花は、定番の被写体だと思う。
 花畑を静かに眺めながら、姫海棠はたてはカメラを構える。
 ただ眺めているだけでも気持ちいいし、頑張って綺麗に撮ろうとするのも楽しい。遠くから見ても、近くから見てもいい。
 まして、春である。多くの花にとってシーズンである。練習にももってこいだ。
「やってやるわー」
 そんなわけで、はたても花畑に来るのは好きだった。花の写真など、わざわざ自分が撮らなくてもベストショットがいくらでも手に入るのだが、やはり自分で撮らないとオリジナリティは出ないのだ。と、思う。正確には、過去にはそんなことはまったく思っていなかったが、最近思うようになったのだ。
「……」
 悔しいかな、そう思うに至るには、ライバルとしてのとある烏天狗の存在が大きい。あまり愉快なことではないが、事実として認めざるをえない。せっかく綺麗な花を眺めているのに、その彼女の顔が脳裏に浮かんできて、浮かれ気分も若干殺がれてしまうのだった。
 静かにため息をつく。
「……もう、なんでこんなときにまで、あいつのことなんて」
「あら偶然。どこかの妄想新聞の記者さん」
「いるし! 本当にいるしっ!」
「うん?」
 思わず叫んでしまった。
 いつの間にか目の前にいるのは当の彼女、射命丸文だった。はたての叫びを聞いて、小さく首を傾げている。
「なに? 私を追いかけてきたの? やだ、そんな焦らなくても新聞ならまだあるわよ。はい、一部百円ね」
「いるかっ!」
 新聞を差し出してきた文の手を、ぺし、と軽く払いのける。
 いったーい、なんてわざとらしく手を振る文を睨みつける。見た目では判断のしようがないが、この文は烏天狗の中でもやたらに喧嘩強いことで有名である。新聞はあまり売れていないが、変わり者だとか武闘派記者だとか、そういう評判で本人はかなり有名人だ。ともあれ、こんなものが痛いはずもない。
「なんでこんなところにいるのよ。誰にも新聞売れないから、花にでも売りにきたの?」
「はたては花を撮りにきたの? 花は楽だもんね。人と違って話さなくていいからね。撮らせてくださいなんて頼まなくていいから、はたてにはちょうどよさそうね」
「……うぎぎ」
 軽く嫌味を言ってみたら、簡単に倍返しである。
 おおむね、二人の力関係はこのような感じだ
「そういう文は、人を撮るときにわざわざお願いしますなんて言ってるの?」
「必要なときはちゃんと言うわよ。自然な表情が欲しいときは言わないけど」
「……ぐむむ」
 真面目に反論されてしまった。
 事実、はたてはあまり人を撮らない。少なくとも、近くからは撮らない。撮らずに済むのであればそれで済ませてしまうことが多い。より綺麗に撮れた写真が念写で簡単に手に入ってしまうからだ。
 こういう、できれば逃げたいという気持ちを真正面から指摘されたような気がして、そしてそれはおそらく気がするだけではなくてそのとおりで、非常に悔しいのだった。
 色々と心に持ちながら睨みつけていると、文は、うんうんと大きく二回、首を縦に振った。
「でも、最近ちゃんと外に出てるみたいじゃない。やっとジャーナリストのなんたるかをわかり始めてるみたいで、お姉さん嬉しいわ」
「誰がお姉さんか」
「私を手本にしたいなら、遠慮無く私に質問するといいわ。あることないこと答えてあげる」
「ないこと答えられても」
「え? どうやったら私みたいになれるかって?」
「聞いてないし! なりたくもないし!」
「その答えはこの新聞に! 一部百円で」
「いるかっ!」

「……で、結局、なんでこんなところにいるのよ。このあたりで事件でもあったの?」
 深呼吸して。少し落ち着いたところで、文に尋ねる。
 文は両手を小さく上げる。
「そうね。どこかの新人記者が、チューリップを踏み潰しているという事件なら」
「えっ!?」
 慌ててその場で少し浮く。
 そこには、下駄の形でくっきりと痕がついたチューリップの葉があった。一応気をつけて歩いていたはずだったが、失敗だった。これならまだ死ぬことはない、だろうか。
 くく、と文は口元を押さえて笑った。
「花の写真を撮りたいなら、もっと素敵なところを教えてあげる。太陽の畑って呼ばれる――」
「馬鹿にしないで。そこのことなら知ってるわよ。危険なところなんでしょ」
「危険? これだから聞きかじりの知識しかない子は。彼女はいつも穏やかで紳士的だわ。あなたみたいに、不注意にも花を傷つけたりしない限りね」
「文は、そういうことはないの?」
「あるけどね。ちゃんと謝ればそんな怒ることもないわ。彼女、イメージのおかげで損してるのよね。静かでいいわ、なんて言ってるけど、本当かしら」
「ずいぶんと肩入れしてるじゃない」
「正義の記者は、弱者の味方なのよ」
「……正義ねえ。弱者ねえ」
 文の言葉は、どこまで本気にしていいのか計りづらい。そもそも、文自身が本気で言っていることでも、真偽は怪しいものだ。新聞を見ている限りでは、そう思わざるを得ない。
「ま、そんなことはともかく。いい天気だから、私も花を撮りに来たわけ」
 文は首に下げたカメラを軽く持ち上げて、言った。
 確かにいい天気だった。普通に他の誰かが言ったのであれば、素直になるほどと頷くところだ。
「花を愛するような感性があるなんて、知らなかったわ。花の妖怪に、感化された?」
「別に。私自身はあまり花に興味はないわね」
「それなら、なおのこと不思議ね。今更練習なんてするような立場でもないでしょうに。花に、事件が起きているわけでもないでしょうし」
「あなたはまだ、こうやって外に出て写真を撮ることも慣れてない?」
「うん?」
 突然、質問をぶつけられた。
 はたては、即答はできなかった。文句なしに、あまり慣れていないからであり、そう答えるのが嫌だったからだ。とはいえただ黙っていると認めるも同然である、ということで、なんとか言葉を探す。
 が、まごついているうちに、文が先を続けた。
「同じ花を撮ってもね、その花の調子、天気、時間から、レンズの微妙なズレ、私の心のズレ――何か一つが違うと、違う写真になる。二度と同じ写真は撮れない」
 カメラをとんとんと指で軽く叩きながら文が言う。
「ま、少なくともレンズくらいは調整ができるものよ。メンテした後くらいは、こうやって試し撮りしてみることも大切なわけ」
 ほれ、と文は一枚の紙をポーチから取り出し、はたてに突きつける。
 紙には、メンテナンス記録書、という題字と、その他細かい文章が書かれていた。カメラ店と思しき名称と、昨日の日付とともに。
「……はあ」
 生返事を返す。
 その反応を見てか、文は、ふふんと笑った。
「あんたの安物カメラだと、レンズ調整なんてできないのかもしれないけどね」
「……あ? バカにしてるの?」
「してるの」
「うっわー。これだからカビた頭の旧世代人は困るわー。これが安物? 安物だって? あんたは知らないでしょうけど、河童の職人の手による最先端の技術が詰まった特注品なのよ、これ。文の古臭いのとは違うんですけどー」
 ここぞとばかりに、はたては胸を張って、ずい、と馴染みのカメラを突きつける。文は、少し不機嫌そうに眉をひそめた。
「本当かしら。ちょっと借りていい?」
「壊さないでよ」
「私はカメラは大切に扱うわよ。記者の命だもの」
 珍しく真剣な声の答えが返ってきたのを受けて、はたては安心して文にカメラを渡す。はたてにとっても極めて重要な商売道具だ。真面目に信頼できない限りは、渡せない。
 文はカメラを受け取って、全体をじっと眺めている。
 少し悩んだ様子を見せたあと、二つ折りになっているカメラを開いた。開き方がわからなかったのか、と気づいてはたては軽くバカにしようかと一瞬思うものの、文の真剣な顔を見て、思いとどまるのだった。
 一体なにを見ているのかと不思議に思うほど、じっくりと眺めている。眺めているだけで、使おうという素振りはない。
「……なるほどね」
 はたてがしびれを切らそうという直前になって、ようやく文は言葉を発した。
「なにがわかったの?」
「本物だわ。確かに、河童のアイテムみたいね」
「……どうして、わかるの?」
 文は、手の中のカメラをはたてに向ける。
 はたてにとっては、見慣れたカメラだ。このように突きつけられたところで、なにか新たな発見があるわけもなかった。
「河童ってね、自己顕示欲が強いのよ」
 戸惑いなどお構いなしと、文はカメラを突きつけたまま言う。
「わかりにくいけどね。銘が打ってある」
「えっ、嘘」
「すぐには見つからないようにすごく凝って隠すのよね、あいつら。ここ、下のパーツの左上あたり。これくらい傾けて――光が反対側から入ってくるくらいの角度で見ると、うっすらと文字が見えるわ」
「……まじで」
 はたてはカメラを手の中に戻すと、文がやっていたようにその部分を見てみる。が、なにも見えない。もうちょっと斜めから、という助言に従って傾けていく。が、それでも――
「……う?」
「見えた?」
「なんか……傷っぽいのが、一瞬」
「それ」
「なにそれこわい」
「あいつら本当に器用だからねー。どんだけ凝った銘の入れ方できるかまで競ってんのよ。これでも、マシになったほうなんだけどね。一時期、撮った写真にまでごくわずかにうっすら銘が透けて見えるような細工が流行ってたこともあったのよ。私達が猛抗議してやめさせたけどね、気づかなかったらやりたい放題よ、あいつら」
「いや、あっさり言うけど、ものすごい技術じゃない、それ?」
「ものすごい、無駄遣いの方向でね。どうせなら服でも透けるように作ればいいのに」
「五十歩百歩だー!?」
「なによ。服が透けるカメラよ。死ぬほど売れるわよ」
「翌日には全世界でカメラ使用禁止令が出るでしょうけどね!」
「……なかなか、冴えてるじゃない。はたての割に」
「いちいち一言多いわっ」
「はたてのくせに」
「なんで悪くなる方向に言い直したの」
「にしてもさ。無駄っていえばそのカメラもやたらと無駄だらけに見えるけど。むしろどうやって使うのよそれ。なんでボタンいっぱいあるの」
 はたての抗議は完全無視で、平然とした顔で文はさっと話題を転換する。
 くそ、と思うものの、次なる話題ははたてのカメラである。語れることはたくさんあるのである。自慢する、またとないチャンスである。
 ふふん、とはたては胸を張ってみせる。
「仕方ないわねー。教えてあげてもいいわよ」
「やっぱ、いい」
「待って、ちょっとくらい聞いてって……」
「ふん。教えたいんでしょ、はいはい。まったく面倒姫海棠なんだから」
「変な表現作らないで!? なんか割と語呂もよくて腹立つんだけど!」
 はたてのほうが精神的に優位に立っていた、と少なくとも本人が思っていたのも、ほんの数秒間の夢幻であった。理不尽なものを感じつつも、はたては慣れた手つきでカメラを操作しながら、文の隣に立つ。
「ほら、これでまずメニューを出すでしょ」
「……メニュー? なに、喫茶店でもやってるの?」
「えっ」
「え?」
「……えーと。操作用の画面、ていうか、選択肢画面……を出すわけよ」
「はあ」
「で、あとは順番に選んでいって――」
「なにを?」
「……いやその」

