うう。ううう。
 そわそわ。
 他クラスの教室の前で立っているというのは、どうも落ち着かない。
 なんでこんな緊張感を強いられないといけないんだろう。千種がうちの教室まで来ればいいんじゃないか。
 と、主張したら、教室に行くまでの間私が一人になっちゃうでしょ、と言われた。なんでそんな徹底するつもりなんだ。おまえはどんだけVIPなんだ。
 最後のホームルームを終えた生徒たちが次々に教室から出てくる。立ち尽くしている僕を見た反応はまちまちだ。時折、僕のことを知っているのであろう反応も返ってくる。
「あ。瀬名? 呼ぼうか?」
 一人の女子生徒から言われた。ちなみに僕のほうは彼女に見覚えはない……覚えていないだけかもしれないけど。
 まあ、待ってる時間も辛いので、催促して早めに来てもらったほうがいいか。そう判断した僕は、お願い、と答えた。
 誤った判断だったということはCMを待たずともすぐに明らかになる。
「瀬名ー! 瀬名の大切な人がお待ちだよー!」
「ちょっ」
 教室中、確実に全員に聞こえる声で叫ぶ少女X。
 ざわっ。
 ざわざわという書き文字が宙に浮かんでいるのが見えるかのような、絶大なる反応。教室にいた全人口のおそらく9割はこっちを見た。
「うぐぁ……」
 さ、さすがにこれは。その。
 赤くなるのが避けられない。
 ええい! 僕は見世物じゃない! さがれさがれ!
 千種はといえば、少し目を丸くしていたが、ああ、と相変わらず落ち着いた様子で立ち上がって、周囲の女子に軽く挨拶をしながらこっちに向かってくるのだった。
「んじゃねー! ごゆっくり〜♪」
 いいことをしたあとは気持ちいい、といわんばかりに上機嫌で、犯人Xはさっさと帰ってしまった。
 千種が戸のところまで来たときにはもう後姿になっている。
「……大切な人っていうから誰のことかわからなくて悩んだわ」
「悪かったな……いや僕は悪くないぞ」
「悩みすぎて偏頭痛が激しくなって胃酸が過剰分泌されたくらい」
「悩みすぎだよ! 症状がリアルで怖いよ!」
「ここまで悩んだのは神の存在を人類がどうやって証明しようとしてきたかを考察したとき以来ね」
「重過ぎるよ!? そこまで悩まなくても僕のことに思い至って……ください……」
 は。
 教室の入り口でこんな話し込んでいたらますます人目を集めるだけじゃないか。
 というか出入りの邪魔になって迷惑だ。
「えーと、とにかく、帰るよ」
「帰る? 原点に戻るということね。つまり、唯一神が史上最初に登場するきっかけとなったバビロン捕囚の」
「神はもういいよ! 19世紀に死んだよ!」
「まあ」
 何がまあなんだ。
 なんだかんだこんなやり取りの後、並んで歩き出す。
 ……それにしても、ツッコミ連発している間に、気まずさのようなものが消えてずいぶんといつもの落ち着きを取り戻すことができた自分がちょっと不思議だった。そんなにツッコミ好きなのか自分。
「久しぶりねえ」
 千種は、こちらはマイペースのまま、のんびりとした声で呟く。
「何が」
「何がって、考えればわかるでしょ。一緒に帰ることと、歩きながらゆっくり話すことと、帰りにケーキをご馳走してもらうことよ」
「明らかに予定にまったくないものが含まれてた気がするけど僕は予定を変えるつもりはないから」
「ありがとう、嬉しいわ」
「先にお礼言われても」
「運良く今日まで限定の抹茶ムースがあるの。さらにラッキーなことに帰り道の途中よ」
「へえ、そう。昨日知ってたらお姉ちゃんに教えてあげられたのに」
「楽しみにしてたのよ。間が悪くて今まで行けなかったけど今日なら余裕あるわね」
「いや、食べたいんならいいけどさ。もちろん誘うほうが奢るもんだよな?」
「……」
 一定のペースで歩き続けながら、無言になった。
 千種がこういう展開で黙るのはちょっと珍しい。このまま引き下がるとは到底思っていないけど。
「百瀬、抹茶嫌い?」
「嫌いじゃないけど」
「抹茶ムース、美味しそうだと思わない?」
「美味しいかもしれないけど食べに行きたいと思うほどじゃないなあ」
「中途半端はなしにして、二択にしましょう。どちらかといえば食べたい、または、死んでも食べたくない見たくないそんなもの食べるくらいなら僕はセメントにしょうゆかけて食べるよ! ……さあ、どっち?」
「どんだけ極端な選択肢なんだよ!? そりゃあ抹茶選ぶよ!」
 食べ物ですらないものを選択肢にするな。
「百瀬の気持ち、よくわかったわ……さあ、今の答えをちゃんと言葉にするの。りぴーとあふたーみぃ。『僕は抹茶ムースが食べたいです』」
「言うかっ! 魂胆わかりやすすぎだ!」
「むう。仕方ないわね。では中間取って、私の分だけ百瀬に払ってもらって、百瀬は何も食べないで座ってるということで」
「何と何の中間ー!? なお悪いっていうかかなり最悪だよっ」
「え、立ってるほうがよかった?」
「違うわーーーっ!!」
 ……はあ、はあ。
 しまった。ついうっかり完全に相手をしてしまった。
 こういうペースに巻き込まれないようにできる限り無視するようにしようと何度も心に誓ってきたのに、どうしても治らない。ぐう。
「……交渉ごとってのは、双方にメリットがないと成立しないんだ。わかる?」
 ……お互いの力関係が対等の場合は。
 心の中だけで付け足しておく。
 千種は、この決定的な指摘に、迷わず答えてきた。
「百瀬には、可愛い女の子と一緒に遊ぶ放課後を体験できるという特典つき」
 こいつはまったく。よくもまあ堂々と。
「可愛い女の子? 誰のことだ?」
「私」
 くそう。
 嫌味もまったく通じやしない。
 ふむ、と千種は思案顔を作ってみせたりする。
「百瀬は、私は可愛くないと思う……?」
「……」
 え?
 ……えーと。あー。うん。なんだ。
 急にそんなか弱い女の子を装った声で言われても、騙されないぞ。
 千種が可愛いかどうかだって? そんなの……
「……そ……そういう問題じゃないんだって。僕が嬉しいかどうかの問題だ」
「いいえ重大な問題だわ。私がとても可愛いと思えない、一緒に歩いていて恥ずかしいなんてことだったら私は空気読んで百瀬の18.44メートル後方を歩くことにするわ……」
「だから選択肢が極端なんだって!? 別にそこまでは言ってないよっ」
「……じゃあ、可愛いと思う?」
「思うよ! 千種は間違いなく可愛いよ! これでいいか!?」
 ……ぴた。
 あ、あれ?
 なんか周囲の空気が凍りついたような気が。そういえばここ普通にまだ廊下だったような。放課後だから人がいくらでもいる場所だったような気が。
 ちら。周囲を見渡すと、慌てて視線を逸らす人々の群れ、多数。露骨にじろじろと眺めてくる主に女子生徒、少数。そして手を半分上げたような姿勢で固まっている、五十嵐浩一。
「うぁ」
 今。なんだ。
 大声でとんでもないことを叫んでしまったような気がする。
 固まっている五十嵐が、表情も固まったまま、しばらく口をパクパクさせてから、声をかけてきた。
「よ……よう。まあ、なんだ……さっそく仲良くやってくれているようで、いいな。うん」
「まーまままー待て五十嵐。大いなる誤解をされている予感がするんだ」
「誤解のしようがないものすごくストレートな言葉が聞こえたような気がするが……ルミ。ちゃんと、責任は持つんだぞ」
「何のだー!? って、ちょ、千種、なんかフォローしてくれよ!」
「もう……百瀬ったら……そういうことは二人きりのときに言ってくれればいいのに……恥ずかしい……」
「待てーーーーーっ!?」
 わざとらしく目を伏せて小声でそんなことをいう千種に、完全に追い込まれる僕。
 何の罠だ! 僕が何をした!
 ぽん、と肩に手を置かれる。置いたのは五十嵐。
 僕の耳元に顔が寄せられる。近い。
 囁く声。
「緊張すると思うが、がんばれよ。タイミングが重要だ」
「何のことだよっ」
「ブレスケアは忘れるな」
「いいからもう帰れ! 実家に帰れ!」
 手を振り払って、しっしと追いやる。
 ああくそう。寒いはずなのにもんすごく熱くなってきた。うう。まだなんか注目浴びてる感が。何もかも振り払って走り去りたい。
 ひらひら〜と手を振る五十嵐を無視して、早足で歩き出す。とにかくこの場をまずは離れなければ。いたたまれない。あまりにも。
 半歩遅れで千種がついてくる。早足だが、割と余裕がありそうだ。
 結局このペースのまま玄関口までたどり着く。ここで一時的に千種と離れる――といっても、一つとなりの列の靴箱というだけだ。スリッパから靴に履き替えると、またすぐに合流。
 ……ふう。ようやく落ち着いた。いや、心の中は落ち着いてないけど、とりあえず周囲の空気が。
「千種は間違いなく可愛いよ、か……ふふ」
「うだあああああああっ! 蒸し返すの禁止っ!」
 楽しげにぽそ、と呟いた千種の言葉にまた、ぼん、と顔が高潮する。
 誰も周囲にいなくなって変な緊張から解き放たれたぶん、なおさら反応が正直になってしまう。うう。
「照れなくていいじゃない。普通のことを言っただけなんだから」
「千種のその自信過剰はどこに根拠があるんだろうね!?」
「よし、素敵な言葉も聞けたし、今日は機嫌がいいから私は私のぶんのケーキを奢ってあげるわ。気前よくいくわよ」
「だからそれが普通だっ!! 奢るとは言わないよっ!」
「ところであんた未だに『お姉ちゃん』って呼んでるのね。可愛いじゃない」
「いまさらそこにツッコむのー!? やめてー!?」
 なんという畳み掛け。
 もう僕はめろめろです。悪い意味で。


