目が覚めると、隣に名雪が寝ていた。
日常と非日常の境界というものを具体的に示す指標があるならば。
「…こういう事あたりなんだろうか」
なんて独白をする余裕くらいは見せてみる。
それで現状が何ら変わるわけでも無かったが。
抱きつくように眠っている名雪の体温を体全体に感じながら、実際には余裕などなく、体は目が覚めた時の状態のまま全く動けないでいた。
「…ぅん…ゆういちぃ………」
「………」
胸の上に乗せられた右腕。
右腕に乗りかかる、柔らかい胸の”ふにっ”とした感触。
下半身に絡みつくように重ねられた太股。
体に感じる熱が、声が、柔らかさが。
真横に在る名雪の顔から、安らかな呼吸の音が。
触れた胸から、穏やかな鼓動が。
「………にゅふ…」
どこまでも無邪気な寝顔。
平日に毎朝見慣れた寝顔。
何度見ても飽きない寝顔。
さすがにここまで間近に見たことは、無かった。
「…どうして………?」
自分の体も自然に熱を帯びてくる――特に顔が酷い――のを感じながら、乾いた声で呟く。
どうして名雪が隣に寝ているのか。そんな事になるような経緯はまるで記憶に無い。
布団が熱い。二人の体熱がそのまま篭っている。
その体勢のまま顔だけ動かして机の上の時計を見る。8時17分。
一瞬だけ焦るが、すぐに今日は休日だという事を思い出す。第2土曜日。
つまり、どれだけ寝ていても、いい。
「………」
「………くー…」
せっかくの機会だから、このままもう一度眠ってしまおうか。
ドキドキして眠れたものじゃないかもしれないが―――素直な欲求として、この状態を少しでも長く維持していたかった。
安らぎと暖かさ半分、男としての欲求半分という所か。
…喉が乾いた。
「…まあ、いいよな。理由は知らんが名雪のほうが俺のベッドに入ってきてるんだし…俺は悪くない。うん」
声に出して言い訳したのは、名雪が夢の中ででもこの言葉を聞いていてくれれば後々助かるかもしれないと期待してのこと。
少し首を傾けて名雪の顔を視界に入れる。
寝息がかかるほどに近い距離。
改めて見ると、ドキリとするくらい可愛く見えた。
あるいはただこの非日常の状況に、精神状態が少し不安定になっているだけかもしれない。例え今隣にいるのが名雪でなくとも、同じように感じたのかもしれない。
…そんな事を考えた自分が、妙に不快になった。
その無邪気な寝顔は、7年ぶりに会った時にはすでに女性の魅力を身に纏っていた名雪には酷くアンバランスに思えた。
だからこそ、名雪なのだろうと。
高揚感を抱えながら何故かそんな事を思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
目が覚めると、隣に祐一が寝ていた。
「………夢?」
夢じゃない。
すぐに分かる。ここは祐一の部屋。祐一のベッド。
隣では祐一が何も知らなさそうに熟睡していた―――不思議に思える程、幸せそうな寝顔で。
そして…その体をまるで抱き枕かのように抱きついて寝ている、自分。
「わ、わ…」
さすがに慌てて、ばたばたしながら体を離す。
急激に温もりを失った体が一瞬寒さを覚える。
一気に、目が覚めた。
「え…えーと………」
目が覚めたら、次にする事は、考える事。
慌てながら体を触って、叩いて…上半身から、少しずつ下のほうへ。
滑るような肌触り、何の違和感もなくいつも通り。
ちゃんと………着ている。
…そっと手を伸ばして、祐一の体にも触れてみる。
ちゃんと………
「…はうぅっ………」
唐突に自分の行動に恥ずかしくなって、消え入りそうな声で悲鳴をあげる。
がばっと布団を思い切り頭から被る。
誰も見てはいないだろうが、今、もうきっと凄いことになっている自分の顔を隠したかった。
”名雪ったらそんなに顔真っ赤にしちゃって、どんなコト想像してたの?”
いないはずの誰かからそうやって責められているみたいで。
消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。
布団に潜り込んで…数十秒もしたらやっと思考能力が復活してきた。
「え…っと…それで、なんでわたし………」
布団からそっと顔を出す――眩しい――ちらっと祐一の顔を覗き込む。
記憶に無い。
おそらくは…寝ぼけて間違えて祐一のベッドに潜り込んでしまった…そんなところだろうが。
睡眠に関する自分の悪癖には、悲しいかな、自覚は十分にあった。
幸いなのは、珍しく祐一よりも先に目が覚めた事だった。
もし祐一が先に起きていたら…抱きついている自分を見て何と思うだろう?