 恐ろしく進まない説明が終わり、一枚の写真を撮り終えたあと、文はぽつり、呟いた。
「なにこれめんどくさい」
「慣れれば簡単なの」
「なにこれ面倒姫海棠」
「流行らせないからね!?」
「なんで写真一枚撮るのにあんなにいっぱいボタン押さないといけないのよ。シャッターチャンス逃しまくりじゃない」
「モード切替が終わっていればあとは早いの。一枚目は……まあ……次の機会にはショートカットボタンでも作ってもらうことにするわ」
「え、なに、はたてもついにばっさり切るの? そのツインテなかったら個性死ぬんじゃないの?」
「髪の話はしてない! ていうかさらっと酷いわっ! ……と、とにかくね、色んな機能があるからこういう構成になってるの。細かいところまで言えばここじゃ言い切れないくらい多機能なんだから」
「なによ、お茶でも入れてくれるとか?」
「いや……そういうのは無理だけど」
「使えないわね」
「なんでよ! 目覚まし時計にもなるし、メモ帳にもなるしのよ。これ一個で。どうよ!」
「ふーん」
「……えっと……き、聞いて驚け、動画も撮れるのよ! ちょっとだけ!」
「あ、それはいいわね」
「でしょ、でしょ。なんたって最先端の技術がここにふんだんに」
「誰もそれをカメラなんて思わなさそうだし、盗撮にはもってこいね」
「最悪だー!?」
 道具というものは、それを使用する側のレベルも追いついていないといけないものなのだ。
 と、はたては反面教師を目の前にして、教訓を得るのであった。
「で、機能は別にいいんだけどさ。これ、レンズ汚れてるんじゃないの?」
「……え?」
「どこ見ても同じ場所にぼやって黒く映ってるところあるし」
「うそ、気づかなかった。……あー、言われてみれば、なんとなく」
 文が指差す場所を注視してみると、確かにぼんやりともやのほうなものが映っていることに気づく。はたてにすれば、なぜちょっと見たくらいでこんなものに気づくのだ、と言いたくなるような微妙な汚れだ。
 ポケットから取り出したハンカチでレンズを軽く拭いてみる。が、見た目にはなにも変わらない。
「内側なんじゃないの?」
「……うちがわ?」
「レンズ外して掃除しないと」
「……うちがわ」
「いやいや、こんなところでやっちゃダメでしょ。ちゃんと綺麗な、できればほこりもない部屋で――って、はたて、まさか、本当にレンズの手入れしたことないんじゃ……」
「……」
「えー」
「だ、だって、レンズが外れるなんて思わないもん。どうやって外すのよ、これ」
「えー……んー……」
 文は呆れ顔をしつつもはたてのカメラを手にとって、ぐるりと回しながら眺める。
 ふむー、と小さく呟く。
「どうやって外すのこれ」
「でしょ!?」
「これだから変なカメラは」
「自分がわからなかったらカメラのせいにするしー。卑怯者ー」
「ま、整備は専門家に頼んだほうがよさそうね。なんだったら私の通いの店紹介――してもいいんだけど、あそこ私と同じでクラシック好みだからなあ、こんな奇抜なカメラ持ってっても困るかも。いや、怒るかも。『こんなもののどこがカメラなんですか』……くくっ」
「いや、モノマネされても、知らんし……いいわよ、私だって馴染みの店で買ったんだし、これ。そこに持ってくわ」
「え? はたて、私以外と話できるの?」
「蹴るぞ」

 結局、花を撮りにきたはずなのに、一枚も撮らず去ることになった。
 文が現れた時点で物事の予定は狂うことになるのは必然だ。などと思ってみたりもするが、今回に限って言えば、別に文がなにか悪いわけではなく、むしろ感謝したほうがいい展開だ。
 そうわかりつつも、微妙に悔しい思いが先にたってしまったこともあって、礼を言いそびれたまま、飛ぶことになった。一度タイミングを逃すと言えないものだ。
 後ろを飛んでくる文をちらちらと気にしながら、はたては山の街に向かって飛ぶ。
「というか、なんで、ついてくるの」
「や、私もちょっとそのカメラをどう整備するのか興味が」
「なんだ。文もなんだかんだ言って、このカメラのこと気になってるんじゃん」
「そうね。顕微鏡でミドリムシを見るときくらいの興味はあるわ」
「くっそよくわからない例えなのに腹は立つ」
 吐き捨ててみるものの、はたてもあえて追い返すつもりはなかった。特に邪魔になるわけでもなく、追い返す理由もない。
 散々バカにされているだけに、こうなったらカメラ店の店主と割と親しいことを見せつけて、見返してやろうという気持ちも、若干、あった。



***



「ここ――なん、だけど……」
 山の街の隅のほうに、店はあった。
 確かにカメラ店だとひと目でわかる看板が掲げられている。
 が、同じくひと目でわかる程度に、閉店中のようだった。入り口に雨戸が降ろされているのは、開店中ではありえない。
「ふむ。というか、この店って――」
 文が呟いたのを後方に聞きながら、はたては雨戸の前まで駆け寄る。
「ちょっと、なに、これ」
 雨戸には紙が何枚か貼ってあった。貼り紙には、本日閉店のお知らせと書かれている。他の紙は、再開時期が未定であることを表明していた。
 が、問題はそこではない。はたての視線は紙以外の部分にも向いていた。
 紙にも、そして雨戸にも、無数の落書きが書かれていた。少なくとも以前にはたてが見たときには、こんな状態ではなかった。まるで、長い間ずっと閉店状態にあるかのような様だ。
 しかし、さらによく見てみると、その感想もまた誤りであることがわかる。落書きは、ただそこに書きやすい場所があるから書かれたというものではない。その内容は、明確にこの店を、そして店主を非難する内容だった。
 ――詐欺師。
 ――泥棒。
 ――金返せ。
「なに……これ」
「ふむ、やっぱりこの店、一昨日に大手新聞で話題になっていた店ねえ。はたての馴染みの店って、ここなんだ」
「なによ話題って」
「記者なら押さえておかないとダメよ、はたて。『あの人気カメラ店、中古品を新品と偽って販売か』ってね」
「……はあ? まさか、この店がそれだって言うんじゃ……」
「でなきゃ、このタイミングで話題にしないわよ」
「バカ言わないで! この店が、あの人がそんなことするわけないじゃない!」
「私に迫られても困るわ。言ったでしょ、そう、新聞に載ったの。大手のね」
「信じらんない。絶対にありえないわ、そんなこと。どこよ。どこがそんなでたらめ書いたのよ!」
「……複数あったわ。そう、ね。私も詳細まで覚えてるわけじゃないけど、なんでもいくつかの大手のところにタレコミがあったらしいのよ。証拠写真とともに、ね。新聞にはその証拠写真も載っていたわ」
「……」
 はたては、怒りの表情を露わにしながら、ぎゅっと拳を堅く握りしめた。文に掴みかかろうかという勢いだったが、途中で身を翻して、雨戸に書かれた落書きを睨みつけた。
「……あの人は、絶対に、そんなことはしない」
「よほど、信頼しているのね」
「私の特注カメラだって、作ったのは河童だけど、あの人にずっと親身に相談に乗ってもらっていたからこそできあがったもので――」
 視線を、ゆっくりと、下ろしていく。
 悔しそうに、ひねり出すような声で、言った。
「信じて。あの人はカメラを、私たちを裏切るような人じゃない」
「そう。私には判断はできないけど」
 文はあくまで落ち着いた声で、言った。
「ともあれ、本来の用事は済ませておきましょう。話だって聞けるかもしれないし」
「でも、店、閉まって……」
「だからって、いないとも限らないでしょ。裏口からお邪魔しちゃいましょ」
 言うが早いか、さっさと文は動き出す。
 はたては、文のペースに一瞬置いていかれたが、すぐに険しい表情のまま後ろをついていくのだった。

 こん、こん。
「ごめんくださいー。店主さん、いらっしゃいますか」
 文は躊躇することなく、裏口のドアを叩く。
 少しの間をおいて、男の声が返ってきた。
「いるよ。どなたかな」
「私は――」
「あ、あの、はたてです。姫海棠の」
 文が名乗る前に割り込んで、慌ててはたてが声を出した。記者です、と言われると警戒するかもしれない、との思いだった。
「おお、ちょっと待っててくれ。すぐ開ける」
 声から遅れて十数秒、がちゃりという音が聞こえた。ドアが、内側から開く。顔を出したのは、白髪を持つ初老の白狼天狗だった。
「やあ、久しぶりだね」
「は、はい……」
 彼は、穏やかな笑顔ではたてを出迎えた。が、その表情に浮かぶ明らかな疲れは隠せていなかった。目元に隈ができている。
「後ろの方は、はじめましてかな」
「はじめまして。彼女の、まあ、知人の、射命丸文です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いするよ。……記者さんかな」
「あら。わかります?」
「カメラとペンと雰囲気でだいたい、ね」
 微笑みながら店主は言った。
「あのね、おじさん。違うんです、私たち、その……さっき、今起きてることは聞いたばかりで。責めにきた記者もいたかもしれませんけど、私たちはそんなつもりはないんです。ねえ、おじさん、記事なんて、全部、嘘なんですよね?」
 間に割り込むように、はたてがまくし立てた。
 店主は、文から視線をはたてのほうに戻す。はたての真剣そのものの目をまっすぐに見て、店主は深呼吸をするように息を吐いた。
「……落ち着いて。まずは、座ろうか。客間なんて立派なものはなくて、作業場になってしまうけどね」
 言うと、ドアに鍵をかけて、さあ、こっちへと奥の部屋に誘導する。はたてと文は、同時に頷いて、後を追って歩きだした。
 部屋は、紛れもなく作業場だった。部品やら工具やらがずらりと、整然と並んでいる。
 パーツボックスなどは置いてあるものの、やはり綺麗に片づいている机に、二人は誘導される。二人が座ったのを確認してから、店主も座った。
 落ち着いたところで、店主ははたての目を改めて見つめ返した。
「姫海棠さんは、僕を信じてくれるのかな」
「当然です! おじさんは、悪いことをするような方じゃありません!」
「悪いことをまったくしないかどうかは、ちょっと自信がないかもしれないな……」
 少し困ったように苦笑いを浮かべてから、店主ははっきりと首を縦に振った。
「でも、信じてもらっていい。僕は、カメラのことで嘘をついたりはしない」
 断言した。
 はたては、勢い込んでテーブルを叩いた。
「ですよねっ! デマ記事にやられちゃっただけなんですよね!」
「デマ……というか、誤解。だね。あの写真だけ見ると、勘違いされても、ある意味仕方がない」
 言うと、ちら、と窓の方を見た。窓にはカーテンがかかっており、外を見ることはできない。
「写真は、見たかな?」
「いえ……私は、本当にさっき聞いたばっかりで」
「私は見ました。確か、オリジナル商品というわけでもないのに、新品の箱に店主さんがカメラを詰める瞬間を納めた写真でしたね」
「そうだね。そして、その写真自体にねつ造や嘘はどこにもない。それは間違いなく僕の仕事の一部なんだ」
 窓から二人の方に視線を戻す。
 彼は、あくまでも落ち着いた声で続ける。
「僕は、売り物のカメラは常にベストの状態で買ってもらいたいと思ってるんだ。入荷したばかりのカメラは、残念ながら、カメラを使う人にとって親切な状態に調整されているとは限らない。作るのは、カメラを使うプロじゃないからね、普通は」
「そうですねー、カメラを買ったらまずは内部の掃除から始めないといけない、というのが常識ですからね。――ふむふむ、言いたいことは見えましたよ。つまり」
「その調整作業しているところを見られて、勘違いされたということですね!」
 文の言葉に被せるようにはたてが言う。
 店主は、静かに頷いた。
「そういうことだね」
「ほらー! 文、言ったじゃない、絶対に間違いだって!」
「私は別にどっちとも自分の立場を表明してはいないわ」
「でも、これでわかったでしょ」
「でもね」
 文とはたて、二人で話しだしたところで、店主がまた静かに言った。
「今のことは、僕の店を糾弾した新聞の記者さんにも言ったよ。まったく、聞き入れてもらえなかったけどね。自分で使ったものを新品の箱に詰めたことは事実なんですね、とちょうど切り取られてね」
「なによそれ、酷い!」
「なるほど、とちゃんと聞いて理解してくれる記者さんもいるんだけどね。大きなところに乗っちゃったのが痛かったなあ」
「そういうことも、あります。ここは人気店ですからね。私はクラシックカメラ一筋なので縁がありませんでしたけど。人気のあるものを悪者にする記事は、売れます」
「ちょっと! なにバカなこと言ってるのよ! 売れるとか売れないとかの問題じゃないでしょ!」
 文の言葉に、はたては激昂する。
 店主の前でなければ、そのまま掴みかかるほどの勢いだった。だが、文は平然と続ける。
「売れるか売れないかの問題なのよ。この店ではこんないいことをしてました、ではスクープにはならないしね」
「あんた正気で――」
「言っておくけど、私はそんな露骨な嘘は書かないわよ。ただ、そういう記者もいるってこと」
「当たってしまった、ということだねえ」
 店主は、あくまで穏やかに言った。
 むしろ、はたてを宥めるかのように優しく言った。腰を浮かそうとするはたてを、両手のジェスチャで抑える。
「ありがとう。大丈夫だよ。姫海棠さんみたいに信じてくれてる人もいる。今は営業できる状態じゃないけど、あと三日もすればみんなこんなニュースには興味を失うだろうからね。すぐに営業再開できると思う。それまで僕は、静かに事実を訴え続けるだけだよ」
「でも、それじゃ、誤解されたままで……」
「今はなにを言ってもなかなか聞いてもらえないものだよ。落ち着いてから、ゆっくり回復していけばいいんだ。応援してくれる人がいれば、大丈夫だよ」
 納得のいかない顔のままのはたて。
 どちらに傾くでもなく、静かに表情を変えず座っている文。
 気を遣うようにはたてに微笑みかける店主。
 三者三様ながら、一瞬、部屋が沈黙した。
 その機会を逃さないようにと、店主が空気を変えるように、ぽんと手を叩いた。
「さて、ところで、姫海棠さんのカメラもそろそろメンテが必要なんじゃないかな。どこか調子が悪いところ、気になるところはないかい?」
「……今は、それどころじゃ」
「ええ、そうなんですよ。この子のカメラ、レンズの内側に汚れがあるみたいで。掃除してやってくれませんか?」
 はたては否定しかけたが、文のほうが会話を繋ぐ。はたては文を軽く睨みつけるが、今度は店主がすぐに文に続いた。
「貸してごらん」
 店主は、手を差し出す。はたては、なおも躊躇するように手を机の上に置いて握りしめていたが、彼は、怯える子供をあやすように、はたての目を見つめながら、優しい声で言った。
「カメラの調子を確認するのも、ずっと気持ちよく使ってもらうために調整するのも、僕の大切な仕事だよ。幸い、見る時間は十分にあるからね。……仕事を、させておくれ。ね?」
 迷って、惑って。
 はたては、お願いします、と小さな声で言って、カメラを差し出した。