 うー、うーん。
 その、なんだ。女の子と一緒に地下鉄に乗るというのはこういうことなんだなと実感せざるをえない。これでもまだ今日が休みの人と学生くらいしかいないから、帰宅ラッシュの時間よりは混雑していない時間帯なんだけど。とはいえ、学生は多いわけで。
 いわゆる満員電車になるともっと大変なことになりそうだ……
 というわけで、ぼんやりと中吊り広告を眺める千種と、腕が少し触れるくらいの距離で立つ。……千種は、気にしないんだろうか。僕と同じように、本当は気になっているけど気にしないふりをしているだけなんだろうか。
 まあ、ほんのわずかの間の我慢だ。混むのは東山線だけで、乗り換えればあとは大したことはない。
「多重債務相談受付をアピールする司法書士事務所の広告が最近増えたわね」
 千種は何見てるんだ……
 いや、混雑した車内だと近くの広告くらいしか見るものがないというのも確かなんだけど。この状況で単語帳など開いている学生の姿も目立つが、よくやるなあと感心する。
「あ、そうだ、次降りるわよ」
「わかってるよ。毎日乗り換えてるんだから」
「じゃなくて、次で降りるの。ケーキ屋さん、そこだから」
「なるほど」
 いつも乗り換えにしか使わない駅だから、ほとんど実際に降りたことはない。駅名としてはお馴染みでも、実際どんなところなのかよくわかっていないという場所のひとつだ。
 ドアが開いたら、出る。ここまでは同じ。
 階段を上って、改札口を出る。
 さらに階段を上って地上に出れば、そこは未知の世界。いや、未知というわけではない。見慣れない世界。
 道を知らない僕は千種の道案内に任せるだけになる。
 それにしても……本当に、千種が言ったからというわけではないが、女の子と一緒に街を歩くなんていうのは……ちょっと、ドキドキする。いくら千種だからとはいえ、やっぱり女の子であることには違いない。たぶん。
 こういう状況で歩いていると、普段は目にしてもほとんど気にしない、街を歩くカップルのことが妙に気になったりする。そう……陳腐な発想だけど、僕たちもこうしてると外からは普通にカップルに見えたりするのかな、なんて。……い、いやいや落ち着け自分。千種と僕だぞ。外から見てもやはり不釣合いさのほうが強調されるのではなかろうか。正直な話、千種は街中でもそれなりに目を引くだけの外見と雰囲気を持っている。中身のことなど誰も知る由もないわけで。対して僕は、まあ、地味だ。ほら、見ろ、周囲の恋人たちのバランスを。男女が横に並ぶときはやっぱりこう釣り合いが取れているからこそ見た目に美しいわけで、いやまて、別に僕らはカップルなわけじゃないんだから何も気にしなくていいのか、親子みたいなもんだと思っておけばいいのか、考えすぎなのか。
「向こうに看板もう見えてるけど、あそこね」
「え? あ、うん。近いね」
「うん。で、あんたは他人をじろじろ見すぎ」
「うぇ!?」
 そ……そんなに見てただろうか。うぐあ。
 見てたかもしれない。なんてことだ。
「だいたい、何考えていたかわかるわよ」
「嘘だっ!」
「……手くらいは、繋いでみる?」
「えっ……ま、待った、絶対、そんなこと考えてないからなっ!? 勘違いだからな!」
「へえ? でも、今日は機嫌がいいから、サービスしてあげてもいい気分なのよ。抹茶ムース一個で手を打つわ」
「全然サービスじゃないよ!?」
 なんなんだ。千種、言葉だけじゃなくて、本当に機嫌良さそうだ。別にニコニコしているというわけではなく、割とやっぱり無表情に近いいつもの千種顔なのだが、声はいつもより明らかに弾んでいる。何より、その言動の中身がいつも以上に……その、……悪くない。
 癪だが、千種がさっきの言葉と同時に少し手を伸ばしてきたとき、本気でドキっとした。なんであんな可愛い声で言うんだ。うう。なんか、もう、今日は遊ばれすぎだ。どうしてくれよう。
 とか言っている間に、店に到着。
 うはあ。いかにも。いかにも男の入店を拒否しているかのようなこのオーラ。千種は何のためらいもなく入っていく。もちろん、遅れればますます入れなくなるので、勢いでついていく。
「イートインは2階だから」
「はあ」
 よくわからないが、黙ってあとをついて階段を上る。
 窓に近い席を取って、座る。
 ……うう。本当に女の子ばかりだ。ものすごく、場違いだ。出て行けと無言のプレッシャーを感じるような気がする。
「考えすぎ」
「……」
 心の中の囁きに、何故か的確にダメ出しをされた……
 メニューを渡しに来たウエイトレスに、千種はすぐに告げる。
「抹茶のムース、二つ」
「抹茶のムースがお二つで。お飲み物はいかがなさいますか?」
「水」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 ……わずか10秒足らず。なんて即決。
 せめて僕にメニューを見せて欲しかった……
「ていうか、水かよ。そこはケチるのか……」
「高校生の身分で、何百円もする紅茶を愉しむなんて贅沢は許されないのよ」
「いや、とてもよくわかる意見とは思うけど。じゃあ500円するケーキはいいのかと」
「今ここでしか手に入らない幸せなのよ……」
「そーですか」
 ふ、と千種は表情を緩めた。
 僕の目を、じっと見つめてくる。
 ……う。なんだろう。苦手だ……
