(1)


「百瀬。私を10万で買いなさい」

 うららかな――そう、うららかなという形容詞を考え出した人はまさに今のような陽射し、気温、雰囲気を表現するための言葉として生み出したに違いない、ああ僕は先人の追体験をしているのだなあ、素晴らしい言葉を残してくれてありがとう、どこの誰かも知らない人――春の陽射しを浴びているこの昼休みの屋上で、もし急に3億円手に入れたらどうやって使おうかと深く悩んでいた僕に対して、実に唐突に、彼女は、千種瀬名は言った。
 僕は青空を見上げた。ああ、そうだ。春なんだ。
 めでたし、めでたし。
 さて、問題はどれだけを貯金して、どれだけを投資して、どれだけを贅沢のために使うかの比率なんだ。
「ああ、待って待って。皆まで言わなくても分かるわ、あんたの迷い」
 そうか。彼女にも分かるのか。
 そうだよなあ。全額貯金したところで、利子で生きていけるなんて時代じゃあない。簡単にはいかないのだ。第一それでは、せっかくの大金を何にも活かせない、そんな気がする。
「単位が足りなかったわね。円なのかドルなのかわからないから迷っている、そうでしょう?」
 えええ。3億ドルかあ。本当に使い切れないや。
 でもアメリカだと本当にそんな当たりクジが出ることもあるらしいっていうから恐ろしい。さすが自由の国だ。行きたいとはあんまり思わないけど。
「もちろん、円だから安心して。あんたにも払えるぎりぎりの額にしてあげたわ」
 円か。がっかりだ。いやいやがっかりなんて言っていてはいけない。それでも十分な大金であって――
 ………………
 ……うん。まあ、そろそろ無視し続けるのは無理があると自分でも思っていたところなんだ。
「あのさ」
 彼女を見上げて、僕は言う。別に、座っているわけじゃない。単純に、彼女のほうが背が高いだけだ。慣れた視界だ。
「特別に発言を許可するわ。どうぞ」
「ああ、うん。結論から言うと、買わないよ?」
「まさか!? この私が! 現状でも競合必須、将来性はさらに期待大のこの千種瀬名、千種瀬名がたった月々10万で買えるチャンスだっていうのに見逃すっていうの!?」
「月々って。物凄く条件が変わったような気がするけど。ていうかなんで名前2回言ったのかわからないし」
「値引き交渉だなんて、やってくれるじゃない。この子ったら私が目を離しているうちにどこでそんな淫行を覚えたのかしら」
「淫行!? ……いやいや、さっきの千種の言葉のほうがよほど淫行だと思うけど」
 いけない、いけない。
 一瞬、素でツッコみかけてしまった。あれほど、反射的なツッコミはもうしない、冷静に切り返していくんだって誓ったじゃないか。自分と、公園のハトに。
「おかしなことを。私がいつ、青少年の教育上不適切な表現を使用したと言うのかしら。予め釘を刺しておくけど、プライベートタイムをここで持ち出すのは反則よ」
「プライベートタイムにはそんな単語が飛び交ってるんだ……」
 まあ、飛び交ってそうな気がしないでもない。
 というか僕は面と向かって、ちょっと校内を包み込む不穏な空気を楽しみたいからあんたそっから飛び降りてみない? とか言われたことがあるような気がするのだが、これは教育上適切なのだろうか。別に今更それを突っ込む気はないけれど。
「で、さ。なんでいきなりそんな話? 急にお金が必要になったとか?」
「ふん。女の子がお金が必要な事情なんて一つに決まってるじゃない」
「ほほう。では、正解をどうぞ」
「遊ぶ金欲しさよ」
「それ警察やマスコミが発表するときの言葉であって、本人が言う表現じゃないよね……」
「ええ!? そうなの!?」
「なんで今のところだけそんなに驚きリアクションなんだろう」
 僕たちの付き合いは、長い。いや、きっと人類の歴史やカトリックの歴史に比べるとずっと短いのだろうけれど、少なくともセミの一生よりはずっと長い。
 しかし、長い付き合いをしていれば相手のことは何でも理解できるというものではないのだ。ということを思い知らせてくれる相手がこの千種瀬名、千種瀬名だった。あれ、何故か繰り返してしまった。
「遊ぶって何に使うのさ」
「そりゃあ、旅行でしょ。楽しいわよー。あんたも旅してみれば? ミャンマーとかソマリアとかお勧めコースよ」
「……で、千種はどこに行くのさ」
「小田原とか」
 渋いな、おい。
「じゃあ次。万が一、いや百万が一買ったと仮定して、だ。仮に。もしなんらかの天変地異の前触れがあって、それを回避するためには千種を買わざるを得ないという展開になってあと数秒で決断することが要求されるという事態になったとして」
「報復は後の楽しみにしておくとして、今は続きを聞いてあげるわ」
 怖いし。
「実際、買ったとして、何をしてくれるんだ?」
「うわあ。出た。いやらしい。まあいやらしい。いいえわかるわ、わかるのよ健全な男子高校生たるもの、女子と見れば誰でもいいとばかりにギラギラと燃え滾っているもの」
「……で、何をしてくれるんだ?」
「毎日手作り弁当を作って持ってきて朝一番に百瀬の椅子の足にくくりつけておくくらいのことはしてあげるわ」
 それなんて呪いの儀式。
「……ま、手作り弁当はちょっと興味あるけど。なんというか、科学的な探究心の意味で」
「ふふーん。見て驚き食べて驚きよ。貴子おばさんの腕は町内一なんだから」
「貴子おばさんって、弁当屋だろ! 思い切り売り物じゃないか!」
「貴子おばさんの手作りじゃない! あんたあの人の何が不満なのよ」
「そこは千種の手作りじゃないと意味ないだろ!?」
「へーほーふーん。百瀬、私の手作り弁当が食べたいんだ?」
「食べたくは無いです」
「百瀬、私の手作り弁当が食べたいんだ?」
「いや、だから」
「百瀬、私の手作り弁当が食べたいんだ?」
「……と、とっても、嬉しいかな、うん」
「見てなさいよ。これ見よがしにでっかいハートマーク描いてそれはもう昼休みにみんなのヒーローになれるようにしてあげるわ」
「えええなんて精神的攻撃」
「そして10万円もゲットと」
「成約しちゃった!?」





(2)


