「…あら、珍しい」
教室の入り口のドアを見つめて、香里は特に感慨も無いようにぽつりと呟いた。
今日の日直日誌について香里と話していた北川は、つられるようにドアのほうを見る。そこに見えたのはお馴染みの二人。祐一と名雪が、いつものように二人一緒に登校してきたらしい。
何が珍しいかと言えば、思いつくのはただ一つ。
「おはよーっ」
「うす」
「おはようさん」
「予鈴3分前。変わった事もあるものね」
時計を見て言う香里。いつもは予鈴どころかホームルームぎりぎりに駆け込んでくる二人だ。
あえて何も言わず普通に挨拶を返した北川も心中は香里と全く同感だった。
と、名雪が北川のほうを…二人のほうを、ではなくはっきりと北川のほうを向く。
一瞬目が合う。名雪は、にっこりと微笑む。
…少し気まずくて、何か気恥ずかしくて、目をそらす北川。
「おはよう、北川くん」
「…おはよう…水瀬さん」
目を合わせない北川に、名雪は柔らかに目を細めて微笑みかける。
「ダメだよ。ちゃんと名雪って呼んでくれなきゃ」
教室の空気が瞬間、止まった。
まだ生徒が半分ほどしか来ていない教室が、名雪のこの一言にざわつく。
北川は少し焦って言葉を継ぐ。
「ご、ごめん。まだ慣れなくてな。ええと…おはよう、名雪」
名雪は満足そうに頷いて、一歩、近づいた。
「うん。今日も頑張ろうね、潤くん♪」
次に訪れたのは静寂。
誰もが耳を疑った瞬間。
祐一も、香里でさえもが思わず名雪のほうを見上げる。
「…え、ええっ!?」
「潤くんって呼んじゃ、ダメ?わたしだけこのままじゃ不公平かなって思ったんだけど…」
「あ――ああ、いや。ダメじゃない…けど」
北川はあまりの事に顔を赤くしながらも、なんとか言葉を搾り出す。
”けど”のところで、ちらりと隣の香里の表情を伺って。
ほんの少しの驚きが浮かぶ表情。
それだけ。
「それじゃ、これからもよろしくね、潤くんっ」
「…ああ」
複雑な表情で若干目を細めて北川は返事を返す。
祐一は下を向いて、そんな様子はまるで見ていなかった。




香里お姉さんの受験講座♪

第5話




「えー、それでは日直さん。学年末試験の予定を貼っておいてくれ」
ホームルームは多くの生徒にとって憂鬱な話題に終始した。学年末試験。最後まで楽に終わらせたりしないのが学校という所だ。
北川が立ち上がって掲示板にそれを貼り出すと同時、クラス中の生徒が群がって、静かにメモを取ったり意味も無く騒いだりしている。
祐一は特に興味も無さそうにそんな様子を座ったままぼーっと眺めていた。
「らしくないわね。北川君に名雪を取られたのがそんなにショックなのかしら?」
「…バカ言え。俺は香里ひとすじ30年だっての」
「へえ?」
香里もまた、掲示板の人だかりには向かわず席に大人しく座っている。
考えてみれば香里のほうから声をかける事自体極めて珍しい事だった。
「つーか、北川のやつ…まあこの際だから言うが本命は香里のほうなんだぞ?俺の愛に比べたらまあ米粒みたいなもんだが」
「知ってるわよ、そんな事くらい。言葉の後半はともかく」
香里はふん、と息を漏らす。
「いきなりああなったのはちょっと驚いたけど。何があったのかしらね」
「まあ仕方ないから、残された俺たちで上手くやろうぜ?」
祐一がすすっと机の上の香里に手を伸ばす。
ごん、と重い音を残してその手の甲に数学IIIの教科書が叩き付けられた。
角で。
痛みに声も出ない祐一が目にじわりと涙を溜める。
――と、ここまでなら、いつもと言えばいつもの事だったのだが。
「相沢君」
香里が名前を呼ぶ。祐一が顔を上げる。
目が合う。
涙で視界が揺れる中、見えた香里の表情は、暖かく―――
「迷惑だから、今後一切あたしに手出ししないで」

さらりと、言ってのけた。

時間が止まる。
数秒、止まる。
「………………わ…悪い冗談だな、はは…」
祐一が意識をふらふらにしながら、反射的に傷ついた手を伸ばす――
「その手が少しでも触ったら、適当に身近に手にはいる危険器具で手を壊すわよ」
「…き、危険器具?」
「はんだごて」
「ごめんなさい」
手を引く。
ちょっとドキドキしながらも、祐一は香里の顔を正面から見つめて、少し間を置いてから口を開く。
「で、でも、どうしていきなり…」
「別に。前からうっとおしいって思っていたんだけど。まあ今言えば一番ダメージ大きいかなって思って」
「うぅ」
祐一は、泣いた。
香里はそんな彼の様子を見て、穏やかに微笑んだ。
祐一が見る、本当に久しぶりの香里の笑顔だった。



(北川さんはお姉ちゃんの事が好き、祐一さんもお姉ちゃんの事が好き。私は―――)
恒例の小テスト、栞は時間が余ってぼーーっと肘を突いて考え事をしていた。
(私は、やっぱり、祐一さんが…)
好きなのだと思う。
時々北川にも心動く事がある自分がどうにも情けないとは思うが、やはり本命は祐一なのだ。
だが、どちらにせよ、その視線の先にあるのは、自分の姉。
才色兼備を絵に描いたような、自慢の姉。
栞はシャーペンを指先でいじる。
所詮は敵わぬ恋なのか――
「はい、鉛筆置いて」
試験終了の時間になった。
教室がざわめき、答案用紙は後ろの席から機械的に回収されてゆく。
「前回の試験だが、100点を取った者がいた。…美坂栞。頑張ったな」
おおっ、と軽い歓声があがった。
栞は特に照れ笑いを浮かべるでもなく、ただ静かにため息をついた。

