[ Prologue ]

「7ばーん! アリスが脱ぎまーす」
「脱ぐかっ!!」
「おうぅふ」
 アリスの後頭部チョップで、魔理沙は文字にしづらい悲鳴とともに前に崩れ落ち……かけて、なんとかぎりぎり留まる。
 ぎぎぎ。
 魔理沙は、前のめりになった頭を、少しずつ、ゆっくり、起き上がらせる。
「お、おまえ、なあ! アレだぞ! 手加減がなさすぎる! 危うく料理がそのなんだ乙女的に大変なことになるところだったじゃないかっ!?」
「脱ぐのは乙女的に大変なことじゃないのかしら」
「私にゃー関係ないからにゃー。にゃー」
「こ、この……っ」
「はいはい。あんたも酔っ払い相手にそんないつまでも真面目に相手しないの」
 ことん。
 霊夢が、魔理沙の前に湯のみを置いて、アリスに向かって言った。
「んんー? 次はなんだこれはー?」
「ちょっと気分を楽にしてくれる魔法の薬」
「おお! 魔法か! 魔法はいいな! そうかー霊夢もついに魔法の良さがわかってきたかー。時代が私に追いついてきたのかー。よし、魔法の先輩としてこれから色々と教えてやるからだな」
「いいから早く飲みなさい」
「ぅいー」
 ぐい。
 ごくごく。
「んくぅ。魔法は効くぜ! 冷たいぜ!」
「あ、アリスも飲む? 水」
「……いただくわ」
 久しぶりの宴会も、もう終盤だった。
 よくもまあここまで集まるものだと毎度アリスは感心する。この場で騒いでいるのは、その一人一人が、並の妖怪だったら姿を見ただけで泣き出しそうなくらいの恐ろしい妖怪か、またはそれ以上に化け物な人間ばかりだった。
 魔理沙の騒ぎ具合は絶好調だった。よくまあ、この面子の前でそこまで好き放題暴れることができるものだと、傍から見ているアリスのほうが冷や冷やしているほどだ。
(まあ……相手の機嫌を損ねないように、なんて気遣いができる人が、私以外にこの中にいるとも思えないけど)
 幸いにして、基本的には皆、それぞれのグループの中に納まって騒いでいる。霊夢や魔理沙には妖怪たちがよく寄ってきていたが、隣にいるアリスにまで話しかけてくるものは少ない。楽でいい。
 妖怪が暴れようものなら、霊夢の蹴りが入ってそれで収まるだけと言えないわけでもない。最後の防衛ラインがあるからこそ、この場にいられるのだ。
 今回も大きなトラブルはなく、無事に片付けに入り始めていた。アリスは、ともあれ胸をなでおろす。
「もうちょっと肩の力抜いたら? 疲れるでしょ」
 霊夢が、アリスの心中を読んだかのように、どこか困ったような顔で言った。
「私は騒ぐのは好きじゃないからいいのよ。歯止めをかける役も誰かは必要だろうし」
「それは私の役割。任せてくれればいいのよ」
 やれやれ、と湯のみを片付けながら、霊夢は首を横に振って見せた。
「アリスが酔いつぶれたところも見てみたいんだけど」
「残念ね、一生見ることはできないわよ」
「ま……それならそれでもいいけど」
 じと。
 霊夢は、アリスの隣を半目で睨みつける。
「あんたには、それの保護者の役割もあるしね」
「……誰が保護者か」
 睨まれた小さな魔法使いは、アリスの肩にもたれかかって、すぴーと小さな寝息を立てていた。なんとも、幸せそうだ。
 好き放題暴れまわって、食べて、飲んで、片付けの時間になると寝る。さぞかし楽しいことだろう。
「こいつは、ほんと、もう……このあと私がどれだけ大変か考えもしてないんでしょうね……っ」
 ぐに。
 霊夢が魔理沙の鼻をつまむ。
 ……
 ……じたじた。苦しそうにもがく。
 ぱっと指を離す。うーん。魔理沙は苦い顔になっていた。
「これで少しは悪夢になったかしら」
「あー……私も洗い物くらいなら手伝うわよ」
「お気遣いなく。あんたの仕事はそれを持って帰ることだから」
 じー。
 魔理沙はふたたび穏やかな寝顔に戻っていた。
「まったく……卑怯よね、ほんと」
 はあ。霊夢がため息をつく。
「卑怯?」
「寝顔は可愛すぎるんだから。怒ってても、もういいやってだんだん思えてきちゃう。ずるいったら」
「……わかるわ」
「そうよね。ああもう、起きてるときもこの見た目くらい可愛らしくしてくれればいいのに」
「たぶん、それはそれで、気持ち悪くて怖いと思うけど」
「……」
「……」
「……そう、ね」
「……うん」
「くー……すー……」
 微妙な空気になったまま会話が終わって、霊夢は後片付けを再開しに去っていった。
 アリスは魔理沙が寄りかかってきているので動けない。
「ほんと。霊夢も、魔理沙には甘いわね」
 小さな声で呟く。
 本気で片付けをさせるつもりなら、無理やりにでも起こせばいいのだ。おそらく霊夢は、最初から魔理沙にそんな役割は期待していない。人を集めて、場を盛り上げて、最後は寝顔で心を癒すというところまでが魔理沙の役割だと思っているかもしれない。いずれも、魔理沙だからこそできることだ。
 そして、この状況において、アリスに期待されている役割も、まさに霊夢がアリスに言った通りなのだ。
 ある程度人が帰っていくまで、このまま動かない。
 落ち着いたところで、魔理沙を無事家まで送る。
 これだけだ。

 ぺしぺし。
 後頭部を軽くはたく。
「ほら、帰るわよ。起きなさい」
「んんぅ」
 ふるふる。
 頭をアリスの肩に乗せたまま、小さく振る。起きたわけではない。無意識の行動だ。
 慣れているので、アリスは構わず魔理沙の頬を指でつつく。
 ぐに。
 ぐにぐに。
「早く起きないと変な痕がつくわよー」
「ふひゃふ……ひゅー」
「ぐりぐりするわよー」」
「ひゃぅぁうぅあー」
「ほら、早く。5秒以内に起きたら明日ケーキ焼いてあげるから」
「おはよぅ……」
 むくり。
 肩にかかっていた荷重が、瞬時になくなった。
 ……魔理沙の目がまた閉じかけるが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
「……セーフ?」
「仕方ないわね、もう。ほら、まずは水飲みなさい」
 霊夢はもう奥のほうに帰っていって、ここにはいない。
 誰もいなくなったところでアリスは魔理沙を起こしにかかったのだが、そのときに水を置いていったのだ。機嫌悪そうな顔を作りつつも、魔理沙の寝顔を見てまた微笑んでいたのをアリスは見逃さなかった。
 魔理沙に水の入った湯飲みを手渡す。自分で持てないほど寝ぼけてはいないだろう。
「んー……DHMO……」
「……まあ、うん、そうだけど。何その酔っ払い方」
 ごく、ごく。
 一度に全部飲み干す。喉が渇いていたことだろうから、当然だ。
 ふー。大きく息を吐いた。
「あー。ようし、復活ー……だぜー」
「立てる?」
「魔法使いに不可能は、あんまりないー!」
「いやそんな大げさなものでも」
 ばっ。立ち上がる。
 ふらり。体が左右に揺れる。ぐ。堪える。
 何かを掴もうとするように手を前に伸ばすが、空を切る。前に倒れそうになる。二歩、三歩前に歩いて、おおっと、と呟く。
「うむ。完璧だ」
「どういうわけか私の結論はまったく逆なんだけど」
「見識の相違の裏側にあるのはー、経験という背景の違いー」
「……このまま飛ぶと確実に交通事故起こすわね、これは。……もう、仕方ないわね」
 アリスは、自分の手元に置いていた魔理沙の箒を手にとって、立ち上がる。
 ぽん、と魔理沙の肩に手を触れる。
「おっおっ」
 ふわり、と魔理沙の足が地面から離れる。アリスはその手を握って、少しだけ遅れて自分も浮く。時間差は、身長差の補正だ。
「大人しくしててね。力抜いてくれてたらちゃんとコントロールできるから」
「おー。なんだ、役員待遇だなー! きみぃ、くれぐれも気をつけてくれたまえよー! 私と君とでは稼ぎが違うのだからなあ、がっはっは」
「うるさい黙れ」


 いざ飛行軌道に入ると、意外に魔理沙は大人しかった。
 時折横顔を確認すると、眠そうにうとうとしていることがわかった。大人しいというのはつまりこういうことだ。わかりやすい。
 森の上空まで、何事もなく到着する。こんなときに、魔理沙にちょっと恨みがあるような妖怪が襲ってきたりしたらどうしようかと若干不安だったのだが、杞憂で済んだ。自分以外の人間ひとりをコントロールしながら飛行させるのは、見た目以上に集中が必要なのだ。この状況で戦うことになったら魔理沙の身が非常に危険だった。
 もっとも、ここまで来れば完全に安全というわけではない。これから森の中に降りて着地することになる。他人の体をコントロールする場合、離陸はさほど難しくないが、着陸は難しいのだ。自分の足で地面に降り立つのとはまったくわけが違う。無理は出来ない。
「ほら魔理沙、森に着いたわよ。これから降りるから、ちょっと掴まっててね」
「んー」
 魔理沙を動かして背中に背負おうと腰を曲げかけるが、アリスはここで躊躇う。これはこれで、少し難しいかもしれない。
 予定を変更して、魔理沙の体を前に持ってくる。
 もっとも安定する姿勢は、こうなる。
 魔理沙の膝を曲げて、背中と膝の下を両腕で支える。
「……」
 この持ち方に特別な呼び方があることを、アリスはなるべく意識しないようにした。
 アリスの腕の中で小さく納まった魔理沙が、アリスの顔を見上げていた。じっと。
「な……なによ」
 思わず目を逸らしてしまう。
 傍から見て今とても恥ずかしい状態になっていることは自覚している。魔理沙から何を言われるか、怖かった。
「森に下りるときは、まず周囲に怖い動物がいないか、足元にヘビがいないか、確認ー」
「……は」
「森では私が先輩だからなー。敬えよー」
 それだけ言って、目を閉じる。
 ぱち。ぱち。アリスは反応に困って、とりあえず難しい顔を作ってみせる。
「えーと……つまり、寝ぼけてるわけね……」
 アリスだってもう、森のベテランだ。今更そんな注意をされなければいけないほど迂闊ではない。
 そういえば今の言葉は、アリスがまだ森に住み始めた頃に、魔理沙に言われたことがあることだった。色々他にも言われたような気がする。当時は、何かにつけて、森での生活の知恵だの、食料の探し方だの、とにかくたくさん教えられたというか一方的にまくし立てられた。
 思い出して、笑う。まだ、それほど昔の話でもない。
 今でも魔理沙にとって、自分のほうが先輩だという思いは強いのだろう。
「今日魔理沙一人だったらここまで来れもしなかったでしょうに、偉そうに」
 不満を口にしつつも、顔はほころんでしまう。
 本当に不思議な奴だと思う。これだけ勝手な振る舞いをしておきながら、アリスを幸せな気分にさせてしまうのだから、お得としか言いようがない。
 魔理沙の体に衝撃がかからないように、ゆっくりと地面に降り立つ。
 魔理沙の家の前。いつもどおり、玄関に鍵は掛かっていない。魔理沙を抱えたまま、ドアノブを回して、家の中まで上がりこむ。箒は玄関に置いておく。
 勝手知ったる隣人の家。迷いない足取りで、寝室まで運ぶ。
 両手が塞がっていてランプはつけられないので、魔法で簡単な照明を作って宙に浮かせる。
 ベッドの前まで運ぶ。
「魔理沙、下ろすわよ」
「んぁ? どこだー……?」
「魔理沙の寝室よ。ここまで運んできてあげたんだから、感謝しなさい」
「寝室……寝室ー……」
 返事を待たず、そっとベッドに体を下ろす。
 ごろん、と魔理沙は転がって、うつ伏せになった。
「じゃあね。おやすみ」
「寝室……寝室はー……5メートルかける4メートル……南側に大きな窓……」
「……何言ってるの。この部屋、そんなに広く……」
 ――魔理沙の不思議な言葉に反論しかけたアリスは、その数字の意味に、はっと気付く。
 魔理沙の顔を覗き込む。
 すー。魔理沙はもう寝息を立て始めていた。もうほとんど寝言に近かったのかもしれない。
「……うん。おやすみ。お疲れ様」
 長い髪をそっと撫でて、アリスは部屋を後にした。


