「お菓子作りって、本当は普通の料理よりもずっと簡単なものなのよ。もちろん、難しいものもあるけれど」
あゆは真剣な表情で頷く。言葉の一つ、動作の一つも漏らさず自らのものにせんとばかりに集中して、秋子が道具類を取り出す様子を見つめている。
小さな計量はかりがキッチンにとん、と置かれる。
「計量をしっかりすること、手順通りに仕上げること、下準備を前もってやっておくこと。この3つさえ守れば誰でも同じものが出来るの」
テーブルに砂糖、薄力粉、バター…と丁寧に並べられてゆく。
「まずは計量。正確にね。例えば甘いのが苦手だからって砂糖を半分に減らしたりすると例えばスポンジがあまり膨らまなくなったり、ジャムの日持ちが悪くなったりするの。決められた分量はそれが一番いい状態になるように決められているから、正確に守る事」
こくこく、と2度首を縦に振る、あゆ。
「手順通りに…というのは当たり前の話なんだけど、例えばよく冷やす、よく混ぜると書いてあれば急がずにしっかりとする事が大切ね」
シンプルな柄の赤いエプロン。子供っぽく見えるのは否めないが、それがまた可愛らしい。今はそのくりっとした大きな目をやや細めてじっと秋子の挙動に集中している。
キッチンに、テーブルに、材料や器具類が次々に並べられてゆく。
「最後に、下準備。これはだいたいオーブンの話ね。オーブンは使う前に前もって必要な温度に上げておかなければいけないの。温度が十分に上がっていない状態で入れてしまうとオーブンの中で生地をそのまま寝かせてしまうことになって、ふくらまなくなったりする事があるから注意してね」
話している間にも秋子は実に手際よく作業を進める。ここまで言い終わる頃にはおよそ必要なものが全て揃っていた。
碁石みたいなクッキーからさよならするために。
クッキーというのはまさしくお菓子の基本だと言われる。初めてキッチンに立った小学生でもちゃんと手順を守って作れば美味しく出来るものだ。コツが必要といえば、最後の焼き加減くらいのものだと言える。
お菓子というのは、とにかく既に体系化されている作り方に忠実に、が最大のコツであると言っても良い。逆に言えば、何も知らないままで作ろうとしても決してうまくはいかない。どれだけ愛情が篭っていようと、無理。
「クッキーと言っても、材料の使い方で色々出来るのよ」
そういうわけで、今の状況になっている。
教えてもらうならせっかくだから身近にいるトップクラスの人に教えてもらうのがいいだろうという事で、祐一が協力して頼んだのだ。もっとも、協力しようがしまいが、一言教えてと言えば結果は同じだっただろうが。
「一番基本だと卵そのままか、卵黄だけを使うんだけど。中には軽さを出すために卵白しか使わない作り方もあったり――ラングドシャっていうのよ、聞いたことあるでしょ?他にも卵は使わないで替わりに牛乳を使う柔らかい搾り出し用の生地の作り方もあるわ」
その説明は、丁寧で無駄が無い。秋子は手に卵を一つ持って、あゆにしっかりと見せるように掲げた。
「一番基本的なものから、始めましょう」
あゆはもう何度目になるか、はっきりと頷いた。
終始無言だった。
「…やってるな」
「そうだね」
その台所の隣、リビングでは名雪と祐一が二人、ぼんやりとテレビを眺めていた。テレビの中では今、順天堂大学が連続優勝に向けてあと少しという第9区を走っていた。その後方から少しずつ駒沢大が差をつめてきている――
二人ともそんなに熱中して見ているわけでもなく、並んでぐてっとソファに座りながらただぼーっとしている。暖かい日曜の昼間という時間をただひたすら無駄に過ごすにはこのスタイルが一番といわんばかりの脱力ぶり。
「……そういえば、名雪はクッキーとか作れるのか?」
「もちろんだよー。クッキーどころか100mハードルだって大丈夫だよ〜」
