「よ、天野」
その人は、道を歩いている私の後ろから声をかけてきた。
ちょっと懐かしいと感じるその声、姿。もともと知り合ってからまだそんなに長いわけでもなく、会った回数自体も少ないのだが、それでも彼の事は記憶に十分に残っている。
彼は私にとってただの学校の先輩というわけではないのだから―――決して甘い意味ではなく。
「こんにちは。奇遇ですね」
「ああ…まあ、奇遇というか、天野の姿が見えたからちょっと追いかけてきたんだけどな」
彼は笑う。何が楽しいのか良く分からない。ただ、初めて会った時からこうだった気がする。
初めて会った時―――その時の事もはっきりと覚えている。彼は、私が初めて見つけた、同じ奇跡を経験した同士だった―――正確には、その時は彼はまだ奇跡の真っ只中にいた。
辛い記憶。彼の存在は私に、薄れ掛けていた記憶を強烈な現実として呼び起こさせた。
優しい記憶。彼女の存在は私に、もう一度機会をくれた。
『天野、初めて会った時に比べると表情がなんか明るくなったよな』
彼は言った。そうさせたのが誰のお陰であるかなんて気付きもしないで。そして―――昔の私を知らないから。
あなたは私と違って強かった。例えそれが表面的な強さに過ぎなくても、笑いつづける事は私には出来なかった事だから。…だから、もう一回、頑張ってみようと思った。それだけ。
「な、なんだ。そんなに俺の顔をじっと見つめて。いや俺のカッコよさに思わず見惚れてしまう気持ちは分からないでもないが」
…いけない。彼の顔を見ていたらいきなり回想シーンに耽ってしまっていた。
彼もからかうような口調ながら、少し頬を赤く染めているのが分かる。…そんなに私はじっと見つめていたのだろうか?
…恥ずかしい。
「…え………あ…その」
戸惑う。こういう時は何と言ってごまかすのが常套手段だったか―――
「相沢さんの顔に…こしあんが」
「何ぃ!?」
慌てて口元をごしごしと手で拭う彼。なんだかちょっと可愛らしい仕草に見えた。
「…付いてません」
嘘はいけないので、とりあえず。
って、あれ、相沢さん、どうしてそんな近づいてくる―――
ぱこん。
「…暴力反対です」
「つまらんボケも反対だ」
ぐーで殴られた。ぐーで。
この男は相手が私みたいなか弱い女の子でも平気で殴るのだ。全く、南から来た人の思考回路は理解できない。まだこっちに来てから半年くらいだって話だから、きっと向こうの世界の考え方から未だに離れられないでいるのだろう。
おかげで南の世界は暴力溢れる怖い世界だという事がとても勉強になった。
「用事が無いなら、行かせてもらいますが」
あ…いけない。ちょっとキツい口調になってしまっただろうか。
別に怒ってはいないのですよ、と視線で訴えかけておく。こう見えて繊細というか傷つきやすい人なので言葉には気をつけないといけないのに。
「あー、ちょっと待ってくれ。こっちもあんまり時間ないから手短に言うが…」
彼はそんな私の様子は特に気にしていないようだった。
安心する。
時間もかからないらしいので、話は聞いてみよう。
「…明日の夏祭り、もし暇なら一緒に行かないか?」
………
…え?
また、何を言い出すんだろう。夏祭り?そういえばそんなものもあった気がする。
それで、私を誘う理由は何だろうか。知り合いを見つけたら手当たり次第誘って賑やかにやろうとでも思っているのだろうか…?
