雪が降っていた。
7年ぶりの再会を果たしたあの日と同じ、雪の日。それはここでは何も珍しいものではない。この季節になると、降っているいないに関係なく、雪を目にしない日はまずない。
ただ、映画館に入った時には気持ちいい快晴だったのに出てみると結構降っているというのは少々問題だった。
「…感動も台無しだね」
「…ああ」
映画館の入り口の中で、多くの人と同じように雪宿りしながら外を見つめる。
さすがに雪国の人間と言えど、傘もなしで雪の中を歩くのは辛い。
「そうだな…とりあえず近くのコンビニまで走って、傘買ってくるか」
最も妥当な案を検討してみる。
「あ、それじゃ、わたしが行ってくるよ」
「いや…俺が行く。待ってろ」
「え?でもわたしのほうが雪も慣れてるし、速いよ?」
その言葉は、完全に正しい。効率的に言うなら、間違いなく彼女…名雪に任せるほうがいいだろう。
「…いいだろ、たまには。ちょっとは俺にもカッコつけさせてくれよ?」
恥ずかしげに言う祐一に、名雪はくすりと小さく笑う。
「じゃ、二人で一緒に行こ?そしたら往復の手間も省けるし」
「いや。名雪は1ミリたりとも濡れさせはしない。今そう決めた」
「あはは…単位、変だよ?」
どこかくすぐったそうに笑ってから、柔らかく表情を崩す。
「ありがと…行ってらっしゃい」

程なくして、祐一は戻ってきた。白い半透明のビニール傘を差して、手には何も持たず。
「一本しか残ってなかったんだ」
真っ先に出た言葉が、それだった。
困ったような、落ち着かないようなその表情を見ると、名雪はおかしそうに笑う。
「はいはい。いいよ、それじゃ期待通り一緒に傘に入ってあげる♪」
「ち、違うって。本当に一つしか残ってなかったんだ…」
「祐一も結構策士なんだね」
「うぅ…せっかくカッコつけて出かけたのに、まるで最初からこれが狙いだったみたいに…」
そんな困ったような態度が、名雪の悪戯心をくすぐる。
「わたしは、それでもいいんだよ?」
「違うんだって…」
名雪はその様子をただ楽しそうに眺めていた。
実際のところ、祐一の言う通り本当に一本しか残っていなかったのだろう。それは名雪もはっきりとわかっていた。本当にそれが作戦なら、祐一は平気な顔で戻ってくるだろうから。
(本当にカッコつけたかったんだろーな…ふふ)
ぎゅ…と、一緒に傘に入るために…それ以上に体を寄せる。冷えたコートの冷たさが素肌に触れる。
「…帰ろ?」
「うん…」
そして、歩き出す。

「ちょっとだけ、かっこよかったよ」
「…そうか」
そう聞いて、祐一が安心したような表情を見せる。…こういう所が、まだまだだ。
「まあ、でも男として当然の事をしたまで―――
「祐一も、下心が絡むと強いんだね」
「…うぐ」
決して調子に乗らせないところが、名雪も手馴れたものだった。
「…でも、わたしよりずっと寒いのに弱いんだから、そんなに無理しなくてもいいんだよ」
名雪より1枚多く着ていながら、それでも隣で時々体を振るわせる祐一。
「へ…平気だって。その…名雪が側にいてくれるしな」
「ん、ありがと。えへ…頑張ったご褒美に、帰ったらわたしがいっぱい暖めてあげようか?」
自分で言った言葉に恥ずかしくて赤くなっていた祐一に、追い討ちをかけるように。
「ば、バカ…何言ってんだ…」
「正直な気持ち♪」
雪は、家につくと同時に、止んだ。



