1/2 「」







 意識は不明。危険な状態にある、とだけ聞いた。
 顔を見ることも叶わなかった。
「慣れてるわ……もう」
 香里が、ぽつりと漏らす。半歩後ろを歩く久瀬にもなんとか聞こえるくらいの声で。
「あの子自身は慣れるはずもないでしょうけどね」
「……そうだな」
 雪道は足取りも重い。一歩一歩、体力を奪われていくような行進。
 久瀬には何も出来ない。右手に握り締めた「神様」に祈りを込める。思いを込める。
「栞は、君とほとんど話もしていないと言っていた。ちゃんと、仲直りはできたのか?」
 太陽も低くなり始めて、これからもっと寒くなる。
 どこに向かって歩いているのかわからないまま、久瀬は香里のあとを歩き続ける。
「仲直りなんて、できるわけないわ」
 少なくとも、家に向かっているのではない。それだけはわかる。美坂の家には久瀬も一度行っている。その方向とは違う。
 いま向かっている方向にあるものといえば――
「喧嘩してたわけじゃないもの、最初から」
「どういうことだ?」
「言葉通りの意味。あたしが勝手に、無駄な抵抗してただけ」
「よくわからん」
 久瀬が不満の声を返すが、香里はそれきり黙ってしまう。結局、久瀬には何もわからない。
 その後はずっと、会話がないまま。


 着いた先は、公園だった。
 あの公園だった。香里がここに向かっているということは、途中から確信していた。
 姉妹で同じ場所に連れてくるというのは、偶然ではないだろう。
「結局、無駄だったのよ」
 水を噴き上げ続ける噴水を見ながら、香里が言った。
 久瀬は首を傾げる。唐突な言葉。
 それがずっと前の言葉と繋がっていると気付くには時間がかかった。
 香里が振り向く。
「あの子、可愛いでしょ?」
 かと思えば、また変化する会話。彼女は、唐突だ。
「そうだな」
「思い切り抱きしめたり可愛がったりしたくなるでしょ?」
「……そ、そうだな」
 よくわからないが、答えられる内容を答える。
 香里はその返事を聞いて、寂しそうに微笑んだ。
「つまり、無駄だったのよ。そういうこと。あんな可愛い妹なんだもの……忘れられるはずもなかった。他人だと思うことなんてできるわけなかったのよ。だって、あたしだって、あの子のこと大好きなんだから」
 言うとまた、久瀬に背中を向ける。
 噴水が止まる。
 一瞬の静寂が、世界を支配する。
「……そんなこと、考えていたのか。それで栞をずっと無視していたのか。栞は……君と話ができないことを……」
「わかってる。あたしがバカだった。本当に……バカだった。無駄なことだって気付いたの、今朝、栞が倒れたときだったの。ここのところ毎日あんなに幸せそうに笑ってた栞が、また前みたいに、苦しんでいるのを見て、やっと。結局、意地になってて、ごめんなさいも言えなかった」
「じゃあ、目を覚ましたら最初に言ってやってくれ。気付いたのなら、遅くはないだろう」
 香里は、一歩前へ踏み出す。久瀬との距離を広げる。
 木でできた二人がけのベンチ。そっと手を触れる。
「……本人が、自分の体のことは一番よくわかってるわよね」
「ん?」
「昨日の夜ね、あたしの部屋に来たの。ありがとうって言ってた。感謝の気持ちを込めてプレゼント、なんて言って……あたしは嫌がったのに、絵を描き始めたのよ。あたしの」
「絵?」
「あの子、下手なくせに、好きなのよ。描かれたほうはたまったものじゃないっていうのに……」
 香里の声は、だんだん細くなっていく。
 久瀬からは背中しか見えない。その表情に何が浮かんでいるかを見ることはできない。
「いつまで経っても帰ろうとしないから好きにさせたわ。嬉しそうだった。絵も見せてもらった。下手だった。ありがとうってまた言ってた」
 震えている。
 ベンチの背もたれを持つ手が震えていることに、気付く。
「そうよ――別れの挨拶以外になんだっていうの、あれが」
「……」
 噴水から、また水が噴出し始める。
 きらきらと陽を反射しながら、水面を揺らしながら、波が伝わっていく。
「そうか。君がずっと持っていたそれが、その絵か」
 香里の左手にずっと抱えられていたもの。
 一冊のスケッチブック。開かないように、紐で閉じてある。
「いいえ」
 香里は、振り向かないまま、それを久瀬のほうに少し差し出した。
「これは、あなたに。栞から預かったのよ……昨日、同じときに」
「……私に?」
 戸惑っていると、さらに香里は後ろ手にそれを押しやる。
 手を伸ばして、それを受け取る。
 小さなスケッチブックには、香里の体温が残っていた。赤い表紙に、白い紐。
「内部機密だからあたしは絶対に見るな、ってしつこく釘を刺されたわ」
「そうか」
「それがね、あたしと栞の昨日の最後の会話。最後があなたの話題だなんてね。あたしが姉としてどれだけ失格だったか、わかる気がするわ」
「最後なんて言うな」
「……そうね」

