物語は、いよいよクライマックスを迎える。
卒業を控え、まもなくそれぞれ別の道を歩みだす一組の少年少女は、ここに至って自分の本当の気持ちに気づいてしまう。6年間もいい友達であることができたのに、もう、今までのような落ち着いた目で相手を見ることが出来ないことに戸惑いを覚える。
気持ちがすれ違ったり、ケンカしたり、また少しずつ歩み寄ったり。二人は過去6年間の中でももっとも密度の濃いイベントを体験していく。
――そして、これは、最後のワンシーン。
「ね、しんちゃん。あたしたちの出会い、覚えてる?」
彼女は空を見上げたまま、隣の少年に尋ねる。
少年はちら、と彼女のほうを向いたあと、同じように夜空に顔を向ける。
「覚えてるさ。……もう、6年前か。あのときもこの夏祭りだったな。ゆっこが俺の顔めがけてかき氷をなげつけてきたんだよな。あの瞬間は熱いやら冷たいやらとにかく混乱したぞ」
「うー。ごめんってばー。ちゃんと謝ったもん」
「そうだな。おかげで今があるわけだ、感謝してもいいくらいだ」
「……ぅ。な、なんかしんちゃん、恥ずかしいこと言ってるよぅ」
「そーか? そりゃあ役得だろう。昔はあんな発育不良少女だったゆっこが今はもう立派なレディ、ってか」
「れ……れでぃ、かなぁ……」
はは。
少年が笑うと同時、ひゅるる……と花火が上がる音がする。
ぽん……ぽん……ぱらぱら……
少し経って、弾ける音。
「花火、綺麗だな」
「うん……」
ひゅるる。
ぱあん……
「でもな」
「うん?」
「花火よりも、このいっぱいの星空よりも、今のゆっこは綺麗だ」
「え……えええっ? ど、どうしたの、しんちゃん? 悪いものでも食べたの?」
「ばか。本音だよ」
「は……はう」
ぎゅ。
少女は、下を向いて、ぎゅっと浴衣の裾を握り締める。
ぱちぱち。ぎゅ。まばたきしてみたり、目を閉じてみたり。
「う……うう。どうしよ、嬉しいのに、上手く言葉が出てこなくて……その……」
「いいって、ムリすんな。ゆっこのことは俺がよく分かっている」
「う、うん……あっ……」
ぎゅ……
少女にそっと重ねられる、少年の手。
少女は、びくっと一瞬見を固くするが、それを跳ね除けたりはしない――今度は。
「俺、帰ってくる。この街に戻ってくる」
「……ずっと憧れていた東京、なんでしょ?」
「東京にはゆっこはいない」
少年は、視線を空から下ろす。
少女の目を、しっかりと見つめる。
「好きだ――優子」
ぴくっ。
少女の体が、震える。ぎゅっと目を閉じて、顔はもう前面を真っ赤にして、もう一度ぶるっと震わせる。
「あ、あたし、だって……もっと……だいすき……だよ」
(これ、なに?)
(約束の印だ。俺の一番大切なものが入ってる。これを預かっていてほしいんだ――俺が、戻ってくるまで)
(大切なもの……)
(中は見るなよ、絶対)
(えー……うん)
(ちゃんと綺麗なままで、返してくれよ?)
(うん!)
笑顔で見送る少女。少年は、もう振り向かない。
振り向かなくても、彼女が見守っていてくれることは感じられるから――
しん……
静寂。
場を――部室内を包み込む静寂の中、美坂香里は、ふうぅ……と長いため息をついた。
ごくり。
誰かの喉が鳴る音まで聞こえる。
祐一と名雪の視線を存分に浴びながら、彼女は、すっと右手を口元に当てた。
目を閉じる。
息を吸う。
どれほどの間そうしていただろうか。
まだ誰も一言も話さない中、彼女はゆっくり目を開ける。
周囲、全員(といっても3人だが)の視線が集中する――
「あ、カット言い忘れてたわ。はーい、カットー」
「遅いわいっ!」
「ぷはぁ……っ。はー、はー、はぁっ……」
「いや名雪、別に息止めておく必要はないから。言っとくが」
浴衣姿で激しく喘ぐ名雪に、祐一はさらっと一言突っ込んでおく。
祐一は最後の決めポーズをやっと解きながら、ぐるぐると肩を回す。こちらはごく普通のTシャツ姿だ。
――もちろん、学校での格好という意味では二人とも同レベルに普通ではない。
「で、それだけ待たせておいて、どーなのよ。香里監督様としては」
「うーん」
睨む視線もものともせず、香里は指で自分の頬をつんつんと突きながら、答える。
「地味ね」
「……一言で片付けられたぞ、名雪」
「えっと、二言で言えば?」
「地味・ヘンドリクスね」
「意味わからんっ。てーかそれは二言なのか」
「とにかく――」
ぴし。
人差し指を一本、まっすぐ立てる。
「普通すぎて、逆にリアリティが無いのよ。いかにもな告白シーンっていう台詞回しで面白みが無いのよ」
「……脚本書いたの、香里だよな」
「脚本家には申し訳ないけど、ここはアドリブを多用してリアルに行くほうがいいわね」
「脚本書いたの、香里……」
「リアリティ――そうね。せっかく東北地方の物語だって設定があるんだし、東北っぽさを入れましょう」
物凄い勢いで祐一の言葉を聞き流すと、ここで香里監督からの新たなる提案が出た。
ちなみに、香里の「提案」はこれで実に23個目だ。
「東北っぽさって言われても……わたし、東北の言葉はムリだよ?」
「何も方言でやれってのじゃないのよ。要するに、っぽければいいのよ。ぽければ。会話の中身が。聞いてて東北っぽいなと思わせれば勝ち。シンガポールっぽいなと思わせれば負けよ」
「東北の対極はシンガポールなのか」
「なんとなく、わかる気がするかも……」
テイク2。
「ね、しんちゃん。あたしたちの出会い、覚えてる?」
彼女は空を見上げたまま、隣の少年に尋ねる。
少年はちら、と彼女のほうを向いたあと、同じように夜空に顔を向ける。
「覚えてるさ。……もう、6年前か。あの”世界一でっかい芋煮会”で、ゆっこが俺に思い切り玉こんにゃくをぶっかけてくれたんだよな? 今でもあの熱さは覚えてるぞ」
「うー。ごめんってばー。ちゃんと謝ったもん」
「そうだな。おかげで今があるわけだ、感謝してもいいくらいだ」
「……ぅ。な、なんかしんちゃん、恥ずかしいこと言ってるよぅ」
「そーか? そりゃあ役得だろう。昔はあんなちびっこだったゆっこが今やこんな秋田小町、ってか」
「……言い過ぎで、かえって嘘っぽいよー」
はは。
少年が笑うと同時、ひゅるる……と花火が上がる音がする。
ぽん……ぽん……ぱらぱら……
少し経って、弾ける音。
「花火、綺麗だな」
「うん……」
ひゅるる。
ぱあん……
「でもな」
「うん?」
「花火よりも、リアス式海岸よりも、今のゆっこはうつくしま」
「え……えええっ? ど、どうしたの、しんちゃん? とっても機嫌いいからサービス? おいしい前沢牛でも食べたの?」
「ばか。本音だよ」
「は……はう」
ぎゅ。
少女は、下を向いて、ぎゅっと浴衣の裾を握り締める。
ぱちぱち。ぎゅ。まばたきしてみたり、目を閉じてみたり。
「う……うう。どうしよ、嬉しいのに、上手く言葉が出てこなくて……その……」
「いじやける、か?」
「う、うん」
「――カットぉ」
ばんっ!
