カップに紅茶。
机に本。
静かに紅茶を口に運んで、一口だけ飲んで、カップを置く。
ため息。
パチュリーは、紅茶の後味が消えるのを待ってから、ぽつり、呟いた。
「最近思うの」
「ん?」
カップに口をつけたまま、アリスは視線で答える。
物憂げな表情に、少し沈んだ声。
指で机を叩きながら、パチュリーは言った。
「そろそろこの結婚生活も、マンネリかしらね……」
「ぶーーーっ!」
紅茶吹いた。
とりあえず、真っ先にハンカチを取り出して慌てて机を拭いて。
なんとかある程度まで綺麗に出来たところで。
急いで吹いたので少しだけ息を切らせながら。
「結婚生活って何よ!?」
ようやく、ツッコミを入れた。
「えー」
パチュリーは動じない。
机にちょこんと座っている人形に視線を投げかける。
「ねえ?」
人形は、こくんと自然に頷いていた。
「ああ、新展開としてこの子を私が引き取って……なんてことがあっても面白いでしょうに。まだあなたはアリスの元を離れられないのね。寂しいわ」
人形をつんつんと突付いてみたり。
人形はその指をさらに突き返してみたり。
「ちょ、ちょっと、やめてよ。私の……子、なんだから」
「あ、いいわねその台詞。らしくて」
「何がよ!」
「それで、考えたのよ」
「何よ」
「今まで、甘やかしすぎたのかもしれない、と……優しすぎるのも考え物なのよね」
「……え?」
パチュリーは、アリスの肩をゆっくりと掴む。ゆっくりと、しかし、しっかりと。
ぐいっと真正面から向きあうように体を動かす。
「そろそろ、主従関係をもう一度はっきりさせたほうがいい時期じゃないかしら」
くいっと引っ張って、顔を近づける。
「え? え?」
「目を見て」
「う……」
しっかりと見つめられると、アリスは逆らえなくなる。こうしてすぐ近くまで体を寄せられると、アリスを縛る契約は強力にその実体を持ち始めるのだ。
反射的に、それが本能によるものであろうとなかろうと、こうして近くから見つめられるだけで、体はすぐに熱くなって、心臓はどきどきと強く脈打ち始めて、顔も手足も熱を帯びて、意識まで靄がかかってくる。
これが、アリスがまだ、パチュリーの支配下にある証。二人の関係はまだ、言葉通りに主従関係なのだ。
「ぁ……や……」
パチュリーは、くいっとアリスのあごを持ち上げる。
もう、アリスの目は潤んでいる。吐息も、すっかり熱くなっている。
こうして本気で目を見つめられると、何も抵抗できない。
「あら、可愛い」
「んっ……」
「時々はこうして貴女のその顔も見せてもらわないといけないわね。いずれ、見られなくなるかもしれないわけだから」
あごを持ち上げたまま、頬から首筋にかけて、爪を立ててつつ……と撫でる。
ぴくんッ、と跳ねるアリスの体。
ひゃん……と、悲鳴のような可愛らしい声が漏れ出る。
「それにしても貴女、勝てないわね。期待してるのに」
それは、契約が解ける条件。魔理沙に勝つこと。
たったそれだけの、厳しい条件。
パチュリーは、目を細めて、微笑みかける。
「ねえ貴女――本当は、私との関係を終わらせたくなくて、わざと負けているのではないかしら?」
「っ……そ、そんな……違う……」
「素直になりなさい。本気で勝つだけのつもりなら、こんなにも私のところに通ってないで、訓練するなり、挑戦するなりしてるんじゃないかしら」
「だ……だって、あなたが、来て欲しいって……それに、ケーキ……ぁんっ!?」
指が、唇の表面を撫でる。
熱い息がパチュリーの指に絡みつく。
「口答えは許さないわ。貴女はただ、はいと答えればいいの。いいわね?」
「あ……ん……っ……はい……」
「いい子ね。素直な子は好きよ。――貴女は、本当は契約に関係なく、私に会いに来てくれている――いえ、会いたくて来ているんでしょ?」
「はい……」
「家でもちゃんと、私のことを想っている?」
「……はい……」
「ふふ。ちゃんと答えてくれて嬉しいわ。ご褒美に、私も教えてあげる。私も、貴女のことだけを考えているわ――昨晩も、ね」
「っ……」
指の動きは止まっているのに。
アリスは、びくんと体を跳ねさせた。
ただでさえ真っ赤だった顔がさらに茹で上がっていく。
「あら……何を想像したのかしらね」
「な、何もっ……」
「口答えは許さないって言ったでしょ」
「っ! は……はい……」
濡れた瞳。濡れた声。
怯えたような、それでいて期待するような目が、パチュリーを見つめる。
「……」
「……」
「……」
「……?」
パチュリーは、アリスのあごから手を離す。
もう一度じっと目を見つめて、目を閉じて、言った。
「……飽きた」
「あう!?」
アリスの悲鳴と同時に、ずっと隣で覗いていた人形がつるーんと机の上で滑ってこけていた。