「……百瀬」

 千種が僕を呼ぶ声がいつもより小さく低かったのは、ただ、僕のクラスの教室の中だから――つまり、千種のクラスではない、外様の立場であるから、という理由だけではないように見えた。
 そんなわけで、僕は、僕自身よりも先に千種の存在に気付いた、現在進行形で来週のテストについて雑談を交わしていた友達から指を指されてやっと呼ばれたということを知ったくらいだった。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「ちょっとじゃなくて、まず戻ってこないと思っておいていいんだろ?」
「……そうかも」
 物分りのいいこの友達に軽く頭を下げて、かばんを掴んで、ドアの側に立つ千種のほうに駆けていく。千種は、僕が到着するより前にドアを抜けて廊下に先に出た。
 少しだけ見た表情だけからも、いつもと違う雰囲気だということが感じ取れた。なまじ長い付き合いというわけではないのだ。僕は慎重に教室からある程度距離を離して、人気の少ない階段の近くまで千種を連れ出してから、切り出した。
「なんだよ。深刻な顔して」
「深刻なのよ。百瀬、大事なお願いがあるの」
 大事なお願い。千種にとって大事なものとはなんだろうか。誰にだって大事にしているものがある。僕にだってある。目の前にいるこの悩み少なそうな千種にだって、あるのだ。たぶん。きっと。
 千種がこれだけ真剣になるもの。僕の頭で思いつく限り考えてみる。
 ………………
 現金。
 ……ごめんなさい神様、僕たちの付き合いってその程度だったみたいです。
 反省してひとり俯く僕を他所に、千種は強い眼差しを僕に向けて、はっきりと言った。
「お金ちょうだい」
「まんま正解か!?」
「正解って何よ。横取り40萬でもさせてくれるのかしら」
「いやちょっとやっぱり年月が育んだ経験は嘘をつかないなあという意味。せめて、仮に返すつもりがなくても、貸してくださいと言えないものかな……」
「返すつもりはないけど貸してください」
「最低だ」
「酷いわね。言わせておいて、それを責めるだなんて。あいにく私は百瀬と違ってMじゃないからそんなことじゃ喜ばないの。科料として1800円徴収するわ」
 僕だってMじゃない。
 ……たぶん。
「……一応、なんか義務みたいな気がするから、聞いておくけどさ。どうしてお金が必要なんだ?」
「変なコトを聞くのね。この状況で、私がお金を必要とする理由なんて一つしか想定できないじゃない」
「いやあ僕は頭が悪いからよくわからないや、ごめんなさい。正解をお願いします」
「ノイエのあの期間限定新鮮生イチゴのミルフィーユが今日だけ復活なのよ」
「想定の範囲外の外の外の外だよ! アナザーディメンジョンだったよ!」
 あの、とか言われてもそもそも初めて聞いたし。
「お願い、百瀬。私はどうしても――それを食べないと、いけないの――」
「そんないかにもシリアスに言われても心に響かないから」
「ほら、あんたの可愛い彼女が今目の前で困って涙目になっているという場面を想定して」
「想定という時点で否定だし……」
「それなら今日は私は百瀬の可愛い彼女よ! さあお金を出して!」
「絶対恋人の定義間違って覚えてるよね!?」
 というか、可愛い、という形容詞は譲れないのか。どうしても。
「……だいたい、恋人なら一緒に行こうって展開だろ。金だけ貰って一人で行くとか、普通におかしいだろ」
「うちのお母さんはおかしいのかしら」
「うわごめんそんな生々しい話をするつもりはなかった」
 まあほら。
 結婚したら普通恋人って呼ばないし。
 まあほら。
「だいたい、一人で行くわけじゃないわよ。もちろん友達と一緒ね。そこにあんたが着いてきたいというのなら友達を説得してあげてもいいけど」
 罰ゲームすぎる。
 その状況は千種にとっても相当痛いと思うわけだが、そのあたりは気にしないのだろうか。不思議だ。
「それなら、友達からお金借りればいいじゃないか……」
「浅はかね。いい、百瀬。例え友達であってもお金の貸し借りは絶対にしてはいけないってお母さんから教わらなかった?」
「僕は何なんだ!?」
「百瀬」
「いやまあ」
「じゃあ、過半数で可決されたところで、1800円ちょうだい」
「……二人のうち一人だと、過半数にはならないよ?」
「え!?」
「はは。千種がこんな隙を見せるなんて珍しいね。僕の勝ちだ」
「く……それはそれとして1800円ちょうだい」
「問答無用だ!?」





(3)


 ふと廊下を見ると、千種が友達と二人で歩いているのが見えた。千種も教室の中に視線を向けていた。つまり、目があった。
 ああそうだ、と彼女は言った。ちょうどよかった、と続けた。
「百瀬、ちょっとこれ預かっておいて。ちなみに落としたら後でアイアンメイデン」
 ぽい。
「ちょっ」
 いきなり言い放たれて、何かを投げつけられた。結構大きい、何か。
 脅されたからではなく、こうなると反射的に、それをなんとしても落とさないようにキャッチするよう手を伸ばす。
 伸ばした両手の中に、どさり、と意外に重い感触。ビニール製の袋だった。紐で閉じた口から少し中身が見える。――体育館シューズだ。
「ナイスキャッチ。28点」
「厳しいし。ちょっとって、いつまで」
「んー、私が定年退職するまで」
「重っ!? 軽く言われたのに重っ!?」
 ひらひらと手を振って、そのまま千種は去っていった。――ただ、そのあとの友達との会話もしっかり聞こえてくる。
(大丈夫なの? 結構大切にしてるものなんじゃないの?)
(ん? ああ、心配いらないわ。百瀬、まあ確かに掴みどころないし、友達少なそうだし、ちょっとバカだけど)
 言いすぎだ。
 というか、その言葉は千種に返してやりたいぞ。守銭奴だし、と一つ付け加えてから。
 まったく、ここまで言って、さてどう持ち上げてくれるのか。文脈的には、信用だけはできる、といったところなのだろうけれど。
(……まあ、大丈夫よ、多分)
 フォロー一切なしだった!
 落としっぱなしだった!
(そっか)
 しかも納得された!
 くすくすくす。
 遠慮がちな笑い声が聞こえた。
 千種あたりがちょっと妄想笑いでもしているのかと一瞬思ったが、それにしては近い。ていうか廊下じゃなくて教室の中から聞こえた。
 振り向くと、真後ろに小さな女の子がいた。小さな女の子といっても別に教室に小学生が紛れ込んでいたというわけではなく、小学生の幽霊というわけでもなく、純粋に背の低い、れっきとした同級生の女の子だ。
「千種さん、相変わらず、百瀬君には厳しいよね。たぶん、本心ってわけじゃないと思うけど」
「……聞いてたんだ、十和田さん」
 いや、あれは本心でしかありえない。というか千種は恐ろしいことにいつだって大マジだ。
 そんな言葉は心の中にしまっておきつつ。
 十和田さんは、クラスメイトだった。今は実のところ、教室には僕と十和田さんしかいない。いやいや。別に放課後の教室でふたりきりだからといってアレがナニだったわけではない。わけではない。いわゆる文化祭実行委員会というやっかいな仕事を押し付けられていることによって、こういう打ち合わせの時間が生じているだけのことだ。そりゃ十和田さんは女の子なのであって女の子とふたりきりというのは実に心躍るシチュエーションであることには違いなくて、ん、千種とはよくふたりでいるような気がするけどまあそのへんは例外扱いみたいなもので、加えて言えばたしかに十和田さんは可愛い子で、いや可愛いといっても小動物的な何かというかペット的というかいや決して飼ってしまいたいとかそんな邪なものではなく、つまりそのなんだっけ。
「きっと好きな子ほど意地悪言いたくなるっていうタイプなんだね」
「……」
 え? 千種、そうだったの?
 お金欲しい欲しいって言ってたのも実は会話のきっかけが欲しかっただけとかそういう可愛らしい理由だったんだ。なんだ、もう、それならそうと言ってくれれば僕だってもうちょっと優しく対応してあげるのに。照れ屋さんは困る。恋人になれというのも実は本当にそういう告白だったなんて。
 ……
 あ り え な い 。
 ていうか、小学生レベルか、千種は。
「小学生レベルだよね」
 言っちゃった!?
 僕が心の中に留めておいたツッコミを!?
「あ、ごめん、今のは、なんでもないの、嘘」
「言い切ってからフォローするんだ……」
「ほ、ほらでも、バカっていうのは酷いよね。百瀬くんのほうが成績いいのにね。バカっていうほうがバカ……あ、えっと、なんとかだよね」
「やっぱり一回言ってから無理やりボカした!?」
 というかどうして僕と千種の成績を知ってるんだ。
 自慢じゃないが、二人とも別に上位に名前が貼られるほどの優等生ではない。
「ねえ、どうして僕の成績のこと」
「そうだ、さっき定年退職までって言ってたけど……もしかして百瀬君、千種さんともう……その、婚約してたりするの?」
「するかっ!! 誰が好き好んで見えきっている悲しい未来に突き進む!?」
「あはは。ずっとお金絞りとら……吸い尽くされ……えっと、献上してそうだもんね」
 一応何とか柔らかそうな表現を選んでる!?
 ……だから、選んでから言葉を発してみよう、君は。
「でも、そっか。よかった」
「よかったって、何が?」
「うん。わたし、百瀬君のこと、好きだから……あ、じゃ、なくて、えっとね、秘密。えへ」
「……」
 十和田さんの癖は
 いい癖だ!
 神様ありがとう!
 ……え? でも、ほんとですか?
 十和田さんにものすごくストレートに普通に告白された? え? 何この幸せシチュエーション。ああ。いけないいけない。真っ赤じゃん、自分。落ち着いてるように見せかけて今ものすごく動揺してますよ? こ、こういうときってどうすればいいの次郎さん?
 ……
 というか一度言われて即座に否定されるとものすごくリアクションしづらいー!?





