「ぁ…ふ、ぁん…」
どうしてこんな事になったのだろう。
「んっ!…あ、ふうっ…」
「お、おい…声、大きいってっ」
考えても答えなどないことなんて、世の中にはたくさんある。また必ずそういった事々をありのままにただ受け止めるだけでは満足できず、論理的な解明を求める者は現れるものだ。
だがこの現状に至った経過を誰が明確に説明できようか?
「やんっ。やめないでよぅ…」
「な、なぁ、やっぱり…その…マズいだろう?」
あたしはただ部活の帰りに教室の前を通っただけだった。いつも通り、いつもの時間と変わりなく。
(何してるのよ…っ)
愚問だ。あたしだってそれが何か分からない訳が無い。幼稚園児じゃあるまいし。
だが少なくともあたしの知識にある範囲内で物を言えば。それは間違っても学校の教室内で行われるべき行為ではないはずだ。
「まだ生徒も残ってるかも知れないんだし…」
「わたし…ほら、こんなになってるんだよ…んんっ…いまさら、やめるなんて酷いよ…」
親友の。
親友のそんな姿を見る事になる人間なんて、どれだけいることか。
(名雪…)
「あ、ぅあっ…んああっ…」
男―――相沢祐一の手が止まったのに応じて、名雪が自分で慰め始める。
(な、ゆき…)
そして…
そしてあたしは、どうしてドアを少し開けて、その隙間から見ているのか。
(これじゃ…まるで覗きじゃない)
教室の前を通りかかったら、中から声が聞こえた。
その声が意味するものに気づいて、気まずくなって、気づかないふりをしてそのまま通り過ぎようとした。
そしたら聞き覚えのある声だったので思わず立ち止まってしまった。
ドアを開けて見てみた。それは確かに、興味本位でもあったかもしれない。
ただ、そこに繰り広げられる光景は、想像した以上に、衝撃的だった―――
仕方ない。仕方ないのだ。そんな場面を見るのはもちろん初めてなのだし、ましてそれが親友のそれであったなら。
…仕方ないのだ。動けなくても。
(…って、何を言い訳してんのよ…)
このまま見ているわけにもいかない。名雪にも悪いし、きっと自分にも良くない。
だから、ゆっくり、静かにドアを閉めた。
今日の事は―――忘れよう。
忘れられるわけが無いにしても。
純正律
なんでまた。
「おっはよう〜」
普通に挨拶できるかね、このコは。
「…おはよう」
後ろから呼びかけてきた名雪に振り返る。
いつもと何ら変わりの無い、屈託の無い無垢な笑顔。幼い―――と言っても差し支えない。
あ。ダメだ。やっぱり昨日の光景がフラッシュバックしてくる…
長く親友でありながら、それまで見たことの無いような表情、声、言葉。
…うぅ。顔が合わせられない…
「どうしたの?香里」
ポーカーフェイスは得意技のはずなんだけど。
「え!?い、あ、うん、なんでもないの。ちょっと考え事してただけ―――」
「…昨日の事?」
「っ!?」
昨日の事って…もしかして…
………
…ダ、ダメよ、なんか意識過剰だわ…そ、そうよね、昨日の授業の事とかそういう…
「ねえ」
名雪が、声を潜めて、あたしの耳元に口を近づけてくる。
「…興奮した?」
!!
「あ、あんた、もしかしてっ…!」
「確信犯」
えへへ、とちょっとしたいたずらを告白するように名雪が笑う。
「知ってたよ。昨日、見てたのも―――香里がいつもあの時間に部活が終わるのも」
指を口元に運び、いたずらっぽい目で見上げながら。
「祐一は全然気づいてなかったみたいだけどね」
「…何のつもり?」
親友の意図がまったくわからない。あたしにみせびらかして何になるというのか。
「んー…新しい世界が見えるかと思って♪」
…新しい世界?どういうことだろう?