南の人の考える事は分かりにくい。
「…私が行っても、邪魔になるだけではありませんか?」
相沢さんの知り合いで、同時に私の知り合いという人はまるで心当たりがない。どう考えても肩身の狭い思いをする事になるだろう。
「いや………その、な。良ければ、俺と二人で行かないかって事なんだが…」
彼はちょっと視線を逸らしつつ照れたように言う。
それこそ………待って欲しい。
だって…それじゃ、これは。
「…二人、で?」
心の動揺をなんとか抑えてみる。気を緩めるとすぐにでも顔を真っ赤にしてしまいそうだ。そんな痴態を見せるわけにはいかない。
落ち着け、美汐………
すー、はー。
…ふう。
でも落ち着いて考えたところで。やっぱり、その。
このお誘いは…で、でーとのお誘いってコトなんだろうかと…
あ。ダメだ。どきどきしてる………
「あー…ほら、俺も誘う相手がいなくて寂しかった所に、ちょうど天野がいたから………」
一気に冷めた。
「それならまたちょうど偶然誰か見つけて誘ってあげてください。さようなら」
「わああっ!!嘘、ごめん、是非天野と一緒に行きないなと思っていたんだって!いやホントにっ!!」
…まったく、もう。
そんな泣きそうな顔までしなくても…
ちょっとでも舞い上がってしまった私の気持ちも考えて欲しい。
「な…ダメか?」
………ふう。
そんなに不安そうな表情をするくらいなら、最初からヘンな事言わないで欲しい。でも相沢祐一というのは確かにそういう男なのだった。それくらいは私もよく分かっている。
「私を都合よく見つけた売れ残りかのように言ったことに対する謝罪は―――」
「ごめんなさい。反省してます」
「―――明日、全部相沢さんのおごりという形で受け取らせて頂きます。構いませんね?」
「うぐ……それはキツ―――え?」
私なりの最大限の譲歩のつもり。
だから、聞き返さないで欲しい。結構恥ずかしいのだから。
「って、一緒に行ってくれるんだな!?」
…聞き返さないで欲しいんだってば。
こくり、と見えるか見えないか程度に小さく頷いておく。
「よし!じゃ明日、6時に…そうだな、ここで待ち合わせしよう。いいな?」
「わかりましたから、もう少し小声で話して下さい…」
今側を通っていった女性がちらっとこっちのほうを見たのが、すごく恥ずかしい。
「それじゃ!期待して待ってるからな!」
一方的に言うと、彼は急いだふうに去っていった。
…ホントに何か急いでいたのかもしれない。どうでもいい事ではあったが。
なんだかごちゃごちゃしてしまったが、結局私は明日、彼と二人で夏祭りに出かける事になったわけだ。あれだけ動揺させられたというのに、なんだかあっさり決めてしまった気がする。
もし。あり得ないと思うが、もし彼が私の性格を読みきってわざと”失言”をしたのだとしたら―――
「明日、6時、ここ」
考えて分かる事でもない。気にしない事にした。
「あ………」
空気が冷え切っている。そんな気がした。
ここ一帯だけ冷房の効きすぎなのだろうか…そんな訳はない。
急いで喫茶店の中に戻って、自分の席に向かった祐一を待ち受けていたのは、祐一のほうを全く向こうともしないで黙ってオレンジジュースを飲んでいる名雪の姿だった。
「えと…名雪、怒って………る?」
ごと。
名雪は水を祐一の席のほうに差し出す。
「おーい………」
「別に。いきなり待ってろとか言って店を飛び出たと思ったらわたしをここに一人置いたまま外で女の子とたーのしそうに長々と話してたからって何とも思わないよ」
「あ………あはは…」
深刻だ。
さすがにマズかっただろうか、と祐一は反省する。成果はあっただけに後悔はしないが。
正直、名雪なら大丈夫だろうとタカをくくっていたというのは否定できない。
「えーと。な。名雪」
「納得できる言い訳、してね」
たぶん。
間違って冷凍庫に30分くらい入れてから飲んだコーラはこれくらい冷たいのだろうと。
祐一は、場違いな事を考えていた。
「………早く来すぎた、かも」
待っている時間が一番楽しいものだなんて最初に言い出したのは誰なんだろう。大うそつきだ。
自分の格好が変でないかとか、知り合いに見つかったら何て言おうとか、そんな事ばかりが気になって仕方がない。これからの事を楽しみにしてドキドキなんてしている余裕は、全くない。
「やっぱり…普通の格好のほうが良かった…かな」
浴衣を着てきたのは、そういうものだろうという自分の考えと、私なりのちょっとした冒険心のつもりだった。彼の反応が気になる…わけではないけれど………気にならないと言ったら私はうそつきだ。
それにしても…母の反応には参った。
『ねえ、男の子?男の子?』
『美汐もとうとうそんな時期になったのねぇ…』
『ほら、ちゃんと髪も整えておかないと。男の子に笑われるよ?』
放っておいてほしい。
どうせ、気を使うような相手でもないんだから…
なんて言いながら、出かける前に鏡と10分間もにらめっこしていた自分が少し悔しかった。なんて時間の無駄遣い―――昨日までの自分がちゃんと生きていればそうやってその時の私を叱ってくれただろうに。
「お…天野、早いな。待たせたか?」
相沢さんは、昨日と同じように後ろから現れた。
「こんばんは。いえ、私も先程来たところですから」
「そうか。だよな…まだ時間まで15分もある。…なんだ、気が早いモン同士か、俺らは」
彼は嬉しそうに笑う。そして、さっと視線を上下に巡らせて私を眺めた。
次の言葉を待つ。この姿、彼は何と言うだろうか…?
