「お」
 中庭に美汐の姿を見つけたのは、昼休みが始まって少し経った頃だった。
 祐一は激戦の末入手したパン3袋を手に、躊躇無く近づいていく。今の季節になると中庭で弁当を食べる生徒も多く、普段からあまり目立たない美汐の姿は周囲の景色に紛れてしまっている。祐一が気付いたのはただ偶然目がそこにいったというだけのことだった。
 ともすれば、こうやって彼女に向かって真っ直ぐ歩いているつもりでも見失いそうになる――なんてほど、さすがに、存在感が薄いというわけでもなかったが。
 祐一が歩み寄っているうちに、噴水前のベンチに美汐は場所を見つけてすっと腰を降ろす。
「よ、天野。一人か?」
 すぐ側まで寄って声をかけたのはその4秒ほど後。
 美汐は少し驚いたように顔を上げる。
 が、すぐに、表情を和らげる。――安心したような、少し喜びが混ざっているような――というのは希望的観測に過ぎないかもしれない。
「こんにちは。いい天気ですね」
「学生の挨拶か、それが」
「……学生が天気の話をしてはいけませんか?」
「いけなくはないな……」
 妙な挨拶を交わしながら、祐一は周囲を何となく見渡す。誰かが向かってきている様子は無い。
 視線を下げる。
「で、隣、いいか?」
「どうぞ」
 とりあえず友達を待っているわけではないようだった。

「……」
「……」
 もぐもぐ。
 ……ごくん。
 食事の「音」が何故か妙に大きく耳につく。いつも通りのはずなのに。
 美味そうな弁当だな。そうですか。ああでもちょっと少なくないかそれで足りるのか。ええ。
 ――そんなお約束のような会話を少し終わらせると、もう特に話題は残っていなかった。
 別に今が特別気まずい状況というわけでもない。もともと祐一と美汐はそれほど共通の話題を持っているわけではなく、2人でいるとこんな状態になることはしばしばあった。
 無言でなんとなく座っているだけというのも決して、少なくとも祐一にとっては、退屈なものでもないのだが――でなければこうなるのが分かりきってて隣に座りに来たりはしない――、ただやはりせっかく一緒にいるのに何の話も無いというのは寂しい。
 残り少なくなった最後の1つのパンにかじりつきながら、祐一は話題を必死に探していた。
「昨日、生徒の少ない小学校で、6年生全員で23人24脚に挑戦するというちょっとしたドキュメンタリーを見ました」
 と。
 口を開いたのは美汐のほうだった。ぽそり、と。
 テレビ番組の事だろう、とすぐに理解する。なるほど、こういう時の話題には無難なセンかもしれない。残念ながらその番組を祐一は見ていないのだが。
「子供って純真で一生懸命で……いいですよね」
 特に表情を変えるでもなく、淡々と話す美汐。あまり気持ちが篭った言葉のようには聞こえない。
 とは言えあまり目を輝かせて子供について語られてもそれはそれで反応に困るものだ。
「純真とは限らないもんだが――今の俺らから見ればどんなのもまあ可愛いもんかもしれないな」
 こく……と美汐は軽く頷く。
 そしてちらり、と祐一の顔に視線を向けた。
「相沢さんの小さい頃ってどんな感じのいじめっ子でしたか?」
「……なんでもういじめっ子限定デスカ?」
「違うんですか?」
「いやそんなに揺ぎ無い確信を持って言われるほど俺は悪さを積み重ねてきた覚えはないんだが……」
 心の中で頭を抱えてしまう。
 小さい頃を思い出す――例えば名雪との事色々だったり(寒いからという理由だけで約束をすっぽかした思い出とか、雪の中に待たせたままついマンガの立ち読みで半分凍えさせた思い出とか)、例えば引越しの後、向こうでの小学校生活だったり(もう付き合ってる女の子がいたのに別の子に告白されてそのまま2人ともと付き合いだした思い出とか、宿題忘れた時に隣の”親切な”生徒にちょっと強引にノートを1時間借りた思い出とか――確かその生徒は授業中当てられてノートが無くて答えられなくて怒られていたような微かな記憶もあるのだが)――
「……ゴメンナサイ」
「いきなり謝られても困りますが」
 目を逸らして決まり悪そうに、何にともなく謝る祐一に対して、美汐はただ冷静に言葉を返すだけだった。
「い、いやまあ気にするな。それより天野はどうなんだ?」
「私はいじめはしてませんよ」
「いやそっちじゃなくて」
「まあ、普通の平凡な子供だったと思います」
 ……普通の、平凡。
 祐一はじっくりと隣の美汐の横顔を見つめる。
 そのまま脳内で時間を逆行シミュレーションしてみる。
 ……普通の、平凡。
 浮かんだ情景の中で美汐は、陽の良く当たる縁側でおじいちゃんと一緒に将棋を打っていた。お盆には良く冷えた麦茶とせんべい。おじいちゃん、うーむ参ったなとぽりぽり頭を掻きながら唸っている。それを見て降参する? と冷静に尋ねる美汐。全く敵わんなぁとおじいちゃん天井を見上げる。わしも年を取ったもんだ。若さとは財産よのぅ。
「頑張れおじいちゃん……」
「どんな想像したのか知りませんが、本当に普通ですよ」
 感極まったようにぐっと拳を握り締める祐一の様子も気にせず、あくまでさらりと美汐は言葉を返す。
 ……祐一はなんとなく拳の下ろし場所が見つからず中途半端な高さで手を止める事になってしまう。
 実際、普通といわれてもいまいち想像がつかない。
「……例えばどんな普通だ?」
「普通は普通です。店で欲しいものがあって買ってもらえなかったときはいっぱい人が通る中床に座り込んで大声で泣いて抗議したり、ちょっと授業で知った知識を親に披露して親が知らなかった事を思い切りバカにしたり、子供だから許されるのをいい事に人通りの多い中で雪合戦して通行人にぶつけたりしてました」
「天野、本当は子供嫌いだろ……」
 さらさらと言葉を並べる美汐に、祐一は心持ち身を引く。
 冷や汗を流しながら。
「好きと言った覚えはありませんが。まあ子供ですからそんなものです」
「確かに間違ってはいないだろうが」
「あ、でも可愛らしい一面もちゃんとあるんですよ」
「ほう」
 美汐本人も先ほどの言葉が決して可愛らしい一面ではない事を自覚していたらしい。
 それ自体はある意味で救いだった。
 興味を持った祐一の反応に対して、自信たっぷりに美汐が言う。
「おじいちゃんと将棋打ったりしてました」
「やっぱり当たってるし」
 それを可愛らしいと思っているセンスに、何故か祐一は妙な安心感を覚えてみたりした。

