窓越しに外を眺めると、木々よりずっと高くに、ぽかりと満月が浮かんでいました。
 森の中はびっしりと木で埋め尽くされているので(だからこそ森なのですが)、あまりこうして月を見ることはありません。今は特にすることもないので、なんとなく眺め続けてみます。身の回りのものでも、外の自然でも、人でも、妖精でも、妖怪でも、何でも観察してみることは必ず勉強になるからと言われているからです。観察したことがやがてどこかで誰かから学ぶ話と結びついて、知識として自分の一部になるのです。何もしない時間だって勉強なのです。
(〜♪ んーふーふふー♪ ふふーん♪)
 耳を澄ませば、と言うより実際のところとくに澄まさなくても、時折鼻歌が聞こえてきます。
 これも以前に勉強しました。彼女の鼻歌は、常にその場での創作です。たまにとてもお気に入りのメロディができることがあるらしくて、何かしらの作業中でも手を止めてメモを取り出したりしています。音楽と魔法には密接な関係があるとのことで、魔法使いとして重要な閃きなのだと教わりました。音楽そのものが魔法になることもあるそうです。
(んーふー♪ るーらららーらー♪)
 鼻歌だけじゃなくて「ラ行」の声が混じり始めたらとても上機嫌な証拠です。り、れ、ろは滅多にありません。
(あーえーーーあーーーーーんーーー♪)
 ア行の声が混じり始めるとかなりノってます。声も高くなってきていてまさに絶好調です。
 たいていこんなときに塩の分量を間違えるとか、縫い方の手順を間違えるとか、ドとレとミとファとソとラとシの音が出ないとか、そんなミスをするのです。ちょっと要注意な状態です。
(ん〜ふふ〜ん♪ ぼーんぼぼぼーぼぼーぼぼー♪)
 ……
 ぼ、はちょっとよくわかりません。まだ勉強が足りないようです。
 自らの不勉強を恥じていると、その鼻歌が突如途切れました。
 そして、声は呼びかけるのです。
「あ、ごめん、上海。にんじんとってきてくれる? 一本でいいわ」
 窓際に大人しく座って世界の勉強を続けていた人形は、彼女の声に呼ばれるとすぐさま立ち上がりました。
 主人である彼女の手伝いこそが人形の最大の仕事であり、勉強をすることも目的はより彼女に役立つためなのです。
 ふわりと宙に浮いて、野菜のかごに向かいます。もちろん、どこにどの野菜が置いてあるかはちゃんと調査済みです。
 にんじん一本。お安い御用です。
 まっすぐににんじんのかごに向かおうとした人形は、そのとき、目の前の棚の上で何かがぼんやりと光っているのを見つけました。
 はてな。首を傾げます。こんなところにランプは置いていないはずです。何より、青白い光は、ランプのものではありません。
 少し迷ってから、人形は、棚の上を覗いてみることにしました。異常の発見と報告は日常の仕事より優先すべき課題だと教わっているからです。
 ひょこり。
 覗き込んでみると、そこには世界が置いてありました。小さな世界が青く光っていました。
 さてこれはなんだっただろうと思案しながら、少し手を伸ばしてみます。世界は人形の動きに反応したように、強く光りました。
 一瞬の出来事でした。光は部屋中を包み込んで、人形の体を全て飲み込んでしまいました。

 これは、少し遠回りな、人形の冒険のお話です。




『現象には必ず理由があるものよ。よく観察して、よく推測して、突き止めるの。魔法使いの第一歩よ』
 ――魔法使いの教え、そのいち。




 ぱちくり。
 ぱちくり。
 さて。何度瞬きをしてみても、景色は変わりません。
 まずは横になっている視界を戻すために、むくりと倒れていた体を起き上がらせて、周囲を見渡しました。
 青い空の下に、平坦な地面。視界の先には、たくさんの家が立ち並びます。人形の寸法から言えばとても大きな家ですが、普段見慣れた主人の家から考えれば小さな家ばかりです。それが、たくさん。
 ぱちくり。
 人形にできることといえば、とりあえず、きょとんとすることでした。
 どう見ても、ここは普段いる魔法の森ではありません。木は見当たりません。遠くのほうに森のようなものが見えたような気がしましたが、少し前の体験から、それは竹林と呼ばれるものであって、森ではないということを知っていました。
 見たことのない景色が広がっています。わけがわかりません。
 主人の荷物の中にしばらく入って移動して、袋から顔を出すとまったく違う景色になっていたということはたまにありますが、そのような記憶はありません。もしかしたら眠っている間にどこかに連れてこられたのかもしれませんが、それにしてもいつ自分が地面に立ったのかもわからないのは変です。
 何より、いつも人形が側にいなければならない主人の姿が、隣にないのです。もっとも異常なことです。
 周囲を何度も見渡しましたが、主人の特徴的な姿は見つかりません。
 考えてみます。例えばこれは主人が人形に課した新しい試練なのかもしれません。突然見知らぬところに置き去りにされたときにも、ちゃんと主人を見つけることができるか試されているのかもしれません。
 あるいは急に出かけなければならない用事ができて、しかも人形を連れて行く必要があったにもかかわらず何らかの事態が起こってここに人形を置いたまま別の場所に向かうことになったのかもしれません。
 思いつく事態といえば、この二つくらいでしょうか。どんな状況なのかほとんど想像がつかない後者に比べればまだ前者のほうがあり得そうな気がします。
 大事な考察です。今いる場所から動くべきなのか、動いてはいけないのか。
 悩んだ結果、動くことに決めました。状況を判断するためには、止まっていては何も出来ないからです。
 人形はもう一度地面を中心に周囲を見渡します。少し離れたところに、都合よく平らな形の石ころが転がっていました。人形はそれを拾い上げて、最初に気がついたときに自分が立っていたまさにその足跡のある場所に、石ころを使って線を描き始めました。
 線はやがて明確に絵になっていきます。似顔絵と呼ばれるものです。人形は、主人の顔をそこに描いたのです。
 こうしておけば、調査のあとまたここに戻ってくることができます。
 入れ違いで主人が先にここに来てしまったとしても、絵を描いておけば、やがてここに戻ってくるという意思の表れだということに気付いてくれるでしょう。
 難点は、人が頻繁に行き来するような道だとすぐに消されてしまうということです。主人ならこんなとき、魔法を使って消えないように工夫をするのでしょうけれど、人形には魔法は使えません。主人から力の一部を分けてもらうことによって、少しくらいなら空を飛ぶこともできますが――
 ふと、思い立って、念じてみます。ふわり、と足が浮きました。どうやら飛べるようです。
 わけてもらう力はもちろん有限です。主人がここにいないということは、すぐに補充はできないということです。調査をするにしても、力の使いすぎには十分に気をつけないといけません。飛べることだけ確認すると、すぐに足を下ろしました。

 さて、ここを離れる準備はできました。次に、計画を考えます。闇雲に歩き回っても力の無駄遣いになるだけです。
 家が並んでいるということは、ここは街です。これだけたくさん密集しているということは、人間の街です。街には何度も連れてきてもらっているので、間違いありません。今見ている景色自体には見覚えがありませんが、もしかすると以前にも来たことがある街かもしれません。
 街の反対側に向かえば、竹林があります。こんなところに足を踏み入れても、道に迷ってしまうだけでしょう。街ならば、まだいろいろと目印はあるものです。行き先を迷う必要はありませんでした。
 歩いて進みます。歩くだけでも力は使ってしまうのですが、飛ぶことに比べたらとても小さな消耗ですみます。その代わり、とても進みは遅くなってしまいます。
 スタート地点には人の姿は見かけませんでした。歩いていって街中に入れば、たくさんの人とすれ違うでしょう。小さいので、踏まれないように気をつけないといけません。
 ひたひた。
 ひたひた。
 たくさんの家が並んでいる真っ只中まで来ました。
 あまり遠くまで見渡せるわけではありませんが、家はやっぱりたくさんありました。
 人はいませんでした。
 はて。ひとり、首を傾げます。
 こんな明るい時間だったら、こういうところは、人が歩いているはずなのです。時間。そういえばどれくらいなのでしょう。空を見上げると、太陽は真上にありました。真昼間です。
 昼間となれば、奥様方が集まって、お互いの子供自慢をしながら牽制しあったり、家事を夫が手伝ってくれないことに対して愚痴を言い合っていたり、近所に新しく出来た甘味処の噂をしていたり、さりげない会話から相手方の年収を探ろうと心理戦が繰り広げられていたりするはずなのです。人間の街というのはそういうところだと、主人ではない別の黒い魔法使いが教えてくれたのです。あっちの魔法使いは嘘つきなので騙されたのかもしれません。
 それにしたって、誰の姿も見かけないというのは寂しい気がします。このあたりは寂しいところなのかもしれません。
 景色を見たところ、特に事件性を感じるものは見当たりません。
 てくてくと歩き続けます。