(4)


 昼休み。
 いつものように僕は教室の喧騒を抜け出して、屋上に出る。ああ。まったくここは落ち着く場所だ。
 一昔前のドラマだったら、こうして屋上に出てくる奴なんて、こそこそタバコ吸いに来る不良だと決まっていたものだ。
 ところがいまや、屋上にいるのは真面目なだけが取り得の地味な僕。
 そして、メイド服を体の前で広げながらふーんと唸っている長身の女の子くらいのものだ。
「……」
 ああ。ツッコまないぞ。ツッコまないぞ。
 僕は何も見なかったことにして、手すりのところまで向かって歩く。指定席から見晴らす景色は好きだった。どうしてだろう、慣れた場所でも一段高いところから見下ろすと気持ちいいのは。昔の支配者たちが国を問わず高い建物を立てて悦に浸っていた気分がよくわかる。どうだ、僕は今みんなより上にいるんだぞ――
「ねえ百瀬、聞きたいことがあるの」
 ……はい。
 別に何事もなくこのまま時間が過ぎるなんて思ってはおりませんでしたとも。
「私たち、文化祭で、喫茶店するの」
「知ってる。どうして売り上げが手元に残らないのかとかお金はどこに消えるのかとかそういう質問ももう聞いた」
「うん、それで、これなのよ。これが制服らしいんだけど」
「可愛いね」
 適当に答える。
 どうせこのあたりはどう答えようとこの先の会話内容が変わるわけでもない。手早く受け流すのが千種対策のコツだ。
「そう、可愛いのよ。つまり、この可愛い制服と可愛い私の容姿で客を釣って稼ごうという作戦みたい」
「さらりと言い切ったな……」
「本当は私は試食係に専念してあげるって言ったんだけどね。私の才覚は外向けの仕事にこそあるって、押し切られたのよ」
「いや試食係は存在しないだろ」
「ふふん。さすが名推理ね百瀬。私の言葉からそこまでの情報を引き出すなんてさすがじゃない」
「何にも引き出してないから」
「ミルクレープって1000枚のクレープって意味らしいけど、どう頑張っても10枚ちょっとよね。二桁の誇大表現はさすがに公正取引法違反だと思うんだけどどう思う?」
「もしかしてそれが聞きたいこと……?」
 ならば、答えはひとつだ。
 どう(10)でもいいです。きにしません(1000)。
 ……いやまて自分。早まるな。それだけは、人として犯してはいけない罪だ。落ち着け。
「いいえ。本題は別よ。ほら、つまり私の力で客を集めて、売り上げを伸ばすわけじゃない?」
「千種ひとりの力じゃないだろ」
「まあ、そうね。せいぜい8割くらいだと思うけど」
 その自己評価こそ誇大広告に過ぎると思います。
 ……という言葉は、心の中に秘めておく。
 というかどんだけ自分が可愛いと思ってるんだ千種。言っておくが――まあ、その。
 ……5割くらいとは、言ってもいいかもしれないけど。
「で、給料が出ない理由は何かしら」
 1割くらいかもしれない。
 僕は、さてこの疑問にどう答えたら千種は納得するのだろうかと思案する。このあたりはいまだによくわからない。
「利益がないから?」
「利益が出なくても従業員への給与の支払いが滞るのは論外だわ」
「従業員じゃないし。遊びだし」
「盲点だったわ!!」
 ものすごく驚かれた。
 僕のほうが驚いた。
 なんだキミは。
「よし。じゃあ次」
「切り替え早いし」
「これ、渡された服なんだけど。私が着るんだって。このコ○ルドみたいなの」
「あー……うん、似てるかも」
「なんで知ってるのよ。ちょっと気持ち悪いわ」
「理不尽だ!?」
「一番大きなのを持ってきてくれたらしいんだけど……でも、まだ、ちょっとねえ。私がこれを着たら、どう思う?」
「……どう」
 うーん。
 まあ、可愛い服だとは思う。思うけど、可愛らしいだけに、やっぱり、もっと小さい子のほうが似合うのではないかと……思わずにはいられない。千種が着るにはちょっと小さい気もするが、逆にそれ以上大きいサイズだと可愛さ半減すると思う。
 小さい子。小さい子。
 ああ。そうだ。十和田さんならすごく似合うんだろうなあ。その、なんというか、ちょっと犯罪的に。
 客層ががらりと変わりそうだけど。
「ふーん。なるほど、確かに最近百瀬が一緒にいる子なら自然に似合いそうね」
「エスパー!? え、今、僕なんか声に出てた!?」
 十和田さんの癖が変な風にうつったんだろうか。冷や汗。
「いえ。なんかいやらしい顔してたから」
「してないよ! ……してないよ……?」
「最後の質問だけど、例えば今まで友達だと思ってた子がロリコンだと判明したとき、それを世界中のみんなに広めるためネットに実名公開するのを思いとどまる優しい子がいたとき、支払われるべき口止め料の相場っていくらくらい?」
「わかりやすい脅迫きたー!? いやいやいや落ち着くんだ千種。十和田さんをロリ呼ばわりするのは何気に結構失礼だ、うん。ほら名誉毀損とかそんなので逆に訴えられると大変だよ」
「あら。私は例え話しただけなのに、百瀬は勝手にあの子のことだと思い込んだのね。名誉毀損だわ」
「しかも罠だった!」





(5)


 みんなから寄せられたアイデアの選別、もしくは寄せ集め。
 それらを実現するために必要な道具類と、それに伴って必要になる予算。
 何もかもをクラス全体会議で決めていては話がいつまでも進まない。かといって独裁的に進めていては誰もついてきてくれない。ある程度案をまとめていくつかの候補を作って選んでもらう形が理想だった。
 このあたりの見切りのバランスが難しい仕事だった。
 楽そうだからといって気軽に引き受けるものではない、文化祭係。
「ふう」
 実に、疲れる。3つの案を纏め上げたところで、僕は大きくため息をついた。
「お疲れ様!」
 十和田さんが元気な声で言って、笑いかけてくれた。
 ああ。十和田さんの笑顔で癒される。この仕事も彼女が一緒だからこそがんばれるというもの。しみじみ。
「お疲れ様」
 もちろん、十和田さんは僕が作業をしている間隣でただにこにこ笑っていたというわけではない。どんなものをみんなが喜ぶだろうなんて僕には想像がつかないので、案をまとめて形にするのは十和田さんが主役の仕事だった。僕は道具類と予算の概算から規模を決める役割が中心だった。
 つくづく僕はお金の話に縁が強い気がする。誰のせいだ。
「ここまでやれば、選んでくれるかな?」
「うん、百瀬君はやっぱり凄いんだね。私ひとりだったらここまでやらないよー。お金の話なんてやることが全部決まってから考えればいいって思ってたし」
「だいたいどれくらいの規模のことができるか言っておかないとまた揉めそうだから」
「うーん。文句ばっかり言う……反対意見の提出に意欲的な子に限って自分は何もしない……行動は控えめなんだから適当に無視しちゃえば……受け流しちゃえばいいんだよー」
 言いたいことははっきりしてるのにどうして十和田さんの言葉はたまにとても聞き取りづらくなるのだろう。ああ学校の七不思議。
「ところで! 百瀬君って、ケーキとか好き? パウンドケーキは好き? お医者さんから甘いものを止められてたりしない? アーモンドとか小麦粉とか卵とかバターとかのアレルギーはある?」
 突然の話題転換。
 何か急にたくさん聞かれた。しかもイエスかノーか一言では答えにくい形式で。
「え。うん、普通くらいには好きだし、血糖値もたぶん普通だし、アレルギーはないよ」
「そっかー」
 にこにこ。
 にこにこ。
 ……あれ?
 まさか予想外のここで会話終了。起承転結の起で終わってしまった気分だ。
 ほら、こう。じゃーん、とか言って何か、ていうかどう考えてもアーモンドのパウンドケーキを取り出したりとかそういう展開じゃなかったんだろうか。
「あ! 一人で納得しちゃってごめんね。私ね、明日は部活のほうの練習に出ないといけないんだ。それで、当日売るパウンドケーキ焼くの」
「へえ。十和田さん、家庭科部なんだ」
「数学部だよ?」
「ケーキ関係無っ!?」
 というか数学部なんてあったんだ。そして十和田さん数学好きなんだ。
 ……いや、それで、何故ケーキ?
「数学部って、普段何してるの?」
「みんなでゲーム! ……じゃなくて、あの、確率・統計学の実践的演習?」
「えーと。で、数学部で何故ケーキ……?」
「ネタがなかっ……あ! 甘いもの食べて頭を活性化させてみんなで数学を楽しもうっていう、ね!」
 あ! って言った。
 絶対言った。
 思いつきで言うにしても、思いつく前に本音を言いかけてしまっては何にもならないという事実を数学は教えてくれないのだろうか。……くれなさそうだ。
「それで、明日は百瀬君に食べてもらおうと思って……ううん。そうじゃなくて、明日はちょっと作りすぎちゃって余っちゃうからどうしようかなって悩むつもりだったの」
 ああ十和田さん、十和田さんはその自分の言葉に悩みは持たないんだろうか。
 そこは言い直さないですっと言ってくれたらもっと嬉しいのに!
「えーと。うん、楽しみだよ。ありがとう」
 十和田さんはにこーっとすごく素敵な笑顔を見せてくれた。
 あああああ。可愛い可愛い。もうなんというか二人きりのときにこれは危険だ。
 甘いものはそんなに得意なわけじゃないけど、今の笑顔が十分に甘いです。なんて。
「あ、でもそうすると、百瀬君を待たせちゃうのかな……?」
「んー……明日は、いや、ちょっと別のクラスの手伝い頼まれてたりするから、ちょうどいいよ。……ただ、そうか。うまく言って逃げ出さないと、千種がついてくる恐れがあるな……あいつ、甘いものが死ぬほど好きなうえに勘が鋭いから」
「明日も千種さんのどれ……手伝いなんだ」
 どれ。
 どれってなんだ。
 ……いやわからないわからないぞ想像もつかないぞ決してその次に来る一文字なんて!
「それなら、うん。千種さんの分まで作りすぎてもいいよ。これで百瀬君も千種さんを餌付け……恩が売れ……えーと? ちょっとした貸し、みたいな」
「う、うんありがとう、でもたぶん意味ないからいいよ……」
 餌付けされてるのは僕なんでしょうか。
 教えて神様。





