どこにでもあるような、普通の話。


 小学校時代、少女とその一つ下の妹は、同じ学習塾に通っていた。
 個人指導の塾だったので姉妹は教室も同じだった。というより、正確には全生徒が一度に集まっても一つの教室に収まる程度のこじんまりとした塾だったのだ。
 その塾は決して受験向けの進学塾というわけではなかったが、教材は各レベル揃っていたうえ講師がしっかりしていたので、生徒のレベルは千差万別、上位レベルの生徒もいた。
 姉妹にとってその塾が特殊だったのは、講師が自分達の母親だということだった。
 そして、姉妹と同じ小学校からはもう一人男の子がその塾に通っていた。姉のほうの同級生だった。
 姉妹の名前は姉が美坂香里、妹が美坂栞、同級生の男の子は榊原真希といった。

 美坂姉妹は二人とも大人しく、いじめの的になっていた。
 特に栞は体が弱く休みがちな事もあり、上手くクラスに溶け込めないでいた。香里はそんな栞を、自ら傷つきながらも必死に守っていた。
 もともと塾は、栞が学校の勉強に後れないようにと教えていくついでとして姉妹の母親が開業したものだった。
 しかし、実際には栞の能力はかなりのもので、後れないようにと学校より先の内容を教えていたらいつの間にか学年では断然の成績優秀者になっていた。気がつけば一つ上の学年である姉と同じ内容の勉強をするようになっていた。
 一方、香里の同級生の真希もまた大人しく優しい男の子で、そしてやはり学年トップをずっとを取るほど勉強はよくできた。
 最初に美坂姉妹を地元の有名進学校である私立中学に誘ったのは、真希だった。
 それは香里が5年生の頃。
 普通の地元の小学生は全員そのまま公立中学に進むのだが、勉強さえできれば私立に行ったほうがいじめ等が少なく快適な環境で過ごす事ができる。今よりもずっと過ごしやすくなる。
 そして栞と真希には十分な成績があった。姉妹の親も同意した。
 問題なのは香里だけだった。

 姉妹と真希は3人でよく一緒に勉強するようになった。
 時に真希の家を使う事もあれば、姉妹の家を使う事もあった。
 それまで勉強する事に興味を持てず、私立への進学にもあまり乗り気でなかった香里が本気で頑張り始めたのはそれからしばらく経ってからの事になる。
 真希の優しく丁寧な、しかし粘り強い「指導」に香里が根負けしたという形だった。
 一度心を開けば、香里は早かった。教えられる事をどんどん飲み込んでいった。
 真希の信頼は姉妹の家族にも絶大だった。とても教え上手で、優しくやる気を引き出す事ができた。
 そして、香里にとっては、同級生で唯一の心強い味方となっていった。いつの間にか勉強以外のことでもよく頼るようになっていた。
 内気だった香里も、真希の前では明るく話せるようになっていた。

 その日は学校の帰り、そのまま真希も姉妹の家に行くことになっていたので、3人一緒に歩いていた。
 栞が少し歩いたところで忘れ物に気付いて、取りに戻った。
「あたし……好き……真希くん」
 香里はこの時初めて、心を打ち明けた。
 ちょうど、そんな雰囲気だったことも手伝った。
「……うん。僕も」
 栞が戻ってきたとき、二人は不自然に俯いて一言も話さなかった。
 一番幸せなときだった。
 その日は勉強中も意識してばかりで全く身に入らなかった――お互い。

 それは、本当にどこにでも転がっているような話。
 誰のイタズラか、複数犯か、翌朝教室には黒板に大きく相合傘、左には真希の名前、右には香里の名前が書いてあった。数々の悪口を添えて。
 先に教室に入ったのは真希だった。
 ――いじめの対象と付き合うということは、自分もいじめられる側にまわるということ。
 そんな計算をしたつもりではなかったのだろうが。
「誰があんな気持ち悪いのと付き合うか。やめてくれ」
 せめて、少しだけ遅れてやってきた香里がそれを聞くことがなかったならば。
 必死に黒板を消している真希を教室のドアのところで立ちすくみながら少し眺めた後、香里は駆け出した。
 その日、初めて授業をサボった。先生に叱られた。
 真希はその後、二人だけになる機会を狙ってすぐに謝った。あれは本心じゃない、と泣きながら謝った。
 香里は、ただそれに、頷いて答えるだけだった。
 真希が香里と――この姉妹と一緒に勉強をすることは二度となかった。