 などと話しているうちに、昼休みの終わりは近づいてきていた。
「しかし……毎度ながら俺たちの会話って微妙に変だよな……」
「それは、相沢さんと私ですから」
「身もフタも無いな。確かにその通りなんだが」
 今日はまだ普通なほうだ。
 大抵会話が途切れるといきなり妙な方向に飛んだり、だんだん意味不明の会話になっていったりとなかなか「普通の会話」にはならないものだった。
 それでもまだ、話が続くだけマシではあったのだが。どんな話だろうとずっと沈黙しているよりはやはり楽しいものだ。
「私は、こういうのも好きですよ」
 美汐が少し目を細めて呟く。
 わずかだが、微笑んでいるようにも見える表情。
「そうか。それはよかった」
「ええ。相沢さんも、その――楽しくない相手にわざわざお昼付き合ったりしないでしょう?」
「……ま、まあ、そうだな」
 唐突にストレートな美汐の言葉に、油断していた祐一は言葉を詰まらせてしまう。
 私となんて話していて楽しいですか? と聞かれるよりもよほど効く。断定的に言われるほうがずっと心の中を何か試されているような気分になる。
 そんな祐一の葛藤を知ってか知らずか、美汐は、今度ははっきりと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「嬉しいです」
 嬉しそうに、という表情だけではなくしっかりと言葉にして。
 また不意を突かれた祐一は、今度は上手く返す言葉も見つからなかった。
 普段の会話がどこがズレているだけに、ストレートな言葉には弱いものだった――そんな自覚をしながら、祐一は、ぎゅっと拳を握り締めて自然に視線を逸らす。
「……もうすぐ時間だから、先に戻るな」
 結局次に出た言葉はそれだけだった。
「はい。ありがとうございました」
 礼を言われるようなことをした覚えはない。
 そう言おうと思ったが、祐一の口から出た言葉は全く違うものだった。
「ありがとな」
 それじゃ、と軽く手を振って、祐一は教室に向かって歩き出した。
 ほぅ……とため息をつき、平常より忙しなく脈打つ心臓あたりに軽く手を添えて静めながら。



 時々会っては、こんなとりとめもない話をする関係。
 朝の昇降口で少し言葉を交わしたりした。
 廊下で会って、祐一が運び物の手伝いをしたこともあった。
 放課後、ほんの少しの間だけの共通の帰り道を一緒に歩きながら話をしたこともあった。
 休日に本屋で偶然会ってやはり少し話をしたこともあった。
 昼休みに会ったのは、今日が初めてだった。
 ただ、それだけの関係。
 ただ、祐一がここのところ、朝や放課後の昇降口で美汐の姿がないかどうか気にするようになった。それだけの関係。
 話題は本当にこれといって無かった。決して、二人が、美汐と祐一が出会ったきっかけになったある出来事に関して話されることは無かった――おそらくは祐一のほうからその話を振らない限り。
 祐一が戸惑いを覚え始めたのは、それほど遠い昔ではない。
 美汐はあの悲しい結末を思い出させる一番の相手……のはずだった。
 最初、美汐は祐一に少しだけ優しく接していた。同じ傷を負った相手として、ほんの少しだけ、温かく支えていた。決して同情するでもなく、甘えさせるでもなく。祐一を治療する医者になるのではなく、病室の花瓶の花になった。
 祐一は、ショックから立ち直れたならもう美汐から離れるつもりだった。悲しみが去っていったなら、もう接点を持たないほうがお互いのためだと思っていた。
 ……少しの間だけ、美汐を、普段にも時々襲い掛かってくる悲しい別れの思い出から逃げるためにいわば利用していたつもりだった。
 それがどうした事か、悲しみが薄れていくにつれて、美汐から離れようという思いも消えていった。
 あまりにも、居心地が良すぎたのだ。美汐の隣にいることが。
 美汐の態度も変わっていった。もともと微かだったとはいえ、気遣うような特別な優しさは無くなった。祐一の表情を時々窺っていたのも見られなくなった。
 その時から普通の関係になった。普通の友達になれた。祐一は、そう、最初は思っていた。
『嬉しいです』
 美汐がまた、笑顔を見せる。祐一の頭の中で。
 本物よりも何倍か可愛らしい笑顔で。
「参ったな……」
 廊下を歩きながら、頭を手で軽く叩く。
 自覚したときにはもう、いつこの気持ちについて話を切り出そうか、どうしたらもっと踏み込んで付き合えるようになるか、そんな悩みに切り替わっているなんて。
 いつもの祐一ならもっと積極的に誘っている。今日にだってデートの約束くらいまでこぎつけたかもしれない。
 もう一歩勇気が出ないのは、きっと、今くらいのぬるま湯の関係からさらに踏み込むとなれば、どうしてもまた一度はあの思い出話に戻る必要が出てくるから。二人を深いところで結び付けている、あの出来事に。
 いつまでも未練があるわけではなかった。随分と悩み苦しみ、一時はもう立ち直れないかとさえ思われたほどの悲しみももうほとんど消えていた。一人ではなかったから。
 祐一の心の問題ではない。
 美汐が受け入れてくれるのか。不安はただその一点だった。
 複雑な問題ではない。もしかしたら自分が気持ちを明かした途端に美汐は「そんなつもりは無かった」と離れていってしまうのではないか――その不安だけだった。仲間意識に近いようなもの、それだけで付き合ってくれているのではないか。散々甘えておいて今度は恋人になってくれというのはあまりに図々しい――と思われるのではないか。
 どうしてもあと一歩、身勝手な男になれない。
 だからいつも、今日みたいに、会いに行っても世間話をするばかり。
 祐一は密やかにもう一度ため息をついた。廊下に知り合いがいないのを確認してから。
 何か――都合のいいきっかけが欲しかった。偶然の力でも魔法の力でもいい。
 ただそれを待っている。



「み〜〜ま〜〜し〜〜た〜〜よ〜〜〜〜」
「のわっ!?」
 放課後、教室を出るといきなり死角から声をかけられた。
 姿が見えない上にすぐ近くから聞こえるしかも間延びした声に一瞬本気でビビってしまう。心臓がバクバク言っている。
 その数瞬後には、憑かれているのだろうか、恨まれた覚えは無いのだが一体、ところでそういえばゆうれいの「ゆう」ってどんな漢字だったっけ微妙に書けそうで思い出せないなどと色んな事を考えるほどの余裕ができたのだが。
 などと考えながらも、声のしたほうに振り向いてみる。
 よく知った小さな女の子の姿がそこにあった。確かに一度は幽霊になりかけたこともあるようなちょっとしたワケアリの知りあいだった。
 ホっと胸を撫で下ろす。
「まったく……驚かせるなよ。栞かと思ったじゃないか」
「栞ですっ! 髪の枝毛からつま先までおはようからおやすみまで一点の曇りも無く容赦なく美坂栞そのものですっ!」
「そう照れるなって」
「会話のキャッチボールをしてくださいっ!」
「ちょっとしたスローカーブじゃないか」
「是が非でもストレートでお願いします」
「……おお。今日も元気そうで何よりだな、栞」
「……祐一さんも、いつも通り元気そうで」
「はっはっは」
 何故かぐったりと肩を落としながら俯く栞の頭にぽんと手を置いて軽く撫でる。
 さらさらしてて気持ちよかった。
「で、何を見たって? 香里の恥ずかしい場面か? スーパーの豚コマ切れ肉1パック詰め放題でもうパックが閉じられなくなるほど必死に押し込みまくって溢れさせていたとか」
「それはそれくらいやるのが常識ですっ。そうじゃありませんっ」
 ばっと祐一の手を軽く振り払って、勢いよく祐一に詰め寄る栞。
 常識なのかオイ、とツッコむ余地もなく。
 顔ががぐっと接近する。
「祐一さん。祐一さんは美汐ちゃんと付き合ってるんですか?」
「まあ待て栞。ちょっと場所を変えよう」
 美汐の名前を出した途端に、祐一は少し慌ててぐっと栞の腕を掴む。
 栞の返事を聞くより先に、ずるずると引っ張る。
 栞は不満そうに顔を歪めるも、抵抗は特にせずに祐一の向かう先に大人しくついていった。
 人気の無い音楽室の前に。

