の思いと私の幸せを伝える手紙を残して、花畑にやってきた。人形と一緒に。
 花の葉に擦れただけで手足が切れて、血が流れ出てくる。たったこれだけの傷で、血が止まらない。血小板が機能しなくなっているのだろう。
 私の血で、少しでもこの花が育つ糧になるならば、それでいい。私は嬉しい。
 血の色をした花畑。
 彼の想いの通り、私の魔力はここで復活していた。彼はちゃんと成功していた。
 この喜びを伝えたい。私はこんなに想われていてとても幸せだと。
 私は、魔法を使った。
 私の足ではもう届かない場所から、私の気持ちを彼に届けるために。
 長く付き合ってきた人形だ。今くらいの魔力があれば、できるはずだ。
 心配なのは、私の残りの命だった。私が途中で倒れてしまえば、この人形も役割を果たすことができない。場合によっては、一人で置き去りにしてしまうことになる。
 私は人形の顔を、これが別れになることを覚悟して、見つめた。
 人形は――私に、頷いてみせた。任せろ、と言わんばかりに。
 死の際が見せた幻影だったのかもしれない。だけど、私はそれを信じる。
 きっと彼に、私の鈴蘭を届けてくれると。


 記録はここまで。私は死ぬ前にこの記録を残して、わずかな魔力で花を守りきろうと思う。私の仕事は、指輪を地面に埋めて、あの子に鈴蘭を届けてもらって、そこで終わり。


 ありがとう。本当に私は、幸せでした。
 あなたにも、鈴蘭の魔法の幸せが届きますように。




[Prologue]

 何度か見た夢。今度はしっかりと思い出す。
 あのとき私の意識は、人形に乗り移っていた。
 今ならどこに向かっていたのかもわかる。
 何を目指していたのかもわかる。
「おばあちゃん……一回、会いたかった……な」
 花に向かって、頭を下げる。

 花は、呪われてなどいなかった。
 それならば、誰が呪ったのか。呪ってしまったのか。
 魔理沙は目を伏せる。

 出来ることから始めよう。
 幸せになるときが、やってきたのだから。




[Alice in blood]

 アリスは血の花畑で立ち尽くしていた。
 花畑はここまで育った。望んだとおり、こんなにも大きくなった。
 アリスが得たものは、この花畑。失ったものは、数え切れない。
 そして、もう、この花畑を維持するだけの手段すら、ない。
 もちろん、望んだ自立人形など得られなかった。そもそも、人形が残っていない。
「は……あはは……本当に……どうしよもないわ……」
 血の花畑は、とても美しい。もっと育ててもっと綺麗にしようと訴えかけてくる。
 そのための材料はまだある。あの魔法使いがいる。
 そう、訴えかけてくる。
「ああ……そうよね……どうして今まで、気付かなかったのかしら……」
 魔法使いがいるのだ。まだ、終わったわけではない。
 魔法使いの血は最高の魔力結晶だ。
 悩む必要なんてなかった。
 魔法使いならいるではないか――ここに。
 アリスは、作業袋から鋏を取り出す。
 鋏を開いて、刃を剥き出しにする。これで立派な凶器の出来上がりだ。
 刃物を見つめる。ああ、これで終わりなんだという安心感さえある。最後まで、守るべきものは守り通した。そんな自負もある。
「魔理沙……」
 今日は、来なかった。よかった。今日来ていたら本当に自分を抑え切れなかったかもしれない。
「魔理沙……ありがとう。最後まで……ありがとう」
 右手で鋏を持って、左手の手首を差し出す。
 振りかぶる。
「さよなら、魔理沙」
 振り下ろす。一気に勢いよく決めるために。
 ぐしゃり、と――

 その手は、空中で、止められた。
 右腕を、後ろからしっかりと掴まれて。
「え……」
「さっきから、魔理沙魔理沙うるさいなあ。結局――」
 手を握られたまま振り向くと、そこに。
 彼女が優しく微笑んでいた。
「私がいないと、駄目なんだろ?」
「あ……ああ……」
 涙が零れ落ちる。
 ぼろぼろと零れ落ちる。
 あっという間に、目の前の魔理沙の顔も見えなくなった。
 魔理沙の空いた手が、アリスの手から鋏を回収する。そして掴んでいた手を離す。
 アリスの髪を、魔理沙の右手がそっと撫でる。
「魔理沙……魔理沙……!」
「そんなに名前呼ばなくても、聞こえてるぜ」
「魔理沙ぁ……っ」
 魔理沙は、アリスの体を、しっかりと抱きしめた。
 そのまま、子供をあやすように頭を撫で続ける。
 アリスは魔理沙の胸の中で、今までの寂しさのぶんを全部まとめて、泣いた。

