「…だいたいの事はしおりに書いてある通りなので読んでおいて欲しいが、簡単に注意事項だけ説明しておく。えー、修学旅行というのは」
教師の淡々とした声が静かな教室内に流れていく、放課後のホームルーム。静かとは言っても、形式的な注意事項などマジメに聞く者はほとんどいない。皆それぞれに退屈そうに俯いてぼーっとしていたり、別のページを見て計画を練っていたりと様々だ。
何かあったら責任問題になるので注意する教師のほうは結構必死に訴えかけているところもあるのだが、学生にそれが伝わるわけもなく。
(ね、ちょっと思いついたんだけど、プロジェクトY2Kってのはどうかな?作戦名)
得てして――本当に注意すべき人間にはその悲痛なメッセージが届かないものだ。
祐一は密かにため息をついた。隣から少し身を寄せて話し掛けてくる名雪に見咎められないように、こっそりと。
(合言葉も決めないとねっ。ほら、何かあった時に本人かどうか確認できるように。えーと…わたしが”セガ?”って聞いたら”せかいいちーっ!”って答えるの。どうかな)
(………)
それはツッコミ待ちなのか?そうなんだろう!?そうだと言ってくれ…っ!―――よっぽど言いたくなったが、ここは静かに話を聞けという意思表示のためなんとか堪えて黙っておく。
代わりに内心で思い切りツッコんでおく。日立の半導体産業はヤバいらしいとか。
「非常の場合の出口は西側と東側に2箇所ずつあるので、事前に場所を確認しておくこと――」
(…非常口?それ、それだよ祐一っ!!)
無視しても名雪の言葉は止まらない。
しかもちゃんと先生の話も聞いているらしい。
困った。
(ねえ祐一聞いてる?聞こえてる?もしもしーっ。あー、あー。おっひるやーすみはうーきうーきうぉっちんっ。こんにちは筑紫哲也です)
…そろそろ返事をしないとだんだん何かが間違った方向に動き出しそうな気がしてきた。
さすがにいきなり立ち上がって大声で抗議するなんて事は―――あり得ないと断言は出来ないのが名雪が名雪たる所以とも言える。
(…あのな。先生が話してるんだから黙ってろって)
話してて同罪になるのが嫌だったので黙っていたが、これだけは言っておかないといけない。
「とにかく、一般の方も同じ旅館に泊まっているので、節度ある行動を心がけるように。くれぐれも地元にこの高校の悪評を残さないよう―――」
(むー…どうせこんな注意事項なんか片っ端から破っちゃうんだから聞く必要なんて無いよっ)
(片っ端から!?)
(もう上から順に)
(何故っ)
やたらにひたすらに気合十分の名雪。
一体何に対する宣戦布告のつもりなのか不明だが。
(とにかく一緒に頑張ろうねっ)
(俺を巻き込むなっ)
「―――本当に頼むぞ、水瀬、相沢」
苦笑した教師の声が、二人の名前を呼んだ。
はっと気付けば教室全体が二人を注目していた―――いつの間にか周囲に思い切り聞こえる声で話していた二人を。
呆れたような視線とくすくす笑いと失笑と、面白そうに注目する視線と何か期待感のような視線と、もうこの二人に関しては何があっても反応すまいとばかりに無視を決め込んで日経ビジネスを読んでいる生徒と…反応は様々。
「…あ………いえ、はい。すみません―――」
「ど、どうしよう祐一!?作戦バレちゃってるよっ!?」
とどめに叫んだ名雪に、祐一は机に思い切り顔から崩れ落ちた。
単純に、呆れられていただけで。
いや正確には、諦められていた、が正しいのかも知れない。もしそれが事実なら…とても悲しい事だと思う。果たして彼女がその事を気にしているのかどうか。
…考えるまでもなく正解が明白な疑問は、空しかった。
「だから、バレたとかそーゆーんじゃなくて」