***



「文、やってやるわよ」
 カメラ店を出た直後、はたては言った。
 レンズの掃除はもう終わらせている。普通の人は見ないような工具を取り出して、あっという間にカメラを必要最小限程度に分解して、レンズを外して、拭いた。そしてあっという間に組み上げて、テストをした。
 その手際は、文もはたても見惚れるほどだった。プロの技だった。
 仕事ができたことが嬉しかったのか、作業は楽しそうですらあった。きっと本当にカメラとこの仕事を愛しているのだろう、と文にも感じさせる、立派な仕事ぶりだった。
 はたての手には、綺麗になったカメラがすでにある。それをしっかりと握りながら、はたては強い口調で、先程の言葉を発していた。
 予想していたのだろう、文は驚きも戸惑いもせず、軽く両手を広げた。
「店主をサポートするほう? 件の新聞を糾弾するほう?」
「両方……できればいいけど。私は、理不尽な苦しみから、あの人を助けたいの」
 もちろん、協力してくれるでしょ。はたては視線で明確に語る。
 文は、一呼吸置いてから、口を開いた。
「ま、信じたくなるタイプの人ね。はたてが、最初からニュースを全力で否定してきた理由もよくわかったわ。置いてあるカメラを見る限り、カメラの趣味は私とは合いそうにないけど」
「ねえ、真実を目の前にして、動かないでいるなんて、記者じゃないでしょ。私は、ひとりでも、動くつもり。でも、文も――いいえ、そう、じゃない、わね」
 はたては、言いかけた言葉を、途中で飲み込んだ。
 一度俯いて、息を吸って、また、口を開く。
「お願い、文。手伝って。まだ、どうすればいいかわからないの。文はきっと私よりもいろんな状況に慣れてるでしょ? どうやったら、あの人に迷惑をかけないで、助けることができるか、教えて。……その、もし、時間があったらで、いいんだけど」
 強い意志を瞳に灯して、文の目をしっかりと見つめて。
 お願い、ともう一度言って、頭を下げた。
 文は、目を丸くして、そんなはたての姿を眺めた。ゆっくりと上げたはたての顔に浮かぶ不安の表情を見て、苦笑いを浮かべた。
「おっけー、おっけー。思ったより冷静ね。あんたのことだから、てっきりなにも考えずに今聞いた話をそのままビラにして配るかも、なんて思ってたわ」
「それで解決するなら、いくらでもやるわよ。でも、きっとうまくいかないんでしょ。理由は私にははっきりはわからないけど……でもあの人を応援してるのは私だけじゃなくて、その中には当然他の記者もいるみたいで、でも、現状、状況は改善していないんだから。簡単なことじゃない、んでしょ?」
「ええ。簡単じゃないわ」
 きっぱりと、文は言った。
 ぽん、とはたての頭の上に、手を置いた。
 微かに震えている体を止めるように、不安そうな目を抑えつけるように、強めに頭を押した。
 簡単じゃない、というより、間違いなく難題よ。文は、続けた。
「だから、やってやりましょう。ええ、その通り。真実を世に知らしめるのが、私たちの役割なんだから」
「!」
 はたては、勢い混んで顔を上げた。文の手をその勢いで跳ね除けてしまい、あ、と気まずそうに文の手を視線で追う。
 文は、申し訳ないと目で伝えるはたてを見て、くす、と小さく笑った。
「さあ、それじゃ、さっそく始めましょ。情報収集よ」
「……うん! でも、どこから?」
「私たちが戦う相手は、大手新聞が作った世論なのよ。まずは、敵を知らないことには話は始まらないわ」
「……新聞記事ね? その日の」
「よくできました!」
 言葉と同時に、文は地面を蹴って、飛んだ。
 出遅れたはたても、すぐに文の後を追う。
 ありがとう。
 言いそびれていた言葉を、背中に言う。
 別に、どうせ暇だったしね。
 文は、なんとかはたてに聞こえる程度の声で、言った。


「あれか、酷いよね! 文が戦ってくれるなら私も協力するよ!」
「がんばって。応援してるから」
「あたしもあの店好きなんだ。力になれることがあるなら、なんでもやるよ」

 いくつかある烏天狗たちの寮を、右に左に。寮に入っては、文の知り合いの部屋のドアを叩く。その繰り返し。
 二人が飛び回った成果は、十分にあった。
 予想通りに幅広い文の人脈に舌を巻きつつ、はたては頭を下げて回った。感触は上々だった。単に新聞を集めるのが簡単だったというだけではなく、必要であれば他の誰かの協力を得ることもできるとわかっただけでも、心強いものだった。
 必要な新聞は、すぐに揃った。カメラ店を告発する記事を書いていたのは、三つの新聞だった。
 二人は戦利品を揃えて、文の家に向かった。文の新聞編集作業用の部屋を使って、打ち合わせを行うことになった。
「文もよくわかったでしょ。ちゃんとカメラのことわかってる子なら、みんな、信じてるんだから」
「そうみたいね」
「……でも、だとしたら、ちょっと不思議なんだよね。じゃあ、誰があんな落書きしたり、営業の邪魔したりしてるんだろう」
「今日、私が話した相手はみんなある意味偏った面子だからね。あんまり一般的だと思わない方がいいわ。……ま、それに、ね、ああやって騒いだり声高に非難したりするのは、大抵、もともとカメラなんて興味なかったり、ほとんど店を利用したことがなかったりする、外野の人なのよ」
「ぐぐ……くそー、なにも知らないくせにっ!」
「でも、店主さんの言う通りね。この様子なら、ダメージはそこまでなくて復帰できるかもしれないわね。外野だからこそ、攻撃にもすぐに飽きるものだから」
「……うん。でも」
「わかってるって。だからって、おとなしくしてましょう、なんて言うつもりはないわ。さ、到着よ」
「やってやるわー!」
 改めて燃えたところで、文の家に到着。
 新聞の束を握りしめて、拠点となる場所、文の作業場に突入した。


 まずは、やるべきことを整理しましょう。
 書類が大量に積まれた、誰に言わせても整理のできていない部屋で、文は言った。机に向かって、二人で隣同士に座る。
「簡単に言えば、すでに作られたイメージに勝つには、否定しようのないほどの論理か、十分なインパクトが必要なのよ」
 部屋のほこりっぽさに顔をしかめながら口元を押さえていたはたては、やがて、抗う無駄を悟って、ため息をついてから文の横顔に視線を移した。
「難しいわ。具体的に言ってほしんだけど」
「つまりね、少なくともあんな落書きとかする連中の中には、あの店は悪い店だ、というイメージができあがってるのよ。そんな奴らに、店主の言葉やカメラ好きの擁護の言葉を見せても、なんの効果もないわ。嘘だ、の一言で片づけられて終わり。悪ければ、往生際が悪い、とさらに責め立てる材料にするだけよ」
「……なるほど。そう言われると、過去にも似たような例があることに、思い当たるわね……」
「影響力のある新聞記者が実名で署名して、集めて公表すればそれなりには効果あるでしょうけどね。ただ、インパクトは弱いわね。最悪、それで妥協することになるかもしれないけど」
「わかったわ。文が言うなら、そういうものなんでしょうね」
「あら、意外に信頼されてるのかしら」
「文はなんか、自分の評判とか世論とかうまく操作して生きてる感じがするし。やりたい放題やってる割に、なんだかんだで結構なポジションに落ち着いてるし……」
「社交も生きる技術よ、新米さん」
「……まあ、いいわ。その件は今は置いておくとして」
 言いたい言葉をいくつか飲み込んで、机に肘を置く。
 机には先ほど集めてきた新聞が、束になって置かれていた。
「で、隙のない論理か、インパクトかって話ね。論理ってことは、要するに、あの人が悪いことなんてしていないっていう、確固たる証拠があればいいってこと?」
「それができれば理想なんだけど、悪魔の証明なのよね。というわけで、やるとしたら、逆」
 文は新聞を広げ始める。一つの新聞の、例の記事のページを開く。
 いわゆる証拠写真とともに、それなりの大きさの見出しでカメラ店の告発記事が書かれていた。
「下手な記者が書いたのなら、どこかに無理、矛盾があるかもしれない。結論としては嘘の記事を作ってるわけだしね。完全な論理を作るより、相手の論理を崩すほうがやりやすいし、インパクトがある」
「なるほど。やることはわかったわ。よーし、見てやろうじゃん!」

 新聞ごとに、情報量や内容は異なっていた。淡々と事実を告げるような書き方をしているものもあれば、いかにもゴシップ記事風に発覚のきっかけからその後の独自取材までを細かく描いたものもある。情報量としては、後者の方が多い。
 新聞と写真をなめ回すように見て、相互の繋がりや矛盾などを調べてみる。複数が同じ記述をしていれば、おそらくそれは事実だろうと判断できる。
 比べてみると、明らかに共通しているのは、事のあらましだった。
 すなわち、新聞社に送られた写真とメッセージの件である。