(6)


「さ、百瀬はどれがいいと思う? よさそうなのを選んで、あとでその理由をA4レポート用紙に書いて3日後までに提出して」
「まわりくどいし面倒だよ! 言ったほうが早いよ!」
 さて、本日僕こと百瀬成美は、実は緊張していた。
 というのも、なかなか慣れないシチュエーションにさらされているのだ。もちろん、千種と対面することが慣れないわけではなく、緊張するわけでもない。ここが他人のクラスだからというのは多少ある。どういうわけかわからないが、自分のクラス以外の教室に入るというのは不思議なくらい気が引けるものだ。しかし今は単純にそれだけの意味ではなかった。
 じー。
 ああ。視線が。こう、面接を受けているかのような、試されるような目が。たくさん。
 女の子3人と千種が、僕の言葉を待っている。ああ、そんなに見つめないで。照れちゃう。
 目の前には3枚の紙。それぞれに、喫茶店の内装イメージイラストが描かれている。喫茶店といってももちろん本当の喫茶店ではなく、文化祭で、教室を使って行うものだ。そのため、できることには限界がある。
 僕はドキドキしながら、答えには迷うことなく、1枚の紙を選んで手に取った。
「これかな」
「へえ。どうしてかしら」
「自然な感じで、落ち着きやすいから。例えばこっちのだと可愛らしくていいけど、ちょっと派手で逆に疲れかねないかなと思う。もう一つのも、見た目には豪華で写真写りはよさそうだけど、外からふらっと見たときに入りづらいと思うよ。ちょっと、こう、場違いな感じがしてしまって」
「へえ……」
「おー」
「なるほど、そういう視点で見るわけね」
 3人の女の子が順番に反応する。あ、さっきまでのちょっと警戒の視線が柔らかくなった。よかった失敗はしなかったみたいだ。ドキドキ。
「なるほど。参考になったわ。詳細レポートはハートカバー一冊分くらいにまとめてね」
「だから書かないよ! 一気に長くなったよ!」
「凄いねえ、百瀬くん」
「せなが頼るわけだー」
「ももちー偉い!」
 ももちー!?
 人生初めてそんな呼ばれ方した気がするよ!
「ふふん。こう見えても百瀬はこういう直感はアテになるのよ。伊達に小学校時代はクラスでメロンパン星人と呼ばれていたわけじゃないわ」
「呼ばれてたけど! 何の関係もないしっ」
「ちなみに運動会のパン食い競争でゴールせずにその場でメロンパン1個ゆっくり食べちゃったことがきっかけよ」
「何にも関係ないのにいきさつまでばらされた!?」
「あと市内では女の子っぽい名前グランプリに7年連続輝いた実績もあるのよ」
「ないよ! どんな嫌がらせだよ! ていうかうるさいほっとけ!!」
「あはは、やっぱりせな、仲良しなんだねー」
「ほんと。こんなところで見せつけてくれるなんてねえ」
「あ、ねえももちー、もう見せてもらったんでしょ? 感想は? ねえ感想は?」
 ……な、なんだなんだ。
 なんだこの空気はっ……
 あせあせ。女の子たちの目の輝きがまた変に変わってきた。
「見せてもらったって……何が」
「決まってるじゃん。せなのメ・イ・ド・姿。まずももちーに見せてきたってせなが言ってたよ」
「きゃー! この幸せ者めー! あたしだってまだ見てないんだぞっ」
「や、やっぱり『ご主人様……』とかそういう!? 言われたんでしょ!?」
 ちょ。
 なんだ! 言っておくけど僕はこんな空気ももちろん慣れていない!
「いや、服は見たけど……着たところは見てないし」
「えー」
「そうなの、せな?」
「そうだったかな。なんせ『ぼぼぼきゅはろりこんさんだからもっとちっちゃな子に着てもらいたいんだなハァハァ』なんて言われたからショックで忘れてたわ」
「言ってねえええええ!! 酷すぎる捏造に断固抗議するっ!!」
「そっかー。せなも照れてるんだよ。ももちーがちゃんと言ってあげないと」
「『今だけでも、僕だけに見せてほしい』……とか!」
「きゃー! もう! 百瀬くんのえっち!」
「……」
 やばい。
 何がやばいかってツッコめない。
 とりあえず反射的にでもツッコめる千種のほうがずっと話しやすいなんて思ってしまった自分がかなりやばい。
 千種に視線で訴えかける。こいつらをなんとかしてあげてください。
 千種は小さく頷いた……気がした。
「まあ、みんな。百瀬にあまり多くを求めないでやってちょうだい。誰しも限界はあるんだから。増して百瀬なんだし」
「……」
 ――いや、落ち着け。
 もはや条件反射で反論しそうになったが、ここで反論してしまってはキリがない。ここで我慢してこそ百瀬じゃないか、なあ自分。おちつけ。
「うーん。ま、いっか。今ここで問い詰めても仕方ないもんね」
「二人きりのときによく話し合ってもらわないとね」
 ……よくわからないが、やっと引いてくれたようだ。
 ほっと一安心。
 いや根本的に何かがまったく解決していないけど。何かが。
「ね、ところで二人って、いつごろからの付き合いなの? 生まれた頃からお隣さんとかそういう話?」
 と、まあ。
 話題は変わって、尋問自体は続くわけで。
 いいや。さっきまでの異常な空気よりはずっといい。素直に答えればいい質問なんだし。
「いや、そこまでじゃないけど。でもいいかげんうんざりするくらい長いのは長いよ」
「そうね。最初に百瀬を目撃したのは具体的には消費税が5%になった直後だったわ」
「具体的だけどわかりにくいよ! 小学校入ってから、でいいだろ!」
 あとなんか扱いが珍獣かなぞの飛行物体みたいだよ!
 3連続ツッコミは疲れるので最後だけはなぜか心の声で。
 千種は、妙にしんみりと頷いた。
「そうは言うけどね百瀬。4月1日、夢をもって、今日からぴっかぴかの1年生ってときに5%よ。ちょっと出鼻くじかれる感があったじゃない」
「そんな小学1年生いないよ! いてほしくないよ!」
「あれ、やっぱりちょっとランドセル薄くない? とか思ったものね」
「門出から切なすぎる……っ」
「6年生の卒業式でも言ってたくらいだもんね。ほら、卒業生に続いて在校生が言うやつ。『少し上がった、消費税』」
「『消費税!』 言うかああああああああっ!! っていつまで消費税ネタ引っ張るんだ!?」
 ついノリツッコミしてしまったよ!
 それにしてもこの百瀬ノリノリである。これにはさすがの僕も反省。
 ……はっ。また、不思議な視線が。
「すごいー。台本があるみたいだねー」
「なんというか、こういうのを見せつけられると、どんな言葉よりも説得力があるね」
「ももちー面白い!」
 何かとやばい。
 何か、こう、既成事実が積み重なっていくような、そんな気配が。
 違うんだ。何か、軽率なそういう判断はよくない。ああ。よくないんだ。
「いや、千種が変なことばっかり言うから……」
「あら。百瀬が楽しそうだから言ってあげてるのに」
「へ……」
「し、失礼しますー」
 ――と、ドアのほうから、声。
 ああ。この幼い声は。振り返るまでも無い。
 救いの女神がやってきた。……たぶん。
「あ、百瀬君……」
 ほっとしたような声。もちろん、十和田さんだ。
 僕はここぞとばかりに椅子から腰を上げる。
「ああ、ごめん。そろそろ自分のクラスの仕事に戻らないと」
「そっか。忙しいところだったのにごめんねえ」
「いやいや。たいしたことはしてないし。――千種」
「……ん。ああ。そうだった。せっかく手伝ってやったんだからもちろんお前もその代償は払ってくれるよな、と脅されていたんだったわ。というわけで行ってくるから」
「物凄く歪んだ伝達しないように!」
 心の中ではいよいよケーキが食べられると喜びまくっているくせに。
「ふ……一時も離れたくない、かあ。青春だねえ」
「百瀬くんなりの照れ隠しってわけか」
「ももちーつんでれー」
 もう泣きたい。