「どうやら作戦の下方修正は避けられないみたいだね。こんなに早く読まれてるなんて…」
「聞いてないし。いや、まあ、ある意味作戦とか無くても行動は予想できるとかそーゆーのはありそうだが」
唸って考え込む名雪、なんとなく納得する祐一。
また二人、昨日と同じように居間に座っている。
「点呼とか厳しくなりそうだし、屋外はキツイよね。なんとか屋内に死角はないかな」
「本当に話聞く気無いだろ、名雪。いや慣れたけど」
「…祐一、わたしの事嫌い?」
「………ほへ?…って、おい…何近づいてきて―――」
―――以下、略。
―――修学旅行、1日目。
1日目は移動時間で大半が潰れるという事もあり、何事も起きようも無く平穏無事に昼間は過ぎていった。バスの中ではトランプや花札が行われていたり、恒例のカラオケ大会があったり、またさらにお約束の可愛いバスガイドさんに対する男子生徒からの質問攻撃があったり、と、どこでもありふれた光景が繰り広げられていた。
「あやしい………何にも行動に出ないなんて」
途中のPAで一時休憩が数回行われたが、そのたびに彼女は同じ言葉を呟いた。
休憩のたびに名雪の後をこっそりとつけて監視しているアナタのほうがよっぽど怪しいわ、と隣に座る香里は言いたくもなったが、どうせ言ったところでやめるとも思えないのでやめておいた。
「ひょっとして、あたしの事に気付いてる…?」
「言っておくけど気付いたところで行動をストップするほど甘くないわよ、名雪は」
「そう言えばそうだね。うん。今いい事言ったよ、かおりん」
「…だから、かお」
「やっぱり夜を狙ってるのかな。このまま何もしないとは思えない」
「………」
香里の抗議を遮りつつやたらにきっぱりと断言する彼女に…もはや何も言う気はなかった。
関わらないのが一番いいだろう。悪いが彼女のような趣味は無い。
この件は最初から何も聞かなかったという事で。
「ところでかおりん、夜は名雪と同じ部屋だよね?」
「ぜっっったいに、嫌。あとかおりんって呼」
「そんな事言わないで、さ。あたしたち例えるなら共有結合。水に溶けて分離しちゃうような塩化ナトリウムなんて敵じゃないよ」
あくまでも、呼び方に関する抗議は無視。
「食塩をライバル視する人間関係ってさすがにどうかと思うわ」
「それはそれとして。ね、お願いっ。きっと普通に高校生活送ってたら絶対見られないような凄いモノが見られるかもしれないよ?」
興味無い。見たくもない。
香里はうんざりと、前の椅子にもたれかかるように手をつく。
「………そんなに気になるんだったら、何を計画してるか本人に聞いてみれば?結構、あっさりと答えてくれるかもしれないわよ」
「…へ?」
彼女は面食らったように目を瞬かせた。なんとなく、初めて優位に立てたようで心の中でガッツポーズする香里。
正直、適当に言った一言だったが、言ってから案外ハズレでもないかもと考える。
「まっさかー。いくらなんでも―――」
「問題はどの部屋が使えるかなんだよ。先生がどの部屋にいるのかは完璧にチェックしておかないと」
「二人で乗り込んでみたら先生が寝てた―――なんてシャレになんないもんね」
「うん。でもみんながいる部屋っていうのはキツいし」
「さすがに名雪でもそれは気にするんだ…」
「―――もうあえてツッコむ気にもなれないんだけど、あの」
真剣な表情で密談を続ける二人の言葉に、香里が割って入る。
ぴた、と二人同時に話すのを止めて、香里のほうに振り向いた。
「…どうしてあたしの席を使うのかしら?」
大きく、ため息をついた。
夜は、すぐにやってきた。
「ところでな、相沢」
「―――ん?」
消灯時間前に、最後の点呼が行われた後。
