「相沢君」
 祐一が顔を上げると、いつの間に近づいてきたのか机の前に香里が立っていた。
「どう、そっちは終わった?」
「もう少しだ…香里は終わってるのか?」
「相沢君の担当分以外はね」
 かすかに夕焼けの赤い陽が差す教室には、二人以外に誰もいない。グラウンドではおそらく部活が行われていて賑やかな様子を見ることが出来るだろうが、あいにくとこの教室の窓からは中庭しか見えなかった。お陰で普通の教室と比べても薄暗い。
 もっとも、二人とも2年の時も同じ条件の教室だったためそれを強く意識する事はあまり無かった。
 香里は手に持った二枚のわら半紙を祐一の目の前で振ってみせる。
「悪いな。もう少しだから待っててくれるか?」
「急がなくていいわよ。慌ててやって間違えるのもイヤじゃない?心配しなくても先に帰ったりしないから」
 申し訳無さそうな目で見上げる祐一に、香里はにこりと笑いかける。
「仕事は、きちんとしないとね」
 そうだな、と祐一も頷く。
 再び鉛筆を手に取って、手元の2枚の紙を見比べて、時々電卓を打つ。
「…会計なんて全然仕事ないもんだと思ってたけど、結構大変だな…」
「あら。でも仕事なんて文化祭の時くらいよ?学級委員長に比べたら楽なものよ」
「はは…まあな。大変だな、委員長さん?」
 委員長―――香里は祐一の机を離れ、隣の席に腰を下ろす。
 机に右ひじをついて、軽く寄りかかるように右手に顔を預け、祐一のほうを向く。
「こういうのは悪くないと思うけど…ね」
 夕日に染まる祐一の横顔。こうして近くに見る機会はあまり無かった気がする。
 話しながらもやはり香里を待たせているという意識のためか、急ぎ気味に作業しているのが見ていると分かる。口ではいい加減なことを言うが、いちいち細かい事に結構気を使うタイプなのだ、と、知り合ってしばらく経ってから香里は気付いていた。
 そしてきっと、知らない間に、そんな所に惹かれていたのだろうと思う。
 最初は親友がこの男を思い切り自慢していた理由なんてまるで理解できなかったが、何のことは無い、彼女のほうがより深く彼の事を分かっていただけだったのだ。
 破天荒で、言う事も無茶苦茶で、変なヤツ。
 だけど本当は優しくて、そしてとても強い。
 好奇心が強くて無遠慮で。
 人が悩んでいたら自分の事のように―――それ以上に力を入れて立ち向かってくれる。
「なんだ、香里、実は結構好きで委員長やってるのか?」
 そのくせ、何故かこういう事には鈍いのだ。
 香里は隠そうともせずに苦笑する。
「バカね………違うわよ」
「…ん?」
 声のトーンが少し変わった事に気付いた祐一が少し顔を上げる。祐一のほうを見つめる香里の視線に正面からぶつかる。香里は気にとめずじっと見つめ続ける。
 数秒。
 少し顔を赤くして視線を逸らしたのは、祐一のほうだった。
 そしてまた作業を再開する。
「じゃあ…どういう意味、なんだ?」
 目の前の紙を相手にしながら、ちょっと気まずそうに祐一が尋ねる。
「言葉通りよ」
「分からんって…」
 香里は作業の様子をじっと眺め続ける。祐一は視線を気にしながら、なんとなく視線を合わさないように必死に紙に集中している。
 やがて、祐一はシャーペンを置いて顔を上げ、大きく息を吐いた。
「終わったーーーっ」
「おめでとう」
 香里は立ち上がって机に向かい、すぐさま紙を回収する。ざっと目を通して、自分の机に戻る。
「じゃ、ちょっと待っててね」
 さらさらと手際よく文字を書き写してゆく。
 10秒もしないうちに、香里はうんと頷いた。
「はい、これで全部終わり。お疲れ様」
「ああ、香里もな」
 ちょっとした達成感。やって自分に何の得にもならないこんな作業でも、終わってみれば妙に気持ちいい。
 祐一は疲れた目を休ませるように窓の外を見ながら大きくのびをする。
 ちらりと時計を見る。4時50分。
「ん。じゃ、帰るか」
 がたんと立ち上がる。
 と、隣からじっと祐一のほうを見つめる視線に気付いた。香里が何か固い表情で祐一のほうを見ている。
「…どうした?香里」
 香里は祐一の声に微かにぴくりと体を震わせる。
「あ―――うん。あのね…」
 何か深刻な相談でもありそうな表情に見える。実はまだ仕事が残ってるのとか言いだすのだろうかと祐一は身構える。
 香里はそんな祐一の様子にも気付かずに、緊張した面持ちで言葉を継ぐ。
「これから、時間…あるかしら?」
「時間って…やっぱりまだ何かする事残ってるのか…?」
 予想が当たったかと祐一は焦る。
 先程見たばかりの時計をもう一度見てみる。さっきから1分進んだだけ。
 香里は俯いて小さく首を横に振った。
「違うの。あたしの個人的な用事―――なんだけど」
「うーん…明日じゃダメか?俺、これから後輩と約束があるんだ」
「約束?」
「ああ。服の買い物なんだけどな…俺一人じゃ分からんから協力を頼んだんだ」
「そう…」
 目を伏せる。
「じゃ、別にいいわ。大した用事じゃないから気にしないで」
 すぐにぱっと表情をいつもの笑顔に戻して、香里は言い放った。
 ほんの少し、無理があったかも知れない。
 祐一はそんな香里をしばらく眺めていたが、やがて鞄を手にして申し訳無さそうな表情でごめんな、と、小さく謝った。
「気にしないでいいわよ…それより相沢君も大変ね、この後また用事があるなんて」
「委員長の仕事ほどでもないさ。ん、じゃあな。気をつけて帰れよ」
「ありがと」
 別れの挨拶もそこそこに、祐一は歩き出す。
 香里は祐一が教室を出る時まで、出てから数秒ほどもまだ、じっとその場を動かずに祐一を―――あるいはその残像を眺めていた。
 誰もいない教室。大きくため息を漏らす。
「…あたしの、意気地なし」
 今日という、自然に二人きりになれる日まで待つ事しか出来なかった自分が悔しい。
 いつだって機会はあったはずなのに。たぶん、先約を取る事だって出来ていたのに。
 鞄の中で手をぎゅっと強く握る。紙がくしゃっと潰れる音。
 今日が最終公演の映画のチケット。「偶然二人分手に入ったから、良かったら―――」
 ごと…と、机に顔を突っ伏した。
 陽はまだ赤かった。