「この日こそ喜びあふれ」 〜ラブラブなゆちゃん劇場3〜


慣れない事をするから。
「38度1分」
「うー………」
「学校には連絡しておきますから、今日はゆっくり休んでおいて下さいね」
「…はい」
例によって名雪は今ごろ通学路を走っている頃だろう。いつも同じような時間に風のように速く駆け抜けるその姿はこの町の朝の名物になっているとかいないとか。
「お粥が作ってありますから、お昼に食べて下さいね。風邪薬もここに置いておきます」
「すみません…秋子さん」
「いいんですよ。早く良くなってくださいね。名雪が寂しそうでしたよ?」
祐一は、少し表情を翳らせる。名雪の名前を出されると少々気まずい。
この風邪に対して責任を感じたりしていなければいいのだが…
「あと、名雪から伝言があります」
伝言。何だろう。不安が的中していたら…祐一は身構える。
その内容は―――
「『ふぁいと、だよっ』」
声色を変えて、細かい仕草を含めてポーズも正確に再現してくれた。
……………………
…………
……
数秒間、思考が停止した。
「…どうかしましたか?」
「い、いえ、秋子さん、その、さすがにそのモノマネには無理があ―――がッ!?」
続けようとした祐一の言葉が苦しげな悲鳴によって途中で遮られる。
「あらあら、ずいぶんと苦しそうね。悪い風邪かもしれませんから、気をつけてくださいね」
「…い、いや…今……鳩尾あたりに…衝……撃…」
覚えている限り、それが意識を失う前に言った最後の言葉だった。


天使の羽が揺れている。
白いはずの羽が、夕日に照らされて赤く燃えている。
そこに、彼女がいる。
そこにいるのに、手を伸ばしても届かない。あと少し、届かない。
まだ何も伝えていない。この想いを、大切な言葉を。
伝えられないまま、終わろうとしている。
もう少しだけ待ってくれ。まだ忘れ物がある。
忘れ物がある。
待ってくれ。
待ってくれ―――


「ゆ、祐一?」
間近から耳慣れた声が聞こえる。頭の中が急速に晴れてゆき、同時に体に「現実感」が降り戻ってくる感覚。
夢から覚める時は、いつも同じ。夢の中ではそれが現実か夢かなどと考えることすらなく、現実の中では決して今が夢の途中ではないという事をはっきりと自覚している。それは、体の重みが教えてくれる。
「ん…」
布団が体を押し付ける重み。寝起きの時独特の、かかとに感じる負担。肩にかかる重み。唇に感じる重み。
「……………?」
まだ完全に覚醒しきっていない頭が、ふと疑問を提唱する。本来、そこに重みを感じるはずのない場所…?
ゆっくりと、目を開いて、異物の存在を確認しようとする。
最初に見えたのは、直線だった。太さをもった、実在の直線。それが視界のほとんどを塞いでいる。
目の前の障害物を廃するために、腕を動かしてそれを除けようとする。が、今度は腕が動かない。
「く……」
「んん?」
突然、目の前の物体が音を発した。音。違う、声だ。人の声が、すぐ正面…それもとてつもなく近くからの声であることを聴覚が教えてくれる。
ここに至り、悟る。
「っ!!」
「おはよ、祐一」
すっと声が遠くなり、視界も良好になる。目の前には、見慣れた女の子の姿。
さっきまで見えなかったのは、ただ近すぎたから―――
「な、名雪…今、さぁ…」
「何?もう一回、して欲しい?」
その返事を聞いて確信を得た祐一は、がっくりとうなだれる。
「あのなぁ…俺、風邪ひいてるんだって、わかってるか?」
「だから学校サボったんだよね」
「正当な理由だ!…いや、とにかく風邪移るかもしれないし、気をつけろというかもうちょっと気を使えというか…」
焦って言う祐一に、名雪は笑って返した。
「でも祐一のほうが強引に誘ったんじゃない」
「え!?」
今度は違う意味で慌てる祐一。当然、全く身に覚えが無い。
そんな様子を楽しげに眺めながら続ける。
「もしかしたら、まだ気付いてないのかな?―――ほら」
言って、左腕を大きく上げてみる。その様子に注目していると、それに引っ張られるように祐一も自分の腕が上げられる事に気付いた。
思い切り握っている。…祐一の手が、名雪の腕を。
「…おぉっ!?」
「びっくりしたんだよ〜。ベッドに近づいてみたらいきなりわたしの腕を思い切り引っ張って引きずり込もうとするんだもん」
「ご、ごめんっ」
慌てて手を離す。…が、今度は名雪のほうが手をしっかり握っていて離れない。
「その瞬間にその後の展開がいっぱい頭の中に浮かんで♪ああ、こんなのもいいかな…って思ってたのになんか寝てるしっ!」
ぎゅっと、祐一の手首を握る力が強くなる。
「い、痛い、痛いっ」
「あまつさえ寝言で出てきた名前がわたしじゃなかったもんだからどうしてやろうかと思ったんだけど」
ぎくり、と祐一が少し凍りつく。痛みはそのままに。
「…俺、なんか言ってた……?」
「うん。思い切りあゆちゃんの名前叫んでた」
「………いや、その、なんだ」
名雪が、優しい微笑みを祐一に投げかける。
「あゆちゃん、可愛いもんね?」
「え、…あ、ああ、まあ、そうだな…っだああああああぁっ!?痛い痛い痛いっ!!」
腕が、人間の構造上本来曲がらない角度にまで捻られていた。
彼女は顔にいつもの笑顔を浮かべたまま。
「やりなおし」
「……………はいぃ」
10秒程も経ってようやく解放された祐一は、痛みに情けない声をあげていた。
…否、正確には解放されてはいない。手はしっかりと握られている…
そして彼女は、もう一度正確に先程の言葉を繰り返す。
「あゆちゃん、可愛いもんね?」
「…は、はは、まさか、名雪以外に可愛い子なんているもんか」
「そうだよね♪」
すっ…と、祐一の手首が放たれる。…くっきりと指の赤い痕が残っていた。