「送られた写真は三枚。そしてタイプライターの告発メッセージ付き。無記名で、送り元も記述なし」
「写真の送り主が身元の特定を嫌っているのは、明白ね」
「人気店を相手にするから、いざこざに巻き込まれたくはない。と、手紙にも書いてあったと。ふん。告発するなら堂々と姿現しなさいよ、卑怯者」
「告発者が匿名になるのは、珍しいことじゃないけどね。誰も彼も自分で自分の身を守れるほど強くないからね」
「そうかもしれないけどさー。おかげで面倒じゃないの、もう! そいつ自身に間違いを訂正させれば一番手っとり早いのにさー」
 はたては頬を膨らませて愚痴る。
 そうね、と文も同意した。
「捕まえさえすれば、ごめんなさいを言わせるのは、私も得意なんだけど」
「……やっぱり怖いわあんた」
 真顔で言う文に空恐ろしいものを感じて、身震いする。純粋な力も情報も手にしている文に本気で脅されたりしたら、それはもう恐ろしいだろう。思わずはたてがそんな場面を想像していると、文が苦笑いしながら手を振った。
「なんかヤクザな想像されてそうだけど、私はそんなことはしないからね」
「……どうだか」
「もう、はたては私のことはよく知ってるでしょ。ほら、こんなに清廉潔白」
「外面漂白の間違いでしょ」
「えーん、私は嘘なんてついてないのに、はたてちゃんがいじめる〜」
「うげ、きもっ!」
「うっさい。遊んでないで作業に戻るわよ」
「こっちの台詞よ! あーもう変なもの出そうになったわ」
 一覧性を高めるために、すでに記事は関係ある部分だけ切り取って並べている。扱いの大きさはまちまちだ。はたては、この中で最大手の新聞の記事を指さした。
「まー、まずここなんだけど。バカにしてるわねー。『本人はすでに使用済みのカメラを新品の箱に詰めたことを認めている。当面、営業を自粛する模様である』ですって。これだけ。話を聞いてきたうえでこんなこと書いてるんだから、腹立つわ」
「誰がどう読んでも悪事を認めたと読める書き方ね。簡潔で、嘘はついていないだけ、ボロも出にくいし、やっかいだわ」
「ふざけてるわね本当。この記者捕まえて、無実と知っていたのに変な記事書きましたごめんなさいって言わせたらインパクトある?」
「あるでしょうけど。まず、無実と知っていた、の部分が弱いわね。店主本人の供述だけだからね、そんなものは信じる理由がない、と言われればそれまで。あと、大手新聞は怖いわよー。正面切って敵に回さないほうがいいわよ、マジ」
「あんたなら平気でしょうに」
「ま、私はね」
 皮肉のつもりではたては言ったのだが、文はあっさりと肯定した。つい反射的にまた毒づきそうになるが、今はそれどころではない、と思いとどまる。むしろ、素直に受け取れば、はたての身を案じてこその発言である。私もそんな言葉言ってみたいわ、と思いながら、新聞をとんとんと叩いた。
「で、ってことは、ここから突破口は切り開けそうにない?」
「とりあえず、見当たらないわね。今のところ」
「……ふん。気に入らないけど、次行くしかないか」
 敵意を隠すことなくその記事を睨みつけてから、次の記事、右隣の新聞に目を移した。
「これ。こっちはこっちで腹立つ内容よね」
 新聞というよりは週刊誌のように、ことの経緯や自分たちの取材活動をそのまま描いたような記事である。比較的ボリュームのある記事だが、その取材内容は非常に偏っていた。
○近所の住民『ショックです。なにを信用したらいいのかわかりませんね』
○よく通っていたという客『品揃えも面白いし、いい店だと思っていたんですけどね。騙されていたというのは悔しいです』
○同業者『生業を同じくする者が、このような不祥事を起こしたのは大変残念です。変わりものばかり扱っていたので、バレにくいと思ったんでしょうかね』
 このように、いわば無関係の人たちに対するインタビューで埋まっている。新たな情報があるでもなく、単に不快感を前面に出しただけの意見を並べただけである。
「なにか意味あるの、これ?」
「記事を読んでるひとに一体感を味わわせる、という意義なら。感情に訴えかけるなら効果的ね。読んでて気分が盛り上がる、すなわち、売れやすい」
「……文ってさ、売れるテクニックみたいなものはずいぶん詳しいのに、なんで売れてないの?」
「……」
 文は記事の上に指を置き、口を半開きにした状態のまま、固まった。
 一瞬、ぱく、と口が動きかけたが、すぐ止まる。
 はたては慌てて、ぱたぱたと手を振る。
「……あ、ごめん……いつもみたいにさっと、売れるために書いてるわけじゃない、とかそんな答えが出てくるかと思ってたから……そんな真面目にダメージ受けるとは思わなくて」
「追い討ちやめろ」
「いいじゃん、ほら、私よりは売れてるんだし、ね」
「なんで慰めてるのよ。はたてに慰められるほど落ちぶれちゃいないっての」
「……ごめん」
「ちょ、なんでそこで謝るの! 調子狂うじゃない! あんたこそいつもみたいに『ちょーしのんなよォ! あたし怒らせたらやっべェよ! マジやっべェよ! 死ね! ばーか! 死ね! あと……死ね!』くらい言ってくればいいじゃないの」
「誰!? どんだけ語彙ないのよ私!?」
 全力でツッコミを入れてから。
 はたては、はあ、と大きくため息をついた。
「……あー、もう、やっぱり文は文だわ。心配して損したわ、もう」
「私のことなんて心配してる場合じゃないでしょ。難題を解いてる最中なんだから」
「ふん。わかってるわよ、言われなくても。……でも、この記事も、矛盾とか出てきそうにないじゃない」
「そうね」
「そうねって。矛盾を見つけるなら簡単だって言ってたじゃない」
「簡単だとは言ってないわよ。まだ可能性としては高いって言っただけ」
「むー……だって、これ、もう、最後の一つの記事は」
 三つ目の新聞。矛盾を見出せる望みはもっとも低いと思われるそれ。
 なにせ、この新聞は、独自の取材を行わず、送られてきた写真とメッセージだけでそのまま記事にしてしまっているのだ。これでは他にない情報など期待しようもない。強いて言えば、写真と送られたメッセージ全文がそのまま公開されている唯一の記事だというところが特徴だった。
 私の新聞みたいだな、とはたては自嘲気味に思う。隣に文がいるため、表情には出さないが、以前の自分ならこの新聞にも疑問を持たなかったのだろうと思うと、私も変わりつつあるのかな、と感慨深いものもあった。
「あんたの新聞みたい」
「言うし! 思ってても言わなかったのに言うし!」
 隣の彼女は、そんな空気を読んだりはしないのだった。
「……私だって、もうちょっと自分で頭使って考えて書いてたし」
「妄想でね」
「人のこと言えないでしょ、文だって」
「いいじゃない別に。なんか空白できちゃったのを適当に埋めたいときくらい」
「そんな適当さが――いや、いや、うん。そんなこと言ってる場合じゃない、ない」
 うっかり拳を振り上げかけたところで、はたては自分に言い聞かせるように、首を横に振って言う。二人がよく言い争いになるまさにそのポイントに近いだけに、最初のうちに止めておかないと危険だった。
「で、情報、これで出揃っちゃったんだけど」
「そうね」
「……どうするのよ」
「どうしようかしらね。たまには自分で考えなさいよ」
「む……」
 はたては、一瞬むっとするものの、すぐに、確かに文に頼りすぎていると気づいて、口を閉ざして頭を動かす。
 二人で、記事を眺めながら、しばらく無言の時間が続いた。

「ん」
 文が、顔を上げた。
「どしたの?」
「誰か来たみたい。ちょっと待ってて」
 文は立ち上がる。その直後に、はたてにも遠くからドアをノックする音が聞こえた。
 静かなのにそんな音も聞こえないくらい考え込んでいたのか、と気づき、はたては苦笑する。たまにある、心が澄んで思考がどんどん深くまで進んでいく状態とは違う。ぐるぐると考えが巡って回って進まない状態のほうだ。
 他の新聞を読むのも、そこから自分の考えに繋げるのも、慣れているはずだった。が、攻撃対象として新聞を読んだことなど、ない。文が部屋を出て行った後、はたては深くため息をついた。
 やはり、向いていないことはそう簡単にはできないものだ。
 少し、自分らしくやってみようか。
 一度頭のごちゃごちゃを取り払うために、目を閉じた。



***



「あーやっ。お届け物だよー」
 玄関のドアを開けると、見慣れた烏天狗が立っていた。もっとも、烏天狗以外がここを訪れることなど、めったにない。
「どーも。いつもありがとね」
 届いたのも見慣れた箱。定期的に届く消耗品一式だ。毎回買いに行っていては時間がもったいない消耗品は、こうして届けてもらうようにしている。
「いえいえー。こちらこそありがとうございまっすー! んで、原稿できてるならついでに受け取るよー。これからお姉さんのところ行ってくるからさ。今回は十分余裕ありそうだって言ってたし、もうできてるんじゃない?」
「……ん」
 文は、少しだけ躊躇して、しかしすぐに口を開いた。
「ごめん。それなんだけど、今回は発行延期ってことで」
「お!? なにかあったの? 珍しいね、いつも早さ命! って感じでぱぱっと仕上げてきてるのに」
「ま、ね。いまいち面白いネタでもなかったし、ちょっと練り直し、って感じで」
「そっかー。わかった、お姉さんに伝えとくよ!」
 お姉さんとは、文々。新聞の発行を担当している印刷所の河童のことである。河童の割に大人びて見えることから、そう通称されている。
「んじゃ、次はまた二週間後ね、と……ん? んんん?」
 用事が済んでさっと帰ろうとした彼女が、なにかに気づいたように眉をひそめる。
 視線は、下のほうに向いていた。文もつられて視線を落とす。靴が一つ、置いてあった。
「……お客さん?」
「うん。ちょっとね」
「いま、文、作業場のほうから出てきたよね」
「まあね」
「珍しい! びっくり! 文、よっぽどのことがない限り、そこには誰も入れないのに。え、しかも、ってことはいま、お客さんひとりで作業場に残してきてるんだよね?」
「……そういうことになるわね」
「あらやだ。どういうことかなこれは。これはこれは。お客さんというのが、文にとってどういうひとなのか、これは気になるところじゃないの。あれほど作業場への立ち入りは警戒する文がねえ。ふふん?」
 探るような目。文は苦笑いを浮かべる。
「あんたは記者じゃないでしょうに。なんでこんなことを気にしてるのよ」
「ま、ま、それが私たちの性分じゃなーい?」
「悪いけど、業務上の秘密だから、言えないわね。残念」
「あやしい。話聞くだけなら、そこでやらなくてもいいのに。ねえ、作業場は文のネタの宝庫でしょ? 本当にいいのかな? こうしてる間にも、どれだけのネタが盗まれてるか――」
「あの子は、そんなことはしない」
 試すような彼女の口調に、文は反射的に少し声を大きくして、反論していた。
 あ、と、すぐに口を滑らせたことに気づいて、気まずそうに視線を少し逸らす。
 彼女は、してやったりと口元を縦に歪ませる。
「ふーん? これは、ずいぶんな信頼感ですこと」
 にやにやと嫌らしい笑みを浮かべて、一歩文に迫る。
「あの子、ね。どうやら偉い立場の子というわけでもなさそう」
「変に勘ぐらないで」
 さらに追及せんとする彼女を、一言でぴしゃりと制する。
「別に、信頼とかじゃないの。そんな発想も出ないくらいバカ正直ってだけよ、あいつは」
「ふんふん。そんなところが気に入ってると?」
「は、誰がよ。はいはい、もう用事は終わりでしょ。おかえりくださいませ」
「必死な文を見るのって、貴重な機会だなー。気になっちゃうなー」
「あーもうっ、面倒姫……面倒くさいやつねっ! さっさと帰れ!」
「……ひめ?」
「か、え、れ!」
「やーん、こわいー。はいはい、帰りますよっと。よかったら今度紹介してねー」
 うひひ、と笑いながら、彼女はひらひらと手を振る。
 あ、と文は声をあげて、去ろうとする彼女を背中から引き止めた。
「待って。お姉さんのところ行くなら、ちょっと聞いておいてほしいことがあるの。答え聞いたら、また教えに来て。不在だったらメモ入れといて」
「あん? 珍しいことづくしね、まあいいけど。なに?」
 文が質問内容を言うと、彼女は首を横に傾げたものの、了解、と快く引き受けた。最後に、お礼として文の大事な人を紹介してくれる? などと言い残しつつ。
 追い払うように背中を押すと、ようやく彼女はドアの向こう側に消えた。
 文は、ドアをしっかり閉めて、もたれかかり、はああ、と大きなため息をついた。

 少し時間を置いてから、作業場に戻る。
 彼女に言い切ったとおり、文は自分の作業場が荒される可能性など微塵も考えていなかった。おそらく、積んである紙の一枚すらめくられていないだろう。長い付き合いから、はたての行動原理はある程度わかっていた。真面目に、ひたすら頭を悩ませて、この難題に取り組んでいるのだろう。
 そんな推定どおり、戻ってきた現場は、文が部屋を出たときのままだった。
 ひとつはっきりと異なるのは、はたての目の前にあるメモ用紙が、文字と記号で埋められているというその一点だった。はたては、戻ってきた文を、真剣な顔で見つめる。
「考えたことを聞いてほしいんだけど、いい?」
「どうぞ」
 ほらね、と心の中でひっそりと笑う。顔にはもちろん、一切出さない。
 文ははたての隣に座る。はたては、メモ用紙の一枚をそこに差し出してきた。
「まとめてみたの。今回起こったことの流れを」
 記号を使いながら、そこには次のようなことが書かれていた。