 6年生になって、彼とはクラスも別になった。彼は塾もやめた。
 香里は何もかも忘れたように、ただ勉強に打ち込んでいた。
 いじめはまだ無くなることはなかったが、泣かなくなった。感じなくなった。
 辛い事は、全部忘れた。前だけを見るようにした。
 ただ、妹の栞と一緒に私立中学に行く事、それだけを目標に必死に頑張っていた。
 模試の順位もどんどん上がっていった。気がつけば県内でもトップランクにまで上り詰めていた。
 そして、反するように、いつしか、成績優秀者リストに榊原真希の名前を見る事は無くなっていた――
 学内でも彼は「あれ以降」調子を落として、どんどん成績を悪化させる一方だった。

 結局、その調子のまま、香里は合格し、そして真希は落ちて、中学校では完全に別々になった。



「まあ、そんな感じの話なんだけどね」
 香里は時折感情を込めながら、丁寧に話した。
 一枚一枚、思い出を探るように成績表を眺めていきながら。
 祐一は言葉も無く、ただその世界を感じ取るように聞き入っていた。
「――で、結局あたしは栞の状態の悪化もあって結局高校ではこっちに戻ってきたんだけど」
 それがいかに異例のケースかは祐一にも分かった。
 決してその進学校も全国的に有名というほどではなかったが、そのまま6年制で通常進む事になる高校コースのレベルは、今祐一や香里が通っている高校よりも1段上だった。
 通常の感性で考えれば、もったいない、だろう。
 おそらくは栞の入院や通院にかかる負担が直接的な原因なのだろうが、少なくとも今の香里の口調からはその事を惜しいと思う気持ちは全く感じられなかった。
 確かに、香里は今仮にまたそちらの進学校に編入したとしてもトップクラスで通じるほどの成績なのだから関係無いとも言えるかもしれないが。
 むしろ、祐一にとって重要なのはそこではない。
 何故香里が今その話をしたか、だった。
 祐一は、紙に目を落としたまま、恐る恐ると声を吐き出す。
「なあ……もしかして、今でもそいつの事……」
「違うってば。前にも言ったでしょ。好きな人なんていないって」
「……そう、だったな」
 不安そうな顔の祐一を見て、香里は笑って即答した。
「結果的に高校でまたあの子と一緒になったんだけどね。たまにすれ違う事があっても話す事は何もないわ。まあ、今更よね。お互い今更仲良くやり直そうたってそう簡単なものじゃないわよ。別に今もケンカしてるってわけじゃないしあたしも全く恨みも持ってないけど、だからってまたお友達からって感じでもないわね。お互いに適当に無視しあってるような関係かな」
 話す香里の声には、特に感慨が篭っている様子はなかった。
 それはまさに”すでに終わった事”を話している口ぶりだった。
「――まあ、相沢君のそんな顔が見られただけでも話した甲斐はあったわね」
 ふふ、と意地悪く笑む。
 つまり、香里にとってはその程度の事、なのだろう。
「恋愛は……今でも怖いか?」
 それでも祐一は吊られて笑う事も無く、真剣な目で今度は香里をしっかりと見据えて言った。
 香里が、ほんの少し、硬直した。
 ただそれも本当に僅かな間で、すぐに微笑を取り戻して、祐一の目を見つめ返す。
「……ちょっと前まで、ね。仕方ないじゃない。初恋があんな形で終わっちゃうんだから」
「……今は違うんだな?」
「ええ。だって自分の気持ちはどうしようもない事に気付いたから。……ねえ、相沢君もそうなんでしょ?」