(7)


「はじめましてだね、千種さん。一応。百瀬君からよく千種さんの話は聞いてるけどね。私、十和田美弥。よろしくね」
 廊下を歩きながら、まず十和田さんが切り出した。
 千種と十和田さん、二人並んで歩くと、とても同級生には見えない。もしかしたらこの二人が学年で一番身長差が大きくなる女子の組み合わせかもしれない。いや、千種がそんなに飛びぬけて大きいわけではない。こういうのもなんだが、十和田さんが小さす……ちょっと、身長が控えめなのだ。さながらアルマダの海戦。いやどう考えても海賊は千種のほうだけど。
 完全に子供が大人を見上げる視線になりながらも、十和田さんは物怖じせずにいつものかわいらしい声で挨拶した。さすがに慣れてはいるのだろう。
 千種は、笑顔を作るでもなく、真顔のまま返す。
「みーちゃんね。よろしく」
「初対面で!?」
 千種のフック気味のカウンターに、僕はいきなりの教育的指導を出さずにはいられなかった。条件反射だ。
「あはは。うん、よくそう呼ばれるし、それでいいよ」
「そうよね。もう見るからにみーちゃんだわ。もうね、名前聞いた瞬間に、あ、この子はもうみーちゃんなんだって、永田町で25%の賛成票を得るほどみーちゃんだって思ったもの」
「微妙に低い数字だし得るかもしれないけどたぶん議題に上がらないよ!」
 ……
 みーちゃんか。
 まあ、うん。悪くない。言われてみれば確かにみーちゃんだ。
 いや……さらに踏み込むなら……そう、あと一歩の感じを埋めるなら、こうだ。
 みぃたん。
 これだ。改めて十和田さんの横顔を後ろから眺める。ああ。みぃたんだ。間違いない。これ以上の呼び方が存在しようか。いや、しない。みぃたん……みぃたん……
「で、みーちゃん」
「みぃ――」
 ばっ!
 あわてて口を閉じる。
 まてまて。今何を言おうとした自分。まさか みぃたんだよ! なんてツッコもうとしたんではあるまいな。まさかね! ……はい、そうです。あぶねー!
 反射というのは恐ろしい。ついうっかりで、何かと人間関係を終わらせてしまうことになるところだった。深呼吸して落ち着こう。さあ。ふしゅー。
 振り返った千種と目が合った。薄く笑っていた。あ。やばい。あの笑みはやばい。いつもならここからラッシュが始まるところだが、しかし、今日はそれきりで目をそらして、十和田さんのほうに向き直った。
「百瀬から私のことを聞いてるって? どんな風に?」
「んーと……守銭奴?」
 ぶほぁ。
 窒素と酸素をおよそ8:2の割合で混合した気体吹いた。
 恐らく誰もが思いつつも誰もが本人を目の前にして言った事のなかった言葉を! 直球で!
「あ、じゃなくて、えっと……」
 十和田さんはいたって普通に言い直そうとするが、いつもどおり言い換えの言葉が出てこないようだった。確かにこれは難しい。いや言う前に考えてください。
 千種といえば、別に怒るでもなく笑い飛ばすでもなく、ただ小さく首を傾げていた。
「それ、百瀬が言ってたの?」
「んー……ううん。百瀬君の言葉から私が判断したというか」
「そうよね。百瀬がそんな間違えたこと言うはずないものね」
 なにやら納得したように頷いていた。
 ……え?
「いや、確かに僕は言ってはいないけど、間違いとは思わないよ……ていうか、千種、自覚ないのか……?」
「何言ってるのよ。守銭奴って、あれでしょ。何よりもお金が大好きで、より大金を得るためなら友情でも信頼でも何でも平気で犠牲にして――赤いスポーツカーを乗り回して札束のプールで泳いで『結局コレがほしいんだろう? ああ?』とか言いながら札束で人の頬をたたいたり借金まみれの人間を集めてギャンブル船を運営したりするのが趣味の中年親父のことでしょ。ほとんど私に当てはまらないじゃない」
「強引に条件増やして回避した!? それが全部当てはまる奴なんてさすがにいないだろ! どんだけ狭い範囲の言葉だよ! ……ん?」
 ツッコミ連打の中、ちょっと引っかかって、一度冷静になる。
 さあ。今千種は結構重要なことを言った。言ったぞ。
「千種。『ほとんど』ってことはどれかは当てはまると――」
「教室ついたわよ。早く入りなさい。みーちゃんのケーキ楽しみだわー」
「……」
 まあ。
 聞かなくてもいいこともあるか。

「へえ、美味しいわね。素人が作ったにしては上出来だわ」
「千種、褒めてるんだろうけど褒められた気がしないよ、それ……あ、十和田さん、ほんとすごく美味しいよ。しっとりしてて柔らかくて」
「そ、そう? ありがとう。百瀬君に褒めてもらえると嬉しいな」
 にこー。
 うわーもう。うわーもう。パウンドケーキも美味しいけどみぃたんの笑顔はもっと美味しいよ!
 ……えへへ。
 なんかもう油断して本人の前で本当にみぃたん言ってしまいそうだから心の中でもちゃんと自重しないと怖い。というかむしろ自分結構危ない奴になってる気がする。気のせいに違いないんだけど。いやほんと。
 千種が今まで見たことないくらい冷たい目で僕を見つめてるような気がするのも気のせいに違いないんだけど。
 あ、ため息つかれた。
「これ、文化祭で売るんでしょう?」
「うん。数学部らしく、フェルマーパウンドなんて名前で。あ、もちろんこれ食べたからってフェルマーみたいになれるわけじゃないし単に無理やり数学にこじつけ……んー話題作り? なんだけどね。中身は普通のアーモンドケーキだよ」
 いわなくていい、いわなくていい。
 わかってるからいわなくていい。
 もしかしてみぃ……十和田さんは建前というものが嫌いなのかもしれない。生きるなら本音で生きようぜ、ということなのかもしれない。なんて男らしい。
「他にもオイラークッキーとか、ε−刄tィナンシェとか、極限生チョコとかあるんだよ」
「極限生チョコ気になる……」
「そう。困ったわね。これだけ美味しくてしかもメニューが豊富だなんて。強力なライバルだわ」
 千種が唸った。
 なんだ、やっぱりかなり美味しいと認めているんじゃないか。何気にもう2つ目に手を伸ばしてるし。
「千種さんのクラスは喫茶店なんだよね? その、あざと……特徴的な制服で客寄せしようという魂胆の」
「あーえーと十和田さんちょっと」
「ん?」
 そんな可愛らしい笑顔で見つめないで。照れちゃう。
 いやいや。十和田さんどんだけ千種にケンカ売りたいんだ君は。と思いたくもなるようなあまりなアレについ口を挟んでしまったけど今更自分が何を言えばいいのかも思い浮かばないわけで。
 しかしまあ、千種は冷静に首を縦に振るのだった。
「まあ、ね。より正しくは制服というより私がメインなんだけど」
「千種もどこまで自信家なんだ!?」
「千種さん、美人だもんね。確かに千種さん目当てでいっぱい人が来そう。チヤホヤされるんだろうなあ」
 怖いって。
 怖いってみぃたん。
「ただ、私にあの服は似合わないってね。どこかの誰かに言われたんだけど」
「そう……かな?」
「そのどこかの百瀬はみーちゃんにこそ似合うってそれはもう変質的な妄想顔で力説してたわ」
 百瀬って言っちゃったし!
 妄想顔ってどんな顔だよ!
 十和田さんはちょっとびっくりした顔で僕の顔を見た。
「百瀬君、本当?」
「……うー。い、いや変な想像なんてしてないよ。ただ、確かに十和田さんには……似合うかも」
「そっかぁ」
 うふふ。十和田さん嬉しそうに笑う。
「私も当日思い切ってドレスみたいなの着てみようかな」
 ……
 ぽややーん。
 もやもやと脳内で展開される妄想。
 なんということだ。これはすごいことになる。なるぞ。うわーもうニヤニヤが止まりません。助けて。
 落ち着け。一つ重大な問題が。
 第一に制服着てないとただでさえ「誰かの妹さんが手伝いで入ってるの?」としか見られなさそうなのに。
「……誘拐されそうだ……」
「え? 誘拐?」
 は。つい声に出してしまった。みぃたん病が!
「えーつまりもうあまりに可愛らしくてつい攫っちゃいたくなる! って人が現れるかもしれないから危険かもしれないというか、あ、いやもちろん、なんというのか、愛玩的な意味というか」
「ごめんねみーちゃん、こんな百瀬で。危険な子じゃないから誤解しないでゆっくり話聞いてあげてね」
「なんかフォローされたー!?」




