第6章:告白
「北川君にね…好きだって言われたの」
二人、いつものように病院に向かう足取りは…少しぎこちない。落ち着かない微妙な空気。この真っ赤な夕焼けもまたそれを後押ししているのか。もしそうなら、完全に日が沈んだらこの雰囲気も次のステージに向かうのか。
香里は、風が吹けば消えてしまいそうなほど小さな声で呟いた。
それでも聞き取れるほどに周囲は、二人は、静まっていたが。
「…そうか」
予想通りではあった。北川の表情はこの事を予兆していた。
やはり、先を越されていたわけだ。
「…ごめんね」
俯いたまま香里はまた、小さく謝った。
「どうして…謝るんだ?」
祐一もまた、視線は数メートル先の地面を見つめるように向けて話している。
謝る理由が分からない。
まさか――まさか、「だから北川君と付き合うことにしたの」という展開になるわけでもあるまい。もしそうなら、あの時北川を止められなかった事をいつまでも後悔するだろうが。
まさか、だ。
「全然気付かなかったから…相沢君よりもずっと前からだって言われたのに気付いてなかったから驚いたわ。驚いて…すごく恥ずかしくて…正直言うとね、嬉しかった…」
本当に申し訳無さそうに。
本当に正直な気持ちを。
「………」
言葉が出ない。
理解は出来る。実際、仲の良かった人に真摯に好きだと言われて全く嬉しくないということはないだろう。困りはするかもしれないが。…北川は、一般論的にも好かれるタイプだろうし。
だから、理解は出来る。
それでも…痛いものは仕方が無い。分かっている。嫉妬だ。
「それで。返事はどうしたんだ?」
努めて平静を装って尋ねる。
今すぐ隣を歩く香里を抱き留めたいほどの衝動を内に抱えながら。
「……返事?」
香里がここで学校を出て以来初めて顔を上げて、聞き返す。
「返事だ。――イエスなのか、ノーなのか」
「え…? イエス、ノーって、何が?」
「………ん?」
完全に何のことか分からない、という香里の声に今度は祐一が首を傾げる。
少しだけ、気まずいような空気が澄んでいく。
そして――すぐ後には理解していた。
「そうか…付き合おう、とは言われなかったわけだな?」
「つ、付き合うって……ええ…言われなかったわよ」
普通。
通常は告白という時点で、好きだと言った時点で、その意味も含まれるものだ。だから省略される事も多い。
好きです。返事ください。――それで慣例的に意味は通じるのだ。
ただ、香里にその観念は無く、おそらく北川にもその意思は無く――
「言いたい事は言えたからもう満足だ、ごめんな、ありがとうって…」
自分との決着をつける。そんな感じだったのだろうか。
北川の心は、祐一には分からない。だが、冷酷な言い方だとは思うが、それはさほど重要な事ではなかった。重要なのは、北川が確かに引いてくれたという事実。
「それに…嬉しかったけど、やっぱりあたしは…あれからずっと考えたけど、あたしは」
結果的にとは言え、友人の失恋を喜ぶ自分が確かにいる。自覚できるだけに、痛い。
でも間違っているとはまるで思わなかった。ここで自分も遠慮するなんて論外だ。
名雪の言ったとおりだ。
好きなものは仕方が無い。せめて、誰よりも強く、大きな声で、好きだと言いたい。
結局恋愛は、この最も原始的な感情に支配されるのだろう。
どんな論理よりも。
――そういうわけで、ライバルの皆様、許して下さいませ。
「相沢君に、恋してたみたいだから」
恋。
好きという気持ち。
祐一が何か言おうと口を開く前に、香里は急ぐように言葉を続けた。
「たぶん、一人だと自分がこんな事になっているのも気付かないままだった。栞に名雪に…北川君にも教えてもらったわ。言われてみると思い当たる節があったりして…色んな事思い返しているうちにだんだん分かってきて。急に寂しくなって、泣いて。そこまで行ってようやく初めて気付いたの」
告白。
ほんの少し前まではまるで考えもしなかった。