「わたしは優しいからね、祐一の体は正直にわたしの事を欲しがっていたみたいだったから、キスしてあげたの」
にこやかに、結構無茶苦茶な事を言う。
「…そ、そ、そうか。ありがとうな…」
「?どうしたの?どうしてそんな怯えたような顔してるの?」
心底から不思議、というように名雪が無邪気な表情で尋ねる。
祐一が狼狽して答えられないでいると、今度はふと悲しげな表情を見せる。
「…かわいそう。よっぽど辛い夢をみたんだね」
「え、いや、違…」
否定の言葉も聞かず―――確信犯だからだが―――もう一度祐一の腕を今度は優しく取って胸に抱きとめる。体で腕を愛撫するように。
「ねえ、一人で寂しかった?辛いなら、抱いてあげよっか?」
今度は、やたらに嬉しそうな声で。
「だ、抱くってお前な…そりゃ、男が使う言葉だろ…」
「間違ってる?」
「………いや…間違ってない、ような気がしてきた…」
色々思い出したり思い当たったりして、祐一は頭を抱え込んで答える。
なんだかとてつもなく恥ずかしくなって、顔が真っ赤になっているのを感じながら気まずそうに顔を背ける。
「ま、何にしてもまずは着替えないとダメだよ。かなり汗かいてるみたいだから」
何にしても。
微妙にひっかかるフレーズではあったが、確かに何にしても着替えたほうがいいのは間違いないだろう。さっきから祐一自身も気になってはいた事だ。
すっと名雪が手を離して、ベッドから歩き去る。
「…えーと、上から3番目だよね?」
「え?…ああ。下着ならそこの手前に…って、いや、待てって。着替えくらい自分で出すからさ…」
「あと、替えのパジャマがこの辺に、と…」
聞く耳持たない。
(ふぅ…)
いつもの事だ、と自分に言い聞かせながら、祐一は心の中でこっそりとため息をついた。
その諦めが、名雪のペースにハマっている証拠だと半ば自覚しながら。