(8)

 文化祭当日。
 僕らのクラスはといえば、結局お馴染みというかベタというか、お化け屋敷になったのだった。準備は大変だったけど、当日働くメンバーは比較的少数の交代制で済む。
 教室全体を大掛かりに改装するかのような作業は実に時間と労力を要するものだったが、これといって語るほどのイベントはなかった。することが決まってしまえば文化祭委員というのはただの取りまとめ役であって、作業はクラス全員でやることになるので、十和田さんと二人きりの時間もそこまでだった。
 まあ一つ言えるのはみぃたんやっぱり設営作業には向いてないよちっこくてかわいいよみぃたん。

「きゃーーーーーーっ!!」
 ……かちゃ。
 さて当日の僕の担当時間は、朝一番だった。十和田さんもいっしょだ。文化祭委員として、当日の予期せぬトラブルに対応する義務があるからだ。とはいえ、幸い面倒なことは特になかった。となれば、ただの人がまだ少ない時間帯ということになる。
 加えて僕の仕事は地味な音響係だ。いやあ楽。
「あ、私もう行かないと。ごめんね百瀬君、そろそろ、数学部のほうの準備しないといけないから」
「うん、わかってるよ。いってらっしゃい」
「ね、待ってるから忘れずに見にきてね! 私も千種さんみたいなあざとい可愛らしい服準備してきたんだから」
「う……うん。楽しみだな」
 自分であざといとか言わない。

 二十分後には僕の仕事も終わり。
 なんの部活動もしてない僕はこれで次の担当時間まで自由の身というわけだ。何かトラブルがあったら電話かかってくるだろうけど。
 時間は11時。お昼にするには早いが……さて。
 まあ、見たいところは割とあったりする。化学部の実験デモとかも実は結構楽しみだったりするタイプなのだ。
 とはいえ、まあその、まずは。
 買い物するのに必要なチケットを買わなければ。
 そして……

「いらっしゃいませ……あっ」
 う。
 こっそり様子を伺おうと思っていただけなのに、いらっしゃいませと言われてしまった。
 しかもなんだ。見覚えのあるメイド服を着たその女の子は……確かに、見覚えがあった。確か千種の相談にのったときにいた3人組の……
「ももちーだ! ちょっと待ってね! せなは……ああん、接客中うー。あいやご心配なく! このわたくしめが責任もってももちーの希望通りせなへの指名を通してみせますとも!」
「ちょ、ま」
 そうだこんな子がいた。いた。いやまって。いきなりなんですかこのテンション。
「指名なんて」
「せなっ!」
 ちょいちょい。
 僕の反論などはなから聞く様子もなく、千種を声と手で呼ぶ女の子。
 僕はそのタイミングで初めて千種のほうを見た。
 千種もちょうどこっちを見ていた。
「……」
「あ」
 固まったのは僕。
 いつもどおり暢気な声を聞かせてくれたのは千種。
 な……なんだ……その……
 アタマについているものは……!
 メイド服姿も結局今このタイミングになって初めて見る。正直、思っていたよりずっと……やばい。可愛い。なんだ。思ったより似合うじゃないか。いやしかし。いやしかし。問題はそれどころではない。
 僕のほうに素の表情で歩み寄ってくる千種。歩調をあわせるように、じゃ、と言って機嫌よく去っていく女の子。
 そして千種が目の前に。
 ……え、えーと。
「いらっしゃいませにゃー」
「にゃー!?」
 やっぱり猫なのか!?
 そのアタマのはいわゆるアレなのか!? NEKOMIMI☆なのかっ!?
「そ、その……」
 視線はどうしても頭上に。
 ぴょこんと髪の間から現れている耳に。
「似合うにゃ?」
 く、と軽く首を傾げる仕草を見せる千種。
 思わずずきゅん。
 ……い、いやいや。おちつけじぶん。
「うあああああ。千種がおかしくなったー!? なにかに洗脳されてるーーー!?」
「なんでよ。百瀬がこれつけろって言ったんじゃないの?」
「は? 僕がそんなこと――」
 ………………
 …………あ。何かを思い出した。
 1週間くらい前に、3人組に呼び出されたことがあった。そのときに聞かれた。「ねえねえ、ねこみみとうさみみ、せなにはどっちが似合うと思う?」……ああそうだ。そして僕は答えた。うさぎはありえない、と。
 この伏線だったのか!
「い、いや僕は……ねことうさぎだったらねこだろうと言っただけで」
「なんだ。こういうのが趣味だと思ってのってあげたのに。つまらないわね。傷ついたから慰謝料を請求するわ」
「なんでだよ!? っていきなり客を脅す店員があるかっ」
 あ。
 勢いで客だと言ってしまった。
「はいはい、メイド服につられたお客様一名様ご案内ー」
「うう。なんで僕がこう後ろめたい気持ちになるんだろう」
「復唱します。メイド服につられたお客様一名様ご案内ー」
「そこはまったく復唱いらないよ!?」

 さ。
 紙に可愛らしい文字で手書きのメニューを渡される。
 メニュー自体はいたってシンプルだ。当たり前だが、安い。
 テーブルの隣には、千種が立ったまま。普通はメニュー渡したらとりあえず離れるのではなかろうか。
「ねえ」
 あまつさえ、声をかけてきた。
「なんだよ」
「みーちゃん、なんか私も可愛い服着るーってはしゃいでたけど、見た?」
「あ、いや。まだ行ってないや」
「へえ?」
 とても意外そうな声で言われた。
 なんだよ。
「復唱します。へえ?」
「だから無意味な復唱!?」
 復唱が気に入ってるんだろうか。たまに千種はよくわからないものにハマる。
「あー……とりあえず、オレンジジュースで」
「はいはい」
 さっと去っていった。
 ……
「いや、そこ復唱しろよ……」

「オレンジジュース、お待たせいたしました」
「どーも」
 おお。それなりにまともな仕草だ。ちゃんとこういうの練習したりしたんだろうか。
 普通といえば普通だけど。まあ紙コップのジュースをテーブルに置くのにそんなに瀟洒になられてもという感じもする。
「……」
 ……で。
 なんで千種はまだじっとここに立ったままなんだろうか。
 一応は看板メイド(?)なんじゃないのか。もっと他の客をどんどん対応しないといけないんじゃ。
「百瀬」
「なんだよ」
「チップって知ってる?」
「少なくとも高校の文化祭で支払われることは絶対にないということまで知ってる」
「世間知らずにも困ったものね」
「……いや、ないだろ実際」
「復唱します。ものね」
「語尾だけ復唱されても!? いや全部言われても嫌だけど!」
「わかってないわね。高校の常識と千種の常識は必ずしも一致しないのよ」
「あ、それはよく知ってる」
「……」
「……」
 もしかしてこいつは本当にチップ渡すまでいるつもりか。
 オレンジジュースを一口飲む。……うーん。ものすごくバヤリース。
「千種」
「うん」
「まあ、これでいいものでも買って食うがいいさ……五円チョコとかな」
 五円玉を手渡してみる。なんかちょうど余ってたし。
 千種は、真顔のまま受け取って、言い放ってきた。
「五円チョコが売ってる店まで行くための地下鉄代が別途往復460円必要だわ」
「……」
 悔しいくらい斜め向きに素敵な回答だった。