一人の男子生徒が神妙な顔で祐一に話し掛けてきた。
「…協議はしたんだ。その結果というわけだな。拒否権は無いと思って欲しい」
「?何がだ?」
不思議そうに首をかしげる祐一に――彼は突然、抱きついた。
正面から、強く。
ぎゅっと。
「………お、お、おおおおいっ!?」
祐一ぱにっく。
いきなりの事に慌てまくって暴れる祐一を彼は力づくで押さえつける。こうなると見た目どおり華奢な祐一では全く抵抗も出来ない。
気が付けばあっという間に地面に押し倒されて、それが合図だったかのように祐一の周囲に一気に群がった数人によって素早く―――
ロープで全身をぐるぐる巻きにされていた。
「…許せ。別にお前に恨みはないが、何かあっても連帯責任はごめんだという事になった」
最初に抱きついた、一番体格のいい彼が――何故か少し頬を赤らめながら――穏やかな声で祐一に告げる。
「………なるほど…そういう、事か…」
息を荒げて、祐一が苦しそうに言葉を搾り出す。
計画がバレているのかどうかは知らないが、どうであれ祐一が――祐一と名雪が何らかの行動を起こす事くらいは予想済みという事なのだろう。
「本当はあっちのほうを拘束するほうがよっぽど確実なんだが…それは出来ないからな」
「ああ…水瀬さんのほうがフリーというのが脅威だな」
「すまんな相沢、お前に非が無いのは分かっている。けど…こうする事しか俺たちには出来なかったんだ…」
悔しそうに涙ぐみながら、一人が祐一の肩にぽん…と手を置いた。
祐一もなんだか泣きそうになってしまう。
色々な意味で。
「いや…でも、感謝したほうがいいのかもな―――俺はこれで、正当な口実が出来たわけだ。この状態じゃ動きようもない、と」
祐一はしばらく何か深く考えていたが、結論としてぽつりと漏らした。
いや、別に名雪がキライというわけではないのだ。どちらかと言えばもちろん大好きというかラブラブでそりゃもーどうしようもなかったりもするのだが。というかなゆちゃん激萌え→?という感じだったりもするわけで。
ただ今回に限り、容赦してもらいたいというのが本音だった。
そうだ。感謝しなければならない―――この親友たちに。
「あ、それは困る」
「そうそう、俺たちが拘束したなんてバレたら…なあ」
「すまんな相沢、分かってくれ。俺たちは関係ないという事で、水瀬さんには何か適当に理由を」
一人が、さらに強く涙ぐみながら(違う意味の涙で)、肩に置いた手に力を込めた。
とてもいい友達を持ったなと、祐一は―――皮肉でも思う余裕は無かった。
「………はふぅ…」
眠い。
自らが立てた計画とは言え、この時間に行動するのは実際試練だった。
先程から何度も可愛いあくびを繰り返している名雪。
「ゆういち〜〜〜………」
ごん。
廊下で柱に頭をぶつけた。
「うぅ…祐一…もっと優しく………」
そのまま柱に抱きつく。
「はふ…ゆういち……」
こてん、ともう一度小さく頭を当てて。
止まる。
………………………
………………
寝る。
―――廊下に、静寂が訪れた。
「………こんな事だろうと」
思ったわ。最後まで口にする気力もない。
部屋を出た時点で既に危なっかしかった名雪の様子を見て…放っておけばいいと思うのに、ついついてきてしまった。案の定、だった。翌日の朝には柱に抱きついて眠る名雪の姿が目撃される事になるところだった…かもしれない。
歩み寄ってみてみれば、すーすーと寝息をたてながらもうすっかり熟睡していた。
こうなればもう、そうそう起きない。例え今この旅館で爆弾テロ事件が起ころうと決して目を覚ます事は無いだろう。
「なんだかんだで巻き込まれてるあたしって…友達思いかしらね?」
