「うーん」
よく晴れた日。窓の外には広がる青空。
部屋の中に広がる静かなエアコンの駆動音。
目の前には星型のぬいぐるみを抱えたまま別世界にダイブしている自分の彼女。
世界はかくも美しきかな。
まだ付き合い始めて日の浅いカップルが、こうして同じ部屋にいて、しかし完全に世界が分離しているというのも珍しい話だ。少なくとも、世間的には。
朋也にすればもう慣れっこな経験であり、今更それについて悩むようなことは――全くとはいえないが、そんなには、ない。彼女にとってヒトデというものはそれほど大きな存在であり、そこに朋也が割って入れる隙は無い。
ただ、悩むことはないとはいえど、この時間は暇をもてあましてしまうことばかりはどうしようもなかった。
大抵のお遊びはやりつくしてしまって、今更改めてやりたいものとも思わず。
「……」
まあ、数分間の辛抱だ。
そのうち帰ってくることはわかっている。こうなったら彼女の可愛らしい顔でもじっくり眺めて楽しんでしまおう。今ならどれだけ細かく観察しても怒られないし逃げられない。
じー。
じーー。
じーーーー。
「……飽きた」
考えてみれば、眺めるのも今更だ。こうして旅立っているとき以外でも、彼女はひとり作業に入ることが多い。その間はいつも横から眺めたり適当に話しかけたりするのが常だった。
数分間だから、大人しくしていればいいのだが。
「おい、風子」
無意味だと知りつつ、声をかけてみる。
風子。彼女の名前。誰かが言っていた気がするが、実にイメージどおりの名前だと思う。名前ができて、それにあわせてこのキャラクターが形成されたのかもしれない、なんて思う。
「男の部屋にふたりきりでいるときにそいつは無防備すぎるぜ……何するかわからないぞ、男は……へっへっへ」
がおー、ととりあえずイメージの中にある狼の真似をしつつ。
――当然、何のリアクションも帰ってこないまま、数秒。沈黙の部屋。
……こほん。
顔を赤くしながら、朋也がとりあえず咳払い。
「……その、なんだ……アレだぞ。早く戻ってこないとな……」
何故か、一度周囲をきょろきょろと見渡してから。
顔を近づけて、耳元に。
「……キス、するぞ」
当然のようにやはり何の反応もなく、朋也は自分の行動の恥ずかしさにしばらく悶えることになり。
「はぁ、はぁ……っ」
転げまわっていた床から、なんとか立ちあがる。
「き……危険だ。この技は完全に自爆技だ……しかも犬死にタイプの……!」
わきわきと手を動かしながら、なんとか気持ちを落ち着かせる。
深呼吸を、一度、二度。
ちらりと風子の顔を伺う。相変わらず素敵スマイルのまま旅立っていた。……長い。
はあ……
深くため息。
「良かったな、おまえ、今、何もしないままひとつの戦いに勝利したんだぞ」
ぽん、と肩を叩いてみる。
敗北宣言。
「――ちなみに今度起きなかったら本当にするからな」
「はぁ。何をですか」
「聞いてなかったのか。もちろんキス――」
――
反射的に答えた直後。
朋也は思い切りずささささと後ずさって、とりあえず首を思い切り横に振りまくるのだった。
「……もちろん、なんでもないぞ?」
「キスですか。岡崎さん、風子とキスしたいんですか」
「うわ名前つきで繰り返すんじゃないすげえ羞恥プレイっ……」
頭を抱えて心からの叫び。
何をやろうとも時間は戻らない宿命。
冷静というかいつも通りの調子の風子の様子が、また辛い。せめて慌てて恥ずかしがってくれればお互い様なのに――無論、本当に風子がそんな反応をしたならばまず目の前の彼女が本物かどうか確かめてしまうだろうが。
結局のところ、彼女はそれ以上何か追及するでもなく、純粋に朋也の返事を待っているようだった。
困ったことに。
Q:キスしたいんですか?