「ごちそうさま。じゃ」
「ありがとうございましたー!」
 元気な送り出しの声は、もちろん千種のものではない。
 というか千種は僕の後ろにそのままついてきていた。
「って、おい。仕事戻らないといけないだろ?」
「なんか、特別に30分だけ休憩くれるって。一番勝負どころの時間までに戻ればいいんだって」
「は?」
 ちらり。
 教室の奥のほうを見ると、目が合った女の子たちがぐ、と親指を立てたりひらひらと手を振ったりしてくれた。……えーと。なんだこのノリは。
「ま、せっかく休みくれるっていうんだし、ちょっとのんびりさせてもらうことにするわ」
「あ……そ。じゃ、これで」
 しゅた、と手を上げる。
 その手をがしっと捕まれた。
 メイド服のままの千種が、にこりと可愛らしく微笑んだ。手首は、とても僕の力では振り切れそうにもないほどの握力できつく握られていた。





(9)

 さて、どういうわけか猫ミミメイドな千種と一緒に校内を歩くことになっている僕なのだが、普通に考えてこの状況は、非常に、恥ずかしい。
 千種の顔を見るといつもどおり何を考えているかわからない涼しい表情だ。とっくにわかっていることだが、どうも千種瀬名という人間は、感情というものが6割引くらいになっている気がする。アンバランスというべきか。喜怒哀楽で言えば楽だけが突出しているような感じだ。
 さて、この恥ずかしい状態でどこに向かっているかというと、自然の流れで数学部になっている。もちろん千種も僕も数学に目覚めたなんてことはなく、要するに十和田さんを見に行こうというわけだ。
 すれ違う人々の視線を感じまくる。潜めているつもりなのだろう声もちょくちょくと聞こえてくる。
 あれは千種さんだとか、ネコミミはやりすぎじゃないかだとか、あの男の趣味なんだろうなあ見せびらかしやがってとか、百瀬だし仕方ないとか、愛なら仕方ないとかえとせとら。
 うう。釈明したい。僕は悪くない。
 と、まあ何はともあれ数学部に向かう途中だったのだが。
「あ、ここ天文部」
 千種が立ち止まった。
「入りましょ」
 言うが早いか、僕の答えなど待たずに先に部屋の中に入ってしまう。
「……千種、星に興味あったっけ?」
「何言ってるのよ。百瀬の親友でしょ」
「ああ。そういえば天文部だっけ」
 なんとなく……というか思い切り視線を感じながら、天体写真が展示されているスペースの中を歩く。写真展示自体が壁になっているので部屋全体は見渡せない。
 千種が近くの部員らしき人に声をかけた。
「五十嵐君、いる?」
「いるぞー。ちょっと待っててくれ」
 返事は壁の向こうから聞こえてきた。
「やあその声はヴィクトリア千種さん。ようこそ天文部、美しき宇宙の世界へ――」
 声とともに、そいつは現れてきて。
 千種の格好を見て、固まった。
「お久しぶりね」
「僕も割と久しぶりだ。で、なんだ今の芸人みたいな呼び名は」
「お、おおう。これはこれは。文化祭当日から見せ付けてくれるじゃないか。ルミもやるようになったもんだ。千種さんも……なんというか、素晴らしい。いつもと違った魅力を感じる」
「そうでしょ。恥ずかしがりで心の中の褒め言葉を全然口に出してくれない百瀬の代わりにもっと褒めてくれていいわよ」
「何だって! いいか、ルミ、褒めるべきときはちゃんと褒めないとダメだ。それこそが心が繋がりあえる最大の武器であってだな」
「おい、待て、なんで僕の心の中が勝手に決められてるんだ」
 千種、まさかこれが狙いか……!?
「いいやわかる。俺にはルミの気持ちはしっかりわかっている。ああもうお前という奴は、どうして素直になれないのか。千種さんもさぞ苦労していることだろう。いいかルミ、お前のその変な突っ張り具合が……まあ、可愛いところではあるんだが……ケースバイケースだ。可愛いよの一言くらい言えなくてどうする」
 なんでこいつはこいつで千種の目の前でそんな話ができるのかと思うけど。
 五十嵐は、掌を千種の頭の後ろに、ばっと広げた。
「例えばこのミミ! さあ百瀬はどう思う。素直な気持ちを言うんだ」
 千種は平然とした顔のまま……しかし微かに口元も目元もニヤニヤするのが抑えられないという感じだった。千種は実にこういうときは表情豊かだ。
「いや……猫だなあ……とか」
「論外だ! いいか、ミミ自体が重要なんじゃない。千種さんがこの格好をしていることが重要なんだ。そこを踏まえておけばちゃんと踏み込んだ言葉だって出てくるさ。例えば……そう、シベリアンハスキーみたいで美しいよとか」
「犬だし!?」
「……お前は本当にツッコミのときだけ生き生きとするな」
 自分的には決してそんなつもりは。

 よくわからないそんなやりとりで静かだった天文部の展示会場に騒音を撒き散らした後、僕らは今度こそ数学部に向かうのだった。
 それにしてもシベリアンハスキーとは。
 なんというか、実に絶妙な表現だ。考えてみると。性格はともかくとして、千種をこれほど的確に例えることができる動物は他にないかもしれない。なんと上手いことを言ったもんだと思う。五十嵐のくせに。
 シベリアンハスキーの姿を思い浮かべてから、ちら、と千種の顔を見てみる。
 ああ。そうだ。うん。まさに。まさに。
 もう頭の耳も犬耳にしか見えない。
 どうしようこれからシベリアンハスキーを見るたびに千種を思い出してしまいそうだ。
 それにしても……絶妙だ……
 ちら。
「?」
 あ、目があった。
 じろじろ見ていたと思われると嫌なので、気付かなかったふりをしてさっと目を逸らしてみる。
「どうしたの? さっきからちらちら見てきてるけど」
 バレバレだった。
「さっきからちらちら見てきてるけど」
「復唱はもういいから」
「まあ、わかってるわよ。私をどうやって賛辞しようか悩んでいるんでしょう。人を褒めたことがない冷たい百瀬には難しいかもしれないけど、私はゆっくり優しく見守ってあげるわ。焦らなくていいのよ」
「……考えもしてなかった」
 だからなんなんだこの揺るぎない千種の自信は。
 それとも言葉の端々までしっかりとツッコんで欲しいんだろうか。どこまで本気なのかが非常に悩みどころだ。
「ああ、なるほど。私のこんな貴重な姿を見ることが出来たんだから見物料くらいは払わないといけないけどいくらにしようか迷ってたのね。一口1000円から受け付けるわよ」
「払うか! 見て幸せ見られて幸せ、それが健全なコスプレの姿だ!」
「さすが百瀬、常人より一歩上を行くツッコミだわ……」
 ふ、とカッコつけたように笑う千種。
 意味がわからん。
「ま、でも百瀬もちょっとは素直に思ったこと言ったほうがいいわよ。五十嵐君みたいにはそうそうなれないでしょうけど」
 む。
 千種がなんか真面目なことを言った気がする。
「……五十嵐のほうが褒めてくれて幸せなんだったら、今からでも五十嵐のところに戻って楽しんでくればいいじゃないか」
 ……
 あ、あれ?
 なんだか一瞬空気が変わった。
 ちら。千種の横顔を見ると、目を丸くして、きょとんとした顔をしていた。
 え、えーと。い、今のはまずかっただろうか……
 千種はまっすぐ前を見つめたまま、また落ち着いた表情に戻って、しかし相変わらず何も喋らない。
 少し歩いたところで、軽く口元を歪めるように、笑って言った。
「そうする」
「え?」
「百瀬、見張りの私がいなくなってもみーちゃんに襲い掛かったりしちゃダメよ。数学部に行く前にちゃんと弁護士事務所の電話番号を調べておきなさい」
「僕はどれだけ信用されてないんだ!?」
「じゃ、ね。楽しんでらっしゃい」
「え、本当に?」
「百瀬が言ったんでしょ」
「え、いや、うん……まあ、そう、かな……?」
「お土産は忘れないように。それじゃ」
 くるりん。
 素早く身を翻して、千種は……本当に、引き返して歩いていってしまった。
 ……
 呆然とするのは僕のほう。
 いや、そうだな。うん。合理的な判断だ。千種はあっちに行くほうが楽しくて、僕は一人で行くほうがたぶん何かといい気がする。もしかして千種なりに気を遣ってくれたんだろうか。
 さて、数学部は角を曲がってすぐだ。角についた時点で十和田さんの姿も見えるだろう。
「……」
 とりあえず、立ち尽くしてみる。
 冷静に考えてみる。
 合理的な判断。
 千種は天文部の展示会場に戻ってどうするつもりなんだろう。あの姿とあの調子で五十嵐と話し続けていたりしたら、目を引きまくりそうだ。真面目に展示を見に行ったつもりだった人も、つい目はメイドさんを追ってしまうものなのではなかろうか。一度気になりだすともう空のことなんて心に入ってこない。千種がその辺りの機転を利かせるとはとても思えない。
「それって、天文部員の迷惑になるよな」
 くるり。
 僕はここでUターンして、早くももう見えなくなっている千種を追った。
 まったく、僕がちゃんと見張っておかないといけないな。困ったもんだ。