○経過
・不明人物Aがカメラ店の写真を撮る
・写真が新聞社に送られる
・新聞社が取材をして、カメラ店を告発する記事を掲載する
・新聞を読んだ一部の誰かが、カメラ店を非難したり、営業を妨害したりする
○私たちの目的
・新聞は真実を告げていないことを明らかにして、カメラ店を助ける

「当たり前のことを書いただけ、なんだけどね。私は、いつも、集めた情報を整理するときはこうしてるの」
 几帳面だな、と文は思う。スピードと直感を大事にする文には、整理するという習慣はあまりなかった。もちろん、記事を書くために必要最低限のまとめは行うのだが。
「なるほど」
 普段ならもう一言加えて返事をするところだったが、はたての表情の真剣さを考慮して、簡単に相槌を打つに留める。はたては、メモ用紙を指差して続ける。
「今回の経過は全部、一直線の矢印で結ばれているところがポイントよね。営業妨害をしているのは新聞を見て怒った人たちで、別に普段から不満があったとか悪評があったとかじゃない。つまり、この直線のどこかを断ち切れば、それで解決する」
 あってる? と、ちらりと文の顔を覗き込み、はたては目で質問する。
 文は、黙って首を縦に振った。
「で、最後の営業妨害から守ろうとする方法、たとえば署名集めなんかはどれかといえばここになるんだと思うけど、これは、効果が薄い。で、新聞記事を攻撃するのも、どうも望みが薄そう」
 はたてはメモ帳に視線を戻して、話を続ける。
 指も紙の上を動き、やがて、一点を指差した。
「写真を撮ったのも、送ったのも誰なのかわからない。ここも攻めにくい。となると」
 少し緊張した声で、はたては、しかしはっきりと言った。
「写真。写真そのものを疑ってみるしかない。……ロジック、合ってる?」
「写真は、実際に作業中を撮られたものだろうってあの店主が認めてたのよ。そこに嘘はないと思うけど」
「そう、嘘はない。だからこそ、可能性があると思わない? 新聞には都合悪くて、私たちには有利な事実がなにか写ってる可能性」
 はたての口調は、自信と不安を半分ずつ混ぜたようなものだった。
 言い終えてから、また、文の目を覗き込んでいる。
 文は、なるほどという気持ちと、そうだろうかという気持ちと、こちらも半々といった気分だった。だから、あえて、大きく頷いた。
「いいわね。見てみましょう」
 いつも写真から情報を得ているはたてらしい発想だと思った。文からしてみれば、盲点の部分だった。賭けてみたい、むしろ、当たってほしいという思いを込めて、言った。
「……うん」
 はたてはほっとしたように、少し嬉しそうに、ゆっくりと息を吐いた。


 送られたという写真は三枚。
 記事としては中身のない一つの新聞は、その全てを掲載していた。
「ただ、そうするにしても、これだと粗くて細かいところまでは読み取れないわね。送られた写真そのものを手に入れないと」
 新聞に掲載された写真というのは、画質という意味では粗悪と言っていいものだ。事実、これが証拠写真だとして掲載されているものの、店主自身が写っている範囲が写真の中でも小さいだけあって、新聞のこの写真が実際に証拠だと読み取れる人はかなり限定的だと思われるレベルだった。
「ま、色んなところに写真配ってたみたいだから、知り合いを渡り歩けばそのうち入手できるとは思うけど。時間はかかりそうね」
「できる」
 文の指摘に対して、呟くような声が返ってきた。
 はたての横顔を眺めていると、彼女はもう一度、頷きながら言った。
「これなら、できる。復元」
「復元? ……あ」
 首を傾げかけて、そこで文ははたての能力を思い出す。
 彼女が念写と呼んでいるその能力の詳細は、文もまだ明確には把握していない。目の前で念写しているところを見る機会がほとんどなかったからだ。すでに誰かが撮った写真を複製する能力だと理解しているが、具体的な条件や手段などはほぼ未知だった。
「やってみる」
 はたてはいつもの自分のカメラを取り出す。ほんの数時間前に、レンズの掃除をしてもらったばかりの、彼女だけの特別なカメラ。
 折りたたまれたカメラを開き、手早くなんらかの操作を行う。片手で顔の前に構える。記事の写真を見つめる。目を閉じる。
 数秒。目を開く。手を動かす。待つ。しばらく、カメラをじっと見つめる。
「よし、できた」
 はたては言って、カメラを文のほうに向ける。
 そこには確かに、新聞に載っているものの一つと同じ写真と思われるものが、小さく映しだされていた。文は少し驚き、目を丸くする。
「ちゃんと色もついてる。見事ね」
「写真の全体像がわかっていれば、同じものを探すのは問題ないの」
「ふむ……ちなみに、元の写真がすでになくなっていたり、破られていたりしても、復元できるの?」
 文の疑問に、はたては首を縦に振った。
「前に実験したことがある。一回でも撮られていたら、復元できる。誰も見ないまま破ってても、現像しないままフィルムを捨てても」
 恐ろしい能力だな、と文は直感的に思った。
 聞いた直後でさえ、悪用する方法が一つ二つは浮かんでくる。もし自分が悪事を生業としていたならば、躊躇なく目の前の少女を軟禁して手放さないだろう。利用するというよりは、身を守るために。
 もはやそれは複製の能力などではない。はたてが存在する限り、少なくとも写真という形の情報は、なにをしても永遠に世界から消えることがなくなるのだ。情報を消去するための取引など、まったく意味を持たなくなる。
「……はたて、あんた、今の話、他の誰かにしたこと、ある?」
「ううん。今が初めて」
「そう。最初で最後にしておいたほうがいいわ。あんたの身のために」
「どういうこと?」
「機会があったら説明するわ。とりあえず、そうしておいたほうがいいわよ。絶対」
「……いいけど。どうせ、話す相手なんて他にいないし」
 この能力を持ったのがはたてでよかったと言うべきか。この無自覚さが恐ろしくもあると言うべきか。彼女自身が、能力の怖さを自覚していないのは明白だった。わかっているならば、自分の能力を宣伝するような記者活動など行うはずもない。そして、とても向いているとは思えない記者などにこだわるはずもない。
 ともあれ、まだ手遅れではないと知って、文は胸を撫で下ろす。
「よし。ま、ともかく、復元できるってことね。ただ、これじゃ小さくてあんまり細かいところまで見えないことに変わりはないと思うんだけど」
「うん。印刷するには別の道具が必要なんだけど……」
「現像、じゃなくて、印刷、なんだ。面白いわね。別の道具っていうのも、そこらにあるものじゃないんでしょ、きっと」
「うちに帰らないと、ないの。……そうよね、印刷しないと、一覧することもできないし……うん。そんな遠くないし、印刷してくる」
 言うが早いか、はたては立ち上がる。
「なら、はたての部屋で続き打ち合わせしたほうが効率いいんじゃない? 往復しなくて済むし、印刷したいのが後から別に出てくる可能性だってあるんだし。はたてがよければ、だけど」
 すぐにでも出ようとしていたはたては、動きを止めて、手を口元にあてて考えこむ。
 およそ十秒ほど。やや逡巡があったようだが、最終的には、そうね、と言った。
「ただ、ちょっと片付けする時間をちょうだい。三分でいいから」
「私の部屋もこんなのよ。散らかってても気にしないけど」
「私が気にするの!」
「……了解、了解。うん、じゃ、お邪魔するわ。行きましょ」
 文も立ち上がる。
 こうして、また移動することになった。文の作業場から、はたての作業場へ。



***



 人間の足で歩けば、順調に進んでも一時間はかかるであろう山道も、烏天狗にとっては分単位の距離だ。あくまで天狗の感覚で、二人の家はあまり遠くはない。
「じゃ、片付けてくるから。待ってて」
「片付ける前にはナニがあるのか……ジャーナリスト魂がうずくわー」
「待ってて!!」
「……はいはい。冗談だって」
「あのね、私はあんたと違って誰かを部屋に上げることなんてほっとんどないの! 仕事部屋でも! ほんとに自慢できることじゃないけど! それなりの準備は必要でしょ!」
 若干赤くなりながら、はたては叫ぶ。
 馬鹿にされること覚悟だったが、文は不思議な乾いた笑顔で返してくるだけだった。もしかしたら同情されてしまったのかもしれない、と思って、逆に悔しくなる。
 単にスタイルの違いだ、悔しがる必要もない。そう思いつつもやはり悔しく感じてしまう自分がまた悔しい。結局のところ、文のスタイルへの憧れが否定しきれないということだからだ。
 ドアを閉める。
 もやもやしたものを抱えながらも、急いで作業場とそこまでの通り道を片付ける。実際数分で片付けられる程度であり、それほど乱雑なわけではないのだが、やはり他人が来ないことを前提にしていることもあって、隠したいものもあるのだ。片付けとはつまり、その程度のものだった。
 適当に棚に色々と放り込んでいく。終わったところで、道を戻りながら再確認。大丈夫だと確認できたところで、玄関のドアを開ける。
「おまたせ。行きましょ」
「行きましょ。はたてが隠した宝物探しへ」
「作戦会議の続き!!」

 文は実際にはそんなに周囲を探るようなことはせず、大人しくはたてに着いて、作業場までやってきた。はたての作業場は、同じ烏天狗の記者であるにもかかわらず、文のそれとはまるで異なる雰囲気の部屋だった。
「……綺麗じゃないの。なにを片付ける必要があったの?」
「そんなに、散らかってたってわけじゃ、ないから」
 収納や紙でびっしり埋まっていた文の作業場とは対照的に、むしろ客間なのではないかと思えるほど家具も少なく、紙やペンなどが散らばっていたりはしない。インクの匂いもあまりしない。
 いくつかの機械と、本棚にたくさん並んだ図鑑が特徴的な部屋だった。図鑑は、ありとあらゆるジャンルを取り揃えたのではないかというほど多種多様だった。文の視線を受けて、はたては答える。
「私さ、写真から物に触れる機会が多いじゃない? 写ったものがなにかわからない、ってのじゃなんにもならないから……で、色んな分野のを集めてたら気がついたらこんな感じに」
「なるほど。尋ねる相手もいないから、そうなるのね」
「そうそう。図鑑と辞書は孤独な私の味方……うっさいわ! 余計なお世話!!」
 一通りのやりとりを終えたところで、文に着席を勧め、はたて自身は一つの機械に向かう。両手で抱えるほどの大きさの、この部屋で一番目立つものだ。
「それが、もしかして、印刷機?」
 機械の形を見て判断したのか、文が尋ねる。
 そう、とはたては答える。
「これで、カメラの中の写真を取り出せるの」
「ふーん。カメラも見たことなきゃ、そんな印刷機も見たことないわ」
「そのうちこれが普通になるんだって。便利だし。文も今のうちに覚えておいたほうがいいんじゃない?」
 言いながら、機械の窪みにカメラを置く。
 はたてが慣れた手つきで機械を操作すると、機械はしばらく唸り声のような音を発してから、ぴ、と小さな音を鳴らした。
「よし。印刷終わるまでちょっと待って」
 機械に向かったままはたてが言って、およそ三十秒ほど。少しずつ機械から出てきた紙が、完全に姿を現す。また、機械がぴっと音を立てた。
「はい、終わり」
 紙を手に持って、文に向けて広げる。
 例の写真の一枚が、そこにはっきりと再現されていた。新聞で見るよりもはるかに綺麗に細部まで確認できる、立派な一枚の写真だ。
「……簡単なのね」
「でしょ」
 珍しく文の声に素直な称賛を感じ取って、はたては弾んだ声で答えた。