 しばらく歩いていくと、景色が変わってきました。
 家がたくさんあることに違いはないのですが、家の前に机やら籠やらたくさん並べられているようになってきました。そして、机の前に人が立っていたり座っていたりするのです。
 人形には、この光景も見覚えがありました。むしろ、ただ家が建っているだけより、こちらのほうがなじみがあるくらいです。主人はこういったところで家の中に入って、人形や服などを作るための布地なり小道具類なりをどっさりと持ってかえってくるのです。
 こういった家は特別な呼ばれ方をされているのでした。店です。
 机が置いてあったり、家に何か文字の書いてある大きな板が貼られていたり、旗が立ててあったりすれば、それは店と呼ばれるものなのです。
 人形の背丈では、かごが置いてあるのは見えても、中に何が入っているかまでは見えません。覗き込みたいところではありますが、今は我慢です。目的は主人を探すことなのです。
 主人が人間の街に来るとしたら、まず間違いなくこういった場所に来ているはずです。どんな理由があって置いていかれたのかはわかりませんが、出かける先といえば店でしょう。店はたくさんあるので一つ一つ入って確かめるわけにはいきませんが、いずれは出てくるということを考えると、店が並んでいる通りで待つのが得策だと考えます。
 きょろきょろ。
 きょろきょろ。
 さて。すぐに問題点に気づきました。それほど人通りが多いわけではないのですが、一人でも近くを通ると、大いに視界が遮られてしまうのです。人は、一応小さな人形を蹴飛ばしてしまわないように気を遣って距離を開けて歩いてくれるのですが、だからといって快適というわけにもいきません。何人かが続けざまに通ってしまえばもうほとんどが死角になってしまって何も探せません。
 これは困ってしまいました。
 考えられる対策としては、空を飛んで、人間たちの視界レベルに合わせることですが、それでは力の消耗が激しすぎます。
 一度大きく跳んで、どこかの店の屋根に立って見下ろすのがいいかもしれません。
 適当な店を探します。
「ねえねえ人形さん、一人でどうしたの? 迷子?」
 できるだけ背の高い店のほうが――と、周囲を見渡していたら、真上から声が聞こえました。
 人形さん、と聞こえました。さっきまで見ていた感じでは、人形さんは自分だけだと判断して、声の方向、上のほうを見上げます。
 見上げたのと同じくらいのタイミングで、声の主と思われる人はしゃがみこみました。おかげでちょうど視線が行き違いになってしまいました。もう一度目をまっすぐ目の前に戻します。
「わ。やっぱりかわいいー。作りもすごく丁寧だし! 素敵だわ」
 人間がまっすぐじっと見つめてきました。きらきらと目を輝かせています。
 かわいいと言われてちょっと気分がよくなりました。人形はかわいがられることも仕事なのです。主人の腕が褒められたということでもあり、誇らしい気持ちです。
「お持ち帰りしたいわ!」
 それはだめです。
 警戒して、ささっと身構えます。人間は、人形の反応を見て、くすくすと笑いました。
「うそよ、うそ。これだけの人形さんのご主人様だもの、とっても強い方なんでしょう。敵にしたくはないわ」
 むん。
 反射的に、首を縦に振って、胸を張りました。
 もっと褒めてもいいと思いました。
 と。もうちょっと視線を上に上げてみて、気づきました。人間ではありませんでした。
 耳。白いものが何かあります。
 うさぎさんでした。
「ね、それで、どうしたの? もしかして家出しちゃったとか?」
 ふるふる。首を横に振ります。
 主人のもとを離れる理由なんてありません。主人が側にいなければいずれ本当にただの人形になってしまうのですから。
「捨てられちゃったの?」
 ふるふる。即座に否定します。
 状況だけ考えればそんな可能性もあるのかもしれませんが、人形は主人が自分を愛してくれていることを強く信じているのです。
 第一捨てるつもりなら力を残しておいたりはしないはずです。後付けで思いついた理由にすぎませんが。
「うーん……あ、かくれんぼしてるの? ごめんね」
 ……
 ふるふる。
 一瞬、あれ、もしかしてそういうことなのかな、と思ったりもしましたが、とりあえず否定しておきます。主人の行動はいつも計画的で、このような突飛な遊びを始めるような人ではありません。遊びでないのなら、最初に考えたとおり、これは試練なのです。
「違うか。なんだろ……あ、アレかな。最近流行りの失踪ごっこ」
 ふるふる。
 ……
 人間の街では不思議なものが流行っているようです。世の保護者さんは大忙しです。
「実は人形さんは人形さんじゃなくてすごく小さい普通の女の子だった!」
 ふるふる。
 どう見ても人形です。かわいい人形です。……自覚しておくことも大切だって言われました。
「ええい。それじゃ実は腹話術!」
 喋ってません。
「じゃあ中間とってわら人形!」
 もしわら人形だったとしてだから何だというのかよくわかりません。
 あと何と何の中間なのか全然わかりません。
「むう。あ! そっか! もしかして誰かを尾行してるのね! だれだれ? あのちょっと薄いおじさん? あ、あの眼帯男とかいかにも怪しいよね。それとも……わ・た・し? きゃっ」
 ふるふる。
「……あーうん。そんな一定のリズムでさくっと否定されると結構ダメージだわ。しくしく。もっとこう、ずびーっとツッコミいれてくれないとやりがいがないのよ」
 ?
 人形は首を傾げます。彼女の言っていることがよく理解できませんでした。
 うさぎさんは、うう、と頬に手を当ててちょっと泣いてました。殴った覚えはありませんが、なんだか悪いことをしてしまったようです。もっと人付き合いを勉強しないといけないようです。反省します。
 ずいっ。
 反省していると、うさぎさんは指を一本立てて、人形の目の前に突き出しました。
「で、まあ。いつごろからご主人様とはぐれたの?」
 ずびーっ。
 思わず何もないところでずっこけてしまいました。結局うさぎさんの中で最初から答えは出ていたみたいです。
「それよ! 今のよ!」
 何が今のなのかよくわかりませんが、うさぎさんは満足そうでした。
 起こしてはくれませんでした。

 相変わらず意思疎通は難しいものです。とりあえず主人を探しているということは伝わりました。あえて伝えなくてもわかっていることのようでしたが。
 ひょい、とうさぎさんは人形を持ち上げました。
「これならよく見えるでしょ。人形さんからも、ご主人様からも」
 そういって、胸元で抱え込みました。
 もともと背の低い女の子なのでそれほどの高さが稼げたわけではありませんが、確かに人形が普通にそのまま歩くよりはずっと視界は良好でした。
「この子のご主人様はいませんかーって、叫んでみたらすぐ見つかるんじゃないかしら」
 ……ふるふる。
 人形はわずかな間だけ躊躇ってから、首を横に振りました。
 事情があって人形を置いたまま出かけたのでしょう。そう考えると、あまり目立つ行動はしてはいけないような気がします。勘違いをしてはいけません。最初の場所を離れたのは状況把握のためであって、すぐにこの場で主人を見つけるためではないのです。
 その意味で、こうして抱えられるのは割と目立ってしまうような気もしました。
 とりあえず許容範囲だろうと勝手に決めて、そのあたりは自己完結する人形なのでした。
「適当に歩いてみようか」
 こく。
 人形はうさぎさんの胸元で姿勢を整えて、落ち着きます。
 うさぎさんが歩き始めると、自分で歩くときに比べて視界は大きく揺れます。昔はこれではとてもまともに前を見ることなんてできないと思っていたのですが、主人の肩の上やポーチの中から景色を眺めることが多いということもあって、こつは掴んでいます。
 この状態で首を左右に動かせば、だいたい前方の景色は把握できます。自分の意思では後ろを振り返ることができないのが弱点ですが、それは仕方がありません。
 改めて街の中を眺めていると、人はあまり多くはありませんでした。幸いなことに、これなら主人の姿があればすぐに見つかることでしょう。
「あなたのお家はこのあたりなの?」
 うさぎさんが聞きました。
 人形は首を横に振りました。
「そっかあ。遠くなんだ」
 今度は、首を振ろうとして……どちらに振ろうか迷って、止まりました。
 ここがどこなのかわからない以上、遠いかどうかもわかりません。森の外ならどこでも遠いと言えるのかもしれません。
「このあたりは見覚えがある場所なのかな? はぐれちゃったのはこのあたり?」
 ふるふる。
 今度は明確に横。
「うーん。迷子さんだねえ」
 迷子なのかどうかも実際のところはっきりとはしていません。
 ある意味心が迷子になっている状態です。
 ……なんて内容のことを、言葉も文字も使わずに伝える方法は、人形には見当もつかないのでした。
 てくてくと歩いていきます。相変わらず店がたくさん並んでいました。
 今の高さからだと、机が出してあれば、そこに何が並べられているかを見ることもできます。
 あまり見覚えのないようなものもあります。そういえば、主人が言っていました。場所が変わると気候が変わって、気候が変われば生活習慣が変わって、生活習慣が変われば道具も変わるのだと。だから道具を見ればその場所がどんな場所なのかわかる、と。少し注目してみてもいいかもしれません。
 店の前に並んでいるもの。
 例えば、箒。よく見ます。
 鍋。もちろんよく見るものです。
 おたま。特に変わったところはありません。
 果物。よく見るものばかりです。
 野菜。どこにでもあるような――

 ――

 ぐい。
 人形はうさぎさんの右腕の袖を引っ張りました。
「ん。どうしたの?」
 くいくい。
 あっち、あっち、と、引っ張る方向で注目したい場所を示します。
 こんなとき自分で動けないのは少しもどかしいです。
「何か見つけた?」
 うさぎさんは、人形が引っ張る方向に向き直りました。
 視線の先にあるものは、何の変哲もない店でした。店員が一人座っているだけで、他の客も見当たりません。
 ぐいぐい。それでも人形は引っ張り続けます。
「八百屋さんに行きたいの?」
 八百屋さん。確かそれは野菜を売っている店の名前だと思い出して、人形は大きく頷きます。
 うさぎさんは不思議そうに「んー?」と鼻声を漏らしましたが、人形の言うとおりに八百屋に向かいました。
 そこにはたくさんの種類の野菜や果物が並んでいます。一つのかごに同じ種類のものがまとめられると色が引き立って、遠くから見るととても色鮮やかで目を引かれる光景です。
 人形は、なおもうさぎさんを引っ張り続けました。うさぎさんはとりあえず引っ張られる方向にそのまま従いました。
 そして、ある場所に向かって両手を伸ばします。体はうさぎさんが支えているので、届きません。
「……にんじん?」
 こくこくこく。
 人形は、三度大きく頷きました。
「にんじん、欲しいの?」
 こく、こくん。

 そうでした。目が覚める前の記憶が曖昧ですっかり忘れていましたが、人形は確かに、主人から頼まれていたのです。にんじんを一本持ってくるようにと。
 鮮やかなオレンジ色を目にしたとき、やっと思い出しました。
 頼まれた記憶はありますが、持っていった記憶はありません。つまり未達成の仕事なのです。
 突然の状況変化に戸惑っていたとはいえ、主人の命令を忘れるとは人形としての恥です。深く反省しなければいけません。
 うさぎさんが屈みました。にんじんに手が届くようになりました。両手でしっかりと掴みます。一本。
「人形さんってにんじん食べるんだあ。……って、そんなわけないよね。実はお使いの途中だったの?」
 頭上から来る問いかけには、どう答えていいものかよくわかりませんでした。お使い、という言葉の意味がわからなかったのです。
「……あれ? でも、お金持ってるの? 持ってそうには見えないけど」
 お金。
 それが、物と物を交換する際の媒介役をなす金属であることは知っていました。
 もちろん、人形はそんなものを持っていません。
「持ってないよねえ。だめじゃないの」
 ぱ。
 うさぎさんは人形の手を持って、にんじんを掴んでいた手を離させました。
 人形はすぐさままたにんじんを追い求めて手を前に出します。
「こら。だめだよ。勝手に持っていったら、泥棒さんなんだよ」
 むー。
 むーっ。
 じたじた。
 人形はうさぎさんの手の中で暴れました。
 客は自分たちだけということで、座っている店員からも思い切り注目を集めてしまいます。店員のほうといえば、最初から客だとは思っていないようで、たまに邪魔そうに二人のことを見るだけでした。
「もう。どうしても欲しいの?」
 ぶんぶんっ。
 首が痛むのではないかというくらい強く振って肯定の意思を表明します。
「うーん。なんなのかなあ。お使いだったらお金は持たせるだろうし……本当にこの子が欲しいだけなのかしら」
 ぶんぶん。
 今度は横。
「やっぱり頼まれたの?」
 ぶんぶん。
 縦。
「むう。矛盾してるわ。……困ったわ。私もお金持ってないのよね。あれば一本くらいは買ってあげてもよかったのに!」
 じたじたじたじた。
 暴れる人形をしっかりと抱きとめながら、うさぎさんは嘆きました。本当に残念そうでした。




