人の意図がよめないときというのは、全てが怖く見える。
「ね」
何故か手を繋いで歩く二人。名雪と祐一。
―――否。
正確に表現すれば、二人が手を繋いでいるというよりは、「名雪が」祐一と手を繋いでいる。
家を出るなり、ごく自然に手を取ってきたのだ。
…今まで一度でも手を繋いで登校したことがあっただろうか?いや、ない。疑問に思うまでもない。
「わたしね、今日初めて祐一の寝顔見ちゃった」
くすくす、というようないつもより陽気な笑い声で、本当に楽しそうに言う。
祐一はぞっとする。名雪がその時見たのはもちろん祐一の寝顔だけではない―――もっと重要なものを目撃してしまっているのだから。
なのに名雪は笑っている。自ら朝の話題を持ち出して嬉しそうに話している。それが―――怖い。
「そ…そうか」
「可愛かったよ。寝ていると女の子と区別つかないね」
どうして名雪はこうも陽気に話せるのだろうか?どんな裏があるのだろうか?
そればかりが気になって祐一は普段の素早いツッコミすら浮かばない。
そんな祐一の顔を覗き込んで―――
「…でも、男の子なんだよね?」
オトコノコ、という単語に微妙なアクセントをつけて。
妖しげに微笑んで、さらに身体を寄せてくるのだった。
(や…やっぱり暗に朝の出来事の事を非難しているのか?…俺は何を言えばいいんだ…?どういう言葉が期待されているんだ………?)
既に祐一パニック。
「ほら、もっと早く歩かなきゃ。遅刻しちゃうよ?…今日も二人は仲良く遅刻して教室に入っていきました。教室中の注目を浴びています。”ホントにあの二人いつも一緒にいるよな…””随分見せ付けてくれるじゃない””どうせ昨日もイイ事してたから寝不足なんでしょ?”教室中でひそひそ話が聞こえます。授業中もちらちらと注目を浴びながら、先生にまで”ああ、お前たちの事は分かっているぞ。まあ程々にしろよ”みたいに笑いかけられたりして二人で真っ赤になりながら今日も一日を過ごしました。―――なんて事を期待してるなんてっ、もう…祐一のエッチ♪」
「………………」
頭がくらくらした。
あれだけのセリフを一息で言ってのけた名雪は恥ずかしそうに身体をくねらせながら、こっそりとさらに祐一のほうに体を密着させてくる。
もう手を繋いでいるというより、完全に腕を絡ませている状態だ。
「…なあ、名雪。えーと…………その、言いにくいんだが……何がやりたいんだ?」
「何がって?」
普通に聞き返される。
「いや…今日はやたらに体くっつけてくるし…」
色々思うところはあったが、一番無難そうなところからツッコんでみる。
………………
…しばらく待ったが、返事が無い。
不思議に思って、ちらりと名雪のほうを伺ってみると(今まで怖くて見ていなかった)、何やら俯いて身体を震わせている。
……零れ落ちる雫が一滴。
(って、泣いてる!?)
「お、おいっ…どうしたんだっ」
「…祐一は、わたしと手を繋ぐのはイヤ?わたしの事…嫌い?」
かすかな涙声で名雪が下を向いたまま訴える。
焦る。
「ま…待てって…そんな事は言ってないだろ?ただ不思議だと…」
「………イヤじゃない?」
「ああ」
「じゃ、嬉しい?」
…予感はしていた。
きっと名雪ならこういう風に持っていくだろうと。
名雪は―――卑怯だ。
「…嬉しくないわけはないだろ」
女の子と手を繋いで歩く事が。嫌っている相手でもなければまず嬉しいのは間違いない。
…普通なら。
今は正直怖いとはさすがに言えなかった。
「良かった…」
ぎゅ、と腕を強く握る。
「ごめんね泣いちゃったりして。なんだか凄く不安になっちゃって。でも安心したよ…祐一、本当は嬉しくてたまらないのにそれに気付かれると恥ずかしいから照れ隠しでちょっと嫌がっているような事を言ってみただけだったのにそれを真に受けてゴメンね♪」
ごんっ。
いいタイミングで目の前にあった電柱に正面衝突する祐一。
反動で手が離れた。
「ほら、電柱に抱きついてる余裕はないよっ。急ごうよ」
名雪は容赦なく祐一の手を取り、引っ張るように歩き出す。
(ハマっている…気がする………)
まだ1日は始まったばかりだった。
例えば1限目、リーダーの授業中。
「あ…すみません先生、教科書忘れてきてしまいました」
「ん、じゃあ、隣の奴に見せてもらえ」
「はい♪」
何の迷いも無く机を動かして祐一の机にくっつける、名雪。
(…なんでこっちなんだよっ。反対側女子じゃねーか…)
(えー、でも、絶対こっちのほうが自然だよ。向こう行ったら、あれあの二人ケンカしたのかなって思われちゃうよ?)