 成績表を片付けるようにまとめながら、香里のその指が、祐一の手に微かに触れた。
 試すような香里の声と目に、今度は祐一が固まる番だった。
 驚きと、照れと、混乱。
 触れた指先から香里の熱が伝わってくる。脈動までが伝わってくるようだった――そんなはずはない。だとしたら、これは祐一の鼓動。
 祐一が動けないでいる間にも香里の手は、祐一の手を優しく包み込んでいく。大きさの違いから手全体を覆う事は出来なかったが、そこにはまるで香里の全身で抱かれているような存在感があった。
 今度は間違いない。今感じているこれは香里の脈。
 ――同じくらい、ドキドキしていた。
「好きなんだから……仕方ないじゃない」


「……あー……」
 何秒間くらい固まっていただろうか。
 1分間くらいはあったような気がしなくも無い。
「えーと……なんだ。何て言うんだ。……あ、ありがとう」
「……ふふ」
「いや、いや待て。まさかここで『この麦茶好きなんだから』とかそういうオチじゃないだろうな?」
「……何よ。もう。そんなに聞きたいなら何回だって言ってあげるわよ。あたしは、相沢祐一が好きです。友達じゃなくて……恋人にしてください」
「……」
「こら、頬とかつねらなくていいから」
 明らかにまだ混乱している祐一を目にして、香里はそっとその手を持ち上げる。両手を使って包み込む。
 自分自身も熱くて溶けてしまいそうなほど火照った顔をしっかりと祐一に向ける。
「こうしてるだけで、あたしの気持ちがちゃんと伝わればいいのに」
 意識が飛びそうになった。
「……かなり、恥ずかしい事、言ってるという自覚はあるか……?」
「分かってるわよ……いちいちそんな事言わないで、相沢君も一緒に恥ずかしくなってくれればいいのよ」
 実際のところ、香里もかなり無理をしているように見えた。
 消えてしまいそうな声を必死にしっかりと出しているようだった。
 それを見て、祐一もようやく少し落ち着きを取り戻す。
「でも……どうして?」
 今、気持ちを聞けただけでも嬉しかった。幸せだった。十分だった。
 ただ、それだけは確認しておきたかった。
 どうして、何があって気が変わったのか。
「……相沢君が言ったんじゃない。あたしの壁。綺麗に壊してくれたわ。名雪の名前を出したときにね」
 名雪、と聞いてぴくりと肩を動かす祐一。
「早い話が、嫉妬ね。取られたくないって本気で思ったわ。……そうでもなきゃ気付かないほど、あたし、自分の気持ちに壁を作ってたのね。相沢君の言う通りだった」
「そうか……」
「ええ」

 二人とも、視線を下げている。もうずっと目を合わせている事はできなかった。
 そのまま沈黙が続く。互いに次の言葉に迷っていた。
 重ねた手だけが、饒舌に気持ちを語っている――

「ね」
 心臓が30回ほど働いた後、香里が先に切り出した。
「……なんだ?」
「あたし、まだ返事、貰ってない」
 香里が顔を上げた。
「……聞かせて欲しいの。もう一回。相沢君の言葉で」
 祐一も視線を上げる。心なしか距離が近づいている香里の潤んだ瞳を覗く。
 ぎゅ、と繋がったままの手に力が入った。力を入れたのはどちらのほうなのか、もう分からない。
 祐一は口を開いた。
 ……まだそこから何の言葉も出なかった。
 一度、目を閉じて、もう一度手に力を入れなおす。
 目を開く。
 口を開く――
「好きだ、香里。付き合って欲しい」
 思ったよりもしっかりとした声が出た。むしろ、思っていたより大きすぎたほどだった。
 部屋に反響した言葉が何度も二人の耳に入るような気さえした。
「……ん」
 ……こくん。
 香里は恥ずかしそうに、嬉しそうに、幸せそうに、少しだけ頷く。
 やがて、ようやく、言葉の残響が消えていく。
 祐一は手を掴んだまま、テーブルにゆっくりと身を乗り出していった。
 もうそこに、目の前に香里の顔があった。ずっと見つめてきた愛しい人の顔があった。
 香里は一瞬驚いたように目を見開くが、すぐに、すっと目を閉じた。
 祐一も目を閉じる。もう迷いの無い距離だった。
 あとは数センチの距離を詰めるだけ――