『仮説を立てたら、次は実験よ。何をすれば検証できるか、本当にそのやり方で隙はないのか、最初によく考えることが大切なのよ』
  ――魔法使いの教え、そのに。




「にんじんなら、うちに来ればいくらでもあるんだけど……私が勝手に貰っちゃうわけにもいかない立場なのよね。うー」
 店を立ち去ったあとも未練を捨てきれずにんじんを眺め続ける人形を見て、うさぎさんは悩みながら歩くのでした。
 だからといってもちろん泥棒はいけないことです。なんとかしてあげたい気持ちはあるのですが。
「ま、いっか。1個くらい、バレやしないかな。うん。あのね、うちでにんじん栽培してるのよ。ちょうど収穫時期で、ま、ほんとはもちょっとだけ先なんだけど、もう抜いちゃっても十分食べられるくらいになってると思うわ」
 人形はうさぎさんの言葉を聞いて、首をぐいっと上に上げました。胸元からうさぎさんの顔を見上げます。
 目はきらきらと輝いていました。
 うさぎさんは、あはは、とちょっと困ったような笑いを見せます。
「ただ、ちょっと、遠いのよ。人探しもしないといけないのに、遅くなっちゃうわ」
 人形は、その言葉を聞いて、少し考えます。
 実際のところ、人探しが必要かどうかは今のところまだわかりません。主人は、最初の場所に先に戻っていてもう待っているのかもしれません。一方で、にんじんは確かに頼まれているわけで、持って帰らなければいけません。
 空を見上げてみます。日は少し傾き始めていました。
 ここまでの調査結果からとりあえずわかることといえば……街は平和そうで、特に主人が急な事件に巻き込まれてしまったといった気配はない気がします。もちろん、街の全てを見たわけではないのでそう言いきれるわけではありません。ここまでのところ、です。どうも、大人しく最初に置かれていた場所で待って様子を見たほうがいいように思います。
 迷うのは、にんじんの調達という仕事を達成できていないのに主人に会ってしまっていいのかという問題です。もしこれが主人が人形に与えた宿題なのだとしたら、おそらく不合格でしょう。しかし、人形として、できる限りいつでも主人の側にいなければならないというもっと根源的な使命もあります。早く戻るべきなのかもしれません。
 幸い、にんじんを入手できる可能性を示すことはできます。何もできなかったというわけではありません。
 くいくい。うさぎさんの袖を引っ張ります。
「うん? 今度は何かしら」
 びしー。
 今まで歩いてきた方向の反対側を指差します。店が並んでいる場所から、普通の家が並ぶ場所へ、さらに街外れまで向かう道です。
「あっちへ行きたいの? って、あっちって、私の家がある方向だわ。私の家に……一緒に行く?」
 ……ふるふる。
 否定します。
「んー……よくわかんないけど、行こうか。うん。人形様の仰せのとおりー」
 うさぎさんは、特に不満げということもなく、まあわからないけどいいやという軽い調子で答えました。
 すっかり慣れたうさぎさんの胸元にゆったりと落ち着いて、人形はときおり「こっちでいいの?」という確認の声に答えながら最初の場所に向かいました。
 自分で歩いたときは結構な距離のように感じたのですが、うさぎさんの足で歩けばすぐでした。小さい街なのかもしれません。
 やがて家がなくなってきます。街外れまできました。
 人形は、くいくいとうさぎさんの袖を引っ張りました。
「ほいほい」
 ぐっ。
 手で、地面を、足元を指差します。
「ん? あら。見覚えの無い模様が描かれてるわ」
 うさぎさんは指示通りに下を見て呟きました。
 人形は今度は自分を指差します。そしてもう一度地面の絵を指差します。
「んー……あ、これ、もしかして、人形さんの似顔絵? あんまり特徴捉えてない気がするけど」
 ぶんぶん。
 人形は首を横に振って、手に力を入れて、うさぎさんの胸元から抜け出そうと意思表示をします。
 うさぎさんが手を離すと人形はふわりと地面に降り立って、近くに転がっていた小石を拾いました。そして小石を使って地面に何か描くような仕草だけを見せました。
「ああ。それ、人形さんが描いたんだ。ってことね。……んー、じゃあもしかして、その絵に描かれてるのがご主人様?」
 こく、こく。
 えへん。
 無意味に胸を張る人形でした。
「そっかあ。可愛らしそうな女の子ね。こんな可愛い人形さんのご主人様なんだから、当然かしら」
 こくこく。
 ますます偉そうに腰に手を当てて威張る人形でした。
「……もしかして、ご主人様って魔法使い?」
 しぱ。
 人形は唐突な指摘に、目を丸くします。
 この似顔絵から魔法使いだと判断する要素は何も無いはずなのです。どういう推理なのでしょう。
 驚いたまま、これにも首を縦に振りました。
「あ、うん。なんだかこのあたり……なんていうのかな。ちょっと魔力の残り香……っていうのかな。それを感じるから」
 魔力の残り香、という表現は人形にとっては初めて聞くものでした。
 言ったうさぎさん自身もあまりよくわからないような感じではありました。
「ここにこれが描いてあるってことは……ここではぐれたってことかしら? こんな、人も通らないようなところで?」
 ……しゅん。
 人形は肩を落とします。
 ここまで来た記憶さえないのですが、自分が今ここにいる以上、はぐれた場所となるとここしか考えられません。迷った挙句に、首を縦に振りました。
「じゃ、やっぱりここで待ってたほうがいいんじゃないかしら。んー、絵に対して何も反応があった形跡がないってことは、ご主人様はまだここに来てないのか、絵に気づかなかったのかな」
 わかりません。
 その問いは、人形には答えようがありませんでした。
 うさぎさんは、にこりと微笑んで、しゃがみこんで人形の頭を撫でます。
「それにしても、器用なのね。人形さんの体で、この大きさの絵を描くのは大変だったでしょう。しかも上手いもんだわ」
 こくん。
 ぺこり。
 頷いてから、人形は頭を下げました。人間式のお礼の表現方法です。うさぎさんに通じるのかどうかはわかりませんでしたが、主人はいつもこうしていたのでだいたい大丈夫なのでしょう。
 うさぎさんも頷きました。可愛らしい笑顔で答えました。
 そして、手を前に出して、人形の手に握られた小石を指差しました。
「それ、貸してもらっていい?」
 人形はうさぎさんに小石を渡しました。
 うさぎさんは小石を持って、えへ、とはにかんで、人形の絵の隣に移動しました。うさぎさんの手にはちょっと小さすぎる小石を持って、人形が描いた絵の隣に絵を描き始めました。
 女の子の絵でした。最後に頭からぴょこんと耳が出ていたので、うさぎさんの絵なのでしょう。
「お友達のしるしー」
 人形が描いた主人の絵と、うさぎさんが描いたうさぎさんの絵が隣同士に並びました。
 うさぎさんは手を伸ばしました。人形は手を伸ばしました。
 しっかりと手を握って、軽く振りました。
 これでもう、友達です。

「ご主人様、来ないねえ」
 三十分ほどその場で待ち続けました。うさぎさんはずっと人形に付き合っていたのです。
 寒い季節です。もうすぐ、日が沈んでしまいます。
「ね、とりあえずさ、家に来ようよ。ここに、私からご主人様にメッセージを残しておいてあげる。そしたらご主人様もわかってくれるだろうし。ね」
 ……こく。
 少し迷いましたが、人形は頷きました。にんじんを入手することも重要なことなのです。メッセージが残っていれば、心配させてしまうこともないでしょう。
「よし。じゃ、文面は……そうねえ。『貴女の大切な人形は預かりました。返して欲しくば竹林の家まで。通報しようなどとお考えのないよう忠告いたします。傷物になるところを目の前でご覧になりたくなければ……クックック』くらいかしら」
 こくん。
 人形は頷きました。
「いいんだ!? ……うん。今のはずびーっときてほしかったところ。かな。……うう。ま、適当に書いておくわ。ああ、文字なんて書くの何年ぶりだろ」
 少し不安になるようなことを言いながら、うさぎさんは小石を拾い上げました。
 絵の少し下あたりに、書きはじめます。
<にんぎょうさんは ちくりんのいえで あずかっています しんぱいしないでください>
「……これで大丈夫かな。たぶん!」
 こく。
 人形は頷きます。
「って人形さん、文字読めるの?」
 ふるふる。
 横。
「うわあ読めないのに許可出しちゃうなんて大胆だわ! 何かいてても通っちゃうところだったのね」
 うさぎさんは冷や汗を流しましたが、人形は気に留めた様子もなく、もう一度頷きました。
「信用されてるってことかなあ。ありがとね。人間の文字だから……ご主人様が読めないってことは、たぶん、ないと思うけど。大丈夫かな」
 ぐ。人形は小さな親指を立てました。大丈夫ということです。
 うさぎさんは人形を拾い上げて、再び胸元に抱えました。
 そういえば靴の裏で服を汚してしまうのではないかと人形は今更気づきましたが、うさぎさんは気にした様子もありませんでした。考えてみればさきほど降りたときにうさぎさんの服も見ていましたが汚れはなかったような気がします。
 はて、と首を傾げましたが、すでに抱え上げられた以上今から土を払うというわけにもいかず、とりあえず大人しく運ばれることにするのでした。
「家、こっちなの」
 うさぎさんは竹林のほうを指差しました。
 とても家がありそうな場所には見えませんが、うさぎさんなので人間と同じ場所に暮らしていることもないかと人形は思い直しました。案外、そちらのほうに用事があって主人はでかけているのかもしれないと思いました。

「こっそり、こっそり」
 うさぎさんは小さな声で言いました。
 目の前にはたくさんの葉っぱが地面を埋め尽くしていました。人形には見たことの無い光景でした。
「これがにんじん畑よ、人形さん。初めて見る?」
 人形は小さく頷きました。
「えへへ。これ全部にんじんなのよー。すごいでしょ。……だから、一個くらいは、大丈夫だと思う」
 こそこそ。
 うさぎさんは少し屈みながら畑に向かいます。
 畑の一番端につくと、葉っぱの一つ一つを見ていきます。
「うん……これはまだ。こっちもちょっと辛いかな。これは……いいかも。よし」
 何やら小さく呟きながら移動していき、やがて一つの葉っぱの前で止まりました。
 葉っぱをぐいっと引っ張りました。
 すると、地面から、葉っぱの下に、細長い塊がくっついて現れてきました。
 人形は目を丸くしました。葉っぱだけだと思っていたら、地面の中から、確かに見覚えのあるにんじんが飛び出してきたのです。まったく想像もしない出来事でした。にんじんは地面の中から生まれるのです。衝撃の新事実です。
「ほら、にんじん取れたよ。形も悪くないし、ご主人様も満足してくれるんじゃないかしら……あら。どうしたの?」
 うさぎさんは周囲から土を集めて開いた穴を埋めながら、人形の驚愕の表情を見てきょとんとしました。
 人形はぶんぶんと両手を振って感動を伝えようとします。うさぎさんから見るとよくわからない行動でした。
 たぶんお礼の気持ちなんだろうと解釈したようで、にこりと微笑んで答えました。
「さ、早めに出よう。見つかったら面倒だし」
 人形はうさぎさんの手にあるにんじんをじっと眺め続けています。
 うさぎさんが歩き始めても、感動は抑えきれず、土の中から食べ物が出現するという神秘に目を輝かせていました。
 少し歩いたところで、人形はくいくいとうさぎさんの服を引っ張りました。
「?」
 ちょい、ちょい。
 にんじん畑の向かい側にある、同じように土を柔らかく盛ってある場所を指差します。こちらは葉っぱは出ていません、が、よく見ると少しだけ草のようなものが出ていました。
「ああ。あっちはね、まだ芽が出てきたばかりなの。知らないだろうけど、にんじんはああやって芽が出るまでがほんと大変なのよー。最近は雨が降るようになったからまだいいけど、昔は機を見て適当に水を撒かないといけなくて辛かったわ。種を蒔いてからね、こうやって食べられるようになるまで100日以上もかかるのよ」
 ……次々に衝撃の事実が明らかになっていきます。
 食べ物は食べ物だと認識していた人形にとって、それが土の中で育つ生き物だということはまるで認識外だったのです。
 主人が地面から生えている草を抜き取るところは見たことがありますが、それらは全て魔法材料としての存在でした。食べ物というのは、店で買うものだったのです。
 うさぎさんの腕の中で揺られながら、人形はずっと感動に震えるのでした。