 思い出した。
 結局、憎めない最大の理由は、魔理沙がただわがままだったりでたらめだったりするわけではないということを知っているからだった。








[ 1 / 森 ]

 彼女は家を見上げていた。
 正確には、これから家になるものを。今はまだ、骨組みでしかない。木材を組み合わせて作られた複雑な構造物を、下から、横から、ときに上から、しげしげと眺めていた。
 アリスはその様子を少し離れた場所から見て、軽く頭を抱えていた。
 ここは彼女が住む同じ森の中だ。いずれは発見されるとわかってはいたが、予想外に早かった。おそらくたまたま真上を通りかかったのだろう。
 彼女が去るまで待ってから今日の作業を開始しようと思っていたのだが、三十分ほど待っても彼女はその場を離れようとしなかった。どう見ても作りかけの家だ。これを作っている人がいるということは誰にでもわかることだ。彼女もまた、待っているのだろう。ならば、このままこうしているのも時間の無駄だと気づく。
 小さくため息をついてから、アリスは足を前に踏み出した。
(どうか、大人しくしていてくれますように)
 祈りながら歩く。
 いっそ、彼女の存在を無視して何事もないかのように作業を開始してやろうかとも思ったが、彼女は憎たらしいことに木材の束の上に腰掛けていた。嫌でも声をかけざるを得ない。
 アリスの足音に気づいて、彼女が振り向いた。
 お、と小さな声が聞こえた。木材から飛び降りて、全身でアリスのほうを向く。
 小さな少女だった。幼い、と表現してもいいかもしれないが、そろそろその表現を使うのは可哀想かと思う程度の年齢だろう。これでも、以前に見たときより少しは成長しているか。
「これ、あんたが作ってるのか?」
 挨拶も何もない。開口一番、彼女は直球で聞いてきた。
「家は『建てる』って言うのよ。試験にも出るから覚えておきなさい」
 アリスは適当に答えた。真面目に相手をする必要はない。
 彼女が座っていた木に手をかけて、軽く叩いてみて音を確かめる。ざっと見ても特に傷もついていないし、腐食もしていない。問題なく使える。
「なあ、ここに家建てるってことはあんたもここに住むのか?」
「あなたには関係ないわ」
「こんなところに住む人間なんて初めて見たぜ。いや、私は別として」
「そう」
「一人でここまでやったのか? 一人で最後まで作っちゃうのか?」
「さあ」
「あ、もしかして、私の別荘を作ってくれているんだな? ちょうど物置も欲しかったところだし、助かるぜ」
「なんで私があなたの家を作らないといけないのよ!?」
「家は『建てる』んだろ? 試験に出るぜ?」
「くっ……」
 ぷい。
 思わず相手をしてしまった。アリスは完全に彼女に背を向けて、家を見上げる。雑音は気にせず、今日の作業工程を再度確認するところから始めなければいけない。
 アリスは手提げ袋から人形を6体取り出す。これが、最重要の道具だ。その他の工具は工具箱の中に入れて、全て木材とともにこの場に置きっ放しだ。
「人形? なんだ、それを燃やして魂の供養でもするのか?」
「……」
 何の魂よ、と言い返したくなるのをぐっと堪えて、アリスは人形に集中して、一体一体、魔力を込めていく。
「お」
 少し驚いたような声が聞こえた。
 無視。構わずアリスは人形たちにいつもどおり命令を与える。人形たちはふわりと浮き上がって、それぞれ思い思いに工具箱から道具を取り出していく。
「おお! これは凄いな。器用なもんだなあ。あんた、魔法使いだったのか」
「……」
 集中、集中。
 人形たちに細かい指示を思念で送り続ける。大まかな工程はすでに人形たち自身が把握しているため、何もかもを命令しなければいけないわけではない。アリスが気をつけないといけないのは、天候や気温などの変動要因への対応だった。
 今日のところは、雨は降らないはずだった。問題なく作業はできるとは思うが――
「そうだよな。こんな森の中に住もうなんてのは魔法使いだよな。よし、あんたにいいことを一つ教えてやろう。私も魔法使いだ。かの有名な霧雨魔理沙だ。知ってるだろ?」
 ……集中。集中。
「この魔法の森については私が先輩だから、疑問は何でも聞くように。あと森の中のものは私の許可なく採取したりしないように。ああ、それと、森を甘く見るなよ、空を飛べるからって油断してるとたまに毒にやられたりしてだな」
「……うるさい」
「ん?」
「さっきからうるさいのよ! 少しは黙りなさいよ! 集中できないでしょ!? ていうかずっとあんたあんたって! 魔法使いだったのかって! 私の顔をよく見なさいよ!」
 ……はあ、はあ。
 まくし立てた。
 人形に対する集中など完全に途切れてしまったが、人形たちは構わず黙々と働き続ける。二人一組で木材を運んで、適当な大きさに切断していく。
 彼女、魔理沙は、きょとんとした顔で、振り向いたアリスの全身をゆっくりと眺めるのだった。
「悪い、私はあんまり業界人とか詳しくないんだ」
「何の業界よ!? ああ……もう。放っておくのも邪魔だわほんと。ったく。思い出しなさい。私はアリスよ。あなたとも戦ったことがあるでしょうに」
「……あ?」
 アリスが名乗ると、魔理沙はますます目を点にする。
 もう一度、全身を、下から上まで、露骨に観察してくる。
 むむむむむむ。握りこぶしを額に当てて、考え込む。
 ちら。アリスの顔を覗く。
 うむむむむむ。悩む。
「……野鳥観察速度世界記録保持者のあのアリスか?」
「誰よ!? ほら、魔界で戦ったでしょ! 覚えてないの!?」
「何言ってるんだ。アレはチビガキ種の一種じゃないか。どう見ても目の前のあんたとは結びつかない。いや、親子か?」
「いろいろあって今の姿なの。間違いなく本人よ。悪いわね、チビはあなたのほうなのよ」
「マジか?」
「ほら、この本、覚えてるでしょ。あなたを苦しめた究極の魔法」
「うお、ほんとだ。私が破った究極の魔法だ」
「……ま、まあ、とにかく……そういうことよ」
「なるほど。わざわざ私にそれを進呈するためにここまでやってきたと」
「今の会話の流れからその結論が出る脳内プロセッサを是非解剖してみたいもんだわ」
 じと。
 睨み付けて、本をさっと手元に戻す。封印がしてあるので万一他人の手に渡ったところで使われてしまうことはまずないだろうが、奪われるわけにもいかない。
 魔理沙はアリスの頭の頂点あたりをまっすぐに見上げていた。
「ま、妖怪だからな。そういうこともあるか」
 そして、納得していた。
「んで、ここに家を建ててるってことは、ここに住むんだろう?」
「ええ」
「家出か?」
「あなたには関係ないって言ってるでしょ」
「ふふん。あんたも魔法使いなら、同じ魔法使いが住む魔法の森にやってきた別の魔法使いなんて存在が無関係でいられるわけがないことくらいわかってんだろ」
「……はあ」
 ここにきて、急に見事な正論だった。
 もちろん、本当は関係ないわけがない。もといた居心地のいい世界を飛び出してまで、こんな慣れない不便な場所に住もうというのだから、明確な目的があるのだ。その目的というものと、以前戦った相手である魔理沙がここに住んでいるということがまったくの無関係であるとは誰も信じないだろう。
 魔理沙も魔理沙なりに推測を進めているのか、先ほどまでより真面目な顔でアリスの表情を伺っている。
「だいたい想像はつくけどな」
 試すような声で言ってきた。
 アリスはとっさに心の壁を固める。何を言われても動じないように。こんな子供に心理戦で負けるつもりはない。
「あんた、魔法使いとして相当プライドがあったみたいだからな。『人間なんかに魔法で負けて悔しい、あの強さの秘密を探ってみよう』――なんてところか」
「……随分と思い上がってるじゃない」
「でも、それほど外れてはなさそうだな。ツッコミがさっきまでより弱いぜ?」
 ふふん。
 魔理沙は得意げに笑った。
 アリスは表情を変えず、また完全に魔理沙に背を向ける。作業の様子を見てみると、ちょうど人形たちが木材をハンマーではめ込んでいく作業中だった。6体の人形全員が一箇所に集まる、一番負担の重い工程だ。今回の建築用に作った人形はいずれも体は通常より大きめで、またボディも関節も極めて頑健に仕上げている。ハンマーの衝撃にも十分に耐え切れるようになっているのだが、それでもやはり、そのうち壊れてしまわないかと少し心配になる。
「しかし、これは凄いな。魔法でここまで人形を操れるものなのか。それも、魔力の供給も命令も最初に少し出しただけみたいだ。あとは勝手に動いている。便利そうだな」
 いつの間にか魔理沙はすぐ隣に立っていた。ちら、と横目で顔を見ると、言葉どおりに少し感動したような目で人形たちを見上げていた。先ほどまでアリスが森に来た目的を聞き出そうとしていたことはもう気にしていないのだろうか。答えずに逃げただけなのに追及してこない。
「でも、こんなペースじゃなかなか完成しないんじゃないか? 見たところ、かなり広い家を作ろうとしてるみたいだが。ここまでで何日くらいかかってるんだ?」
「二週間くらいね」
「それで、ここまでか。いや早いほうなのかもしれないけど、面倒じゃないか? こう、さ、せっかくだから魔法でぱっと家ができないもんかね」
「するわよ」
「え?」
「骨組みまで完成させたらね。あとは一気に魔法で仕上げるつもり」
 現実的に言って、材料も何も準備せず、手をさっと振るだけで豪邸が完成――なんてことは、伝説級の魔法使いの話だ。神に対抗するために魔法使いという者が生まれたわけだが、この、創造という点において完全に神の力に劣ることは認めざるを得ない。
 犬小屋程度なら、アリスでも生み出せる。カボチャの馬車も、準備をしっかりして集中すればできなくはないと、少なくともアリス自身は考えている。実際の使い心地を保障できるものではないにしても。人が住める家となれば、もう、論外だ。
 それでも今回は挑戦するつもりでいた。勝算はあるのだ。
「それはたいしたもんだ。是非そのときは見せてくれよ」
「……見たかったら勝手にしなさい。邪魔しなければいいわ」
「いつごろになりそうなんだ?」
「教える義理はないわね」
「冷たいなあ。せっかくの大魔法だぜ。立会人はいたほうがいいだろ? こんな広い家を魔法で完成させたら、そりゃあ、オオゴトだ。証人さえいれば名前が売れるぜ」
「魔法使いが有名になってもロクなことがないでしょ」
「お、その通りだ。参った」
 やれやれ。アリスは小さくため息をつく。
 別に、見られて困るわけではない。見られたからといって技術が盗まれるような魔法を使うわけではない。むしろ、この大魔法を見せ付けることで、魔法使いとしての格の違いを魔理沙に思い知らせて萎縮させる――という効果が狙えるかもしれない、とも思う。もちろん、失敗すれば逆効果だ。
 もっとも、今日話した感触だけから判断しても、魔理沙は必ず嗅ぎ付けてやってくるだろう。教えようが教えまいが、結果としては変わらない。日程を秘密にされたというのに、さほど気にした風もない魔理沙の顔が、その証拠だ。
「ところで、夜はどこで寝てるんだ? まさか、森の中で野宿か? ……ってこともないか。服、綺麗だからな」
「ちゃんとあっちのほうに帰ってるわよ。危険なことはできないわ」
「そっか。家出したわけじゃないんだな。よかった」
「誰が……」
 家出なんてするもんですか、と続けようとして、アリスは言葉を止めた。
 魔理沙の声も表情も、そのときは、嬉しそうな、寂しそうな、複雑なものになっていた。アリスは続く言葉をとっさに変更する。
「心配されることなんて何もないわ」
「いいことだ。食事はちゃんと取ってるか?」
「もちろん、ちゃんとお弁当を持ってきてるわよ」
「占いとか信じるほうか?」
「何のアンケートよ、それ。まあ、理屈があっていれば信じてもいいけど」
「よし、じゃあ、あんたの運勢を占ってあげよう。占星術とか陰陽師とかタグチメソッドとかまあそんな感じのもので。むむ……凶! 凶と出ておるぞ! これはいかん! しかし明日から弁当は二人分持ってくると大吉になると出た」
「……ひもじいの?」
「いやまあ」
 もちろん、弁当は次の日からも一人分だった。