「…本当はちょっと気付いてて、わざと抑えていたのかもね。自信が無かったの。あたしが好きなのは『相沢君』なのか、『栞を助けてくれた人』なのか…それがたまたま相沢君だっただけで、栞を助けてくれた人なら誰でも良かったのか。…今もまだはっきりしていないわよ?」
「たまたま、で構うもんか。きっかけなんてそんなもんだ。俺は偶然知り合った女の子の姉さんがクラスメイトで、たまたま楽しくて栞と一緒に遊んで、気がつけば栞の容態が好転した。結果的に香里とこれだけ仲良くなれた」
まだ香里の告白に鎮まらない動悸を感じながら、早口で一気に話す。
喜び。照れ隠し。主張。
言ってて、また恥ずかしくなる。緊張に硬くなる。どうも――こう、遠まわしなのは向いていないらしい。
結局、今言うべき言葉は一つしかないのだから。それだけ言ってしまえば、楽になる。
すう――
大きく、ゆっくりと息を吸った。吐いた。吸った。
間違っても、ここで言葉に詰まったりどもったりしないように。こういう時くらいはカッコよく決めたいな、なんて思った。
「ありがとう。嬉しい。俺も香里の事が大好きだ」
色んな話をした。今までのこと、これからのこと。
香里は本当に恥ずかしそうにほとんど俯いていたが、声には喜びを溢れさせ、繰り返し何度も友人達への感謝を唱えていた。
栞、ありがとう。
名雪、ありがとう。
北川君、ありがとう。ごめんね。
みんな、ありがとう。
今、本当に幸せだと。信じられないくらい幸せな気持ちだと。
「せっかくだし、手繋いで病室に入って栞を驚かせようか?」
「…あ…うん……でもあの子は驚かないと思うわよ? 分かってますよーって笑われそう」
「………そうだな」
そんな事をしなくても、栞なら雰囲気だけであっという間に二人の関係の変化を見抜いてしまいそうだ。
こういう事では、香里はもちろん、祐一も全く敵わない。
ある意味、それ以上なのが名雪なのだが。その割に二人とも当人は恋愛沙汰にはそれほど縁が無さそうに見えるのが不思議なものだ。
何か、それがふとおかしく思えて、祐一は笑った。
日が沈んだ。
街灯が次々に点灯されていった。
香里の手は、小さくて、ちょっと冷たかった。
第7章:最大値問題
恋愛は方程式だと言っていた。
「ふ…栞、あなた間違ってるわよ」
「…退院して久しぶりに家に帰ってきたって日に、いきなり何を勝ち誇ってるかなこの人は…」
香里にとって記念すべき日となったあの日から、2週間後。学校はもうすぐ春休み。
退院祝いのパーティは家族で盛大に行われた。さすがにその中に祐一の姿は無かったが、明日にはまた別に祐一と香里と3人で祝う予定になっている。
で、終わってまったりムードになった途端、これだ。
気合十分な香里を視界の端に収めながら、やれやれとソファに深く腰掛ける。
間を置かず、香里も隣に座った。
「答えなんて存在しないんだから、方程式じゃないわ。あたしと相沢君は…その、恋人になったわけだけど、それで終わったわけじゃないでしょ?」
「ああ…そーゆー話ね」
何を言い出すかと思いきや。
香里のほうからこんな話――恋愛話が出るとは、実に珍しい。
いざ恋人が出来ると人間簡単に変われてしまうものなのだろうか。
「答えはないけど、少しでもいい状態、理想的な状態っていうのは見えてるし、なんとか近づく事もできる。方程式っていうより、あたし達っていう関数があって、その最大値問題に近いんじゃないかしらって思ったの」
――訂正。
姉は、変わったようで、やっぱり姉だった。美坂香里だった。
何か難しい事を言ったような気がしたが。
最大値……なんとか。
「……えと…何?」
「変数がいっぱいあるすごく複雑な関数で。あたしの気持ちとか行動とかは当たり前だけど、それだけじゃなくて周りのみんなも全部変数になり得るの。みんなの考え、気持ち、言葉。特にあたしの場合、栞と名雪っていう項の影響力が凄く大きかった。二人がいなかったらせっかく十分に育ってた自分の心にも気付かないままだったかもしれないから…感謝してるわ。…ホントは裏で一番大きな存在になっていたのは北川君なのかもね。今のあの様子だと…これからは一番の主要変数になるのかしら」