「それで祐一さん――」
「違う。何を見たか知らんが俺たちは付き合っていない」
 栞が完全に言い切る前に、まず事実を答えておく。
 栞の目が疑わしげに祐一を見つめる。
「……というか、栞って天野と知り合いなのか?」
「それはこっちの台詞です。私は同級生ですから……元、同級生ですから知り合うキッカケがあってもおかしくないです。祐一さんと美汐ちゃんにどういう繋がりがあるのか想像できません」
「いや、そんなもんは偶然とか色々あるだろ。俺と栞だって一緒さ」
「む……」
 さすがに栞に、というより誰にも、美汐との出会いについて語る気にはなれない。
 栞は少し眉を顰めるが、すぐにそこはもう納得したのか気にしないようにしたのか、話を切り替える。
「そうすると、いわゆる友達以上恋人未満という状態ですか?」
「……そんな感じに、見えるか?」
「あれだけ親密そうなオーラ出しておきながらただの友達なんて言われても信じません」
「何をどこまで見てたんだか……」
 祐一は唸る。
 デートのようなものをした覚えもないし、恐らくは今日の昼休みのような場面だろう。
「で、どうなんですか?」
「どうって言われてもな」
 実際自分達でも――自分でも、となんとなく慌てて頭の中で訂正しつつ――今の2人の関係がどうなのかと聞かれても分からないものだ。普通の友達関係とは違うような気がする。とはいえ決して恋愛関係に達しているわけではない。
 ただ、周囲からそう見えるという事実を突きつけられると意識せざるを得ない。……やはり、少し、嬉しい。
 同じ事を言われたら美汐はどう反応するだろうか?
 今日の昼休みみたいに少しでも嬉しそうに微笑んでくれれば当たり、不機嫌そうになって避けだしたらハズレだろう。後者では無い事を祈るのみだ。そんな事になったら――
 ――なんて事を考える時点で祐一のほうがかなり意識している証拠だ。そう気付いてまた少し慌てる。
「祐一さん、考え込んだり青ざめたり赤くなったり、見てて面白いですよ」
「面白いとか言うな。思っても言うな」
「とりあえずは祐一さんのほうは美汐ちゃんにラブで間違いないんですね?」
 栞の声に楽しそうな響きが混ざってきた。
 これは、少しずつエンジンがかかってきた状態だ。こと、恋愛話となると栞は喜んで食いつく。
 それこそいちごを見つけたときの名雪のように。
「……ああ。そうだな」
 苦いお茶を飲んだように顔を顰めながらも、しかし祐一は肯定の返事を返していた。
 否定する要素が見つからなかった。
 昼休みの別れ際に感じたあの気持ちも、やはり、そういう事なのだろうから。1ヶ月前に同じ事を聞かれていたらもっと悩んだか、否定していたかもしれないが、今はもう迷う余地がない。
 何も今栞に正直に言う必要も無いのだろうが――別に嘘をつかなければいけない理由があるわけでも無い。栞はこういう事を話すに当たって信用に値する人物ではあった。簡単に誰かに言いふらしたりはしないだろう。
 むしろ、美汐が栞と同級生である以上、味方につけておければ何かと有用だろう。そんな打算も少なからずあったことは否めない。
 もっとも、味方にできるかどうかは不明なのだが。
「祐一さんと美汐ちゃん……面白い組み合わせですね。ちょっとビックリです。どっちがツッコミなんですか?」
「いや漫才コンビじゃなくて」
「どっちなんですか?」
「……どっちかといえば、俺」
「なるほど」
 栞は感慨深げに頷く。
 美汐ちゃんツッコミどころ満載ですしねー、と失礼な呟きを添えながら。
「好きなら好きでいつでも告白しちゃいましょう。いい雰囲気でしたよ」
 さあさあ、と親指を立てながら言う。
 今にもうりうりと肘でつついてきそうな雰囲気だ。
「そう簡単に言われてもな。まあ急ぐわけでもないし」
「えー。それじゃあちゃんと何かアプローチしてます? デート誘ったりしてます?」
「……必要だと思ったらそのうちな」
「消極的です! アイス食べる時にカップのフタについたほうを先に舐めてしまうくらい消極的です! そんな事だと美汐ちゃんが他の誰かに取られちゃうかもしれませんよ!?」
 声が大きい。かなり興奮している。
 というか、楽しそうだ。
 祐一はげんなりしながら適当に手であしらう。
「俺は俺のペースでやってくさ」
「むー……」
 祐一の顔をじっと見つめながら頬を膨らませる栞。
 そっけない態度がお気に召さないようだ。
 ――と、数秒後、その顔がパッと明るく変化する。ぽん、と手を叩く。いかにも何かを思いついたという仕草。
 にっこりと笑う。
「あー……じゃあ、俺はこれで」
「まあ待って下さい祐一さんとってもいい話があるんです」
 がしっ。
 面倒な事になりそうな予感にそそくさと逃げ出そうとした祐一の腕を栞がしっかりと掴む。
 かなり本気で力をかけたのか、歩き出していたところを思い切り引き戻される。
「明日いいものをあげますっ。待っていてくださいっ。明日予鈴前にまたここに来てくださいね。詳しい事はそのときまたお話しますから」
 にこにこと。
「……いいもの?」
「はい!」
「現金よりもいいものか?」
「あ、それほどじゃないです」
 正直だった。