しばらくすると、一式持った名雪が再びベッドのほうに戻ってきた。
祐一も既に起き上がって、ベッドに腰掛けている。
「はいっ」
「…ありがと」
祐一が座っている隣に、着替えが置かれる。
………………
………
「…えーと…名雪?」
「ん?」
とびきりの笑顔で呼びかけに答える名雪。
「俺、着替えるんだけど」
「うん」
普通に返事して、普通の名雪スマイルで祐一のほうを見つめたまま動かない。
「いや、うんじゃなくて」
「着替えないの?」
「違うっ!……いや、だから、出てってくれないと着替えられないんだけど」
「どうして?」
一瞬、名雪が言った言葉の意味が理解できなかった。それほどまでに、予想からかけ離れた反応。
数秒間、部屋に沈黙が流れた。
「…俺、なんか説明が必要な事言ったか?」
もう一度、しっかりと確認するように。
「早く着替えないと体が冷えちゃうよ?ほら―――
名雪は構わず祐一のパジャマのボタンに手を掛ける。
それを慌てて振り払うと、
「ま、待てっ!一人で着替えられるから…」
「…祐一は、わたしと一緒にいたくないんだ」
「そうじゃないってっ!い、いや、だからさ、着替えるところ見られると恥ずかしいっていうかなんかそういう感じの極めて普通の事を言おうとしてるだけで―――
名雪の表情が曇ったのを見て、焦って弁解…もとい常識的な意見を述べる祐一。
しかし、名雪は意外な言葉を聞いた、とばかりに。
「祐一って、そういうの気にするんだ?」
「…気にしない奴がこの世にどれくらいいるかって話だが…」
「真琴のお風呂に一緒に入ろうとしたくせに」
まっとうな反論を続けようとしたのが、完全に言葉に詰まる。
それは、いつも名雪の切り札だった。
「…あ、あれは………真琴だからというか…えーと…」
正当な理由など無い祐一は、それを言われるといつもしどろもどろに中途半端な抵抗しかできない。
こうなると、あとはいつも通りの展開。
「ね?風邪ひいてて大変だと思うからわたしが手伝ってあげる―――
「ま…待った!そうだ!ほら、自分一人だけ脱ぐからやたらに恥ずかしいんであって、名雪も一緒に脱ぐっていうんなら…」
「はいはい、バカな事言ってないでとっとと着替えましょうね〜♪」
先程よりも確実な手さばきで、器用にボタンを外していく。
自分で脱ぐよりも早く、あっという間に上半身は裸になっていた。
「さて―――
「い、いやあぁっ!助けてーーーっ!な、名雪のスケベ!変態!」
「そうだよ♪」
最後の抵抗も、あっさりとかわされて―――


結局この日も、名雪が言い出した事に抵抗する事がいかに無意味かを再認識させられただけだった。


「うぅ…俺は汚されてしまった…もうどこにもお婿に行けないわ…」
「心配しなくても、そのうち水瀬祐一っていう表札も作っておくよ?」
「………決定事項すか」
リビングの机に突っ伏して顔だけを名雪から反対方向に逸らし、本日何度目かの大きなため息をつく。
「あれ、もしかして祐一、自分の家を出られない都合でもあるの?」
「…なんつーか…それよりもっと前の段階の部分は疑問にも思わないのか………?」
「前の段階??」
わからない、といった顔で名雪が聞き返す。
祐一は今度は心の中で苦笑する。わかっている。名雪がそういう部分を一切疑問に思う事は無いという事は過去の経験から幾度も思い知らされている―――
(…俺、知らない間にプロポーズでもしてたか…?)
ふと、とある目覚まし時計の事が脳裏をよぎる。何度言っても、使うのをやめようとしない名雪。一度寝ている間に「実力行使」で奪おうとしたらその時に限って目を覚まし、企み途中でバレて、死ぬほど「教育上不適切なお仕置き」を喰らった。
(一生の不覚………だったかも知れん…)
「あ、そっか。うん、大丈夫だよ。お母さんなら絶対賛成してくれるから♪」
「………」
もはや言葉も出なかった。


