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 魔法の森へようこそ!
 リニューアルオープンした霧雨魔法店では、物探し、人探し、探検、ゲーム攻略、人形作り、お菓子作り、寂しいときの遊び相手から世界滅亡の阻止まで、幅広く承ります。
 営業は毎週火曜日、木曜日、土曜日の9:00〜15:00。森の探検で疲れたときにでも、特に用事がなくてもふらっと気軽にお立ち寄りください。
 二人の魔法使いがあなたをおもてなしいたします。

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 もちろん、新たな店舗を構え、外装や内装を整え、営業時間を明確にしたところで、客などほとんど来ることはない。地理的条件の悪さは如何ともしがたかった。

「あー……ううう。ダメ……だった……」
「うえ、またダメだったか。今回は上手くいけそうだと思ったのに」
「やっと整理されてきて綺麗な式になってきたと思ったら……いつもどおり。0=0だわ」
「やっぱり、数値解析しかないんじゃないか?」
「時間かかる上に、条件変えると応用が利かないから好きじゃないのよね……」
 もっとも、来客がないことなど二人とも端から承知の上だ。本気で商売するつもりなら、最初からこんな場所に店舗を配置したりしない。
 営業時間は基本的に二人とも店内にいるものの、営業活動はしていなかった。カウンターの向こうは事実上の研究所となっており、魔理沙とアリスはここで新しい魔法や魔法応用商品の研究を行っていた。
「実験のほうはどう?」
「こっちも相変わらずだな。安定しない。条件がわからない」
「うー。温度の制御は難しいわね……」
「人形に火の管理させるほうが楽かもな」
「そうかしらねえ」
 アリスは机の前でずっと頭を悩ませて、魔理沙は奥の実験スペースで時計を見ながら手を動かす。
 床暖房は、以前から取り組んでいる一大テーマだった。
 そしてこちらもまた、店の営業と同じくらい、あまり進展していない。

「ま、休憩しようぜ。休憩。リフレッシュしないと、新しい発想も出てこないからな」
「……そうね。あ、お茶いれてくる」
「いいって、アリスは座っててくれ。私がやる」
 立ち上がりかけたアリスを押しとどめ、最初から立っていた魔理沙が先に動く。
 アリスは、う、と複雑な表情を作った。
「出遅れた……」
「うひひ。私は諦めないからな。アリスが『もう私、これじゃないと生きていけないの……』なんて言うくらいになるまでしっかりと舌を調教してやるぜ」
「んもう、変な言い方しないのっ。……うー、苦手だなあ、緑茶」
 勝ち誇ったように笑いながら奥に消えていった魔理沙の背中を眺めながら、緑茶の味を思い出して、アリスは苦い顔を作る。
 食事もお菓子も、何を出してもアリスの味がいい、アリスの味が好きだと公言する魔理沙が、唯一決して譲らないのが緑茶党としての立場だった。紅茶は紅茶で気に入っているらしいのだが、それでも緑茶を代替するものではないという。言わば、紅茶は「よそ」で緑茶は「うち」なのだ。……と、魔理沙は主張する。
 アリスはアリスで魔理沙の食の好みにも理解を示しており、和食も悪くないものだと思っていたのだが、緑茶はどうにも理解できない例外になっていた。
 ため息をつきながらしばらく待っていると、魔理沙が湯飲みを二つ持って現れた。
「はいよお待たせ。いい茶葉、適当な温度、愛情たっぷりでお届けするぜ」
「この味にはどうしても愛情を感じることができないのよね……」
「ひどいっ、私の愛が足りないなんて言うのねっ」
「そんなわけないじゃない。愛はいつもいっぱいいただいてますとも」
「……う? お、おう」
 ことん。湯飲みを机の上に二つ置いて、並べて。
 魔理沙は軽く視線を逸らしながら、頬を朱に染めていた。
「……そんな照れるなら言わないの」
「うー」
 アリスもまた、そんな魔理沙の反応を見て、目を伏せながら呟く。
 魔理沙は少し悔しそうに、しかし口元は緩みながら、黙って椅子を引いてアリスの側に座った。