 美汐はまた昨日と同じ場所で弁当を広げていた。
 正確には、座っているベンチは別物だが。誤差の範囲だ。
「よ、もしかして毎日ここなのか? 今まで気づかなかったが」
 祐一の声に、昨日と同じように美汐ははっと顔を上げて、表情を和らげる。やはりその表情には、ほんの少しの喜びも混ざっているように、見える。
「毎日というわけではありません。昨日はたまたまでした」
「じゃあ、今日もたまたまか」
「いえ」
 鞄から弁当箱を取り出しながら、美汐は少し下を向く。
 包みの結び目に手を掛けながら、声を控えめに落とす。
「今日も相沢さんが来るかもしれないと思いましたから」
 ――また、言葉に詰まる。
 祐一は今聞いた言葉を頭の中で何度もリピートさせながら、顔に勢いよく血流が昇ってきているのを感じていた。やや危険状態。
 昨日、栞にからかわれたばかりだ。いや、今朝もまた熱い「応援」を貰っている。
 そんなタイミングでこんな台詞は、凶器に近かった。
「……と、隣、いいか?」
「空いてますよ」
 少し上ずった声を上げてしまった祐一に、美汐は軽く微笑みながら、手でベンチの空いている片方を示した。
 まるで誰かの席を予約しているかのように置かれていた小さな鞄を横にずらしながら。

「……」
「……」
 昨日とは何故か少し違った雰囲気がある。
 ……と、感じるのは自分のほうだけなんだろうな、と祐一は心の中で苦笑いする。美汐は至っていつも通りの美汐だった。
 そして、いつも通りすぐにはこれといって話題も出てこないもので。
 今日もまた何か話題はないかと探しながらの食事となった。
 昨日よりも心の中に焦りがあるような感じがするのは、やはり、祐一が意識してしまっている証拠だろう。以前よりも沈黙がキツく感じる。
「ふえるわかめってありますよね」
 と。
 やはり話題を振ったのは美汐のほうだった。
 また唐突な内容だった。
「……あるな」
 ここは頷いておく以外の選択肢は何もない。
「あれって、正しくは増えてるわけじゃないですよね」
 …………
 ……
「……そうだな」
 やっぱり、そうとしか答えられなかった。

 その後の話題の展開といえば、本当は増えてないただ水を吸って大きくなっているだけのものを増えたなんて表現するのは問題だ、何も知らない子供がそれを信じて細胞分裂だと思い込んでしまう危険性がある、いやクローン技術がこんな身近にあるなんてと感激してしまうかもしれない――などと、まあ、どうでもいい事になっていた。
 話が進むうちに、美汐が鞄を探りながら小声で「あっ」と叫ぶ。
「お茶、忘れてきたみたいです。買ってきますね。待っていてください」
 言うが早いか立ち上がると、もう歩き出している。
 意外に行動は素早いほうのようだった。
 祐一はひらひらと手を振って見送った。しばらく後姿を眺めながら。