名雪の言葉は…難しい。
「ホントは香里にも喜んでもらえるかなって思ったんだけど…えへ、ちょっとキツすぎたかな」
あ…あのねぇ…
「…悪いけど、あたしはそういう趣味はないから…」
眩暈がする。
あたしの親友は、実はこんなコでした。とっても…その…なんか…
はあ…いつからこんな事になってしまったのやら。
…いや、考えようによってはあまりにも「変わっていない」のだ。恐ろしいくらい天然でマイペース。結局のところ―――
(相沢君の影響力なんて、何にも無いわけね)
そんな結論に行き着いてしまう。
「んー…そっかぁ。祐一もなんかイマイチ乗ってこなかったし…寂しいよ」
…彼は、いつもこうやって、名雪のマニアックな趣味に付き合わされているのだろうか。
マニアックな趣味。
………………
………
「…た、大変ね、相沢君…」
「……香里、なんかヘンな事考えてない?」
ジト目で、名雪が言ってくる。
うう、あんたにそーゆー事言われたくはなかったわ…
平静を装いながら、こっそりと額の汗をぬぐう。
キーン…コーン……
チャイムが鳴った。
「あ、ほら、急ごっ」
まだ廊下の途中だ。確かに、ちょっと急がないと。
名雪はゆっくりと走り出す。ゆっくりと。
一応…あたしに合わせてくれているのね。なんだかんだ言っても、こういう所は変わらない―――
「ねえ、香里」
走りながら、しかし器用にも全く乱れの無い綺麗な声で名雪が少し振り向きながら言う。
さすがにこういう事は慣れているのだろう…毎日の登校が勝負だから。
だけど。
その言葉の内容は、最も直接的に非日常を象徴する言葉だったかも知れない。
「昨日ね…香里の机でしたんだよ、わたしたち」
なんで、授業前に、そういうこと、言うかな。
意識…しちゃうわよ、そりゃ。
一限目は数学。
………
改めて昨日の光景が思い浮かんでくる。
制服を着たまま…その……イロイロと…
そう、この机で。
思わず机をまじまじと眺めてしまう。別段、変わったところはないのだが。
………
ちらり、と名雪のほうを見る。
別に何も変わったところは無い。普通に授業を受けている。
「何故か今日は名雪と一緒じゃなかった」相沢君のほうを見てみる。
…少し落ち着きがない。はっきりと見て取れる。
(対照的…)
どっちが普通なのか。別にどっちでも構わないんだけど…
………
『…興奮した?』
『昨日ね…香里の机でしたんだよ』
本当に…どういうつもりなんだろう。
あのコはいつでも…本気なのよね。本気で…あたしがそういうのを喜ぶとでも?
なんか、そういうのって、でも…ヘンタイっぽいじゃない。
あたしは、名雪とは違う。ノーマルなんだから…っ
「…美坂!」
「はっ!?はいっ!」
やばっ、考え事に夢中になってた。
「…珍しいな、美坂がぼーっとしてるなんて。悩み事でもあるのか?」
「い、いえ。何でもないんです。あ…それで…」
「問5だ。黒板によろしくな」
「はいっ」
…はあ…失態だわ。
名雪…恨むわよ。
とりあえず、授業には集中するようにしなきゃ…
「…だからね…その、あたしは”普通”なんだから、あんまりそういう事に巻き込まないでくれると…ありがたいんだけど」
昼休み。
学食で昼食をとったあとのフリータイムを、教室で。
そこそこ人もいたが、誰もがそれぞれに話をしているので小声で話せば聞かれることもまずないだろう。
「…普通って、なんだろうね」
「そりゃあんた…」
反射的に反応しかけて、思わず言葉を飲む。名雪の表情が、あまりに真剣だったから…
じっと真正面から見つめてくる瞳に押されるように、言葉を継ぐことができない。
何も考えられないまま、数秒―――
ふ、と名雪が表情を緩めた。また、普段の、邪気の無い笑顔に戻る。
「難しいよね」
あたしは、何も答えられない…
今まで、これほどまでに名雪との間に距離を感じた事はなかった。このコには何が見えているのだろう?