 栞からの贈り物。
 倒れる前日に託された、贈り物。
 久瀬の中に嫌な単語が思い浮かんで、そんな言葉を連想させた自らの脳に嫌悪する。首を振って、嫌な考えを追い出す。栞がどんなつもりでこれを渡したのかは知らない。考えすぎだと思い込むことにする。
 白い紐が視界いっぱいに入る。
 少し手をかけながらも、この紐を解くのが怖い。何が描かれているのか。書かれているのか。見てしまったら、何かが決定的になってしまいそうで。
 怖かった。
 何が描かれているのか。
 スケッチブックを持つ手に力が入る。視界が歪む。
 栞の笑顔を思い出す。彼女が、これを通して語りかけてくるようで。昨日まで聞いていたあの可愛らしい声も、すぐにでも届いてきそうで。……全ては、錯覚。彼女はここにいない。声も聞こえない。
 聞こえたのは、小さな金属音だけ。
 久瀬は、はっと顔を上げる。


 ”迷ったときは――”


「――神様」
 久瀬はポケットに手を入れる。そこにあるものは、大切なもの。
「……?」
 香里が顔だけで振り向いて、怪訝な顔を見せる。
 久瀬の言葉に、眉を顰め。
「あなたにはとても似つかわしくない言葉を聞いたわね」
「そうだろうな。私も、信じているわけではない」
 コインを取り出す。
 栞の神様。迷ったときは。
 鈍い銀色。誰ともわからない人の彫刻。
「――それ」
 香里が、驚いた顔で目を見開く。今度は、全身でしっかりと振り向く。……少しだけ、目が赤い。
 久瀬に一歩詰め寄る。
「それ……」
 繰り返し。
「どうして、そんなの、持ってるの?」
「栞に貸してもらった。……見覚え、あるのか?」
 こく、と神妙な表情で香里が頷く。
 手を伸ばして――
「借りて、いい?」
「……ああ」
「ありがと」

 コインが、香里の手に渡る。香里はそれを、軽く上方に掲げた。
 そのまま黙って、ずっと見つめ続ける。
 久瀬から見える香里の表情は複雑で、何を思うのか読み取れないまま。

「栞は、これについて、何か言ってた?」
「神様だと、言っていた。迷ったときはずっと頼りにしてきたと」
「――」
 ぎゅ……と、香里はコインを手の中に収めると、それを握り締める。
 額の前までもってくると、目を閉じる。
 俯いて、顔の前でコインを抱きしめるように両手で抱え込む。
「……バカなのは、姉妹一緒ね」
 か細い声。
 頬を伝わる、一筋の涙。
 目を閉じる。
「どうして、こんなもの……こんなもの、なのに……」
「……」
 久瀬には、かける言葉がない。香里の涙の理由もわからない。
 ぽたり、ぽたり。溢れ出した涙が、次々に地面の雪を溶かしていく。
「う……ううぁ……」
 止まらない。