(………わかったよ…)
1限目は名雪がすぐ隣でずっと座っていた。
最初名雪が机を寄せてきた時に浴びた注目と、一部の刺すような視線が痛かった。
ただ、それよりも…
祐一は、名雪が教科書忘れるとは珍しい、どんなに急いでいるときでもそう言う事は無かったのに、やっぱり朝のあの事件の影響なのだろうか…とそんなことばかり考えてしまって授業が手につかなかった。
例えば2限目終了の休み時間。
「次の数学、前出て書かなきゃいけないんだよ」
「…知ってる」
「そうだよね。二人で夜中まで頑張ったもんねっ」
………
(…なんでわざわざそこをでかい声で言う…?)
確かに「出来ないよ〜っ」と泣きついてきた名雪と一緒にこの問題は解いた。だがそれは9時くらいの話であって、夜中までという表現が正しいのかどうか。
ついでに言えばすぐに寝そうになる名雪を起こすだけでも重労働だった。というかそっちのほうがメインだったかもしれない。
「祐一、凄い体力だよね。わたしがもうダメだって言ってるのに全然寝かせてくれないんだもん」
「多分俺のほうが普通だ…」
と、言いかけて、ふと周囲の気配の変化を感じる。
休み時間特有のざわめきが…この周辺だけ一瞬消える。
「え?…え?」
気が付けば10人くらいの注目を浴びていた。
「やっぱりあなたたち―――」
「ほらな美坂、言ったとおりだろ?」
「やっりぃ、俺の勝ちだな」
「くそ………やっぱ割の悪い賭けなんかに乗るんじゃなかったぜ…」
………………
………えとせとら。
「…って、ちょっと待てーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!コレはアレか!?いわゆる思わせぶりな名雪の言葉でお約束的にみんな勘違いという―――」
「名雪にしっつもーん♪その時の相沢君はどうでしたか!?意外と夜になると獣になるタイプ!?」
「きゃ、わたるちゃん過激〜っ!」
「うぅん。時々怖かったけど…いつも優しくしてくれるよ…///」
勉強の手伝いを。
「だああっ!!!名雪も余計な事言うな!というかむしろ肝心の所を言えっ!!俺らはただ勉強してただけだろうがっ!?」
「ま―――”勉強”だって。相沢君、結構シチュエーションに凝るタイプだ〜」
「違うっ!!!!!!!っつーかお前も喋るなっ!!場が混乱するだけだ!!」
がらがらっ
「はい席に着いて〜。授業始めるぞー」
先生の乱入であっという間に生徒が席に戻る。
残された祐一は一気に去っていく彼らを呆然と眺めていた。完璧なタイミングで、ちゃんとした説明をする機会を逃す事になった…
…名雪は幸せそうに笑っていた。
例えば昼休み。
いつものように4人で学食。
今日の名雪はなんだか危険だ、逃げようかと思っていたが、腕を掴まれて「さ、一緒に行こ?」と言われると逃げる口実も思い浮かばず結局そのままついて来てしまった。
「…なあ、ぶっちゃけた話、お前ら付き合ってるんだろ?」
ぶほっ
お代わり自由の学食お茶で思い切り咽る祐一。
いきなり問題発言を切り出したのは北川だった。
「そう見えるかな?」
名雪は頬を赤く染めて微笑んでいる。肯定しているようにしか思えない態度だ。
祐一は慌てて首を横に降る。
「違う。誤解だ。朝の事も―――」
「…だってよ、水瀬さん」
「振られちゃったわね」
「う、うん。いいの…祐一がそう言うんだったら…いいんだよ、わたし……」
「あーあ…可哀想に」
「ここまで来て認知しないなんて鬼畜ね」
「だ、か、らっ!!本当に何でも無いんだってのっ!!信じろ!あと認知って言うなっ」
ふんっ、と北川は祐一に掴みかかる。
「じゃあ相沢、他に彼女がいるのか?」
ぎくり。
祐一は最も痛い質問を受けて狼狽する。名雪の目の前でそれを聞くか、と。
その瞬間脳裏に浮かんだのは―――真琴の顔だった。
ただ恋人なのかと言われれば悩む。そうなのだろうか。付き合っている、という感覚はない。
…真琴の事を思うと、自然、昨晩のコトが思い出される。思い出したくない。だが間違いなく最も強烈に記憶に残っている出来事。まだ鮮明に蘇る感触―――
祐一は顔が紅潮してくるのを避けられなかった。
「反応アリね」