 にんじんをしっかり抱え込んで、人形はぺこりと頭を下げました。
「うーん。もう遅いし、戻らなくても、ここで迎えが来るのを待っていたらいいんじゃないかなあ」
 ふるふる。
 このうさぎさんの家は意外と広く、主人の力があれば竹林の中に入れば比較的簡単に見つけるかもしれません。しかし暗くなってきたということは、それ以前に、メッセージに気づかない可能性もあります。やはりもう一度戻ったほうがいいのです。
「そっかあ。ちょっと残念。それじゃまたあそこまで送るよ」
 ぺこり。
 重ねて感謝を表明するよう、頭を下げるのでした。
 家から絵の場所まで、うさぎさんの足で三十分くらいです。往復すると一時間もかかってしまいます。

 絵の場所にたどり着くと、人形はもう一度頭を下げました。
「いいって。友達でしょ?」
 うさぎさんはそういうと、地面の絵を指差しました。
 二人の絵が隣同士に並んでいます。
「やっぱり、いないね。ここで待つの?」
 こくん。
「うーん。そっか。ごめんね、一緒に待っててあげたいけど、私も心配かけちゃうから帰らないといけないの」
 こく、こく。
 人形は大きく頷きます。
 うさぎさんは微笑みながらも、心配そうに人形の頭を撫でました。
「早く会えるといいね」
 こく。
「それじゃ、バイバイ……かな。またこのあたり来ることがあったら遊びに来てね。待ってるから」
 こくん。
「よかったら、ご主人様からそのにんじんの感想も聞きたいな、なんて」
 こく。
「……うん。気をつけてね。それじゃ」
 ぎゅ。握手をします。
 うさぎさんは名残惜しそうに何度も振り返りながら、しかし急がないといけないようで、駆けるように帰っていきました。
 人形はまた一人になりました。
 いきなり、静寂に包まれます。
 空を見上げると、雲ひとつ無い空に月が浮かんでいました。少し欠けている月でした。

 そういえば。
 月を見て、ここにいる状態になる前の、最後の確かな記憶が、蘇ってきました。
 夜、いつもどおり部屋にいて、そのときににんじんを頼まれたのです。それが最後の記憶です。

 人形はにんじんをぎゅっと抱きしめました。大切なものを離さないように。
 主人は、現れませんでした。



『おかしいと思うこと、予想外の現象、それこそが一番大切な手がかりなのよ』
  ――魔法使いの教え、そのさん。



 夜が明けました。
 人形も人間と同じように、普段は眠りにつきます。基本的には、主人と同じ時間に。眠っている間に記憶を整理して、思考の効率化を図るのです。
 今回は眠らずに待ちました。主人と会うときに眠っていては立場が無いということもあり、また、せっかく手に入れた大切なにんじんを誰かに奪われてはいけないと考えたからでもあります。
 さていよいよ一大事です。一晩待っても主人と会えないとなると本格的に異常事態です。
 人形はにんじんを抱きしめたままもう一度色々な可能性を考えてみます。

 主人が人形に与えた試練説。この線は非常に薄くなりました。試練ならば主人はどこかで人形を観察していることでしょう。使用する力の量にもよりますが通常は人形の力を途絶えさせないよう常に力の補充を行うのです。以前は毎朝力の補充に相当する儀式を行っていたのですが、最近は手間の省略のため、そして万一の補充逃しがないように、主人と人形が近くにいれば自動的に力が補充されていくようになっています。近く、というのは、同じ部屋にいるという程度の近くです。
 力は人形にとって命そのものなので、力がなくなるということはいわば一時的に死を迎えるということです。そうなるとせっかく今まで学習して蓄積してきた記憶が無駄になってしまいます。もちろん、普段はそれをゼロにまで戻してしまうことのないよう、主人は人形の知識、記憶をまた別の記憶専用の人形に複製しているのですが。
 試練であれば、結果が失敗であっても成功であっても、経験したことの意味はあると主人ならば考えるはず、と人形は理解しています。それならば人形の力が途中で尽きてしまう恐れを抱えたまま続行し続けるはずはないのです。
 もちろん、人形自身の感覚として、昨日は余計な力をほとんど使わなかったということでまだ当面は問題ないと考えているわけですから、主人も同様に考えているという可能性を捨てきることはできません。しかし、人形の行動を常に監視していなければこの考え方は成り立たず、主人にそこまでの暇があるとも思えません。

 試練でなければ、まず事件と考えなければいけません。
 主人は何らかの理由があって、眠っている人形と一緒にここまで来て、この場所でトラブルがあって人形を置き去りにせざるをえなくなった、と考えてみます。
 眠っている人形を連れ出すという行動の動機は何でしょうか。主人はどこに行くときでも人形は連れて行きます。移動中は人形はあまり何もできないのであえて出かける前に起こす必要はないとも言えます。普通は主人がでかける時間には人形も自然に起きているので、今までにこんなことはありませんでしたが――
 ――そこまで考えて、人形は気づきました。昨日目が覚めた後、数十分も経たないうちに、空を見上げて時間を確認しました。そのときにすでに昼間でした。目が覚める時間が、遅すぎるのです。
 特別主人がいつもより早く出かけたというわけではなく、今回は人形の目覚めが遅かった、ということならば、眠ったままの人形を連れ出した理由もわかります。主人にとってみればいつもどおりの時間に出かけただけなのです。
 さて、眠っている間に移動していた理由の仮説は立てました。では、ここに人形を置かざるをえなかった理由とは何でしょうか。人形が遅くまで寝ていたことと関係はあるのでしょうか。
 ここが難問です。人形を置いていかなければならないトラブルが発生したとして、一晩経っても戻ってこない理由まで説明できる状況はそうそう考えられないのです。
 ……そもそもなぜ人形はそんな遅くまで寝ていたのでしょうか。
 眠る前の最後の記憶――主人の声。確か人形は、そこですぐににんじんを取りに行ったはずなのです。部屋の中にあるにんじんを。
 そして……
 そして?
 気がつけば、ここです。

 人形は頭を振りました。
 今こうして人形だけが一日以上取り残されているということは、間違いなく何らかのトラブルなのです。
 ここで主人が何らかのトラブルに巻き込まれた。その方向性で考えると不明確な要素が数多く残ってしまいます。
 だとしたら、人形自身の記憶の問題を考えても、おそらく。
 その何らかのトラブルは、主人のもとではなく、人形のもとに起こったのではないでしょうか。
 最初から主人はこの地にやってきてはいない――人形だけがこの場所に移動したという可能性。

 にんじんをぎゅっと抱えたまま、人形は改めて周囲を見渡します。
 人間の街があります。竹林があります。竹林にはうさぎが住んでいます。森は見えません。
 もう、待っているだけでは主人に会えない気がします。一人で主人の家まで帰るという選択肢も考えなければいけません。そうでなくとも、誰か主人を知っている相手を見つけて、伝言を頼んで迎えに来てもらうというくらいのことはすべきでしょう。
 まずはここがどこなのか、魔法の森から見てどのあたりなのかを突き止めなければなりません。
 人形は昨日と同じように、街へと歩き始めました。昨日のうさぎさんにお願いすれば何かと話は早いのでしょうが、竹林の中を通ってうさぎさんの家まで向かう道は複雑で、とても一人ではたどり着けないと判断しました。よく知ったはずの魔法の森の中でさえ、人形一人ではまともに歩けないのです。


 人間の街は昨日見たときと何も状況は変わりませんでした。
 最初に人のいない寂しい場所があって、次に店がたくさん並ぶ場所に出ます。
 昨日と違い重いにんじんを抱え込んでいるので、歩みは遅くなります。空を飛んでしまえば楽に早く進めるのですが、力の消耗はぎりぎりまで抑えなければいけません。
 ゆっくりと歩み続けます。にんじんを地面に擦り付けてしまわないように気をつけながら、高めに持ち抱えて歩きます。
 やがて昨日うさぎさんに出会った場所まで来ました。さらに見覚えのある景色を進んで、うさぎさんに連れられて来た中では街の一番奥のほうまで到達しました。ここまでが、昨日も見たところです。
 人形は疲労を感じることはありません。力が残っている限りは、淡々と歩き続けます。
 ただし、機械的な意味の疲労は必ず蓄積していきます。このように、体の同じ箇所に強い力がかかり続ける状態は好ましくはありません。やはり、定期的に休めたり、力のかかり方を変えたりする必要はあるのです。
 人形は一度動きを止めて、人通りのない路地裏に入って、にんじんを抱え込んで座りました。ここまででかかった時間は三時間ほどです。今日ももう昼になりました。
 今日も昨日と同じく、主人の姿がないかということには注目します。しかしそれ以上に、ここがどこであるかの情報を得るために、通りがかる人や店をよく観察します。観察したところですぐに何かがわかるとは思っていませんが、一つでも何かの発見があることを期待します。
 店を眺めていて、気がついたことはありました。今まで主人に街に連れてこられたときの印象に比べて、明らかに、店や商品の数に対して人が少ないのです。物を手に入れにくるほうの人がです。また、店のほうも、人を呼び込むために叫ぶといったような様子は見られません。ただのんびりと座っているだけなのです。
 ただ、そのことに気づいても、人形の知識では、ここがいつも主人が来ているような街ではないということしかわかりません、何となく違和感があるという程度のことでしかないのです。

 路地裏を出てさらに歩き続けると、やがて店が並んでいる場所は終わりました。そこから急激に家は減っていき、田畑が目立つようになり、それも少し歩くだけでただの更地になっていきました。
 実は最後まで行っても小さな街だったのです。人が少ない理由は単純にそういうことなのかもしれません。
 人形はここでまた考え込みます。このままさらに先まで歩いて様子を見てみるか、もう少し街中の、大通りではない場所まで見て何かを探すか。
 この先を見晴らします。森の姿でも見えればよかったのですが、残念ながらその様子はありません。ただこのままずっと平地が続いているように見えます。見晴らせる限り、ずっと、遠くまで。地平線と呼ばれるもの以外には何も見えないのです。
 進み続けたところで、魔法の森に帰ることができそうには見えません。
 期待が完全に外れて、やはり街中に戻るほうがまだ有益だろうと、人形は体の向きを街の方へと転換しました。
 何も見えないのでは、情報になりようがなく――