「それに、こういう落ち着いて向き合って話ができる時間と空間に払うお金でもあるのよ。そう思うと、悪くないんじゃない?」
「……千種らしくない言葉だ」
「なんでよ」
「そんなことにお金を使うなんてもったいないって言いそうだったけど」
「勘違いしないでよ」
 千種は少しむっとした表情になった。
 私、傷ついたのよ、と言わんばかりに胸元で手をきゅっと握り締めたりする。
「私は百瀬のお金を使うのが好きなだけで、自分のお金を使うことが嫌いなわけじゃないわ」
 ……ほう。
 そうだったのか。確かに僕は勘違いしていたようだ。そうとも知らずに、千種のことを、ただ金にこだわる守銭奴にしてケチの極みなんだと思っていた。何も知らずに相手のことを思い込んではいけないということだ。千種はちゃんと必要なときには自分のお金だって使うんだ。ただ、それ以上に僕の財布の優先順位が高いというだけで……ごめん千種、僕はどうやら考えを改め……
「改めるかー!! 割とよりいっそう悪いわっ!!」
 ばん、とテーブルを叩きそうになって、さすがにそれはまずいと気付いて抑える。
 しかし、すでに手遅れだった。ああ……また……視線が……ごめんなさい……
 場所が場所だけに男の声というだけで目立つのに。またやってしまいました。あああ。本日3回目。
「脳内ノリツッコミされると、私、ついていけないのよね……」
 こらおまえが呆れたように言うな。どっちかっていうと犯人は千種だ。
「百瀬が目立ちたがりなのはもうよくわかったけど、ここでは静かに空気を読んでほしいわ」
「だっ……誰が目立ちたがりか……」
 また叫びそうになって、しっかりと空気を読んだ。
 レベルアップですぜ。僕も成長したもんだ。
 ……ふう。とりあえず何かしら溜まったものをゆっくりと吐き出す。
「実際、いまさらそんなに改めて話すこともないだろ」
「そうかしら? 私は百瀬のこと、ツッコミ好きの妄想魔ということくらいしか知らないし、百瀬も私のこと、今話題の美少女ということくらいしか知らないでしょ」
「よし……落ち着け自分……これは千種の罠だ……また反射的にツッコんだら僕の負けだ……」
「この機会に、学生らしい話でもしてみてもいいんじゃないかしら。どの教科も中途半端な成績の百瀬は文理選択どうするのかしら、とか」
「……直球で痛いところを突いてきおった……」
 うう。なんでこんなお洒落なお店でいきなり学業のお話ですか。
 確かにそろそろ決めていかないといけない時期ではあるんだけど……そして悩んでいる最大のポイントでもあるんだけど。痛い痛い。
「千種はどうするのさ」
 とりあえずこういうときは、返すに限る。一時的な逃げだが、相手の出方を見ることができると、なんとなく安心できるというか。
「私が理系なわけがないでしょ。悩む必要もないわ」
「……そうか。もしかして千種、なんかちゃんと将来の夢とか描けてるのか?」
「遊んでるだけで毎月余裕で暮らせるだけの収入が自動的に入ってくる暮らしが夢ね」
「……えーと、まあ、夢だけど、もうちょっと現実的な方向の夢のほうを」
 ものすごく千種らしい回答になぜか安心感を覚えた自分。
 どういうわけか、千種ならその夢を実現できてしまいそうな気がする……
「現実的ねえ。強いて言うなら、権力のある仕事がいいかしら」
 権力ときたか。
 ……なるほど、理系なわけがない、か。ものすごく納得した。
「ま、この程度の認識ね、実際。大学入ってから考えるつもり」
「やっぱり……そうだよなあ」
「で、百瀬は?」
「うー。どうしようかな……成績で考えるとほんとどっちでもいいようなどっちでも微妙なような。どれが一番いいかっていうと英語なんだけど」
「お待たせいたしました。抹茶のムースでございます」
「あ、きた」
 ……完璧に、遮られた。
 いや。話したい内容だったわけじゃないから、いいんだけど。千種は嬉々としてすぐにフォークを手に持って、一口目をどこにしようか狙いを定めている。
 出てきたケーキは、思っていたほど小さいわけではなかった。が、やっぱり、これで500円と言われると首をひねってしまう。ううむ。
 僕もフォークを手に取るが、まずは千種が一口食べるのを待ってみる。特に深い意味はなく、なんとなく。
 先手、千種。
「ん……♪」
 大変、ご満悦の様子。
 なんて幸せそうな顔をするんだろう。見た感じ、高校の合格発表のときよりもずっと幸福感が漂うほどの笑顔だ。……そんなに好きなのか、こういうの。今日も相当に食い下がってきたからなあ。大きい千種がこんな可愛らしいケーキが好きだというのは、しかし、意外にそれほどの違和感はない。個人的には、牛丼大盛りを食べててもそれはそれで違和感がないんだけど。
「ほら、百瀬も見とれてないで、食べなさい」
「みっ……!? 見とれてなんか、ないからな……っ」
 慌ててフォークを入れる。トップの薄いチョコレート(もちろん、抹茶チョコだ)の層を破ると、想像もしていなかった柔らかい手ごたえ。このムースの層のさらに下にスポンジ層。ここまでとりあえずまとめて削って、口に運ぶ。
「……」
「どう? 美味しいでしょ? 感動したでしょ?」
「ん……感動とまでは言わないけど、うん……いいね。新鮮だ」
 なるほど。詳しいことがわかるわけではないが、確かに安売りのケーキとは風味と食感がまるで違う。値段が高いのはそれなりの理由はあるということか。