これをどうしようかと思案しながら、香里は深くため息をついた。
あまり彼女らの「遊び」に荷担する気にはなれないが―――
「おはよう、王子様。姫の遣いが迎えに来たよ」
寝ていたわけではなかった。
寝られるほどの神経は持ち合わせていなかった―――この状況で。
ロープでぐるぐる巻きにされた状態で。
「……なんで………お前が…?」
「お前なんて、やめてよー。今更そんな仲じゃないっしょ。わたるちゃんって呼んでね♪」
身動き取れない状態で、見上げればクラスメイトの顔。それも、よりにもよってな顔。
特技は情報伝達エラー。今の祐一と名雪に関する数々のでたらめな噂のほぼ全ての根源とさえ思われる…そんな彼女。
もっとも、噂があながち全部間違いとも限らない事を祐一は嫌でも知っているのだが。
「…ところで、あの………ロープで縛られて寝るのは、あ…相沢君の趣味、なのかな…?」
「だああっ!!断・じ・て、断じて違うから二度とそう言う事は口にするなっ!」
「あ………そ、そうだよね。こ、こういう時はえっと見なかったフリをするのが親心っていう」
目を泳がせながら…暗い中だから良く分からないが恐らくは顔を真っ赤にして色々想像しながら言っているのだろう。
―――つまり、こういうキャラなのだった。
「あのな…」
「そ、それにしたってダメだよっ。もしかしたらもう縛ってないと寝られないくらいカラダにフィットしてるのかもしれないけど、こういう時くらいはちゃんと」
「お前何しに来たんだ」
「わたるちゃんって呼んでよ。迎えに来たんだってば」
周囲では同室の生徒数人が眠っている。この侵入者には気付かず、ぐっすりと。
あるいは一人くらいは目を覚ましているのかもしれないが、いずれにしろ一人で今起き上がって彼女を止めに来る様子はないようだった。
それは果たして吉なのか、凶なのか。
「そろそろ行動予定時間ってわけであたしが極秘調査した移動ルートを教えに」
「待てコラ。なんで行動予定とか知ってる?」
「決まってるしょ。名雪に教えてもらったからだよ」
「ああそうだなそれ以外考えられないよな聞いた俺がバカだったっ」
「うん。バーカ」
視線で人が殺せたら。
なんて事を神様に願わずにはいられない一瞬を経験したのは、きっと人生初めてではないような気がする。
彼女はそんな祐一の様子など気にも留めず(暗くて見えなかっただけかもしれない)、さらりと話を続ける。
「そゆわけで、名雪が待ってるからHere we go?」
「やたら流暢な英語の発音はこの際どうでもいいんだが…これが動けるように見えるかお前は?」
「お前じゃなくてわたるちゃんだよ。ていうか、自分で身動きとれないように縛るなんて…器用なんだねっ。よっぽど慣れてるとしか」
「だからっ。他の奴らに縛られたんだよっ。察しろ!」
「う。もう人に頼むのも恥じゃないくらい自然に」
「あああああ殴りてぇっ」
頭を抱えたくてもそれさえ出来ないのがもどかしい。
「誤解の余地が一点も入りようもないくらい詳細に説明するぞっ。つまり、俺が下手な行動に出ないようにって同室の奴らから縛られて動けなくされたんだ!間違っても俺が頼んだわけじゃないっ」
「なんだー。それならそうと最初に言ってよー」
「人の殺意に上限はあるのかどうか今度機会があったら議論してみたいな是非」
「それじゃ、解いてあげるね」
「なぁこのままだと俺は女は人の話を聞かないもんだという先入観が完成しかねないんだが」
彼女は暗い中、手探りでロープに手をかける―――
祐一は、何となくもう観念して、ともかくもここは任せて解放されようと…力を抜く。
「…むぅ?どうなってるんだろ………ちょっと、明かりつけていい?」