香里が机を叩く。
「何県よ!?」
「俺だって知らんっ!」
「それに、栃木は東北じゃないって何度言ったら分かってくれるのよ!」
「何度も聞いた覚えはない! ……ってか、そうだったのか」
「でも、東北って言っても広いから難しいよ〜」
「それもそうね。それじゃ、別に東北っぽさはどうでもいいわ」
「ぉぃ」
香里がびしっと親指を立てる。
「相沢君、一度、あなた得意のアドリブで脚本関係無しに告白シーンを演出してみて」
「えー」
「えーとか言わない」
「てか、いつから俺はアドリブが得意なんてキャラに」
音響係の女の子が小さくため息をつきながら、きゅるると巻き戻しボタンでまた位置合わせをしていた。
テイク3。
「ご、ごめんね、待った? ……よね」
ぱたぱたと駆けてくる、浴衣の少女。
着慣れない服に走りにくそうで、ときどき危なっかしく体のバランスを崩しながら、なんとか少年のもとまでたどり着く。
少年は時計をちら、と眺めてから、言った。
「ああ、待ったぞ。結婚しよう」
「え……う、うん♪」
「カット」
ばんっ!
香里が机を叩く。
「早漏もほどほどにしなさい」
「早漏とか言うな」
「名雪も『うん♪』じゃないでしょ。待ち合わせでいきなりプロポーズ成立しちゃってどうするのよ!? ここは東北なのよ!」
「東北じゃなかったら成立していいのか……?」
テイク4。
「花火、綺麗だな」
「うん……」
ひゅるる。
ぱあん……
「でもな」
「うん?」
「ゆっこよりも――あ……えーと、ほら、ゆっこよりも、今の花火のほうがずっと花火だ」
「え……ど、どうしたの、しんちゃん? ……でも、嬉しい……」
「カット」
ばんっ!
「――嬉しいの?」
「すまん、今のは純粋にNGだ」
「はい次ー」
テイク5。
「さあ 僕の手を取って 旅立とう♪」
「でも あたしは 飛べないわ♪」
「そんなことはない 君には立派な 翼がある♪」
「でも あたしは 怖いわ♪」
「大丈夫 僕に任せて さあ 行こうよ♪」
「カット」
「……なんでミュージカル?」
「意表を突いてみた」
「突かなくてよろしい。まったく……翼がある、のところまでは良かったんだけど」
「良かったのか」
テイク6。
「ゆっこ……信じたくはなかったが、ついに俺はこの結論に達してしまったんだよ」
「え……何の、こと……?」
「犯人は、君だろ? 俺のハートを完璧に盗んでみせた――」
「! あ、あたし、あたしは……」
「証拠もある。いいか、この罪は重いぞ?」
「……」
「窃盗罪。求刑は、俺のところに、終身刑だ」
「……はい……」
「カットー」
「いいわねそれ、採用」
「え、マジで!?」
「う・そ♪ はい、やりなおしー」
その後、本日のリテイク11回。
――そもそも、どうしてこんなことをしているのかというと。
「あなた達が見ててもどかしいからでしょ」
「そうかな」
この練習は、文化祭の出し物である。演劇部の。
もちろん、名雪も祐一も演劇部に所属しているわけではない。名雪は先日の大会で陸上部を退部したばかりであるし、祐一はずっと無所属だ。
「香里が演劇部だってのは知らなかったな」
「言わなかったからね」
「ポーカーフェイスが上手いわけだ」
名雪も知らなかったらしい。驚いていた。
香里の話によると、演劇部の部員は現時点で……二人。香里を含めて。香里ともう一人、二年生がいるだけだ。まさに廃部の危機。既にまったく活動にならない状態だという。おそらく香里が卒業すればその時点で事実上の消滅だろう。
新人の獲得にも重要なイベントとなる文化祭にも何も出せないという有り様。
そんなわけで、メインの役者として選ばれたのが名雪と祐一だった。今回だけ協力してくれ、という話で。エキストラはOB数人の工面がつくという。
名雪も祐一も、もちろん香里も、受験前である。三年生の今の時期は誰だって少しの時間も惜しい。
二人への代価として、香里は受験までずっと二人の勉強の面倒を見ると約束した。香里は今でもずっと学年トップをキープしている、学校のホープだ。願っても無い申し出である。このような申し出をできる時点で、香里自身にも十分な自信がある証拠でもある。
問題は、脚本の内容だった。
香里曰く「夢を追う少年少女の青春ドラマ」とのことだったのだが。
ラブストーリー。
青春ラブストーリーだ。
恋人、あるいは恋人未満たちのイベントが満載。
告白シーンもある。
キスシーンも――ある。
「必ず二人で読んでね」と香里から渡された台本を、約束通りリビングで二人で読みながら、二人は呆然としたり顔を赤くしたり引き受けたことを少し後悔したりしていた。
「これ……やるんだ?」
「……みたい、だな」
ちら。
ちら。
お互いが同時に相手の顔を一瞬覗き込む。そして目が合う。
ばっ。
同時に目を逸らす。
「か、香里ってば、何考えてるんだろね?」
俯きながら、名雪。
「ま……まったくだな。自分がやるんじゃないと思って恥ずかしい台詞書きやがって……」
少し反対側に視線をやりながら、祐一。
……沈黙。
名雪が左手で、ぱたんと台本を閉じた。
「ちょっと、練習してみる……?」
問題は、脚本の内容なのだ。
「どういうつもりなんだ、これは」
台本を香里の目の前につきつけながら、祐一はじと目で睨みつける。
昼休みの教室で、周囲から目立たない程度に詰め寄る。名雪はクラスが違うため、ここにはいない。
「あら、乱丁でもあったかしら? 誤字?」
「そうじゃない。この内容についてだ!」
「ごめんなさい、あたしあまり文章上手じゃなくて。読みにくかった?」
「……わざと言ってるだろ」
「ええ、まあ」
はあぁ。
祐一はがっくりと肩を落とす。
「俺は、こんなラブストーリーだとは聞いてないぞ」
「言ってないからね」
「くっ……」
「大丈夫」
香里は、にっこりと笑ってみせる。
似合わないほどに、満面の笑みだ。見た瞬間に100人中79人は「ああ、ムリしてるな」と思う程度に満面の笑みだ。
「あなた達ならきっとできるわ」
「できるできないの問題にすりかえるの禁止」
「これはあたしからの機会のプレゼントよ。生かすかどうかはあなた達次第」
「ほう」
機会、ときた。
祐一はその言葉を聞いて、やっぱりかと、ある推測を確信に変える。
台本を読んだ時点で勘付いていた。また香里の「遊び」が始まったのだと。
「あたしはね、本当に心配してるのよ?」
「ほほう」
「明らかに両想いなのに一向に距離を縮める素振りのない二人ってのは見てて不安になってくるわ。いい? 相手に恋人が出来て初めて自分の気持ちに気づいたってもう手遅れなのよ」
「この脚本の話だよな?」