 じ。
 無言のまま、十数秒間。
 適温になるまで、少し待つ。
 ふー。ふー。魔理沙が先に湯飲みに手を伸ばして、息を吹きかける。
 口をつける。熱さを確認してから、一口飲む。
「……うん。上出来だ。三ツ星クラスだな」
「随分と安い三ツ星ね」
「おおっと軽口を叩いている場合かね? さあちょうどいい温度だ、飲みたまえ」
「うー」
「せーのっ。アリスのちょっといいところ見てみたい、はいっ」
「何のノリよ」
 覚悟を決めて、アリスは湯飲みを手に取る。
 紅茶とは全く異なる香りを感じながら、そっと口をつける。
 ……こく。
「どうだ、美味しいだろ?」
「……苦いー……」
「くくく。苦くてもこぼさずに全部飲むんだ……そう、そうだ、いい子だ、アリス」
「助けてどこかの神様魔理沙が変態っぽいの」
「変態で構わん……っ! アリスが緑茶を飲めるようになってくれるのなら……っ!!」
「何その無駄な情熱」
 困った顔をしながら、一口、もう一口。少しずつ口に運んでいく。
 そのたびに顔を顰めるアリスを見て、魔理沙はにやにやと笑う。
「渋みがわからないなんて、アリスの舌はお子ちゃまだなあ」
「む……体の作りか環境が違うだけだもん」
「みんなそう言うんだ」
「言わないでしょそれは……」
 勝ち誇る魔理沙が隣でもう一口美味しそうに飲むのを恨めしげに睨んで、ここで砂糖を入れたいなんて言ったらまた魔理沙怒るんだろうなあなどと思いながら、アリスは苦味に耐えてよく頑張るのだった。
「砂糖を入れたいって顔をしてるな」
 バレバレだった。
 聞かなかったフリをして、湯飲みをまた口に運ぶ。
「なんなら口移しで飲ませてやろうか? 甘くなるかもしれないぜ」
「ぶふっ」
 むせた。
 ただでさえ口の中に残る苦手な香りが、色んなところに広がる。
「あ……あんたねえ――」
 くく、と笑う魔理沙を見て、こいつどうしてくれようかと灰色の感情が芽生えてくる。
 こほこほと咳き込みながら、喉の奥に絡みついたお茶をふるい落す。
 ……
 花が咲いた。
「そうね」
「ん?」
 アリスは湯飲みを机に置いて、す、と魔理沙に顔を近づけた。
「甘くなるか――試してみてくれないかしら」
 魔理沙の目をじっと、見下ろす角度で見つめて。
「……へ……」
「口移し。してくれるんでしょう?」
「……!? え、あ、え……」
 魔理沙の目が大きく見開かれて。
 顔はみるみる間に真っ赤になっていって。
 口をぱくぱくさせる。
 アリスは、あたふたする魔理沙をひたすらにじっと見つめるだけ。
「い……いや、何言ってるんだ。本当に甘くなるわけなんて……ないだろ」
「あら。試したことがあるのかしら」
「あってたまるか」
「そう」
 あくまで落ち着いた声で、アリスはまた少し顔を近づけて言う。
 目の奥がきらりと輝いていることが、魔理沙にははっきりと確認できた。
「ところで魔理沙、少し聞きたいことがあるの。計算ばかりしていても仕方がない。まずは実験、実験だ。発見はそこから生まれるんだぜ――って、ね。誰の言葉だったかしら?」
「――〜〜〜っ!」
 さらに近づく。
 こつん、と額同士が触れ合う。
 魔理沙側からアリス側に、熱が伝わり始める。
「きっと魔理沙の味は、融けるように甘いんでしょうね?」
 融けるほどではないにしても、少なくとも魔理沙の顔は、火傷くらいはしそうなほどに、熱かった。



☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆



「甘くはなかったわね……」
「……だろ……」
 お互い顔を見せられる状態ではないため、背中合わせに座りながら、小さな声で呟く。
 うー。魔理沙が天を仰ぎながら、唸る。
「おい……実験なんだろ、あとでちゃんとレポート書いておけよ……」
「書いたら責任持って読みなさいよ……」
「……悪かった」
 実験なんだとしたら当然、再現性を確認しないといけないわね。
 ――などという言葉が思い浮かんでしまったアリスだったが、アリス自身にももはやそこまで攻め込む余裕は残っていなかった。
 残りの緑茶は、心なしかそれまでほど苦くは感じなかった。