[ 2 / 猪 ]

 魔法の森に来て、ただ建築だけやって帰るというわけではない。
 毎日時間を変えて、森の中の散策を行っていた。魔法の森というだけあって、魔法に使える植物は豊富に生えている。森は広く、場所によって生えているものの種類が変わるため、歩くたびに新しい発見があるというほどだった。
 目立つのは、薬草に使える草や花に加えて、見たこともない色とりどりのきのこだ。とても食用にはならないだろうと思える色彩が、かえって魔法材料としての役割がありそうな気配を漂わせている。怪しげなものに手を出すつもりはなかったが。
 この日集めていたのは、普通の緑色の草だった。傍から見れば雑草むしりにしか見えないが、根っこを乾燥させて臼で挽けば多様な調合に緩衝材として使用できる便利な粉を得ることが出来る、れっきとした薬草だ。
(これだけあれば、当分不足はしない……いえ、売れば結構な収入に……)
 たくさん生えていたので順調に集めてかごに入れていると、地面が妙に揺れていることに気付いた。地震か、とも思ったが、それにしてはリズムが違う。
 どこかで動物が暴れているのかもしれない、と思い、とりあえず気にせず採取を続ける。
 しかし、やがて、揺れは明らかに大きくなってきた。
 なにやら、ど、ど、ど、と音が聞こえてくる。
 音の聞こえて来る方に向かって顔を上げる。顔を上げると、どこから音が聞こえてくるのかよくわからなくなった。全方向から聞こえてくるような気もする。
 少なくとも確実なのは近づいてきているということだった。
「……っだぁ! 逃げるなっ!」
 ――声も聞こえた。
 アリスの表情がすっと冷める。だいたい、状況は把握できた。大人しくしていればそのうち気づかずにどこかに去っていくだろう。巻き込まれないように静かにしていればいい。
 ど、ど、どど、どどど。
 音はますます近くなってきた。アリスは構わず薬草を採り続ける。
 がさがさ、がさ、という草の音。
 ばきばきという、枝を踏む音。そんなものまで聞こえてきた。
 と、思った次の瞬間には、物凄い速度で目の前を何かが通り抜けていった。――まさしく、つい先ほどまで手を伸ばしていた辺りを。
 地面の激しい揺れと轟音、そしてあとわずかなタイミングのずれでそれに轢かれていたという事実の恐怖に、アリスの動きがぴた、と止まった。
 そして、当然のごとく、薬草は踏まれて、蹴られて、ぐちゃぐちゃになっていた。必要なのは根っこである以上、とりあえず問題はさほどないとは思うが――
 そう考えたのは一瞬のことだった。次の瞬間、視界は真っ白に染まった。
 次いで爆発音。ぼふん、と土が舞い上がる音。暴風。吹き飛ばされる。木の幹で頭をぶつけて、吹っ飛びは止まる。土煙の中、わずかに聞こえた「ち、すばやい」という声。もう一つの何かが駆け抜けていく音。
 頭を押さえる。痛い。激しく痛い。
 十数秒経って、ようやく土煙は収まった。見えた景色は土の濃い色に染まっていた。
 もちろん、薬草の姿は跡形もなくなっていた。
「ふ……ふふ……ふふ……ふふふふふふふうふふふふふふふふふふふふ」
 頭を片手で押さえたまま、アリスは俯いて、笑う。
 ずきずき。
 ふらつきながら、立ち上がる。
 アリスの中で、二つの心が激しく衝突しあう。ダメよアリス落ち着いて、これは純粋な事故よ。彼女にもちろん悪気はないし、責任もないわ。いやそうは言っても今日の成果が全部パーですよあなたちょっと。事故とはいえ思い切り怪我してますよこれ。事故でも責任は発生するんじゃないですかね奥さん。そんな、でも、彼女は彼女で、アリスと一緒で、生活のために狩りをやっていただけなのよ、たぶん。それを咎める権利はないわ。そうですかそれではこの怪我はどうしてくれるんでしょうねえ。危うく重い障害が残るところだったんですがねえ。あなたの理屈では生きるためなら人に怪我をさせても構わないと。それは詭弁だわ。意図的に行ったことと事故を混同させてるじゃない。やれやれ物分りの悪い奥さんですね。事故でもなんでも補償は必要なのですよ補償。や、いや、何をするの、や、やめ……。仕方ないじゃないですか。彼女に責任を負わせる必要がないと言うのならあなたに払ってもらうしかないのですよ。くっくっく。ああ、そんな……自分同士なのに、こんな……くやしい……でも
「……いや、結論どっちなのよ、これ」
 思わず自分の脳内に突っ込みを入れる程度の余裕が出てきたあたりで、ふう、と大きく息を吐いた。頭は痛いが、もう、うずくまって動けないほどではない。
 というわけで、とりあえず追いかけてみることにした。


 魔理沙は広い泉の前で猪を追い詰めていた。
「ふっふっふ……運が悪かったな。こんなところに出てしまったらもうお前に逃げる術はない。あ、いや、なんだ、計算どおりだ。本当は」
 自分の体と同じくらいの大きさの猪と対峙しながら、魔理沙は右手を前に突き出す。
 猪は慌てて右側に駆け出す。魔法が来ることはわかっているのだろう。かなりの俊足だ。これなら、魔理沙の魔法を避け続けてきたのも納得できる。
「無駄なんだな」
 魔理沙の手に、瞬時に膨大な魔力が集まる。後ろから見ていたアリスは、自分の体も引き込まれてしまいそうに感じたほどの魔力の収束だった。直後に、魔理沙の手から魔法が放たれる。
 巨大な白い閃光だった。
 そうとしか表現しようがない。一面が真っ白になった。
 びりびりと体が震えた。地面も揺れていた。世界全体が振動しているような気がした。

 とんでもない。
 アリスは、その魔法に圧倒されていた。恐怖に震えていた。見とれていた。感動していた。
 技巧も何もない、純粋な破壊のエネルギー。それでも、ここまでやられると、芸術だった。

 光が収まると、普通の世界が戻ってきた。地面は多少削れていたが、それ以外は特に景色が破壊されていはいなかった。見た目どおり、水は透過するのだろう。あるいは完全に吸収されてしまうのかもしれない。
 逃げ切れず、こんがり焦げた猪がむきゅーと倒れていた。勝負ありだ。
 魔理沙は構えを解いた。ゆっくりと、スローモーションのような動きで。あれほどの魔法だ、体に負担がかかるのだろう。なるほど、強力な魔法だが、これは大きな弱点に違いない。万一仕留めきれなかったら今度は魔理沙が一方的に攻撃を受ける番になりかねないわけだ。
 アリスは後方から観察しながら一人で大きく頷いた。
 素晴らしいものを見せてもらった。今日の収穫は、薬草なんかよりもずっと大きい。結果的には非常に有意義な時間を過ごすことができた。
 それはそれとして、魔理沙を泉に蹴落とした。
 ぼちゃん。





[ 3 / 渦 ]

 骨組みは昨日のうちに完成した。各部の点検も終わった。
 設計図通りの立派な家の形が見えている。あとは、ここに中身を入れる。
 天気も悪くない。体調も問題ない。今日、決めてしまう予定だった。
「楽しみだな」
 案の定、魔理沙はすでに待ち構えていた。
 アリスは答えず、周囲環境のチェックに入る。
 魔法の森の中は、濃密な魔力に覆われている。森の中に、魔力が「湧き出る」場所があるのだ。厳密には魔力は循環するものであり、無限に生じるものではないが、この場所に限っては決して枯渇しない資源として扱える。
 これが、勝算だった。他の場所では無理な大規模な魔法でも、この魔法の森なら可能になる。大量の魔力を継続的に注ぎ込むことさえできれば、あとは集中力の勝負だ。
 骨組みまでは手で完成させたのは、この部分は膨大な計算と調整が必要であり、とても一度の魔法の中で完璧に構成させることは不可能だと判断したからだった。逆に言えば、ここまで組み立てておけば、あとはそれほど難しくはない。
 予めミニチュアの家で実験も行っている。手順も問題ない。
(いける、はず)
 大きく息を吸う。吐く。もう一度吸う。吐く。
 ぐっと手に力を込める。
「……ひとつ、守って欲しいことがあるの」
 魔理沙のほうを向かないで、声をかける。
「金銭と宗教がらみでなければだいたい大丈夫だ」
「これからの作業は集中が必要だから、静かにしておいてね。たとえ感動するような光景が見えたとしても」
「ほう。言うじゃないか。静かに感動させてもらうとするか」
 その返事を聞いて、アリスは再び黙り込む。
 目の前には木材がまだ束になっている。これも必要なものだ。
 すっと手を前に出して、伸ばす。
 目を閉じる。
 頭の中で、落ち着いて、部屋の構成を思い浮かべてゆく。