…それはそれで、ほんの少し試してみたいという気持ちもあるけれど。
「お、起きなきゃ…ね」
呟いて、ゆっくりと体を起こす。
もう外はかなり明るくなっていた。
さすがに…母にこんな所を見られたりしたら……何事も無さそうな気もしないでもないが、やっぱり気まずい。変に誤解されてもたまらない。
…誤解。
一体どう思われて、どこまでが誤解なのかは分からないけど。
「………ぁぅ」
何だか今、とても恥ずかしい事を考えた気がする。
ふとんをそっと持ち上げて、ゆっくりと体を起こす。
ふ………と、頭から血が奪われていく感覚。頭の中が下のほうから真っ白になっていくような。
…油断していた。
そのまま意識が遠くなっていく―――
ごん、という鈍い音だった。
最初は音だけだった。
衝撃を感じて目が覚めたのが次の瞬間。
目が覚めてから訳がわからないままに痛覚が同時に目を覚ましてくる。頭が痛い。
「………っ」
隣には相変わらず名雪が寝ていた。
ただ、前に目を覚ました時と違い、今は抱きついてもいないし顔の向きも向こう側になっている。
そして、キレイな長い髪がやたらに乱れている。
事情は掴めないが…この痛みから察するに、おそらく頭を打ったのだとみて間違いはないだろう。
それも、そこそこの勢いをもって。
「…名雪?」
自分が頭を打ったのなら、つまり、名雪も。
痛みに顔をしかめながら名雪に小声で呼びかける。
………返事はない。
寝ているのかもしれない。頭をぶつけたまま、平気で。
肩を軽くとんとん、と叩いてみる。反応なし。
なんとなく不安になって祐一は上体を起こす。
両肩をつかんで、上向きにさせる。
…眠っていた。
「なーーゆーーーきーー?」
そのまま肩を揺さぶってみる。
「はぅ…ん……」
少し苦しそうな声をあげる。
やめた。
「………あ…う?………ゆういち…?」
「お。起きたか。どうだ調子は?」
「……調子…………頭…痛い………」
「まあ、そうだろうな」
半分寝ながら答える名雪にもっともらしく頷いてみせる。
「ふぁ………」
名雪は細目のまま遠慮なく大きなあくびをする。
そのまますっとまた眠りの世界へ―――
「………ええええええええっ!?ゆ、ゆ、ゆういちっ!?」
…さすがに、落ちなかった。
寝起きの名雪とは思えないほどしっかりとした声で慌てまくる。
「わわ、わたしあのたぶんベッドが祐一に間違えて寝ぼけて―――」
わたわた。
「い、いいから落ち着けって…」
混乱してはいるが、状況はしっかりと把握できているらしい名雪の様子に、およその事を理解する。
おそらくは一度目を覚まして、起き上がろうとして体を起こしかけたところでまた眠りに落ちた――そして頭をぶつけた。そんなところだろう。
軽く、ため息をつく。
ふと気付けば名雪が先程とは一転して、ぴたっと静かに顔を眺めていた。
「………名雪?どうかしたか?」
「え?だって祐一が落ち着けっていうから落ち着いてみたんだけど…」
「………」
「……」
微妙な沈黙が流れた。
言葉が見つからない。
「えーと…祐一…?」
向かい合ったまま数秒、声を出したのは名雪のほうだった。
「…おう」
特に適当な言葉も見つからず、意味の無い返事を返す。
「…わたしが起きなかったら、何かするつもりだった…?」
寝ぼけている時とも違う、いつもより少し細い声で。
思い切ったように言う名雪に、一瞬言葉の意味が理解できなかった。
何かする。
いや、きっと単純に起こすために叫んだりするかという事なのだろう。
決して今少し頭をよぎったような事の意味では。
…例えば、そう。こういう状況なら自然と―――
………思い切り想像てしまった。当人の目の前で。
「な…何かってっ…何だよっ」
「たぶん………祐一が今考えたようなコト」
同じベッドの上で、同じ布団を被って、上半身で名雪に覆い被さるようなポーズに――図らずも、だが――なっているのだ。
急にそんな事を意識してしまって。
くらくらした。
「バカっ…そ、そんな事、しねぇって…っ」
「…そんな凄い事考えてたの?」
「あああっ、違うそうじゃなくてっ―――」
ひたすらに狼狽してもう何を言ったらいいのか分からないでいると、名雪は手をすっと上げて、顔の横に置かれた両手の手首を握った。
少し不満そうな、怒っているような、楽しんでいるような、微妙な表情で見上げてくる。
「白状しなさい。言うまで離してあげない」
離さない。つまり、このまま。
もう顔は頭一つ分の隔たりしかない距離に近づいていて、体はいつこの無理な体勢に崩れてしまうか分からないというこの状態のまま。
むろん、崩れてしまったら…もっと凄いことになるのだろう。
「あ…お前な、こんな状況を間違って秋子さんに見られたりしたら…」
「だったら祐一が早く告白してくれればいいんだよ」
さらり、と言う。
告白…という単語にばくんと心臓が跳ねたのを感じた。
何か勢いで勘違いした事を言ってしまいかねない。