 ――はっ、と。
 気づきました。
 そんなはずはないのです。

 主人が確かに言っていました。幻想郷は山に囲まれた狭い世界だと。

 遠くにでも山が見えないはずがないのです。こんな晴れた日で視界も十分なのですから。
 主人も知らないような場所に来てしまっているのでしょうか。ここは、とんでもなく遠い世界なのでしょうか。
 もう一度踵を返します。
 何も無い景色を追いかけるように、また、歩き始めました。
 このままずっとずっと向こうまで行くと、何が見えるのでしょうか。どれだけ歩けば次の何かに当たるのでしょうか。
 行ける所まで行ってみたいと思い進み続けます。もちろん、今もにんじんは抱えたまま。
 歩き続けて。
 ごん、と。
 足が何かを蹴りました。
 何だろうと思って足を引っ込めて下を見ましたが、何もありません。確かに蹴った感触も音もあったのですが。
 不思議に思いながらも、もう一度足を踏み出します。
 ごん。
 ごつん。
 また何かを蹴りました。
 そしてにんじんを抱えている手が何かにぶつかりました。
 しかし、やはり何もありません。
 人形はゆっくりと手を前に出します。何かに触れました。目に見えない何かが、そこにありました。
 ぺたぺた。触ってみます。それは平らな何かでした。完璧に透明な窓ガラスが置かれているかのようです。触れたまま左右に動いてみると、それはずっと続いていました。
 さらに右にずっと歩き続けてみましたが、どこまでも途切れる様子がありません。
 人形は、おそらく残りが少なくなってきているであろう力を込めて、ふわりと浮き上がります。しかし、人間の頭の高さを軽く超えてもなお、やはりそれは続いていました。
 世界はここで行き止まりだったのです。



『思い込みは禁物。前提条件が間違っていたら絶対に正解には近づけないわ』
  ――魔法使いの教え、そのよん。



 人形はその後また最初の場所、つまり主人の絵を描いた場所に戻って夜を迎えました。まだ、主人がここに現れる可能性がないわけではないのです。また、ここが人形が何らかの理由で移動させられたまさにその場所だともし考えるならば、答えを見つけるためにもっとも重要な場所であるはずだからです。
 この夜は人形は眠りました。思考の効率化を図らないといけないと感じたためです。もちろん、硬いにんじんを抱き枕のように抱え込みながら眠ったのです。
 三日目に入りました。昨日は力を大いに使ってしまいました。おそらく、今日が最後のチャンスでしょう。力が尽きてしまえば、動きもしない、考えることもないただの人形です。あとは主人がなんらかの手段で見つけてくれるのを待つしかなくなります。
 大切な日です。

 この場所がもはや、魔法の森の近くである可能性はほとんどなくなりました。一番近いとして、竹林の向こう側がすぐ森になっているという可能性です。
 今日は道に迷う覚悟で竹林に向かうべきかと思案します。非常に危険な賭けです。しかし、これ以上街にはたいした期待はできないという思いもあります。
(んーふーふふー ららーらー)
 せめて、一昨日のうさぎさんの家まででもたどり着ければ、そこから先はなんとかなる希望が持てそうなのですが。
(らーらー るーらららーらー)
 ……考え込んでいると、何やら声が聞こえてくることに気づきました。
 声というか、歌です。
 歌が聞こえてくる方向を見てみました。
 どこかで見たような白い耳がまっさきに目に入ってきました。
「らーれー……ほあ? あれれ?」
 歌が止まりました。歌を歌っていた本人と人形の目が合ったからです。
 たったった……
 彼女は走ってきました。すぐに人形の目の前までやってきました。
「人形さん! どうしたの、また来たの……って……そのにんじん持ってるってことはまだご主人様と会えてないの!?」
 うさぎさんは、叫びました。
 人形は、この素晴らしい幸運を、とりあえずにんじんに感謝しました。


 今日もうさぎさんの胸元に収まりました。にんじんは相変わらず両手または片手で抱えています。
 うさぎさんのペースで歩くと、やはり街は本当に狭いのです。店が並ぶところまであっという間でした。うさぎさんは街に遊びに来たと言いました。子供たちと一緒に遊ぶのはとても楽しいの、と笑いました。
 人形はそういったうさぎさんの雑談の合間に、身振り手振りでなんとか、どうしてこんなに店があるのに人が少ないのか、という疑問をぶつけました。この質問が通じるまでには相当な苦労がありました。
 うさぎさんの答えは。こういうものです。
「それは、売る人が多くて、買う人が少ないからよねえ。みんな役割どおりに物は売るけど、別に売れなくても誰も困らないし買わなくても誰も困らないし」
 疑問はますます深まるばかりでしたが、これ以上の質問をジェスチャーで続けるのは不可能でした。
「人形さん、どうせ迎えが来ないなら一緒に遊んでいかない? 遊んでいたらそのうちひょっこり現れるかもしれないし!」
 うさぎさんはご機嫌でした。
 今日はあまり真剣に主人探しを手伝ってくれているという様子ではありません。遊ぶことしか話しません。
「えへー。可愛い人形さんだったから一緒に遊ばないままお別れは寂しいなって思ってたの。こんなすぐに願いが叶うなんて」
 胸元にいる人形からは見えませんでしたが、うさぎさんがとても晴れ晴れした笑顔をしていることは、雰囲気で伝わってきました。それは人形としても嬉しいことなのですが、少しでも早く主人のもとに帰らなければ力がなくなってしまう今の状況ではとてもうさぎさんの遊びにつきあってあげられる気分にはなりませんでした。

 うさぎさんの足は街外れ、つまり昨日人形が最後あたりに行った街の端にまで向かいました。
 子供たちの姿を見つけて駆け出すうさぎさんを引き止めるように、人形は服の袖をぐいぐいと引っ張りました。さらに街の外、何もない世界のほうに向けて。
「ん、どうしたの?」
 ぐいぐい。
 引っ張ります。昨日たどり着いた最後の場所へ。
「行きたいの? そっちは『端っこ』だよ? 壁しかないわよ」
 ――端っこ。壁。
 当たり前のように、うさぎさんからそんな単語が飛び出てきました。
「ほら、そんなことより遊びましょ! 今日は素敵な友達を連れてきたって紹介できるわ」
 うさぎさんは人形を抱えたまま子供たちの真ん中まで入り込みました。子供たちは、人間の子供たちでした。
 子供たちはこの新しい仲間を受け入れ、歓迎しました。
 ただ、遊びといっても人形にはその気はありません。第一、にんじんを抱えたままでは何もできません。
「それは、私が預かっておくから、ね? 信じてくれるかしら? 今は遊びましょ!」
 渋る人形の頭を優しく撫でて、うさぎさんは言いました。
 もともとうさぎさんからもらったにんじんです。今になって持ち逃げされるといった心配はする必要はありません。しかし別の意味で、つまり、うさぎさんが遊びに夢中になってにんじんをどこかに紛失してしまうとか、そういった意味での恐れはありそうに思うのでした。
 ――とはいえ、意地になって拒否を続けるのも、うさぎさんに悪い気がします。にんじんのこと以外にも大いに世話になっている恩人、もとい、恩うさぎさんなのです。
 人形はうさぎさんがにんじんの端をしっかりと捕まえたのを確認して、そっと力を抜きました。
 うさぎさんは「ありがとう」と小さな声で言いました。

 そこからは、人形も一度頭を切り替えて、遊びに専念しました。
 遊びといっても、今の人形は余計なことに力は使えません。うさぎさんはそのあたりをそれとなく悟って、力を使うほとんど必要のない遊びを選びました。
「あっちむいてほいッ! ……うわあ。何よ、人形さん強すぎじゃない。何か反則してないー? むむー」
 うさぎさんは、何回やってもこのゲームに負けない人形に、だんだんムキになっていきました。
 人形にとってみれば、ルールさえわかれば負けようがないゲームでした。弾幕の軌道を瞬時に判断して位置取りを決める、といった訓練を毎日のように受けている身にとって、直前の指の動きからその指がどこに向かうのかを予測するというのは簡単すぎる仕事だったのです。
 たまにうさぎさんも人間の子供たちもフェイントを使ってきましたが、そのどれもが、容易に意図が見抜ける稚拙なものに見えました。フェイントの達人である主人の技術をいつも目にしているわけですから、中途半端な騙しは通用しません。人形が今まで会った中で、主人に匹敵するほどの技術を持っているのは、ナイフを使うメイドが一人思い当たるくらいです。
「ぐう。く、くやしいわっ。一回くらいは引っ掛けてやりたいわっ」
 途中からもう、人形対他全員という構図の遊びになっていました。主役は人形でした。
 そのうち、三人で別々の方向を指差して、そのうちどれか一つにでも人形が引っかかったら負け、という極悪ルールに変更されたりもしましたが、それでも人形が負けることは一度もありませんでした。この三人同時攻撃は、誰かが「傍から見てると変な踊りに見える……」と漏らしてしまったことで終了することになるのでした。
「ふ……ふふん。さすがは私が認めたライバルね! 今日のところはこれくらいにしておいてください」
 こけっ。
 人形は可愛らしくずっこけました。
 やっぱりうさぎさんは満足そうに指を立てていたりするのでした。
 そのあとも、人形の都合を考えて、体をあまり動かさなくて済む遊びをいろいろしました。
 人間の子供たちの間でもすっかり人形は人気者になりました。言葉は喋ることができなくても、その手先の器用さや反射神経のよさは十分に子供たちを楽しませることができたのです。
 遊び終わった後に、うさぎさんが子供たちに言いました。
「あのね、実はこの人形さん、少し前からご主人様とはぐれちゃってるの。もし人形さんを探している人……女の人のことを知っていたら、教えてくれる?」
 子供たちはお互いに目配せをしながら首をひねります。
 結局、心当たりはないようでした。ですが、子供たちは勢いよく、色んな人に聞いてみる、自分も一緒に探してみる、と提案してくれたのです。
 人形はぺこりとお辞儀をしました。その気持ちはとても嬉しかったのです。
 子供たちと別れた後、うさぎさんは人形に向かって言いました。
「ね? 遊ぶことだって、ただの時間の無駄じゃないでしょ?」
 うさぎさんは人形の仲間を、友達を増やしてくれたのです。
 人形は再び渡されたにんじんを胸の中に抱えて、うさぎさんに、心の中で礼を言いました。

