しとしとと、弱くではあるが、雪が降り続いている。空は雲に覆われ、昼間だというのに辺りは薄暗い。
地面では溶けかけた雪が層を作り、新たに落ちてくる雪を吸収してゆく。
シャーベット上の氷が靴にまとわりついて、隙間から容赦なく冷たい水が浸入してくる。足はもうとっくに感覚を失っていた。ただ、痺れるような痛みだけが絶え間なく襲ってくる。
傘を差さない体に、雪が落ちては消えてゆく。
(雪は、どうってことないんだけど…慣れてるから)
栞は、遠くで木々が大きく揺れるのを確認して少し顔を歪める。
とっさに身構えた直後、強い風がその体を吹きぬけた。
この風が問題だった。時折吹く強い風が、冷え切った体に的確に直接的なダメージを加えていく。
(耳が痛い…)
もう何度目になるのか、冷え切った手でさらに冷えた耳を押さえて暖める。これでなんとか一時的にでも痛みは引く。
同じように両手で頬を押さえて体温を取り戻そうと擦り合わせてみる。
ただ、足の痛みだけはどうしようもなかった。
「んー………やっぱり私って、バカなんだろな…」
誰もいない空間に向かって、一人呟いてみる。
そんな自分も嫌いじゃないかも、なんて思ってみたりして。
ざく………
溶けかけた雪を踏む独特の音。足音が、聞こえた。
「ゆうい―――」
何時の間にか俯いていた顔を上げて、反射的にその名前を呼ぶ。
来ると思っていた人の名前を、呼びかける。
そして、すぐに人違いに気付いて、途中で止める。その姿は、待ち人にはあまりに程遠い。
見知らぬ姿ではなかった。確実に、こちらのほうに向かって歩いてくる。
もうすでに、あと数歩というところまで。
「…あたしの知っている相沢祐一は、少なくとも女子の制服は着ないと思うわ」
「似合いそうな気もするけど…」
「否定はできないわね」
近づいてきた彼女は、ゆっくりと右手を振りかぶって、そのままごんっと握り拳で栞の頭を殴る。
少し濡れた音がした。
「…痛い…酷い、お姉ちゃん」
「あんた、そんなに風邪ひきたいの?ちょっとは自分が体弱いってこと自覚しなさい。………ほら、手どけて」
頭を押さえる栞の手を強引にどけると、制服の中からタオルを取り出して頭をぐしゃぐしゃと乱暴にかき回す。
あっという間にぼさぼさ頭の出来上がりだった。
「う…拭いてくれるのは嬉しいけど、もっと優しく……」
香里はぽん、とタオルを簡単に畳んで栞の頭の上に乗せる。
何も言わず、正面からじっと見つめる。
「え、えっと。お姉ちゃん、どうしてここに…」
「あたしだってこんな所に用はないわよ。たまたま廊下歩いてたら中庭で雪の中に立ってる見覚えのあるバカの姿さえ見つけなきゃ」
「…ごめんなさい」
香里は、大きく…やや意図的に大きくため息をついてみせる。
新しく取り出した乾いたハンカチで手を拭きながら。
「相沢君と約束でもしてるの?」
「う、ううん。ただここにいたら来てくれるかなって…祐一さん…」
「バカね」
表情も変えずさらりと言い放つ香里に、悲しくて少し俯く。
その通り、だから。
「会いたいんだったら教室まで来ればいいじゃない。それか前もって約束しておくか」
「それじゃ…面白くないから…」
面白くないから。
ただ、それだけのためにわざわざ雪の降る中に立っているというのだろうか。
香里は呆れた顔を隠さず向ける。
「来なかったらもっと面白くない事になるわよ」
ただ寒い思いをして待ちつづけて、誰も責める事は出来ず。
空しいだけだろう。
「………だから、来てくれた時はそれ以上に面白い」
「そ。まあそれはあんたの勝手だけど。天気ぐらいは考えなさい」
雪はもう香里が歩いてきた頃から止んでいた。
そうでなければ、話をする余地も与えず香里は栞を屋内に引きずり込んでいたに違いない。
動く気配のない栞を見て、肩をすくめる。
「たぶん、来ないわよ。今日は図書室に向かっていたみたいだから」
設計上、図書室からは、中庭は見えない。見えなければ来る道理もない。
呼んでくるにしても、今から戻って探すのでは遅すぎる。
栞は少しだけ目を伏せる。
「そう…」
「さ、早く中に入りましょ」
手を取り、その冷たさに顔をしかめ、引っ張る。
栞は動かない。
困ったような顔で、立ちつくしている。
「…栞」
「あ、あのね、お姉ちゃん。ちょっとお話、しない?」
「話?いいわよ、中に入ってからね」
ぐいっ、と手を引っ張る。
ぐいっと引っ張り返される。
「……ここで」
「もう一回殴るわよ」
「…ここがいい」
香里の冷え切った視線に少し怖気づきながらも、栞は引かずに主張する。
「ここでなきゃいけない理由を明確に説明して」
「昼休み終わるまで、ここにいるつもりだから…」
目を逸らし気味に伏せながら、消えそうな声で呟く。
その言葉に香里はきっと目を鋭く細める。
「あんた、まさか今日だけじゃなくて毎日ここに立ってるの?」
声も自然、強くなっていた。反射的に栞が体をぴくりと震わせる。
「違うよ…今日、なんとなく思いついて…」
「嘘ね」
栞のその言葉を迷わず一蹴する。
完全に確信のある言葉だった。
「どういうつもりよ?ただ面白いから、でやるような事?もしこんな所でふっと倒れこんで寝てしまったらそれこそ命に関わるわよ!?まだ健康体ってわけじゃないんだから」
「…うん」