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 客が来る日もある。
「依頼に来たんだけど。とってもお邪魔だったかしら」
 すらりとした長身で、メイド服を身に付け姿勢よく立つハンサムな女性が、透明感さえ感じるほど穏やかな声で言った。
 彼女の視線の先で、カウンターの側の椅子で魔理沙の頭を膝の上に乗せて座るアリスが、口を半開きにして硬直していた。
 すう……すう……と魔理沙の寝息が、静まり返る空間によく響く。
 咲夜はまったくの無表情で、その光景をただ眺める。入り口から。
「あ……あ、いえ、これはね? 違うのよ魔理沙が急に眠くなってきたっていうからね?」
「……んぅ?」
 しどろもどろに説明するアリスの言葉と体の動きに反応して、魔理沙が小さく呻いた。
 声を聞いて、アリスは魔理沙の髪を撫でていた手を慌ててどける。
「あ、魔理沙、お客さん……」
「……う? だれ……?」
「咲夜」
「ふーん………………咲夜っ!」
 がばっ。
 勢い良く魔理沙が起き上がる。というか、上半身を起こして椅子にしっかりと腰掛ける。
 半開きの目のまま、魔理沙はびしっと咲夜に向かって人差し指を突きつけた。
「またアリスを攫いに来たな! 帰れ!」
 寝起きの微妙に足りない声で、叫ぶ。
「ちょ、ちょっと魔理沙……」
 アリスは掌を魔理沙に向けて制止しつつも、少し嬉しそうに笑みをこぼす。
 動じることなくただ軽く肩をすくめるような仕草を見せた咲夜は、ゆっくりと二人のもとに歩み寄ってきた。
 きしゃー、と威嚇する魔理沙を見ながら、咲夜はここで初めて薄く微笑んだ。
「心配しないで。本当はアリスに来てもらったほうが効率もいいしメイドたちも喜ぶんだけどね。私がアリスを連れて行くと魔理沙が寂しがって大泣きしちゃうからやめることにした、って紅魔館の全員に伝えておいたわ。というか掲示板に貼っておいた」
「……なんっ……!?」
 完全に予想外の反撃を食らった魔理沙は、固まる。
 ……しばらく口をぱくぱくさせた後、ゆっくり少しずつ、頬を紅潮させていく。
 きり、と目を吊り上げて。
「さ、咲夜おまえ――」
「というわけでアリス、だいたい要求項目を固めてきたから、こんな感じで次回の裁縫教室の教材を作って欲しいの」
 食ってかかりかけた魔理沙をさくっと無視して、咲夜は一冊のノートをアリスに提示する。とりあえずアリスはそれを受け取る。
「おい咲夜変な勘違いするなよおまえの家の都合のためだけに何回もアリスが駆り出されるということが問題なんであってな――」
「仕方ないじゃない。メイド全員ここに連れてきたってレッスンなんてする場所ないでしょ」
「そうじゃないだろ、おまえがメイド長なんだから自分で責任持ってやればいいんであって」
「私は昼間は仕事で手一杯だし、夜は夜で夜の指導があるからなかなか時間が取れないの」
「手一杯な割にはいつも来てるじゃないか。暇なんじゃないのか?」
「あなたの大切な人を借りようっていうんだもの。私の方が代理を送るんじゃ失礼でしょ?」
「たっ……」
 言葉に詰まった魔理沙の頭の上に、ぽん、と咲夜は手を置く。
 くしゃ、と軽く撫でる。
「今回は諦めてあげるわ、勇敢な勇者さま。お姫様を大切にしてあげなさい」
「う……うー。なんだよー……」
 急速に反撃の勢いが萎んでいく魔理沙を見ながら、咲夜は姉のように優しく笑いかけた。
「相変わらずね、あなた。こうして頭撫でられるとすごく素直になっちゃう。いつも帽子をしてるのは自分を守るためかしら」
「……! ……あ……うー……っ! か、帰れっ!」
「はいはい。騒がしくてごめんね、アリス。よろしくお願いするわ」
「あ、うん。ちょっと読んでたけどだいたいわかったわ、これなら大丈夫そう。いつも仕事くれてありがとうね」
 アリスの返事を聞いて、咲夜は小さく頷く。
 じゃ、と手を振って、身を翻したあとは一度も振り向くことなく、静かに去っていった。
 むー。入り口のドアが閉まるとすぐに、魔理沙の不満げなふくれっ面がアリスの前にずいっと現れるのだった。
「アリス、お礼なんか」
「魔理沙」
「う?」
 ぽん。
 今度はアリスが、魔理沙の頭の上に手を置く。
 優しい手と、しかし裏腹の少し厳しい声に、魔理沙は体を固くする。
「わざわざ喧嘩しないで。魔理沙だって、咲夜のこと本当は好きでしょ?」
「は……はあ? なんで私がっ」
「自分でわかってるでしょ。魔理沙、あなたが紅魔館に平気に出入できるのも、図書館を平然と利用できるのも、咲夜がそうさせてくれているからだって」
「……う」
「あいつには頭が上がらないなんて言ってたじゃない」
「……うー」
「……ありがとうね、魔理沙。私ばかり仕事が増えることを気遣ってくれているのは嬉しいんだけど、そんなことのために大切な関係を壊しちゃダメよ」
「……」
 ぎゅ。目を閉じる。
 魔理沙は、うう、ともう一度唸ってから、しかしはっきりと言った。
「ごめん。そうだな」
「うんうん」
 アリスの声が、柔らかくなる。
 頭から手を離す。
 魔理沙は顔を上げる。
「……ごめん、ちょっと出かけてくる」
「行ってらっしゃい。紅茶でもいれて待ってるわ」
「ぐ」
 苦笑いを浮かべて、しかし大きく頷いて、帽子を手にとって、被る。
 箒を持って、ドアに向かう。
 ドアに手をかける。
 開ける。
「でも一番好きなのはアリスだからなっ!」
 叫ぶ。
 飛ぶ。
 残されたアリスが、口を開いて唖然とする。
「……何叫んでるのよ、もう――バカ」
 むに。
 なんとなく頬をつねってみる。さして意味はないが、熱くなっていることは感じられた。
「そんなこと、言われなくてもわかってますよーだ」