「名雪と相沢君の話よ」
「分かってて言ったけどな」
頭を押さえる。
いったい今までに何度この話を聞いたことか。
「何度も言ってるだろ。俺たちは今の関係で十分なんだって。別に恋人同士になろうって雰囲気でもないんだよ……なんというか、今更な」
香里は、事あるごとに名雪と祐一をくっつけたがる。理由は、先程の言葉に出たとおり、らしい。
もっとも、本気で心配しているのかどうかは怪しい。香里は遊んで楽しんでいるだけだというのが祐一の見解だ。
「でも、好きなんでしょ?」
「そんな単純なもんじゃないんだ」
「どう単純じゃないのよ」
「そりゃ……プライベートには色々あるんだよ。色々と」
二人の今の物理的距離。同居状態。
二人の血縁的距離。従兄弟。
二人の置かれている立場。受験生。
「今みたいな中途半端な距離が一番いいってわけ?」
「何回もそう言ってる」
「朝、教室前で名雪と別れるときあんな寂しそうな顔するくせに?」
「……気のせいだ」
「授業中も外で体育やってる名雪眺めてぽーっとしてたくせに?」
がたっ!
「見てたのか!?」
机に手をついて立ち上がる、祐一。
香里はわざとらしく天井を見上げるフリ。
「あ、やっぱり名雪見てたんだ。外見てるなぁって気づいても何を見てるかまでなんて分からないわよ。そっかー、名雪を見てたのねー。あんなに熱心にー」
……がた。
ゆっくりと、ことさらゆっくりと、祐一が椅子を引いて座りなおす。
こほん、とせきをしてから窓の外を眺める。
遠い目。
「俺、ここからの景色が大好きなんだ」
「そう」
「この景色を眺めていると、地球の声が聞こえるんだ。まだ生きたい、もっと生きたい、この地上のあらゆる生命とともに生きていきたいと」
「地球って日本語で話すのね」
「実は俺には生まれつき自然の声を理解する能力があってな。特にセキセイインコは得意分野だ」
「へえ。凄いのね。ちなみに今、空が何て言ってるか分かる?」
「えー……と、だな。『今日はかなり青さにこだわってみたぜ。このグラデーション具合が美しいと思わないか? つーか、空ってどこのことだよっ。物理的な意味でっ。所詮抽象概念かよ!?』と言ってる」
「素敵な能力ね。抽象概念に過ぎないものからも声が聞こえるなんて。何の声を聞いたのかしら」
「……」
「……」
「……俺の負けだ」
「そうね」
「要するに、フラれるのが怖いんでしょ? 血縁だから嫌でも一生の付き合いになるわけだし」
香里が再び切り出す。
ぴくりと反応する、祐一。
痛いくらいに、核心を突いた言葉だった。
「……だから、今の状態が一番無難ってことだ」
それなりにいい関係でいられれば、将来もずっといい関係でいられる。
今の状態だけを考えても、同居している以上、ぎくしゃくした関係になる恐れを抱きたくはない。
「そうやって、必死に自分に言い聞かせてるのね。なんて健気なの……やっぱり、あたしは全力でこの恋を応援することを誓います」
「誓われても」
「じゃあ」
びしっ。
ため息をつきかけた祐一を遮って、香里が指を付きつける。
「名雪に彼氏ができたとしても気にしないの?」
「……それが名雪の選択で、それで幸せであれるんならいいんじゃないか」
「へー」
くるり。
香里が椅子に座ったまま体を1/4回転させて、左ひじを机に当てて頬杖を突く。
「そうなんだ。石黒君が聞いたら喜ぶわねー。今度相沢君から直接その言葉言ってあげなさいよ」
ぴく。
祐一の指が動く。
「誰だ」
「んー。最近名雪と仲のいい男の子。元バスケ部だし成績もいいし、面白い子で結構モテるのよね」
「ほ……ほう」
ぴくり。
「あら。あたしは最近名雪と話してるとその名前よく聞くんだけど、相沢君は聞いた事無いの?」
「……」
「石黒君も名雪のことが好きなんじゃないかって噂よ。でも相沢君の存在を気にしてて躊躇してるみたい。だから相沢君が名雪と付き合う気が無いって聞いたらきっとすぐにでも――」
ちら。
意味ありげな横目で、祐一を捉える。
祐一は、ぎゅっと握り拳を震わせていた。
「さっきの言葉、あたしが伝えてあげようかしら?」
「香里――」
「ん?」
低い、祐一の声。
紅潮している頬。
「この台本だが」
「うん」
「……き……キスシーンは、せめて、無しにしないか?」
「何かね、演技してるーって感じなのよ。実際そうだから仕方ないんでしょうけど」
香里が言い出した。
既に、本番前日になっていた。本番と同じ舞台、体育館でのリハーサル。
ここに至って、言い出した。
「俺たちが完全に素人だってこと忘れてないか……?」
「そうね、演技じゃなくしてしまえばいいのよ。あたしにいい提案があるんだけど、どうかしら」
びし。
今日は人差し指を立てる。
「提案?」
聞き返したのは、名雪。
先に「断る」と返そうとしていた祐一の言葉は、それで遮られてしまった。
「そう。今からもう一回やるけど……今度は『しんちゃん』と『ゆっこ』じゃなくて、名前を全部本名で呼んでみて」
「本名って、『伸太郎』『優子』にするってこと?」
「まさか。名雪、祐一って呼び合うのよ」
にっこり。
それはもう嬉しそうな香里の笑顔。
「え……えええっ?」
目を丸くする名雪。
その後ろで激しく咽ている祐一。
ここまでの練習で、やっと、数々のラブシーンも落ち着いてできるようになってきた。
それは、演劇として、演技としてやっていると割り切りができたからこそ。
「恥ずかしいよー……」
か細くなる、名雪の声。
祐一はそれを聞いてドキっとしながらも、努めて冷静を装って反論する。
「意味が無い」
「あるわ。いい? 作られた感情は絶対に本物には敵わないの。今、名雪は恥ずかしいって言ったでしょ? それよ。それが大切なのよ。恋愛感情の表現はその恥ずかしさから始まるのよっ!」
「楽しそうだな、香里……」
「大丈夫。今あなた達が持っている素直な気持ちをそのまま表現すればいいのよ。あ、あと、告白シーンは無しでいいわ。さすがにね」
「す、素直な気持ち……って……」
ますます小さくなる名雪。
後ろにいる祐一からは、その表情は見えない。
「あー、名雪。こんな奴の言うこといちいち真に受けることはないぞ。適当に聞き流せ」
「監督に向かってそれは酷いわね」
香里は、名雪の顔を覗き込む。
「ムリにとは言わないけどね。心にもない言葉を言うのは辛いでしょうし」
名雪の肩が、少し反応した。
「それならお言葉に甘えて――」
「頑張る」
「だな。というわけで香里……」
祐一の言葉が、止まる。
香里のほうを向いていた顔を、名雪の後姿に向けていく。
冷や汗をかきながら。
「今、何て……?」
「わたし、頑張ってみるよ」
