あたしには、好きな人がいる。
あたしは2年生。彼は3年生。愛しのセンパイ。
きっと彼はあたしの事なんてほとんど覚えていない。
彼とあたしの接点は、あたしの所属する陸上部の水瀬部長を繋がりにした薄いもの、だけ。
最初から一目惚れに近かった。
彼は時々練習の終わりごろに来ては座って練習を眺めていた。
水瀬部長を迎えに来ているんだということはすぐに分かった。彼が来ているときは部長はいつも全てが終わると急いで彼のもとへ走っていった。
さりげなさを装って、みんなと一緒に部長に聞いてみた。「あの人とはどんな関係なんですか?」
イトコだよ、と部長は答えた。今は一緒に住んでるんだよ、と聞いてないことまで答えてくれた。
イトコと聞いてほっとした。つまり、恋人関係じゃないということ。
世の中にはイトコ同士の恋愛もあるとは聞くけど、見たところ恋人同士というよりは仲のいいきょうだいという感じだった。兄妹なのか姉弟なのかは微妙だけど。
ホッとしたあたしを部長が軽く睨んできたような気がしたけど……きっと、気のせい。
あたしが彼と言葉を交わしたのは一度だけ。
思い切って勇気を出して、グラウンドから少し離れたところに座る彼に声をかけてみた。……もちろん、休憩時間に。
「練習見てて、面白いですか? 暇じゃありませんか?」
「暇だ」
見ず知らず(のはず)のあたしがいきなりかけた声に、彼は驚きも戸惑いもせず即答したのだった。普通に友達に言葉を返すように。
さすが部長のイトコだな、と思った。
「同じような繰り返しずーっとやっててよく飽きないなと感心してたところだ」
「それが、練習というものですから」
「……俺には一生部活はできそうにないな」
あたしもまるでずっと昔からの友達と話をしているみたいな気分だった。
とても不思議な人だ。
「センパイ、部長とはどんな関係なんですか?」
だから思わずストレートに聞いてしまった。初対面だというのに。
でも彼はあたしの失礼な質問に呆れるでもなく怒るでもなく――最初に浮かべた表情は、疑問だった。
「部長? 誰だ?」
思わずオーバーリアクションでずさーっとコケてしまいたくなった。
堪えた。
「……水瀬部長、です」
「ああ」
そういえばそんな事言っていたな、と彼は小さく呟いていた。
あんまり部長の事に興味ないのかな……と思ってしまった。
「俺たちの関係か」
そして彼の答えは。
「例えるなら、俺が可燃物で名雪が油だ」
ああ。
やっぱりちょっと変わった人だった。微妙に意味不明。
一瞬で惚れた。
前フリが長くなっちゃったけど。
要するに、今日、これから告白するのだ。
古典的だけど、靴箱にメッセージを残しておいて呼び出し。こういうのって初めてやったから凄くドキドキした。
でも本当にドキドキするのはこれから。
最後のホームルーム終了のチャイムが鳴ってから15分。そろそろここ中庭に彼がやってくるはずだった。
告白は昨日から何度もシミュレートしてみた。
『センパイ、あたしの事、覚えてますか?』
『え……う、ごめん、どこかで会ったような気はするんだけど……』
『――練習見てて、面白いですか? 暇じゃないですか?』
『……? ……あ……ああっ、思い出した! 陸上部の』
『はい、そうです♪ センパイにとってはあたしの事なんてあの時の記憶だけだと思いますけど、あたしはずっとセンパイの事見てました。いつも練習しながら、今日は来ないのかななんて期待していたんですよ。練習に気が入ってないなんて部長に怒られちゃったこともありました』
えへ、とあたしは笑う。
『……』
『センパイ、受験前の忙しい時に呼び出しちゃってゴメンナサイ。どうしても、部長が辞める前に……センパイが陸上部に来なくなる前にあたしの気持ちを伝えたかったんです』
『……君、名前は?』
『あたしは――』
――とまあ、こんな感じになるはずだった。あたしの計算によれば。
言葉の運びは口に出して練習した。恥ずかしいのは我慢した。
あとは本番を待つのみ! なのだ。
緊張する。やっぱりフラれたらどうしようって気持ちはある。
でもでもでも。このまま放っておけば普通に縁がなくなってサヨナラになるだけ。
だったらやることきっちりやってから終わりたい。
……
……や、やることってのは告白することって意味だからねっ。
……
何か3ステップくらいジャンプしたイメージを見せてきた自分の脳に慌てて言い訳したり。
落ち着け、自分。
人、人、人。
手に3回書いて飲み込む、と――いつも思うんだけどどうやって「飲み込む」んだろう?