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 たぶん一日はかかる量だとにとりは言った。
「というわけで遅くなりそうだから、留守番よろしくな。寂しくても泣くなよ?」
「泣かないって」
 にとりに連れられ、魔理沙は妖怪の山に飛んでいった。
 なんでもある学者によってどこかの遺跡から大量に用途不明の道具が発掘されて、複雑な構造のものについてメカニズムの解析のためににとりが動員されたが、どうも魔法アイテムのようなものがたくさん混じっていると気づき、それなら今度は魔法に詳しい者に見てもらうべきだということで魔理沙に依頼が来たのだった。
 目を輝かせて飛んでいった魔理沙にアリスもついていきたいところだったのだが、生憎と今日が咲夜の依頼品の納品指定日だった。本当はもっと素早く仕上げてしまいたかったのだが、どうすればより勉強になりやすくより楽しくできるかとこだわっているうちにぎりぎりになってしまっていた。
「うー。間が悪いったら」
 魔理沙の珍しいもの好きは知人たちの間では有名だったが、アリスも基本的には同じ趣味なのだ。何を面白いと思うかの点で大きな違いはあるとしても。
 その点を承知している魔理沙は「明日ではだめか」と提案したのだが、やはり一日でも早く調査を進めたいらしいのだと言われると折れざるを得なかった。

 こつこつと、本に絵と文字を埋めていく。
 時折筆を止めて、天を仰ぐ。
「……よし。この調子なら間に合うでしょ」
 最後の最後まで決めあぐねていた要素を埋めて、あとはひたすら書いていくだけの作業になっていた。本を書くということはこれまであまりなかったため、最初はこの作業自体が大変に思うところもあったが、生まれ持った順応性で今はもう感覚を掴んでいた。
「ふう」
 手を軽く振って、痛みを和らげる。文字を書き続けると、やはり手は痛くなる。
「……んー」
 なんとなく、部屋を眺める。
 机はカウンターの側にあり、入口のドアから、反対側の実験スペースまで一通り眺めることができた。色々な実験を行うことまで想定して作ったため、かなり広い。さすがに紅魔館の何十人いるのかよくわからないメイド全員を集めるのは無理があるが、十人程度までならここで講義をすることもできそうだった。……物を、ちゃんと片付ければ。
 ぼんやりと一通り眺めてから、小さくため息をつく。
「なるほどねえ」
 ぽつり、呟く。
「……寂しいわ、これは」
 魔法の森に住み始めて以来、ほとんどの時間を一人で過ごす生活が当たり前だったアリスにとってみても、今のこの状況は当然のものとして受け入れることができるものではなかった。