くるりと振り向いて、祐一の目を覗きこむ名雪。
祐一が想像していた以上に顔を真っ赤にしていながらも、表情は決意に満ちていた。
――1秒後には、その表情から力が抜ける。
「祐一は、嫌?」
恥ずかしそうに俯いて、外れる視線。今すぐにでも消えてしまいそうなほどに小さく、祐一には感じられた。
口から出かかっていた名雪を止める言葉は、一瞬で霧散する。
こんな顔を見ては、こんな事を言われては。
どうせもともと恥ずかしいというだけで、台詞を言う事自体に激しい抵抗があるわけではない。
香里の思い通りになるというのも癪だったが。
「……やってみるか」
嫌だ、なんて言えるわけがない。
やろうと思ったわけでもなかったのだが、言葉のほうが先に出ていた。
結局、自分の本当の気持ちなど、香里に言われるまでもないのだ。
名雪が顔を上げた。
目を開いて、祐一の言葉と、真意を確かめるように。
祐一は名雪の視線を受け止めた。覚悟は決めた。
「うん!」
「それとね」
二人の世界に入りかけた名雪と祐一を遮るように、香里の声が入る。
「そろそろ、今まで免除していたシーンもちゃんとやってほしいんだけど」
ぴた。
名雪と祐一が向かい合ったまま動きを止める。
今まで免除されていたシーン。
キスシーンは祐一の要望により存在自体無くなっていたが、それ以外に、恥ずかしいからととりあえず免除してもらっていたものがあった。いっそ、そのまま忘れられてなくなってしまえばちょうどいいと思って祐一はやってきていた。
物語の中盤――『しんちゃん』が『ゆっこ』を抱きしめるシーンだ。
二人、向き合ったまま、また顔を赤くする。
「それは……」
「何も今このタイミングじゃなくてもいいだろ?」
祐一が香里を睨みつける。
「いつかはやってくれないといけないわけだし」
しれっと言う、香里。
「香里」
名雪は、香里のほうを振り向かないまま、言った。
小さな声で。
「その練習は……あとで、家でするから、それでいい……かな?」
――きょとんと。
香里は、びっくりした様子で大きくまばたきをしてみせる。
監督として初めて見せるその隙だらけの表情を祐一は楽しむ――余裕などあるわけなく、同じように驚いて名雪を見つめる。
「本番、それでしっかりできるならあたしは構わないわよ」
先に立ち直ったのは香里だった。
何やら感慨深げにため息をつきながら――
祐一に向かって、親指を立ててみせた。
そして、公式には最後の練習が始まった。
二人とも、何も話さない。
なんとなく微妙な距離のまま、暗くなった通学路を歩いていく。
練習の疲れ、ではない。
二人とも、ただ、どう言葉を切り出したものか迷っていた。
ひゅるりと夜風が体を撫でる。
「は……」
先に、ぽつりと漏らしたのは名雪の方だった。
とても小さな声で。
「恥ずかしかった……」
ぷしゅー。
言うと同時、頭から蒸気が吹き出す。
顔からは湯気が立ちっぱなしだ。
「以下同文」
祐一の様子もまた、似たようなものだった。
提案を受けたときから想像はしていたが、やってみると想像をはるかに超える恥辱プレイだった。
見ていた香里が赤くなっていたくらいだから、相当だ。
名前を置きかえるだけで、演劇はまったくの別物になっていた。あんなものを見せられた観客は、しばらく夢に見るに違いない。そんな異様な雰囲気のまま進行していった。
名前を呼ばれると、演技だと分かっていてもドキドキしてしまうものだ。二人して、あらためて思い知った練習だった。今にして思えば、逃げ出さずやりとげたのは奇跡だ。
ううう、と唸りながら名雪が少し早歩き気味で歩く。
ゆっくりしているとまたそれだけ多く思い出してしまう。
「どうして、あんな提案を受けたんだ?」
何も話さないよりは、話していた方がまだ気が紛れる。
「どうして……って……」
どうしてって。
名雪の言葉はそこで終わる。困ったような顔で、目をそらしながら。
また、沈黙。
「……場の勢いだろ」
「う」
分かりやすい反応。
見事に言葉に詰まっている。
「それだけじゃないもん……」
ぷい、と口を尖らせる。
「じゃあ、なんだ」
「秘密ー」
今度は横目で、祐一を見る。
「それじゃ、祐一はどうして受けたの?」
「そりゃあ、名雪にあん――」
あんな顔されたら、NOとは言えないに決まってると。
素で言いかけて、ものすごく恥ずかしいことを言おうとしている事に気づいて、慌てて言葉を止める。
変な雰囲気に流されてはいけない。
「――場の勢いだ」
名雪は、小さく笑った。
「仲間ー」
「だな」
隠し事をしている同士でね、という名雪の小さな言葉は祐一は聞き逃した。
歩いていく。
あと数分で、家に着く。
話しているうちに、おかしな雰囲気はやっと少しずつ緩和されていった。
今日の練習のことは、香里の最後の言葉「本番もこれくらい感情いっぱい溢れさせてやってちょうだい」だけを記憶にとどめて、他のことはもう無かったことにしてしまおう。そのほうが精神衛生上いいだろう。
などと考えながら祐一は、深呼吸を何度か交えつつ歩く。
忘れてしまおう。今日、さっきの練習では、本当に名雪と恋愛をしているような気分になってしまったことも。本当に……演じることによるものでない緊張と発熱を感じたことも。
名雪もまた本気になっているのではないかと感じてしまったことも。
この妙な状況も体験も、明日で終わりだ。
そう思うと少し惜しい気もしてしまうのだが、それは辛い修行も後から振りかえればナントカというのと同じことだろうと自分に言い聞かせる。
その気になってはいけない。
引きずってはいけない。
今日のことは、夢を体験しただけなのだ。
気持ちを切り換えて、あとは明日の本番に臨むだけ。
それだけ――
「頑張ろう、ね」
名雪が、ぽつりと言った。
「ああ、いよいよ明日だな」
名雪も同じ事を考えていたのだろう。
そう解釈して、祐一は答える。
……ふる、ふる。
名雪は、首を横に振った。
隣を歩く祐一を、見上げた。
恥ずかしそうに、潤んだ目で。
「今日、だよ」
「今日?」
そんな名雪を見て一瞬大きく跳ねた心臓を無理矢理に抑えつけるように、平坦なトーンで聞き返す。
今日。
「最後の練習……」
ぽつり、と。
最後の練習。
「あ……」
最後に残った課題。
最後まで抵抗していた、避けてきたワンシーン。
残っていた。
そうだった。帰ってから、二人きりで、これから――
体がかあっと熱くなる。急激な血の巡りに意識が一瞬遠のく。
そうだったな、と言おうとした言葉まで熱で蒸発してしまう。
「あ、でもね、ムリはしなくていいからね? 祐一が嫌だったら、わたしが香里に言っておくから」