 その後はお互い割と言葉少なになって、のんびりと抹茶の風味を味わうことになった。
 食べ終わってから、また適当な会話とボケツッコミを繰り返して、店を出た。
 千種は素直に、自分のぶんの金額は払った。


 再び地下鉄に乗って、乗換えを経て、家の最寄り駅までつく。
 最寄り駅まで、僕も千種も同じだった。電車を降りてからも、またとりとめもない話を続けた。あまり、黙るということはない。千種はずっと上機嫌だった。
 駅から離れるごとに人は少なくなっていく。ちょうど日が沈み始める頃になる。
 そして、分岐点。まっすぐ行けば僕の家、左に行けば千種の家の方向。
「じゃ、今日は……」
「うちまで送ってくれないの?」
「え?」
 自然な流れだと言わんばかりの千種の言葉に、戸惑う。
 冗談で言っているという語調ではないだけに。
「いや、流れでここまで一緒にきたけど……そもそも目的を考えれば学校から離れて地下鉄に乗った時点でもう一緒にいる必要はなかったくらいじゃ」
「嘘ね。それは建前の言葉。百瀬はそうは思っていないでしょ」
 謎の断言。
 また、僕の目を覗き込むように言ってくる。
 なんでそんなこと言えるんだ、と反論してもよかった。よかったけど、僕は言葉を飲み込むほうを選択した。
 ふ、と千種は笑って、一歩前に出て、僕と正面から向き合う形になった。
「ありがとう。やっぱり、百瀬でよかった」
「え、え……?」
「私たちね、学校から出て、地下鉄乗って、ケーキも食べて、一緒に歩いて……だいたい、1時間半くらい。いっぱい話したわね」
「うん……」
 何が言いたいんだろう。
 よくわからないんだけど、先を促そうというつもりはない。なんとなく……言葉が出ない。
「そんなに時間があったのに、ねえ、どうして今日のこと……私とあいつらが言い争っていたことについて、一回も触れなかったの? 百瀬は、あの事件があったからこそ、私に付き合う羽目になったんじゃない。彼女らは誰なのかとか、どういう関係なのかとか、あんな言われて引く気はないのはどうしてかとか、そもそもどうしてたった3ヶ月ほどでバスケ部やめたのかとか……聞きたいことはいくらでもあるでしょうし、普通は聞くわよ。問題を解決するためには、必要なことだしね」
「……うん」
「どうして、聞かなかったの?」
「んー……そんなに意識して避けてたわけじゃないけど。ただ、触れられたくなさそうだなあって思ったから」
 にこ、と。改めて千種は笑った。
「そう。それで十分なのよ。私は今日はただ嫌なことがあったかわりに楽しいことで埋め合わせて、いい一日で終わりたかっただけ。百瀬は完璧に私を満たしてくれたわ。きっと、百瀬本人はほとんど意識しないまま。……だから、やっぱり、百瀬でよかった」
 千種は、同じ言葉をもう一度繰り返した。
 ……百瀬でよかった、か。
 ……
 ごめんすごく照れる恥ずかしい……
「別に……千種が僕に守ってくれって言うなんておかしいと最初から思ってたし……」
 どうしてか、素直にお礼なんて言われると、言い訳みたいな言葉しか出てこない。そういえばまた「別に」って言ってしまった、きっと千種も気づいただろう。
 でも本当に、ありがとうなんて言われて、僕でよかったなんて言われて、他にどんな言葉を返せばいいか、本当に本当に僕にはわからないのだ。
「ああ、何? ありがとうなんて言葉じゃ足りないって感じかしら。そうね、私は百瀬を利用していたんだからね」
「え、いや、別にそんなことは」
「そう? 百瀬が望むなら……ほら、雰囲気がいいうちに抱きついてきてくれてもいいのよ。頭撫でてあげるから……昔みたいに」
「ぐ、うぁっ……くそう、やっぱり覚えてたのかっ……もういいかげん忘れて……ください。ううう」
「擦り傷程度なのに大げさに痛がってまで甘えてきてたものねえ」
「うあああああああああああやめてえええええええええっ! 過去を持ち出すのは犯罪だっ! 小学校時代なんてもう別人みたいなもんだろ! お礼を言ってくれるくらいならそのことを忘れてくれっ!」
 ひん。
 顔が蒸発しそうです。先生。
「やーだ。絶対忘れない。ことあるごとに持ち出して牽制に使わせてもらうわ」
「鬼畜だー!?」
 くすくす。
 千種は満面の笑みを浮かべて、すっと手を伸ばした。
「へぁ?」
 反射的にびくっと震えて一歩下がるが、千種の手は追いかけてきた。
 その手は頭の上に乗って、二度、三度、横に柔らかく往復した。
「あ、あう……」
 もはや大人しい小動物に成り下がるしかない自分。う、うう。恥ずかしいのに、恥ずかしいのに、なんだろう。気持ちいい……
 千種の手がすっと離れた。撫でられたのはほんのわずかの間だった。
「サービス終了」
 もう、言葉が出ない。
 顔も上げられない。どうしてか、千種の見慣れた顔が、まったく違うように見える……
 落ち着くまで少し時間がかかった。僕が無言で俯いている間、何故か千種も、何も喋らなかった。