 二人でこの店を立ち上げてから――正確には、一応魔理沙が運営していた霧雨魔法店を新装開店してから、半年ほどになる。アリスも以前から人形作りなどで研究費用を稼いでいたりしたが、せっかくなら一緒にやって窓口と顧客を一本化させて、二人の力を合わせればもっと効率的に色々できるのではないかということで今の形になった。
 と言っても、魔法の森から出ないで魔理沙の家のすぐ側に店舗を構えている時点で、そこまで本気で経営するつもりは最初からなかったのは誰の目から見ても明らかだった。
 要するに、二人で一緒にいる場所として作られた店なのだ。
 営業時間は二人でここにいるのが当たり前だった。実際には研究をしていたり、なんとなくのんびりしていたり、一緒に遊んでいたりしている時間がほとんどなのだが、それがこの店の営業活動だったと言える。
 眺めてみると、アリスは滅多に使わないような実験道具であったり、必ずしも整理されていない薬品類であったり、すぐに取り出せるような位置においてあるゲームだったりと、色々と目に付く。そのどれもが、魔理沙の匂いを濃厚に感じさせる。
 単に一人でいるという状況ではない。考えてみれば今でさえ魔理沙もアリスもお互い、結局一人で過ごす時間のほうがずっと長いのだ。単に孤独に耐えられないなどということは考えられない。
 ただ、この部屋に一人でいると、否応なしに「足りない」と感じるのだ。
「魔理沙……」
 名前を呼んでみたりする。
 もちろん、返事はない。
「……ごめんね魔理沙。この寂しさ、甘く見ていたわ」
 想像してみる。
 例えばにとりが、この後も何度も営業時間中に魔理沙を連れ出していったとしたら。
 なるほど、という感じだった。
「次からはとりあえず連れていこうかしら」
 仮に、魔理沙の出番がまったくない仕事だったとしても。
 どうせここにいても一日誰も来ないことだって多いのだ。問題はないだろう。
 魔理沙は暇だー暇だーと叫ぶことになるかもしれないが、それなら帰るかと問われても帰りはしないだろう。
「……よし」
 一つ決意をしたところで、本を書く作業を再開する。
 ――説明イラストのモデルがどう見ても魔理沙になってしまったりしたが、まあいいや、とそのまま採用した。



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「いやー、多いぜ。大変だったぜ」
 満面の笑みを浮かべながら、魔理沙が帰社したのはちょうど18時を回ったあたりだった。
「おかえり魔理沙、お疲れ様」
 エプロンを着けたアリスが通路から顔を覗かせて、迎える。
「いい匂いだ。シチューかな」
「正解。もうちょっと待ってね」
「ありがとうな。よし、帰ったらまずは手洗いうがい、と……」

「あーりすっ」
「きゃっ」
 おたまで鍋を軽く混ぜているアリスに、えいやっと魔理沙が背後から跳びかかって抱きついた。
 一瞬焦るが、惨事になるほどの勢いではなかった。アリスはほっと一息ついてから、すぐ横に顔がある魔理沙のほうに視線をやる。


「もう、危ないでしょ」
「いやー、後ろから抱きつかずにはいられないシチュエーションだったからな」
「何をわけのわからない……うん、ごめん、わかるけど」
「なあなあ、アリス」
 魔理沙はにこにこと笑顔を絶やさず、耳元に囁くように言う。
「アリスにお願いしないといけないことがあるんだ」
「お願い? なに?」
「実は今日の仕事、終わらなかったんだ。多すぎてさ」
「……あら」
「だから明日も行かないといけないんだけど」
「思ったより大変なのね」
「大変なんだ。たぶん、一人じゃ明日一日使ってもまだ終わらないくらいな」
 ぴた。
 おたまの動きが止まる。
 アリスの反応を確認した魔理沙は、さらに顔を近づけた。
「もう一人くらい魔法使いがいたら、なんとかなりそうなんだけどなあ」
「……魔理沙」
 おたまを手放して、鍋にひっかけておく。
 左手で、魔理沙の頭に手をやる。髪を優しく撫でる。
「ありがとう」
「うん? 感動したか? 感激したか?」
「ええ、感激だわ」
「ついでに感謝してくれてもいいぜ」
「する、する」
「ふふん。感謝のキスくらいしてくれてもいいぜ――っ!?」
 魔理沙の言葉が終わるよりも前に。
 アリスはぐいっと頭を引き寄せて、淀みなく唇を奪っていた。
 ……
 目を閉じて、十七秒。
「……」
 唇を離すと、魔理沙は顔を赤くしながらも、悔しそうにそっぽを向いた。
「……いきなりは、ずるい」
「してほしかったんでしょう?」
「うー。アリスが恥ずかしがる顔を見たかったんだぜ……」
「あら」
 くすくすとアリスは笑う。
「じゃあ、しないほうがよかった?」
「……うー」
「残念だわ。魔理沙の期待に応えられなくて。私も勉強不足ね」
「……うーー」
 ぎゅむ。魔理沙がエプロンの裾を掴む。
 一度体を離して、アリスの真正面にまわって、ぽむ、と前から飛び込む。
「……アリスが虐める」
「あらら。魔理沙の機嫌を損ねちゃった。どうしたら許してくれるかしら?」
 よしよし、とアリスは頭を撫でる。
 魔理沙はくすぐったそうにしながら、じーっとアリスの顔を見つめる。
「こうやって子供みたいな扱いをする」
「だって魔理沙、撫でられるの好きじゃない」
 ぷい、と不満を表明して視線を逸らす。
 抱き合い、アリスの手が魔理沙の髪を撫で続けたまま、二人しばらく無言。
 そして、魔理沙が呟いた。
「……もういっかいしてくれたら、許してやる」