「ふむ………天野だな」
「……はい?」
「いや、浴衣着てもやっぱり天野だな、と思った」
「何ですかそれは」
少なくとも、あまり嬉しい感想ではないことは分かった。どうせいつもみたいにおばさんくさいとかそんな事を言うのだろう。
…私なりに気をつけたつもりだったのに。
「俺も言っててよくわからん。ま、ただ、こういう和風なほうが天野は似合うな」
胸が小さいという意味ですか、と思わず言いかけてしまった。そんな事言ったら「なんだ天野、胸のこと気にしてるのか?」とか笑われるに決まっている。それはカンベンしてほしい。
和服は一般に胸が無いほうが似合うというのは事実だとは思う。絵的に想像しても明らかだ。だからと言って今の彼の言葉からすぐにそういう事を連想するのでは本当に普段から気にしているのかと思われる。
というわけで、黙っておく事にした。
「ああ、一応言っとくが別に胸が小さいからって意味じゃないぞ」
言うし。
足の小指あたりを思い切り踏みつけてやった。
「―――っ!!?」
声にならない叫びを発してうずくまってぴょんぴょんと飛び跳ねている。いい気味だ。
ごん、といい音が鳴った。飛び跳ねているうちに彼が電柱に頭をぶつけた音だ。痛そうだ。
しゃがんで頭を抱えて唸っている。
そんな相沢さんを見ながら、私は、不思議な事に―――笑っていた。何が楽しいんだろう。人を痛めつけて喜ぶような趣味は私にはなかったはずだ…たぶん。おそらくは。そう思いたい。
何が楽しいのか。
「行きましょう、相沢さん」
「…って、この状態の俺に言うべき言葉はせめて何か他にあるだろう………だっ」
彼は顔を上げて私に文句をいいかけて、たぶんまだかなり頭が痛むのだろう、語尾が悲鳴に変わる。
なんだか彼を見ているうちに、会う前の妙な緊張感はすっかり消えていた。相変わらず彼は彼で、相沢さんだった。
すっと手を差し出す。
「はい」
「………へ?はい、って…えーと、天野」
「なんでしょう」
「い…いや、そうだな。せっかくだから好意に甘えさせてもらおう」
彼は少し嬉しそうな顔でそう言うと、私の手に手を伸ばす―――
「っ!?」
私はばっと勢い良く手を引いた。彼が触れる直前に。
「お……」
行き場を無くした彼の手が空中に固まる。
急激な運動と激しい動揺に、私の心臓は文句を言って大きな音を立てている。
私は…どうして手を差し出していたのだろう。少し前の自分の行動を疑う。彼は別に転んでいて自分で立てないというわけではないのだ。ただしゃがんでいるだけ。
どうして手を差し出していたのだろう。
これでは…
これではまるで、手を繋いで歩こうと誘ったみたいではないか―――
自分の取った行動の意味に気付いて、かあっと顔が熱くなる。まずい。動揺している。こんな様子を見られたらまた笑われる。いや、もう心の中では笑っているに違いない。私の顔は今、きっと誰が見ても明らかなくらい真っ赤だろう。
「天野…俺、手を引いてもらわないと立てないんだけどなー」
「っ!言ってて下さいっ!!」
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい…
彼はしばらく面白そうに私を眺めていたが、やがて手を下ろすと、ため息混じりに立ち上がった。
ああ。出来れば何も言わないで欲しい。
「天野」
「…何でしょう…」
俯いているから彼の表情は見えない。見たくない。
どうせ意地悪な言葉でからかってくるだけ―――
「…せっかくこんな日なんだから、手を繋いで歩かないか?」
―――え?