「さ」
 夕日が沈んで暗くなって、僕もやっとそれなりの落ち着きを取り戻したところで、千種が言った。
「ありがとうね。付き合ってくれて。無理させた?」
「無理なんて……してないよ。まあ、貴重な経験だったし」
「よかった。球技大会は明後日まであるからね。もちろん、最後まで百瀬に守ってもらわないといけないから」
「え……うん。あ、お金はあんまりないから、そのへんはお手柔らかにお願いしたいけど」
「それは保障できないわ」
「ええっ」
「よし、言いたいことも言えたし、十分ね。ありがと。家まで送っていけなんて言わないわ。また明日、気分がよかったらバスケの話でもしましょ」
「うん。気をつけて」
 ばいばい、と千種が手を振って、歩き出した。
 僕もその後姿をしばらく見送って……
「あ、そうだ」
 くるり。千種が振り向いた。
「今日のブログに、なぜか百瀬だけ実名出していい?」
「ダメだよ!? ネットの怖さを甘く見るなよっ! ていうかなぜかって言ってる時点で悪意ありすぎだよ!?」
 ぐ。
 全力でツッコんだ僕に、何故か千種はびしっと親指を立てて返してきた。
 そしてくるりと身を翻して、今度こそ去っていく……
「なんだったんだ……」
 もしかして。
 いや、まさかとは思うが。
「僕たちの会話は、僕がツッコミ入れないと終わらないのか……」


 眠れぬ夜を過ごして、翌日。
 いつもどおりに朝ごはんを食べて、いつもどおりの時間に出る。
 事件は、そこで起きた。
「おはよ。だいたい予想通りの時間ね」
 ドアを開けると、千種が立っていた。
 ……
「うわああああああああああああああっ!?」
 思わず絶叫。ついでにしりもち。
 なんて不意打ち。まったく予想もしなかった攻撃。
「どうした、事件か少年……お」
「わ、な、なんでもないよっ! 行ってきます!」
「あれ、もしかして、セナちゃん……だよね? おひさしー」
「ご無沙汰しております、お姉さん」
 ぐああ。
 最悪だ。なんというか、最悪だ。
「何か……あー。はっはん。なんだ少年、そういうことか。ついにセナちゃんをモノにしたなこいつ!?」
「さ、さ、千種、とりあえず、行こう。うん。遅刻するからな」
「ごまかすなって。そうかそうか。昨日は帰ってきてからずいぶん様子がおかしいと思ったら……ふっふーん。やるじゃん! ね、セナちゃん、そういうこと?」
「ご想像にお任せします」
「任せるなーっ!! と、とにかく、今日はちょっと事情があるんだ、それだけだ! ああとにかく時間がないから行こうっ」
「行ってらっしゃーい。……帰ってきたら覚悟しておけよ?」
 うあああああん。
 なんて波乱の朝。

「……どういうつもりだよ」
「ちゃんと約束どおり守ってもらわないといけないじゃない。本当なら迎えに来てもらうところだけど、そこはサービスで私から行ってあげたのよ。偉いでしょ」
「うう……おかげで酷い目に……」
「とまあ、こんなハプニングも起きたりしないかなという期待もあったんだけど、期待通りで嬉しいわ。さすが百瀬家は一味違うわね」
「鬼だ! 悪魔だ! 千種だ!」
「ちなみに途中で何人か見覚えのある近所の人が通りかかったから挨拶しておいたわ」
「ひ……」

 行きの地下鉄が、いつも以上に疲れる。
 ただでさえうまく眠れなかった上に……夢まで見てしまったというのに……
 ぐったり。
 電車の中も、駅のホームも、会話をするにはあまり向いていない場所だ。特に朝は。割と今朝は静かに過ぎていく。隣に千種の存在を意識しながら。