(10)

 ……
 天文部の部室まであと少しというところで一度足を止める。
 うーむ。しかしまあ五十嵐がいるから千種の暴走はちゃんと止めてくれてそうな気がしないでもない。
 ……
 ま、いいや、とりあえず行こう。

 展示会場の入り口から中を覗き込むと。
 五十嵐と千種が揃ってこっちを見ていた。
「……え?」
 入り口で固まってしまう。
「ね?」
「なるほど、さすが千種さんのほうが俺よりもルミのことはよくわかってる」
「ごめんね五十嵐君を利用しちゃって」
「いやいや。俺は千種さんの役に立てるだけで幸せだよ。本当はルミの奴と変わりたいくらいだけどな」
「ありがと。五十嵐君はもっと良識ある子を見つけたほうがいいわよ」
 ……なんだ? なんだこの状況は?
 よくわからないが、待ち構えられていたらしい。
 固まっている間に、千種は歩み寄って来ていた。
「さ、行きましょうか」
「え? あ、いや、五十嵐と話をしにきてたんじゃないのか?」
「迎えにきたんでしょ」
「いや……別にそういうわけじゃなくて、迷惑をかけてないかと」
「はいはい、私は時間あんまりないんだから手間を取らせないの」
 ぎゅ。
「わ……」
 手を握られた。
 そしてずんずんと進まれる。天文部の展示会場から離れていく。
 ちら、と部屋の中を見ると、五十嵐は爽やかな笑顔で指を立てていた。
「ちょ、ちょっと、千種」
「何」
「と……とりあえず、手は離してくれ。……かなり、視線が」
「まったく、わがまま放題テレホーダイね」
「懐かしいね!?」
 ぱ、と素直に手は離してくれた。
「まったく百瀬のせいで余計な時間がかかっちゃったわ。急ぐわよ」
「あれ、僕が何か悪いことしたんだろうか……」
「本来なら民事訴訟ものよ。この3分のロスのせいで私のその後の人生が狂ったから1000億ドルの賠償金の支払いを命じる、なんてことにならなくてよかったわね。百瀬は幸せ者よ」
「怖くて生きていけない世の中だよ!?」

 なんだかんだ。
 ずいぶん遠回りしたあと、ついに僕たちは目的地である数学部にたどり着いたのだった。
 なんでこんなに長かったんだろう……
 なんて哲学的な悩みは、すぐに吹っ飛ぶことになるのだった。
「あ! 百瀬君! やっと来てくれたんだね!」
 ……
 天使が、そこにいた。
 微かに青を帯びた透き通った白のドレスを身に纏う十和田さんの姿は……そう、まさしく天使に違いないのだった。いつもの声も天上から響いてくるかのよう。
 日の光を浴びてきらきらと輝く衣が目にまぶしいのは、明るすぎるからというだけではないだろう。まるで心の中の悪がそれを直視するのを避けてしまうかのよう……っていうかでら可愛いいいいいいいいいいいいいいいい!!! やばい! なんというかやばい! そして本当に小学生くらいにしか見えないのがなおさらやばいっ!
「……百瀬君? 大丈夫?」
「あ、う、うん。その……十和田さん」
「うん。どうかな? 可愛いかな?」
 失神しそうです。
 ふらりと無意識に十和田さんのもとに足を踏み出そうとすると、首が絞まった。
「ぐぇ」
「危ない、危ない」
 千種が僕の服を掴んでいた。
「今百瀬は猛獣の目をしていたわ……もう少しでいたいけな女の子を犠牲にしてしまうところだった。もう安心して、みーちゃん。あなたは私が守るわ」
「どんだけ犯罪者扱いだよ! 猛獣って……そんな目は……してない……よ?」
 自信はない。
 しかしまあ……
「きゃー! こっち向いてこっちー!」
「笑ってー!」
 実際のところ、僕が近づかなくても十和田さんの周りは既に楽しいことになっていた。
 女の子はずるい。ああして堂々と声をかけたり写真を撮ったりしても許されるなんて……!
 というか絶対実はここの学生だとは思われていない。あれは。
「ああ、ちょっと待ってねっ。君たちより百瀬君のほうが大事だからっ」
 ちょっ
 と、十和田さん、あのですね、その正直極まりないところはとても魅力的なところだと思うわけですが、その。
 今全国各地からの殺気を感じました。
「ねね、感想聞かせてくれる?」
 十和田さんはそんなのお構いなしという感じだ。
 ……いかん、ちょっとこういうところは千種に似ていると思ってしまった。
「あ、うん……その、可愛い……というか、可愛すぎるというか……」
「本当!? 良かったー。ちょっと思い切った格好だったから、心配だったんだ。ね、千種さんはどう思う? これ、似合ってるかな?」
「ええ。お姫様みたいで素敵ね。持ち帰りたいくらい」
「そんなに褒められると照れるなあ……っ。あ、千種さんも臆面もなく自画自賛するだけあってすごく可愛いよ! いつもとまた印象が違っていいね!」
 だから一言多いんだって君は。
 なんで聞いている僕のほうが冷や冷やしてるんだろうか……
「そのネコミミも意外に似合ってるしね。ほら、あの……シェパードみたいで!」
「だから犬! 犬だから!?」
 五十嵐とネタ合わせでもしてたのかっ!?
「ところで千種さん、クラスのほうはいいの? 看板娘なんだよね?」
「ちょっとだけ百瀬の見張りにね。そろそろ戻るけど――」
 ちら。
 ちらちら。
 ああ。そうか。千種の好きなものといえば、第一にキャッシュ……現金。
 それはいいとして、第二に甘いものだ。
 数学部では何故か手作りの焼き菓子が売られているのだ。千種の目は主にそこに向かっている。
「全部で4種類なのね?」
「うん。どれも人気だよ!」
「それじゃ全部1個ずつ、百瀬が買うわ」
「やっぱり言うと思ったよ! 思ってたよ! なんかもうチケット準備してた自分が嫌だよ!!」
 本当に。
「さすが百瀬、素晴らしいわ。お礼にあとでまたうちの喫茶店に来てくれてもいいわよ」
「お礼じゃないと行く権利もないのかよ!」
「まいどー。あ、百瀬君にはお世話になったから、一つくらいならサービスするよ! どうせ私たちの財布に入るお金じゃないし。どれが食べたい?」
 みぃたん。
 ……いや嘘。嘘だから。ほんとごめんなさい。しっかりしろ自分。
 むしろ観賞用が正解だから。
「じゃあ……フェルマーで。前貰ったとき美味しかったし」
「ありがとう! はいどうぞ」
「あ、みーちゃん。私も写真撮っていい?」
 千種はいつの間にかケータイを手にとってすでに構えていた。十和田さんが僕にケーキを渡している間に。
 十和田さんは、こて、と軽く首をかしげた。そんな仕草がまた凶悪に可愛い。狙ってなくてこれだから恐ろしい。
「どこに売るの?」
 ……喋らなかったら、本当に。
「売らない売らない。すごく可愛いから、記念に残しておきたいだけよ」
 いつもながら、千種もよく怒らないもんだと思う。
「そっか。いいよ、綺麗に撮ってね?」
 ……は。
 なんだ、これは。もしかしてチャンスじゃないか!
 今ならごく自然に僕も……
「とぁっ」
 ……うあ。
 自然の流れで行きたかったのに一言目から噛んでしまった。
 お、落ち着いて落ち着いて。下心的なものと思われてしまっては元も子もない。
 心の中で深呼吸ひとつ。
「……十和田さん。僕も撮っていい?」
「え? もちろんだよ! ……ちょっと、緊張するかな」
 や、やった……
 任務は無事達成された。
 そこからは周囲のギャラリーも巻き込んで撮影大会になっていた。肝心のケーキがあんまり売れてないような気がするのは、まあ僕には関係のないことだ。
 ……帰ったらこの写真をPCの壁紙にしよう。