「よ、悪いな天野。待ったか?」
「いえ。約束どおりの時間ですから。ちゃんと仕事は終われましたか?」
「ナイスタイミングで終わった」
 商店街の入り口で待ち合わせ。仕事の事は分かっていたのでこの時間を指定したら結果的にちょうどいい時間になっていた。
「…私服姿の天野って久しぶりに見るな」
「そうですね。…変ですか?」
「いや。地味だけど結構可愛いと思うぞ」
「………」
 美汐はかすかに目を細める。笑ったのか照れたのか判別もつかない程度に。
「そうだな…予定変更して、真琴じゃなくて天野の服を買ってやろうか?」
 そんな反応が可愛くて、祐一は笑いを浮かべながら言う。
 完全に冗談のつもりで言っておきながらも、言い終わってみれば、目の前の少女に色々とこういう服を着せてみたいと想像は止まらなくなってくる。
 もし本気に取られたとしたらそれはそれでやってみようと決心した。
「…冗談はよして下さい」
 まあ、美汐の返事は当たり前のものだったが。
 真琴に可愛い服を買ってやりたいから手伝ってくれと祐一が美汐に頼んだのだから。
「ん。じゃあそれはまた別の機会にな」
「相沢さん、お金持ちなんですか?」
「バイトもしていない居候がどうやって金なんか持てるんだ。………って、そうだよな…残念だがこの計画の実行は当分先になりそうだ」
 当分先にならやっぱりやるつもりなのか、と美汐が目で訴えかける。
 真意を伺う視線に、微かに込められた期待に祐一は気付いていたか………気付いていないだろう。もう先に歩き出していたのだから。
 美汐は少し慌てて追いかける。
 と、追いかけるまでもなく追いついた。祐一が足を止めていた。
 首をかしげる美汐に、祐一は振り返る。
「…そういえば、どこの店に行くんだ?」
 美汐は思わず笑っていた。