「嫌なわけない!」
喉はカラカラで声もまともに出ないはずだったのに、フォローを入れた名雪の言葉には条件反射で反応していた。
名雪が、目を丸くする。
言った。今度こそやった。
今度こそ、恥ずかしい言葉を叫んでしまった。
……それでも、今すぐ姿を消してしまいたいくらい恥ずかしくても、祐一は今の言葉を取り消すつもりも後悔する気もなかった。これ以上ない素直な本心を否定する理由はなかった。
名雪は、ゆっくり目を細めて、微笑んだ。
「……ありがと」
その言葉を最後に、二人、家に着くまでもう何も話さなかった。
夕食の味なんてわかるはずもなかった。
食べている間でさえ、箸が時折がちがちと震えていた。
二人揃って。
ただいまを言うなり、名雪が祐一に耳打ちした言葉。それがずっと残っている。
(お風呂終わったら、わたしの部屋に……きて)
練習のため。
練習のためだとわかっていても。
こん、こん。
「……入るぞ」
「うん」
ノックをする手さえ震えた。
毎朝のように勝手に入っている部屋なのに、今日はこんなに緊張している。
緊張しているという事実が、ヘンな期待を持っていることの象徴のような気がして、少し自己嫌悪に陥る。そしてますます固くなる。その繰り返し。
もう一度、大きく、大きく深呼吸をしてから、祐一はドアを開けた。
名雪はいつも通りのパジャマ姿で待っていた。当日の衣装ではなく。それは、祐一も同じだ。そう申し合わせたわけではない。ただ、偶然、二人ともそうすることを選んでいた。
いつも通りのパジャマ姿なのに、祐一にはそれが、もっと深い意味を持っているように思えた。深い意味などないに決まっている。わかっているのに。
わかっているのに、もう、名雪を見ただけで、どうしようもないくらい、ドキドキするのが抑えられない。
今は、声が震えないようにするので必死だった。
「いよいよ明日だね」
「そうだな」
名雪の声も少し細かった。
祐一の顔ではなく、その少し下あたりに視線をあわせている。
「か……香里も、ほんとに、凄いこと考えるよね」
「そうだな」
祐一は、名雪が座るベッドの前に立つ。
一緒に隣に座る勇気はなかった。
名雪は、照れ笑いを浮かべて、話しつづける。
「わたしたちのこと、そんなに危なっかしく見えるのかな……わたしたちの関係、そんなに不安定かな」
「そう見えてるらしいな……って」
祐一は何気なく返事をしてから、驚いて息を止める。
「名雪、これが全部香里の遊びだってこと知ってたのか!?」
香里は、名雪には何も話していないと言っていたのに。
祐一にこっそり”協力する”という形になっていたはずなのに。
名雪は、顔を上げる。
あはは、といった小さな笑み。
「わかるよ。わたし、そんな鈍くないよ。たぶん、祐一が思ってるよりずっと色んな事に気づいてるはずだよ……知らなかった?」
「知らなかった」
本当に。
名雪はただ、親友の香里に頼まれたことをやり遂げようと素直に頑張ってるのだと思っていた。
名雪と祐一を近づけさせようという意図のもとに行われている計画だと知りながら、すべてを受け入れてきたなんてことは想像もつかなかった。
「祐一も知っててやってたんでしょ?」
「あ……ああ」
改めて指摘されると、ちくりと責められたよう。
下心があったんでしょ、と言われたようで。
「一緒だよ。わたしも」
まるでそんなこと、想像もしなかった。
つまり、名雪も、もしかすると、本当は、何かを期待していたのかもしれないなんて。
――いや、違う。
祐一はすぐに気付く。
名雪と祐一の違い。祐一は、名雪は何も知らないと思っていた。名雪は、祐一が香里の策略であると知っていることを知っていた。
それが何を意味するかまでは、まだ祐一には分からなかった。
「って、それじゃ、意味ないんじゃないか? 二人ともわかってるんなら、香里の計画としては」
「そうかもしれないね」
ふふ。
名雪は楽しそうに笑う。
「でも、わたしは、香里に感謝してる」
「え――?」
さらりと言われた言葉。
だけど、真剣さを帯びていた口調。
名雪は、祐一の目をしっかりと覗きこんだ。
「祐一は鈍いんじゃなくて、目を閉じてる」
少しだけ、怒ったように。拗ねたように。
「香里に何か言われたりしなくても、わたしの言葉の裏を色々読んだりしなくても、本当は気づいてるはずなのに」
立ち上がる。
視線の高さが、ほぼ同じになる。
「わたしは演技はただの素人だし、そんなに何もかも割り切れる子じゃない。今から始める練習は――」
一歩だけ、距離をつめる。
「好きでもない人となんて、できるわけない」
「……」
祐一は、言葉に詰まった。
名雪の言った言葉は、何一つ否定すべき要素がない。そう、わかっている事だった。名雪のことは、わかっていた。
ただ、考えないようにしていただけ。間違っているかもしれないから。
ただ、期待しないようにしていただけ。勝手な思い込みになってしまっているかもしれないから。
ただ、今、それが言葉に表されただけ。
思わぬ告白に、なんと返事をしたらいいのかもわからない。
「練習、付き合ってくれる?」
名雪は、少し恥ずかしそうに俯いてから、言った。
ごくり。
祐一が唾を飲み込む音は、確かに部屋に響いた。
「……もちろんだ」
そっと抱き寄せる。
最初、肩に手が触れたとき、名雪はびくっと震えた。
「あ……」
祐一の動きが止まるが、名雪は目で止まらないで、と訴えかける。
頷いて、再開する。
肩を抱いて、ゆっくり体を引き寄せる。
柔らかい。熱い。
掌に伝わるのはパジャマの布地と、柔らかい腕の感触。濡れた髪。
はぁ……と、名雪の熱い息がかかる。かすかにシャンプーの匂い。祐一は、ふらふらと飛んでいきそうな理性を必死に繋ぎとめながら、焦らないようにとゆっくり抱き寄せていく。
最初に、胸が触れ合う。
ドキドキドキと……激しい脈動をお互いに伝え合う。
そこからは――一気に、抱きしめた。
ふわりと舞う髪。
想像していたよりも柔らかい体。
「ん……ッ」
びくん、と。名雪の体が震えた。
今度は一度だけでなく、びくりと、二度、三度。
祐一の腕の中で、何度も震えた。
「あっ……やっ……!」
かすれる名雪の声。
祐一の頬に伝わる――雫。
「え……」
慌てて、祐一は身を離す。
視界に映る、名雪の顔に、涙。
「あ……ち、違うの……違うの……」
ぐす。
涙をすする名雪。
拒絶されたわけではない。
拒絶したわけではない。
そのことを、目で伝えている。
「どうしよう、祐一……どうしよう」
涙目で、溶けてしまうような表情で、潤いを帯びた声で、名雪が祐一の耳元に囁きかける。