「はぁ〜あ…」
部屋に戻って、昨日からの一連の出来事を振り返ってみる。
「たまーにカッコつけようとしても、結局こうなるわけだ…」
これが恋の副作用なのだろうか、いつも人を煙に巻いたり簡単にあしらったりするのは得意のはずの祐一が、名雪が相手の時だけ何も上手く行かない。
(…秋子さんは、別としても)
だから、時には自分がどんどんリードしていくような展開も妄想してみたりしたくもなるものだ。
そう、こんな感じか―――

「ご、ごめんねっ、部活が思ったより長引いちゃってっ」
約束の時間より20分ほど遅れて、駅前の待ち合わせ場所に彼女はやってきた。
俺は寒さを堪えながら、言う。
「ああ、いいって。俺も今来たところだ」
「…ごめん、ね。本屋の中とかで待ち合わせれば良かったね」
尤も、彼女には嘘はお見通しのようだった。30分も冷たい空気に晒された俺の顔は、少し白くなっている―――
「だから、気にするな。遅れて来たのはお互い様、俺のほうが何秒か早かっただけだ」
それでも嘘を通す。わかりきった嘘も、時には意味を持つと信じて。
「…うん」
彼女は、そんな俺の気持ちを汲み取ってくれた。ただ柔らかに微笑んで、短い肯定の返事。
だから、俺も微笑み返す。
「行こうか」
「うん」
歩き出すその前に、そっと、彼女の冷えた手に、俺の手を絡ませる…
「…ゆ、祐一…?」
少し慌てる彼女に構わず、しっかりと、しかし痛くないように手を握ったまま、歩みだす。
「恥ずかしいよ…」
彼女は照れたように少し笑い、そしてゆっくりと握り返す―――

「…違う違う違うっ!!こんなの名雪じゃないーーーーーっ!!」
…………………………
……………
………
「…ダメだな、俺…」

結局今の名雪に惚れこんでいるのだから、どうしようもない。
「なんでこんなに好きなんだろな…」
意味も無い疑問を自分に投げかけて、ふと、名雪にそう言ったらどう答えるだろうかと考えてみる。
”わたしが可愛いからでしょ?”
即答しそうだった。
自分の想像に、思わず笑いがこみ上げてくる。
「…ったく、その通りだよ」


無駄にするな。
それは、昨日見た映画の中で最も印象的な台詞だった。ただ一人の二等兵を戦場から連れ戻すためだけに精鋭部隊を組んで危険な場所に救出活動に向かう、そんな話のクライマックスでの一言。
無駄にするな。
「そうだな」
今度は、ちゃんと手の届く範囲から手放さないように。
後悔は、しないように。
「ばいばい………あゆ」