 学校まであと徒歩だけとなったところで、千種が言い出した。
「もちろん、今日も試合出るわよ」
「わかってるよ。また昨日の三人組は来るのかな……」
「私が出てるかどうか確認するために来るでしょ。もっと建設的な時間の使い方できないのかしらね、あいつら」
「なんか、本当に仲悪そうだね……千種と三人組」
「うん。嫌い。言っておくけど、あいつらに実力で負けたと思ったことなんて一回もないわ」
 さらりと言った。
 うーん。千種がここまで誰かを嫌うというのも珍しい。どちらかといえば何事もスルーしてマイペースで生きているタイプっぽいだけに。間違いなく、千種がバスケ部をやめた理由にも絡んでいるだろう、というかその中心にいる相手だろうと想像がつく。
 言葉の中身の割に語調に棘がなかったのは、やはり昨日本人が言ったとおり、楽しい一日で昨日を終えることができたからなのだろうか。
「というわけで、今日も応援とジュースよろしくね」
「わかってるよ」
「よ、おはよう、ルミ、あーんど千種さん!」
 校門をくぐったところで、後ろから声がかかった。
 声を分析するまでもない。僕をルミなんて呼ぶのは一人しかいない。
「おはよう」
「おはよう、五十嵐君。昨日はお世話になったわね」
「いえいえ。今日も二人仲良くしているようで何よりだ!」
 ぽん。五十嵐は背中から僕の肩を叩く。
「がんばれよ!」
「何がだよ……」
 うう。なんか昨日から、僕がみんなの玩具にされるように運命を操作されているような気がする……
「今日も活躍を期待してるぜ、千種さん」
「ええ。やってくるわ」
「ルミは……もう昨日で出番終わりだったか。卓球一回戦負けおめでとう」
「うっさい。僕は勝ったぞ」
 クラス対抗なので、自分だけが勝ってもどうしようもない。いや、別にそんなに勝ちあがろうと燃えていたわけでもないんだけど。
 ちなみに、三日間にわたる球技大会の開催中は、一切の授業が行われない。つまり、負けて自分の出番がなくなった人にとって、朝と夕方のホームルームがある以外は、完全に自由な時間となる。なんというか、一応全国でも上位レベルに位置する進学校の割にはずいぶんと思い切った大会だと思う。まあ、出番が終わると図書館でひたすら勉強している人もいるところが、やっぱりそれっぽいという気もするが、基本的にはこれが校内最大のイベントであり、ほとんどの学生たちは大いに盛り上がり、はしゃぎまくる。
 僕はといえば、暇をもてあますだけなのもつまらないので、千種や僕のクラスの応援が主になる。五十嵐は僕のクラスに含まれる。
 玄関についた。靴箱からスリッパを取り出して――
「百瀬」
 ――隣の列から、千種の呼ぶ声が聞こえた。
「ん、何?」
「あんた、足のサイズいくつ?」
「26.5だけど……」
「……ちょっと、大きいわね……運動するには辛いわ」
「……! もしかして、千種」
「靴、盗られたのか!?」
 続けて反応したのは隣の五十嵐。
 他の生徒も多い状況で、その発言は目立つ。はっと気付いて五十嵐はすぐに声を落とす。
「さあ。とにかく、ないみたい。いいわ、誰かから借りるから」
「……」
 五十嵐が厳しい目で靴箱を眺めていた。
 まあ、考えていることはここにいる三人とも同じだろう。
「でも証拠はまず見つからないからね、わかってると思うけど」
 一応釘を刺しておく。
「だろうけどな……そうか、迂闊だったな。そこまでやるか」

 結局教室の前まで三人で並んで歩く形になった。先に教室についた僕と五十嵐が、千種を見送る形になる。……そういえば千種の教室まで送らなければいけないんじゃなかっただろうか。まあいいや。


 しかして、三人組は今日も来ていた。僕と五十嵐の姿を見つけると、例のアーリマン(仮)が思い切り睨みつけてきた。
 千種は、試合にちゃんと現れた。靴もしっかり履いている。
 ちら、と横の三人組の様子を確認すると、悔しそうな顔をしていた。ううむ。どう見ても黒だ。
 千種の靴のサイズなんて確認したこともないけど、たぶん、普通の女子よりは大きいのだろう。探すのは苦労したのではなかろうか。
 試合が始まると、最初は走るときに見ていてやや違和感があったものの、途中からはいつもどおりの千種だった。これなら、安心してみていられる。
 少し経ったところで、三人組が立ち上がった。やはり、千種に集中する声援が不愉快だったのだろう。体育館を立ち去ろうとする。それを、五十嵐が呼び止めた。
「石黒さん」
 アーリマン(仮)が反応して止まった。
 ……石黒さん、なのか。やっと名前知った。どうして五十嵐が知ってたのかは不明だけど。
「なに。あんた、なんであたしの名前知ってるの?」
「まあ、ちょっとな。それよりさ、ちょっと冷静になって見てみろって。千種さん、あんなに楽しそうじゃないか。どこでもいいからバスケがやりたいからやってるだけなんだって、わかるだろ? 認めてやってもいいんじゃないか」
「あんたには関係ない」
「いや、石黒さんの気持ちもわかるんだ。同じバスケをやっている同士として、見ていてイライラすることもあるんだよな。さっきのパスだって、石黒さんならあと一歩早く出してただろ? 石黒さんのパス、誰でも取りやすいようにちゃんと計算されてるんだよな。あれは千種さんに真似しろってのは酷だなあ」
「……な……なんだ、あんた。知ったような口を……あたしのこと、知ってるのか?」
「女子バスケ部のホープの一人だからな。俺は早くから注目してたんだぜ? 見てる人は見てるってことだ」
 ……おいおい。
 そんな話、昨日は欠片も聞かなかったぞ。どうなってるんだ。
「……そ、そっか……いや、それならなんで、瀬名なんかに肩入れするのさ」
「昨日も言ったろ? 千種さんは千種さんで、好きなところで好きなようにやってるだけさ。俺は別に、千種さんの味方でも、石黒さんの味方でもない。……頑張ってる人の味方、かな。なんてな」
「……」
 少しずつ、アーリマン改め石黒さんの表情から棘が消えていく感じがある。
 それでもまだ、警戒心があるようだ。ふい、と目を逸らして、また歩き出す。
「石黒さん。ルミも……こいつも、まだ話したいことがあるみたいなんだ。あとで時間もらえないかな? 昼休み前……11時半ごろがいいかな。できれば、石黒さん一人で来て欲しいんだ。1−4の教室で待ってるぜ」
「……ふん」
 答えず、そのまま三人とも去っていった。
 その姿が完全に見えなくなってから、僕は五十嵐に詰め寄る。
「なんだよ。知ってたのか、三人……というか、特にあの彼女のこと」
「ふ」
 五十嵐は、薄く笑った。
「とりあえず対策立てないと話にならないだろ。……昨日、急いで調べた。とりあえずパスだけはかなり上手いらしいと確かな情報を得たから使ってみた。どうだ? 上手いだろ?」
「……ハッタリであんなに褒めてたのかよ……ある意味凄いな……」
 なんて、最終的には色んな方面を敵に回しそうなテクニックなんだ。
 とりあえず、本音が表情に出るらしい僕にはとても無理だ。
「で、僕が何か話があるって勝手に決めてたけど。それも何か作戦でもあるのか?」
「いや、ない。ルミは本音で普通に千種さんを庇う役割してくれればいいさ。とにかく、このまま放っておくとさらに面倒なことになりそうだったから、早めに手を打っておこうと思っただけだ」
「でも、来るかな?」
「大丈夫だろ。あれは心の中ではかなり舞い上がっていた感じだ。一人になればもっと素直になるさ。ルミの言葉だって今度はちゃんと聞いてくれるだろう」
「……五十嵐……なんか、凄いな……」
 だからなんでお前は彼女作らないんだ。それで。
「まあ、とにかく、ありがとう。千種のために、わざわざ」
「礼を言うのは早いだろ。一番大切なのは、ルミがどれだけ頑張れるかにかかってるさ」
「そっか」
 ハーフタイムの笛が鳴った。
 僕は今日も一度体育館の外に出て、オレンジジュースを買いにいく。
 試合終了時には、やりすぎというくらいの冷たさがちょうど適度に緩和されるように。
 そして今日の第一試合も見事に勝った千種に、ジュースを渡した。
 ……今日の注目は、昨日ほどは恥ずかしく感じなかった。昨日の色んな体験で免疫がついたのだろうか。