 掌から、そして周囲から、魔力が家の中に流れ込んでいくのを感じる。部屋が一つずつ組みあがっていくイメージ。焦ってはいけない。急ぎすぎると不完全な構造になってしまう。
 一部屋。二部屋。
 寝室。キッチン。バスルーム。
 問題なく構成できているはず――落ち着いて呼吸しながら、覚えた手順通りに進める。
 詰まってはいない。順調に進んでいる。何度も練習した甲斐はあった。いける。
 ――しかし、ふと。
 魔力の流れが止まった。家の中に魔力が流れ込んでこなくなった。
 わずかに動揺する。雑念が入る。だが、ここで止めてはいけない。魔力は無尽蔵にあるはずなのだ。一時的になんらかの障害で止まっただけだ。次の魔力が入ってくるまでアリス本体の魔力で支えればいい。
 しかし、こない。
 まだこない。
「ぐ……」
 体が急激に重くなった。もともとアリスには荷が重過ぎる魔法だ。外側からの魔力の供給が止まってしまえば、どうしようもない。まだ半分も完成していない家を、最後まで支えきることなど不可能だ。
「っが……!」
 腕が落ちた。膝から崩れ落ちて、倒れる。
 倒れる直前に目を開いた。途中まで構成されていた半透明の壁が、すっと消えていくのが見えた。目の前に積まれていた木材は全て木炭と化していた。
 ――魔法は、大失敗に終わった。
 地面に仰向けになる。空を見上げる。天気は悪くなかった。
 精神を集中して、魔力を探る。魔力はこの場で渦を巻くように流れていた。この渦が、外から家まで魔力を運ぶのを阻止してしまったのか。
 これが森の気まぐれなのか、それとも魔法が干渉したことによる必然なのか、アリスにはわからなかった。理由はともあれ、失敗したという結果だけは確実なものだ。
 魔理沙がひょこりとアリスの視界の中に顔を出す。
 ああ。存在を忘れていた。無様な姿を見せてしまった。笑いたければ笑え。今は反撃する力もない。好きにすればいい。
 半ばやけになってじっと睨みつけていると、魔理沙は静かに言った。
「……生きてた」
 ああ。
 もっと根本的な確認にきたらしかった。こんなことで死んでたまるか。なんて、言う元気もないが。
 もういいや、と目を閉じかけると、魔理沙はばっと腕を広げてみせた。
「凄かったぜ! 透き通った壁が少しずつできていくんだ。凄く綺麗だった!」
「……は」
 思わず目が点。
 想定もしていなかった、元気な声が聞こえてきた。
 実際に家は完成していないのだから、失敗だったということがわからないわけでもあるまいに。
「……失敗したら、何にもならないわ」
「ああ。せっかく途中まで出来ていたのに、消えてしまったな。ま、次成功すればいいじゃないか」
「……」
 次。
 失敗したばかりで、そんな発想なんて出るわけもない。
 アリスにしてみれば大きな失敗でも、魔法の発動自体に感動した魔理沙にとってはまだ最初の実験が終わったというくらいの重みでしかないのだろう。
「簡単に言ってくれるわ、ほんと……」
「なんだ。再挑戦は難しいのか?」
「材料もそろえないといけないけど……それ以前に」
 はあ。ため息をつく。
 寝転んだままではさすがに格好が悪い。なんとか力を込めて、上半身だけゆっくりと起き上がる。魔理沙が手伝おうかと手を差し伸べてきたが、軽く首を横に振って拒否。
「失敗の理由をちゃんと突き詰めないと、何度やっても無駄だわ」
 魔力が流れてこなくなったら、確実に失敗する。魔法の森の魔力の流れについて真面目に調べないといけない。
「理由がわかったらまたやるんだな?」
「……まあ、見込みがあればね」
「その日もちゃんと呼んでくれよ。最後まで見てみたいからな」
「また失敗するかもしれないわよ」
「いいぜ。大魔法なんてもともと一回で成功するもんじゃないだろ。綺麗だから何回でも見たいんだ」
「……そう」
 アリスは、腕を地面について、腰を上げる。腕が痛むが、立ち上がれないほどではなかった。
 体へのダメージはそれほどでもなかったようだ。どちらかといえば、精神的な要因が大きかった。
「……」
「ん? どうした?」
「別に」
 素っ気無く言ってみたものの、アリスは少しこの小さな魔法使いを見直していた。
 大失敗で当分打ちひしがれていただろうというところを、綺麗だった、また見たいというそんな単純な言葉に、大いに救われたことを認めざるを得なかった。
 その通りだ。失敗にめげる時間があれば、次のことを考えたほうがいい。
 一度失敗したくらいがなんだ。





[ 4 / 茸 ]

「色や柄を見れば知らないきのこでも食べられるかどうか判断できる、なんて言う奴もいるが、それは大いに間違いだ。見た目いかにも食えそうでも危険なきのこなんていくらでもあるからな。ツキヨタケなんてありがちだ。素人は何も考えずにシイタケだと思って食ってしまう。ドクササコも見た目には美味そうだが、食べたら酷い目にあうぜ。ああ、あと白いきのこは絶対に手を出すな。恐ろしいのばかりだ。普通のきのこばかりじゃないぜ、この魔法の森にしか生えていない強烈なのも――」
「……で……っ」
「うむ」
「今、私をっ……苦しめてるのは、どれ、なのかしら、ね……!?」
 ぐぐぐぐぐ。
「お、お、おちつけ首を絞めるな。私が先に死んでしまったら治すのも治せない」
「だったら早くなんとかしなさいよ……っ、が、あ、ぐ……」
「私はなんともないからなあ。おかしいなあ」
 きのこ鍋を振舞ったのは、魔理沙のほうだった。おいしいきのこの食べ方を教えてやるぜ! と、建築現場で木材集めと調査を行っていたアリスのもとに鍋とかごに入ったたくさんのきのこを持ってきたのだ。
 胡散臭い香りは感じていたものの、魔理沙はまあ一回食ってみろとアリスの反応を無視して準備を進めるもので、せっかくの好意だからと受け取ってみることにしたのだ。
 魔理沙特製のきのこ鍋が完成して、箸を付けたのが30分ほど前。
 なるほど、自慢するだけあって、美味しかった。普段食べることのない味ばかりで新鮮だった。

 で、今に至る。

 全身が痺れて、視界が何度も揺れる。足が痙攣しているのもわかる。
 魔理沙を一発殴ってやろうかとなんとか手を伸ばしたら、見えていたよりずっと遠くにいたことが判明したりもした。精神的高揚の症状はないが、一種の幻覚作用かもしれない。
「つ、使った材料を、ひとつひとつ……みなおして……!」
「もちろんだ。基本的には食用のきのこしか使ってないはずなんだがな。組み合わせの問題か? いや、聞いたことないしな」
「基本的にはって、何よっ……!」
「ああ。最近おまえさ、疲れてるみたいだったから元気つけようかと思ってちょっとだけ魔法のきのこも配合した」
「……どう、考えても、それ、じゃ……な……ああああああ」
「私は平気なんだけどなあ。相性か?」
「これで死んだら、何を食べても酸っぱく感じる呪いをかけてやるわ……」
「地味にかなり嫌だなおい。大丈夫だって、すぐに症状が出るものは死ぬような毒じゃない。まあ……そうだな、薬は、あれだな。ちょっと持ってくるからここで待ってろ」
 魔理沙は言い残して、すぐさま飛んでいった。
 地面にはいつくばって苦しんでいるアリスを残したまま。
「つ……連れていきなさいよ……」
 声はもう届かない。
 魔理沙の家がここから近いことは知っている。せめてベッドで休ませてくれるというくらいの気遣いは期待してもいいだろうに、と恨む。ふらふらしてきた。
 這ったまま、少しずつ場所を移動する。手の筋肉もおかしくなっている以上、無理に魔法は使えない。
 なんとか、木材の束が出来ているところまでたどり着く。今必要なのは椅子ではなく、適当にもたれかかることが出来る場所だった。
 束を少しならして、平面になるようにする。両手を木材の上に置いて、力を抜く。
 がんがんと頭が痛い。目を閉じるとある程度この痛みは治まる。視界がおかしくなっているから脳も混乱しているのだろう。
 はあ、はあ。
 大きく深呼吸することで、息苦しさを解消しようとする。
 この姿勢をとることで、幾分か楽になってきたような気がした。
「あーもう……幸先悪いったら」
 ちょうど、材料とするための木材を再び揃えることができたところだった。より本格的に、魔力の流れについて調査を始めたタイミングだった。
 何箇所か立って10分間ほど魔力を探った結果わかったのは、魔法の森の魔力の流れは非常に変わりやすいということだった。決して魔力の発生源から放射状に流れているわけではなく、局地的に大きく乱れている。魔力は大気の流れに似ていて、局地的に魔力が薄くなる場所があれば、周囲から流れ込んで均一化される性質がある。しかし、この森では、いわば乱気流のような魔力の流れの支配力が大きく、低気圧が低気圧のまま放置されてしまうようだった。
 先日の魔法の失敗の原因はこれで明らかになった。せっかく森全体が濃密な魔力に溢れていても、補充機構は自動的には働いてくれないということだ。
 それでは、どうするのか。これから考えなければいけない。という現状。
 最初の障害は、まさかの毒きのこになってしまった。
「あーーーーーーーもうっ! 呪ってやる呪ってやる呪ってやるのろ……うぐっ、あ、ががが」
 ひくひく。
 顔の筋肉も引きつる。無理に喋らないほうがよさそうだ。
 がっくり。もう一度意識して力を抜く。落ち着け落ち着け。目を閉じて自分に言い聞かせる。
 そしてまた、二つの心の対立が始まる。落ち着いてアリス。魔理沙はあなたのことを思って魔法のきのこを特別に入れてくれたのよ。魔理沙は平気だったんだからきっとたまたま相性が悪かっただけよ。魔理沙に罪はないわ。またですか。何度言えばわかってくれるんでしょうね、あなたは。過失だとしてもこんな苦しめられているのですよ? もっとも、本当に過失かどうかは怪しいですがね。くっくっく。どういうことよ。一緒に食べたんだから毒だってわかって入れたなんてことはあり得ないじゃない。だから甘いというのです。彼女は予め解毒剤を飲んでいた――それで済む話ではないですか。そんな! 疑いだしたらなんとでも言えるじゃない! だいたい動機がないわ! 動機? 彼女を追い詰めてから聞き出せばいいではないですか……わかりませんか? なに、口を割らせる方法なら、いくらでもあなたの身にこれから教えて差し上げますよ……。あ、やだ、ダメだって、ばっ……。本当にダメなのですか? どうせ、五分もしないうちに本当のことを喋ってしまうのに。素直になれば楽ですよ。あ……私、そんな……どうして……
「……アホか私は」
 結局結論はよくわからないまま。
 というか、今はどうでもいい。早く楽になりたい。前向きな意味で。
 ゆっくりと、目を開ける。ずっと閉じているのもそれはそれで辛い。
 ぼんやりとぶれる世界の中、視界に映るのは自分の膝、木材の束、地面。そして健気に生える黄色い花がいくつか。
「……あれ……この花……」
 以前からこのあたりで目にする花だった。あまり今まで気にしたことはなかったが、確か、魔法の花の一種だ。
 今になってふと目に付いたのは、少し間隔を空けながら咲いているこの花が、どれも同じ方向を向いていることだった。魔法でもあり植物でもあるこの花は、日光と魔力の両方の力を受けて育つ。花は、魔力の流れる方向に向かって咲くはずだ。
 魔力の流れが一定しないはずのこの場所なのに、複数の花が全て同じ方向を向いているということは、少なくともその向きが花にとってもっとも効率がいいということであり、
「あ、っだ、いっつ……っ」
 花を見つめながら考え事をしていると、がんがんとまた頭が痛み出す。
 深呼吸。深呼吸。
 今、重要な発見をした気がするのだ。少し考える時間を与えて欲しかった。
 ここは木材で陰になりやすい場所だから、なおさら魔力の影響を受けやすいはず。もう少し考えれば、何かが見えてきそうだ。目を閉じて体を落ち着かせる。ええい、医者はまだか。