 それにしても、あの一言。
 ――今日も相沢さんが来るかもしれないと思いましたから。
 思い出すと、つい顔がにやけてしまいそうになる。その言葉には、少なからず会う事を期待していたという意味が込められていると考えても自惚れではないだろう。
 祐一もまた、もちろん、美汐がここにいるだろうと思って探してみたのだ。ばっちり、気は合っている。
 その後の話題がわかめしかないというのはどうかと思うが。
「こいつも……ちょっとはご利益をくれたのかな」
 祐一は鞄のキーホルダーを手に取って眺める。
 昨日までは付けていなかったキーホルダー。さらに言えば、今朝家を出た時もまだ付けていなかった。
 これこそが、栞のプレゼントだった。
 一体何を持ってくるのかと思えば、女の子の間でちょっと流行っている恋愛成就のお守りのようなもの……らしかった。
 海辺の風景のような絵とどこのものか分からない文字が描かれた、銀色のコイン。
 これを鞄につけておくとバッチリです、と自信たっぷりに渡された。
 それ自身は普通のコインで、キーホルダーに通せるような穴は特に無いのだが、簡単に着脱できるキーホルダー用セットと一緒になっていた。
 なんでも恋の魔法がかかっているコイン、らしいが――
 さすがに祐一にはそんな趣味はなかったが、せっかくの可愛らしいありがたいプレゼントなので使わせていただくことにしていた。
 その当日にもう十分にいい事があったと言えるのだから、少しくらいは信じてもいいかもしれない。
「お待たせしました」
 コインのほうを眺めていると、いつの間にかもう美汐が手に紙パックのお茶を手に戻ってきていた。
 相変わらず近くまで来ても気配をあまり感じない。
「よ、お疲れ様」
「相沢さん――それ」
 美汐はすっともとの場所に腰を降ろすと、間を置かずに祐一の手の中にあるものに興味を示す。
 不思議なものを見るような目で見ている。
「ん、いや、これは」
「ちょっと貸して頂けませんか?」
「……あ、ああ」
 祐一の、何と説明しようかと迷う微妙な反応を全く気にしないかのようにじっとコインを見つめて、もう手を差し出している。渡してください、と。
 珍しく押しが強いその様子に、何も考える間もなくキーホルダーを鞄から取り外して美汐の小さな掌に乗せる。
 美汐の表情からは、何を思っているかは読み取れない。
 ただそれを手に持って目の前にかざして、ゆっくりと、見つめていた。
 しばらくそうしていたが、10秒程もすると、すっと目を細めて、コインを手の中に軽く握り締めた。
「相沢さん、これは一体?」
 視線を前方やや下に向けたまま、つまり祐一のほうを見ないまま、美汐はぽつりと言った。
「あー……それは、だな」
 恋愛成就のお守りです。なんて言えるわけがなかった。
 適当にごまかしておきたいところだったが――美汐のこの反応は、明らかに「それ」に心当たりがある様子だった。
 栞が言っていたのだ。「女の子の間でちょっと流行っている」、と。
 美汐が知っているという可能性は十分にあるのだ。失念していた。
 だとしたら今、美汐は何を思っているのか。そこが祐一には一番気になっていた。
「……そうですよね。こう聞かれても答えづらいでしょう。それでは……相沢さんは、これが女の子が恋愛を叶えるおまじないに使うコインだとご存知ですか?」
 言葉に躊躇する祐一の様子を見て美汐が切り口を変える。
 同時に、これで、美汐がこれについて完全に知っているという事を確認できた事になる。
「……ああ」
 いつになくはっきりとした口調で話す美汐に少し圧倒される。
 どうやら、このコインはいい事だけじゃなくて面倒な事をもたらしてきたようだ。
「では、どうしてキーホルダーにしているのですか?」
「え? いや、そうするもんだって聞いたから――」
「やっぱり、相沢さんが自分で作ったんじゃないんですね。これは財布やポケットの中に入れておくものですよ。恋愛関係の呪具は必ず人に見せないところに入れるんです。……それで、これは、どうしたんですか?」
 ――どうやら、事態は祐一が思っている以上に複雑になっているらしい。
 祐一は混乱する。確かに栞からはキーホルダーにしろと聞いていた。実際こうしてキーホルダーにできるような形で渡されたのだ。
 どうなっているのか分からないが、少なくとも、すでに変に誤魔化し続けることはできないという状況になっているのは間違いないようだった。
「……後輩にな、貰ったんだ。プレゼントとして。これを鞄につけておくといいですよって言っていたんだが……」
「相沢さんの恋愛の応援として、ですか?」
「……ああ」
「相沢さん……好きな人が、いるんですね?」
 答えづらい質問が次々に浴びせ掛けられる。
 美汐にそのつもりはないのだろうが、厳しい尋問を受けている気分になる。
 それにしてもこの質問は、厳しい。
「……ああ」
 一言で答える。
 もはや何か工夫しようという気も無かった。まるで何もかもを見透かされているかのようだった。
 祐一の返事に、美汐は考え込むようにさらに視線を下げる。
 と思うと、胸元に手を当ててひとつ深呼吸をした。
 そして――どういうわけか、柔らかく微笑むのだった。
「相沢さん。このコインには魔法がかけられているのですよ」
「魔法?」
 反射的に祐一は聞き返す。
 美汐の声の調子がまた少し変わった。いつも通りの落ち着いたものに戻っている。
「ルーン文字ってご存知ですか?」
「いや……」
「北欧でずっと昔、ヴァイキングの時代に使われていた文字なんです。今では魔法の文字、おまじないに使う文字です。字そのものに意味があって魔力を持つと言われています」
 いきなり何も関係の無い話に飛んだように思えるが、祐一は、なんとなく想像がついた。
 このコインにルーン文字とやらの魔法が書いてあるのだろう。
「通常、魔法には標準ゲルマンフサルクと呼ばれる24文字を使うのですが、時には現在のローマ字アルファベットに対応させるために文字数の多いアングロサクソンフサルクを使うこともあります。それでも非常に便宜的なものではありますが」
 訥々と説明が続く。
 美汐は手に持ったコインを祐一に差し出す。
「これ、ありがとうございました」
 祐一はそれを受け取り、もう一度眺めてみる。
 見覚えの無い文字が描かれている――おそらくはこれが美汐の言っているルーン文字だろう。
 それはほとんど直線だけで構成された堅い文字。古代を思わせる形状。当然、話を聞いた後で見直してもなお、その意味を読み取れるわけではない。
「これには何て書いてあるんだ?」
 尋ねる。
 美汐は、面白そうに――祐一はこんな表情は初めて見たため最初は信じられなかったが、面白そうに――くすっと微笑んだのだった。
「恋の魔法ですよ」
 そう言うと、美汐はまた鞄を探り出した。
 小さなポケットから、やはり小さな可愛らしい財布を取り出す。
 そして紙幣入れからレシートを取り出した。ちらっと見えたところ、どこかのスーパーのようだった。
「実は私もこの魔法使えるんです」
 何を始めるのかと眺めている祐一の前で、今度は美汐はサインペンを取り出す。
 レシートの裏側を表にして財布の上に敷き、少し何か考えたあと、さらさらと文字を書き出した。
 その文字は、見たことの無い文字がほとんどだったが、コインに描かれている文字と同類であることは形状の特徴から読み取れた。
 意味不明の文字を迷い無く描いていくその様子は、それ自体が魔法のようにも見えた。
「できました」
 2分も経たないうちに、レシートの狭い平面の中に3行に渡る魔法が描かれていた。
 そしてそれを、祐一に渡す。
「私からの応援です。受け取って下さい」
「応援……?」
「はい。ただの紙とペンで書いた文字だけですが、効果は保証しますよ」
 祐一は改めてそれを見つめる。
 レシートの裏にサインペンというあたり実に俗的なものであるが、文字だけを追えばそれは確かに魔法的な、あるいは世間通念的な発想で言えばオカルト的な雰囲気を持ったものだった。
「そうか……ありがとな」
 応援という言葉が引っかかるのだが――美汐は「祐一の恋を快く応援してくれる」のだろうか。
 変に誤解されているとすれば、それは非常に望ましくない展開であり。
 だが、なんと言えばいいだろう?
 このまま話の流れに乗って、勢いで告白してしまえと言うのだろうか。実は俺が好きなのは天野、お前なんだ! と。
 戸惑っていると、美汐と目が合う。優しく微笑んでいた。その表情からは何を考えているかは読み取る事はできない。
「あ……」
 何を言うか決めないまま、ただ口を開く。
 聞きたかった。もし美汐が、祐一が他の誰かを好きだと信じているうえで「快く応援してくれる」のなら――つまり元から望みは無いという事。
 ぐっと、手に力を込める。
 ――しかし、ここで、チャイムの音が鳴り響く。午後の授業開始の予鈴だった。
 美汐はすっと上品な仕草で立ち上がる。
 祐一がまだ迷いを残した目で見守る中。
「相沢さん」
 小さく、呟いた。
「そのコインも、紙に書いたものも、とっても素敵な魔法なんですよ」
 胸元を手で抑えて。
 すう……と深呼吸をした。
 最後に、またしっかりと祐一の目をみつめる。
「それでは、午後も頑張ってくださいね」
 ぺこりとお辞儀をすると、美汐はくるりと身を翻す。
 美汐の教室は中庭から少し遠いため、もう戻らないと間に合わない時間だった。
「……ああ、天野もな」
 祐一は、手に持った魔法のレシートをポケットにしまうと、教室への帰り道を歩き出した。


 授業に集中できない。
 キーホルダーにするという栞の間違い――あるいは嘘。
 美汐の反応と、丁寧な説明。
 恋愛のおまじないに使うコイン。
 そしてこの、紙に書かれた魔法。
 気になる要素はたくさんあった。これが全て今朝になってから連鎖的に生まれたものだ。
 先生の声や板書の音などを遠くに聞きながら、祐一は先ほど渡された魔法をぼんやりと眺めていた。
 やはりこれも恋愛関係のおまじないなのだろうか?
 コインに書かれているフレーズに比べると随分と長く感じる。
(恋愛の魔法か……)
 ふと思い立って、こっそりとコインも取り出してみる。そこにも見られる、紙に書かれているものと同じ種類の文字。
 なんとなく見比べてみる。
 左手にコイン、右手にレシートの紙。
(……ん?)
 はた、と気付く。
 紙に書かれているフレーズの一番最後の部分――
 もう一度コインと見比べてみる。
 やはり――同じだった。
 となれば、これが恋愛のおまじないの基盤となるフレーズなのだろうか。
 このちょっとした発見に、少し暗号を解読したような気分になる。面白い。
 もう一度まじまじと見比べると、満足してコインのほうはまた鞄の中にしまう。
 どちらにしても全く意味が分からない事に変わりは無いのだが、確かに何かがある、そんな不思議な感覚をこの文字列に感じ取る事ができた。
 残りの時間は、もう少しマジメに授業を聞きながら、時々この魔法の紙を眺めて過ごした。