今、何を…
顔を上げてみると、彼は少し照れくさそうに顔を背けながら、かすかにそれと分かる程度に手を差し出していた。
「そういうのも悪くないかなって思うんだ、俺は」
冗談やからかいのつもりで言っているわけではなさそうだった。本当に、誘っている。
あとは私が決めるだけ。
もしかしたら、彼なりに私のミスをフォローしてくれたのかもしれない。さっきの事は無視して、改めて彼のほうから誘いをかけたのだ。
あのまま放っておかれたほうがよほど恥ずかしかったに違いないから―――
「…申し訳ありませんが」
私たちは手を繋いで歩くような関係ではない。
だから、ごめんなさい。
きっと。
そう言えなかったのは。
「―――本当に、今日だけですよ」
…らしくもなく、雰囲気に流されてしまっただけ。
普段ならこんな事言えない。こんな事できない。私はごく自然に手を伸ばして、彼の右手を取っていた。
手から暖かい体温が伝わってくる。
「…自分から言い出したのなら、そんな恥ずかしそうな顔しないで下さい」
「う―――す、すまん。俺もちょっとどうかしてる…」
彼はもう一方の手を落ち着きなくそわそわさせていた。さっきまでの相沢祐一はどこにいったのか。
「…なんだ…天野は意外に落ち着いているんだな。もっと初々しい反応を期待したのにな…」
ごまかすためか、私の話を振ってくる。
もっと初々しい…どんな反応を期待していたのだろうか。
悔しいから、黙っておく。
本当は今ドキドキで卒倒しそうだという事は―――
こういう日は、殊に子供たちの姿が目立つ。この街にこんなにも子供がいただろうか、と疑ってもみたくなる程に。
一番多いのは、やはり家族連れ。次に中学生・高校生くらいの女の子…二人か三人の単位で行動しているのが大半。
そして、特別なイベントは逃さず思い出にしたいと張り切る恋人達。
「こういう時のお約束っつったら、まずは金魚すくい。で、射的。屋台の焼きそば、かき氷、綿菓子。とりあえず標準ルートといったところか」
「食べ物のほうが多いんですね」
「そーゆー細かいとこをいちいち気にしない」
最初は固く必要以上に強く握られていた美汐の手も、だんだん緊張が解れてきたのか今は自然な強さに変わっている。相手の体温が心地よく感じられる程度に、自然に。
「天野はどういうのが好きなんだ?」
祐一は屋台の並ぶ通りと適当に歩きながら尋ねる。美汐の速さに合わせて、いつもの自分のペースの半分くらいで。
「綿菓子」
「食べ物だし」
即答した美汐に苦笑する。確かに祭りの日だからといってはしゃいで遊びまわるタイプではないだろう。少なくとも祐一の知っている美汐はそういう女の子だった。
例えばこれが名雪だったら、きっと何でも楽しんでしまうのだろう。焼きそばはあまり好きではなさそうだが。香里なら、美汐とさほど変わらない反応かも知れない。意外とやってみればハマるタイプかも知れないが―――
(って、天野と一緒に歩いているって時に何考えてるんだ、俺は…)
別に美汐と一緒に来た事を後悔しているわけでもない。美汐の反応に不満があるわけでもない。
一番重要なのは、どんな事をするかではなく、誰といるかなのだから。
例えば今隣にいるのが真琴だったら―――
どくん、と心臓が跳ねた。
(…くそ、だから何考えてるんだ―――)
真琴だったら、見るもの全てに興味を示して何でもやりたがるのだろうか。きっと金魚すくいでも、不器用だから全然出来ないくせに成功するまでずっとやろうとするのだろう。最後には見かねた屋台の店主から破れにくいモナカを渡されて。誰でも取れるそれを使って、さも自分の手柄のように祐一に自慢するのだ。
(そんな事…考えたって何にもならないのに)
遊び疲れると、どこの屋台にも肉まんが売ってない事を騒ぎ出すのだろう。わざわざコンビニまで買いに行くとか言いかねない―――無論、この季節にあるわけがないのだが。祐一は屋台には屋台の味というものがあるんだと宥める。
きっと、黙って大人しくしていれば浴衣姿は最高に似合う真琴。