真っ赤になって焦っていると、名雪も遅れて自分の言葉に隠された危険性に気付いたのか、頬を赤らめてつい、と目を逸らした。
そのままお互い何も言えず。
お互い目も合わさず。
ただ、明らかに緊急事態を告げている心臓の活動音だけが静かな部屋に響いていた。
本当はこの名雪の手なんてその気になれば簡単に振り解けるのだろう。
それが出来ないでいるのは―――
手首の圧力が消えた。
名雪がそっと、手を離した。
「…ごめんね…なんか、わたし、ヘンな事言って………」
目を合わせないまま、小さく呟く。
離れていく名雪の手の片方を逆にこっちが捕まえる。残った片腕に体重が集中して、キツい。
名雪はびっくりしてまた真上にある顔を見つめた…
「ゆ…祐一?」
「まだ俺は言ってない。勝手に離すな」
目を見ることは出来なかった。少し下、首筋あたりを見つめる感じで。
この状況の恥ずかしさと、その言葉の照れくささと、腕にかかる負担の重さと――もうどうにかなってしまいそうだった。
息を呑む。
「俺は―――名雪…俺がしたいと思ったのは………名雪の」
「あっ、い、いいよ祐一っ…やっぱり……祐一なんか今にもバクハツしちゃいそうな顔してるからそんあ無理しなくても…っ」
慌てたように名雪が叫ぶ。
視線が左右に泳いでいる。
「でも…」
「い、いいのっ。そ…それに………あの………あのね、祐一…たぶん…ていうか気付いてないんだと思うんだけど………っ」
名雪の視線は左側…ベッドの外側に向いて止まっていた。
………カンがいい悪いの問題ではない。それでもう、何が起こっているのか悟る。
いくつか想定できる事態の中で、おそらく起こって欲しくなかった状況上位クラス間違いなしの。
ぎし、とベッドが軋む音がした。
「…あら。もう少しで祐一さんのいい言葉が聞けたのですが…」
思い切り。
思い切り布団を跳ね除けて、勢いよく起き上がった。
その間一秒強。
「お、お、おはようございますあああ秋子さんっ」
「おはようございます、祐一さん。いい朝ですね」
名雪の母は、平然といつもの笑顔を浮かべていた。
「あ、あの、ですね、これわその説明すると長くなりかねないというか簡単に言えば」
「お昼ご飯できたのですが、まだ早いですか?」
平然と。
特にそんな言い訳にも興味を示さず。
母は、完全に赤くなって顔を両手で半分隠しながらベッドに横たわったままの娘にも目で確認の意思を送る。
名雪はこくこくと思い切り首を縦に降った。
「それじゃ、下で待っていますね。冷めないうちに降りてきてくださいね」
普通にそう言うと、普通にそれ以上何も言わず、ぱたん、ドアを閉めて部屋を去っていった。
また…沈黙が部屋を支配する。
今までとはまた違う意味で居心地悪いことこの上ない沈黙。
こういう状況を一言で表すいい日本語がある―――
痛い。
「…祐一………」
名雪がゆっくりと、ごく自然を装うように立ち上がる。
それがまた、微妙に痛い。
「え…えーと………冷めないうちに、降りようね」
目を合わせないように背を向けて言う。
一歩ずつゆっくりとドアに向かう。
何も言えずただ見送る。
ドアまでたどり着く。
足を止める。
「…つ、続きは、ちゃんと聞かせてもらうからねっ」
背を向けたまま最後に小さく言って、ドアを開けた。
ドアが閉まるのを確認すると同時、ベッドに倒れ込む。
このまま消えてしまいたかった。
いくらなんでも今下に下りていく勇気はない。
ベッドにうつ伏せになると、まだ名雪の温もりがそこに残っていた。
「…やっぱり、どうかしてたよな、俺………」
だけど。
今の自分の行動を雰囲気に流された気の迷いだと断言しようと思うと、何故かとても気持ち悪くなる。不快感を覚える。
まだはっきりとしてはいないが、それが分からない程幼いつもりもなかった。
たぶん、それは、きっと。
FIN.
【あとがき】
とうとう三丁目も10万アクセス達成してしまいましたっ
皆様の暖かい応援のお陰です!ありがとうございますーーーーーっ!!!
僕としては当然少しでも皆様に楽しんでいただければ、それが一番幸せです。
なのに!なのに…あああああ。約束は守らない男、村人。でございますっ
ラブなゆ4………一体いつになることやら………(汗)
えと。SSに関しては、特に言う事もないですよね…
原点、それも本当に一番最初の原点にに立ち戻ってみました。
名雪がやたらに大人しく感じたとしたら、それはきっと貴方は三丁目に毒されている証拠です。ありがとうございます(何が)
ふ………きっと1ヶ月くらいしてから読み返したら恥ずかしいんだろうなぁと思いつつ、このあたりで。
これからもよろしければゆるーーーりと見守っていて下さいませ。
もうしばらく三丁目は、頑張っていきます。
記念SSはこれで最後になります〜
これ以降は一般SSで、そしてこれからはKanon以外にも精力的に手を出していこうかと思います。もちろんメインはコレですけどね♪
ではでは今回はこの辺で失礼しますっ