「どうですか?これなんて真琴に似合いそうですよ」
「…俺にはよく分からん」
「私だってファッションに詳しいわけじゃないですから…相沢さんとたぶんそんな大差ないですよ」
 一応は私も女の子ですからと少し張り切ってはいるけれど、間違いなくこういったことに疎いほうである事は自覚している。
 真琴の事を知っている人が少ないからこそ自分が呼ばれただけだろうと美汐は分かっていた。
「…そういえば」
 ふと気付いて、言ってみる。
「あの方のほうが真琴について詳しいのではないですか?私より当然服選びにも向いていると思いますが」
 美汐の言葉に一瞬きょとんとした祐一は、ちょっと考えてそれがいとこの少女の事を指していると気付くと苦笑を浮かべる。
 確かにある程度名雪の事を知っている人ならそう考えるだろう。
「名雪は、普段ならホントいいんだけどな。真琴の事になるとダメだ」
「?…仲、悪いんですか?」
「かなり………」
 何かを思い出したようにうんざりといった表情で祐一が答える。
 名雪に、真琴の服を買うから付き合ってくれなんて言ったら1週間は口を聞いてくれなくなるかもしれない。大げさでなく。
 あれほど誰とでも仲良くなれる少女が、こと真琴の事になると過剰な反応を見せるのだ。
 先日も、名雪よりも真琴の部屋のほうが祐一の部屋に近いことを怒っていたような気がする。言いがかりも甚だしいと思ったが怖くて反論は出来なかった。真琴を擁護するような発言は厳禁なのだ。
 真琴は真琴でやはり―――
 …過去に一度、ずっと昔、なんとか仲良くしてくれないかと二人の中間に立って互いを弁護した事があった。その時の二人は―――思い出して祐一は身震いする。もう二度とこんな馬鹿な真似はしないと固く誓った日だった。
 とは言え二人とも祐一にとっては大切な人だ。どちらかを完全に切り捨てるなんて事は出来ない。
 そういうわけで、今日の買い物も極めて重大な機密事項としている。
「まあ、そんな事はどうでもいい。それより今は目の前の買い物だ。…そうだな、天野、それ着てみるか?」
「―――はい?」
 何を言い出すのかと。
 美汐は耳を疑う。
「…真琴に似合う服を探しているんですよね?」
「そうなんだが、実際に誰かが着ている所見るとやっぱり違うんじゃないかと思って」
「悲しくなるのであまり言いたくはないのですが…真琴と私では違いすぎます」
 それに関しては祐一も同意見ではあった。
 体型はほとんど同じなのだが、根本的に雰囲気がまるで違う。
 まあそれでも―――失礼な話ではあるが、だめもとでいいから人が着るとどう見えるのかが知りたかったというのが一つと、もう一つは今美汐が手に取っているような可愛らしい服を着た美汐を見てみたかったというのも本音だった。
 なんて正直に言うと絶対に着てくれそうにないのでそこは黙っておくが。
「ま、参考までにって事でさ」
「…分かりました」
 納得いかない顔のまま、美汐は服を持って試着室に向かう。
「少し、待っていて下さいね」
 カーテンの向こうから声がする。ちょっとどきどきした。微妙に美味しいシチュエーションだなこれは…などと考えながら。
 静かにして耳を済ませていると中の音が聞こえてくる。
 衣擦れの音、服の金具の音、ぱさりと服が落ちる音―――
 なんだか覗き見をしているようで気まずい。祐一は恥ずかしくなって、慌てて試着室から意識を遠ざけた。
 とりあえず、せっかくなのでマジメに服を見てみる。
 …美汐が試着室から出てきたのは、3分ほども経った後だった。
「お待たせしました」
 どこか居心地悪そうな声。売り物をなんとなく眺めていた祐一は何気なく振り向いた。
 ………………………
 ………………
 ………