 抱きしめることもできず、ただ、コインを握る手にそっと触れた。
 香里は、ただ、泣き続けた。



 夕日が公園を照らす。街中を照らす。
「表か、裏か」
 香里がぽつり呟く。
 ぴん、と甲高い音を立てながら、コインは宙を舞う。くるくると回転しながら、短い滞空時間を激しく運動する。
 それは、すぐに香里の両手の中に収められる。
 そして香里は、コインを収めたまま右手を上にして、久瀬に問う。
「コインを1回投げたとき、それが表になる確率は?」
「……二分の一、だな」
「それじゃ、10回投げたとして、全部表になる確率は?」
「二の十乗分の一……1/1024だ」
 香里はゆっくりと、右手を離す。
 掌の上には、表――彫刻のあるほうを上に向けたコイン。
「ある条件のもとでは、それを1にできるのよ。表でも、裏でも」
「……イカサマか?」
「正解」
 左手に残ったコインを、手の中で器用に転がす。表を向けたり、裏を向けたり。
「条件は、必ず両手で受け止めることと、どちら側の手を開けるかを毎回変えることができること。とっても単純な仕掛けなのよ。このコイン、片方がほとんどまっ平らで、片方が彫刻で凸凹してるでしょ。少し慣れれば、わかるのよ。掌に今触れているのが表なのか裏なのか」
「……」
 久瀬は黙って、コインを見つめる。
 なるほど、言われてみれば単純なことだった。
「どこだったか忘れたけど、船に乗ったときに買った記念なの。それ自体は普通の記念品。価値はないわ」
 ぱち、とコインをもう一度手に収める。
「あの子、単純なのよ。あたしはこれでかなり騙したわ。あまりに気付かないものだから、ついにあたしがネタばらししてあげたの。すっごく怒ってた。……単純だから、そのあとこれで同じこと練習してたみたいだけど」
 昔を振り返り、話す。
 話し方から考えるとおそらくかなり昔の話なのだろうと想像がつく。香里は、泣きはらした真っ赤な目を伏せがちに、コインをじっと見つめる。
「そう、まだ持ってたのね。こんなの……」
「大切なものだと、言っていた」
「……」
 香里は、すっとコインを久瀬に差し出す。表を上にして。
 黙ってそれを、受け取った。
 迷いは消えていた。



 紐を解く。
 スケッチブックの封印が解かれる。ぱらり、と最初のページをめくる。
「……」
 ちょうどそのとき、噴水がまた噴き出した。
 暗くなり始めた周囲。街灯にも少しずつ明かりが点き始める。

「……はは」
 なるほど。
 久瀬は、笑う。笑いが、抑えきれない。
 なるほどこれは間違いなく、内部機密だった。決して外部に漏らしてはいけない。
「なあ、君の妹は、やっぱり変なヤツだ」
 そこに書かれていたものは、似顔絵でも人物画でもなく、久瀬あてのメッセージでもなく。
 最初のページには、大きく元気な文字で。

『大雪合戦大会開催案  生徒会臨時役員 美坂栞』

 表題の下には、何故かゆきだるまのイラスト。大小二つ、ちょこんと描かれている。
 ページをめくると、そこからが本番。色んなアイデアやルールが、可愛らしいイラストを交えて紙いっぱいに広がっていた。チーム対抗式の団体戦、全員が入り乱れたサバイバル戦、1対1の決闘方法、雪球によるスピードガンコンテスト、ストラックアウト、防護壁最速組み立て大会――
 思いつく限りに書かれたと思われる数々のアイデア。これを書く栞の楽しそうな顔が紙の向こう側に見えてくるような、自由と喜びにあふれた文字とイラスト。
 それが、何ページもずっと続いていた。
 白紙になるまでずっと、それだけだった。他には何も書かれていない。
 久瀬は読みながら一緒に楽しくなって、これをどんな気持ちで栞が書いたのかと想像して嬉しくなって、夢中になって読んでいった。昨日の二人だけの雪合戦を思い出す。
 ただ、やはり、文字だけでは伝わりにくい。限界がある。
 これは是非とも、本人にもっともっと話を聞いてみないといけないだろう。そんな決意で、読み続けた。そして、優勝商品の候補が並べられたページで、終わり。
 ぱらぱらと、白紙ページをめくっていく。あとはずっと、そのまま白紙。
 ずっと白紙――
 最後のページの、隅だけを除いて。