『あうぅ〜…この靴歩きにくいよぅ……』
鮮烈に。
あり得ない記憶が蘇るように。
「…勘弁…してくれよ」
「…?どうしましたか、相沢さん」
突然立ち止まった祐一に、美汐が訝しげに声をかける。すぐ後ろを歩いていた男性が迷惑そうに睨んで、二人を避けて側を通過してゆく。
「いや…」
どうしてこんな時にいきなり「蘇って」きたのだろう。
さっきの瞬間、確かに声まで聞こえた気がした。もうとっくに聞くことの無くなった声。
一人で歩いていたなら、ふと寂しくなってこんな事を考えてしまうこともあるかもしれないと薄々思っていた。
今は、隣に美汐がいる。
「俺、今―――」
祐一も決して美汐の責任とは考えていない。美汐の存在は祐一にとってとっくに一人の天野美汐という少女そのものであり、真琴の繋がりとしてしか連想できない相手ではないのだから。
それでも真琴の事は忘れたわけではなく、祐一が真琴を愛したという記憶も消えることはおそらくない。
「真琴の事思い出してた」
例えこの一言が今日という楽しいはずの一日を壊してしまいかねないと気付いていても。
黙っていると、きっと、耐えられない。
それでもあるいは隣にいるのが美汐でさえなければ、こんな弱みを零す事は無かったかも知れない。
少しだけ、美汐の、祐一の手を握る力が強くなる。
「―――半年、ですね」
美汐は祐一の顔ではなく、前を見て話す。
「そういうものです」
ただ、落ち着いて、それだけを。
顔にも声にも一切の感情を表さない。
二人はまた歩き出す。
どこかから、ちりん、と風鈴の音が聞こえてくる。
「俺はもうとっくに吹っ切れたつもりだったんだがな…」
祐一もまた、前を見たまま小さく呟く。
「ダメだな。こんな楽しい時に思い出すなんてどうかしてる。悪いな天野、俺はどうやらあんまり強くはなれなかったらしい―――」
「馬鹿な事は言わないで下さい」
思いの外強い口調で。
美汐は繋ぐ手をさらに強く握る。
「私は相沢さんの強さを知っています。私が一番知っているんです。私は―――私はそんなあなたを見て、もう一回頑張って自分を取り戻そうと―――」
「俺は強くなんか…」
「相沢さんはちゃんと現実を見ることが出来た―――私はずっと夢の中にいたまま。現実から目を背けて、祈りつづけたらいつかあの人が戻ってくると、そんな事しか考えなかったんです。諦めて目が覚めたときにはもう、この世界の何もかもがつまらないものに見えていた…」
美汐はふと、手の力を緩めた。
「まあ、そんなつまらない話は無しにしましょう。とにかく私は相沢さんには感謝しています。真琴と出会えた事も…全部。その事実だけ分かっておいてください」
「………分かった。そうだな、こんな時に話すことでもないし」
「個人的興味で、一つだけ聞かせて頂いて構わないでしょうか?」
先程までの、どこか切羽詰ったような声から一転して穏やかに、美汐が祐一の目を見て尋ねた。
「もし、今から現実を全て捨てて必死に祈れば真琴が帰ってくる―――と言われたら、どうしますか?」
祐一はびっくりして美汐を見つめ返す。
質問に含まれる意図を読もうと、表情を伺う。何も分からない。
いや、答えは簡単に出るはずだった。
「もちろん祈る―――と、言いたいところだが、正直今は微妙だな。俺の中で色々と………」
美汐を見つめて、苦笑する。
現実を全て捨てるという事は。
「…問題が発生しそうだ」
美汐は小さく微笑む。
「奇遇ですね。私も、同じです」
繋がった手。空いているもう一方の手で、美汐は近くの屋台を指差す。
先程から甘い匂いを発生させている、綿菓子の屋台。
「意見があったところで、奢っていただけますか、先輩?」
「…なんだ、その先輩って」
「少しだけ敬意を表してみました」
よくわからん、と祐一は笑う。
奢る事自体は昨日から約束になっているわけで、そこに異存はなかった。
改めて繋いだ手を意識して、歩き出す―――
「あーーっ!!!祐一っ!!」
足が、止まる。
というより、祐一の体そのものが瞬間的に固まる。