 ……ふに。

 唇に返ってきたのは、どう考えても唇の感触ではなかった。
 なんというか、固い。
 というか広い。
「……?」
 祐一が目を開くと、視界は完全に塞がれていた。何かに顔を押されている。
 と思うと同時に、「それ」が外される。
 その向こう側に、強くぎゅーっと目を閉じたまま掌を祐一に向けている香里の姿があった。
「あ、あ、え、えっと……」
 香里が恐る恐るという感じに目を開く。
 ばっちり、目が合った。
 また目を閉じる香里。
「ご、ごめんなさい、ま、まだ、やっぱり、そこまで、心の準備が……っ」
 かつて聞いたことのないほどに動揺した香里の声を聞けてしまった。




「あ、違うの、でも、嫌なんじゃなくて、嬉しいんだけど、あのっ」
「……はは」
 あまりに慌てる香里に、祐一はただ苦笑するしかない。
 早くも香里の新しい一面を見つけた喜びも無くも無かった。
「悪い。また俺焦ったみたいだな。気にすんなって。……また、いずれな」
「……う、うん。ごめん……なさい」
「いいって。まあ、その代わり、今のは無かった事にしてくれると嬉しいが」
「う……ん」
 香里はまだ落ち着かなさそうにもじもじと視線をあちこちに漂わせている。
 と、いきなり、すっと立ち上がった。
「そ……そうそう、相沢君、おなかすいたでしょ? お昼……作ってくるわね」
 がちゃ。
 ばたん。
 言うが早いか、祐一の返事も待たずにドアを開けてすぐに向こうまで行ってしまった。
 祐一はなんとなく手を伸ばしたままの姿勢でしばらく固まる。
 ――数秒後。
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
 ソファにうずくまりながら自分の頭やら近くにあったクッションやらをぽかぽか殴る祐一がそこにいた。
 恥ずかしくて死にそうだった。


 香里のお手製の料理がテーブルに並ぶ頃には、二人も少しは落ち着いていた。
 とは言っても、明らかに動きが固いものだが。
「いただきまーす」
「はい、どうぞ」
 見た目は、普通の家庭料理だった。メニューの揃え方も特別に目立つものは無い。
 味のほうは――
「うん、美味い」
 普通に美味しかった。
「料理は家庭科以外じゃ全くやったことないなんて言うからちょっと緊張してしまったが……まあ、さすが香里ってところだろうな」
「……よかった。ありがとうね」
 と、最初にそんな言葉のやり取りがあった後は、普通に黙々と食べたりたまにちょっと話をしたり、と、どこか微妙な雰囲気で昼食の時間が過ぎていく。
 やがて半分くらいまで終わったところで、香里が空気を変えた。
 箸を手に、ぽつりと呟く。
「どうやったら……恋人らしくなるのかしら?」
「……いや、ゴハン食べてるときくらいは普通だと思うが……」
「そうなんだ」
 ――微妙な空気が、さらに微妙になっただけだった。

「というかさ、別に恋人らしくとか無理に考える事はないからな」
「え?」
 ほぼ食べ終わったあたりで、祐一が今度は切り出した。
 香里は目を瞬かせる。
「普通でいいんだ。あんまり難しく考えてると窮屈になるだけだからな。俺たちは俺たちなんだし、自然にやっていけばいいさ」
 香里は、しばらくその言葉を頭の中で再構成して考えるようにぼんやりとしていたが、やがて、にこりと微笑んだ。
「そうね」
 あるいはそれは、キス未遂事件への言い訳として。