怪訝そうに聞き返した栞の声が聞こえたのか聞こえてないのか、香里は興奮気味にどんどん言葉を紡いでゆく。とても楽しそうに。
…ともかく、まだ話は続きそうなので黙って聞いておく。
「時間ももちろん変数になっているの。だから同じ行動でもタイミングが少しずれれば全く違う結果になってしまう…市場経済にも似てるかもね。そうよ、恋愛は経済。どうかしら?」
「どうかしらって言われても」
返事に困る。なんだか突拍子も無い話をされているということだけは分かる。
あと、姉の手にかかれば恋愛だって数学になってしまうということもよく分かった。
だからどうしろと。
「…もしかしてお姉ちゃん、祐一さんと付き合うようになってからそんな事ばっかり考えてたの…?」
「何よ。栞が方程式なんて言うから、なんとか答えを探そうって頑張ったんじゃない」
「あ………そう。天然なんだ…」
恋の方程式。
何か歌やら少女マンガやらでよく聞くフレーズだったから適当に言っただけだったのだが、かなり真剣に受け止めていたらしい。
なまじ数学用語だったのがいけなかったの…だろう。間違いなく。
それにしても、初めて恋を知って一月も経たないのに独自の恋愛論を語る高校生など他にいるだろうか?
「普通はもっと…夢中にラブラブになったりとか…」
まあ、そうならずに、いきなり冷静に分析してしまうあたりは…とても「らしい」とは言える。
何にしろかなり真剣に考えていたようだ。その話し方は、まさに学会に堂々と発表するかのように。
「どう? 結構いいセン突いてるんじゃないかって思ったんだけど」
「えー…と。正直に一言言えば、そんな事はどうでもいいっていうか」
「………」
自信持って発表した説をあっさりと一蹴されて、固まる。
しかも否定されたわけではなく、興味ないと言われてしまうとどうしようもない。
ああ。村の人にいくら原発の安全性を科学的根拠をもって何時間も説明しても最後は「分からん。やっぱり怖いからやめろ」と言われて何の成果も無く泣く泣く帰る雇われ研究員の気持ちってきっとこうなのね――なんて思ったり。
栞は、ふとあっちの世界に行ってしまった香里を少しだけ気遣いながら、また口を開く。
「私が聞きたいことはもっと別にあるんだけどなー。もっと簡単なこと」
顔を上げる香里。
別の事、というのはやや不満だが、質問があるならいくらでも受け付けよう。制限時間もない。
身構えた香里に、栞はにこりと笑顔を向けた。
第8章:総論
「香里…祐一とはどこまでいってるの?」
思わずお茶を吹き出しそうになった。
美坂香里とあろうものが、そんな事だけは絶対にしてはいけない。なんとか踏みとどまる。
数秒間の格闘。涙が出そうになった。
じろ、と恨みがましい目で目の前の少女、名雪を睨みつける。
「…なんで栞と全く同じ事聞くのかしら……」
「あ、栞ちゃんにも聞かれたんだ。何て答えたの?」
視線はものともせず、嬉しそうにわーっとはしゃぐ名雪。
退院祝いのパーティがきっかけで、名雪も栞と実際に会って――あっという間に仲良くなっていた。
二人の間に交わされる会話に香里も祐一もドキドキしっぱなしだったが。とにかく、身内の言葉というのは心臓に悪い。
「別に…どこまでもなにも、そんな…何にもしてないわよっ」
そんな、と言ったところで頬を朱に染める。そうならないように意識していたつもりだったが、無理だった。
やっぱり、恥ずかしい。
「手くらいは繋いだ?」
「あ…当たり前でしょ、それくらいは…」
「腕組んでみたりとか」
「そ――そんなの、恥ずかしいじゃないっ」
「抱き合ったり」
「っ…まだ、早いでしょ、そんなのっ」
「キス――」
「………はふぅ」
ぼすっ。
くらくらと、上半身からベッドに倒れこむ。
マンガだったら、今もう顔から頭から蒸気が思い切り噴出していることだろう。ぷしゅーと音を立てて。
「………」