「どうしよう……怖いくらい、すごく……気持ちよかったの」
囁く声には、甘い響き。
その声に、祐一の全身にも痺れが走る。背中に電気信号が駆け抜けたような痺れ。ぞくり、と骨まで愛撫されたような。
祐一も反射的に体を震わせていた。
体も心も、思い切り溶かされてしまいそうになる。意識なんて保っていられない。
「お願い、もっと……抱きしめて」
懇願の声。
聞き終わると同時か、それより早く祐一はもう一度、強く抱きしめていた。
「あ……ッ! んん……は……ぁ」
びくん。
震える体。
びくん……
何度も。
名雪の荒い息遣いが、祐一の耳を愛撫する。
祐一は、無我夢中で抱きしめた。本能の命じるままに。なんの言葉も出てこない。
時折震える名雪の体を、息遣いを、声を、脈動を感じながら、どこまでも溺れていた。
それでも、反射的に言ってしまいそうになる言葉だけは、押し留めた。
はぁ、はぁ……と、少しずつ、名雪の息が落ち着いてくる。体温は上がりつづけている。
「ちょっと……ごめん……」
言うと、くたりと祐一の体の中で脱力した。祐一の体に、名雪の体重が一気にかかる。
祐一はしっかりと支えて、胸の中に抱え込んだ。
「困ったね……本番もこれじゃ、劇にならないね……」
名雪が弱々しく笑う。
「あー……ああ」
言われて、これが劇の練習だったことを思い出す祐一。完全にそんなことは吹き飛んでいた。
このシーンがラスト付近だったならまだなんとかなったかもしれないが、困った事に中盤なのだった。そこから先力が抜けていてはどうしようもない。
――もちろん、それ以前に、こんな名雪を他の誰かに見せるわけにはいかなかった。
名雪が、祐一の腕を撫でる。
祐一の体にかかる体重が軽くなる。
体温の上昇と、心拍数の増加は、平常状態に戻る気配を見せなかった。
「だから……もっと、慣れさせてくれる?」
幕が開ける。
後に、伝説として語り継がれる公演が、始まった。
「しんちゃん、東京行っちゃうって……ほんと?」
この一言から始まる物語。
二人の、どこにでもありふれていそうな、それでも当人たちにとっては大きな意味を持つラブストーリー。
体育館の半分を借りきった舞台と観客席は、あらためて見てみるとかなり広く、観客の数も多かった。想像していたよりは。
観客の中には二人のそれぞれの友達の姿もあり、それがますます緊張を高める。
なにせ、これから演じる物語は――
「どうして教えてくれなかったの――?」
「おはよう、お二人さん」
二人揃って部室に到着した名雪と祐一を、香里が元気よく出迎えた。
他のメンバー、音響係の女の子とエキストラ役のOB二人はまだいない。
「おはようー」
「んー」
少し眠そうな顔で返事する二人。
「今日は頑張ってね。応援してるわ」
「うん。ありがと」
「あら、礼を言うのはあたしのほうなんだけど。……で」
香里が、指を口元に当て、にんまりと笑う。
「ちゃんと、練習してきた?」
にやにや。
そう表現するのがもっとも適切と思われる笑顔だ。
もちろん、香里の言葉がさす意味は一つしかない。
名雪と祐一は、同時にちらりとお互いの顔を覗った。
目が合った。
……そして同時に、ばっと目をそらして、赤くなって俯いた。
「あらぁ?」
にやにやにや。
「期待していいのかしら?」
うふふふふ、と口の奥で笑っている。
嬉しそう。
「わ……わたし、着替えてくるね」
「あ……」
名雪が先に逃げ出した。
素敵な笑顔で逃げ出した。
残される、香里と祐一、二人。
「ふぅん」
香里は、祐一の顔を覗きこむ。
じーっと。
「な、なんだよ」
「距離がぐっと縮まったわねぇ。何かあったのかしら?」
「知らん」
そっぽを向く。
向いた先に、香里が移動する。
「もしかしてもう勢いで告白しちゃった? 抱き合っててあとはもう勢いでーって感じで」
「……してない」
「なるほど、これからなのね」
ほうほう、とメモを取るジェスチャー。
「でも、告白まだなのね? なんかもー、雰囲気から違ってたんだけどなー。あたしの勘は鈍ったかしら」
「……」
「まあ、聞きたいことはいっぱいあるけど、とりあえず今日は本番頑張ってもらうわ。本気でなりきっちゃってね。告白シーンもあるわよ?」
「頑張るさ。演劇としてな」
「照れ屋さんー」
つんつん。
香里は、祐一のほっぺを突ついて笑った。
「着替えてくる……」
ため息をついて、祐一もまた逃げ出す。
「いってらっしゃーい」
香里が手を振って見送る。
逃れた。
とにかく今は沈黙が勝ち、だった。今は普通に危険な言葉が出てきてしまいそうだった。
さすがに、今日は二人、同じ目覚ましの音を聞きました――なんてことがあったばかりでは。
問題のシーンは、開始約25分。
ここまでは、まずまず……上出来だった。観客の反応は悪くない。
前半の山場を、これから迎える。
「やだよ……いまさら、優しくなんてしないで!」
「そんなつもりじゃない。俺はただ……ゆっこと、いたいんだ」
「黙って遠くに行こうとしてたくせに……何よ、いまさらっ」
「ゆっこ……」
ここだ。
このシーンはまだ、祐一と名雪の二人以外誰も見たことがない。
昨日の練習は、唯一このシーンのためだけのものだ。
――ぎゅ。
抱きしめる。
ぴくり、とゆっこの、名雪の体が反応するのを祐一は体の中に感じた。
見せ場のシーンなだけはある。観客席からの緊張も伝わってくる。
名雪は、それ以上の反応は見せなかった。
今、少し震えているのは名雪ではない。ゆっこだ。
「や……」
だけど、伝わってくるこの熱と心拍の音は、名雪のもの。
祐一が抱きしめているのは、紛れもない名雪だ。そして、この熱を、この感覚を、この喜びを感じられるのは、これが最後になるかもしれない。
思わず本当に強く抱きしめそうになるのを、祐一は必死で抑える。
物語では、ここでゆっこがしんちゃんの体を振りほどいて逃げなければならないシーンなのだから。
「やめてよ……!」
それが物語なのに。
とても寂しかった。
朝と同じ。朝、寒いねなんて言いながらもう一度だけ「練習」して、そこから身を離さなければならなかったときと同じ喪失感。
苦しかった。
「ゆっこ!」
名前を、間違えて呼びそうになってしまったほどに。
抱きしめると、気持ちいい。
だから、もっと抱いていたい。
恋人なら、いつでも抱きしめることができる。
祐一が、初めて恋人でありたいと願った経緯は、極めて本能レベルに近い三段論法だった。
効能は、高揚感。副作用は、常習性。
不思議な感覚だった。
これまで何度も練習を重ねて、昨日は本名で呼び合うという体験を経て、昨晩にはあんなことがあって、今は舞台に立って。