「……そろそろ、栞が帰ってくるわ」
 あの後は祐一の昔の話、そして名雪との事などを話し合っていた。
 時間はあっという間に過ぎていった。
 香里の言葉は、終了の合図。
「見られたら大変なことになるかもな」
「しばらくおもちゃにされるわよ。覚悟しないとね」
 二人で笑いあう。
「まあ、いつかは栞にも言う事になるんだろうが、今は大人しく帰っておくか」
 祐一は立ち上がる。
 うーん、と大きく体を動かして解す。鞄を持つ。

「それじゃ、またな。休み中も……また」
 玄関でお見送り。
「ええ、いつでも連絡待ってるわよ。……正直、あたしからそっちに電話するのはちょっと気が引けるけどね」
 祐一と香里が顔を合わせて苦笑する。
 名雪が出て、その度に「相沢君に……」はさすがに気まずいものがあるだろう。
「なるべくこっちから連絡するよ。……まあ、次はすぐにまた模試があるんだが」
「そうね。また目標でも決める?」
「今度は何を賭けるんだ?」
「――ふふ。相沢君が恋人に何を求めているかが、ここで分かるのね」
「……」
 期待に満ちた表情の香里と、反応に困って沈黙する祐一。
 急に香里の視線が痛く感じるようになったような気がする祐一だった。
「まあ、それはともかく」
「あ、逃げた」
「……それはともかく」
 強引に押し通す。
 ぱん、と鞄を叩く。
「今日は、7月22日で間違いないな?」
「……ええ。そうね。それがどうしたの?」
 祐一は、ふっと笑った。
「カレンダーに赤でマルつけとく」
 今日は、大切な記念日。
 忘れられない一日になった。
「あたしはハートマークにしておこうかしら」
「……それは、恥ずかしいな」
「分かりやすいでしょ」
「まあな」
 せ、と軽い掛け声とともに祐一は鞄を肩にかける。
 ここまできてあまり長話しているわけにもいかないだろう。
「それじゃな」
「うん、おやすみ、相沢君」
 がちゃり。
 重い玄関のドアを開ける。

 ――重くなかった。
 まるで、自動ドアのように、軽く開いた。
「ただいまー……って、祐一さん……?」
 その理由は、すぐに分かった。
 あとはただ、固まって冷や汗を流すだけだった。







 ――ある意味、初日から波乱を起こすのはこのカップルにとっては宿命だったかもしれない。
 決してどこぞの誰かが呪いをかけているわけでもないだろうが――




- epilogue -



 第2回、校内実力試験の結果が発表された。
 掲示板にはやはり少しずつ人が群がっている。
「まーちゃんー! 凄いじゃん! 1位だねー。おめでとっ」
「……だから、声がでかいって」
 少し離れたところから周囲に丸聞こえの声で話す彼女に、まーちゃんと呼ばれた彼は苦笑いするばかりだった。
 1位という単語が効いたのか、周囲からちらちらと視線が集まったのを感じる。
「って、あれ、また理系のとこ見てるし。言っとくけどあたしの名前は載ってるわけないよ?」
 彼の忠告など気にした風も無く、彼女はひょっこりと彼の隣に立って、一緒に同じところを見上げた。
 並ぶと実に頭一つ分以上の身長差があるので、同じ場所を見ても首の角度は大きく違っていたりするのだが。
「わたるの名前が載ってたら試験に何のミスがあったかまず疑うよ」
「そうだねー。あり得ないね」
「……否定もしないんだ」
 彼は困ったようにはにかむばかり。
「いや、さ。同じ1位でも全然違うなって思ったわけで。ホント全く敵わないなぁ」
 そうして、もう一度理系の総合ランクを見上げた。
 1位のところには、もう、よほどのトラブルが無い限り揺るがないであろう事は誰にも明白とも言えるお馴染みの名前がそこに書かれていた。美坂香里。
 同じ1位でも、文系1位の彼は2位との差は得点でたったの2点。ミス一つ分程度だ。
 それに対して香里は圧倒的だった。2位に、実に39点もの差をつけていた。
 高得点領域での39点差など、頑張ったから埋まるようなものではない。まさしく圧倒的なトップだった。
「かおりんは特別だよー。まーちゃんはまーちゃんで凄いんだから、いーじゃん」
「まあ、もう直接ランクで争う事がないのは幸いなのか寂しいのか」
 なんとなく、遠くを見るような目で順位表を眺める。
 と、彼女はくるりと彼のほうに振り向いた。
「あ、そうだ、この前かおりんから聞いたんだよ。かおりんね、実は付属中学校だったんだって。凄いよねっ」
「……ん。知ってるよ」
「む?」
 思わぬ返事に、彼女は眉をひそめて、じっと彼の目を見つめる。
 指をびしっと突きつける。
「まーちゃん、かおりんと知り合いだっけ?」
「……ん……いや」
「どうしてそんな事知ってるのさ。実はかおりんファンクラブ? すとーかー?」
 この学校では各個人の出身中学が分かるような資料が配布されるような事は無い。香里のように同じ学校から他に誰も来ていない場合、本人が言わない限りまず分からないような事だった。
 誰かに昔言っていて、それが噂として広まっていったというのなら分かるが、そんな事実に彼女は心当たりは無かった。
「違うって……」
 放っておくといつもみたいにまたある事無い事言い出しそうな彼女を柔らかく宥めながら、もう一度自分の名前のあるほう――文系の順位表のほうに視線を移した。
 穏やかに、目を細める。
「まあ、色々あるんだよ」
 ぽん、と彼女の頭の上に手を置いた。
 彼女が不満げな顔で睨んでくるのが視界の端に見えたが、気にしない事にした。
 ともかく今くらいは、久しぶりの1位の感触に酔ってもいいだろう――そう自分に言い聞かせて、微笑んだ。