なんだか、ひどくマズい事を言ってしまったような気分…
「香里は、エッチなのは嫌い?」
「…へ?」
「例えば…自分でしたりはしないの?」
………な。
「な、なにっ、なぁに言ってんのよっ!?あっ…」
とっさに出た大声に自分で驚く。
はっとして周りを少し見渡す…が、どうやらこの程度の騒ぎなら注目を集めるほどの事でもないらしく、特に誰も見てはいないようだ。
少し胸を撫で下ろして、自分を落ち着かせる。
「するわけ、ないじゃない…」
そんなの。
あんたじゃあるまいし、と心の中で付け加えて。
声には、多少の嫌悪感も混ざっていたかも、知れない。
「”わけない”、かぁ…」
どくん。
その何気ない名雪の一言が、何故か、とても重いものになって体中に響く。
(どうしてそんな…悲しそうな顔をするの?)
ただ自分が仲間外れにされて寂しいとか、そういった表情ではない。もっと深く…彼女が見ているものは…あたしだ。
(…どうして)
すっと視線を下げて、名雪は…告げた。
「それでも…わたしは不器用だから、これしかないんだ」
その言葉が意味する事は分からない。
ただそれは、悲しみと強い意志を訴えかけてくることば。
「ねえ香里、わたしは…普通の友達じゃ何の力にもなれないのかな」
…わからない。
名雪が一体何を訴えかけているのか。
あたしが…いつ彼女を拒絶した?彼女は何を悲しんでいるの?
今までの話と、どう繋がっているの…?
「一人で全部抱え込もうとすると、何でももっと辛くなるだけなんだよ。栞ちゃんの時だって、そうだった。わたしは、友達なのに、何も…知らなかったんだ」
はっ、とする。
栞…あたしの妹。もう数ヶ月前にその命を失っている…はずだった。
あたしは、無理やり自分から栞の事を消した。自分が悲しくないように。
奇跡なんて、信じなかった。あたしは、自分以外の事なんて何も考えてなかった…
「きっと、綺麗すぎるんだよね。香里には、周りの事はみんな毒なのかもしれないね。それを受け入れるのは苦しいんだと思う。だけど…ねえ、たまには汚れてみるのも楽しいよ?」
また、はっきりと、あたしの目を見つめて。
「吹っ切れちゃうとね、すごく居心地がいいんだ。ああ、楽しい事はこんなにいっぱいあふれているんだなって。それは、悪い事じゃないんだよ。それに…」
名雪は、一度そこで中断して、少し言葉を選ぶように、継いだ。
「いつでも一人じゃないんだって実感できる」
そして、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
ほどなくして、5限目…英語の教師がやってくる。
「手始めに、”綺麗じゃない”わたしを受け入れてくれると、嬉しいな」
てへ、と笑いながら、彼女は席についた。
名雪の言葉は、堕落への誘いのようにも聞こえる。
だけど、それは確かに核心だった。あたしの事をあたし以上に理解している…言葉だ。
もう一度思う。
彼女には何が見えていて…あたしには何が見えていないのだろう?
授業は、頭に入らなかった。
時間だけが過ぎていった。
「名雪…今日も部活か?」
「うん、ゴメンね〜」
「気にすんなって。代わりに真琴でたっぷり遊んでやるし」
「真琴と?」
「真琴で」
「…変態」
「何でだ!?」
………
微妙に和やかなんだかどうかわかりづらい会話が目の前で繰り広げられている。
やがて祐一はいつも通り一発ネタシリーズも尽きて、大人しく帰って行った。
…まあそんな関係も、少しうらやましく思った事が無いと言ったら嘘になるんだけど。
「可愛い子ほどいじめたくなるっていうのは、子供の証拠だと思わない?」
なんでいきなりそんな事を聞く?