 魔理沙が戻ってきたのが何分後なのか、よくわからなくなっていた。
「考えてみればおまえをうちまで運べばよかったんだな。いやー、気付かなかった」
 ……遅い。
 言葉にする元気もなかったので、睨みつけて代用した。
「これを飲め」
「……?」
 大丈夫でしょうね、と目で確認する。
「楽になる。大丈夫だ、私を信じろ」
 誰のせいでこんなことになっていると思っているのか。
 魔理沙はアリスの口を開けさせて、粉末の薬を流しいれて、水を飲ませた。少し苦かったが、不快に思うような味ではない。「よし、行くぜ」
 魔理沙は一方的に宣言すると、箒の後ろにアリスを乗せて飛んだ。アリスは魔理沙にしがみつく力はないので、魔理沙のほうが手をしっかり支える形になった。
 箒は、物凄い速度で飛んだ。アリスがかつて経験したことがないほどの加速もあった。しかし、空気抵抗はほとんど感じなかった。かなりうまく制御できている。頭痛が繰り返す中、アリスは魔理沙の飛行性能を確認していた。
 すぐに、魔理沙の家に着いた。魔理沙は箒に乗ったまま開けっ放しの玄関のドアを通り抜けて、一気に部屋の中まで突入した。
「よっ、と」
 どさり。
 アリスをベッドの上に落とした。
 そのあと魔理沙は、床に降り立つ。
「さあ寝るがいい。これでもう大丈夫だ」
「……さっきのは……何の薬……?」
「睡眠薬」
「……」
「いやそんな睨むな。こういう症状なら長くは続かないから寝てるのが一番楽なんだ。ほんと」
 目を閉じる。
 どうせ、反論する気力もない。もし薬が変な風に混ざって悪い作用を起こしたらどうするのかと言いたかったが、もう手遅れなので、どうでもよかった。
「私が作った特製の睡眠薬だから。効くぜ」
 ものすごく不安になった。


 結果的には、ぐっすり寝た。
 起きたらすっかり健康体になっていた。なんとも悔しいことに、魔理沙の言うとおりになった。
 手足をぐるぐる回して、後遺症が特にないことも確認する。
 むしろ、ここ数日の中で、一番体が軽い。
「ごめん。やっぱり、あの魔法のきのこがまずかったみたいだ。人によってはアレルギーみたいなショック反応を起こすらしい」
「……そう」
 起きてから、魔理沙からの調査報告があった。
 第一声で素直に謝られて、拍子抜けしてしまった。苦しんだものの今は元気なので、非難する気持ちも薄れていた。
 せめて一発くらい蹴ってやろうかと思っていたが、もうそんなタイミングもない。
「いいわ。実際、このところの疲れは取れたみたいだし。偶然だけど、面白い発見もあったしね」
 幸い、あのとき木材置き場で見たもののことは、忘れてしまいはしなかった。
 怪我の功名とはこのことか。

 再挑戦の時間は近い。
 今度はしっかり決めてしまおう。






[ 5 / 流 ]

「この花は、日光と魔力、どちらも同時に受けないと育たないらしいわ。そして花は魔力の流れる方向に向かって咲く」
 今日も見学にきている魔理沙に解説する。来ているというか、今回はアリスが呼んだ。
 木材置き場の間に咲いている花を指差して、次に空を見上げてアリスは続ける。
「ここには木材が長い間置いてあった。太陽は東から昇って……もう少し経って真昼に近くなると、ようやく花に陽が当たるようになる。花は日光が当たる間しか成長しないから、このわずかな時間を利用してしっかり魔力を受けないといけない」
 今度は、花が向いている向きに腕を伸ばす。
「つまり、花がこっちのほうを向いていたということは、真昼の間は魔力はこっち向きの流れが支配的ということになる。全部が同じ向きだったんだから、かなり確実に」
「わかりやすい話だな」
「この前、ここで一日中魔力の流れを調べて記録してみたの。やっぱり全体的には流動的だったんだけど、確かに昼間、魔力の流れがしばらく揃うときがあったわ。どういう理屈があるのかはさっぱりだけど、そのあと何日か同じ時間に調べたけど、間違いなかった」
「魔法を使うなら、昼間のそのときを狙うってことか」
「ええ。ただ、完全に安定しているわけじゃないから、その時間なら絶対に大丈夫というわけにはいかなさそうなの」
「なんだ、やっぱり単純な話じゃないのか」
 アリスは手を下ろす。
 今度は家のほうを向く。
 骨組みまでできている家は、何日も放置されてきた。あまり、ずっとこのままというわけにもいかない。家が完成する前から腐食し始めてしまってはどうしようもない。
「安定して成功させるためには、魔力の流れ自体をコントロールすることが不可欠なのよ」
 ただ魔力があればいいわけではない。魔力が継続的に流れ込んでこないとこの魔法は完遂できない。
 魔理沙は、ふん、と軽く頷いた。アリスと同じように家を見上げて、言う。
「私の出番があるというわけだ」
 アリスは驚いて、魔理沙の横顔を見る。魔理沙は、アリスの方を見上げて、ん? と不思議そうな顔をした。
「……鋭いじゃない。何も考えてないみたいなのに、意外だわ」
「なんかかなり失礼なこと言われた気がするが、私は温厚だから怒らないぜ。だっておまえは大魔法使うわけだから、同時に魔力の流れのコントロールなんてできるわけないじゃないか。ってことは、私がやるしかないってことだろ」
「ええ。もし、協力してくれるなら、ね」
「金銭と宗教と政治がらみ以外は大丈夫だ」
「なら大丈夫ね。是非お願いするわ」
「いいぜ。魔力の流れのコントロールなんて、やったことないけどな」
「そこなんだけど」
 アリスはここで、少し緊張で表情を固くする。
 魔法使いといえど、右から来た魔力を左に受け流す、といったようなコントロールをすることは、まずない。魔力を具体的な仕事に変換してこそ魔法なのだから、無意味なことはしない。
 ただし、魔法を使った結果として、魔力の流れは変わる。これを利用すればコントロールはできないわけではない。
「この前、猪を狩るときに、派手な攻撃魔法使ったでしょ。あれをお願いしたいの」
「……ほう?」
 今度は、魔理沙が驚いた顔を見せるほうだった。家作りの魔法とは繋がりそうもない魔法なだけに。
「あの魔法、使う一瞬で周辺から物凄い魔力を集めるでしょ。あの勢いでいわば魔力の流れる道を作ってしまえないかと思ってるの」
「……言わんとすることはわかるが、集めた側から魔力を激しく消耗するぜ? 集めるだけ集めて何もしないなんてことはできないからな、先に言っておくが」
「ええ。幸いにして、魔法の森の魔力全体はほぼ無尽蔵と考えていいくらいあるわ。魔力を消耗してしまっても、その効果で安定した魔力の通り道さえできてしまえばどれだけでも補給はされてくるという計算よ」
「安定した魔力の通り道さえできれば、か。できるのか?」
「たぶん、ね。一度試してみたいんだけど、今からできるかしら」
「別に構わないが、こいつは消耗が激しいからそう何回も続けてできないからな?」
「制限はどれくらい?」
「無理すれば3回くらいは続けられるが、その後当分禁止だな」
「一回の持続時間は?」
「やり方次第だな。出力を控えめにすればそれだけ長くできる。逆に聞くが、どれくらいの持続が必要だ?」
「理想的には、家を作る間ずっと。7〜8分くらいは」
「わかった。論外だ。長くして5秒くらいだからな」
「そう……」
 アリスは考え込む。
 案としてはさほど悪くはないはずだ。問題は効率的な運用方法ということになる。
 ちょうど家への魔力の供給が止まったタイミングで魔法を撃ってもらって魔力の流れを作る、というのが理想的だろう。しかし作戦の都合上、魔理沙にはアリスとは家を挟んで反対側にいてもらわなければならない。魔力はただ家の中にどこからでも入ればいいというのではなく、アリスから家に向かう向きに対して順風でなければならないからだ。魔理沙が、自分で判断して魔法を撃たないといけないことになる。アリスは家の魔法に集中するため、教えることは出来ない。かなり難しいか。
「……うん。まずは一回、撃ってみて。家の向こう側から、空に向かって」
「わかった。強さは普通でいいか?」
「そうね、まずは」
 魔理沙は頷いて、向こう側まで歩いていく。
 お互いに位置を微調整する。本番ではないのだから、あまり細かいことにこだわっても仕方ないのだが、だからといって適当な計測では実験の意味がない。
 アリスは、一度深呼吸をして、意識を周辺の魔力に集中させる。現在の流れは、右から左、やや弱め。これを、アリスの体から見て後ろから前という形に安定させることが目的だ。
 手を上げて、魔理沙に合図を送る。魔理沙が同じように手を上げたのが見えた。

 ぞくり。アリスの体が震えた。
 魔力の流れだけに集中していたので、魔理沙のほうはあまり注視していないのだが、爆発的な魔力の収束を感じれば、今まさに撃とうとしているのだということがよくわかる。
 物理的な強風が吹いたようにさえ感じた。この魔法を「感じる」のは二度目だったが、どうしようもない恐怖感を覚える。魔法使いとして本能的な危険を体に警告しているのかもしれない。
 閃光が放たれた。また、世界が揺れる。アリスは、体が縮こまりそうになるのを耐えながら、魔力の検知に専念する。放出中も魔力は吸い続けているようで、今は当然のように狙ったとおりの向きに魔力が流れている。本番では、この流れに乗るように魔法を使えばいい。魔力の一部はもちろん魔理沙が指摘したとおり、魔理沙の魔法のほうに吸収されてしまうだろうが、この魔法の森では大きな問題にはならないはずだ。
 閃光が消えた。魔法が終わった。現実的な問題はむしろここからだ。先ほど作った魔力の流れの「道」が本当に維持されるのか。
(大丈夫……まだ、続いている……)
 流れは変わっていない。計算したとおり、道はできた。
 しかし、30秒ほど経って、うまくいった、これならいけそうだ、と思ったとき。魔力の流れが、止まった。
 アリスは、顔をしかめる。30秒。もとの流れの向きに乗っていないからだとはいえ、短すぎた。


「結論は、どうだ?」
「……運が良ければ、うまく使えばできそう、ね」
「厳しいわけだな」
 魔理沙の指摘が、そのまま現実の答えだった。
「持続がもう少し長かったら……」
「それは無茶だな。なんともならない」
「わかってるわよ。希望を言ってみただけ」
「……なあ。魔力の流れとかじゃなくてさ、私が直接家の魔法を手伝うわけにはいかないのか?」
「……え……」
「というかさ、やりたい。そっちのほうが面白そうだ」
 にかっ、と魔理沙は歯を出して笑った。
 考えてもみなかった提案に、アリスは唖然とする。流れを作らないことにはどうしようもないという話をしたばかりなのに、やっぱりよく聞いてなかったのだろうかと目で疑念を送るが、魔理沙は構わず続けた。
「単純に言えば、二人でやれば半分の時間でできるだろ? しかも流れがなくなったときの魔力の予備は二倍だ。多少不安定になっても行けたりしないか?」
「……」
 実に単純明快な発想だった。
 ――そして、それは、確かに正しい。確かに。
 アリスは少し考える。もちろん、魔理沙の発想ほど現実には楽観的にはいかない。課題はある。ベストなのは、流れをある程度作ったうえで、かつ二人で魔法を行うことだ。それをどうやって可能にするかは後で考えるとして。
 しかし何よりこの作戦には重大な問題があった。
「……魔法では、一部屋ごとに部屋をイメージして完成させていくのよ。二人でといっても、分担して別々のところをというわけにはいかないわ。協力してやる場合、二人で同じ部屋を同じように同時にイメージする必要があるの。もちろん、うまくいけば、半分の時間で済むというのは正しいけど……さあ、これがどれくらい難しいことか、わかるでしょ?」
「なんだ。そんなことでいいなら、やろうぜ」
「……話、本当に聞いてる? つまり、まずあなたはまず作ろうとしている部屋の構造を全部覚えないといけないのよ。そのうえで、順番に、私と同時に部屋をイメージするの。全部」
「覚えればいいんだろ? イメージだって練習すればあわせられるさ。両方とも、不確定な自然の魔力の流れをアテにしないといけないということよりはよっぽどいい話だ。なせばなる、話だからな」
「……」
 言葉どおり、開いた口が塞がらない状態になってしまった。
 アリスには信じがたい言葉だった。本気で、自分の家になるわけでもない家のために、多数ある部屋の構造を全て暗記しようというのか。アリスのイメージに合わせようというのか。どれほど大変なことか理解しているのだろうか。
 言葉を失ってしまったアリスに向かって、魔理沙はこともなげに言うのだった。
「やれることは、やろうぜ」