「…相沢さん、その反応は酷いと思います」
 表情ごと凍り付いて動かなくなった祐一を美汐はむくれたように…少し恥ずかしそうに非難する。
「い、いや………かなり…それ………………イイ」
 見た瞬間に財布に手が伸びかけるほどに。
 真琴の趣味に合わせたちょっと少女趣味の服は、美汐にはアンバランスなようで絶妙にマッチする―――
 本当にこのまま美汐にプレゼントしてしまおうかと考えてしまう。
「相沢さん…それで、これは」
「あ、ああ。一応他の服も試してみないとなっ。そりゃもう色々っ」
「…構いませんけど」
 着慣れない感触にそわそわしながら、美汐は肯定の返事を返した。
 祐一は適当に目をつけていたものの一つに手を伸ばす。
「じゃあ次はこれ―――」


 決まった頃には、もう日が落ちて完全に暗くなっていた。
「って、おお!まずい、そろそろ時間が…」
 買い物をほぼ空に近かった手持ちの鞄の中にしまって…外から見てそれが服である事が全く分からないようにしながら、祐一は時計を見て叫ぶ。
「何かあるのですか?」
「ああ、まあな…調子に乗ってちょっと遊びすぎた」
「………」
「ああいや待て別に美汐に着せ替えして遊んでいたという意味では」
「私も、楽しかったです」
「…え?」
 慌てて弁解する祐一に向かい、美汐はくすりと笑ってみせる。祐一が服選びを二の次にして遊んでいた事くらい当然気付いていた。
 せっかくだから、自分も楽しんでみた。
 そして、楽しかった。
「またこういう機会があったら呼んで下さい」
「………あ、ああ」
 何かいつもと調子が違う美汐に戸惑う祐一。
 が、それを深く追求している時間もない。
「それじゃ、今日はありがとうな。助かった」
 簡単に礼を言うともう歩き出す。
「こちらこそ誘って頂いてありがとうございました」
 一度だけ振り返った祐一に頭を下げて見送る。角を曲がり、見えなくなるまで。
 微かな昂揚感を胸に残したまま、美汐は反対方向に歩き出す。
 ふと―――
 微妙な違和感を感じて美汐は祐一の去った方向を振り返った。
 祐一の家には何度もお邪魔している。場所はよく知っている。
 あの角を曲がる必要はないはずだった。
「―――学校?」
 誰もいない道に、独り言が消えた。