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「本当にすごい量だからな。明日はたぶん遅くなる。帰りは遅くなるぜ」
 念を押すように言う魔理沙に、アリスは頷いた。
「わかったわ。覚悟しておくわ」
「……ああ」



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 真っ暗闇になっていた。
 障害の少ない空の旅とはいえ、本来であればあまり出歩く、もとい出飛ぶような時間ではない。異変の時でもなければ、たとえ魔法使いといえども無闇に慣れない地を進むのは避けるべきことだった。
 魔理沙の箒の後ろに乗ってしがみつきながら、アリスはかつてこのような場面があったことを思い出していた。
「今日の月は普通ね」
「懐かしいな。私も思い出していたところだ」
「懐かしいっていうほど昔でもないけどね」
「毎日が濃いからなあ。何でもすぐに昔話になってしまう」
 地面のほうはほとんど何も見えない中、時折小さな灯りに照らされた手元のコンパスを確認して魔理沙は飛ぶ。ただのコンパスではない。常に魔理沙の家の方向を指すようになっている。魔法の森などという自然の迷宮に住むためには必要不可欠の道具の一つだった。
 夜の冷たい風を切りながら、昼間よりゆったりとしたスピードで飛ぶ。
「やっぱり、遅くなったな」
「そうね。あんなにあるとは思わなかった。少しくらいわけてくれてもいいのに」
「まったくだな」
 研究対象にしてみたい物体がいくつもあった。
 あくまで今日は簡単な鑑定をするよう依頼されているだけなので持ち帰ってさらに調べることは許されなかった。
「でも今日ので信頼を得ていたら、いずれ詳細な分析依頼も来るかもしれないわよ」
「それだと返さないといけないからなあ。死ぬ前に」
「そうねえ。まあ、返したくはないわね。死ぬ前に」
 話しているうちに、魔法の森の上空にまで到達した。
 家までは、あと数分といったところだろう。
「……遅くなったな」
「そうね」
「暗いな」
「そうね」
「……なあ」
「なあに?」
 森の生き物たちも眠る時間。森は静まり返っている。
 一部の動物や妖怪は活動しているだろうが、基本的には静かにしているものだ。
 魔理沙が少し言葉に詰まると、それだけで不自然なほどの沈黙に感じる静けさだった。
「暗いと、危険だよな」
「そうね。私たち二人の力なら、大抵の危険は排除できると思うけど」
「……ああ」
 そうだな。
 魔理沙が少し困ったような口調で同意した。
 そしてまた、沈黙。
「いや……今日は、大変だったよな。手伝ってくれて、助かった」
「いえいえ。面白いものたくさん見ることができて楽しかったわ」
「でも、助かったんだ」
 少し声を大きくして。
「あ……いや、だから。な。アリスも疲れているだろうからな」
「うん」
「今日は、あれだ、私がご飯作ってやるからな……その」
 ごにょごにょ。
 少し口ごもったあと、小さな声に戻って。
「……だから、今日は、うちに泊まっていかないか?」
 冷たい風にかき消されない程度に。
「いいの? 魔理沙だって疲れているでしょう」
「いいんだ。いつも世話になっているしな」
「……そう。ありがとう。それなら、お言葉に甘えさせていただくわ」
「……うん」
 アリスの返事に、少し複雑な声で魔理沙は相槌を打った。



☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆



 ソファでくつろぐアリスに出されたカップからは、アリスにとっては馴染みの深い香りが漂っていた。それは、違うことなく、ミルクをたっぷりと入れた紅茶だった。
 目を丸くしているアリスに対して、なんだよ、と照れ顔で魔理沙は言った。
「疲れているときにはこっちのほうがいいだろ」
「……ありがとう。嬉しいわ、魔理沙」
 口をつけて、飲む。
 ミルクも砂糖も多め、甘い甘いロイヤルミルクティーだった。
 アリスは、永夜異変の夜、帰ったあと魔理沙に出したのも、こんな砂糖たっぷりの紅茶だったことを思い出していた。