 次の日、アリスは魔理沙に部屋の各部屋の設計図と、色指定つきのスケッチを手渡した。分厚い資料の束だ。しかも、情報は非常に密に詰まっている。
 それを見た魔理沙は、別段驚くことも嫌な顔をすることもなく、いつもどおりの飄々とした態度で「じゃ、覚える」と言うのだった。
「あ、あとな、イメージをあわせる練習なら、これが使えると思う」
 魔理沙がそう言って取り出したのは、金属の針と板が木製の台に取り付けられたようなもの――いわゆる、メトロノームだった。
「昔から魔法の練習にはこれだったんだ。便利だぜ」
 古くて、もう土台はボロボロになっているメトロノームだった。
 よほど使ってきているのだろうということが見て取れる。
 このあとアリスと魔理沙は、このメトロノームと、二週間ほど付き合うことになる。






[ 6 / 泉 ]

「なあなあ、この部屋何に使うんだ?」
「来客用」
「客なんて来るのか?」
「……一応、あってもいいじゃない。じゃ、ついでにこの部屋のテストしてみましょうか。部屋の概略は?」
「白い壁紙で囲んで、床はじゅうたんを敷き詰めて、部屋の真ん中にガラス板のテーブルと、テーブルを挟んでソファが二つ。ソファは皮製で色は黒。部屋の壁に二個ずつ壁掛けのランプ。ドアは北側に一箇所で、内開き。なおじゅうたんを捲るとテーブルの下あたりに秘密の地下道への入り口が現れる」
「勝手に忍者屋敷みたいにしないで!? ……ま、まあ、最後以外は問題ないわ。細かいところはペーパーで確認するとして。あとはどのあたりまで覚えた?」
「台所とか」
「キッチンね。じゃあ、キッチンにあるものを全部言って」
「マンモスの剥製」
「古代人か! ってかどんだけ広いキッチンよ!?」
「で、あと、倉庫部屋と実験部屋二つ、その隣にある私の部屋まで覚えた」
「私の家よ!」


 実際、魔理沙の吸収力の速さは見事だった。イメージをあわせる練習のときには、しっかりと部屋の構造を暗記してきていた。記憶を試すためにペーパーテストや口頭のテストもこまめに実施したが、淀みなく正解を答えてきた。大抵最後に余計なものがついてきたりしたが。
 この様子なら実際、家の魔法は一人でするよりずっとうまく行けそうだと感じる。
 となると、アリスが解決すべき課題は、やはり、魔力の流れの問題だ。いくら時間が半分できるようになるとはいえ、途中で魔力の供給が止まる可能性が低くなった、魔力が止まっても保険がある程度利くようになったというだけの意味であり、確実性はまだない。賭けに近いことに変わりはない。
 魔理沙との勉強会のとき以外は、特にアリスに作業することはない。それでも毎日魔法の森には来ていた。
 魔法を使って魔力の流れを作るという発想は悪くはないと今でも思っている。ただ、もちろん、魔理沙が家の魔法のほうに入るとなると、誰もその役割を担うことが出来ない。
 森の中をふらふらと歩きながら、次の手を考えていた。

 気がつくと、泉の前にいた。
 少し前、魔理沙を蹴落とした泉だ。アリスはちょうどいい、とここで手ごろな岩を見つけて、そこに腰掛ける。
 ぼんやりと水面を眺めて、何かヒントでもないだろうかと思いながらたまに跳ねて波立つ場所を目で追っていく。
 影が落ちてきた。影がすぐ目の前まで来た。
 顔を上げると、ちょうど魔理沙が地面に降り立った瞬間だった。
「よ」
 魔理沙は手を上げた。
「……何か用?」
「いや、飛んでたら偶然見かけた」
 魔理沙は、アリスが座っている岩の上に同じように腰を下ろした。
 箒はアリスと反対側に置く。
「なんだ、また疲れた顔してるな」
「そうかしら」
「考えることは大切だが、疲れていたらいいアイデアも出てこないぜ。ちゃんと気分転換してるか?」
「……あのね。一応、私もあなたみたいな子供に説教もらわないといけないほど幼いわけじゃないんだけど」
「遊ぼうぜ! このところ私もこもり気味だったから体を動かしたいしな」
「なんかストレートに無視された……」
「水切りって知ってるか?」
「何よ」
「よし」
 魔理沙はばっと立ち上がる。座っていた時間は短かった。
「まずは見てろ。感動するぜ」
 駆け出して、水が来ている縁まで行った。
 そこでしゃがみこんで、何かを探している。拾い上げたものは、小石だった。二度、拾った石を捨てて、別の石を取る。
「行くぜ」
 魔理沙は石を手に持って、ばっと腕を上げた。
「せいっ!」
 勢いを付けて、下手投げで小石を泉に向かって投げた。水平に近い軌道で飛んだ石が、ぽちゃん、と水面に落ちた。
 直後、先ほどより奥のほうの水面が跳ねた。
「え……?」
 アリスが驚いている間に、3度目、4度目、5度目……どんどん跳ねが連鎖していく。最終的に、合計9回。
 よく見ると石が落ちた水の中から再び現れて、また水面に落ちてというのを繰り返していることがわかった。
「ち、10回行かなかったか」
 魔理沙は悔しそうに言ってから、くるりとアリスのほうを振り向いた。
 アリスは目を丸くしていた。
「……水面で跳ねてるのかしら。一旦水の中に石が落ちてからまた浮いて来ているようにも見えたけど」
「さあ。理屈は知らん。まあ、やってみるといい。気持ちいいぜ」
「……いえ、私は、いいわ。別に」
「勝負しようぜ!」
 魔理沙は手を振ってアリスを呼んだ。
 アリスは首を振って拒否した。
「……」
 魔理沙は、なんとも言えない無表情になって、またしゃがみこんだ。うろうろと、石を探し始める。今度は、2つ、3つとまとめて拾って手の中に納めていく。アリスはその様子をじっと眺める。
 数個拾ったところで、歩いて近づいてきた。目の前で止まる。
 笑う。
「こういう平らな石がいいんだ。水面を撫でるみたいに投げるのがコツだ」
 そう言って、アリスの手を取って、石を掌の中に強引に握らせた。
 じと。アリスは魔理沙を睨みつける。
「ま、最初は2回も跳ねれば上出来だけどな。4回行ったら土下座してやるぜ」
「……やってやろうじゃない」
 むくり。立ち上がる。
 お、という魔理沙の声を無視して、水辺まで歩く。
 魔理沙の投げ方は見ていた。だいたい、どう投げればいいかは推測がつく。
「土下座してもらうわよ」
 振りかぶった。
 サイドスローをやや低めに落とした投げ方で、石をリリースする。
 ぽちゃん。
 ぽちゃん。
 ……
「2回だな。ま、そんなもんだって」
 隣まで来ていた魔理沙が気楽に言った。
「……納得行かないわ」
「お?」
「何が足りなかったのかしら。初速? でも、そんなに劣ってはいなかったはず。7回の差になるとは思えない。それなら……」
「習うより慣れよ、って知ってるか?」
 ぽん。
 アリスの手にまたひとつ、石が渡された。
 これで完全に、アリスのスイッチが入った。

 壮絶な水切り大会は、実に20分近くに及んだ。悪くても7〜8回、多いときは10回以上を簡単に記録する魔理沙に対して、アリスはどうしても3〜4回の壁を越えられなかった。
 肩を撫でて痛みを和らげつつ、アリスは魔理沙を睨みつけた。
「何か、隠してるでしょ……!」
「何かって何だ?」
「どうして同じ投げ方してるのに……」
「まあ、な。一番のコツは企業秘密だ。自分で見つけたまえ」
 上機嫌に魔理沙は言った。
 水辺からすっかり石は消えていた。形の悪い石も最終的にはほとんど投げた。
「楽しかっただろ?」
 無邪気に笑う。
「む……」
 あまり認めたくないアリスだったが、夢中になっていたことは今更誤魔化せない。
 軽く赤面して、ぷい、と斜め下を向いたのが答え代わり。
 魔理沙は、ぽん、とアリスの肩を叩いた。
「体力はまだ残ってるな?」
「……何よ、一体」
「いや、これからもっと楽しいことが始まるんだ。そろそろ」
「え?」
 まさにちょうど、そのタイミング。
 泉の表面が、ぱぁっと光った。強烈に、光った。
 アリスは泉を呆然と眺める。泉の中から、ゆっくりと、何かが……人の形をした何かが現れてきた。光っている。
 光が少しずつ弱まってくると、その人型が美しい女性であることがわかる。ただし、上半身しか水面上には出ていない。
「泉の精だ」
 その女性、魔理沙いわく泉の精は、すっと右手を上げた。手に、何かを持っているように見える。
 魔理沙はその動作にあわせて、両手を前に突き出す。
 何が起ころうとしているのかわからないアリスは、ただこの光景に戸惑う以外のことは何も出来ない。ああ、そうだ、森の中の泉の精といえば、確か金の斧がどうとかいう――
「両手を前に出せ。障壁魔法準備」
「……え?」
「くる」
 泉の精は、無表情のまま、手を物凄い速度で振り下ろした。同時に魔理沙は、自らの前に強力な障壁を作る。
 がきんっ、と硬い音がした。続けて、足元でこつん、と小さな音。……石ころが転がっていた。
 泉の精は続けて何度も振りかぶっては、腕を下ろす。飛んでくる石。
「え? え?」
 ち。
 石ころが一つ、アリスの頭上を掠めた。あ、飛んでくる、と思ったそのときにはもう頭の後ろまで通過していた。
 じわり。冷や汗が流れ落ちる。
 慌てて、魔理沙のまねをして、目の前、全身を覆うように障壁を作った。
 がん。がんがんがん。がきがきがきん。
 石の勢いも数も、だんだん増して来ていた。同時に複数個飛んでくるようになった。
 そのたびに目の前で石が物凄い音を立てて跳ねる。石はもうぶつかりそうな距離まで来るので、ちゃんと防げていても、かなり、怖い。
「な、なんなのよ、これっ!?」
「いやあ。昔からよくここで遊んでるんだが、いっぱい石投げるとこうやって補充してくれるんだよなあ」
「どう考えてもキレて攻撃してきてるんじゃないの!」
 ががががががががががががが。
 気がつけばもはや言葉どおりの弾幕状態。
「そうアイツを責めるな。色々と事情があるんだろ」
「あなたを責めてるんですけどーっ!?」
「いやあ。スリルがあって楽しいぜ。はっはっは、無駄だ無駄だ無駄だー!」
「ひっ……」
 半ば涙目になりながら、とにかく全力で障壁を張り続けた。
 ――石の弾幕は、3分間ほど続いた。