 微妙な距離を開けて、二人ベンチに座る。
 すっかり太陽は落ちて、暗くなり、気温もぐっと落ち込んでくる。
「帰らなくていいのか? 心配させるだろ。……状況が、状況なんだ」
「大丈夫よ。あたし、あまり優等生じゃないから。結構わがまま通してるから帰りが遅いのももう慣れてるはずよ」
「……」
 どこかで聞いたような単語に、久瀬は懐かしさを感じて空を軽く見上げる。
 今、隣に座っているのは恋人の姉なのだ。そんなことを思い出す。
 暗くなり、噴水の音だけが周囲の世界を構成している。

「病気、治ると思うか?」
 避けていた質問を。

「――医者が治らないって言ったのよ。余命まで名言して」
「医者の言うことが絶対なわけじゃない。君が見ていてどう感じた?」
 今度は、香里が沈黙する。
 辛そうな顔で、俯いて。
「今朝、倒れたのを見たとき、予感があったわ。違うって。何かわからないけど、今までとこれは意味が違う、って」
「……それは」
「あたしだって考えたくてそんなこと思ったんじゃない! だけど……もう、栞の目が覚めることは、話しかけてくれることは、二度とないって……」
 声に混じる悔しさは、本物。香里は自分の抱いたその予感を拭うことができずにいる。
 その前日の栞の挨拶がまた、その確信を深める原因になっている。少なくとも栞本人には予感があったのだ。
「それに、担当の医者はしっかりした人よ。栞のために本当に全力を尽くしてくれた……と思う。あの人がダメだっていうのなら、もう……」
「なるほど、それが君の客観的な判断というわけだ」
「……ええ。あたしだって、希望を言ってるわけじゃない。だけど、これが現実。治るなんて期待を持つとしたら――医者も医学もまだ想像もつかないような人の体に潜む強靭な回復力、なんてものを信じてみるしかないわ。ノンフィクションでもよく聞くような、奇跡の生還なんてものを」
 本当は希望を持ちたいが、持てる要素があまりにないという諦めの口調。
 当然だった。美坂香里は今まで、栞がもう生きられないという事実を前提にして自らの生き方を規定してきたのだ。今更、希望など持てるはずもない。
 そこが、いわばまだ何も知らない久瀬との最大の違いだった。楽観的になることを、すでに何度も何度も否定されてきたのだろう。
「いや」
 久瀬は、スケッチブックを膝の上に抱えながら、強い口調で返す。
 今は暗くて、これを読み返すことは難しいが、そこに書かれていた言葉はしっかりと久瀬の中に残った。
 ほんの数文字だったが、意思は確かに受け取った。
「私は奇跡などという危なっかしいものは信じない」
 きっぱりと言って、前をまっすぐに見る。
 美坂栞。愛する人。たった数日間で、生徒会に新しい風を吹かせてくれた恩人。
『生きたいんです』
 会って2日目のときに、彼女が言った言葉。
「今私が信じるものは、彼女の意思と――」
『ありがとう
 大好き
 また遊びたいです
 今度は、もっと恋人らしく』
 スケッチブックの隅に小さく書かれた言葉。
「1/2でも1/1024でも必然に1に変えてしまうような神様だけだ」


 指の間にコインを挟む。
 人差し指で、表面の感覚を確かめる。
 ベンチから立ち上がる。
 今なら、栞がこの神様を頼ってきた理由がわかる。
 奇跡じゃない。自分の意思で結果を決めてしまうマジック。
 それを、ずっと信じてきたのだ。その力を、ずっと信じてきたのだ。
 確率を支配するのは神様かもしれない。それなら、神様の意思を自分の力で動かしてしまえば何よりも確かなものになる。
「神様が言ったことだから、逆らってはいけない。そうだろ?」
 そっと手を上げる。暗い空に向かって突き上げる。
 街頭の光に、コインが白く輝く。
 ありがとう。
 大好き。
 また会いたい。
 ――きん、という甲高い音とともに、コインは高く宙に舞った。







1/2 fin.


















Not that it is miraculous, but it shuold be necessary.
This is a promised tale ―― so-called "One".