 ただ、このときにはもう人形は、うさぎさんや子供たちの努力は実を結ばないだろうと気づいていました。


 うさぎさんに連れられて、また最初の場所に戻ってきました。
「ね……もうここで待ってても、たぶん、ダメだと思うの。一緒に家に帰りましょ? そのままじゃ、にんじんも傷んでしまうわ」
 うさぎさんが言いました。
 迷います。これまでの情報から考えれば、むしろ逆に、この場所にいることこそがもっとも重要なのではないかと思うのです。まだ、根拠がそれほどあるわけではないのですが。もうまもなく力が全て尽きてしまうはずですが、そのときにこの場所にいることが大切なことなのではないかと思うのです。
 しかし、にんじんが傷んでしまうという言葉は効きました。悪くなってしまったものを主人に渡してしまうわけにはいきません。
「事情を言えばみんなにも歓迎されるよ! にんじんだって好きなだけ貰えるかもしれないわ」
 誘惑。
「そうしましょ。ご主人様が来たらここまで迎えに来てもらえばいいだけだもの」
 どの道、うさぎさんの中では答えは決まっているようでした。
 人形は決意します。うさぎさんの言葉の中に、みんなにも歓迎されるという言葉がありました。このうさぎさんの他にまだ何人かいるのです。最後、まだ力が残っているうちに、動けるうちに次の行動に出ることは大切なことかもしれないと考えました。
 おそらく、うさぎさんの家の中で人形は力尽きることになります。そのときにしっかりと預かっておいてくれるかどうかは、信じるしかありません。
 人形は頷きました。うさぎさんは、やったー、と声を弾ませて、気が変わる前に急げとばかりに早足で竹林に突入するのでした。

 移動している最中に、人形は情報の整理を行います。
 ここまでで、新情報がいくつか入ってきました。
 街の少し外に『端っこ』という壁があること。
 幻想郷は博麗の結界に囲まれた世界だということは人形も知っていました。そして、結界というのは断じて物理的な壁ではなく、自然の障壁であり、精神的な障壁でもあると教わっています。あの壁は博麗の結界ではないでしょう。反対側に歩いていってもいつか壁があるのだとすれば、ここは物理的に閉じた世界ということになります。
 考え始めると、気になる言葉がたくさんありました。
 うさぎさんは言いました。
『みんな役割どおりに物は売るけど』
 役割、という言葉がどうしても気にかかるのです。普通はここは仕事、と呼ぶはずです。
 物を売るという作業自体が役割であって、結果的に売れるかどうかは重要なことではないと言っていたのです。
 思えばあのときの言葉も変でした。
 にんじん畑を見たときの言葉です。
『最近は雨が降るようになったからまだいいけど、昔は機を見て適当に水を撒かないといけなくて辛かったわ』
 確かにこう言いました。単純に一時的に雨の降らない時期があって大変だったけど最近はそれなりに降ってくれる、という意味だと聞いたときは思ったのですが、考えてみればどこか違和感があるのです。降るようになった。昔は。まるで、以前は雨が降るという現象自体が存在せず、最近になって雨という現象が始まるようになったと、そう聞こえるのです。
 気にし始めるとまだまだ不思議なことはありました。
 もっと根本的な不思議がありました。
 ここの街の人は、人形が自分で動いているということを自然に受け入れすぎるのです。人形が知らないだけなのかもしれませんが、主人の人形以外に動く人形というのは他のどこでも見たことがありません。物知りな妖怪たちが自分を見て驚くという場面を何度か目にしてきました。ところが、ここでは、人形が動いているというその点について注目を集めたことは一度も無いのです。
 まだあります。最初の場所に描いた絵のことです。土の上に描いただけなのですから、三日も経てば、たとえ人が誰もその上を通らなかったとしても、風化して少し見えにくくなってくるはずなのです。その様子はまったくありません。
 一言で言えば、ここは、人形の知る常識とは少し違う世界なのです。
 役割という言葉。雨という現象がある時期を境に始まったという推定。人形は、一つの仮説を立てました。
 ここは、意思を持った誰かが作った世界だということ。
 すなわち、主人の故郷である魔界のように。

 寂しいのは、このような考察を人に伝える手段をうまく思いつかないことでした。このまま誰に伝えることもないまま力尽きてしまい、自分自身も忘れてしまう、どこにも残らない思考です。せっかくここまで近づいてきた気がするのに、活かしようがないのです。
 人形はやはり主人がいなければ無力です。
 もしちゃんと再会することができれば、今度は文字の読み書きを真っ先に教えてもらおうと決意します。いつこのような事態があるかわからないのです。もはや優先順位の低い学習ではないと主人に主張しなければいけません。
 もちろん、この決意もまた消え去る運命にあるのですが、それでも。


「たっだいまー!」
「んもう、だからもうちょっと早く帰ってきなさいって言ってるでしょ……って、何、その人形」
 うさぎさんの挨拶に別の声がすぐに答えました。ひょこりと現れたその姿もやはりうさぎさんでした。人形を見てきょとんとしています。
 人形がにんじんを抱えたまま軽く頭を下げると、あらご丁寧にどうも、とうさぎさん……うさぎさん二号も頭を下げました。人形を抱えているうさぎさんに比べると少しだけ大人っぽい仕草ですが、やはり子供と同じくらいの小さな女の子でした。
「あのね、この人形さん、ご主人様とはぐれちゃってるの。もう三日も迎えが来ないから、一緒に探してあげてるの。迎えが来るまで泊めてあげてもいいよね?」
「それは大変ね。私が決めることじゃないけど、いいんじゃないかしら」
「うん。大丈夫よ。きっとみんなの人気者になるわ!」
 うさぎさんは勢いよく家の中に上がりこんで、廊下を走って一つの部屋の中に入りました。誰もいない狭い部屋でした。
 人形を部屋に隅に下ろします。
「にんじん、とりあえず葉っぱを切り落とすね。栄養取られちゃうから」
 こくん。
 人形は素直に頷きました。このまま持ち逃げされてしまうなんてことは心配する必要はありません。
 うさぎさんは微笑んでにんじんを預かって、部屋を出て行きました。
 部屋の隅に人形が腰を下ろすと、部屋を出て行ったはずのうさぎさんがひょこりと覗き込みます。
「そうだそうだ。人形さん、にんじん畑に興味あったよね? また見に行く?」
 ……
 ぶんぶんぶんぶんぶんっ!
 激しい勢いで人形が頷くと、うさぎさんは耳をぴょこんと立てながら笑いました。
「後で行こうねっ!」

 にんじん畑。前回来たときと同様に、今日も夜です。
 前回との違いは、こそこそとする必要がないということでした。ゆっくりと見学することができます。
 持っていたにんじんは、悪くならないように別のところに保管しているということで、今は手元にはありません。
 相変わらず、たくさんの葉っぱが地面から生えていました。そして、別の場所ではちょこんとした芽が生えています。
 人形は近くからまず大きな葉が生えているところを眺めます。しゃがみこんで見てみると、葉っぱの下に微かに塊になっているもの、にんじんの本体となる部分の先端が見えていました。
「人形さん、にんじんのことはあんまり知らないみたいね。にんじんの橙色のところは、根っこなんだよ。根っこにこんな綺麗な色がつく野菜なんて珍しいのよ」
 ぱちくり。
 うさぎさんの言葉に目を丸くします。
 根っこというのは、草を抜いたときに地面から出てくる細い残骸のようなものという印象があったからです。時折魔法材料として根っこの部分を必要とする草もあったので、ただの捨てるものではないとは知っていたのですが、それが食べ物にもなるとは思いもしませんでした。
 世の中にはまだ知らないことがたくさんあるのです。世の中は驚きに満ちています。
 今度は小さな芽が生えているほうを見ます。小さな小さな芽です。これが時間が経てば大きな葉になって、その根がにんじんになるのです。
「ね。迎えに来るまでの間さ……うん、早く迎えが来たほうがいいんだけど、待っている間だけでも、一緒ににんじん育ててみない?」
 うさぎさんが言いました。
 人形は顔を上げました。
 それは、願ってもいない提案でした。それだけの余力、時間さえ残されていれば。
 人形は、数秒のためらいの後、首を縦に振りました。たとえこのあと人形の力が尽きてしまい、人形自身がこの約束を忘れてしまったとしても、約束自体は有効です。もう一度力を吹き込まれたときに約束が果たされれば問題はないのです。
 約束の後も、この夜はにんじん畑全体を歩き回って見学しました。いったいここから何本のにんじんが生まれてくるのだろうとわくわくします。
「明日はお日様が出てる間にまた来ようね。いっぱいの緑が綺麗だよっ」
 夜はほとんど色がわかりません。明日の昼になれば、緑いっぱいのにんじん畑の姿を目にすることができます。
 せめてその瞬間くらいまで力が残ってくれますように、と人形は月を見上げて祈りました。
 三日月の光がにんじん畑をかすかに照らしてくれました。太陽の光に比べるととても弱い力です。魔法使いにとっては月の光は重要な力の源なので決して軽視できるものではないのですが、今だけはもっと明るければいいのにと不満に思うのでした。
 うさぎさんの胸元に収まって、ぼんやりと明日のことを考えます。太陽が出たらすぐにでもここに来ようと決心します。
 無駄になる知識、無駄になる経験でも、構いません。今の自分がその光景を見たいんだと人形は思いました。
 早く明日になればいいのに。早く朝になればいいのに。その思いでいっぱいです。
 月を恨めしく見上げます。
 ――ふとした違和感が、ありました。
 うさぎさんが歩く中、今の感覚はなんだろうと、しっかりと月を見つめます。何かがおかしいのです。ごく普通の月であって、魔法の森からよく眺めていた月と同じはずなのですが、しかし、変だ、と人形の中の直感が囁くのです。
 にんじん畑への思いを一度断ち切って、起きながらの記憶の整理を始めます。違和感の正体は徹底して突き詰めなければいけません。致命的なことになる前に。
 普通の月。色がおかしいわけでも、形がおかしいわけでもありません。
 二日前にも絵を描いた場所から月を見上げました。そのときには何も感じませんでした。今はこれはおかしいと思う理由。
 二日前と今とで違う要素。月を見上げた場所、見上げた時間、見上げた日。
 見上げた日。二日前。二日前。
 ――違和感が、確実な異常発見へと変貌しました。
 そうです。月が欠けすぎているのです。二日前に見上げた月は、満月から少し欠けた、ちょうど今見えている月と足せば満月になるくらいの月でした。二日間で三日月にまでなってしまっているのです。
 そのことが何を意味しているのかはわかりません。誰かが作った世界なのだとしたら、あの月も誰かが作ったもの、つまり人形が知っている月とは違うものなのかもしれません。月まで作ってしまったということであれば、いよいよ本格的に閉じた世界、幻想郷から切り離された世界です。
 ますます、どうして自分がこんな場所に来てしまったのかがわからなくなりました。来てしまっている以上は、接点がどこかにあって、そこから入り込んでしまったということなのでしょう。
 逆に考えれば、同じ接点から帰ることもできるはずです。この理屈でいえば接点は目を覚ましたあの場所に他ならないはずなのですが、現実は、そこで一晩、二晩過ごしても帰ることはできませんでした。
 もう一度あの場所を綿密に調べてみよう、そう人形は決意します。明日起きて、にんじん畑を見て、まだ力が残っているのならば。