 はぁ、はぁ。
 膝を突いて荒く息を吐く。
「よ、お疲れ。楽しかったか?」
「死ね」
 はぁ、はぁ。
 全身ががくがく震える。二度と味わいたくない恐怖体験だった。
「……あなたを中心部まで投げ落としたら、綺麗な心になって戻ってくるかしら……」
「懐に金が詰まった状態で帰ってこれたら嬉しいなあ」
「むしろ帰ってくるな、もう」
 水辺には、石ころの山ができていた。
 障壁との摩擦熱のせいで、どの石も熱くなっている。
「でもいい気分転換になっただろ」
「余計疲れただけじゃない! ったく、魔力の流れについて必死で考えてるところだっていうのに……」
「こういう体験が案外ヒントになったりするもんだ。前向きに行こう」
「なるかっ!」
 はぁ。深くため息をつく。
 たまに気を許すとロクなことにならない相手だと改めて思い知った。
「もういいわ。そうね、せっかくだから何か特別な流れがありそうなここの魔力でも探ってみるわ」
「そうそう。一歩ずつが大切なんだ」
「うるさい」
 ――意識を、魔力に集中させる。
 ぼんやりとしていた魔力の分布が、少しずつ精密な分布になって見えてくる。泉の中心から、全体に流れてくるような比較的整ったイメージ。木がないところだと安定しやすいのだろうか。しかし、それ以外にも別の魔力の発信源があって、そこから流れる魔力も干渉しているように感じる。発信源はすぐ近くに――
「……ちょっと」
 意識を戻す。
「どうした?」
 アリスはその場でしゃがむ。石を手に取る。もう一度、魔力を精密に探る。
 驚いた。これは、とんでもないことになっている。
「これ、魔力結晶じゃない……この石、全部……」
「……え」
 さすがの魔理沙の声も、小さくなっていた。
 辺り一面。いや、違う。投げ返された石だけ、全て、魔力結晶になっていた。
 魔力結晶は、精錬して一定以上の純度と大きさの塊にすれば、大きな魔法を使うときに、補助の魔力源として利用できるようになる。貴重品だ。
「そうか、ちょうどいいじゃないか。これを使えば魔力の問題は解決だろ?」
「そう、ね……いえ、これだけあっても精錬したらそこそこの大きさのものがいくつかできるだけ……家を作る魔法に使えるほど巨大な魔力源にはならないわ。たぶん、せいぜい、何かあったときに10秒くらいは時間稼ぎができるという程度……」
「ないよりはマシ、くらいか」
「……いえ……あるいは……これ、もしかして……」
 ぶつぶつ。
 魔理沙の言葉を聞いて返事をしているのか、独り言を続けているだけなのか判断がつかないようなペースと小声で、アリスは話し続ける。
「持続……持続させればいいのよ、でも直接だと……ここは発想を変えて……」
「……」
 魔理沙はもう声をかけない。ただ、じっと魔力結晶の山を見下ろす。
 アリスの独り言は、一分ほどしてから途切れた。
 沈黙。
 沈黙。
 沈黙……
 がばり。
 アリスは勢いよく立ち上がった。
「見えた! 道が出来たわ!」
 確信に満ちた表情で、叫んだ。






[ 7 / 家 ]

 こつ、こつ、こつ、きーん……
 メトロノームが刻む機械的なリズムにあわせて、誰も手を触れていない紙の上に図が描かれていく。
 紙はぼんやりと発光している。ただ、二人とも目を閉じているので、どのように描かれているかを見ることができない。
 アリスと魔理沙は、紙を置いたテーブルの前で手を繋いで、目を閉じてこの魔法に集中していた。
 魔法を開始してから4分12秒後、紙は一段と強く光を放って、そして、すぅっと静かに光を消した。
「……目を開けるわよ」
「ああ」
 アリスの合図で、目を開ける。
 紙には広大な家の設計図が描かれていた。アリスは、端から順に設計図をチェックしていく。二人の呼吸がどこかでずれていたら、部屋に未完成の部分ができていたり、妙な空間が出来上がっていたりするはずだ。もちろん、どちらかが設計を間違えていれば、部屋はそもそも部屋の形にならない。
 手を繋いだまま、緊張で表情を硬くして、一つのミスさえ見逃さないようにと、細部まで何度も確認する。
 図の上ではわずかなずれでも、実際の建築物となると大きな欠陥となるから、慎重になる。
 チェックにかける時間は、魔法にかけた時間よりも長かった。アリスはもう一度全体を見渡して、ごくりとつばを飲んだ。
「信じられない……」
「む。ミスがあったか? 完璧に見えるが」
「完璧よ! ミスがまったくないのよ! 本当に、たった二週間でここまで持ってこられるなんて……嘘みたいだわ」
 ぎゅ。
 魔理沙の手を両手で握って、アリスは興奮した笑顔を見せた。
「……そうか」
 魔理沙も、肩の力を抜いて微笑む。
 一瞬だけ、ほっと安心したようなため息をついた。
「ごめんなさい、私、あなたのこと見くびっていたわ。あまりに簡単そうにやればできるなんていうから、きっとどれだけ難しいことか理解してないんだと思ってた。きっと資料を見た時点で現実に気付いて逃げ出すんじゃないかなんて思ってた……」
「ああ。そう思ってるような顔してたな。これでやっと私の実力がわかったわけだ」
「……ええ。認めないといけないわね。そして、ありがとう。純粋に私の都合なのに、付き合ってくれて」
「その言葉はまだ早いだろ?」
「そうね。これからが本番だもの。いよいよ――」
 アリスの手にぐっと力が篭る。
 全ての材料は揃った。作戦は決まった。最終リハーサルともいえるこの実験も終わった。
「明日、晴れるといいな」
「晴れるに決まってるわよ。ここまでやったんだから、空も空気読んでくれるはずよ!」
「そうだな」
 決戦は明日、正午。


 家の骨組みがこの場所を占領して、もうすぐ一ヶ月になろうとしていた。
 今日がこの露出した骨組みを見る最後の日になるはずだった。アリスは決意を新たにする。
 目の前にあるのは、家の骨組みのほかに、木で出来た二本の孤立した柱。それぞれ、アリスの右側と左側に。柱の上には、拳サイズの精錬済み魔力結晶。これが、今回の最後の勝利の鍵になる予定だった。
 アリスはここ一週間はずっと、魔力結晶の精錬に集中してきた。かなりのお金もかかっている。同じ量の魔力結晶をもう一度手にしようと思ったら普通ははるかに長い時間と根気を要するだろう。たまたま今回は手に入ったが、次も同じ手段で手に入るという保証はない。
 今回の作戦は全て魔理沙にももちろん、意図とともに説明は済んでいる。魔力結晶の使い方を説明したときは、贅沢だなあ、と呆れたように言われたが、反論されることはなかった。魔理沙は作戦の内容自体はアリスに全て任せるつもりらしかった。
 贅沢な使い方だと確かに思う。下手をすると、史上最大の無駄遣いに終わる可能性もある。この部分を魔理沙が簡単に承認したのは、アリスにとってもとても心強かった。魔理沙にも、この貴重な魔力結晶を自分のものとして懐に入れておく、という権利はあったのだから。
 言葉にしなかったが、今改めて、アリスは魔理沙に多くのことを感謝していた。結果の成否に関わらず、後で十分なお礼をしないといけないだろう。
 アリスより少し遅れて、魔理沙が現場に到着した。
 二人は同時に手を上げた。
「晴れたな」
「当然ね」
「ちゃんと寝たか?」
「……ちょっと寝つきが悪くなってしまったわ」
「奇遇だな。私もだ」
 くすり、とアリスは小さく笑った。
 緊張で少し固くなっている体が、ほぐれたような気がした。
「意外ね。とてもそんな繊細には見えないけど」
「さすがにな。これだけの大魔法に挑戦するとなると、やっぱりドキドキするもんだな。今になって、前回のとき軽々しく次またやればいいなんて言うなと怒られた理由がわかった気がするぜ。これは、胃に悪い」
「……あはは」
 この後は、最後の確認。今までにも説明してきた作戦内容の繰り返しだ。今になって新しい要素を入れることはない。

 全ての準備を終えて、魔理沙は家の向こう側まで歩いていった。
 太陽はかなり高くまで上っている。時間が迫っている。
(大丈夫……落ち着いていけば、今度こそ)
 じっとそのときを待つ。ただ待つだけの時間だ、先のことを考えるとあまり消耗するわけにはいかない。しかし、魔力の流れが変わったそのときをしっかりと検知して、開始の合図を出さないといけない。
 目を閉じて、魔力のセンサを働かせる。今はまだ、魔力は細かく渦を巻いていた。これが、もうすぐ直線の流れ、追い風に変わる。そしたら、この巨大なマジックの始まりだ。

 何分待っただろうか。きい、という鳥の鳴き声を聞いた。
 それが合図だったかのように、魔力の流れが、変わった。
 アリスは目を開けて、ばっと手を上げた。
 さあ始めよう。

 魔理沙が空に向かって手をまっすぐ上げる。
 アリスはそれと同時に、左右の魔力結晶から魔力を解放する。ぴし、という乾いた音と同時に、魔力結晶にひびが入った。
 強烈な魔力の追い風が吹く。魔理沙の手に、魔力が吸い取られていく。森の中から、そして、魔力結晶から。
『とにかく、全力で撃って。あの魔法を。持続時間は考えなくていいわ』
『マスタースパークっていうんだ』
『え?』
『魔法の名前。かっこいいだろ?』
 まるで森の中の全ての魔力を集めてしまおうとしているかのような、強烈な収縮だった。
(これが、全力ということなのね……っ!)
 アリスの体の中からも魔力が奪われているような気さえした。いずれ魔理沙と戦うことになったとしたら、これと戦うことになるわけだ。戦慄する。だが、今は分析している時ではない。
 閃光が放たれた。世界の全てが真っ白になった。魔力は魔理沙の手を通して空に向かう、上昇気流のような流れを作った。
 3秒ほどで、閃光は終わる。魔理沙の目がアリスを見る。
 アリスは魔力の流れを再び検知する。――計算どおり、強い流れはまだ続いている。森の中からの魔力だけではなく、魔力結晶からの流れが、追い風を維持していた。完璧だ。アリスは魔理沙に向かって親指を立ててみせた。
 これで、魔力結晶から放出された魔力は、どこにも消費されないまま、ただ家の中を通って空へと逃げていく。魔力が尽きるまで、魔力の通り道を形成して。
 アリスは興奮を隠し切れなかった。ここさえ通過すれば、もうあとは昨日練習したとおり着実にイメージを行うだけだ。
 メトロノームに手をかける。これを動かし始めたら、カウントダウン開始になる。