 生徒会役員候補の選挙は、定例どおり執り行われた。途中で欠員補充を行うこともなく、次世代の役員たちも大きな混乱はなく仕事を引き継ぐことができた。一時期の生徒会の状況を考えると、これは奇跡に近いと言う者もいた。生徒会の混乱のもとを作った張本人であり、混乱を収拾させて生徒会活動に劇的な革命を起こしていった当事者でもある生徒会長は言った。奇跡などではない。当然すべきことをやった必然の結果だと。
 大きすぎる政府でもいけない。小さすぎる政府でもいけない。秩序と安定というわかりやすい基本方針を保ったまま、しかし生徒会の実態はある時期から激変していた。話が通じやすくなった、わかりやすくなったという意見が多い。

 言葉どおり、久瀬は「話を聞く」ようにした。出来る限り、積極的に。変化のもとは基本的にそれだけだった。
 新生徒会役員も決まり、会長と副会長は引退。次期会長は必然的にずっと一緒だった後輩が引き継ぐことになった。
「僕が引き継いだのは仕事ではありません。気持ちと、誇りです」
 彼は久瀬を、江戸川を、最大限の尊敬を込めて送り出した。それを見ると、生徒会はこのままずっと安心だと、この学校はこれからもずっと楽しくなっていくと思える。
 仕事は終わった。十分だ。
 今なら自信を持って、振り返ることができる。生徒会長としての1年間の成果を。
 改めて1年間共に戦ってきたもう一人の仲間に、最後までパワー担当だった副会長にもありがとうとお礼を言った。
 めちゃくちゃにオーバーリアクションで驚かれたあと、やっぱり久瀬は変わったとしみじみ言われたものだった。
「あたしも結構楽しかった。何やっても責任は久瀬に降りかかるってのが最高だったな」
「これからは暴れる大義名分がなくなって寂しいか?」
「生徒会には、内部で処理しきるのが難しい問題に対して一般生徒に公式に協力を頼むことができる臨時役員制度があるんだよなぁ。って新生徒会長さんの前で5回くらい独り言を言ってきた」
「……引退後は大人しく次の世代に任せたほうがいいぞ。というかそれは一種の天下りの変形版だ」
「ま、そうだな。あいつ可愛いから久瀬みたいに全部責任押し付けるの罪悪感ありそーだし」
「……非常に釈然とせんが、まあ、大人しくしておけ」


 待っているのは受験という現実。あまり感傷に浸る余裕もない。校内模試でも、校外模試でも、最優秀の名を轟かせるのはいつも決まった一人だ。いつまでも負けてはいられない。
 迷いは、とっくに晴れていた。あとは自分のことでひたすらまっすぐに突っ走るだけだ。
「――返さないとな、約束通り」
 ポケットの中の神様を、慣れた手つきで撫でる。もはや、指先の感覚で、今触れているのが彫刻のどの部分かまでわかる。
 すっかり親しみを感じてしまって、惜しい気もする。しかしそれでもこれは美坂姉妹の魔法であり、あくまで借り物である。借り物の神様にいつまでも頼るわけにはいかない。
 約束している。このときになったら返すことを。
 想いを、次の世代に引き継いでいくために。
 廊下を歩いていく。自らが守り続けて、守られ続けた校舎の中を、今のうちに存分に楽しんでおこうと、視界に出来る限り全ての要素を収めながら歩いていく。
 視界に入る――
「……挙動不審よ、元会長さん」
「出たな」
 ばっちり、視界に入った。学年トップを走り続けるラスボスが。
 以前はただそら恐ろしい存在だと感じていた相手だったが、一度きっかけがあればわかりあうのも早かった。結局、姉妹なんだなとよくわかった日々だった。
 彼女は、それだけ言うと普通にすれ違おうとする。この素っ気無さにも、もう慣れた。
「なあ、君には、必要か?」
 隣にまで来たときに、久瀬は言う。
 例のコインを取り出して。
「……何それ。そんなもの、忘れたわ」
「ほう。私はしっかり覚えているのだがな。あの日の君の泣きが――」
「それ以上発言したらあなたの大切なものに謎の一生傷が残ると思いなさい」
 久瀬にしか聞こえない、しかし久瀬にははっきり聞こえる器用な暗い声で。
 はは……と空笑いしながら、久瀬は冷や汗をかいて交替する。
「……まあ、君には必要ないか。わかってるさ」
 香里は、じろっと睨みつけるだけでその言葉に返事を返す。
 そのまままた歩き出し、久瀬から遠ざかっていく。
「で、どうするのよ、それ」
 遠ざかりながら、久瀬の背中に降り注ぐ言葉。
「決まってるじゃないか。持ち主に返しに行く」
 迷わず久瀬は答えた。
 彼女は、そう、とだけ、どうでもよさそうな声で答えて、そのまま歩き去っていった。
 背中を見送る。
 背中にぺこりと、丁寧に一礼する。