 食事をとって、風呂にも入って。
 魔理沙の家に泊まることはこれが初めてというわけでもないので、アリスはここにも準備されている自分のパジャマを着て。
 そして今日の仕事を振り返る。
 本来なら、今日は休日だ。営業日ですら仕事がないのが普通なのに、休日まで仕事が入るとは珍しいこともあるもんだと、二人で笑った。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
 隣り合って座る魔理沙の髪をアリスが撫でる。
 風呂上りでまだ乾いていない髪は、いつもと違って抵抗と重量感があった。
 少しくすぐったそうに、魔理沙が目を細める。
「アリス、私の髪が好きなのか?」
「え?」
「隣に座ると、いつも頭か髪を撫でる。……そうすると私がおとなしくなるからだ、なんてことじゃないだろうな……?」
「違う違う」
 微かに苦笑。
「なんとなくなのよね。というか、癖? つい、やっちゃうの」
「むー……」
 魔理沙も背中側に手を回して、アリスの後ろ髪を触ってみる。
「ひゃ」
 アリスは、ぴく、と跳ねた。
 あ……と、バツが悪そうに呟く。
「ご、ごめんなさい、慣れてなくて……」
「ほーう」
 さわ。
 さわさわ。
「ひゃうっ」
「これはこれは」
「ちょ、ちょ、魔理沙、くすぐったいって」
「なんだよー。いつも私に同じことやっておいてさ」
「魔理沙が下手なのっ」
「……」
「あ、ごめん嘘だからそこまで本気で凹まないで……」



☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆



「寝室、だぜ」
 魔理沙はベッドに腰掛ける。
 ふわふわと柔らかい、少女趣味なベッドだった。
「うん知ってる」
 アリスは答えてから、あれ、と気づく。
「この部屋、温かいわね」
「だろ? だろ?」
 魔理沙が自信ありげに頷く。
「実験ついでに、部屋の隅に何か所か置いた花瓶で色んな条件の発熱反応を起こしてみた。たぶん一晩くらいはもつ」
「へえ……意外と、それだけでもそこそこ温かいものなのね」
「アリスが風呂に行ってる間に仕込んでおいたからな。一時間くらいすれば結構効くみたいだ」
 いよっ、と勢いをつけて跳ね上がると、魔理沙はそのままベッドの上で大の字になる。
「暖かい部屋、柔らかいベッド。気持ちいいぜ」
 ぽんぽん。
 ベッドを掌で軽く叩く。
「さ、アリスも。どーんと来い」
「って、魔理沙が占領しちゃってるじゃないの」
「構わず飛び込んでくるんだ」
「もう。そんなことしたら、魔理沙が潰れちゃうでしょ」
 くすくす。
 アリスが笑う。
「……」
 魔理沙は何も言わず。
 ぐ、とアリスの腕を掴んだ。
「え?」
「どーん」
 そして、ぐいっと強く引っ張る。
「きゃっ」
 アリスの上半身が、ベッドの上に倒れこむ。
 すかさず魔理沙の手はもう片方の腕も掴んで、さらに引き寄せる。
「ちょ、ちょっと、魔理沙っ」
「足もベッドの上に乗せるんだ。全部」
「だから、それじゃ魔理沙の上に乗っちゃうでしょ」
「大丈夫だから」
「でも――」
「いいから!」
 強い口調になったのにアリスは目を丸くする。
 魔理沙の目は、真剣にアリスを見つめていた。
「……わかったわ」
 アリスは、両腕を掴まれたまま、全身をベッドの上に乗せた。
 魔理沙はすぐに、アリスの背中に手を回して、ぐっと抱き寄せる。
 アリスの顔は魔理沙の肩のあたりに埋もれる形になる。
「……魔理沙……?」
「こうすれば、私の頭のほうが上だな。新鮮な光景だ」
 穏やかな声で、魔理沙が言った。
 アリスからは、表情は見えない。
「なあアリス。本当に私が潰れるとでも思ったか?」
 強く抱きしめたまま、言う。
「いや……そうだな。お願いしたいことがある。しばらく……何も言わないで、聞いてくれないか」
 片方の手で、アリスの髪を撫でて。
 アリスは、魔理沙の背中に手を回すことで、答える。