純粋にこの質問だけが与えられた場合を想定する。
A:したいです。
こうなる。
――
とりあえず正直者な脳内の直球発想はさておくとして。
必ずしも今すぐしたくてそんなことを言ったわけではなく、とはいえまったく意識がなかったというわけでもなく、だからといって何も流れを理解していない風子に何の説明も無くこの心情をわかってもらえるという期待は薄く。
うまい言葉は見つからず。
「いや……なんとなく、流れ的にそうなっただけで、必ずしもそういう意味ではなく」
「意味がわかりません」
当然。
「そこをなんとか」
「交渉としては最低の言葉の一つだと風子は思ってます。岡崎さんは営業には向いてません」
「半額にするから」
「ちゃんと利益を考えてから発言しないと大問題になります。適正価格をしっかり決めてからにしてください」
「ええい、もってけ泥棒!」
「人を泥棒扱いですか。名誉毀損です。あと論点をごまかさないでください。今はキスの話です」
「う……く……今日の風子は強敵だ……!」
逃亡失敗。
……さて困った。
「――仮に。いいか、仮にだぞ」
あまり深く考えないで、とりあえず切り出してみる。
「はい」
「仮に、したいと言ったら、どうするんだ?」
逃げ道その2。
「その話の持っていきかたは、ずるいです。風子はフェアに生きたいので却下です。ちゃんと答えてください」
玉砕。
「く……」
手厳しい。
どうやら一筋縄ではいかないようだ。
風子攻略への道はまだまだ遠い。風子マスターの称号はどうやら彼女の隙を突いたときのみ有効らしい。
「あー」
発声練習。
さて、こうなれば開き直るしかない。最後の手段だ。あまりスマートではないが、この際仕方が無い。
こほん。
「ああ、したいさ! 思い切りやっちゃいたいさ! 何が悪いってんだあぁん?」
「いきなりキレられても困ります」
はい、撃退。
……とりあえず、振り上げた拳を下ろして。
あとは野となれ山となれ。
力を使い果たして燃え尽きている朋也の前に、風子はびしっと指を突きつけた。
「岡崎さんは天邪鬼すぎます。素直にならないと誤解を招いて喧嘩になっちゃうかも、乙女座の人は要注意って言われたの忘れましたか」
「いや俺乙女座じゃないし」
「反論は却下します」
「すげえ不条理な」
「でも、ちゃんと答えてくれたので、義理堅い風子はちゃんと岡崎さんの質問にも答えます。……風子は、嬉しいです。岡崎さんがしたいのなら、風子もしたいです」
ここで風子は、柔らかく微笑んでみたり。
不意打ちだった。
さて。
朋也としては、予想外の反応に、次の行動に迷ってしまう。
迷ってしまうというよりは、正しくは、やや混乱状態だった。
「風子、おまえ……」
混乱状態のまま。
「か……可愛いじゃないか」
何のひねりもなく、本音を言ってしまうほどに。
自分で言って恥ずかしくなってしまうようでは世話が無い。
「ありがとうございます。素直に言っていただけると嬉しいです。岡崎さんも前よりかっこいいです」
「……おまえ、落ち着いてるのな」
「当然です。風子は大人ですから、ちゃんと自己申告して大人料金払います」
「自己申告する必要がある時点でアレだな」
「照れ隠しで勝手にキレてしまう人よりずっと大人だと思います」
「ぐはっ」
完全に先ほどまでの心情がバレているうえに、直球攻撃。鋭い剣先がぐさりと胸を刺す。
まさしくその通り、という正論で風子に論破されるというこの驚異。
今日はどうやら完全にアドバンテージを取られてしまったらしい。
とはいえ、朋也にも譲れない一線がある。
風子に子供だと言われてしまうのは、決して認めるわけにはいかない。ここはひとつ、会話の流れを適当に誘導して、ほらみろおまえのほうが子供じゃんへっへー、と言ってみようではないか――!
「た、例えばだ。おまえは、そのぬいぐるみと俺と、どっちが好きだ?」
「どっちもです」
「それは反則だ」
「どっちが上かと聞かれた覚えはありません。風子は正直に答えました」
「く……おまえ、とっさの機転は強いな……マジで……」
このガードの固さはどういうことか。
恋人になれど、いまだ難攻不落の砦。
わなわなとやり場の無い敗北感を追いやるように手を震わせて――
「……これも、岡崎さんがプレゼントしてくれたものですから、同じくらい大好きです」
「ぶ」
朋也が吹き出すと同時に、ぱき、と、指が綺麗な音を鳴らした。
悲鳴をあげそうになった。
なるほど。
ここまで素直にこられると、実に気持ちのいいものだ。
思えばこの真っ直ぐさに惹かれはじめたのかもしれない。一緒に行動しているうちに情が移ったという要素もないでもないだろうが、こうして平和な状況を取り戻してみても、やはり朋也は風子のことが。
しっかりと、好きだったのだ。
ぽん、と風子の頭に手を置く。
優しく、撫でてみる。
「んん……」
くすぐったそうに目を閉じる風子。こういう反応を見る限りでは、本当に子供っぽいと思うのに。
不思議なものだ。
「なあ」
「……?」
その呼びかけに、風子は片目を開けて反応する。
朋也は頭を撫でる手を止める。
「するか、キス」
「……しますか」
「ん……」
お互いが少しずつ顔を寄せ合い、同時に目を閉じる。唇が触れ合う。
柔らかい温かさ。少し濡れた、熱の交換。
朋也はそのまま風子の頭の後ろに手をまわし、さらに密着させるように軽く押す。
風子はそれに対して、朋也の腕を抱き寄せて体を近づける。
久しぶりのキスは、今までよりずっとずっと長いものになった。
「うーん」
今日はしっとりと小雨。
目の前には星型のぬいぐるみを抱えたまま異次元にダイブしている自分の彼女。
世界はかくも美しきかな。
「なあ」
きらきらと目を輝かせながら飛んでいる彼女に向かって。
さて、どうしてくれようか。
「早く起きないと……えーと。アレだ。……キスよりもっと凄いこと、するぞ」
「凄いことですか。具体的に気になります」
「そりゃあもちろん――」
…………
……
「――おまえ、そういや、素直なのが好きだって言ってたよな? 言ってたな確かに、うん」
さて、逃げ道を最初に確保して。
黙ってじっと見つめる風子から少し視線を逸らしながら。
マスターとして次に極めるべきは、風子が正気に戻るタイミングをしっかり見定めるスキルだと悟っていた。
「じゃあ――」