美汐は顔に疑問を浮かべながら、祐一の顔と声のしたほうを見比べる。声の聞こえてきたほうには…かすかに見覚えのあるような顔があった。祐一の名前を呼んだからには祐一の知り合いだろう。
何か怒ったような顔で―――もとい、かなり怒った様子で近づいてきているが。
「急用が出来たからお祭り来れないって言ってたのに、どうして来てるの!?だったら一緒に―――」
ふと、彼女の視線が美汐のほうを向く。その瞬間、顔から表情が消えた。
さらに微妙に視線が下がる。…繋がった、手元に。
「あ…名雪、いや………つまり…」
何とも日本語で表現しがたい表情の変化を見せた名雪を見て、祐一がしどろもどろに意味のない言葉を発する。慌てて繋がった手を振り解く。
無論、何もかも、遅すぎる。
「…ふーん」
それだけを言うと、まるで最初から何事も無かったかのように彼女は踵を返して歩き去っていく。
「な、なゆ―――」
手を伸ばして追おうとした。
動けなかった。
右手が強い力で押さえられて、そのままバランスを崩して倒れそうになる。
「相沢さん」
手を押さえた張本人が、静かに言う。
「私は、相沢さんがここで私を一人にしてどこかに行ってしまうような人ではないと信じています」
「…ぐっ………」
祐一は脱力する。
そう言われては、もはやどうしようもない。
どうしようもないが。
「…2回連続は、マズいよな………」
「何がですか?」
ああ見えても名雪は鋭い。恐らくは今祐一の隣にいる美汐が、昨日祐一が喫茶店から出て追いかけた少女と同一人物であることは見抜いているだろう。
となれば、事の次第は完全にバレていると思っていい。
すなわち。
「それで、相沢さん。お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「………なに、かな…」
「先程の方は、相沢さんが今日は用事があるから夏祭りに来るのを断ったとおっしゃってましたね」
「………はい」
「昨日相沢さんは一緒に行く相手がいなくて寂しかったと―――」
「えーとな」
祐一はそっぽを向いて、指を一本立てる。
「例えば、昨日天野を誘った後に名雪にも誘われたんだ、とか」
「例えばって」
「それなら先約を守ったということで辻褄も合うじゃないか」
「辻褄とか言ってる時点で間違ってますが」
「まあとにかく気にするな」
「開き直りですか」
「そんな事より、綿菓子食うか?」
「いただきます」
祐一はちょっとコケた。
「それで、あの方は相沢さんとはどのような関係なのですか?」
綿菓子を幸せそうに―――驚くべき事に、幸せそうに頬張りながら、美汐が真正面から尋ねた。
「ああ、名雪の事はあんまり気にするな」
「率直に言いまして、気にするなと言われても気になります」
美汐は、とても正直だ。
「…ただのイトコだよ」
「あまり、ただのイトコという感じには見えませんでしたが」
「ぐ………随分つっかかってくるな、天野…」
「いえ別に。ただ…」
繋ぐ手を意識させるかのように強くしたり、引っ張ったり。
もう一方の手に持った綿菓子をたった今全部食べ終わって。
「相沢さんが、私よりもずっと素直に現実に戻ってくる事が出来た理由が分かった気がします」
真琴がいなくてもあんなに可愛い少女がすぐ身近にいたのだから。
精一杯の嫌味のつもりだった。
記憶は薄れてゆく。
悲しみは少しづつ癒えてゆく。
そして、その事が不安になる。悲しみは忘れたいが、それは同時に愛した記憶を忘れる事になるから。
忘れる事が許されない罪であるかのように。
その不安は時に唐突に形になって目の前に現れる。忘れる事を恐れる自分が、忘れて身軽になりたい自分を責める。
酷くなれば、一種のトラウマとなる。
誰かに好意を持つたびに、過去の想いが深ければ深いほど、それは襲ってくる。
だから…忘れる必要はない。私はそう思う。
大切なのは、引きずらない事だ。つまりは、開き直り。
確かに愛した。その気持ちに嘘はない。それが薄れてきていると記憶に責められたなら、それで何が悪いと開き直れるかどうかが全てなのだと思う。