 ――ぶるる。
 そのとき。何か変な音を、後方すぐ近くで聞いた。
「え……?」
 アリスが振り向くと、そこに大きな動物――猪が、いた。アリスを睨みつけていた。
「……!」
 猪はすぐに飛びかかってきた。アリスは、すんでのところでそれを避ける。ぎりぎりだった。アリスの腰ほどまでありそうな体格の割に、恐ろしい瞬発力だった。
「くっ……」
 反射的に魔法を使おうとするが、慌ててそれを止める。
 そうだ。今は魔法を使ってはいけない。今魔法を使ったら、せっかく作った魔力の流れを乱してしまう。アリスはとっさの判断で後ろに下がって、後方にある木材に手をかける。
 だが、猪はその隙を見逃さなかった。アリスが木を持とうとして姿勢が崩れたときを狙って、また突進してきた。
 だめだ。今度は避けられない。アリスは木から手を離して、頭をカバーするように腕を前でクロスさせて、防御の構えを取った。
 ――目の前で、閃光が猪の体を貫いた。猪はぎゃん、と鳴いて、はるか遠くの木まで吹き飛んでいった。
 アリスは、ぺたんと地面にお尻をつく。はあ。はあ。
 そこに、魔理沙が走ってきた。アリスは、呆然と魔理沙を見上げる。
「怪我はないか」
「……大丈夫……でも……」
「魔法なしであんなのに勝てるかよ。優先順位を間違えるな」
「で、でも……っ」
 アリスは魔力を探る。やはり、せっかく作った魔力の流れの道が、乱れていた。わずかな「穴」とはいえ、このままではその穴が原因で道が消えてしまうのは明らかだった。
「道が完全に消えたわけじゃないんだろ?」
「うん、だけど……」
「元の位置で待ってろ。もう一回撃ってくる」
「ダメよ! さっきのは『一回きりの、全力の一発』なんでしょ!? 二回はできないって言ったじゃない!」
「必要だったら、やるさ」
 魔理沙は駆け出した。
「くっ」
 アリスは立ち上がって、元の場所に戻る。魔力の流れを検知する態勢に入る。
 魔理沙は最初の場所につくと、すぐに手を上げた。
 魔力がまた吸い取られていく。瞬時の収束。もう一度撃てるのか。
(やっぱり……さっきより、ちょっと弱い……!)
 だが確かに、魔力の流れは増強された。先ほど出来た「穴」を埋めようとするかのように流れが整い始める。このまま押せば、もしかすると――
 閃光が放たれる。空気が震える。光が、空を割っていく。
「どうだ、行けそうか!?」
 魔理沙が叫んだ。
「……! もう少し、もう少し、お願い……!」
 アリスは、魔理沙の体に過大な負担がかかっていることを承知で、押した。ここで止めてしまっては、魔理沙の覚悟を本当にただ無駄にしてしまう。
「おうけい」
 魔力の流れが、さらに加速した。
 本当の風が吹き始めた。
「っだ……ああああああああああああああああああああああっ!!」
 魔理沙が、吼えた。
 森が揺れた。
 巨大なエネルギーの塊が、空を侵食する。空気に触れて、おおおん、という叫び声のような音を発する。
(お願い……お願い、早く……!)
 魔力の流れは猛烈に加速している。しかし、まだ穴は完全には埋まらない。抵抗が思ったより強い。
「ぐっ……うらあああああーーーーーーっ!!」
 さらに勢いを増した。魔理沙の叫び声も、ますます大きくなった。
 ふっ――と。ようやく、最後の抵抗を続けていた穴が埋まった。魔力の流れが、完全に通った。
「魔理沙! ストップ! もういいわ!!」
「……っ」
 アリスがストップをかけた瞬間に、閃光は収まった。
 目を開けると、魔理沙はもうアリスのほうに向かって駆け出していた。
 到着して、すぐにメトロノームを手に取る。
「名前呼んでくれたの初めてだよな?」
「……っ、な、何言ってるのよ! それより、大丈夫なの? 無茶だったんじゃ」
「問題ない。さあ、やっとやりたかったことがやれるんだ。集中しようぜ」
「……うん」
 その通りだ。
 ここまでして作った道を無駄にしないために、精神を研ぎ澄ませなければいけない。最後の仕上げだ。
 魔理沙が左手でメトロノームを手前の台に置く。
 アリスは左手で魔理沙の右手を握る。
「始めよう」
 こくん。
 二人はゆっくりと、同時に目を閉じた。

 こつ、こつ、こつ、きーん……
 一つ目のベルの音が、合図。
 練習してきた通りに、二人でタイミングを合わせてイメージしていく。

 広い部屋をたくさん準備した。浴室もキッチンも広い。かなり、贅沢な家だ。思えば、むやみに難易度を上げてしまった。
 どうせならこんな家を作りたい、と理想をそのまま形にしたらこんなことになってしまった。

 4分12秒の勝負。
 握った手からお互いの脈拍も伝わってくる。そのリズムまでが、一致しているような気がした。間違いなく、今は心もちゃんと通っている。お互いのイメージが完全に融合している。

『そうか、自分が魔法に参加するとあの綺麗な光景は見ることできないんだな。残念だ』
 魔理沙は、残念だ、と言いながらも機嫌はよさそうだった。
『でも、自分で作ったほうがずっと楽しい』

 アリスの家だ。魔理沙が手伝おうと、できるものはアリスの家だ。
 それなのに、魔理沙はここまでやってくれた。
 感謝している。

 4分12秒の集中。
 緊張はもうなかった。
 この時間は、穏やかに過ぎ去っていった。


 目を開けた。
「わ……」
「おお……」
 家が、できていた。つい先ほどまで木の骨組みでしかなかったものが、すっかり白い壁や窓、天井に覆われている。雨どいのような細かい設備までちゃんと揃っている。
「やった……」
「やったな」
「やったわ! やったのよ! 凄いわ! 出来ちゃった……!」
 ぎゅ。
 アリスは感極まって、隣の魔理沙に抱きついた。
「……おいおい、結構自信あったんだろ? そこまでの反応じゃ、本当にできるとは思ってなかったみたいじゃないか」
「そうじゃないけど! 魔理沙がすごく頑張ってくれたから……失敗するのが怖かったし」
「たいしたことはない。これはおまえの魔法だ。アリスの魔法だ」
 魔理沙は穏やかな声で言った。
 アリスは、魔理沙の髪をそっと撫でた。
「あ……名前……」
「間違ってたか? ハリスだっけか?」
「アリスでいいわよ! ……もう、こんなときまで、なんでそんなに落ち着いてるのよ」
「いいや。感動してるぜ?」
 ふ、と魔理沙は笑った。
 アリスは自分だけはしゃいでるみたいで嫌だわ、と不満げな表情を見せる。
「ま、中を見ましょ! せっかくだから一緒に」
「ああ。悪い、それはまた明日にしよう」
「なんでよ。せっかくあるんだから、すぐに――」
「ごめん。寝る」
「え」
 アリスの腕の中で、魔理沙が完全に脱力した。そういえば、さっきから、手もまったく動かしていなかったように思える。
 慌てて魔理沙の顔を上げさせて観察してみる。すーすーと小さな寝息が聞こえる。――本当に、寝ているだけのようだ。
 アリスは、大きくため息をついた。魔理沙の頬をぺち、と軽く叩いた。
「……もう。やっぱり、無理してたんじゃない……」
 ぎゅ、ともう一度強く抱きしめた。
 そして、飛び立って、魔理沙の家まで運んだ。


 ここ数日イメージ練習のために毎日通っていた魔理沙の家。鍵はかかっていないことを知っている。この森の中、誰かが侵入するなんてことはまずないのだろう。
 玄関を開けて、家の中に入る。いつも勉強に使っていた部屋はすぐ右側にある。寝室はどこにあるか、知らない。
「ごめんね、ちょっとだけ探させてもらうわよ」
 聞こえないとわかりながら、一応魔理沙に断って、目に付いたドアを開けていく。それほど広くない家だ、すぐに見つかるだろう。がちゃ。開ける。倉庫だ。がちゃ。開ける。倉庫だ。がちゃ。……倉庫に見える。
「……ちょっとは掃除しなさいよ」
 倉庫に見えたのは散らかっていただけなのかもしれない。
 がちゃ。ドアを開ける。ベッドが見えた。
「ああ。よかった。ベッドがあるとわかりやすいわ……って……それにしてもここも散らかりすぎでしょ……」
 とりあえず、魔理沙をベッドに下ろした。
 ふう、と息を吐く。小さくて軽いとはいえ、ずっと運んでいるのはなかなか辛い。
「ちゃんと休みなさいよ」
 姿勢よく寝かせて、ふとんをかける。
 一応、額に手を当てて、発熱がないことだけ確かめる。
「よし。……さて、と」
 部屋を眺める。なんだか、凄惨な有様になっていた。
 床に大量の紙が散らばっている。壁にもべたべたと紙が貼ってある。
「……え。これって……」
 壁に貼ってある紙を見てみると、家の絵が描いてあった。他の紙には、それぞれの部屋のラフスケッチ。もちろん、アリスの家の図だ。アリスが渡したもの、そのものではない。魔理沙が書き写したものだろう。
 今度は床に散らばっている紙を拾って見てみる。こちらは、もっとラフにしたような絵がかいてあり、そこに寸法やら各部分の特徴やらが書き込まれている。何枚か拾ってみてみるが、同じ部屋のものもたくさんあった。たくさん落ちている紙、全てが、そういったものだ。中にはアリスが渡したペーパーテストも混ざっていたりした。
「……」
 アリスは、紙の束を胸元でぎゅっと抱いた。
 目を閉じる。色んな思いが一気に溢れてきて、言葉にならなかった。
 今すぐ魔理沙の夢の中に入ってでも、伝えたい気持ちはたくさんある。
「……ありがとう……」





[ Epilogue ]

「おはよう」
「あら、いらっしゃい。もう大丈夫なの? 昨日あれだけ飲んだのに」
「魔法使いだからな。今からだってミルフィーユくらい食べられるぜ」
「またよりにもよって難しくて時間のかかるものをっ」
 魔理沙は、アリスの家に堂々と上がりこむ。
 昨日、ケーキを作ってあげるからと約束してしまったからだ。酔っていたくせに、そんなことだけはしっかりと覚えていた。
「じゃ、しっかり作ってくれ。私は寝る」
「ええ!?」
 魔理沙はアリスの寝室までまっすぐに向かう。
「ちょ、こら、本当に行くんじゃない! 何しに来たのよあんた!?」
「こっちのベッドのほうが広くて気持ちいいし」
「ものすごく自己都合おんりー!?」
 困ったことに、この家ができた瞬間にはもう、魔理沙には部屋の構造は全て知られているのだ。
 倉庫に重要な道具を隠しておいていても、魔理沙が本気で探ればすぐに見つけられてしまう。もはや、この家の魔法道具は共有品扱いになっていた。家が出来た直後から、部屋は簡単に魔理沙に侵食されることになった。
「ふあ……あとはよろしく」
「……んもう、散らかさないようにしてよ」
「サービスで隠し扉ひとつ作っておいてやるぜ」
「やめなさいっ」
 ぱたん。
 魔理沙は本当にアリスの寝室まで入ってしまった。おそらく数秒後には速攻で寝ているだろう。
 はあ。やれやれ。ため息をつく。
「ま、やりますか。仕方ないし」
 すい、とキッチンにある棚の下段の戸をあけて、必要な材料を取り出す。
 一つ上の段から、道具類を取り出して、キッチンの作業場にずらりと並べる。
 十分に広いため、最初からこうして並べておくことが出来るのだ。作業効率は高い。
 やっぱりここは、自慢できるいい家だ。
 アリスはお菓子作りの準備が整ったこの光景を眺めながら、大きくひとつ頷いた。



 FIN....









【あとがき】

 自分が昔書いたSS「魔法使いのロジック」と思い切り設定が矛盾しちゃってますが気にしないことにします!

 魔法の森まで大工さんは来ないだろうなあ。魔理沙の家はなんとなく昔からそこにあったのをそのまま使ってるイメージだけどアリスは森に来たときに家を作ったはずだなあ。どうやって建てたんだろう。よし、魔法だ!
 こんな感じのお話でした。

 ほんとタイトルも本文も「魔」の漢字の登場回数は異常です。