 その夜はうさぎさんたちによる人形の歓迎会になりました。
 うさぎさんたちは皆陽気で遊び好きでした。運んできてくれたうさぎさんの、人形さんは疲れてるみたいだから休ませてあげて、という言葉がなければ、まさしく倒れてしまうまで遊びに付き合うことになったかもしれません。
 うさぎさんたちのリーダーらしきうさぎさんにも会って、正式に滞在許可を貰いました。主人探しの件については当人は「大変ねえ」と言うだけで特に興味はなさそうでした。細かいことはここまで運んできた馴染みのうさぎさんに全部任せるという立場のようです。
 この部屋で、三人のうさぎさんと一緒に寝ることになりました。人形にとっては部屋の中で眠るのは久しぶりのことになりました。
 明日もこの体がまだ動きますように。この意識がまだありますように。
 そう願って、眠りにつきました。




『それ自体は魔法じゃなくても魔法に影響を与える要素はたくさんあるわ。それを軽視するようでは、魔法使いとして三流ね』
  ――魔法使いの教え、そのご。



 新しい朝が来ました。希望の朝です。喜びに胸を広げ青空を仰ぎます。嘘です。まだ部屋の中です。
 人形はうさぎさんより先に目を覚ましました。動けるようです。嬉しいことです。まだ、やりたいと思っていたことができるのです。
 このこと自体、不思議なことではありました。最初の日から経過した時間を考えるとこの朝まで耐え切れるとは思っていなかったのです。人形には、もちろん、実際に自分の力が尽きてしまったという経験はありません。力尽きてしまえば記憶がなくなってしまうのですから、経験のしようがありません。しかし、もうすぐ力がなくなってしまうという限界に近い状態で複製、保存した記憶は今でも持っています。まだ生まれてから間もない頃に、主人が人形の力の容量などについて実験を繰り返していた頃の記憶です。今はもう、そのときに使った力の量は超えているように思うのです。
 ともあれ、行動は早いほうが望ましいことに変わりはありません。うさぎさんの隣でその目覚めをじっと待って、目が開いたと思ったらすぐに体を揺すって催促しました。
 今日もいつもの定位置、うさぎさんの胸元に収まります。

 朝日を浴びたにんじん畑は、ややまだ灰色がかっていましたが、緑色に包まれていました。
 緑色の葉っぱが地面からこれほどたくさん整って生えているという光景は人形にとっては初めてでした。森の中で木々が作る緑色よりもずっと鮮やかな色でした。
 感動していると、うさぎさんは、私が育てた畑よ、と誇らしそうに言いました。人形はうさぎさんの手を撫でてその労をねぎらいました。
 是非とも主人にも見せたい光景でした。主人は人形よりは遥かに長生きして多くの場所を見ているのでこの程度のものは当たり前なのかもしれませんが、感動を共有してみたかったのです。これだけあれば、にんじんはもう街まで買いに出かける必要もありません。
 小さな芽も、最初に見たときに比べて少し大きくなっているように感じました。本当に育っているんだということがわかります。これがどんどん育っていって、隣にあるような大きな葉、にんじんになるのです。もし機会があれば、その全過程を見てみたい、と思いました。
「そろそろ、間引きしたほうがいいみたいね」
 うさぎさんが小さな芽のほうを見て言いました。
 言葉の意味がわからず、首を曲げてうさぎさんのほうを見上げると、うさぎさんは解説を始めます。
「あまりたくさん生えてくると根っこがぶつかっちゃって、お互いの生育を邪魔しちゃうのよ。だから、密集しすぎないように時々抜いちゃうのよ」
 ふむふむふむ、と人形は頷きます。
 うさぎさんが実際に芽の様子を見ながらいくつか抜いていくのを見学します。抜かれた芽には根っこがついていましたが、普通に人形がよく知っている根っこのイメージそのままであって、これが将来はにんじんになるということは知っていなければ想像がつきませんでした。
 うさぎさんの見積もりや作業の手際はとても素早くて、ずっとこの仕事を続けてきたということを想像させるに足るものでした。
 人形は、にんじん畑の面白さに心惹かれると同時に、うさぎさん自身のことについても思いを馳せました。この世界自体が誰かの創造物だとして、創造されたときにうさぎさんはこの役割を与えられたのでしょう。本人は、創造主の存在を知っているのでしょうか。会ったことがあるのでしょうか。
 いつか逆に、このうさぎさんを幻想郷に招待することができたとき、幻想郷を見て何を思うのでしょうか。

 うさぎさんに頼み込んで、また、この場所に戻ってきました。人形が最初に目を覚ました場所。葉っぱを落とされたにんじんを抱え込んで、やってきました。
 世界の接点があるとすれば、ここに違いありません。眠っている間に誰かが人形の体を動かしたということがなければ。
「やっぱり、ご主人様がこれを見たような形跡はないわね。まだ待つの?」
 ふるふる。
 人形は首を横に振って、絵を描いた地面、その周囲をじっと観察します。少しでも情報が必要です。
 やがて、うさぎさんの胸元から降りて、自分の足で歩き始めました。
「探し物?」
 うさぎさんは人形の意図がわからず、同じように地面を見つめたりきょろきょろしたりと、動作の真似をしてみます。
 人形は少し迷って、また首を横に振りました。広い意味で探し物ではあるかもしれませんが、そんなことを伝えようとしても混乱を巻き起こすだけです。
 またうろうろし始めた人形を見て、むぅ、と唸って、うさぎさんは地面に腰を下ろしました。
「ここなんだよねえ。人形さんがご主人様とはぐれちゃったの。そのときのこと、何があったのか聞きたいな。あ、そうだ。私が人形さんを見つけたのが三日前だからはぐれたのもその日だって思い込んでたけど、それはあってるのかな?」
 この言葉に、人形は、一度頷きかけて、その動きを止めて、何度か首をひねって、しかし今度ははっきりと頷きました。
 人形がここに移動させられてから何日も眠り続けていたという可能性はないわけではないのですが、力の容量のことを考えると、長期間眠っていた可能性は低いように思ったのです。
 その後、人形は全身を使った仕草でなんとか、気がつけばここにいた、主人はここに来てからはまったく会っていないということを伝えました。
 倒れているような仕草をしたり。きょろきょろ見渡しては首をひねるような仕草をしてみたり。
 うさぎさんが仕草の解釈を言葉にするので、それに対して何度も肯定否定を繰り返しながら、ゆっくりと伝えていきました。
「そっか。はぐれた、というのとは違うんだね。もっと難しい問題なんだね」
 人形の頭を撫でながら、うさぎさんは微笑みました。
「人形さんのご主人様は、神様なのかな。人形さんは天使。天使が私たちに、何かを伝えに来たのかもね」
 うさぎさんは空を見上げました。
 今日は少し曇り空でした。そのうち雨が降り出しそうな天気です。
 うさぎさんは目を閉じました。
 風が吹かないこの場所に、鼻歌が響き渡ります。うさぎさんは少し口を開いて歌います。
 楽しい気分になるような、明るいメロディです。
(んーふーふふー ららーらー)
 心地よく耳にすっと入ってくるこの歌は、昨日の朝にも、うさぎさんが遠くから歩いてくるときに歌っていたものでした。お気に入りの歌なのでしょう。
(らーらー るーらららーらー)
 確かにこのメロディは。
 以前に。うさぎさんより前に。
 どこかで聞いたことがなかったでしょうか?

「天使の歌だよー」
 うさぎさんが言いました。
 元気になれる素敵な歌でお気に入りだと言いました。


 人形は昼の間ずっとその場に残って調査を続けました。街に遊びに行ったうさぎさんの帰りと一緒にまた、うさぎさんの部屋に戻ってきました。
 途中から雨が降ってきたので人形の服は全身濡れてしまいました。うさぎさんも一緒でした。
 今は洗濯をして、乾かしているところです。
 空を見上げると、月が見えませんでした。天気のせいもあるのでしょうが、それ以前におそらく今日が新月なのでしょう。
 布一枚を体にまとって、今日のことをまた思い返します。
 仮説がさらに膨らんできました。もう、答えは見えてきたように感じました。
 魔法使いの主人を持つ人形として、魔法使いらしい実験をすればいいのです。



 五日目の朝が来ました。体はまだ動きます。
 動くはずのない体です。どう考えても、力はなくなっているはずでした。
 現実問題としてまだ動けている、まだ力が残っているという現象を説明できる理由は、二つだけ考えられます。
 一つ。
 何らかの理由で力の消耗が低く抑えられている。
 そしてもう一つ。
 力の補充を受けている。
 ――主人が近くにいることによって。


 今日はよく晴れました。にんじん畑は、鮮やかな緑に包まれていました。
 雑草むしりに励むうさぎさんの様子と、小さな芽の様子を交互に眺めます。
 遊んでばかりいるように見えるうさぎさんも、畑に向き合うときは真剣でした。命を育てるということだから、簡単なことじゃないんだよ、と誇らしげに言いました。
 すでにすっかり葉っぱが大きくなっているほうも、最初に見た日よりまた大きくなっているように感じました。
「この緑いっぱいの景色とは、今日でしばらくお別れだからね。しっかり目に焼き付けておくといいわ!」


 六日目。今日はにんじん畑にこもりっきりになりました。
「さ、収穫だよっ! 一番の楽しみの日だわ!」
 大作業でした。うさぎさんは、大きな葉っぱを持って、たくさん並ぶにんじんを、一本一本抜いていって、かごに入れていきます。
 土の中から現れるにんじんの姿は、時折やや細長かったり太かったり分岐しているものもあったりと様々でした。
 かごのなかがいっぱいになっては、重そうなそれをせっせとどこかに運んでいって、また空になったかごを持って帰ってきて、作業を再開します。
 うさぎさんはにんじん一本一本の様子を見ながら満足そうに頷いたり、少し厳しい表情になったりと、その場で評価をしているようでした。
 緑いっぱいだった畑が、見る見る間に土の色だけになっていきます。作業は昼に一時間ほどの休憩を取っただけで、あとはずっと繰り返されました。
 全部の収穫が終わると、また小さい芽が並ぶ畑のほうの世話に入ります。忙しいことです。
 今日は人形も雑草抜きを手伝いました。特に知識が無くてもできる仕事だったからです。
「うん、今回もいい出来だわ! さすが私ね。人形さんにも私の凄さを是非味覚で体験してほしいけどそれはできないのが残念だわ」
 どうやら、収穫されたにんじんの質には満足いったようです。
「人形さんもありがとう。それだけ熱心に向き合ってくれれば、きっといつか立派なにんじんマスターになるよ! 私が保証するわ!」
 うさぎさんは今日も元気でした。


 七日目。
 人形にも、芽を見れば、育ちが悪いものか、逆に育ちすぎているのか、わかるようになってきました。
 すっかり見た目が寂しくなってしまったにんじん畑ですが、次のにんじんは着実に育ち始めていました。
 乾燥しているときは、水をやります。乾燥はにんじんの最大の敵! と、うさぎさんは気合を入れていました。
 今日も残った時間で、街に遊びに行きました。今日はまた子供たちと会って遊びました。子供たちは各自の調査結果、つまり人形の主人に関する聞き込み調査について、今のところ何の収穫もないと悔しそうに伝えてくれました。
 人形は、もう調査はいらないという意思を伝えて、頭を下げました。人形のことを思って涙を流す子供もいましたが、うさぎさんや人形が一緒に頭を撫でると、なんとか笑ってくれました。
 元気いっぱいに楽しく遊びました。
 最後にもう一度、ぺこりと子供たちに向かって頭を下げました。