「そっかー」
などと、時折意味の無い(むしろ意味不明な)会話が交わされるだけで、後はテレビが一方的に流す情報をさせるがままにしているのみ。ドアを隔てた台所のほうは静かなものだった。
「今度のは、上手くいくと思うかー?」
「くー」
「そっかー。俺もそう思うぞー」
ふあぁ…と大きなあくびがテレビの音声を一瞬かき消した。
「…はい、これで後は1時間冷蔵庫で寝かせてから、延ばして型にとって焼くだけよ」
「うぐぅ…嘘みたいに簡単だった……」
「ええ。クッキーの場合は型に取ってからのデコレーションのほうが腕やセンスの見せ所なのよ」
いざ作業を始めてみれば…最初にバターをクリーム状に溶かし始めて、生地が完成するまでは7分もあれば十分だった。
「さっき半分残したほうは、薄力粉の一部の替わりにココアを使って黒生地にしましょう」
「うんっ」
さっき1度やった復習のようなものだ。記憶力も頭もいいとはとても言えないあゆでも、これなら余裕で出来そうな気がした。元気よく返事する。
…そんな事を考えた自分が少しだけ悲しくなったりもしたが。
先程の作業を順に思い出しながら、今度は一人で進めていく。バターを溶かして、砂糖を2,3度に分けて入れて、卵黄を加えて混ぜて、バニラエッセンスで香りを加えて…薄力粉の2割弱をココアに替えて、混ぜる。これで、終わり。
「よくできました」
「…こ、今度は祐一君も美味しいって言ってくれるかな?」
「ええ。後は焼き時間に気をつけて、焦がさないようにすれば大丈夫」
「う…うん。頑張るよ」
少し興奮気味に、いつもより高い声で気合を入れる。今日こそは、リベンジなるように。思えば長い道のりだった。ような気がする。
後は1時間生地を寝かせる。その間はする事もない。時間を見計らってオーブンを温めておくことを忘れてはいけないが、そんなものはボタンをいくつか押すだけの事だ。
「待ち時間の間に、使った器具は洗って片付けてしまいましょう」
「あ、うん。そうだね」
なんとなく、このまま隣に行ってとりあえず中間報告したい気分だったが、片付けと言われては無視するわけにもいかない。ちょっと残念に思いながらも、ひとまずは片付けに入った。
それも、10分で終わった。
「ね、祐一君、ボクね―――わ」
元気良く隣の部屋に乗り込むと、そこに見た光景に反射的に足を止めて言葉を失う。
祐一と名雪が、お互いの肩で体を支えあうようにして、寄り添ってぐっすりと眠り込んでいた。窓から差し込む陽がちょうど胸のあたりにかかっていて、見るからに暖かそうな光景。点けっぱなしテレビからは何か良く分からないがインタビューのような情景が映し出されている。最後の追い込みで大逆転劇とか言っているところからすると、きっと何か凄いことがあったのだろう。
二人とも、安らかな寝顔というのを絵に描いたように。あるいはこの部屋自体が、「幸せ」というものを絵に表現したものなのではないかと思えるほどに、暖かさに満ちていた。ぽかぽか、という擬態語がこれほど似合うと思った事はない。
…その様子を見る少女の心に浮かんだものは、決して暖かさだけでは無かったが。
「ボクが頑張ってるときに、祐一君…うぐぅ」
悲しそうに、呟いた。
「…あら」
そろそろ頃合の時間だというのに戻って来ないあゆを不思議に思ってリビングを覗いた秋子の目に映ったのは、仲良く眠る3人の姿だった。
あゆが祐一の腕をとって体ごと預けるようにもたれかかっている。名雪は祐一の膝に頭を載せて…ひざまくらのようにして眠っている。というよりは、座って眠っていたのが崩れ落ちてそうなったという様子だ。祐一は二人の間に挟まれて無邪気な寝息を立てていた。
あまりに微笑ましい情景にしばらく惚けたように眺める。
少し、悩む。