目敏く香里が祐一の動揺を察知する。
祐一は慌てて頭から思い浮かんだもの全てを振り払う。…あまりにも遅すぎる。
「なるほどな…」
北川は冷めた目で祐一を見て、名雪のほうにもう一度向き直る。
「まあ…頑張れよ」
「後は当人たちの問題だしね」
ここぞと、北川と香里の息はぴったり合っていた―――
―――帰り道。
「祐一は…真琴のコト、好き?」
ようやく。
朝以来、初めて名雪は真琴の名前を口にした。
それは、この上ないほど単純な質問だった。
祐一は一瞬迷う。…だが、確かに正直な気持ちはそこにある。
恋人ではないかもしれない。子供のじゃれあいが発展したような関係なのかもしれない。
それでも祐一は確かに、真琴に想いを寄せていた…と思う。
「…ああ。俺は真琴が…」
「違うよ」
しかし祐一の正直な言葉は、名雪によってあっさりと遮られる。
表情は見えなかった。
「何―――っ」
何が違うんだと言いかけた祐一の口は一瞬の隙に塞がれていた。
すぐ目の前にある名雪の顔で。
重ねられた唇によって―――
「…!?」
名雪の力は思いのほか強く、何の構えも出来ていなかった祐一はそのままコンクリート塀に押し倒される。
しっかりと握った両手、全身に密着する柔らかいカラダ…かつて見たことの無いほど間近に見る名雪の顔。
唇に感じるくすぐったいような、甘い感触。
「んん………」
あっという間に理性なんて吹き飛んでしまいそうだった。
愛を誓い合うような、長い長いキス。
…十数秒もたつと、ふっと名雪が身体を離した。
「…ふ、はぁ、はぁ………」
無意識のうちに息を止めていた祐一が空気を求めて荒い息をつく。
まだ、両手は抑えられて体は壁に押し付けられた状態のまま。
慌てて振り払おうとしても―――情けないことに、今のですっかり脱力してしまって力が出ない。
「…どうして…こんな」
「ふふ。祐一、ドキドキしてる」
「く………当たり前だ…っ」
からかうような名雪の言葉に怒って反論する。こんなコトをされて平然としていられる人間なんていて欲しくない。
しかも人通りは少ないとはいえ、いつ誰が通るとも分からない歩道の真っ只中だ。名雪の行動は多くの意味で無茶苦茶なものだった。
「―――同じだよ」
名雪は表情を消して、静かに言い放つ。
「…ああ?」
「今わたしとキスして、ドキドキしてる。祐一は真琴とエッチして、凄くドキドキしたからそれでカンチガイしてるだけ。それで前から好きだったんだって思い込んでしまっただけ―――」
「………!!か…勝手に決めるなっ!俺は前から確かに…」
「じゃあ、祐一はわたしのコトは全然何とも思っていないの?」
名雪は正面から目を覗き込んでくる。…前から祐一は、これに弱かった。何も嘘をつけなくなる。
「そりゃ…気になっていなかったって言ったら嘘になるさ。でも俺はやっぱり真琴が…」
「それがカラダを許した分の差だったら、許せないな」
繋ぐ手にかかる力が、少しだけ強くなる。
「違う!そうじゃないんだ…そんな事が大事なんじゃないっ」
「ねえ、祐一。わたしの事も好きなんでしょ?…試してみてからでも、遅くはないと思うケドな?」
「………っ!!バカな事をっ」
「だって…このままじゃ不公平だと思わない?わたしだって諦めがつかないよ―――」
再び名雪が迫ってくる。今度は優しくカラダを擦り付けるように…
………と。
次の瞬間に祐一が見たのは、突如目の前に現れた少女少女した満面の絵と、「りぼん」の文字だった。
ごん、と鈍い音を立てて、分厚い少女マンガ雑誌が名雪の則頭部に直撃していた。
手が離れた。
「―――いい加減にしなさいよっ!!」
解放された祐一がともかく体を起こして、本が飛んできた方向を振り向くと、少し離れたところに真琴が立っていた。
横に倒れかけていた名雪が、ぐぐっと持ち直して素早く真琴のほうを睨む。
「何よ!邪魔しないでよっ!!もうちょっとで祐一もその気になっていたのにっ!」
「んなワケないでしょっ!ちょっとは手段選びなさいよっ!!」
真琴がずんずんと歩いてくる。
祐一は呆然と眺めていた。
(ともかく…助かった)
それだけは今確実だった。問題はこの次だ。真琴がここまで歩いてきた時、何が起こるのだろう?