その一方で、あまりに初な反応にそのまま覆い被さって抱きつきたくなる衝動を必死に抑える名雪がいて。
いや、焦ってはいけない。
「デートは…したのかな」
「………………まだ…」
ベッドに伏せられたままの顔から、たっぷり間を置いてから返事が返ってくる。
名雪は、大きく頷いた。
「それだ」
「………何が…?」
「あ、うん。それならさ、練習しない? デートの…本番に緊張しないように」
練習、という言葉を強調して。
「練習って…何するの…?」
「だから、デート。実際に経験してみるのが一番だよっ」
「え? えと…実際にって…もしかしてあたしと名雪が…?」
「うん」
すでにベッドからむっくりと起き上がってきている香里が、混乱したように目を回す。
「練習も何も、それじゃデートにはならないじゃない」
「だから、1日だけ恋人になったつもりで。初めてのデートで気まずい思いしたくないでしょ? 練習は大切だよっ」
「あ………そういうことね。それなら…」
「うんっ。それじゃ明後日10時に香里の家の前で! その日の日程はわたしが全部組んでおくから任せて。本番だと思ってしっかりね♪」
考える隙を与えないように畳み掛ける。名雪の常套手段の一つ。
勢いに飲まれて思わず頷いてしまえばもうこっちのペースだ。
「え…う、うん」
こんな風に。
心の中でガッツポーズ。
もう心の中では予定が次々に組まれていた。腕組んで歩いたり。一つのパフェを同じスプーンで食べたり。思い切り可愛らしい服を着せたり(事によっては買ってもいいくらいだ)。ベンチで沈む夕日を見ながら肩を組んだり。帰りの電車で肩に寄りかかって寝たり。――全部、大切な「練習」。
「それじゃ、今から予備練習を始めるよっ。さ、手を出して」
「予備練習…?」
「うん。大丈夫、任せて。さあ…」
「うん………」
きゅ、と差し出された手を両手で包み込む。やっぱり小さくて冷たい手。
名雪を親友として信頼しきった瞳。
「それでね…目を閉じて――」
負けてはいない。
何もかもを祐一に渡すつもりはない。
何も、香里の色んな「はじめて」を祐一のためなんかに残しておく必要はないのだ――
「いや、親戚の人から貰ったんだけどさ。1枚余るから香里も一緒にどうかなと思って」
「あ――水族館? そういえばずっと行ってないわね」
「だろ? ちょうどよかった。今度空いてる日にでも」
「え…あ、でも。ほら、相沢君誘えばいいじゃない」
「ああ、アイツはダメだ。こういうのは全く興味無いんだと」
「そうなの? 知らなかったわ」
「そうそう。だからさ、ちゃんと楽しめる人と行かないとな。結構大きい水族館だぞ」
「……う…ん」
チケットを2枚、ひらひらと手で振る北川。
それを見て、色々と複雑な思考を何度も経ながら頭を悩ませる香里。実は興味は結構ある――
「へえ。水族館か。楽しそうだな。俺ペンギン大好きなんだが、もちろんいるよな」
ひょいっと。
突然横から伸びた手が北川の手からチケットを一枚奪い取っていた。
その反動で、残った一枚も手から零れ落ちる。
「あ…相沢君っ」
香里がびっくりして動揺した声をあげる。…少し気まずそうに目を伏せ気味にする。
「人の大切なタダ券を勝手に取るな。泥棒」
落ちた券をすぐに拾い上げて、北川が祐一を睨みつける。
「なんだ。ペンギン好きの俺のために持ってきてくれたんじゃないのか?」
祐一は余裕の表情でかわす。
ペンギン好き、を強調するのは――聞こえていたのだろう。北川が勝手に「全く興味ない」ことにしていた事が。
ち、と舌打ち一つ。
「あ……ごめんなさい、そう言えば先生にちょっと用事頼まれてたのよっ」
不穏な空気を感じ取って、香里はそそくさとその場を去っていった。
明らかに嘘と分かる言い訳が必要なのかどうかは疑問だが。
最後に少し、祐一に申し訳無さそうな目を向けていた。
………
1対1で向かい合った二人の間で、視線の攻撃がぶつかり合った。ばちっと。
「…香里の事は諦めて身を引いてくれたんじゃなかったのか?」