 夜の学校は、普段は必要以上に怖さを演出する場所となる。
 ただ、さすがに文化祭の直前となると話は違った。まだ電気の点いている教室も見受けられる。
 クラスで、あるいはクラブ単位で。どんな事をするかによって準備の大変さは格段に違うものだ。祐一のクラスは比較的準備するものの少なくて済む出し物だった。ただし代わりに個人の技量が要求されるのだが。
 腕時計を見る。6時40分。頃合だろう。
 問題はどうやって迎えに行くかだが―――
「あれ?祐一?」
 探す必要は無かったらしい。
「最高のタイミングだ」
 ちょうど教室の中からひょっこりと名雪が現れた。帰り支度が出来ている所からすると、まさに今から帰ろうとしていた所だとみてまず間違いないだろう。
 朝出る時、7時くらいに帰ると言っていた。それを考慮すればだいたいこれくらいの時間だろうと考えてはいたが。
「どうしたの?もしかして祐一も作業今までかかってたの?」
「え………あ、ああ、まあそんなところだ」
 首をかしげる名雪に、適当に答えておく。間違っても本当の事を言うわけにはいかない。
 思わず手元の鞄を見て、バレないかと確認してしまう。
 名雪はにこりと笑った。
「そうなんだ。香里も幸せだよね。その間ずっと祐一を独占できてたんだもん」
「か、香里はそんな事気にするようなヤツじゃないだろ」
 嘘があるだけに余計な事は言えない。微妙に話のポイントをずらしてごまかしておく。
 そうだ、一旦家に帰ってまた迎えにきたと言えば良かったのだろう。なんて事に気付いてももう手遅れ。
 名雪は違うクラスだが、祐一のクラスの事情に関しては十分に知っていた。
「まあとにかくだ。夜も遅いからな。一緒に帰るぞ」
「わ、嬉しい。ちょっと心細かったんだよ〜」
「こんな時間に名雪を一人で帰すわけにはいかないだろ?」
 わざわざ学校に戻ってきてまで迎えに来た理由は純粋にそれだけ。
 まだ電気が点いていて明るい廊下を歩き出す。
「心配してくれたんだ♪」
 名雪は嬉しそうに身を寄せる。
「まあな。名雪のことだから道の途中で寝てしまわないか心配で」
「…祐一」
 唐突に、名雪が祐一の視界から消えた。直後、背中にずしりとかかる重み。
 顔の横にかかる息。
 名雪が背中から抱きついてきたのだ。
「素直じゃない」
「あー…悪かったな。こういうヤツなんだよ俺は…」
 3割くらいは本音で言ったのだが、さすがにそれを言うと機嫌を悪くされそうなので言わない。
 あと重いと思ったがそれも言えない。
 すぐに体を離されるのもそれはそれで嫌だった。
 とは言え、このまま歩いていくわけにもいかないが。
「………名雪」
「うん」
「帰るぞ」
「うん♪」
 ぷにゅ、と頬に感触。
 体を離す直前に名雪は祐一の頬に口付けをした。
「………名雪」
「お礼だよ」
 ため息をつく。
 頬を赤く染めながら微妙に視線を逸らして、あとは態度で訴えかける。
 どうしてこの少女は場所というものを考えないのか―――
 偶然先生が通りかからないとも限らない廊下だというのに。
 テレパシーで必死にメッセージを送っていると、そんな様子を観察していた名雪が感慨深く頷いていた。
「分かるよ。祐一の言いたい事も」
 平然と体をくっつけながら、隣を歩く。
 思案顔でうんうんと二度縦に首を振る。
「キスだけじゃ足りないんだよね?もう、帰るまでガマンだよっ♪」
 ワックス塗りたての廊下は、よく滑った。





「おっはよーっ」
「よ、真琴。おは―――っておい」
 降りてきた真琴を見るなり、祐一は固まる。
(なんでいきなり着てるんだ…)
「どうどう?可愛いでしょ?」
「真琴………その服は?」
「ん?」
 幸せそうにいちごジャムを塗りたくったトーストをかじっていた名雪が、一転して表情を消して真琴に詰めかかる。
 一瞬背筋が冷える思いの祐一。
 真琴は平然と笑みを返す。
「秋子さんがプレゼントしてくれたの。似合う?」
(………よし)
 昨日(こっそりと)真琴に渡す時に、もし名雪に聞かれたら秋子さんのプレゼントだと言えと何度も念を押しておいた甲斐があるというものだ。
 もちろん当の名雪の母に対する根回しもばっちりだ。
「お母さん…そうなの?」
「ええ。真琴の服、少ないから可哀想でしょ?名雪じゃサイズがちょっと合わないし…」
 見事な説得力。
 祐一は一安心していた。
 これで余計なトラブルは回避できる。ややこしいが、真琴に何かしてやる時はこれくらいの気を使わなければいけないのだ。
「ふーん…」
 さすがに名雪も、母には文句は言えない。祐一にとっては最大の避難所だった。