 しばらく泣いて、泣き止んで。
 アリスは魔理沙から離れて、背中を向ける。
 静かに……
「……当たり前に死ねるつもりだったのに、魔理沙の顔を見たら、いきなり怖くなっちゃった」
「ん? 私の顔が怖いって? 心外だぜ」
「魔理沙、お願い。今日はもう私は自分を殺したりはしないって誓うから、帰って。私がちゃんと普通に話ができているうちに」
 無理に感情を押し殺した声で、言う。
 背中を向けているのは、顔を見られたくないから。
「なあ、アリス」
 魔理沙の声は穏やか、というより、普段どおりだった。
「おまえさ、半年くらい前だったかな? 人形を一体失くしたって騒いでたろ」
「は……?」
 そして、その言葉は、どう考えても場違いだった。
 なぜ今そんな世間話なのか。
「……あったけど、そんなこと。あんたと戦ったあと、どうしても一体見つからなくて、回収できなかったのよね」
「あれなんだけどな」
 とん。
 いつの間に近づいていたのか、魔理沙の手が背後からアリスの肩を叩いて。
 そして、後ろからアリスの胸の前に手が伸びてきて。
 その手の上には、何やら――奇妙なものがあった。
「なんと不思議なことに、私の家で拾ったんだ。つい最近。いや、よかったな、アリス! 見つかって!」
「……」
「いやあめでたいめでたい。これでアリスの友達が一人帰ってきたぜ」
「……あんた……ねえ……」
 また。
 枯れたはずの涙が、溢れ出してきた。
 魔理沙の手の上の人形に、流れ落ちる。
「ば……かじゃないの……っ、勝手に……盗んでおいて、いまさら……そ、それに……なによこの……ぐすっ……め、めちゃくちゃな糸の跡はっ……せっかくの可愛い服が……台無しじゃない……っ」
「いや、結構ボロボロになってたから霧雨流に修繕してみた。……まあ、そんなのやったの初めてなんだ、許してやってくれ。うん」
「慣れないことしないでよ……っ、そんな、指をそこらじゅう針で刺してまで……」
「そうだな。次からは、アリスにちゃんと教えてもらうぜ」
 魔理沙は、アリスの手に人形を握らせる。
 丸一日以上ぶりに触った人形だった。この人形とは、半年ぶりの再会だ。
 アリスはそれを抱きしめて。
 また、涙が収まるまで、じっとそのままでいて。
「魔理沙……でも、私、もう……」
「よし。それじゃ、感動の再会が終わったところで、そろそろ行こうぜ」
「え……?」
 魔理沙は、アリスの前に回りこむ。
 右手と、包帯でぐるぐるに巻かれた左手で、アリスの左手をしっかりと掴んだ。
「ど、どこに?」
 魔理沙は。
 にかっと、悪戯を思いついたときのような笑顔で、言った。
「思い込みで落ち込んで自分を呪った挙句、アリスにまでこんな目にあわせた馬鹿に、説教しに」




[Lily of the valley]

「ここでいいの?」
「ああ、お疲れ様だ。ありがとな」
「いいけど……」
 メディスン・メランコリーは首を傾げる。
 いきなりアリスと一緒に現れた魔理沙に、鈴蘭を少し届けてくれと頼まれたのだ。必ずメディスンがここまで来て運んでくれ、と。
 そして、案内されるままにやってきて、指定された場所に置く。これで終わり。
「……お墓?」
「ああ。わからずやの馬鹿が眠っている墓だ」
「ふーん」
 アリスも何が何だかわからないと、後ろで首を傾げている。
 メディスンと二人で一緒に、首を傾げている。

「おじいちゃん。おばあちゃん。確かに、届けたぜ」
 墓に向かって、しゃがみこんで、魔理沙は呟いた。
 石で出来た墓を、こつんと軽く殴る。
「なあおじいちゃん。魔法は人を幸せにできないか? あんたは確かに、失敗したかもしれない。最期を一緒にいてやれなかったのは反省しないといけないな。でも、あんたの一番の失敗はそんなことじゃない」
 思い出に残る祖父の顔。祖父の声。祖父の言葉。
 いつでもそこには、後悔が満ちていた。
「おばあちゃんの愛した、あんたも好きだったはずの花を、呪われた花にしてしまったことだ。結局あんたは理解していなかったんだ。おばあちゃんの気持ちを。自分を責め続けるばかりで、おばあちゃんの気持ちから目を背けていたんだ」
 魔法には絶対出来ないことが二つある。
 死者を生き返らせること。
 人を幸せにすること。
 二つ目は、絶対に間違いだ。
 魔法は人を呪う力だと決めてしまったのは、祖父の勝手な思い込みだ。
「呪わなくてよかったんだ。おじいちゃん、もう、悲しい後悔は、終わりにしよう」
 鈴蘭の花をそっと撫でる。
 そして、花の上にそっと、継承の証を置いた。


 最後に、継承の証が紅く輝いた気がした。


 ブラッディ・ドールは呪われた花などではなかった。
 彼の悲しみと後悔が、花を呪ってしまったのだ。
 だから彼にわからせてあげなければいけなかった。
 あなたの大切な人は、最期まで幸せだったと。




[Reminiscence]

「――でも、どうして鈴蘭なんだ? 毒が怖くはないか?」
「うん。怖いよ。でも、可愛いし」
「え。それだけの理由?」
「うん。あ、そうだ、鈴蘭って何科の花か知ってる?」
「僕を試すのか? 蘭じゃないのは知ってるさ。ユリ科だろう」
「正解! ……えへへ、やっと名前呼び捨てで呼んでもらっちゃった。なんて」
「あ……今のは卑怯だな……」
「知恵の勝利だもんー。それとね、鈴蘭の花言葉。色々あるんだけど、知ってる?」
「ふ……いつか来ると思って調べてきたさ。純潔。純粋。だな」
「うん。それとね」
「それと?」
「あなたに幸せが訪れる、って意味もあるの」
「へえ。そうなのか」
「うん! だからね、私が幸せなときは、あなたに鈴蘭を送ってあげる」
「君が幸せなときなんだ」
「私はもう十分に幸せだから、あなたにもわけてあげる、って意思表示かな。というわけで、はい、どうぞ」
「え? いいの?」
「私は今幸せだから! ……この先も、あなたの周りが鈴蘭でいっぱいになっちゃうくらい、幸せになるから。これからも、よろしくね」








――FIN.





【あとがき】

 メディは捨てられた子じゃなかったんだ!!!
 そんなお話です。

 最後あっさりすぎるだろ!
 というのは言われるまでもない最大の反省点でして、自分の限界を感じたところでもあります。
 ごめんなさい。
 がんばります。

 このあともアリスはしばらく大変ですが……
 魔理沙が一緒ならきっと大丈夫でしょう♪

 マリアリ!