風邪は、すっかりよくなっていた。


「えへへ…やっぱり、移っちゃった」
次の日には、昨日と逆の立場でベッドの側に立つ祐一がいた。
少し苦しそうな表情で笑う、名雪。
「…やっぱり?」
同じく隣にいた秋子が、さわやかスマイルで敏感にその言葉に反応する。一瞬目の奥が光ったような気がするのは錯覚だろうか。
「い、いえ、秋子さん。そんな深い意味は…」
「あら…風邪が移るような何があったのかしら、ね?」
「そそそそそ、そんな、ですから、何もっ」
「だって祐一がぁ…」
「お前もややこしい事言うなっ!頼むからっ!」
すっかり狼狽する祐一。
こんな事も、水瀬家ではもうお馴染みの光景だった。
「ふふ…下から薬持ってくるわね。5分くらいかかるかしら?」
そして、不必要に時間を提示して部屋を出て行った。
残される二人。
「ゆーいち…」
「お、おう」
祐一は何時にもまして落ち着きが無い。それはただ、先程の会話があったからではなく。
「…どうしたの?」
「いや…」
部屋に入って最初に見たときから思っていた。
少し息苦しそうに熱っぽい顔でベッドから見上げている名雪は―――
(反則だ…)
不謹慎だと思いつつも、その姿は恐ろしい程に魅惑的だった。
濡れた声が、脳に直接響く。
何もしなくても、ドキドキして、まともに顔も合わせられない。まるで恋をしたばかりの少年のような、そんな気分だ。
祐一は、その色香にすっかり魅了されていた。
(耐えろ…俺の理性)
今にも布団を剥ぎだしたくなる衝動を、必死に抑える。
昨日、名雪に注意したばかりだ。風邪をひいているんだから少しは考えろと。
「ごめんね…」
「え?」
「…祐一、ガマンしてるの、わかるから…ごめんね」
「…余計な事考えてないで、大人しく寝てろ。………話してると、もっと辛くなりそうだ」
名雪に隠し事は出来ない。だから、祐一も素直に言った。
「でも、わたしはお話したいから」
「………俺も」
「うん」
とても、嬉しそうに。
その微笑みが、祐一を苦しめる。
「今日はわたしが、違う男の子の夢でも見ようかな?」
「…結構、根に持つんだな」
「でもダメだな。わたしは祐一以外の男の子はほとんど知らないから。…祐一と違って」
「き、厳しいな…」
苦笑してみせる祐一。内心はもう爆発寸前だった。名雪の言葉は、魔力を持っている。
(くっ…頑張れ心の中のマイ天使!悪魔に負けるな!)
<天使:…いいじゃん?別に>
(弱っ!?)
天使は気だるそうに一言言い放つだけだった。
<悪魔:随分変わったものだな、お前も>
<天使:何を言うんだい…ボクをこんなにしたのは君じゃないか。もうボクは、あの頃には戻れない―――
<悪魔:後悔してるのか?>
<天使:まさか…君のおかげで本当に自分に気付く事ができたんだ。君には本当に感謝しているよ>
<悪魔:ふふ…さあ、来い、アルベルト。今日もいっぱい可愛がってやるぞ>
<天使:ああ、蒼月。誰よりも愛してる―――
………天使と悪魔は、国籍が違うらしい。
(…っつーか、アホか俺は…)
きっぱりとアホだ。
祐一の心の中でそんな葛藤(?)があった事を知ってか知らずか―――知っていたら恐ろしい話だが、名雪はただ嬉しそうに語る事を止めない。
ただ、嬉しそうに。
「えへ…辛くて動けなかったら、今度は祐一に着替えさせてもらおうかな…」

その時祐一の脳裏に浮かんだ光景は、どこぞの高速増殖炉の臨界現象だった―――と後に彼は語る。
何か、人としてとても大切なものを放棄した瞬間。
「な、名雪っ!…やっぱり俺、もう…っ!」
がばっ!
何もかもを捨てる覚悟で、祐一が思い切り布団に手をかけ、名雪に勢いのまま襲いかかるように顔を寄せ―――
「はい、お薬ね」
―――5分が経った。
………………
「あ、あ、ああ秋子さんっ!?」
慌てまくって急いでベッドから距離をとる祐一。…誰がどう贔屓目に見てもあまりに明らかに手遅れであるが。
しかし秋子は表情一つ変えず、何事もなかったかのように薬を机の上に置くと、ちょっとした日常挨拶でもするかのような口調でただ告げる。
「…遅刻しますよ?」
「は、はいっ!行ってきますっ!」
祐一はその言葉に我を得たりとばかりに、急いで「脱出」していった。階段を駆け下りる音が、段数のちょうど半分だけ響く。最後にがらがらがらんっ!というやたらに大きい音と「ふぎぃょ!?」という謎の悲鳴を残して。
そして部屋に、静けさが戻った。
「男の子は大変ねー。物理的に抑えがきかないから」
「…お母さん、えっち…」
ドアのほうを見たままぽそりと呟いた秋子に、即座にその意味を解した名雪が顔を赤くしてツッコむ。祐一の前では見られない、貴重な表情だ。
秋子は心外だ、というように頬に手を当てて落ち着いて言う。
「あらやだわ、名雪に似てしまったのかしら」
「うー…」
その反撃に、悔しそうに口を唸らせる。それこそ心外だ。
祐一に対しては最強を誇る名雪も、母には全く敵わない。この家の中での力関係は実に明確だった。
…もっとも、祐一に対しては親子共同戦線をひいているため実質いつも標的は一人なのだが。
「それじゃあ、今日は安静にしてなさいね」
先程までと全く変わらない口調のまま言う。
「う…うん。心配かけて、ごめんね…」
「心配なのはどっちかといえば帰ってくる時なのよねー。今日は名雪のために早く帰って来たほうがいいかしら?…祐一さんより早く」
少し、いたずらっぽく。
「い、いいってばっ…」
「あら、遅いほうがいい?」
「普通でいいのっ!」
耐え切れなくなって名雪が、がばっと布団を顔までかぶる。
秋子は、穏やかな眼差しでそんな我が子を見つめていた―――