パチュリーは何事もなかったかのようにふっと体を離して、またため息。
「言葉だけだと、なんだか、不毛だわ。もっと広い意味でバリエーションが欲しいわね」
「や……あ、う……」
急にいつもどおりに戻るパチュリーに対して、アリスはそう簡単には戻れない。
何せ、完全にスイッチが入ってしまっていたのだから。強制的に魅了状態に入っていたというのに、いきなり普通に戻れといわれても無理な話だ。
「あ……うーーーー」
無意識のうちに、もじもじと太腿を摺り寄せあうように動かしてしまう。
パチュリーはそんな様子を眺めながら、言った。
「帰っていいわよ」
「え……」
「明日には何か面白いものでも準備しておくから。今日はもう暗くなってしまうでしょ?」
「あ……え……えと……」
もじっ。
そわそわ。
「気をつけてね」
パチュリーの声は冷たく。
それ以上話すことはないでしょ、と思い切りアリスを突き放していた。
「うー……」
こうなれば、どうしようもない。
アリスは、重い足で、なんとか歩いて扉に向かう。人形は後からついてくる。
「ああ、アリスが寂しがってるみたいだから、帰ったらしっかり慰めてあげてね」
パチュリーが人形に話しかける声が聞こえた。
小声で言っていたが、もちろんわざとアリスに聞かせるように言ったのだろう。
人形の返事は見えなかったが、アリスの足はますます重くなるのだった。
次の日。
「え? ここで料理でもしろってこと?」
パチュリーが広げてみせた、やけにフリルの多いエプロンを見ながら、アリスは戸惑う。言うまでもなく、ここは図書館だ。何をするにも道具も設備もまったく揃っていない。関係ないがよく見ると魔理沙のエプロンに似ている気もした。
パチュリーは首を横に振ってから、わかってないわねえとため息をつく。
「どうしたってここでは無理なのはわかってるでしょ。貴女はただこれを着ればいいの」
「はあ……」
釈然としない表情のまま、アリスはエプロンを受け取る。
サイズを一応確認する。やや小さくてきつそうだ。パチュリーの私物だとすれば無理もない話だ。目の前にいる魔女がこれを身につけているところはまったく想像できないにしても。
前に当ててから、肩紐を背中に通し――
「何やってるのよ」
「へ? 着るんでしょ?」
「何故エプロンを着るのに、服の上からなのよ」
「……」
暗い図書館。
椅子に座る魔女。
白いフリルのエプロン。
机の上の本。
今日も机の上に座ってアリスを見上げている人形。
――順番にゆっくり眺めて、一度目を閉じて、深呼吸までしてから、アリスは言った。
「……え?」
頬を伝う冷や汗はあえて無視しつつ。
パチュリーは、とんとんと指で本を叩きながら言った。
「エプロンの下には一切の着衣は許されない(状況によりソックスは例外的に認められる)。常識よ。この本にもそう書いてあるもの」
「な……何の本よっ!?」
「ただの古典文学よ。そういうわけだから、貴女も規則に従いなさい」
「嫌よ! 魔理沙だってあなたのところのザ・刃物だってエプロンの下ちゃんと着てるじゃないのっ」
「口答えは――」
きらん、とパチュリーの目が光る。
びくっと震えるアリス。
昨日あれだけ思い切り魅了されたばかりなだけに、その恐ろしさは非常によくわかっている。また逆らえなくなってしまうのは目に見えている。
そうして、また、昨日みたいに。色々と。
「――わかっているでしょう。貴女の選択肢は二つ。今すぐ恥ずかしい思いをして服を脱ぐか、必死に抵抗した結果もっと恥ずかしい状態になってから脱ぐ羽目になるのか。後者のほうがお好みかしらね」
「う……うう、なんで、私が、こんな目に……」
「ああっ……ただでさえ体が弱いのに誰かに命をたくさん与えたせいでふらふらするわ……もう私の余命は短いかもしれない……くすん」
「ああああああ。ず……ずるいわよ、そういうのはっ」
人形が、泣き真似をするパチュリーの手を、よしよしと撫でる。
見事なコンビネーションだった。仕組んでいるのではないかと疑いたくなるほどに。
「ううっ……わかったわよ! 着るわよ! ……今回だけだし少しだけだからね!」
赤い顔で、半泣きになりながら、アリスはエプロンを抱えて、きょろきょろ周囲を見渡してから、本棚が並ぶエリアの奥のほうまで走っていった。
かなり遠くまで行ったようだ。
パチュリーは、むー、と人形に向かって少しだけ不満そうな顔をしてみせた。
「いいわねあなた。あの子とずっと一緒にいられて。毎日が楽しそうだわ」
人形は、にこっと笑う。
そしてVサイン、ひとつ。
「さて、待っている間退屈だし」
昨日の報告でも聞くことにした。
足音は近づいてきたり、途中で止まったり。