「いいわけあるかっ!」
「じゃ、ガマンしてね」
抜けそうな所を適当に手で探る。…が、ロープはもうこれでもかというくらいぐるぐるに巻かれていて、かなり厳しいと一目で分かった。
…というか。
「…コレ、すっごく痛いんじゃない?」
「痛い」
「それで泣きついてこなかったあたり、ちょっと相沢君のこと見直しちゃったよ」
適当なところに手を掛けて、なんとか引き抜こうと力を込める…が、それだけでもかなり手が痛くなる。堅い。
そのたびに祐一にも痛みが走る。
何度も―――
「早くしないと、名雪が待ってるからね…」
「…お前………」
「わたるちゃんだってば。むぅ、こっちからは無理か―――」
―――ぱっ…と。
部屋に照明が点いた。
急激な光度変化に目がついていかず、少しの間完全に視界が閉ざされる。
…数秒後、祐一が目にしたのは、自分の体にのしかかるように手をかけている彼女の姿………それと、周囲を取り囲む男子生徒たちの姿だった。
「…ありゃ」
彼女の、声。
なるほど、と思った。
「…こんだけ騒いでて周りが起きないわけ、ないか…」
「悪いが、相沢を行かせるわけにはいかん」
「そうだ。色々と困る」
「そうそう。水瀬さんはちょっと怖いけど」
口々に都合を言う。
どうでもいいが、この3人は必ずしゃべる順番が決まっているらしい。
彼女はぐるっとその様子を見渡して――さして動揺した様子もなく、むしろ堂々と――そして、きっぱりと、言い放った。
「ごめん一人じゃ出来ないみたいだから手伝ってくれる?」
『そうじゃねぇだろ』
―――4人の男の声は、芸術的なまでに完璧に一致した。
どっちにしても。
このままじゃさすがに可哀想だ痛くて眠れない人権無視だ国際問題に発展するなどの彼女の訴えにより、ロープはほどいてもられることになった。
まだ体に違和感が残っているが、すっと楽になった。
「というわけで、大人しく寝てくれ。頼む」
切実そうな一人の男子生徒の声。
実際もう、何も気にせず眠ってしまいたいのだろう。その言葉はほとんど懇願に近い。
「はぁあ、しゃーない。帰るか…」
彼女はさすがにもうどうしようもないと思ったのか、それほど残念そうな感じでもない声であっさりと言ってそのまま窓のほうに歩いて行った。
「って、おい、そっち窓…」
「こっちでいいんだよ」
すたすた、と躊躇無く窓の前まで歩いて…開ける。
その状態のまま動きを止めて―――夜の空気をゆっくりと吸う。全員の注目を集める中。
開け放たれた窓から、ひんやりとした空気がかすかに流れ込んできた。
「…東京って空気は美味しくないけど、夜景はとってもキレイだよ…ね、相沢君、来て。いい物見せてあげる」
透明感に溢れる声で――もともと声は凄くキレイな彼女だが――、彼女は祐一に呼びかける。外を向いたままなので表情は伺えない。
名指しで呼ばれた祐一は、少し疑問に思いながらも、なんとなくふらふらと彼女のほうに向かっていった。ごく自然に、そうすべきだと思った。まだ少し体が痛い。
真後ろまで近づいても彼女は振り向かない。
…隣まで、歩いた。
「ね………相沢君」
ぽつり、呟いた。
まっすぐ下を向いていた。
何も考えず祐一も、彼女の視線の先を追う。
―――下の階のベランダ…そのすぐ隣にある非常階段―――
そこで、名雪が笑顔で手を振っていた。
思わず吹き出しそうになった。
「これ以上、あたしに何も言わせないでね。分かってるしょ?」
そっと彼女が祐一の手を握る。
傍目には恋人同士の会話にしか聞こえない―――彼女はそのまま手を思い切り引っ張って、祐一と共にベランダに飛び出した。