「祐一〜」
 少し、時は遡って。
 水瀬家のリビング、祐一と名雪は食後の休憩をまったりと取っていた。
 今回の実力試験に手ごたえを感じた祐一は、明日の発表が楽しみでわくわくさえしていた。こんな気持ちは初めてだった。まさか自分が、試験の結果発表を楽しみに待てるような日が来ようとは。
 そんな中で、名雪が何の脈絡もなく言い出したのだった。
「香里とはどこまで進んだの?」
「ぶ!?」
 咽る。
 お約束の通り、オーバーリアクションを見せる祐一。
 見ると、にこにこにこと名雪は笑っていた。
「もう行き着くとこまで行っちゃった後? まだまだこれから?」
「お、お前、なあ……」
 反応に困る。
 あれから名雪とは、一歩引いてまた「兄妹のような」関係を維持していた。
 もちろん何の変化もなく、とはいかなかったが、概ね良好な経過で来ている――と言える。
「キスはした? 祐一って手が早そうだからもうしてるよね?」
 余計なお世話だ、と心の中だけでツッコミつつ――確かに自分でも完全に否定は出来ないから心の中だけで、なのだが――、祐一は決まり悪そうにぽつりと呟く。
「……まだ」
「え?」
「まだで悪いか」
 開き直った。
 名雪は目をぱちくりさせる。
「……ほんと?」
「嘘をつく意味は無いな」
「そっか。そうなんだ……」
 名雪は考え込むように拳を口元に近づけて、机の上を眺める。
「……」
「……」
 名雪が考えている事が読み取れなくて、なんと反応を返せばいいのか分からない祐一。