「あ? 誰が諦めたって? 言った覚えはないぞ」
「往生際が悪いな…言っておくがさっき香里が迷ってたのも水族館に興味があるからであって北川のことは全然関係ないんだぞ?」
「大した自信だな。まあ、今はそれでも構わないってことさ」
「…さよか」
はぁ、と力を抜いてため息をつく。戦闘モードは長くは続かない。…苦手なのだ。
そんな様子を見て北川は、ふふんと得意そうに笑った。
「いいか、相沢。減らないチョークは無いんだぞ」
びしっと指を黒板のほうに向けて、言う。
一瞬、何を言ったか分からなくて動きが固まる祐一。
「………チョーク?」
「そうだ」
「…それが何か」
「チョークは磨り減っていってもしばらくは普通に使える。だが短くなりすぎると使いづらい。そうすると隣にまだ長いチョークを見つけた。まあ、迷わずそっちを選ぶわけだ」
「………」
まあ、なんとなく言いたい事は分かった。
どうしてまたそんな例え話を思いついたのか聞いてみたい気分でもあったが。
「その短くなったチョークに強い愛着があれば話は別だな」
ぴた。
北川の動きが止まった。
「どうしても残しておきたいなら大切に大切にとっておくだろうし」
北川の話は、ただその一点を見逃している。
要するに――
要するに愛が肝心なのさ、と言いたくなったが、さすがに恥ずかしかったのでやめた。
謝辞
祐一にしても。
動くきっかけは、結果的にとはいえ、北川から与えられた。
ずっと片想いしていた相手を奪ったというのに、それも許してくれている。今でも一番の友達だ。
恥ずかしくて正面からは言えたものじゃないが、ありがとうと言いたい。
名雪からは自信を貰った。自覚を貰った。
友情に響きそうな恋愛でも、それは仕方の無い事だ、好きならちゃんと自信を持てということと。
そして、責任を持って「一番」になれということと。
嬉しい言葉だった。励ましてもらっているんだな、と思った。
だから、感謝している。
のだが。
「かーおりっ♪ さ、今日も一緒に学校行こっ」
「きゃ!? も…もう、だから後ろからいきなり飛びついてくるのやめてってば…」
「んー…香里の体、やっぱり柔らかくて気持ちイイ…」
「やめんかっ」
香里の姿を見つけると駆け出して抱きつく名雪。
後から追いついて(先に行くのは無理)それを引き剥がす祐一。
「おはよ、香里ー」
マイペースな北川。
まったくもってこの光景が日常になりつつある。
「な、香里、宿題のスタンダードの六角形の問題解けた? ベクトルのやつ。どうしても式が一つ足りないんだよなぁ」
「ああ、あれね。あの問題はたぶん一番気付かない条件は――」
そして、勉強の話になると北川と香里の間には割り込めない。レベルがまるで違うからだ。そもそも3年になってから進学先別で授業が別れているからやっている問題等も違っていたりする。
…手持ち無沙汰。
こういう時はいつも、もっと勉強しないとな、と実感させられる。まあ…香里と付き合うようになってからはずっと、だが。
「――ところでフーケに新メニューが増えたらしいぞ。桃のショートケーキだってさ。期間限定らしいから早いうちに一緒に行かないか? 二人で」
「桃…いいわね…」
「こら。何どさくさに紛れてナンパしとるかっ。勉強の話はどこに消えたっ」
「…ちっ、聞いてたか」
これだから油断できない。
…香里は香里で、北川に誘われる事をあまり嫌に思っていなさそう(控えめな表現だ)なのがまた困り者だったり。
「かおり〜〜」
むに、むに。もみ。
「ふひゃ!?」
いきなり後ろから肩を揉み始める名雪に、驚いて素っ頓狂な悲鳴をあげる香里。
「香里、凝ってるね〜…ほら、こんなに…」
「あ、ちょ、い、いいからっ…ぁ」
「ほらほら〜、気持ちイイ? もっと強いほうがいいかな?」
「やめれっちゅーにっ」
ぐいっ。
また引っ張りはがす。
「なんだ、香里。肩凝ってるのか? 俺結構上手いんだぞ。毎日親の肩揉まされてるからな。良かったら――」
「北川ーーーーーーっ!」
はあ、はあ…
荒く息を吐く。