 そして決着のときを迎える。
 僕と五十嵐しかいない、静かな教室。そこに彼女は、石黒さんは確かに一人でやってきた。
「きたよ」
「やあ、いらっしゃい。そういえば石黒さんの予定を確認しないまま呼んでしまったな。無理させてたら、ごめん」
「いいよ。今は別に、何もない」
「それはよかった。石黒さんは大会では何に出てるんだ?」
「ソフトボールと、バレーさ。バレーはもう負けたけど。……見てくれてるわけじゃ、ないんだ」
「ああ、ごめんな。うちのクラスがどれも好調でなあ。応援が忙しくて。そうそう、俺は1−4で男子バスケとサッカーに出てる。五十嵐浩一って名前を見つけたら注目してくれ」
「ふうん? 大会でバスケに出てるってことはバスケ部じゃあないんだね。どうりで見たことないと思った。……って、待った、五十嵐……君? ってもしかして、いっつも学年模試で名前貼り出されてたり、全国模試でも毎回名前載せてる……?」
「おお。俺って有名人。いやあ照れるなあ。ま、部活は天文部さ。運動はあんまり得意じゃないからな」
「そうなのか。あんたが……なんか、どうせいかにも勉強一筋のがり勉くんかと想像してたけど、全然違うな……」
「いやあ。よく言われる」
 ……
 まて。まてまて。
 なんだこれは。なんでこんなに和気藹々とした会話が普通に繰り広げられているんだ!?
 そして僕がここにいる意味はなんだ……完全に二人の世界じゃないか……
 ここまでが、石黒さんが席に座るまでの間の会話。もちろんこれで終わりなわけではない。
 というか、石黒さん、僕のほうは見もしないんですが……
 部屋に入ってきた時点で、今までの彼女の印象とは既に違っていた。彼女が来る前に、五十嵐が言っていた言葉を思い出す。ああいうタイプは、とにかく一人にしないと本音は聞けないんだ。って本に書いてあった。……と。
 その後もしばらく千種のことは全然関係ないような雑談が続く。
 なんで君たちこの状況で数学教師の話題で盛り上がりますか……
「んー、んんー。こんな無茶な証明、ありませんっ。こんなの数学じゃないですっ」
「うはは、上手い上手い」
 物真似してる場合じゃなくてっ!?
 僕がツッコみたいところを、空気読んでなんとか我慢していると、やっと石黒さんが僕のほうを見てくれた。
「ああ、そうだった。百瀬君が、何か話したいことがあるんだって?」
「え、あ、そうなんだ……ったっけ」
 なんだかすっかり石黒さんの口調も柔らかくなっていた。
 五十嵐浩一、恐るべし。
 で、僕は何を言えばいいんだ?
「おう、そうだ。石黒さんも知ってると思うけど、ルミは千種さんの大切な人なんだ」
「ちょっ」
「知ってるよ」
 知ってるって言われた!
 なんでだーーーー
「そりゃ、百瀬君の立場なら瀬名の味方になるだろね。でやっぱり、改めてあたしを説得しにきたってわけ?」
「ちょっと違うな。ルミは宣言しにきたんだ」
「へえ?」
「え?」
 僕と石黒さんの声が同時になった。
 いったい僕はこれから何を宣言するんだろう。ドキドキ。
 ってなんで僕が何も知らないままことが進むんだ! だから!
「昨日、言ってただろ。要するに千種さんが騒がれて……まあ、各方面からモテたりするのが気に入らないわけだ。端的に言えば」
「それは、バスケのレベルの問題であって」
 むっとした感じで反論する石黒さんを、まあまあと押し留める。
「そこでこのルミは言いたいわけだ」
 ちら。
 五十嵐の視線。
 石黒さんの視線。
 ……えーと?
 何を。
「つまり」
 結局、五十嵐が言葉を続ける。
「千種さんがどれだけモテようとも、千種さんに惚れる男がいたとしても、ルミがそれを絶対許さないのさ。こいつ、こう見えて独占欲は強いからな。そうだろ?」
「はぁ!?」
 な。なんだってー!?
 そ、そんなわけが……
 思い切り反論しようとすると、五十嵐は僕の顔をじっと見つめてきた。
 うあ。ああ。ここで空気読めときたか。そういうことか。
 くそう。最初からそういう作戦だったわけか。
「ルミの熱意をちゃんとわかってもらおうと思ってな。さ、言ってやってくれよ。ルミは千種さんが他の男に言い寄られても黙って見過ごすのか?」
 ぐ……
 くう。仕方ない。おそらくこれが、五十嵐の言う、最後の一押しなのだろう。
 覚悟を決めて、大きく息を吸う。
 そう。ハッタリは、決めるときは決めないといけないんだ。
「そうだよ! 千種は……その、僕のものだ! たとえ学校中の男が千種に近づいてきても絶対に誰にも渡さないからな! だ、だからっ、その……」
 あう。
 あうあう。
 何を言ってるんだ僕は。何を言ってるんだ僕は。
 もう思考停止しそうです。
「そういうことだ。こんなのじゃ、千種さんだってチヤホヤされようとも思うわけがないだろ? ……争いの種を、無駄に作るだけだからな」
「……はは……」
 石黒さんは……笑っていた。
 苦笑、と表現するより他ない、笑い方だ。
 なんにしても初めて見る笑顔だった。……意外に、悪くないかもしれない。
「わかった、わかったよ。好きにしろって。……ったく、恥ずかしい奴……」
 恥ずかしい奴だよ!! 僕だってこんな言葉演技でもなきゃ一生言うことないよっ!!
 ……ぐ。今は、我慢、我慢……
「ま、よくわかったよ。悪かったね。確かにあたしも冷静じゃなかったよ。……百瀬君、ま、がんばって。瀬名が相手じゃ一生苦労するだろうけど」
 いやほんとにそれは同感だ……
 がた、を席を立つ石黒さん。
「もちろん気付いてるんだろうけど。靴は、ちゃんと返しておくよ。適当に説明しといて」
 悪びれもせず言って、ひらひらと手を振った。
 うーん。ごめんなさいの言葉こそ出なかったが、昨日とは大違いの態度だ。……五十嵐は、何者なんだ。わずか数分の接触でここまで心を開かせることができるものなのか……
 恐るべし。