そんなアリスの躊躇いの様子を楽しみながらも、いい加減待ちくたびれたパチュリーが催促をいれる。
「無駄な抵抗はよしなさい。早く」
本棚のすぐ向こう側で、うー、と唸る声が聞こえた。
しばらく経ってから、おずおずと、アリスが姿を現す。
パチュリーからは真正面の姿しか見えないように横歩きをしたりしながら。
やや前かがみになって、何らかの意図が働いたとしか思えないほど短いエプロンの裾を押さえながら、ゆっくりと歩いてくる。真っ赤な顔で、パチュリーを睨みつけながら。
「こ、これでいいんでしょ……!?」
「もっと近づいてくれないと見えないわ」
「っ!! くっ……」
ちま。
ちま。
不自然な体勢と歩き方のため、ゆっくりとゆっくりと、近づいてくる。
やがて本棚の影になっていた部分から姿を現すと、パチュリーにもはっきりと見えるようになった。
ふりふりの白いエプロンと、その隙間から見える一面の肌色が。パチュリーは素早く細部までチェックを入れる。横から漏れ出ている隙間を見る限り、確かに下着も穿いていないようだと判断する。素晴らしい。
――そんなことはおくびにも出さず、パチュリーは言った。
「ああ。素敵ね。可愛いわ、アリス」
「う、嬉しくないわよ……こんな、格好でっ」
「ええ。その、そんな格好が本当に指定どおりかまずは確かめないといけないの。ちょっとその場で回転してくれない?」
しれっと。
確かめなくてもわかっているのに、言う。
「ぜ、絶対に、嫌よっ!! 嘘はついてないわ! だから、それは……」
「あら、まだ抵抗するのね。哀しいわ」
はあ……と、切ないため息。
無論、演技。
しばらく憂えた表情を見せておいてから――
「魔理沙はいいわね、後ろから見ることができて。代わりたいわ」
アリスの後ろのほうに視線を向けて、言った。
その言葉が、図書館内に反響して。
「ま……えええっ!!?」
ばっ!
アリスは慌てて後ろを振り向く。
暗い本棚の列が並んでいる。
いつの間にかアリスの後ろにまわっていた人形と目が合った。人形は、赤い顔できゃ、と手で顔を押さえながらふわふわと高いところまで飛んで、逃げた。
それは後でしっかりとお仕置しておくとして――しばらく周囲を見渡したり奥のほうまで気配を探ったりして、アリスは必死に探す。
「い、いるの? 出てきなさいよっ」
「う・そ」
「……」
ぎぎぎ、とさび付いたドアのようにアリスがゆっくりとパチュリーのほうへと、振り向く。
パチュリーは満足そうに、親指を立てていた。
「しっかりと確認したわ」
「〜〜〜っ!!!」
怒りと恥ずかしさと混ざり合って、アリスの顔は既にスカーレット。
そんな反応を見て、ほふぅと満足そうに目を細めるパチュリー。
「ああ、やっぱりいいわね。ツン状態のまま恥ずかしいことをさせるのは」
「ツン……何わけわかんないこと言ってるのよっ」
「この本に書いてあったのよ。ただの古典文学だけど」
本を指差してから、ぱたんと畳む。
「さあ、こっちに来なさい。ずっとそこで立っているつもり?」
「え……こ、これでもう十分でしょ!? もう着替えてこようと」
「あら面白くない冗談。かのナポレオン・ボナパルトも言ってるじゃない、『もっとも大きな危険は勝利の瞬間にある』って」
「い、言ったけど、名言だけど、全然関係ないーーーーーーーっ!!」
アリスのこの悲鳴は、まだ、パチュリーのその日の楽しみの始まりに過ぎなかった。
――数日後。
「……」
「……」
「……退屈だわ」
「言うと思ったっ」
はあ。
パチュリーは憂いのある表情のまま、ため息をついて。
ぱちんと指を鳴らした。いい音。
ささっと羽の生えた司書が飛んでくる。いったい普段どこにいるのだろうか。
「Dの四番――いえ、五番ね。持ってきて」
そのパチュリーの言葉に、司書は顔色を変える。
驚きのような顔が、徐々に怯えるような表情に変わっていき……
「ああ、心配しないで。今日は貴女に使うわけじゃないから」
パチュリーの言葉に、ほっと胸をなでおろしたようだったが、今度は、嫌な予感をひしひしと感じていることが表情からも伺えるアリスのほうを見て、哀れむような顔を見せたのだった。
そして、飛び立つ。
「何今の演出」
今の二人のやり取りが、やはり最初から仕組まれたものなのではないかと疑うアリスが、半目でパチュリーを見る。
「勘繰りすぎよ。――それに、どうであれ、結果は変わらないもの」
そして、司書が運んできたトゲのついた首輪を見て。
アリスは、一ヵ月後の自分がどうなっているか、真剣に不安になるのだった。
[ENDING No.3 NORMAL END]
ヒント:ハッピーエンドを迎えるためには三日目の選択肢!
もう一度よく考えてみようね♪
逆に、あまりにパチュリーのもとに通いすぎると……!?