窓の向こうからあっという驚きの声が聞こえたような気がする時には、祐一はもう動き出していた。静かにベランダの上を翔けて、すぐ隣の非常階段に手を伸ばして飛び移る。
「元気でねー」
「お前も早く戻れよっ」
「わたるちゃんって呼んでよーっ」
彼女は、その場に残った。
窓に殺到する男子生徒たちを引き止めている。祐一は少し心配ながらももう振り返らず…階段を駆け下りて、名雪のもとへと到着した。
「祐一っ♪会えて嬉しいよっ」
「マジでこういう事やってのけるから名雪なんだよな、つくづく………」
祐一は呆れたため息を漏らしながら、名雪とともに非常階段を少しづつ下っていく。
「いつの間にか協力者まで作ってるし―――っつーか、なんでよりにもよってアイツなんだ!?間違いなくいいネタにされるだけだろっ」
「わたるちゃんだけじゃないよ。わたし途中で寝ちゃってたみたいなんだけど、香里が起こしてくれたからここまで来れたんだから。二人ともわたしたちの愛を応援してくれてるんだよっ。わたしたちもそれに応えなきゃ」
名雪は何も問題はない、と言わんばかりに無邪気な笑顔を祐一に見せる。
もう何を言っても無駄だ―――
祐一は観念して、もう反論はやめた。
…やがて、一番下に着いた。
「建物のこの辺りでも死角はいくらでもあるんだけど―――せっかくだから、行く?代々木公園」
「…遠慮しとく」
「そう?ちょっと残念」
言うと名雪は、くるっと器用に祐一の首に両腕を回した。指先で祐一の後ろ髪を撫で上げる。
一瞬でも待てないというように顔を近づけ―――唇を重ねる。
そのまま、長い、長い、長い、キス。
体を離した時には、二人とも溶けるように脱力していた。とさ、と祐一の背中が壁に当たる。服が汚れるかと一瞬だけ気になったが、止めはしない。
「祐一…明日からは班行動だからあんまり一緒にいられなくなっちゃうよ…寂しいよ」
「…少しの間だ、辛抱しろ。な?」
「それじゃ―――ちゃんとガマンできるようにして?」
名雪の吐く息が祐一の首筋にかかる。熱い。
もう言葉はない。いつも通り。ここからは、ただ。
がん、と派手な金属音が周囲に響いた。
先程降りてきた非常階段のほうから―――
「………」
「………」
二人…さすがに名雪もこの大きい音には気付いて、同時に振り向いた。
「…ありゃ」
少し前と同じセリフ。
彼女が、階段の柱の影から覗きこんでいた。
「えーと………お構いなく」
そのままのポーズで、動かない。
「構うわいっ!」
「…乗りかかった船、だよ」
祐一は叫んだ。
名雪は静かに体を離した。
服の中からさっと一枚の紙を取り出して、祐一に押し付けるように手渡す。
「…え?名雪、これ」
「希望ならタイム測ってあげるよ。待ってるからね―――ちゃんと、捕まえてよっ」
困惑する祐一を後にして、そのままだっと駆け出した。驚異的な身のこなしであっさりと外との壁を乗り越えて―――
手元に残ったのは、一枚の紙。
代々木公園へのルートが詳細に書かれている、地図。
「………………………」
「…あらら」
「………なあ、お前さ、これ、マジだと思うか…?」
「わたるちゃんだって言ってるのに。名雪の事なら相沢君が一番良く知ってるしょ?」
「………………ダメじゃんっ!?」
祐一は、叫んだ。
東京に来て知ったこと。
代々木公園は、広かった。
「ねえ祐一っ、明日泊まるとこ、温泉がすぐ近くに―――」
「………なんで…お前………そんな元気…なん………」
倒れた。
おしまい。
【あとがいてみる。】
く、苦労した………(ばたっ)
とにかく小ネタを入れまくるSSということでやってみました。死ぬほど体力消耗しました。
うぅ。まあこーゆーのもアリということで。
特に言い訳もしません…楽しんで頂けたなら幸いです
ではでは〜