「…っ!!ま、まあ待て。二人とも落ち着けっ」
分からないが、何事も無くこの場が治まるとは到底思えないのでともかく先手必勝で止めにかかる。
「祐一も祐一よっ!!簡単にこんなのに引っかかってるんじゃないわよっ」
「こんなの!?何よずいぶんエラそうじゃない居候っ!!早速今日の夜あたりからあなたの立場をイヤというほど思い知らせてあげよーか!?今日お風呂出たら間違いなく服は置いてないと思いなさいよっ!」
「だあぁーーーーーーーーーっ!!!!落ち着けっちゅーにっ!!」
「祐一もどうしてもっとはっきり言えないのっ。俺たちの邪魔をするなとか一言言えば終わりでしょ!?」
「…う」
そこを突かれると祐一は痛かった。
結局は名雪の事も完全に切り離せないからこんな事態を招いてしまったのか………
「勝手なこと言わないでよっ!!真琴だって別に祐一とちゃんと付き合ってるってわけじゃないんでしょ!?祐一の態度見てたら分かるんだからっ」
痛い。
あと間違いなく近所中に聞かれているのが痛い…
「悪いわね。真琴と祐一は付き合ってるとか付き合っていないとかそんな簡単な言葉で言えるような浅いカンケイじゃないの。まあ体売って機嫌取ろうとするような名雪にはわからないでしょーけど」
「お、おい―――」
だんだん険悪になってきている。
名雪の目が光っている。かなりマズかった。
「…俺はどうすれば」
「大変そうですね」
「ああ…本当に大変だ―――」
………………
………
「…秋子さん!?」
「はい」
「い、い、いつから聞いてました?」
「つい先程ですよ。祐一さんが落ち着けって言っていたのが聞こえてましたから」
「…はあ」
なんだか間の抜けた会話をしているこちらには気付かず、真琴と名雪はまだ激しく言い争っていた。
(だいたい毎朝近所迷惑とか考えた事無いの!?そのうち騒音で民事にかけられるわよっ!)
(勉強もしてない働いてもいないごくつぶしのクセに一人前に権利だけは主張するんだ。害虫以下の迷惑生物だよね)
………既に祐一の事は何にも関係ない話になっている。
再び頭を抱えて悩む祐一。
「あらあら。激しいですね」
「ど、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか…って、秋子さん?」
何事も無いように普通に真琴達のほうに少し歩いて近づく。
そして、いつも通りの声で、言った。
「はいはい、二人とも、ご飯の準備するから手伝ってね」
「あ、は〜い♪」
「うん。任せてお母さん♪」
………………
ごく普通に、二人は答えて秋子の後についていく。
ほんの一瞬前までとんでもない口喧嘩が繰り広げられていたとは到底想像出来ないほど、普通に。
………………
………
「………え?」
恐ろしく色々なツッコミが頭の中を駆け巡った祐一が、発する事が出来たただ一言がそれだった。
夕食。
「というわけで、祐一さん、どうぞ」
「はい。えーと………俺、相沢祐一は、正式に沢渡真琴と恋人として付き合うこととなりました。よろしく」
ぱちぱち………
祐一の言葉に、ただ一人拍手をする真琴。
秋子の提案で作られたこの場。つまり、もうここで公に宣言してしまえばいいという事になったのだ。
テーブルにはまだ手をつけられていない夕食が並んでいる。
(恥ずかしいが………これで良かったんだ。なあ?)
誰にともなく、心の中で呟く。
これでもう今日みたいな争いは起こらないだろう―――
「異議あり」
………………
「……はい?」
名雪が思い切り手を挙げていた。
「名雪、どうぞ」
(え…異議発言許可!?)
予定外だった。
「わたし、水瀬名雪は、沢渡真琴に完全決着がつくまでの決戦を申し出ます。それが終わるまで先程の決定は猶予とする事を要請します」
「了承」
「待てい」
―――何にも解決してへんやんっ!!
数週間後、今度は「どういう基準で決着がついたと見なすか」で激論が繰り広げられる事となる。
………懲りない面々だった。
FIN.
【名雪編・あとがき】
中途半端なものを書いてしまいました。
…いつもそうですか(笑)
まあ、珍しくはっきりしない結末にしてみました。だいたいこういうのって僕は完全決着つけるほうが好きなんですが。
この次、真琴編です。ですが…続きではありません。
まあ…分かりますよね。ちょくちょく気になる事を書いてますから(笑)
ではでは。