 八日目。

「ね。このままご主人様に会えなかったら……なんてこと、言わないほうがいいとは思うけど……うちにずっといてくれていいからね。一緒ににんじん作っていこう?」
 にんじん畑で芽の様子を観察しながら、うさぎさんが小さな声で言いました。
 人形は、うさぎさんの顔をじっと見つめました。
 そして、微かに、首を振りました。横に。
 うさぎさんは、そうだよね、ごめんね、と言って淡く微笑みました。
 人形はぴょん、と跳ねて、うさぎさんの後ろから肩にしがみつきました。手に少し力を込めて、きゅ、と背中から抱きしめました。
「あー。そうされるとちょっと重いかも……あいやいや冗談、冗談、ひゃはっ……もうっ」
 うさぎさんの手が、人形の手を握りました。
 ぐ、と少し引っ張って、背中の上に安定した形で乗せます。
 にんじん畑の土を見つめたまま、うさぎさんは呟きました。
「……伝わったよ、ありがとう。私も人形さんのこと、大好きだよ」
 うさぎさんは、今日は一日背中に人形を背負ったままの作業になりましたが、文句は言いませんでした。

 日が沈み始めました。
 人形は空を見上げます。うっすらと、満月が見え始めていました。
 にんじんを一本抱え込んで、うさぎさんの袖を引っ張ります。
「うん。行くのね」
 うさぎさんは人形の表情を見て、聞き返すことなく、いつものように人形を胸元に乗せて、家を出ました。
 長い竹林の中を、一切迷うことなく歩き続けます。人形の主人が森の中を歩くときよりもずっと迷いの無い足取りです。主人の場合は長距離移動ならば空を飛んで木の上に抜けてから移動するため、このように森の中を歩き続けることはあまりありませんでした。
 竹林を抜けると、少しすれば人間の街です。その街の手前に、人形が目を覚ました場所がありました。
 到着した頃には一気に日が沈んでいて、暗くなっていました。

 魔法の残り香がする。
 最初の日、うさぎさんはここでそう言いました。
 この場所が世界の接点だとして、その接点を開くものがあるならば、魔法なのでしょう。

 人形が主人の家にまだいた頃の、最後の日の記憶。
 あの時は、家の中から夜空を見上げました。今日のような、綺麗な満月の日でした。
 満月の日は、世界に満ちる魔力も、魔法使いが持つ魔力も大幅に増幅されます。自然現象的な魔法が発生してたまに人間たちを驚かせるのは、いつでも満月の夜です。

「人形さんのご主人様は、魔法使いなのよね」
 うさぎさんは満月を見上げて呟きました。
 腕の中に抱えた人形を、ぎゅっと抱きしめました。
「魔法使いが現れそうな夜だわ。ねえ人形さん。そう思って、ここに来たのよね?」
 人形は首を振らず、うさぎさんの指を撫でました。
 手の甲に小さく一度、口付けをします。
 うさぎさんはくすぐったそうに笑いました。
「私ね、もしかすると、生まれて初めて、魔法使いと戦っちゃうかもしれないわ。この子は渡さない、なんてね」
 うさぎさんの手が、人形の頭の上にぽん、と乗りました。
 人形は少し目を閉じました。
「……なんてこと、ちょっとだけ考えてたりもしたけど、馬鹿なことよね。そんなことしても勝てるわけもないし、逆に二度と遊びに来てもらえなくなっちゃうだけだわ。それに……人形さんは、ご主人様と一緒にいなきゃダメだもの」
 くるん、と腕の中に抱えた人形の向きを変えて、人形の体を、顔の高さが合うように持ち上げて、見つめあいます。
「だからね! ご主人様と一緒に来てくれたら、にんじんいっぱいプレゼントしてあげる! それでもう公認のお友達のはずよ。間違いないわ」
 うさぎさんは笑いました。
 人形も笑いました。

 人形は、うさぎさんの手を離れて、ふわりと浮かんでから、ゆっくりと地面に降り立ちました。
 地面にぺたんと座って、口をぱくぱくさせるような仕草を見せます。
 目を閉じて、ゆっくりと。
 うさぎさんは、こく、と小さく頷いて、空を見上げて歌い始めました。

 天使の歌。うさぎさんはそう呼びました。人形の主人が思いつきで創作したはずのこの歌を。
 なぜ、天使の歌なのか。天使の声のように、聞こえてきたからでしょう。空高くから。
 空を見上げると、歌に反応するように、空の一点に青白い光が生まれていました。
 接点は、この絵の場所ではなく、この絵の真上、空だったのです。
 満月は魔法の力を増幅させます。
 歌は時に魔法になります。
 今、うさぎさんの歌声は、主人にまで届いているかもしれません。この世界を中に持つ、主人の家にまで。

 人形はにんじんを抱きしめたまま、歌ううさぎさんのもとまで歩いていきました。
 うさぎさんは歌を中断して、人形ともう一度見つめあいました。
「やっぱり、天使だったんだ、人形さん」
 人形の頭を、ゆっくりと、撫でました。
「天使の歌を聴きながら、空に帰るんだもの」
 青白い光は、歌い終わってもすぐには消えませんでした。
 ふわふわと空に漂って、帰るべき人が手を伸ばすのを待っていました。
 人形は、ふわりと浮かんで、今度はうさぎさんの頬にキスをしました。
「ばいばい。今度は、はぐれないようにね」
 うさぎさんの顔から離れて、こくん、と大きく頷きました。
 もう一段、高く浮き上がります。あとはもう、上っていって、接点に手を伸ばすだけです。
 見上げるうさぎさんの顔が小さくなっていきました。白い耳が、月明かりの下で輝いて見えました。
「にんじんの味の感想、ちゃんと聞かせてよー!」
 最後にもう一度大きく頷いて。
 にんじんをぎゅっと強く抱きかかえて。
 光へと、飛び込みました。







 ぱちくり。
 ぱちくり。
 きょろきょろ。
 さて、ここは、紛れもなく、見覚えのある景色です。
 人形は、真っ先に自分の腕の中を確認しました。そこにしっかりと、にんじんが抱え込まれていました。
 ランプの光で照らされた周囲は、最後の記憶のまま、野菜の貯蔵庫だったり、キッチンだったりしました。窓から見える外は真っ暗で、夜も深いということがわかります。
「ごめん、上海、にんじんまだー? もしかして切れてたー?」
 声が聞こえました。
 その声を聞いた瞬間に、にんじんをぎゅっともう一度強く抱きしめました。本当に帰ってきたのです。
 人形はすぐさま飛び出して、主人のもとへ駆けつけました。にんじんはちゃんと持っています。この命令は無事に果たすことができました。
 たった今人形が飛び去ったその背中の後ろでは、小さな世界がひっそりと佇んでいました。

「あ、よかった。ちゃんとあったのね。って……あら、こんなにんじん買ってたかしら? なんか形も色も……んー、ま、いっか。ありがとね。……きゃ!? ど、どうしたの上海、いきなり抱きついてきたりしちゃって……ん、もう、仕方ないわね。ほら、なでなでしてあげる。……いつからこんな甘えん坊になったのかしら……うふふ」







[epilogue]

「ああ、アリス。ちょうど話があったのよ。いいところに来てくれたわ」
「あら」
 図書館。いつもどおりに本を返しに、また新しいものを借りにきたアリスに、パチュリーは呼びかけた。
 パチュリーの向かい側に座ると、ずいっと何か小さなオブジェのようなものが差し出された。
 アリスと、机の上に腰を下ろした人形が、同時にそれを見つめる。
「これ、しばらく預けておいた箱庭なんだけど」
「ああ、これね。魔法の森の魔力を受けて進化を早めようとしたとかいう」
「ええ。実験は概ね成功だったわ。もう、かなり本格的に永遠亭とその周辺を再現できていると思うわ」
「よかったじゃない。役に立てて光栄だわ」
 箱庭作りは、少し前からこの魔女が趣味の一つにしているものだった。以前は非常に凝った模型という程度だったものが、最近は生態や生活まで再現してしまおうと魔法の力を駆使して取り組んでいるとのことだ。材料集めや時間の切り離しなどで紅魔館のメイド長も絡んでいるという。いずれは、この中に入って自分が住むことができるほどのものを作ろうなどと言っているほどの壮大な計画になっている。
「それでね、アリス。あなた、ここに落書きなんてした?」
「へ? してないわよ。何か、まずいことになってた?」
「それがねえ」
 パチュリーは顕微鏡をアリスの前に差し出した。手で鏡筒を支えて動かしながら見る、簡易的なものだ。
「竹林と街の間くらいのところ、見て」
「んー?」
 アリスは顕微鏡を動かしていく。
 普通に地面が続いていくだけで、特に目新しいものがあるようには思えない。
「もう少し街寄りね」
「うーん……あ。……あれ? これ……」
「見つけた?」
「うん。でも……」
「ね。その絵、私が見る限り、貴女の似顔絵に見えるわ。とんでもなく小さいけど」
「……無理よ、こんなの。砂粒に漢字が描けたとしてもこれは無理だわ」
「そうよね。どうやってやったのかしらと思って」
「隣にも絵があるじゃない。うさぎ?」
「ええ。それはたぶん、その世界の住民の絵だと思うんだけど」
「文字もあるわね、その下」
「そのようね」
「『ずっと ともだち』……ね。何かしら」
「貴女がやったのじゃないなら、別にいいわ。他人の空似でしょう」
「うーん」
 頭を悩ませるアリスの隣で、人形は箱庭をじっと眺めて。
 家に向かって、小さく手を振った。

「それにしても最近、らしくない本借りていくわね。新しい趣味でも始めたの?」
「この子が急にね。にんじん栽培したいって。小さいスコップとかじょうろとか作るの結構大変だったわ。気がつけば私の庭、半分が畑になっちゃってて自分でびっくりよ」
 そう言ってアリスは人形の頭に手を置いた。
 人形はぐっと親指を立てて胸を張ってみせた。
「やってみるとこれが結構楽しかったり難しかったりしてね――」




FIN.









【あとがき】

 タイトルがえっちぽいのは気のせいです。

 世間にとってはどうでもいい一つのSSですが、自分にとっては大きな意味を持つSSです。
 どういうことかと申しますと、なんとまともに書いた東方SS(ネチョ含む)で、これが初めて、魔理沙が出ないお話なのです! わーきゃー。皆勤賞ついに途切れる。南無。
 ちなみにアリスが出ないお話はいくつかありました。皆勤賞は今まで魔理沙だけだったのでした。

 感想、ご意見などなどお待ちしております。と、珍しく普通にしめてみます!


 最後に。

イメージイラスト。鰻さまより。

 鰻さまからイメージイラストをいただいてしまいました! ありがとうございますー!!
 うさぎさんも人形も可愛いよっ! わああい。嬉しすぎて色々と濡れてしまいました!