ありがちだが、いつまでも引きずっていてもあの人は喜ばないだろうと自分に言い聞かせてもいい。
何でもいい。
相沢さんは―――今隣で手を引いて歩く彼は、もう十分に乗り越えている。
私に向かって、真琴の名前を正面から出す事が出来たのだから。それでまだ私と一緒にいられるのなら、もう大丈夫。そこにあるちょっとした罪悪感なんて健全なものだ。
それより。
それより私が気になるのは、もっと単純な事。
相沢さんは…あなたはどれだけ本気で私の事を誘ってくれたのですか―――
「もしかして、あの方から逃げるための口実として、でしょうか」
「…ん?何が?」
「昨日あの場所を通りかかったのが私じゃなくて他の誰かだったとしたら、相沢さんはその人を誘ったのですか」
…馬鹿だ。何を聞いているんだろう。
まるでみっともない嫉妬みたいだ。カッコ悪い。
一つの返事しか期待していないくせに、わざわざ尋ねている。私だから誘ったんだと言わせたいためだけに。そう返事されたとしてそれが本当かどうかなんて分かりはしないのに…
「天野が昨日通りかかってくれたのは本当に嬉しい偶然だった。もっと前から夏祭りの存在を知ってたらちゃんと休み前に誘っていたんだがな」
彼はそんな私を笑ったりはしなかった。ただ見つめてきた。普段は見せない、でも時々見せる、優しい目。
「別に名雪を避けてたわけじゃない。俺は天野と一緒に来たかった。そういう事だ。―――まだ何か不満があるか?」
「…ありません」
私だって、そんなに鈍いわけではない。こんな確認なんてしなくても、本当は彼がちゃんと私に好意を持っていてくれる事くらいは今日だけでも十分に分かっていたはずだった。
でも…本当かどうか確認は出来なくても、言葉は人を安心させてくれる。
だから、いいのだ。
私は、素直に喜んでもいい。
最後にほんのちょっとだけ、賭けに出させてもらうけれど。
「でも、いいんですか?今の言葉、真琴が聞いてたらきっとすごく怒りますよ」
意地悪だと思う。何もこんな時に言わなくても。
こんな無意味な仮定。
だけど、彼は、私の期待通りに、笑って言うのだ。
「だろうな」
それで、十分だった。
どぉん…と大きな音を響かせて、今夜の最初の花火が打ち上げられた。
田舎町の花火大会なんて、本当に安っぽいものだ。
もちろん見た目の話であって、何十発と打ち上げ花火をあげている以上、金銭的には一般庶民には途方もない事になるのだが。
…なんて事をこんな時に考える人は、まあ、人生の5割くらいは損をしている人だろう。
「綺麗だな」
祐一の言葉に、美汐は訝しげにその横顔を見上げる。不思議そうな表情で。
見つめられた祐一は美汐がそんな反応をする理由がわからなくてきょとんと見つめ返す。
「………なんか変な事言ったか、俺」
「いえ。あまりに普通の事を言ったので意外でした」
「………」
何なんだ俺は、とツッコもうとして、とどまる。
何かあまり聞きたくない返事が返ってきそうで怖かった。
「天野は綺麗だとは思わなかったのか?」
「そうですね。先程のは一部の”星”の配合薬の比率にバラツキがあって変色が少し乱れました。掛け星は花火の命ですからもう少し丁寧な仕事をしたほうが良かったのではないかと思います」
「………」
「冗談ですから、そんなに露骨に引かないで下さい」
体ごと一歩下がった―――手を繋いでいるからそれ以上は下がれなかった―――祐一に、傷ついたように美汐が文句を言う。
冗談だろうと何だろうと、普通以上に詳しい事に変わりはないのだが。
どぉん………ぱらぱらぱら………
再び花火が上がる。
「全体的に第2層の配合薬が0.4ミリほど薄いですね。視覚的にもっとも心地よいバランスを得るためには―――」
「………」
「冗談ですってば」
さらに離れようとする祐一の手を強く握って引き止める。
もうすっかり手くらいは慣れている美汐だった。