ゆっことしんちゃんの関係は、名雪と祐一の関係とはまったく違うとも言え、非常に似通っているとも言えた。
香里はいったいどこまで二人の現状を読んで、どこまでの効果を期待していたのか。
このクライマックスで二人は、本当にお互いの気持ちに素直になることができる。
形こそ違えど、名雪と祐一もそこに非常に近いところまでたどり着いてしまった。昨日の間に。
何度も練習したこのシーンが、今の祐一にはまったく違って見えていた。
本当に意味のある場面、意味のある会話として生きてきた。
昨日、唯一本名で呼び合う練習を行っていない場面でもある。
していなくてよかったと思う。していたら、今この時に思い出さずにいられないだろう。
香里に何も言われるまでもなかったのだ。
浴衣姿の彼女を見つめる。
こんなにも愛しい。
「俺、帰ってくる。この街に戻ってくる」
言えるだろうか。
彼に、なれるだろうか。
「……ずっと憧れていた東京、なんでしょ?」
憧れていたわけではない。
ただ、必要なものがそこには揃っていた。
ただ一つを除いて。
「東京には、お前はいない」
少女が彼を見上げる。
見上げたのは、その言葉に驚いたゆっこだったのか。
あるいは、ほんの少し間違われた台詞に違和感を持った名雪だったのか。
悲しいことに、祐一自身は、その間違いに気づいていなかった。
広い舞台。
彼は、祐一は、彼女を見つめる。
「好きだ――名雪」
悪魔は、ほんの一瞬の心の隙を突いてきた。
観客席は、静まり返っていた。
しん……と、凪のように静まり返っていた。
今の台詞がまだ残響しているような錯覚。
名雪は、ぽかんと祐一を見上げていた。
「あ……」
そして祐一は、遅れて、やっと、自分のミスに気づいた。あまりに重大なミスに。この演劇を、今までの練習を全て無為に返してしまうほどの重大な過ちに。
あろうことか、これだけの衆目の中、舞台に立って堂々と告白するという大胆極まりない行動に出てしまったことに――
目を閉じる。
ぎゅっと閉じる。
油断していた。目の前の名雪しか見えていなくなっていた。
汗が顔を伝う。
こんなときに、今まで隠れていた本心が言葉に出てしまうなんて。
――ふっと、祐一の目の周りが暗くなる。
目を閉じている祐一には、何が起きたのかわからなかった。ただ、温かい感触に顔を包まれたことだけはわかった。
「わたしも、好きだよ……祐一」
幻聴を聞いた。
観客席が、ざわめいていた。
香里には思い切り遊ばれた。思い切りからかわれた。思い切り笑われた。
OBの一人には思い切り怒られた。
「東京、行くんでしょ?」
帰り道、名雪が言い出した。
「劇の話か?」
「祐一の話だよ」
「ああ」
まるでこの劇の始まりのような会話。
香里が作った物語の中でも、もっとも露骨だと感じた伸太郎の設定だった。祐一もまた、名雪にこのことはつい最近まで話していなかった。
祐一は頭を軽く掻いて答える。
「大学、受かったらの話だけどな」
何にしても、まずはそれからだ。
東京の大学を第一志望で受けるというのはもう決めていた。それは決まっていた。
「そっか」
寂しそうな名雪の声。
「祐一は、戻ってくる?」
「そう、約束できればいいな」
「うん……」
答えながらも、祐一には分かっていた。
東京でそのまま仕事に就いて東京で暮らす道。これが一番ある可能性。
そうでなかったとしたら、「戻る」場所は――ここではない。実家のほうになるはずだ。もともと、期間限定の居候として来ているだけだ。ここに戻ってくるという選択肢はほとんど考えられない。
祐一自身がそれを強く望まない限り、将来この街で暮らすということは、まず無い。
「俺は、何を預けていったらいいのかな」
しんちゃんのように。
「わたしを取り戻すために戻ってきてくれたら、一番嬉しいな」
「……大胆発言だな」
そこで一度、会話が止まる。
いつもの帰り道を、寄り添って歩いていく。
すっ……と、名雪の手が祐一の手を捕まえる。
優しく、包み込むように握る。
「ね、祐一。もう一回言って欲しい言葉があるんだけど」
ぴと。
体を一歩寄せて、くっつく。ぴったりと。
何度も感じた、体温。
愛しい人の存在の証明。
「……名雪って結構、甘えんぼなんだな」
「うん。知らなかった?」
「知らなかった」
笑いあう。
祐一は名雪の手を握り返す。
「で、言って欲しい言葉ってなんだ?」
「また、わかってるくせに気づかないふりするー」
「俺は言葉にされないと確信できないんだ。その言葉、名雪から先に言ってくれたら確信持てるんだけどな」
名雪は、今度は祐一の腕を抱きしめる。
祐一の腕に、柔らかい胸の感触が伝わる。
「好き」
先に言った。
とても素直に。
このへんが勝てないところだろうな、と祐一は心の中で苦笑いする。負けだ。
「好きだ」
「あのね」
ただいまの直後、名雪は振り返って言った。
「さっき、帰ってる途中から、ずっと、ぎゅーって抱きしめて欲しいなって思ってたんだよ」
甘えた声で。
目を見つめて。
「ああ、それは――」
すっと手を伸ばす。名雪の背中に手を回す。
そして、体を引き寄せた。
ん……、と名雪のため息。
強く抱きしめる。首の後ろに手を回す。
潤んだ瞳を、いっぱいに視界に収める。
「知ってた」
そして、唇をそっと重ねた。
【あとがき】
このSSは、第三回かのんSSこんぺ中編の参加作です。
結果は2位でした。前回に引き続き大変楽しんでいただけたようで、とても嬉しいです^^)/"
今回はギャグに非常にお気に入りが多くてとても楽しめました♪
他ではらんじぇりーらすでお久しぶりな方とお話できたり、とか。
今回は最初は参加する気なかったのですが、短編を読んで、やっぱり楽しそうだなぁと思い直して、急遽書き始めました。それがこのお話です。
読んでいただけた方にはお分かりかもしれませんが、前回のこんぺ作(恋と素敵な魔法のはなし)とは違って、かなり好き勝手に遊びまくってます。前回のようにネタのフィルタリングやら原作との調和やら、そんなものはまったく考えておりません。ただもう好きなようにやって、ひたすらに自分の愛を表現しました。いい話にしようとか面白くしようとかそういったことは一切考えず突っ走りました。
……それで、こんなにも受け入れていただいたというのは幸せなことです。
ありがとうございます、皆様。
さて、名雪です。久しぶりにストレートな名雪×祐一くんのお話でした。
名雪の7年間積もった想いを、抱きあう練習のシーンに込めております。気持ちよりも先に体のほうが激しい反応をしてしまう……そんな経験、ありませんか?