「美坂栞さん、ですね?」
「はい?」
栞が教室前で見知らぬ男子生徒から声をかけられたのは、昼休みの、昼食後の空いた時間の事だった。
少し冷たそうな目をした男…だと思ったのが第一印象。
「こんな形で訪問させていただいた事をお許し下さい。一応本人の意向を確認するまでは静かに事を進めたいと思いまして」
「え?何のこと…ですか?」
「ああ、失礼しました。私は生徒会長の久瀬と申します。お話があるので放課後、生徒会室に来ていただけないでしょうか。美坂さんの――進級について」
久瀬と名乗った男は、まるで表情も変えず淡々と話す。
生徒会長だと言ったか。栞は一瞬彼が何を言ったのか理解出来なかった。
進級。その単語が頭の中で何度もリフレインする…
「…美坂さんは2年生に上がるべきなのですよ」
呆然とする栞に、久瀬はふと優しげに声をかけた。
「で、でも、出席日数が…」
「公立だったらどうしようもなかったでしょうけどね。詳しくは放課後にお話致します…来ていただけますね?」
「は…はい」
その返事に久瀬は満足そうに頷く。
すぐに背を向けて歩き出す―――
「あ――あのっ」
「はい?」
後ろから声をかけた栞に、振り向く久瀬。
「私…生徒会室の場所が……」
「…ああ、そうですね。失礼しました」
ただでさえ生徒会室の場所など一般生徒にはマイナーな場所である。まして栞が…ほとんど新入生も同然の栞がその場所を知っているとは考えづらい。
久瀬は優しく、微笑んだ。
「それでは、放課後になったらここに迎えに参ります」


「美坂さんは、進級すべきなのですよ」
放課後…生徒会室。久瀬は昼休みと同じ内容の言葉を口にした。
今の時間は彼一人しかいないらしい。初めて入るこの部屋はまるでどこかの事務室のようだと思った。
「でも…どうやって」
「美坂さんは先日の校内実力試験で非常に優秀な成績を残しました。完全に学年のトップクラスに位置する実力があります」
「………」
正面から賞賛されて、さすがに照れる栞。
久瀬はその沈黙を気にも留めず続ける。
「これほどの能力を持った生徒を、ただ出席日数が足りないというだけで留年させるのは合理的ではなく、さらには貴重な才能に1年間もの時間の浪費をさせる事になり百害あって一利無し――誠に勝手とは思いましたが、私が生徒会代表として学校側にもちかけました」
「え………」
「美坂さんも進級したいですよね?」
「あ、は…はい。もちろんですっ」
自然、声が弾む。あまりに意外な…考えもしなかった展開。
「さらに美坂さんの場合は病気による公認の長期欠席です。この提案が受け入れられるには有利な材料になりました。そして――」
久瀬はここで言葉を切る。溜めるように。
栞はぎゅっと、手を強く握り締めた。
「数回の協議の結果、もし美坂さんがそれを望むのであれば、今度の学年末試験以外にもうひとつ、特別試験を準備するという事になりました。この2つの試験の結果次第で、特別措置により進級を認める―――そう約束させる事に成功しています」
落ち着いた声。
冷たいという第一印象は消え、それはどこか頼もしさに映る。この人は、信頼できる――
「…本当、ですか?」
だから確認しなくても分かっていた。信じていいのだ。
自分は、進級のチャンスがあると。
「本当ですよ」
「あ…ありがとうございますっ!!も、もう、私、嬉しすぎて…どうやってお礼を言えばいいのか……」
「ふふ。どうやっても何も、お礼は”ありがとう”と言うものですよ?」
「え……」
少し唖然と久瀬の顔を見つめる、栞。
…その言葉が、彼なりの冗談なのだと気付いたのは、頭の中で数回もその言葉が流れた後だった。
「あ…そう、ですね。ありがとうございますっ!」
「生徒会として、当然すべき事をしたまでですよ。後は美坂さん自身がやれるかどうかです」
「はい!頑張ります!」
満面の笑顔で栞は頷いた。
久瀬も、微笑み返した。
「何か問題がありましたら、あと何か質問がありましたら、遠慮なく生徒会室か…2年7組の私の所まで尋ねて下さい。応援していますよ」
「はい…本当に、お世話になりますっ」
深々と頭を下げて礼をする。
部屋を出るまで何度も頭を下げる栞を、久瀬は穏やかに見送った。


「嘘………みたい」
でも、本当の事。
こんな奇跡的な事が起こるなんて。まだ進級できると決まったわけではないが、本来ならそんなチャンスもあり得ないのだ。
「2年…7組。久瀬さん」
生徒会室のドアに向かい、再び大きく礼をした。





target : 学年末試験
         特別救済措置・進級試験―――



続く。


【なかがき】

折り返し地点です♪
4話までとは全く違う雰囲気になってしまいましたが。
ちょくちょく張っていた栞に関する伏線(というほどのものでもない)をここで放出〜♪
さあここから後半戦でございます。頑張りますっ

香里…相変わらず目立たない………(汗)