 ――既視感。
 そんなに遠くない昔に、似たような会話を繰り広げたような。

「ね、祐一。それじゃ、わたしとキスしよ」
 ああ、と。
 祐一は気付いていた。確かに似たような会話があった。少し前、今と違う状況で。
 にっこりとさわやかに笑顔を返す。
「しない」
「えー」
「えーじゃない。お前はせっかく順風満帆な恋路に嵐を起こすつもりか」
「わたしのおかげのくせに……」
「……む」
 それを言われると弱い。
 まして、悲しそうな顔で言われると何も言えなくなる。
「――ちゃーんす」
 ちゅ。
 …………
 ………
 ……
 時間が止まった。
「あああーーーーー!! ほ、本気でやりやがったコイツ!?」
 頬にしっかりと残る、唇の柔らかい感触。
 手で押さえながら動揺して叫ぶ祐一。
「隙を見せたほうが悪いー」
「やかましっ! 本気でやるやつがあるか! 逃げるな待てっ」
 ぱしっ。
 間一髪、名雪の腕を捕らえることに成功する。
 そのまま、ぐいっと引っ張ってソファに引き戻す。
「ぁんっ」
「許さん……オシオキしちゃる」
「……ん……優しくして、ね……」
「だああっ! 甘い声を出すな!」
 ほぅ、と名雪の吐く息が祐一の腕に当たる。
 名雪が手から、体から力を抜いた。
 なぜか目を閉じる。
「おい……」
 祐一が困ったように声をかける、と。
「……祐一さん……」
 また別の場所から声がきたのだった。
「って、あ、秋子さん!?」
「……」
 ぱたん。
 秋子は何も言わずにドアを閉めた。
 宙に手を伸ばしたまま、祐一はただ時間が止まるのを感じていた。


 ――そんなこんなも、ありつつ。


 舞台は、再び試験結果発表の掲示板前。
(また2位か……まあ、この美坂香里だけは特別枠の例外と考えればある意味1位だが)
 妙に弱気な事を考える男がここに立っていた。
 さすがに39点という差をつけられてしまうと、追い抜こうという気も沸きようが無い。39点となると、2位と17位の差と同じなのだ。無茶苦茶だった。
 素直に2位で喜んでおくほうが精神衛生上もいいのだろう。
 そう思いながらも、ため息をつくのだった。
「へえ、凄いじゃない。これだけの期間でここまで順位を上げるのは立派よ。みんなだって頑張ってる時期だしね」
 ――と。
 誰かが来たようだった。少し横に移動して、見やすいように場所を空ける。
「……いや。なんか、やればやるほど香里の偉大さが分かってきた……こう、コンプレックスが少し」
「いきなりあたしに追いつこうたって、そりゃああたしだって許さないわよ。今は少しずつ上げていけばいいの。本番までまだまだあるんだから。32位、立派じゃない」
 ――どこかで聞き覚えのある二人の声だった。気のせいだろうか。
 それに。
(――「香里」……)
 会話の内容からして、今目の前にいる彼女こそが、美坂香里なのだろうか?
 もはや、成績の話をする際に「女王」と言ったら彼女の事を指すというくらい有名な、あの美坂香里なのだろうか。
 顔を上げて見てみる。
 ……なるほど、と思った。
 美人だ。
 ただ顔立ちが美しいだけでなく、気品のようなものまで感じさせる。それが知性というものだろうか。
 隣にいる男は――それに吊りあっているようにも見えなかったが。
 ちらり、と自然を装って順位表をチェックする。32位。
 ――相沢祐一。
 見覚えのある名前だった。間違いない、前回もこの掲示板で会った二人だろう。
 確か男のほうは前回50位だったはずだが。
(確かに、たいしたもんだ)
 ライバルは上にだけいるわけではない。そう実感する。
 知らず知らずに、笑みがこぼれていた。
 まだ彼との間には大きな差があったが、確かにこの成長ぶりなら最後には同じようなレベルで戦える相手になるかもしれない。それだけの可能性は秘めていた。
(負けないけどな。お前にも。――美坂香里、お前にもずっと負け続けるわけじゃないぞ)
 気がつけば、やる気がまた戻ってきていた。
 もう、二人の会話も聞くことなく、彼は歩き出していた。力強い足取りで。