「私は、アリスの体を受け止められないほど、小さくはないんだぜ」
「……そりゃあ、小さくも見えるだろうけどな」
「でもな。アリスにはわかってほしいんだ」
「アリスの体を受け止められないほど、頭を撫でられるだけで満たされるほど、私はいつまでも子供じゃないんだ。仕事だってできる。アリスほどじゃないけどな」
「……」
「まあ、子供っぽい言動はあるかもしれないが、許してほしい」
「でもな。アリスにも反省してもらわないといけないんだ」
「後でいっぱい反省してもらうからな。ごめんなさいって言わせてやるからな。だからな。だから――」

 アリスの背中と頭を、しっかりと抑える。
 まるでどこにも飛んでいけないように、どこにも逃げないようにと捕まえているかのように。
「反省してもらうから――こんなことを言わせたことを、反省させてやるから……だから」
 確認するように。
 少しずつか細くなっていく声で。
 ぎゅっと強く抱きよせて。
「だから」
 震える声で。
「……抱いて」



☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆=☆



「……んぅ?」
「あ……ごめんね、起こしちゃった」
 アリスが起き上がりかけたのに反応して、魔理沙はゆっくりと目を開いた。
 ぱちぱち。
 何度か、まばたきをする。
「あ……」
 そして魔理沙は、アリスの姿を見て、すぐに顔を真っ赤にしていく。
 布団を摘まんで引っ張り上げて、目元から下を隠す。


「……お……おはよ」
「おはよう、魔理沙」
「……っ」
 アリスの挨拶を聞いただけで、魔理沙は過剰な反応を見せる。
 ついには目まで布団で隠してしまう。
「うー」
「あら、嫌われちゃったみたい。……反省が足りなかったかしら」
「なんで、そんな、落ち着いてるんだよう……ずるいぜ……」
「……落ち着いているように、見える?」
 アリスは、布団を持つ魔理沙の手を握る。
 腕を掴んで、胸元に寄せる。
 ……どくん、どくんと速く強い鼓動が、はっきりと魔理沙の腕に伝わっていく。
「……はい、これが私の気持ち」
「あ……う……うん。ああ」
 魔理沙は相変わらず布団の中に潜ったまま、答える。
「うー……えいっ」
「あっ」
 そして、ぎゅっと抱きついた。
「アリスー」
「……もう。やっぱり甘えん坊みたいなんだから」
「こんな状況でクールになるほうが間違いなんだぜー」
「まあ、そうね」
 アリスも抱き返す。
 そのままのんびりと抱き合って、朝の時間を過ごす。

「ごめんね。そろそろ起きて朝の準備しないと。今日は営業日だから」
「えー……いいだろーこのままで。今日は休みー」
「もう、子供みたいなこと言わないの」
「子供じゃないぜ。……それは、昨日さんざん確かめたはずだろ」
「……」
「……」
「だ、だから、自分で恥ずかしくなるくらいなら言わないのっ」
「気を付ける……」
 また布団の中に潜り込んでしまう。
 やれやれと優しいため息を付いて、アリスは今度こそ布団から出ようとして。
 そしてやはり、魔理沙の手に阻まれた。
「それとこれとは話が別」
「……えーと」
「アリスは私と仕事とどっちが大事なのー」
「そんな、ザ・どうしようもない台詞をここで」
「アリスへの罰はまだ続くのだ」
「……しょうがない子ねえ」
「子って言ったか。言ったな。これは刑期延長だな」
「えー。裁判も何もなしに決まっちゃうんだ」
「特別権限なんだぜ。というわけで、今日はアリスは私以外誰にも会ってはいけません」
「独占禁止法とかそういうのなかったかしら」
 色々と言いながらも、もうアリスはすっかり布団の中に戻っていた。
 魔理沙の頭をそっと撫でる。これはもう、本当に癖になっている。
「独占じゃないんだぜ」
 時計をちらりと眺める。
 起きて準備をするならもうこれが本当に最後のチャンスだろう。
 まあ、もうどうでもいいか、とアリスはそれを視界から外した。
「借りているだけだぜ。死ぬまでの間な」



 本日、霧雨魔法店は臨時休業いたします。





FIN....








【あとがき】

「えっと、人形たちに会うのはいいのよね?」
「アリスは私と人形とどっちが大事なんだぜっ」
「えっ……う……うーん」
「えっ」
「う、うそうそ、そんな顔しないで。魔理沙があんまりいじわるなこと言うから」
「……帰ってきたら思い切り濃い緑茶がアリスをお迎えするぜ」
「あら、それは魔理沙も大変ね」
「あ?」
「そんな濃いものを、口に含んで待ってくれているんでしょ?」