「ね、祐一、それ何? 授業中何見てたの?」
 授業の終了の合図とともに、祐一のもとに好奇心いっぱいの声が届いた。
 祐一は心の中で軽く舌打ちする。見られていたとは。
 声をかけてきた名雪は、無遠慮にひょっこりと祐一の手元を覗き込む。
「それそれ。何ー?」
「ん……別に面白いものでもないぞ。たぶん」
 まあいいか、と紙を差し出す。
 名雪はそれを受け取って、見つめる。
 そしてふむふむ、と頷きながら音読を始めた。
「ナガネギ ¥138 エノキダケ ¥78 テイオンサツキンギユウニユウ ¥138……」
「そっち側!?」
「フエルワカメ ¥388」
「……だからその話題が出たのか」
 納得。
 ――じゃなくて。
「そっちは別に興味持つところじゃないだろっ」
「え? 結構面白いよ?」
「少なくとも俺はそんなものを授業中に眺める趣味は無い」
「うん。まあちょっとした冗談だよ」
 あくまでにこやかなまま、名雪はくるりとレシートを裏返す。
 祐一はやれやれとため息をついて、項垂れた。
「ふーん。ルーン文字だね」
 名雪はざっと眺めると、さらりと言ってのけた。
 ぴくり、と祐一の手が反応する。
「知ってるのか?」
「うん。ちょっとね。これ、どうしたの?」
「……まあ、ある友達にお守りとして貰ったんだが」
「オシャレな友達だね。この字、女の子だよね」
「あ、ああ。そうだ、名雪、それの意味って分かるのか?」
 名雪の指摘に少し動揺したのを隠すように、さりげなく話をずらす。
 名雪は「ん……」と鼻声で生返事を返しながら、まじまじとそれを見つめなおす。
「どうかな。わたしの知ってる仕組みと同じなら、読めるよ。今すぐには無理だけど、うちに解読表があるからすぐ分かるかも」
「なんでそんなものあるんだ……」
「あ、そんなマジメなものじゃないよ? 女の子の遊びみたいなものでね」
 ぱたぱたと手を振る名雪。
「よかったら試してみようか?」
「……そうだな。うん、頼む」
「じゃ、借りてくねー」
 名雪は何故だか嬉しそうににこにことそれをかばんの中に収める。
 ――まあ、確かにこういう解読というのは妙にわくわくするものがあるというのは分かるのだが。
 ふと、物凄く恥ずかしい内容が書かれていたらどうしようと不安が過ぎるが、まあ女の子が書いたものだと知っていればどうって事はないだろう。たぶん。
 祐一もまた、内容が読めるとなると楽しみなのだった。


 放課後、一緒に帰ろうと誘う名雪を断って、祐一は近所のゲームセンターに来ていた。
 内部でも明らかに異彩を放つエリア、女の子向けコーナーに近づく。
 いつもながら近づくだけでも異様に恥ずかしいものだ。
 挙動不審にならない程度に、周囲を見渡して探す。
 目的のものは、予想通り、そこに見つかった。比較的奥のほうにあったのでここまで来るのにまたかなりの勇気を振り絞った。
「恋のルーン・マジック・コイン……間違いない、これだな」
 ある程度でも流行っているとなるとこのへんのゲームセンターにあるものだろうという祐一の予想はぴたり的中していた。
 筐体に文字入力パネル等があり、上部には今日見慣れたルーン文字が並んでいた。
 上部の文字リストをよく見てみる。アルファベットとの対応表となっている。ルーン文字の隣に、a,b,c,d……とおなじみのアルファベット文字が並んでいる。
「……これか?」
 そうすると、あの魔法も全て、単純にアルファベットをこれに変換しただけの暗号だったのだろうか。思っていたよりずっと安易だった。
 それにしても美汐はこれを全部暗記していたという事になるのだが――
 説明書きを軽く流し読みしていく。
 と、途中で、祐一の目の動きがぴたりと止まった。
”ルーン文字で大好きなあの人の名前を書いたあなただけのオリジナルコイン!”
 コイン作成の手順を見る。
”3:あなたの好きな人の名前をローマ字で入力してね!”
 …………
 ……
「……何ー!?」
 祐一は悲鳴をあげた。
 慌てて財布からコインを取り出す。
 そこに描かれている5文字のルーン文字。
 焦りながら対応表を眺める。
「……M……」
 最初の文字、M。
「I……S……」
 ぎゅ。
 コインを握り締める。
 もうこの先見る必要は無かった。
「マジか……」
 あれだけすらすらとルーン文字の暗号を書いてみせた美汐が、これを読めないわけが無い。
 もちろん美汐はこのコインの意味も知っていた。
 何の事はない――祐一は、非常に遠まわしな手段で、もう告白してしまっていたのだ。
 このコインを見た時の美汐の反応を思い出す。あの柔らかい微笑み。
『これにはなんて書いてあるんだ?』
『恋の魔法ですよ』
 面白そうな声。
 誰かのいたずらだと思っただろうか? 美汐を引っ掛けて裏で笑うためのいたずら。
 少なくとも、祐一自身を疑ってはいなかったように思える。むしろ何も知らないでいる祐一の姿を楽しんでいたのは間違いない。
 だが、これをまさか本気の告白として受け取るほどの確証は持たなかったはず――

『相沢さん……好きな人が、いるんですね?』

 ――あった。
 思い出す。
 確たる証拠物品に加え、祐一は気付かぬ間に証言までしていたのだ。自らを追い詰める証言を。もはや被告の『有罪』はほぼ疑う余地がない。
 コインを握り締める手に力がこもる。
 まさかこんな状況になっていたとは。
 明日会った時どんな反応を見せればいいのか。何も気付かないフリで自然にやっていればいいのか。
 いっそ何も知らないほうがまだよかったのかもしれない――
 だが現実は変わらない。美汐は祐一が美汐の名前を書いたコインを持っている事を知った。そして祐一は今その事実に気づいた。
 ……と、なれば、次に問題になるのは美汐の心境なのだが。
『私からの応援です。受け取って下さい』
『応援……?』
『はい。ただの紙とペンで書いた文字だけですが、効果は保証しますよ』
 唐突に――その言葉が脳裏に蘇った。
 はっと脳に電気が走ったような感覚。
 応援。そんなわけが無い。美汐は知っていたのだから。
 応援でなければ何なのか?
 今、手元にその紙はない。それが祐一の手元にあったのはほんの1時間ほどの間だけだった。
 それを真っ先に読むことになるのは――名雪だ。
 祐一は、軽い放心状態でため息をつきながら、目の前の対応表を眺めた。
「問1」
 ぽつり、呟く。
「30分前に学校を出てまっすぐ家に向かった名雪に、俺が今から走って途中で追いつくための条件を求めよ」
 ……学校から家まで10km以上あるならば、あるいは可能かもしれなかった。
 むろん現実にはそんな距離を毎日徒歩通学するわけもなく――悲しい”仮定法過去”に過ぎないわけで。