それほどまでに強い想いをあのシーンだけで表現できていたらなと思います。
さて、以下は後日談です。
皆様、ここまで楽しんでいただいてありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう^^)/"
「行っちゃうんだね」
「ああ」
改めて言葉にしてみるのは、自分を元気付けるため。
何も、否定の言葉を期待していたわけじゃない。祐一が、もう10分後にはわたしの視界から消えて、もうちょっと経てば県境も越えて遠くまで行ってしまう。それは事実で、今から変えられることでもない。ここまで来て、行っちゃやだ、なんてわがまま言って祐一を困らせるほど、わたしは子供じゃない。
はずだ。
ちょっと、自信ないかも。
覚悟を決める時間はいっぱいあった。
わたし達が恋人としてスタートしたそのときからすでに、祐一が遠くに行ってしまう可能性を知っていた。
思えば、わたしはこんな恋ばっかりしている。初恋も……いなくなる人、相手だった。その相手が今目の前にいて、わたしの恋人になっているというのは、とても不思議な感じがするけれど。
追いかけようと考えなかったわけじゃない。もちろん、その可能性は何度か考えた。
わたしはその考えについてお母さんに言った事はなかったけど、お母さんはただ好きにしなさい、って言ってくれた。
だけどわたしはまだ、お母さんと離れる勇気もなかったし、お母さんを一人にしたくもなかった。
わたしは地元の大学に通う。これがわたしの選択。
祐一とは、本当にいっぱい一緒に過ごした。いっぱい一緒にいても、全然飽きなかった。幸せだった。
困るのは、勉強に身が入らなくなることがあること……くらいだった。香里には本当によく助けてもらった。
わたしと祐一の今の恋を後押ししてくれたのは、香里。
その後のアフターケアまでしっかりしてくれた、香里。
大好き。
お母さんと祐一の、次に大好き。
「電話だってメールだってある。遠くなっても話すことはできるさ」
「うん」
わかってることの、確認。
手を繋いだり、抱き合ったり、キスしたりは……できない。そんなことを裏に隠した、前向きな宣言。
だけどわたしは、言う。
「会いに行くよ、いっぱい」
言わないでもわかってるくせにとか、わかってるつもりで勘違いしてたとか、もう嫌だから。
「手を繋いだり、抱き合ったり、キス……したいから」
祐一の頬を、両手で挟む。
ゆっくりと顔を近づけると、祐一は自然に目を閉じてくれた。
キスで始まった、わたし達の今。
「元気でな」
「うん。祐一も、気をつけて」
お別れ。
本当に、あと、もうちょっと。
「あっちはあんまり降らないし、あんまり積もらないからな」
「ん?」
「雪は向こうに持って行くことはできないしな。時々はこっちに戻ってきて、綺麗な雪を見ないと」
わたしは祐一の背中に手を回して、祐一はわたしの背中に手を回して、じっと抱き合ったまま。
祐一の目は、わたしを見ていた。
「祐一がこっちに預けておく大切なものは、雪なんだね」
「そうだな。ここにしかない、真っ白い雪だ」
「ちゃんと、よく見に来てくれないと、どんどん積もってって、綺麗どころじゃなくなっちゃうかもね?」
今はすっかり融けちゃってるけど。どんどん、熱くなるばかりだけど。
祐一が春を持ってきてくれないと、雪は融けてくれない。
「北国は大変だな」
「そうだね。東京くらいの雪のほうがしつこくなくて綺麗かもね」
ちょっと、釘をさしておく。
別にそんなに、心配しているわけじゃないけど。でも、東京だし。大学だし。新しい出会いだってあるし。
祐一は、困ったように苦笑いしていた。
こんなときに、気の効いた言葉をさっと返してくれたらもっと嬉しいんだけど。……なんて、ちょっと、いじめすぎちゃったかもしれない。反省。
ごめんね。ぎゅ。
「寂しい時は、わたしのこと思い出して、がんばって」
ちょっと強めに抱きしめてみる。
「……ん……あ、ああ」
……今の間は、何。
なんて。
ああ。最近、祐一のことが本当によくわかる。よくわかるようになっちゃった。
「祐一、えっちなこと想像した」
「してないっ」
「あ。可愛い。ちょっと赤いし声も高かったー」
「大好きな子を抱きしめてたら赤くもなるっ」
「……わ……本当に恥ずかしいこと言」
ぷるるるるるるる。
……ここで、発車の合図。
なんて気の効かない。もうちょっとタイミング考えてくれてもいいのに。
むくれてると、祐一の手がわたしの耳元をそっと撫でる。
まったく構えてなかったから、あぅ、なんて小さく声が出てしまった。ぴり、と電気信号が流れる。アイシテルってメッセージが、体中に流れ込む。
その波が完全に引いてしまう前に、二人で唇を重ねあう。
人がこんなにたくさんいる前なのに、そんなの見えなくなってしまったくらい、いっぱい。いっぱい、祐一を感じた。
祐一の体が、離れた。
発車ベルが鳴り終わった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
キスで続く、わたしたちのこれから。