祐一と同じように、1日寝たら随分良くなった。


「ひとつしか残ってなかったの」
「…はぁ?」
「だから、ひとつ買ったところで売り切れ」
ウーロン茶の紙パックを手にしてにこにこしながらそう告げた名雪に、祐一は間の抜けた返事を返していた。

あれから数日が経った、ある日のこと。
今日の昼食は、いつもの学食ではなく学校で売っているパンだった。なんでも今日新商品が入荷するらしいという事を耳ざとい誰かが聞きつけ、クラスで噂になっていたので祐一たちも「早速」と試してみることにしたのだ。
授業後速攻でダッシュした甲斐あって、パンは無事手に入れることが出来た。きっちりと、2人分。
「…あ、しまった。パンに気取られてて飲み物買うの忘れてた」
「祐一、走ってたから疲れてるでしょ?わたしが買ってくるよ。いつものだよね?」

そして、こうなった。
「いや、別に無いなら他のでも良かったんだが…」
「男はこだわりを捨てちゃダメだよ」
「……まあ、いいや…。じゃあ悪いからそれは名雪が飲んでくれ」
「何言ってるの?半分こだよ?」
当然のように言い放ち、そのままストローを差して少し飲んでみせる。
「はい」
………
差し出されたそれを見て、祐一は考えていた。
背中のほうに感じる視線、複数。
うちいくつかは攻撃的な刺をもっている。危険な状態だ。
もう一度目の前を見る。ストローが刺さった、いつものウーロン茶の紙パック。
祐一は、黙ってすっ…と立ち上がる。
「俺、自分の分買ってくるから…」
「あんっ、待ってよ祐一ーっ」


2分後、祐一は全て「売切」の自販機を前に立ちすくむことになる―――


おしまい。


【あとがき】

今回のラブラブ度:30%

…これが今まで書いたSSの中で一番長いんですねー。この程度で。まあでもお手軽お気軽が心情なので、こんなもんでしょう(開き直り)
というわけで、「ラブなゆ」も3作目。(2.5の事は無視して下さい(爆))SSも割と数が増えてきましたが、どうもこのシリーズだけはなんか特別な緊張感があります(^^;ドキドキ。
ちょっと、あゆの扱いが想定していたよりもずっと小さくオマケ的になってしまいましたが、まあ”ラブなゆ”ですし(笑)

オチは結構気に入っています♪
…にしても、最初と最後を繋げるの好きだね、自分…(^^;

前作からかなり間があって、僕の作風も変わっていっていると思いますが、どうでしょうか?
というか、少なくとも「1」の頃みたいなのはもう書けません(笑)なんか今見ると凄い勢いがあるというか…(^^;

感想、ありましたら是非聞かせて下さいませ♪
SSっていうのはある意味それが唯一の楽しみというトコロがあるので…何でもいいですよん。数撃ちゃ当たるっ!(意味不明)