「こんにちは」
 ちょうど昨日栞が祐一を待ち伏せていたのと同じように、美汐が栞の教室の前で立っていた。
 美汐は驚かせはしないのが相違点ではあるが。
「あ、美汐ちゃん、やっほ」
「あなたの仕業ですね?」
 用件を言うのもストレートだった。
 栞もさすがに一瞬目が点になる。いきなり犯人はアナタですを目の前でやられてしまっては。
「な、なんのことかな?」
 もっとも、本当に何の事について言われているか見当がつかないわけではなかった。
 心当たりは、今朝十分にあるのだから。
 それにしたって早過ぎる、と思う。
「キーホルダーにすると教えて鞄につけさせて私の目に届くようにした――美坂さんがやりそうな事です」
「……う」
 疑問系で言っていたが、どうやら美汐は完全に確信しているらしかった。
 しかし、栞としてみれば作戦がうまく行った事を確認できたことにもなる。
「この”作戦”を成り立たせるには、私があのコインについて知っている事が前提条件になります。その場で文字を読めるならなおよし、です。美坂さんなら知っているでしょう。私があれについて教えたのですから」
「……バレバレ?」
「ええ、もう。はっきりと」
 美汐はくすっと笑う。
「それにしても驚きましたよ。相沢さんが手の込んだ仕掛けでもしたのかと思いました。態度を見ていてすぐに違うなと分かりましたけど」
「私も昨日祐一さんが美汐ちゃんのこと好きだって聞いてびっくりしたんだよー。知り合いだとも思わなかったし」
「私も美坂さんと相沢さんが仲がいいなんて知りませんでした。知っていたら早くに相談を持ちかけていたかもしれませんね」
「相談?」
「相沢さんについて、ですよ。もちろん。どうすればもっと話が弾むようになるのか、どうすればもっと距離を縮められるのか――色々あります」
「……じゃあ、やっぱり、美汐ちゃんも?」
「ええ。……気がつけば、いつの間にか。加えて言えば相沢さんも同じくらい私に好意を持ってくれている自信もあります」
「強気だ……」
「天野美汐ですから」
 お互い話しながら、笑いあう。
 この場に祐一がいたら、こんな楽しそうに饒舌に話す美汐を見て驚いただろう。
「ねね、美汐ちゃんと祐一さんってどうやって知り合ったの?」
 自然な流れで、栞が尋ねる。
 この場に祐一がいたら慌てた顔で美汐の様子を窺ったりしただろう。
「聞きたいですか?」
 が、美汐は平然と聞き返す。
「うん!」
「……ふふ。とても運命的な出会いですよ。このまま小説にできそうなくらいです」
「わぁ……さすが祐一さん、やっぱり出会いからキメるんだ」
 目を輝かせて栞は次の言葉を待つ。
 美汐もまた、栞をいかに楽しませようかと言葉を選んでいるようだった。彼女がこういう話が大好きだと知っているが故に。
「でも、話すと長くなりますからね。また後で時間がある時にゆっくりにしましょう。……それと、相沢さんはまだこの話はあまりしたがらないようなので聞き出そうとしないでくださいね」
「えー。残念〜。でも、したがらないって……何かあるの?」
「悲しい事もありましたから。……結果的に、私は相沢さんの悲しみに付けこんで仲良くなっていった形になりました。都合のいい話ですが、私としては相沢さんが十分に立ち直る事ができた今となっては忘れてくれたほうが嬉しいのかもしれません。そうすれば相沢さんの中で私は卑怯者ではなくなりますから」
「むむ……」
 頭の上に大きなハテナを浮かべている栞を見ながら、美汐は表情を和らげる。
「また今度お話しますよ。約束します」
「うんっ」
 栞は元気よく頷いた。
「で、それで、私の作戦はうまくいったのかな?」
 栞がドキドキしながら尋ねる。
「そうですね。少なくとも私にとっては。美坂さんにとっても、ですね。あれがただのいたずらではなく上手く仕掛けた本物の告白になっている、と私がちゃんと気付くところまで計算通りなんでしょう?」
 それはまさに、仕掛け人が栞だと気付いたからこそに他ならない。
 祐一にとって後輩の女の子。
 こんな仕掛けを思いつく人間。
 心当たりは一つだった。
 そして、美汐の知る限り、美坂栞という少女は恋愛を楽しむ事が大好きだが、決していたずらとしてこのような行為には出ない。それは恋愛に対する冒涜だから。
 さらに言えば、どうしようもなくお節介。
 もちろん、美汐自身、祐一の気持ちをある程度感じ取っていたという事実もある。
「……まあね」
 栞は照れ笑いを浮かべる。まさに、狙い通りの展開だった。
 美汐を信頼していたからこその計画だ。
「感謝してますよ。とても」
 嬉しそうに。
 それはもう、心から嬉しそうに美汐ははっきりと礼を言った。
「正直言うと、行き詰まりかけてました。私が気持ちを伝えれば相沢さんも受け入れてくれるかもしれないと思っていながらも……できませんでしたから。私が相沢さんの心を奪っていいのか……私たちの間に恋愛があって許されるのかって思うと、あと一歩が踏み出せませんでした」
 美汐は、胸の前で両手をきゅっと組んで、目を閉じる。
 ……3,4秒間。
 目を開く。
「でも、これでもう吹っ切れました。私たちに必要だったのは、ほんの少しでもいいから、どこか外から押してくれる力だったのでしょう。コイン一枚の力で十分でした」
 神妙に語りつづける美汐を、栞はただ黙って眺めていた。
 詳しい話はまた今度聞けるのだろう。約束をしたのだから。
 今はただ喜んでくれたという事実を素直に受けとめて。
「――で、結局、美汐ちゃんはどうしたの?」
 残る問題はただ一点。
 これについて美汐がどのような行動に出るか、だった。
 そこだけは栞も何も予想も計算もしていない。
「相沢さんに、魔法をかけておきました」
 当人がまだ自分が告白したという事実に気付いてないのだから、気付かれないように返すのだ。
 そう言って美汐は笑った。


「あいざわさん
 わたしも あなたがすきです
 あまの みしお」
 何度も。
 何度も何度も。
 何度も何度も何度も見返した。
 そして、
 破って捨てた。


 相沢祐一は間違っていた。
 彼はただ家に向かって走っている。
 今、彼の本当に為すべき事は、今すぐ商店街に引き返して、おおきないちごの乗ったショートケーキの一つでもお土産に買ってくる事だったのだ。



 翌日。
 昼休みいつもの場所、祐一は今日はパンを買う前にそこに来ていた。
 まずは何より、話がしたかった。
「魔法、効きましたか?」
 美汐は目を細めながら尋ねる。
 昨日よりずっと近くにいる、愛しい人をまっすぐに見つめて。
「ああ……かなり効いた……」
 祐一は頬を抑えながら答えた。
 さすがに、もう跡が残っているという事は無かったが。
 それはもう派手な音を立てたものだ。風呂上がりにもまだこの頬に真っ赤な手形がしっかりとついていた。
「結局何て書いてあったのか分からずじまいなんだけどな」
「?」
「まあ、ちょっとしたトラブルだ。すまん」
 それで結局どんなメッセージが残されていたのか。
 聞けるわけが無かった。名雪に。
 もう聞ける相手は美汐本人しかいない。
「そうですか」
 美汐は視線を下げる。
「……ま、なんだ。中途半端なのはよくないな。俺らしくも無いし」
 祐一がコホン、と軽く咳払いして、頬を手で掻く。
 周囲を確認する。幸い近くに、声が聞こえる範囲には人はいない。
 すう……と大きく息を吸った。