 さて。
 生徒会は引退したが、この学校の生徒として、元生徒会長として、やはり治安の維持には積極的に協力したい。
 校内の平和と安全のために。
 もし間違って――例えば人気のない中庭などに私服姿の女の子が立っていたりしたら、注意しにいかなければいけない。元、生徒会長として。
 まさかそんな事はないだろうが、万一そんなことがあったときのためになんて注意するか言葉を考えておこう。
 最初の一言はどうするか。
 中庭に続く、大きな扉を開ける。
 ぎい……と重い音を立てながら、中庭から涼しい風が入ってくる。温かい季節になった。今は陽のあたらないここがちょうどいい環境だろう。間違っても、雪など残っていない。
 空気をいっぱいに吸い込む。
「表か裏か」
 コインを取り出して、弾く。回転して落ちてくるそれを、ぱしっと軽く受け取る。
 ゆっくりと手を下ろして、掌で感触を確かめる。
「どっちだ?」















【あとがき】

「水兵リーベ……えーと……えーと! なんでしたっけ! 水兵リーベ……俺の塩?」
「全然違うっ。……いや、なんとなく微妙に似てる気がするが、どういう覚え方だそれは」
「あ、久瀬さん、18族の凄い覚え方教えてあげましょうか? 変なねーちゃ」
「言うな! ……知ってるから」
「えー。残念です。せっかくお姉ちゃんに教えてもらったのに」
「何を教えてるんだ、あいつは」
「お勉強です! いろんな意味で」
「なんか深いぞ、それ。いや色々と想像してしまうからやめてくれ」
「今度久瀬さんも誘って3人でお勉強会しようって言ったらお姉ちゃんも張り切ってました。あ、洗濯が大変だから時間帯には注意って言ってました」
「何か洗濯しないといけないようなものがいっぱい出るような勉強会!?」
「神様も、いいねーそれ、すごくイイ〜、って言ってました」
「やな口調の神様だな……」


 村人。でございます。
 お久しぶりです。SSでした。
 その、なんといいますか、大変苦労しました。ネタ自体はできていたのですが、やはり書く中身があまりに不慣れなため思った以上に全然進みませんでした。はふり。

 久瀬です。今回の主人公は、久瀬くんです。
 ゲーム中では生徒会長だとは一言も書かれていないのですが、あの演説あたりを見る限りまず会長とみて間違いないと思います。というわけで会長さんにしちゃいました。
 僕の中の久瀬のイメージはまさにSSどおりといった感じで、ほとんどはもうSS中に書き尽くしました。
 なお、一人称は「私」「僕」のどちらにするか迷いましたが、極めて主観的判断で「私」を選びました。おそらく世のほとんどの久瀬が「僕」だとは思いますが(ラジオドラマでもそうですね)
 ラジオドラマの久瀬は素晴らしいですね。惚れますね。もぉ大好きです。久瀬と美汐のためのラジオドラマ。
 あのテンションは僕には無理です。凄いです脚本さんも声優さんも。大好き。

 栞に関しても、メインヒロインとして書くのは非常に久しぶりです。僕にとっての栞はいつでも名脇役のスタンスなので主役級としては慣れてませんでした……が、書いてみるとやっぱりいいキャラでして♪ とにかく書いてみるとみんなどんどん好きになっていってしまいます。書けば書くほど。これがSSの楽しみかもしれません。
 皆様にも、今回の久瀬や栞を好きになっていただけたでしょうか?
 少しでも好きになっていただけたら、とっても嬉しいです^^)b