 石黒さんが教室を出た。戸が閉まる音、ぴしゃり。
「……ナイス、ルミ。今の言葉、忘れるなよ?」
「え、いや、今のは」
「というわけで、狭いところに閉じ込めさせてごめんな。出てきてくれ、千種さん」
「……ふ……ふぇ……?」
 ぎ。ぎぎぎ。
 ゆっくりと首を動かす。
 がたん、という音の聞こえてきた方向。五十嵐が向いている方向。先生の机の下から――千種は、現れた。
「……」
 千種は、こっちを見てはいなかった。視線を横にずらして……
 顔が、はっきりとわかるほど、赤い。千種は、耐え切れない、といった感じで、目を閉じた。
「……そんなのを聞かせるために、わざわざ呼んで隠れさせたわけ」
 小さな声で、千種は呟いた。
 五十嵐は、さて、なんのことだろう、と惚けて、僕のほうに視線を移した。
「俺は石黒さんを説得するところを確かに聞き届けてもらって安心してもらおうと思っただけだぜ」
「……馬鹿」
 え、ええ。えええと。
 混乱と動揺の余り、この数秒間完全に頭が真っ白になっていた。
 とりあえずわかったのは、千種もかなり異常な状態にあるということだった。それこそこんな千種、見たことがない。見てる僕のほうが、それでますます恥ずかしくなってしまうほどに。
「ちょ、ちょ、ちょっと待った! 待った! ち、千種? 今のはな? その、石黒さんを説得するための方便というか、そう言うように五十嵐に仕向けられたというか、と、とにかく全然、本当に言葉どおりの意味なわけじゃないからな!?」
「うるさいわね……わかってるわよ」
 うっすらと目を開けて……それでもまだ僕のほうは見ないまま、どこでもないところを見たまま。
 千種は、すぐに答えてきた。
 そして、さらに小さい声で、本当に、ぽつりと言った声が……聞こえてきた。
「そんなに必死に否定しなくてもいいじゃない……」
「え? う……ぁ……?」
「さあ、ルミの誓いの言葉は俺がしっかりと聞いたぜ。おっと、俺は次の試合の練習があるんだった。そろそろ行かないとな! じゃあな!」
「え、ええ?」
 だだっ。
 あっという間に、無責任な五十嵐は走り去っていってしまった。
 ……
 ……うあん。何これ。何これ。
「え、と……千種」
「三分待って。とりあえず瞑想しましょう」
「瞑想!? ……う……うん」
 二人、微妙な距離を保ったまま、本当に三分間、沈黙。
 目を閉じる。ぐるぐると色んな言葉がフラッシュバックしてくるしてくる。そんなに必死に否定しなくてもいいじゃない。必死に否定しなくてもいいじゃない。否定しなくてもいいじゃない……
 ぴったり三分。千種が口を開いた。
「……五十嵐浩一。思っていた以上に、本物の馬鹿ね。天才のほうかもしれないけど」
 あ。いつもの調子が戻ってる。
 僕のほうはといえば実は全然まだだったりするんだけど、とりあえず、体面は整えておく。
「そういや、割と友達っぽい感じだけど、前から知り合いだったりするの?」
「……もう、どれくらい前かしらね。五十嵐君に告白されたのよ、私」
「……え……ええええええええええええええええええっ!?」
 今年一番の衝撃だ。
 まさか!? そんなことが!? だって、五十嵐は僕と千種のことを、あんなに……その。アレだ。
 あ。でも、そうか。事実、現在五十嵐と千種が付き合っているわけじゃない以上、当然……五十嵐は、振られたわけ、だ。
「あー……そう。そうなんだ。五十嵐と千種ならよく釣り合ってると思うんだけどな。うん。いい奴だしな」
「百瀬ならわかってるでしょ。私には、いい人じゃダメなのよ。……ま、わからなくても別にいいけど」
「どっちなんだ」
「いいじゃない。どちらにせよ、昔話よ。とにかく……ありがとうね。これで、今回は邪魔されることはなさそうね」
「あ……うん。お礼は五十嵐に言ったほうがいいと思う。僕は、利用されただけだ」
「うるさい、いちいち否定するな。……私は、百瀬にありがとうって言ってるの。受け取って」
「……ごめん。ありがとう」
「なんでありがとう返しなのよ……」
 千種は半目で、じと、と僕を見てきた。
 ああ。これだ。この表情のほうが千種らしい。
 何故か安心感が。
 ふう、と千種はひとつため息をついた。
「それにしても百瀬も大変ね」
「え? 何が?」
「これから私に近づく男がいたら、必死に牽制しないといけないんでしょ。いったいどれだけの子を敵に回すのかしら」
「え!? だ、だからそれは方便で……」
「フリでもそうしないと、あいつらに嘘だってバレちゃうじゃない。……大変ね、お疲れ様」
「ちょ、ま」
「こうなるとますます活躍して派手に目立ちたくなってきたわ。そう、これがやりがいということなのね。今私は強大なモチベーションを手に入れたわ」
「やっぱりいじめっ子の素質ありすぎだろ千種っ!?」
「だって、百瀬の椎間板に、僕をもっといじってくださいって書いてあるから……」
「見えるかっ!! 顔だ! 普通は顔だ! って顔にも書いてねええええええっ!!」




 ……というわけで。
 問題はあっさり解決して、守る義務なんてものはなくなったはずなのに、何故か結果的に球技大会の間どころか、当分の間千種と下校する日々が続くことになるのだった。まあ、それはそれだけの話。
「ただいま……」
「やあ少年。さあ、さっそく楽しいお話をしようか」
 あああああああああああ。
 そして弄られ祭りは続いていく……




FIN.







【あとがき】

 後編長すぎました!
 なんか楽しすぎて勢いのまま書いていたら長くなりすぎました。あほです。
 ほとんど頭使わず勢いとノリで終始ニヤニヤしながら書くとこういう文章が出来上がりますという例でした。

 オリジナルのSSですがここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!