「そうでなくても、毎日こんな所に立ってるのを誰かに見られてたら変な噂だって流れるかもしれないじゃない。ここだって―――」
言って、校舎のほうを振り返って、見上げて。
香里は、言葉を止めた。
「―――どうして、『ここ』なの?」
そこは、校舎の形の都合からほとんど影になる部分、ほとんど校舎内からは見えない場所だった。
香里がたまたま通った場所は、ほんのわずかの例外の位置。
無論、祐一のいる教室から見えるような場所ではない。
「だって……」
栞は、ぽつり、と小さな声で。
「ほとんど見えない場所なのに、気付かないような場所にいるのに、それでもここで会うことが出来たら…すごく奇跡的だと思うから」
顔を上げて。
「ほら、祐一さんと色々思い出のあるこの中庭で、昼休みに偶然出会ったりしたらなんだかドラマチック…」
「本物のバカね、あんた」
「う…さっきからもう3回くらい言われてる気がする……」
完全に呆れる香里と、しょげる栞。
「………まったく。で、話って何よ。仕方ないから聞いてあげるわよ、ここで」
「え…?う、うん。ありがとう…」
「あんたほど寒さに強いわけじゃないんだから、手短にお願いするわ」
「うん………」
栞は少し体を楽にするように木にもたれかかった。
濡れていて、冷たかった。
「お姉ちゃん、男の子に告白したことってある?」
ひとつ咳払いをしてみせてから、栞が切り出した。
「あるわけないでしょ。あたしは生まれてこのかたそんな事とは全く縁がないわよ」
「そ、そんなに自信たっぷりに断言しなくても…」
至極当然の事のように言い切られて栞はとりあえず苦笑いで答えてみる。
「でも、逆ならいっぱいあるんじゃないかな?」
「……いっぱいっていうのがどれくらいなのかわからないけど。そうね…今までで、6人…かしら」
「わ…やっぱり、凄い」
栞は嬉しそうに手を合わせて笑う。
「告白されただけでそれだけいるなら、少なくともその3倍くらいの子には想われてるはずだよ」
それが栞の独自の論理だった。
ただの推測で何の根拠もないのだが、栞はこの説に自信を持っている。
「…そういうものかしらね」
「あ、興味なさそうー」
「ええ」
全くどうでもよさそうな香里に、少し悔しくてむくれてみる。
「誰かと付き合った事とか………ないよね、やっぱり」
「一生無くてもいいわ」
「うぅ…そんな悲しい事言わないで……」
分かってはいた事だが、香里はそういった方面には徹底的なまでに無頓着だった。
香里の事を好きになってしまった人は可哀想かも、と少し思う。
そういえば祐一が、同じクラスに香里に片想いしている人がいるとか言っていただろうか。気の毒に。
「…で?」
何が言いたいの、と香里が先を促す。
「あ、うん…私は、つまり、祐一さんに告白しようと決めたわけです」
「……………はぁ?」
香里は素っ頓狂な声をあげて首をかしげる。
「あんた達、付き合ってるんじゃないの?」
「えと…まだそういう状態でも」
指を口元にあてるお馴染みのポーズで、栞が答える。
「あたしからすれば、名前で呼んでたりお弁当作ってあげてたりする時点で十分恋人なんだけど」
少し目が冷たい。
それは、もっともな主張であった。
「でも、祐一さんにとっては全然そんな事ないみたいだから」
「それはそうかもね」
これにはあっさりと同意する。思い当たる節はいくらでもある。
なるほど、栞は祐一にとってどれくらい特別かは疑問かも知れない。
香里の基準で言えば、名雪も十分にラブラブしている。
「…相沢君のどこがそんなにいいんだか全く理解不能だわ」
眉をひそめて呟く。
「物好きは私だけじゃないって事なんだね」
栞も意地悪く笑いながら同調する。
「じゃ、お姉ちゃんはどういうのが好みなの?」
「別に好みなんてないわよ。万一好きになった人がいたりしたら、それじゃそれが好みのタイプだったんだ、でいいんじゃない」
「きっと、祐一さんのことも、そんなもんだよ。どうして好きか、どこがいいかなんて意味が無いよ」
栞はすっと目を閉じて、深く息をする。
「どこが好きってはっきり言えちゃうのは、寂しいよ。その部分が好きじゃなくなったら、その人にはもう何の興味も無くなっちゃう…理想の押し付け合いじゃ、気持ちいい恋はできないよ」
「そう。別にそこまで大きな話をしたつもりはないんだけど」
楽しそうに話す栞に、どうでもいいとあっさり釘をさす。
「………」
悲しかった。
恋愛論を披露するような相手ではないのは分かっていたとこだが、それにしても本心から何の興味も無さそうな態度があまりに寂しかった…
「それで、いつ告白するの?」
「いつになるかは…分からないの。明日かも知れないし、来年度に入ってからかも。ずっとダメかも」
「何よそれ」
どう説明したものか、と栞は苦笑いを浮かべながら、上手い言葉を考える。
「今更…という事もあるから、普通の時に言っても勿体ないから…」
もたれかけていた木から背中を離し、また2本の足だけでここに立つ。
もはやその差すら感知できないほど足の感覚は薄れていた。
「だから、ここで待ってようかなって」
偶然この中庭でばったりと会って。
驚く彼に運命的だねと笑って。
「…少し、話を聞いてくれますか?」
私は、密かに準備しておいた物語を語りだす…