起こしたほうがいいだろうか。これほどまでに幸せそうな寝顔を見せられると起こすのも躊躇われる。
とは言え、あゆが作った生地を勝手に焼いてしまったりはできない。やはり最後まで自分でやってこそ意味があるものだろうから。
ドアを、静かに閉めた。
クッキーの生地は、多少長く寝かせておいたからといってそう問題にはならない。少女は、寝かせておいたほうが幸せそうだ―――
「お。美味い…」
「でしょ!?ほら、ボクだってやれば出来るんだから」
一口食べてぽろっと素直な感想を漏らした祐一に、それ見たことかと自信たっぷりにあゆが胸を張ってみせる。
祐一は、次いで二つ目も手に取った。不思議な幾何学的デザインが描かれているが、気にしない。
さくっと軽い音を耳にしながら、一口で頬張る。
「ああ。そうだな。美味い。見直したぞ、あゆ」
満足そうに頷きながら、あゆに微笑みかける。
「うん、やっぱりあゆちゃんは作り方さえ分かれば出来るんだよっ」
名雪も美味しそうに次々と手に取っていく。
………………
…何故か、微妙な沈黙。あゆからの反応が返って来ない。
祐一が不思議そうに見つめる中、あゆは困惑したような表情をしていた。何か間違っているものを見ているかのように、恐る恐る口を開く。
「ゆ、祐一君が優しいよ…いつもだったらここで絶対イジワルな事言うのに……」
「………ああ。なるほど。あゆはそういう趣味だったわけだ。知らなかったなー。気付かなくてごめんなー」
「うぐぅ…違うよ…」
「いやいや隠す事は無いぞ。誰だって人に言えないような趣向を持っているもんだ。世間の風当たりは厳しいかも知れんが、まあ、強く生きろよ」
「頑張ってね」
「…やっぱり、イジワルだよ………」
さりげなく祐一に同意した名雪に少なからずショックを受けながらも、どこか悟ったような諦め声でため息をつく。
今回の場合は自業自得かもしれないのでちょっと反省して。
「あ、あのね」
改めて声をかける。
すっと、一つの小皿を祐一の前に差し出した。
今日の、このイベントの、メイン。たくさん作ったクッキーの中で、一つだけの特別製。直接手渡しするために、それだけ別の小皿にとっておいて、ここまで隠して置いていた。
「これは…ボクからのメッセージだよ」
ハート型に象られたクッキー。色々な形のものがあったが、ハートはこれ一つだけだった。
白いチョコペンで縁取り、そして、真中には、大きくアルファベット4文字。
―――LAVE。
「…徹底的に勉強教えなおしてくれというメッセージか?」
祐一はちょっと泣きそうになった。
「………う、うぐ?」
「違うよあゆちゃん、ここはRでしょ?」
「お前もな」
祐一は、頭を抱えて、今度は―――
泣いた。
そのクッキーは、確かに愛の味がした。ような気がした。
LAVEでもRAVEでもない、LOVEの味が。
おしまい。
【あとがき】
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ありがとうございますーーーーーーーーー!!!!!!!!!
さすがに「ー」「!」9個ずつはうっとーしーことこの上ナッシン。
いよいよ6桁までリーチかかりました。まさか当初はこんなに行くなんて到底思ってませんでした…
皆様の応援のお陰です。掲示板ももう毎日すっごく賑わってて嬉しい限りでございます♪
さて。あゆでした。いかがなものだったでしょうか。なんせKanonメインヒロインなのに舞と同じくまずめったに書くことのないキャラという可哀想な彼女です(^^;
今回は本当にオチもなにもない、普通のお話でした。たまには…いいですよね?
それでは!
記念SSは次の100000が最後となります。ちょっと気合入れて頑張ろうかと思います。
名雪ファンの皆様には、しばらくぶりとなりますね♪
ではでは、これからもよろしくお願いいたしますっ