「…相沢君が子供だってのは、今更改めて言うほどの事でもないでしょ」
「そうだね」
…嬉しそうに。やっぱり、わかんないわ、このコは…
「ねえ、香里」
はいはい。今度はなんですか…
「愛してる」
「うひょ!?」
な、な、なんなのよっ!
思わずペタな驚き方してしまったじゃないのっ!
「あ、いいな。今の反応、可愛い♪」
「あんた…ねぇ…」
心底から楽しそうに笑う名雪に、ふと、先程の言葉を思い出す。
(あたしも…こんなふうに、なれるのかな)
なりたいような、なりたくないような。
「最近さ、またなんか一人で悩んでたみたいだったから。まあ、今の時期だから受験の事で親ともめたとかそんな事かも知れないけど」
……あはは。凄いわね、ホント。
全部バレてんじゃん。
「わたしなりのプレゼントのつもりだったんだけどなぁ…余計だった?」
「やる事が極端なのよ、あんたは」
くす、と自然に笑みがこぼれる。本当に…変な親友を持ったもんだ。
「ね、一緒に汚れてみようよ。楽しい事…ふふ、いっぱい教えてあげるから」
「…目つきがなんか妖しいんだけど」
あと、その手をわきわきさせる仕草やめなさいって。
「大丈夫だよっ♪それはもう学校に来るのが256倍くらい楽しくなる事を保証するよっ」
これ以上ないというくらい目を輝かせて言う。
「…お手柔らかにお願いするわ」
「うんっ」
わかってない。絶対わかってないわこのコ…
なんだか、少しずつ調教されてるような気分なのは…気のせいかしら?
「ところで今日、ウチ来ない?」
「遠慮しとく」
ごめん。もうちょっとだけキレイでいさせて…
「じゃ、部活行ってくるね」
カバンを持ってドアに向かう。楽しげな足取りで。
「あ…あたしも」
「あ、そうだ」
ふと思い出したように、名雪が振り向く。
「ありがとね♪」
…え?
「何が?」
「昨日…途中で帰っちゃったみたいだけど―――」
………
…本当に、本当に、なんでも知ってるのね、あんた…
ちょっと冷や汗かいちゃうわ。
「えへへ…香里の熱い視線感じちゃって、すっごく気持ちよかったぁ…♪」
それだけ言うと、そのまま、走り去っていった…
あたし…騙されてる?
☆ANOTHER HAPPY END☆
【あとがき】
マジメに「開放」というテーマを提出しつつ、かつどれだけ萌え要素を残せるかのバランス取りに気を使いました(笑)
どっちかっていうと、マジメのほうにちょっと偏ってしまった…かな…
あとジオなのであんまりHくならないように気をつけました(^^;
なんとなく。高校時代の、「優等生」しててある意味潔癖だった自分に送るメッセージのつもりで書きました。学校では普通にマジメに過ごしつつ、ストレスからくる病気に陥ってたり。あらら。
いや、なんか似てるなって思ったんです。普通に友達と笑って話したりはするんですけど、核心は絶対に人には見せないというか、明暗の「明」の部分だけで付き合うというか。
大学に入ってから病院にお世話になる事もほとんどなくなって、「ああ…これだよ」というこの気分を、全国の内向的な少年少女たちに伝えたいです(笑)
「ねえ、たまには汚れてみるのも楽しいよ?」…お気に入りのセリフ♪
全国の名雪ファンの皆様へ。汚しすぎてごめんなさい(^^;
僕は、純粋に綺麗なのよりはこっちのほうが好きです(笑)
ああ…どうしてハートマークはJIS標準じゃないのかっ(爆)
ではでは☆
なんでもいいですから〜、是非是非感想を下さいませっ。
汚れた感想(謎)お待ちしておりますー