―――少しずつ花火の打ちあがるペースが上がっていく。道を歩く人も、屋台の人も、皆が同じように空を見上げる。きっと多くの家でも窓を開けて花火だけでもと楽しんでいるのだろう。
その後は、二人、静かに花火を眺めていた。
「…楽しかったか?」
それは別れの挨拶の枕詞のようなもの。
二人の今日という時間は、花火の終了と共に終わりを告げようとしていた。
「はい。楽しめました。…相沢さんは家に帰ってから修羅場でしょうけど」
「余計な事は言わなくていい…」
祐一は苦い顔で、何かを思い出すように目を背ける。名雪には今日の事…美汐の事を根掘り葉掘り聞かれるか、全く何も聞かれないかのどちらかだろう。どっちにしても痛い。
どうであれ、そんな事は美汐と別れてから考えればいい事だった。
「それでは…また新学期にお会いしましょう」
美汐がぺこりと頭を下げる。
「…休み中にまたこうやって会えないか?」
こんな特別な日でなくても、普通の休みの日に。
祐一は正面から尋ねる。
「相沢さん次第です」
その返事はお会いしたいでも嫌ですでもない。祐一にとっては今日一日でかなりの進歩と言えた。
「それでさ」
穏やかに微笑んで。
祐一は軽く息を吐いた。
「今度は、天野の話を聞かせて欲しいんだ」
「…私の?」
「そう。天野の昔の事。考えてみれば俺は何にも知らないんだよな。ぜひ聞きたい」
昔の事―――美汐にとっての奇跡。その結末。そして祐一と出会うまで。
「聞いても、面白くないですよ」
「面白くなくても、聞かせて欲しい」
少し前まで賑わっていた通りから、見る間に人が減っていく。皆がそれぞれに帰路につく。
そして祭りという特別な時間と決別し、明日からの日常に向かう。ほんの微かな余韻を残しながら。
美汐は、わかりましたと小さく頷いた。
「俺な…」
祐一は言葉を一度切る。
わずかな、躊躇い。
「…真琴は確かに俺をこうやって苦しめるために現れたのかもしれない。でも俺は真琴を愛した事を後悔はしない」
美汐は特に表情も変えず、黙って聞いている。
「何より、天野と出会わせてくれたんだ。真琴には感謝しているくらいだな」
祐一は、にんまりと笑って。
「そうですね―――」
微かに目を伏せる美汐。
つられるように、ふと、微笑む。
「言う時ちょっとだけ悲しそうな表情を見せたので、70点くらいです」
「…チェック厳しいな」
「成績アップを目指すなら、再提出も受け付けますよ」
「……また、今度な」
「お待ちしております」
美汐は満足そうに頷く。
本当に言いたかった言葉は今は堪えておく。
再提出の時には、「天野」じゃなくて―――
…考えてちょっとだけ恥ずかしくなった事は内緒にして。
FIN.
【あとがき】
北海道(かどうかは知りませんが)で夏祭りと言ったらやっぱりWhiteberryを連想しますねー
君の髪の香りはじけた 浴衣姿がまぶしすぎて お祭りの夜は胸が騒いだよ♪(歌うな)
つか、メンバー全員がとうとう4月から高校生ですか、ひょっとして。早いもんだ………
そう言えば「YUKI」の頃、PV見て「キーボードの子誰かにそっくりなんやけどなぁ…誰だろ?」と思っていたものですが、今見るとそんな感じはまったくありません。誰に似てたんだろう…
ああ。ギターの子は相変わらずみにみに。プロフィール見てみたら142.5cm。わ。
きらきら雪の中ー♪(歌うなって)
美汐と言えば同人誌の「It’s a 小 time(limit 80 book)」のイメージがすごく強くて困ったモンです。知ってる人は笑ってください(^^;
僕のSSの中では美汐と香里がちょっとキャラ被ってる気がしますが、一番の区別どころは。
香里 … モテモテだけど自分自身は恋愛事には一切興味なし
美汐 … 恋愛に関して知識も興味も十分だけど経験は全く無し
みたいな(笑)
やっぱり僕の場合は恋愛事に関する態度が一番区別しやすい………あはは(^^;;
あ、SSの内容について全然触れてない…(爆)
ええと。
………………
………
…あまり書くことも思いつかないので今回はこの辺で(^^;
失礼しました〜