 コインに負けてはいけない。
 一晩考えて、迷って、決意をしてきた。
 万一冗談だと思われていたとしても、もう構わない。これでおしまいになってしまっても――構わなくは無いが、とにかく中途半端な状態にしておきたくなかった。
 せっかくの、そう、待っていたきっかけだったのだろうから。栞の応援は。魔法のコインは。
 ――一度心を決めると、見える景色が変わってくる。
 目の前の少女の姿も、変わっている。
 まるで今まで白黒の天野美汐しか見ていなかったかのようだった。今、それが、急に色づいていた。
 これが、出会いの出来事だとか、二人のあるべき関係だとか、そんなフィルタを全部取り除いた、純粋に祐一の気持ちが見せる天野美汐の姿だった。純然たる想いだった。
 何も特別な表情を見せているわけではない美汐が、それでも今までで一番綺麗に見えた。
 ……可愛い、と心底から思った。ぎゅっと抱きしめたくなった。……もちろんそれは、抑えるが。
 ああ、告白するってこういう事なんだ――と。祐一は初めてそれに気付く。
 今こんなに、胸がはっきりとドキドキ跳ねているのは決して緊張によるものだけではない。
 言葉は、自然に漏れていた。
「好きだ」
 
「俺、天野の事、好きなんだ。今までずっと甘えておいて都合のいい……なんて思うけど、好きになってしまったみたいだ」
 正面から言った。
 こんな形で改めるのは恥ずかしいものだったが――
 美汐は、ゆっくりと、ゆっくりと頷いた。
 そして視線を落として、目を細める。
 沈黙は、時計の秒針がせいぜい5回進む程度の時間。
 それは待つほうには長い長い、執行猶予の時間。
 ――顔を上げる。
「相沢さん……昨日のコイン、まだ持ってますか?」
 その口から聞けた言葉は、まるで想定の範疇外のものだった。
「え? あ……ああ」
「少しの間、貸していただけますか?」
 祐一は戸惑いながらも、美汐の言う通りに財布からまたコインを取り出す。
 今回のトラブル――あるいはチャンスの元になった魔法のコイン。
 それを美汐に手渡す。
 美汐は左手で受け取ると、両手の中に隠すように収めた。
「実は私、魔法を使えるんです」
 そう言うと、手にぎゅっと力を込めてみせる。
 目を閉じる。
 ……数秒。
「はい、終わりました」
 そう言うとまた、左手を開いた。
「……?」
「どうぞ」
 コインは別に姿を消したわけでもなく、増えたわけでもなく、500円玉に変わったわけでもなく、そこに渡したままの姿であった。
 困惑顔で祐一はそれをまた受け取る。
 コインをじっくり見てみる――別に何か変化があったようにも――
「あ……」
 変化は、あった。
 まだ覚えたわけではない魔法の文字。下部の文字、美汐の名前が刻まれていたはずのそれが、明らかに変わっていた。文字の形が祐一が覚えているものと違う上に、そもそも文字数が6文字になっている。
「……なるほど」
 祐一は笑った。
 美汐もまた、にこりと笑みを浮かべた。
 まだ祐一にはこの文字を読むことはできないが――
「削って書いてある文字を一瞬で書き換えるなんて凄い魔法だな」
「ええ、私は魔法使いですから。あ、それ、ちゃんと大切に持っていてくださいね」
「ああ」
 祐一はしっかりと頷いて、財布にコインをしまった。


「で、隣、いいか?」
「はい。相沢さんの席はいつでも空いてますよ」
 私が隣にいる限り、と最後に注釈を添えて。
 美汐は元気よく返事を返しながら、右手に残ったもう一つのコインをそっと、小さな鞄に入れた。







【あとがき】

 このSSは、かのんSS-Linksで行われた第2回SSこんぺの中編部門に投稿させていただいたものです。
 結果は――
 ……いえその。
 最初見た時は本当に震えが止まりませんでした。喜びなんて最初は全くありません><
 ただただ怖かったです。何かが。あんなのが1位なのかって叩かれるんじゃないかって……

 でもかなり悩んで落ち着いた結果、やっぱりこれは僕が書いたSSですし、皆様がそれを楽しんでくださったということで少しちゃんと堂々としていたいと思い直しました。
 楽しんでくださった皆様、本当にありがとうございますm(__)m
 前回の投稿作「非プラトニック制御学応用及び近距離恋愛演習」に比べるとはるかに大人しい話でした。自分的に結構無理もしてたりします。

 さて。
 このSSについては臨時掲示板のほうでかなり語りまくっております。自分のSSについてこんなに話したのは初めてです。おそるべしこんぺ。
 皆様から頂いた感想へのお返事もこちらに書かせて頂いております。
 重ね重ね、ありがとうございます >主催者いたちんサマ

 今回読者として一番のお気に入りはNo.77「女王陛下と騎兵隊長」(Visサマ)でした♪
 作者名見た時はびっくりしたですよー><
 掲示板でいつもお世話になっている、”萌えシチュの王者”Visサマではないですかっ
 大好きですっ(むぎゅ


 と、まあ、こんぺ用のあとがきはこのへんにして。


 美汐ラブっ♪
 さあ今回も小ネタいっぱい入れまくっちゃいました。没にしたネタもたくさんあります。
 特に迷ったのは「香里の恥ずかしいシーン」の内容でした。
 ここだけで1時間以上は悩んでます。ええもう。アホですね。えへ☆
 えっち系に走らなかった僕を褒めてください!(何
 ちなみに一番最初は「鏡の前で一人でパントマイムの練習をしている香里」でした。
 本当にどうでもいいネタばらしでした。

 美汐の子供時代の話も何バージョンかある中から、一番無難そうなものを選びました。
 やっぱりえっち系を控えておいた僕を責めてください!(どっち

 さて。
 メインになったルーン文字の原案をくれた、最愛なる恋人に感謝♪ にゅふ。らぶー。らぶらぶー。あの時異人館行ってなかったらこのSSは生まれませんでした♪ 愛してるよまりー。だきっ(ぎゅ
 ……とかやってると殴られそうなのでやめておきますが(やめてない
 あー。これ読んだら絶対ツッコまれるんだろうなぁと思っても書いてしまうMな僕(何

 ラブコメっ!
 です!
 やっぱりラブコメですね♪ 僕はこれからもずっとラブコメを愛しつづけていきたいと思います。
 姉弟ネタ+ラブコメ=破壊力。これ定説。

 ではではっ
 また機会がありましたらお会いしましょうっ
 しーゆーねくすとせんちゅりー!(死んでる