 念写と印刷。
 残り二回分を繰り返して、三枚の写真の復元が終わった。
 さて、と三枚の写真を机に並べる。いずれも細かい部分以外はほぼ同じ写真だ。カメラ店の裏側の、壁などの外装材や細かい建築構造物が主として写っており、その窓越しに店主の姿がある。少し引いて見れば、建物より手前側に木の枝が写っている。ここまでは三枚に共通している。
 三枚で異なるのは、もちろん、店主の行動だ。
 一つは、カメラを構えているところ。
 一つは、カメラを箱に入れようとしているか、取り出そうとしているかといったところ。
 一つは、その箱を手にしているところ。
 こうして写真を見ると、はっきりと確認できる。
「……なるほどね」
 はたては呟く。
 もし時系列が今並べたものと逆だったとしたら、なんの問題もない写真だ。箱からカメラを取り出して使った、それだけの場面だ。
 だが、うまいことに、写真は奥の壁にある掛け時計も捉えていた。時計が、時系列が前述のとおりの順番であることを示していた。自然、二枚目はカメラを箱に入れようとしている場面であることがほぼ確定する。
 そして、三枚目の写真が、箱がただの箱ではなく、商品用の箱であることを示している。通常、カメラの製作者から納品されたものを売るだけのカメラ店であれば、開くことのない箱だ。
 確かに過不足なく、『店主が使用したカメラを新品の箱に詰める』場面が捉えられているように見える。もちろん、二人はそれが実際には品質確認であり、決して中古品を偽って販売していたわけではないということを知っているが、写真だけではその判断は不可能だ。
 ――その不可能を可能にする材料を見つけようというのが、はたての、二人の狙いということになる。
「文は、この写真、どう思う?」
「ん」
 文もじっくりと写真を眺めていたが、ずっと無言だった。はたての問いかけに対して、短く答える。
「綺麗に撮れてるわね」
「……いや。そんな感想はいらなくて」
「でも、これ結構な技量よ。写り方から考えるとかなり望遠のレンズ使って遠くから撮ってるわね。パースがほとんど感じられないから」
「はあ」
「遠くから撮ってるのに、決定的な場面をしっかりブレないで撮るのって、そう簡単じゃないわよ。もちろん、私ならできるけどね」
「……それって、もしかして、これ撮ったの、記者やってる子の可能性が高いってこと?」
「どうかしらね。単に遊びでやってる子でもこれくらいできる子もいれば、記者でもこれができない子はいっぱいいそう」
「私には無理だと思う?」
「まずそのカメラがどう見ても望遠に対応してないから、前提からして無理」
「そっか……」
 はたても改めて写真の全体を見直してみるが、そこから技量を感じ取ることはやはりなかった。こういったこともそのうち勉強していかないといけないな、と頭の隅のほうで思う。が、今はとにかく、調査だ。
「それで、写真の中身については、どう?」
「うん。見てみたけど、確かに写真とストーリーの筋は通ってるわね。ぱっと見てわかるような問題点は見つからなかったわ」
 こちらの問いにも、文はスムーズに答えた。はたてに聞かれるまでもなく、やはり中身についても確認していたのだ。
「はたては?」
「……うん、私も、同じ。……なんだけど」
 逆に問われて、はたては少し口ごもる。
 眉をひそめて、首をかしげる。
「なんっか、引っかかる……」
「引っかかる? どのへんが?」
「わかんない。なんだろう。なんか気持ち悪い」
「……ふむ」
 要領を得ないはたての返事だったが、文も真剣な顔で受け止めた。
 それだけのことだが、はたてには心強く思えた。

 無言が続いた。
 二人とも、じっと写真を眺めていた。見つめていた。精査していた。
 見れば見るほど、なにも問題などないように思えてくる。はたては少し焦る気持ちも抱えながらも、しかしまだ消えない得体のしれない違和感、不快感を頼りに、目と頭を動かし続けた。
 十分以上もそうしていただろうか、さすがに目が疲れてきたところで、目を閉じる。ずっと同じ写真を見ていただけあって、目を閉じてもなおまぶたの裏側に写真の像がくっきりと残っている。アニメーションのように、店主の行動が繰り返し再生される。
 店主はカメラを使用して、箱に詰めた。それだけの三コマ。
 綺麗に、鮮やかに切り取られた三コマ。
 ぐるぐると繰り返す。
 はたては、片手で頭を抱える。軽いめまいを覚えた。
 店主の行動は、真意を知っていれば不思議なものではない。ここを何度思い返しても、新たなものはなにも見えてこない。
 ――綺麗に撮れてる。文はそう言った。文は写真を撮った側の視点でこの写真を見ていた。実際、頭の中で店主の行動が再現されるほど、見事な写真だ。
「――」
 目を開く。
 三枚の写真をもう一度見る。
「綺麗すぎる」
 ぽつり、呟く。はたての声を聞いて、文が顔を上げた。
「写真ができすぎてる……ううん、というより……」
 写真を見つめたまま、両手を写真の隅に重ねて、小声で言う。そのあとは、また、口を閉じる。時折、口元をもごもごと動かしながら、目を開いたり、閉じたり。
 はたてが次に顔を上げた時には、文としっかりと目が合った。
 思い切ったように、はたては口を開く。
「ねえ、文。どうして、この写真があると思う?」
 突然の質問に、文は戸惑い、きょとんとして首を傾げる。
 ああ、えっと。はたては首を振って、続ける。
「この写真撮った人は、どういうつもりで撮ったのかなって。なにを撮るつもりだったのかなってことなんだけど」
「そりゃ、店主の行動を撮るためでしょ。これだけ明らかに決定的瞬間を収めているんだから、他のつもりだったけど偶然写ってただけなんてありえな――ああ」
 答えながら、文は、はたての言いたいことを理解する。
 なるほど、そういうことか、と呟く。はたては、そう、そうなのよ、と大きく頷いた。
「遠くから撮ってるんでしょ? まず、最初からこの店の中を撮ろうと思ってない限り、ここをこんなに拡大して見ることなんて、考えられない」
「そうね。望遠で見てるんだから、最初から店主の行動を見るつもりだったんでしょうね」
「どうして? なにを見るつもりだったの? なにを撮るつもりだったの?」
 はたての言葉に、勢いが乗ってくる。
 文は、しばらく考えてから、慎重に答える。
「一応、考えられる可能性としては、スパイみたいなもの。店主の修理やメンテの技術を盗もうとしていた、とか」
「必要ないじゃない。カメラを持ち込んだら、目の前ですぐ直してくれるんだから。今日みたいに。それに、いくら拡大してるって言っても、これじゃそんな細かいところまで見えるとは思えない」
「……一理あるわね」
「ねえ、文。思うんだけど、私」
 文の目をしっかりと見つめる。
「この人、最初から、この写真を撮るつもりだったんじゃないかな。この場面に遭遇したのも、偶然なんかじゃなくて」
 一枚の写真を指さす。
 時系列で言えば、一枚目の写真にあたるものだ。
「これよ。気持ち悪かった理由がわかったわ。三枚全部揃うとこの写真の意味がわかる。でも、もし、この写真一枚しかなかったら? これはただの、カメラ店の店主がカメラを使ってるだけの場面。それ以上のなんの意味もない場面。ねえ。この写真を撮った人はなにを考えていたの? まるでこのあとに起きることがわかってたみたい」
 はたての指す写真に、文も視線を移す。その写真はまさしく、はたての言うとおりの場面だった。問題は、それが一枚目だということだった。最初の一枚だということに、問題があった。
 文は、口の中で唸る。
「――気づかなかったわ。そう、その通りね。偶然撮ったものでなければ、先を知っているからこそ撮れる写真だわ」
「だったら!」
 いよいよ、はたての声は叫びにも近くなっていた。
「あの人が不正をしていたわけじゃないってことは、知ってたってことじゃない! 勘違いなんて、ちょうどこの写真を撮り始めたときに初めて目撃し始めたときにしか起きないんだから」
「……」
 一方の文は表情を変えず、一度はたてから視線を外す。手を口元に当てて、真剣な顔で、虚空を見つめる。
「そうじゃない可能性があるとしたら、本当にまったくの偶然で最初の一枚を撮って、なにか怪しさを感じてそのまま確認し続けたか。あるいは、その少し前、たとえば店主が箱からカメラを取り出すところを偶然見つけて、これはなにかあると思ってシャッターを切ったタイミングがこの一枚目になったか」
「後者はそれこそ、あの人の行動を一部始終見てたってことじゃない。簡単な確認をしてるだけだってことは、見ていたならわかるでしょ」
「確かにね。となると、最初の可能性――まあ、考えにくい、か」
「ねえ。これって、つまり」
「正解だとしたら、この写真を撮った人が、悪意を持って店主を嵌めたということになるわね。なるほど、匿名性に気を遣うわけだわ」
「許せない!」
 ぐ、とはたては机に強く両手を押し付けた。その勢いのまま立ち上がろうというほどの勢いだ。そうね、と文は同意しつつも、あくまで落ち着いて指摘する。
「ただ、これは、店主の言葉を真実とした上での推測。私は彼を信じてるけど、逆に言えば彼の言葉を信じない人に対しては通用しない理論よ。この推測を武器とするのは、あまりに弱い」
「そんなこと――」
 ほとんど反射的に感情的な反論を返そうとしたはたてだったが、いつになく険しい文の表情を見て、言葉を引っ込める。文はどこか宙を睨みつけるようにして、じっと佇んでいた。
「けど、無駄じゃない。その推測は無駄じゃない。悪意と偶然は、決定的に違う」
 はたてに対してというより、自分に対して言い聞かせるように、文は言う。
 言葉のあと、沈黙を挟む。
 次の言葉を待つはたてに対して、文が口を開いたのは、たっぷり一分以上経ったあとだった。
「綺麗すぎる、って呟いたわね。その直感、たぶん、合ってるわ」
「……どういうこと?」
「ベストショットなんて、そんな簡単に撮れるものじゃない。偶然でないとしたら――間違いなく、この三枚以外にも写真は撮ってるわ。もしかすると、かなり多く。そして、一番はっきりと『不正を行なっている』ように見える場面を選んで送っている」
 ここで、文ははたてに顔を向けた。
「はたて、もう一回出番よ。――できる?」
 短く、重要な情報が欠落した質問。しかし、はたてにはもう伝わっていた。
「やってみる」
 力強く、頷いた。

「見えてるものと同じ写真を念写するのは簡単なんだけど、似た写真、というのは難しいの。『似てる』っていうのが曖昧だから」
 カメラの準備をしながら、はたては説明する。
 三枚の写真をイメージしながら、念じる。数秒後、出てきた写真を見る。それは三枚の写真とは似ても似つかぬ、明らかに別物だった。共通しているのは、家の中にいる人、という点だけだ。
「……こんな感じで」
「これは厳しいわね」
「うん……でも、いろいろ試してみる」
 カメラ店の名前をイメージに加えてみたり。
 店主の名前を加えてみたり。
 念じる時のイメージは、言語情報と映像情報を混ぜあわせたものになる。不特定多数の写真を探すときは前者を中心に、同一の写真を探すときは後者だけとなる。似た写真、となると、うまくバランスを取らなければならない。映像情報はもともと曖昧で、本質的にサーチにはあまり向いていないのだ。
 難しいのは、もともと評判の店ということもあって、カメラ店の内部を撮った写真というのも多く――おそらくはカメラ店の取材のために撮られたものだろう――下手に店の名前や店主の名前を重視するとまったく関係ない写真ばかり引っかかることだった。
「実際に写ってるもの、をもうちょっと重視したほうがいいのかも」
 試行錯誤。
「部屋の中に写ってる小物を片っ端から情報に入れたらだいぶ絞られるんじゃない? ……って、そんな特殊な道具はあんまりないけど」
「うん。それに写ってるのが小さすぎて、逆にノイズになる感じ」
「なかなか大変ねえ。……あ。手前に写ってる木とか、どう? あんまり近くて逆に見逃してたけど」
「木なんてそれこそどこにでもあるからねー……ん?」
 手前側に、少しボケて写っている木の枝がある。望遠レンズのため距離感は掴みにくいが、おそらくはカメラ店よりはかなり手前側である。その枝の間に、白いものも写っていることに、はたては気づいた。
「花……?」
 一見するとただのノイズか、どこかからの光が入り込んだかのようにも見えるわずかな白い領域。文も、枝の部分を注視してみる。
「あ、なるほど、花に見えるわね。花だとしたら……」
「梨の木かな」
 なんの花だろうと言いかけた文に、すぐにはたてが続いた。
 ボケて写っている枝とわずかに見える程度の花。にもかかわらず、迷いなく答えていた。思わず文がはたての顔を見ると、はたては少し言い訳するかのような口調で言った。
「……私は、花はいっぱい撮ってるから。ほとんど念写だけど」
 言うと、すぐにカメラを構えた。
 念じるのは、カメラ店の外壁、窓、店主。そして手前の梨の木。
 本質的にまったく繋がりのないキーワードは、絞り込みには非常に有効だ。
 慎重に念じる。
 いつも通りに、写真は画面に現れる。
「できた……!」
「できた!?」
 はたての声に、文も素早く反応した。カメラを一緒に覗きこむ。
 現れた写真は、確かに例の場面を写したものだった。そして、それは、三枚のうちどれとも一致しないものだった。ただカメラを手に持っているだけという場面だったが、なにより重要なことは、背後の時計が「一枚目の写真」より前の時間を示しているという事実だった。すなわち、一枚目の写真は、真の一枚目ではない。
「やった……」
「これは……光が見えてきたわね。もしかすると、決定的な一枚が出てくるかも」
「うん! やってやるわ!」
「やってやりましょ!」
 二人で声を張り上げる。
 自然、二人は手を上げて、どちらからともなく強く握手を交わしていた。ほとんど無意識の動作だった。はたてのほうが先に我に返って、ほんのりと赤くなるものの、そのまま、改めてぐっと強く手を握った。