「20位以内。守れてたら何をさせるつもりだったのか興味深いわね」
「……ヒミツだ」
 以前の香里の「願い」以降、特に願いの内容を決めないまま目標を立てるのが恒例になっていた。
 香里のほうはフェアのためにと極めて高い目標を立てるのだが、それでもクリアしてしまうのだった。結果、このシステムはほとんど香里のために働いていることになっている。
「で、香里。今回も目標達成おめでとう。さあ何でも言ってくれ」
「うん。相沢君の部屋に行きたい」
「……む……」
 あまりにあっさりと返事が返ってきて、少し戸惑う。
 くすくす、と香里は笑いながら続ける。
「だから、見られたくないものは早めに片付けておいたほうがいいわよ」
「……別に、そんなものは」
「ないの?」
「……片付けておきます」
 降伏した。
「はい、よろしい」
 香里は笑顔で頷く。
 指を口元に当てて、さらにもう一つ。
「で、あとは、昨日名雪と何があったか報告するように」
「……へ!?」
「今朝、名雪とちょっとお話してねー。色々聞いたわよぉ」
 ふふふ。仮面の笑顔の香里。
 手を、わきわきと動かしていた。
 ――弁解には、17分ほどの時間と平謝りたくさん、愛想笑い少々が必要だった。



「俺たちさ、大学行っても……こんな感じでいられるかな」
「あら。随分と感傷的ね。まだそんな事考える時期でもないんじゃない?」
 確かに、まずは大学に受かるかどうかを考えるべき時期だろう。
 ただ、それでも、香里が落ちるという事は考え辛い。少なくとも香里は来年からは大学に行くのだ。
「まあ高校と大学じゃそりゃ違うでしょうし。どうなろうとも今とそのまま同じってわけにはいかないでしょうね。それがいい意味なのか悪い意味なのかはまだ決められる事じゃないわ」
「それもそうだな……」
「相沢くんは、今のままでいたいの?
「――いや。できれば……いつかは、もっと」
「ふふ。でしょうね。あたしだってそうよ。恋人なんてなっちゃうとやっぱり違っちゃうわね……どんどん贅沢になっちゃう」
 でも、今は、耐える時期。
 受験生の定め。
「ま、あんまり考えすぎないほうがいいわよ。せっかく今があるんだし」
 香里は、ぎゅっと祐一の腕に抱きつく。
 とん、と全身で寄りかかる。
 すりすり、と頬を祐一の肩の上で擦るように甘える。
 祐一は黙ってその頭を軽くなでた。
 香里が気持ち良さそうに、鳴く。
「先の事はあたしも知らないわ。だから、今をいっぱい楽しみましょ」
 こつん、と、鞄同士が軽く触れ合った。




FIN....



【あとがき】

 こんにちは。
 小学校時代、自分の母がやっていた塾に通っていたり自分の家で先輩の女の子達と一緒に勉強をしていたりでお馴染みの村人。でございます(何
 そんなわけで「昔話」は相当実話入ってたりしますがいつもの事なので適当にスルーしてください。強烈なスルー。

 というわけで、長々とお付き合いくださいましてありがとうございましたm(__)m
 テキストで約95KB、僕としてはもちろん過去最長のSSでございます
 連載中から既に数人の方から「名雪が可哀想」と言われております。申し訳ありません。仕様です(逃
 そんなわけでField Of View解散記念SS(え?)、「さあ、デートしよう」でした。
 とにかくほのぼのさせようと思っていたのですが、うまく行ったでしょうか……

 またしてもしつこく香里と祐一の、ラブ前からラブまでを描いたものでした。
 忘れ物。、受験講座、Vivace、恋愛論あたりと被ってます。それでもやっちゃいました。
 どう違うのかと言われると困ってしまうくらい似ているような気もします。
 ……書きたかったんですもんっ

 オリキャラが結構出てきます。ごめんなさい。仕様です(また?
 わたるちゃん、真希くん、理系2位の人。
 とりあえず誰も興味は無いでしょうけども、名字の元ネタ。
 桃園: 三重県久居市。近鉄名古屋線久居駅の隣。
 榊原: 三重県久居市榊原町。近鉄大阪線、榊原温泉口駅。

 FOV解散ですよ! 解散! 悲しいじゃないですか(;_;)
 雨が降る日は二人青い傘でっ! 君が君が今でも切なく胸を焦がすけれど!
 突然君からの手紙! DANDANココロ惹かれてく!
 ……声高くて歌えませんでしたが(;_;)

 感想、お待ちしております♪
 それはもう激しく♪

 ではでは失礼しましたー!