もう、毎日こんな感じだ。気が休まる時なんて無い。ぐったり。
「名雪…北川…」
「ん?」
「どうした?」
そんな祐一の様子を気にしたふうもなく、二人とも極自然に返事を返す。
さらに疲れた。
すう――深呼吸。落ち着け自分。
「お………」
言うべきことはしっかりと言っておかなければいけない。今後のために。自分のために。
愛する香里のために。
「俺の香里に手を出すな!!」
――言った。
言い切った。
…言ってしまった。
「…聞いたか?」
「…うん」
「相沢…凄いな…通学路で」
「さすがだね…」
「『俺の香里に手を出すなー!』」
「きゃあー♪」
「ああああああああ」
アタマを抱える。
当然予測すべき事態だったのだが。やってしまった。
「『香里は俺が守ってみせるっ!』」
「わ、北川くんカッコイイーっ♪」
「ふふん」
不敵に笑う北川。
…なんだか二人で盛り上がっている。
そんな事いつ言った。
「あ、相沢君…」
…恥ずかしそうに、香里が側に寄って小声で話し掛けてきた。
そういう反応されるとこちら側もますます恥ずかしくなるわけで。
「あのね…」
もっと近づいてくる。もう、体が寄り添うほどの距離。
耳元に口を近づけて。
息がかかるほどの、ゼロ距離で。
「…心配しなくても、あたしはいつでもあなたの事しか見てないからね――一番大好きよ、”祐一”」
確かに、今、ここで、初めて。
恥ずかしくて嬉しくて混乱して嬉しくて――と考えていること自体が既に混乱していて…卒倒しそうだった。
聞き間違えではないかと、何度も聞いた言葉を脳裏で繰り返して…
…ところで。
「…聞いたか?」
「…ばっちり」
――聞こえていたらしい。
「………っ」
香里が慌てて、ばっと身を離す。無論今更、そんな事をしても何の意味も無い――何の意味も無い。
「『一番大好きよ…祐一』」
「『ああ、俺もだ、香里。さあ、二人きりで夢の世界に飛び出そう――』」
「言ってないーーーーーーーっ!!」
声の限りに、叫んだ。
近くにいた生徒たちが何事かと振り返った。
香里にしても。
言うまでもなく、みんなには感謝している。祐一には悪いと思う事もあるが、みんな同じように大好きだ。
香里と祐一の恋愛は最初から…今でもずっと、栞、名雪、北川…みんなを大切な要素として含んでいる。
これからもしばらくはこんな関係が続いていくのだろうと思う。
それでも。
あくまでこの恋愛の関数は、香里と祐一、二人が主人公なのだから。
ちゃんと自分達の手で、少しずつ大きくしていこう。
――受験の数学よりは、長い付き合いになりそうだ。
FIN.
【あとがき】
このSSは、愛する人に捧げます♪
…っていきなり引かれそうですが(^^;
これがラストSSでございます。とうとう…という感じですね
本文テキストでジャスト50kB。もちろん過去最長でございます。受験講座は除いて。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございましたm(__)m
というわけで、何と言うか本当に「僕らしい」SSになったかと思います
ラブなゆとは別の意味で(^^;
自分の恋愛観を思い切り出してみたり、名雪を香里萌えにしてみたり、最後のシーンでベタラブコメしてみたり。楽しかったです
SSはこれでしばらくお休みします〜
また、ちゃんとしたのを書けるだけのネタと気力が回復したらやろうかと思ってます。いつになるか分かりませんが…
やっぱり、大変ですけど、楽しいですね! SS!
今回のSS…一部かなーーーーーーり読んでて恥ずかしかったのではないかと思われますが
少なくとも僕はかなり恥ずかしかったです…
ちなみに、このSSのスタート地点は第7章「最大値問題」の内容を思いついた事からだったんですが。
終わってみればこの章が一番不要になってたり…(汗)
この辺が若干悔いは残ります〜
まあ、でも、思い切りやりました。今は気持ちいいです…
それでは失礼しました♪
またどこかでお会いしましょうっ