 同じ写真が被って出てくることも多い。念写は、根気が必要だった。
 そうして、粘り強く続けて、ついに一時間後。
 決定的な一枚が、出てきた。

「文、ねえ、文。これは、決まりでしょ」
 顔に疲労感を浮かべつつも興奮を抑えきれず、はたては文に詰め寄る。
 写真は、箱からカメラを取り出すところを捉えていた。取り出すところ、と判断できるのは、もちろん時計のおかげだった。一枚目の写真より前である。
 そして、時計が指し示す時間は、箱にしまう写真の、わずか二分前である。
 これだけを見ても、カメラの使い方が、試験的なものであることは明らかだった。さらに、この決定的な一枚以外にも、ほとんど変わらないような時刻の、別のカメラの試験状況を捉えた写真も見つかっている。
「もはや言い訳はできないはずでしょ。写真を撮った人は、それが単なる動作確認だって知ってて、中古品を箱に詰めたなんて嘘ついてたのよ」
「……そうね。決まりね」
「やったわ! ねえ文、ねえ文、ついに捉えたのよ!」
「ええ、まったく。見事だわ。あなたの力よ、これは」
「え……えへへ。ありがとう、でも、文の力がなかったら最初からなにも進まなかったから。私だけじゃなにもできなかったし」
「私だけだったら、最初から動かなかったか、頑張っても写真を手に入れたところで終わりね。いや、正直言って、感服したわ。推察力も、気力も」
「う……うう。なんか、文が気持ち悪い」
「おいせっかく褒めてるのにおい」
「だ、だってー、今までそんなことなかったじゃん……」
「今まで褒めるところがなかっただけでしょ」
「うっ……ぐ、ぐ……いや! いや! うん、今はそんなことはどうでもいいわ! ねえ、これであの人を救えるよね? 早く新聞書くわよ!」
「……ん」
 はたては少しも休む気など見せず、このまますぐに執筆活動に入る勢いだ。だが、文は、難しい顔で、どういう意味とも受け取れない相槌を小さく打つだけだった。
「なに、まだなにか……足りないの?」
 文の顔を見て不安になり、はたてはトーンダウンして尋ねる。
「いや……はたて、どんな記事書くつもり?」
「もちろん、この写真を載せるのよ。あの人が不正をしていない、あの人が言っていたことが本当だっていうこれ以上ない証拠でしょ。……もちろん、私の新聞だけじゃ、注目あんまりされなくて失敗するかもしれないから、文にも、できれば他の人にも、協力してもらったほうがいいかな、とは思ってるけど」
「うん……そうよね。でも、それが証拠として生きるようにするためには、写真の正当性を説明しないといけない……」
「念写の能力は、過去に撮られたことのない写真を創りだすことはないわ。確かに、そのことは説明しないといけないけど――」
「待って」
 はたての言葉を、文は途中で遮った。
 先程までより、さらに険しい表情を見せている。はたては気圧されて、なに、と小さな声で問う。
「その写真が、破棄された写真なのか、今も生き残っている写真なのかは、区別できるの?」
「わからないわよ。わかるのは、ただ、誰かに撮られた写真だってことだけ」
「つまり、その写真自体、今は本来もう存在していない写真である可能性もある?」
「うん。……なにか、それが問題なの?」
「……」
 文は答えず、考えこむ。
 そういえば文はここに来る前にも、念写の能力についてずいぶんと懸念していたようだったな、と、はたては思い出す。この能力をあまり公表しないほうがいいと考えているようだが、その理由まではまだ聞いていなかった。
「ねえ、文、なにが問題なの? 私は、今までも念写で写真撮って新聞を書いてきたわ。今更――」
「今回の新聞は、とにかくセンセーショナルに、広く、思い切りやって意味があるものになるの。必然的に、あなたの能力を余すことなく公開することになる。もしその写真が、破棄されたものだったとしたら、少なくともそれを知る人が一人いるわけで」
「だから、問題なんて」
 言いかけたはたてを、文は手で制した。
 苦い表情を浮かべて、何度かためらいを伺わせた後に、口を開く。
「……ごめん。はたて。お願い、新聞を作るのは、待って」
「なんで」
「お願い」
「ちょ、ちょっと、待って、待って」
 必死の形相に加えて、急に深く頭を下げた文に、はたては慌てる。
「急ぐのはわかってる。少しでも早く助けたいのはわかってる。でも、もうちょっとだけ待って。――もう少し、確実なやり方にできる可能性も、ある」
「え? 確実なやり方?」
「まだいけるかどうかはわからないけど、当てはあるの。……はたての、その写真があれば、もしかすると。ただ、もう少し時間はかかるの。あと……一日。あと一日、ちょうだい」
 頭を下げたまま。
 めったにクールな表情、口調を崩さない文の必死さは、はたてにも強く伝わっていた。なにをそんなに必死なのか、はたてには理解はできなかったが、確実なやり方、という言葉は心を捉えた。
「それは、私の写真を新聞に載せるよりも、効果があるって意味? あの人をもっと助けられるってこと?」
「そう。うまくいけば」
「当てがあるっていうのは、どれくらい?」
「……まだ、わからない。やれるだけのことはやってみせる」
 歯切れの悪い言葉ではあったが、意志の強さは確かに感じられる。
 はたては、沈黙の中しばらく悩んで、大きく、ため息をついた。
「一日、やってみてダメだったら、私のやり方で新聞出すわよ。いい?」
「……ありがとう。できる限り、そうならないようにするわ」
「わかった、わかった。とりあえず顔上げて」
 苦笑いを浮かべて、はたては文の肩に手を置く。顔を上げた文と、はたてと、目が合う。
「で、私の仕事もあるんでしょ? なにをすればいいの?」
「まずは――」
 文は、ふ、と息を吐いて、ぐ、と拳を握り締める。
「私の家へ」



***



 郵便受けには、一枚のメモがぽつりと入っていた。
 文は、緊張しながらそれを開く。
「……!」
 よし、と心のなかで叫ぶ。なになに、とはたてが隣から覗きこんできた。文はそれを手渡す。すでに空は暗くなっていたが、玄関の明かりで文字は読める。
 メモを読んだはたては、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……あんた、いつの間にこんなの調べてたの」
「手がかりになる可能性があるかと思ってね。さあ、そうとわかれば、走り回るわよ。時間はあんまりないんだから」
「言われなくても!」