「おはよ、名雪」
「あ、おはよーっ」
「今日は一人?珍しいわね」
 通学路で香里と出会う。3年になってクラスは別になってしまったが、通学路は変わらないのでこうやって朝一緒に行くことも多い。
 ただ普段はそこに祐一も一緒にいるのだが。
「…なんか、先に行っててくれって」
「ふーん。それでちょっと機嫌悪そうなのね」
「別に…あ、そうだ、香里。昨日は放課後祐一とずっと一緒だったんでしょ?いいなぁ…」
「ちょ、ちょっと、何よ、あたしにまで妬かれても困るわよ」
 やや冷めた目で見てくる名雪に、香里は動揺する。
「ホントは嬉しいくせに…」
「や…やめてよ、もう。たかが1時間くらい学校の作業をしてただけじゃない」
「…1時間?」
 ぴたりと、名雪の足が止まる。
「名雪?どうしたの?」
 つられて香里も足を止める。時間にはまだ十分余裕があった。
 名雪は厳しい表情で正面から香里の顔を見つめる。
「昨日は二人で仕事してたんだよね?」
「え、ええ」
「何時に終わった?」
「5時前…くらいだったわね」
「その後は?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせてくる名雪にたじろぎながら、香里は落ち着いて思い出して答えてゆく。
「相沢君は用事があるからって急いで帰っていったけど…確か、服を買うから後輩と―――」
 すうっ…と。
 そんな音が聞こえるかのようにはっきりと名雪の表情が変わった。
 目が凍りつくように冷たくなる。
「ありがと。もういいよ」
「………そ、そう」
 もう少しだけ続きがあったのだが、名雪の異様な迫力に押されてそれ以上は何も話す事ができなかった。
 名雪は再び歩き出す。隣にいる香里の存在などまるで目に入っていないかのように。
 慌ててついていく香里。ちょっと怖かったので隣ではなく2歩分だけ後につく。
 ………………
 ………
 ずっと無言。
 声を掛けられる雰囲気ではない。
 と、ぽつりと、名雪が口を開いた。
「やっぱり…画鋲かな」
「画鋲!?」
 香里は3歩下がる。
 冷や汗が頬を伝う。




「あ、ただのひとり言だから気にしないでね♪」
(き…気にしないでって言われても………画鋲よアンタ…)
 振り返り笑う名雪に心の中だけでツッコみつつ。
「ね、ねえ、詳しい事情は分からないけど…相沢君もきっと何か事情があって…」
 訳も無く名雪を怒らせる事をするわけはない。
 個人的にも想い人が生命の危機に瀕しているという状況で放っておくわけにもいかない。
 …名雪は、にこりと笑いながら言ってのけた。
「相沢君?誰?そんな知り合いいないよ?」



 幸いなのは、香里と祐一が同じクラスで、名雪が違うクラスという事だった。
 香里は必死に願う。奇跡があるというのなら。
 どうか。
 どうか、大切なあの人を守って下さいますように―――




おわり☆



【あとがき】

「Kanonキャラベストカップリング投票」の結果、
1位:名雪×祐一
2位:香里×祐一
2位:美汐×祐一
…となりました。
それを踏まえてひとつSSを書いてみたわけですが(笑)

なんだかSS書く毎に名雪と真琴の仲が悪くなっている気がします。困ったものです(おい)

お約束のシチュエーションを適当に盛り込んで、名雪と香里と美汐をとりあえず祐一と絡ませて、かつなんとか一つのストーリーに強引にまとめるという荒技にチャレンジしました。
無謀でした(^^;;

ていうか、名雪×祐一が1位だってのにコレかよって気が………

で、では。とにかく皆様投票にご協力ありがとうございました〜〜