 その夜は、言葉通り飛び回る夜となった。
 夜中には、寝ている相手を起こすこともあった。
 一つずつ、収穫を積み上げていく。
 そして――



「こんにちはー。文々。新聞ですよー」
 翌日の昼。文は、眠気と戦いながら、終着地にたどり着いていた。
「いらっしゃい。どうしました? 一昨日カメラのメンテ終わったばかりですが、調子悪いところでもありましたか?」
「いえいえー。というか、写真どころじゃなくてまだ確認できてなかったりすんですけどね、これが」
「おや、珍しいですね」
 首を傾げるのは、文が通うカメラ店の店主だ。はたてが通う店と比較すると店としては古風だが、店主は逆にこちらのほうが若かった。こちらも同じく、白狼天狗である。
 他に客はいない。カメラ店は、大抵このようなものではある。やはり高級品であり、飛ぶように売れるものではないのだ。
「珍しいんですよ、ええ。本当、ぎりぎりでした。あんまり時間の余裕もないので、早めに済ませていきますね」
「……はい?」
「もちろん、取材ですよ。そうですねえ……まずは、最近の売上はどんな感じですか?」
「どうしたんです、急に? 売上は、まあ、ぼちぼちですが」
「ぼちぼちですか。ライバル店があんなことになってるのでもっと伸びると思ってたら、当てが外れたって感じですか?」
 不躾な質問に、店主は少し眉をひそめる。
「事件をそういうネタに使うのは、少し不謹慎ではないですか?」
「不謹慎ですか? 不思議なことをおっしゃいますねえ。でも、そうなることを期待して、写真と手紙を送ったんでしょう? 新聞社に。ええ、私のところに送ってくださらなかったのは大変遺憾ですが――」
「ま、待ってください。どういうことですか。私が」
「あなたが写真を撮って送ったと言ったのですよ、ええ。間違いなく」
 ふう、と息を吐いて、商品陳列棚の一つにもたれかかる。ああ、疲れた、と小さく呟く。
「あの写真、かなり高い技術で撮られてるんですよねえ。まあ、記者か、カメラ関係の仕事をしてるか、相当なカメラ好きか」
 戸惑っている店主をよそに、静かに語り始める。
「でも記者ならいろんな新聞社に匿名で写真を送るなんてことは、ありえません。自分の仕事の否定ですからね、それは。で、ね。私も昨日しっかり実感してきましたが、あの店は、カメラ好きには相当評価高いんですよね。店の利用者ならみんな、そこで買うカメラの品質の高さは知ってる、って感じでした。で、一番可能性が高いのは」
 店主に向かって、薄く微笑みかける。
「カメラ店の人。直接のライバルなら、相手が落ちてくれることによる直接的な利益があるし、わかりやすいですね。現像も自分のところでできるから、匿名性の確保も簡単」
「……そんなの、完全に憶測じゃないですか。やめてくださいよ、適当な決め付けは」
「そうですね、決めつけはよくないですね。ええ。――ところで、店主さん。河童の自己顕示欲の強さは、ご存知ですか?」
「……」
 唐突にまた話が変わって、店主はどう答えればよいのかわからなかったのか、沈黙で答える。構わず文は続ける。
「あいつら、技術力は信用できるんですけど、勝手なこともするんですよね。カメラ店の店主さんなら、ご存知かと思いますけど。昔は、カメラで撮った写真にまでカメラの製作者の区別がつくような『銘』をこっそり入れる細工をしてたりしたんですよね」
「……知ってます。私たちの抗議で、そんなカメラはとっくになくなってるはずですが」
「ええ。写真は、私たちが動いたから、変な細工はしないようになりました。ところがこれはあくまで写真の話で、他の道具に関してはお構いなしだったりするのが、あいつら河童のやることなんですよ」
 ポーチに手を入れながら、一度間を置いて、言う。
「――たとえば、タイプライターとか、ね」
 呆けた顔を見せる店主の前で、二枚の紙を取り出す。
 一枚は、新聞社に送られた手紙。
 もう一枚は、一昨日のメンテナンスの際に渡されたメンテ記録書。
「私も知り合いの河童に聞いて知ったのはついこの間なんですけどね。もしかして、と思って聞いてみたら、ビンゴでしたよ。信じられますか? あいつら、タイプライターで打った文字にまで細工してるんですよ。もちろん、普通に文字を読んでる分にはまずわからないように、ですけど。誰も気づいてないでしょうね。で、この二枚。間違いなく同じタイプライターで打たれたものだって、断定してくれましたよ、河童が」
「……メンテを頼んだのも、このためだったのですか」
「さあ、どうでしょう」
 もちろん、ハッタリである。メンテ記録を手にしていたのは、まったくの偶然だった。新聞社に送られた手紙のほうはとにかく早く入手するために相当な無理をしたものだが。入手した上で、河童に見比べてもらう。ここまでが必要な条件だった。
「……やれやれ。まったく、想定外です。そんなところから露見することも、あるんですね」
「うふふ。わかっていただけて、なによりです」
 苦笑いを浮かべる店主に対して、文は晴れやかな笑顔を向ける。
 で、と。少し変化した口調で、店主は言った。
「それがどうかしたんです? 確かに写真と手紙を送ったのは私ですが、誰が送ろうと変わらないでしょう。彼の不法行為という事実が変わるわけではない」
「ええ、本当なら問題ないんですよねえ。事実、なのだったとしたら」
「……」
 店主の表情が、一瞬、険しいものになった。すぐにいつもの穏やかな顔に戻そうとするが、文はそれを待たず、次の武器を取り出す。
 時間がないのだ。一気に決めに行くつもりだった。
「彼は言ってましたよ。あれは品質確認作業である、と」
「不正を暴かれた人の言い訳など真面目に取り合うのですか?」
「ところが、あら不思議。彼の証言を支える決定的な証拠があるのです」
 ここで、ポーチから取り出した写真を、すなわち、例の写真を、店主に突きつけた。
「さて。この写真に見覚えはありませんか?」
「――!? なん……っ」
 店主の反応は素直だった。驚愕に顔を歪ませ、なにかを叫びかけた。
 慌てて止めたようだが、もう、手遅れである。
 にやり、と、文は、意識して悪い笑みを浮かべる。
「すみませんね。こいつを手に入れるために、少々無茶をさせていただきました。なんでこの写真があるのか、ですか? 今、言おうとしたのは」
「……」
 店主は、口をもごもごさせる。動揺の中で、次の言葉が自分の運命を決定づけるかもしれないことを理解しているのだろう。
 おそらくは考えているはずだ。写真そのものを否定するか、写真を受け入れた上で反撃に出るのか。が、写真を見た瞬間の反応が、前者の方針をすでに苦しくさせていた。
「……侵入したのか。記者に、そんな権利はないはずだが」
 丁寧語もやめて、店主は文を睨みつける。
「入手経路についてはノーコメントとさせていただきます。重要なのは、この写真があることではないですか? 誰がどう手に入れたかなんて、関係ないでしょう」
「それは――」
「往生際が悪いですよ。もう、これで決着はついてるんです。でも、不思議なんですよ、私。この店はクラシック専門。あの店は先進的なカメラが中心。客層はもともとあまり被ってません。現に、あまりここが繁盛してる感じはしませんしね。どうして、こんなことをしたんですか?」
 店主になにかを喋らせないように、畳み掛けていく。
 実際、店主は言おうとしていた言葉を、引っ込めた。そして、その隙にまた、文は割り込んでいく。
「と、言いながらも、実はだいたいわかってるんですけどね。ねえ店主さん、店主さんは私と同じ好みですからね。あんなカメラとも思えないカメラを売ってる店があって、それがそこそこ流行ってるのが許せなかったんじゃ、ないですか? 新聞記者のインタビューにも、『変わりもののカメラ』とさえ言えなくて、ただの『変わりもの』なんて答えてしまうくらい、抵抗があるみたいですし」
 なにもかも、全て、わかってますよ。時間を費やすだけの抵抗は無駄ですよ。そう、言外のプレッシャーを送り続ける。相手が冷静になる前に。決めるべきときに、一気に決めなければならない。
「私もあの店のカメラ見ましたけど、まあ、とても理解不能でしたからね。少なくともカメラとしての美しさは、私には感じられませんでした。店主さん、クラシック通の中でも造形美にこだわりがありますからね。店というよりは、最近のおかしなカメラに打撃を与えたかった――そんなところじゃ、ないですか?」
 一方的にまくし立てているうちに、少しずつ店主の表情が諦めのそれに変わっていくのを確認する。ここまで言い終えると、はは、と彼は乾いた笑いを浮かべた。
「……あなたほど、人の気持ちをちゃんと理解してくれる記者なんて、いませんでしたよ」
 ため息混じりに、そう、言った。
「ええ、その通り。あんなものは断じてカメラではありません。ファインダーもない、モノによってはシャッターもない。完全に形が決まっていて、レンズを触ることもできない。絞りもフォーカスもない。カメラ型のおもちゃですよ」
「だから、懲らしめてやろう、という感じですね?」
「だって、おもちゃを売っているのにカメラ店を名乗ってるんですよ。カメラに対する冒涜じゃないですか」
「でしたら、そう堂々と主張すればよかったのではないですか。陥れるようなやり方では、人の心は掴めませんよ?」
「あなたが真相を暴いたりしなければ、誰も私と彼の店の関係になんて気づいたりしませんよ。あの店がなくなれば、みんな目が覚めて本当のカメラの良さを思い出すはずです」
「そうですかねえ、残念ながらそんな空気ではないみたいでしたけど」
「今はまだ早すぎるんですよ。時間が経てば、風向きは変わってきます。あなたも同志だ、私たちのカメラの復権を見てみたくないんですか?」
「興味はありますけどねえ。私、意外と、卑怯なことは嫌いなんですよ」
 探りあうように、見つめ合う。
 ゆっくりと息を吐いてから、彼は、少し落ち着いたトーンで言った。
「この件を、記事にしますか?」
「しますね。それが私の仕事ですから」
「そうですか。……ところで、記者さんはご存知ですかね。その写真が決め手になっているようですが、違法な手段で入手したものには証拠能力は認められないんですよ」
「ええ。実は知ってました」
 店主としては切り札を切ったつもりだったのだろう。だが、文は事も無げに答えた。意外な反応を受けて、彼は表情を険しく歪ませた。
「でも――」
 彼が疑念の言葉を発するより早く。
 文は最後のカードを切った。
「自白は、最強の証拠だと思いませんか?」
 言って、胸ポケットを指さす。そこにはメモ帳が挟んであった。――少なくとも、店主にはメモ帳に見えていただろう。文は、それをポケットから引き抜く。
「まあ、驚きますよね。こんなものがビデオカメラにもなるなんて言われたら」
 店主の表情が驚きに染まっていく。
 文が手にしたそれは、はたてのカメラだった。あまりに目を引く外見を持っているので、外側には紙を貼り付けてある。が、注意してみてみると、一部分に穴が開いていて、その向こう側に小さなレンズがあることが、見て取れなくもなかった。
「さ、どうします? 力ずくで、奪いますか?」
「……私が? あなたから? まさか」
 今度こそ完全に諦めた顔になって、苦笑を浮かべる。
「なんで、あなたがそんなカメラを持ってるんですか……」
「ま、友達のものでしてね」
「結局、最後までそんなモノにやられっぱなしですよ。……これだから、変なカメラもどきは嫌いなんです」
「それは、割と同感です」
 文は微笑みながら言うと、カメラを操作して、録画を止める。
 決着はついた。
「残念です。この店のセンスが好きだったのは、本当なんですよ」
「……ありがとうございます。ええ、いつも世話になってましたね」
「でも、今回は容赦することはできません。あなたのやったことは、私の大切な友達を悲しませました。もっと怖い目にあうかもしれないところまで追い込まれました。カメラの哲学なんかより、ずっと重い事実です。もちろん、あなたにそんなつもりはなかったんでしょうけれど」
 一度、大きく息を吐いて。
「それでも、私はあなたを許せません」



***



「ありがとう。君たちのおかげだよ」
 店主は、深く頭を下げた。
 むず痒くなって、はたては両手を前にして首をぶんぶんと横に振る。
「い、いえ私は、その、普通の」
「どれだけ礼を言われ慣れてないのよ」
「う……うるさいわねっ! とにかく、えっと……当然のことをしたまでですっ!」
 閉店を余儀なくされていたカメラ店の再開初日。無事、今まで通り、むしろそれ以上の客入りがあった。
 例の事件の記事は、文々。新聞と花果子念報の共同号外として発行された。文の人脈を生かして、多数の烏天狗達の協力を得て、それはもう盛大にばらまかれた。
「ライバル店を陥れるための陰謀、その真相を暴く」というストーリーは、人々――もちろん人間ではない――の心をしっかりと掴んだ。当然のように、この店に対する嫌がらせは、ぴたりと止んだ。
「本当言うと、あんな記事を書いた奴らもなんとかしたかったんだけど」
 はたてに残った唯一の不満は、そこだった。
「ま、多少のダメージはあるでしょ、この件で」
「そうだけどさー」
「悔しいのはわかるけどね。そんなことをやる奴らの新聞のほうが、私たちより売れてるんだからね?」
「……別に、そんな話はしてない」
 店に入るまではこんな会話を繰り広げていたものだが、店主の大歓迎を受けて、はたての不満気な気持ちなど一気に吹き飛んだのだった。
 嬉しいやら痒いやら。とりあえず、礼の言葉に対してどんな反応をするのが正しいのかわからなかったはたては、慌てることになったのだった。
「えっと、それに、最終的にはだいぶ文のおかげだったし、私は……」
「はたて。もっと、堂々としててもいいのよ。わかってないかもしれないけど、あなたの功績はそれだけ十分大きいの」
「そ……そうかな」
「そうそう。例えるなら、あなたが野菜を切って並べて、私がドレッシングかけた感じ」
「わかんないんですけどー!?」
「……君たちは、ずいぶんと仲がいいんだね」
 言い合っていると、少しずつ頭を上げた店主が、いつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。うげ、と反射的にはたては零す。
「私が? こいつとー?」
「手間がかかる後輩ですからね。優しくしてあげないといけなくて、大変ですよ」
「あー? 世話してもらった覚えはないんですけどー?」
「ちょうどこんな感じで反抗期が来てるみたいでして」
「あんたの子供か私はっ」
「……ふふ。元気なのは、結構なことだよ。羨ましいね、君たちは、お互いを信頼しあっているように見える。いい友達じゃないか」
 店主の言葉が、また止めどなく始まりそうな二人の掛け合いを遮る。
 はたては、今度は反論は入れなかった。そんな毒気を取り払ってしまうような、落ち着いた大人の声だった。
 ちら、とはたては文の様子を窺う。――少し、嬉しそうな顔をしているように、見えた。
 はたては、くす、と小さく笑った。
「そうですね。ありがとうございます。大切な友達、ですから」
 店主に向かって、しっかりと言い切った。
 隣で文が驚いている気配を感じた。してやったり、とはたては心の中で笑う。いつまでも振り回されてばかりではいけないのだ。


「大切な友達、だって。どこまで本音やら」
 店を出るなり、文は言った。そこまで気にしてくれたのなら私の勝ちだな、とはたてはガッツポーズである。
「なに? 嬉しいの? 素直になりなさいよー」
「……まあ。言われてみると、嬉しいわね」
「ふぁっ!?」
 思わぬ素直な返答が返ってきて、慌てることになるのは、やはりはたてのほうである。
「な、なによ、文、体調でも崩してるの? ああ、ほら、ロクに寝てないから――」
「あなたの口からそんな言葉が聞けたのが意外すぎて、驚いてるの」
「ぐ……」
 結局、ペースは常に文のほうが握っているものである。
 少し悔しく思いつつも、とはいえ、これも悪い気はしないというのだから、なおのこと始末が悪いのだった。
 実際、今回の事件を通して、丸一日以上一緒に過ごして、文に対するイメージはいくぶん和らいで、より明確に言えば、いい方向に変わっていた。
 共闘作戦はここまでである。店を出て、このあとさよならと手を振れば、またライバル関係の二人に元通りだ。共同新聞なんて形を取ることも、同じような事件でも起きない限りは、もうないだろう。
 それでも、単にライバルというわけではない。友達であり、ライバルであるということだ。それは、悪くないことだな、と。はたては思い始めていた。
「なに笑ってるのよ。気持ち悪い」
「別にー。文には関係ないことだし」
「あっそ」
 大切な友達。いい言葉だ。自分の口からその単語が出たことは、確かに驚きだな、とはたて自身が思う。

 ――でもね。
 思い出すと、どうしても笑みが自然とこぼれてしまう。

 ねえ文。最後の証拠を掴むために、慣れないカメラの操作の練習、いっぱいしたよね。本番前も、ちゃんと録画できてるかどうか、何回もしっかり確かめてたよね。
 でも、録画を止める練習をあんまりしなかったのは、文にしては、珍しいミスだったね。
 ねえ文。
 いつか、文がこの事件のことを忘れた時に、見せてあげる。
 この、ラスト三十秒、九百フレームの映像を見せて、思い切り恥ずかしがらせてあげる。

「それじゃ、さよなら。おやすみ。しっかり寝なさいよ」
「文こそね。――またね」
 二人は、それぞれ別の方向に飛び立つ。
 はたてのほうが、少しだけ早く、地面を蹴っていた。