もちろん間違って「入」って書くなんてお約束はしない。
さあ、心の準備はばっちり。
――彼の姿が視界に入ったのは、そう思った瞬間だった。
その。
一筋縄ではいかない相手かもしれない、と最初から覚悟はしていた。
実際フラれる公算のほうが高いだろうなぁとも思っていた。
だけど。
だけどさすがにこの展開は想像の範囲外だった。
彼が中庭に姿を見せた。
それはいい。あたしが呼んだんだから来てくれたのは嬉しい事。
で。
彼に「べったり」抱きついている私服の小さな女の子は、誰ーっ!?
「だーかーらーっ。学校には来るなっつってるだろっ」
「何よぅ。祐一に会いたかったから来たんじゃないのよ。祐一はそれが嫌なの?」
「あのな。社会にはルールってもんがあってだな――ああっ、とにかく今は用事があるんだっ。後で迎えに行くから今は帰れって」
困り顔と、声。
彼とその女の子の声はあたしにも聞こえる。それくらいの距離のところで立ち止まって話している。
二人ともまだ、あたしには気付いていない。別に向こうから見えない場所にいるわけじゃなくて、ただ二人とも周囲が見えていないだけ。そんな感じ。
それにしても気になる会話だ。
耳をすませてみる。
「用事って何よ」
「……プライベートな用事だ」
「真琴がいると邪魔なの?」
「お前はそもそも学校にいる事自体が問題なんだっ」
――聞いていて連想したのは、親戚の子を預かった保護者、という言葉だった。
まさに理解の悪い子供に苛立っているという状況にしか見えない。
ここまでの会話を聞いているだけでもだいたい状況は理解できた。どうも恋人同士の甘い会話をしているわけではなく、微笑ましいホームドラマのワンシーンを繰り広げている、みたい。
それなら問題ない。
相変わらずぴったりと抱きついたままで、彼もまたそんな嫌がってそうには見えないのが気になるけれど。
……どっちにしても、女の子がいたままじゃ告白なんてできるわけがない。
もう少し待って、女の子が追い返されるまでじっとしてるのが正解かな。
「……だって……ちょっとでも早く祐一に会いたかったんだもん」
とか思っていたら、強気な女の子の口調が一転して大人しくなった。
不満そうな声ではあるけど、先程までとはトーンが全く違う。
――参った。センパイ、モテモテじゃーないですか。
この子も子供のクセに、上手い。
言葉を詰まらせてちょっと赤面する彼を見て、女の子の絶妙な言葉使いのテクに感心してしまう。
「あー……でも、だな。先生とかに見つかると色々面倒な事に――ん?」
あ。
彼と目が合った。ばっちし。
ドキッとした。
彼はぱちぱちと瞬きをすると、「あ」と間を置かずに小さく叫んだ。
「この前の陸上部の」
……びっくり。
こっちが驚いてしまうのでありました。まさか覚えられているとは。
「あ、こ、こんにちは」
声が上ずってしまう。
予想外の展開続きで、これでは準備してきた台詞が全く役に立たない。
軽くパニック状態。
あせあせ。
とか焦ってたら彼に抱きついている女の子がきっつーーーい目でこっちを睨んでいることに気付くわけで。
「……誰?」
あんたこそ誰よ、なんて即座に返せるほどの度胸はあたしには無いわけで……。
怖いわけで……。
「陸上部の部員だよ。前にちょっと話した事があってな。……ん。もしかして、あの手紙……?」
彼の台詞の前半は女の子に向けて。
そして後半は、あたしに向けて。
なんだか色んな雰囲気に気圧されながらも、あたしはコクコクとガンバって頷いた。
「手紙?」
「あ、いや――」
女の子が彼に詰め寄る。いや、もともとぴったり密着してるから物理的にじゃなくて、こう、オーラで。
彼は視線を泳がせて……たぶん、言葉を捜している。
そりゃ言えないだろう。ここにいるあたしがラブレターを出した、なんて。
女の子はじと、と彼を怖い目で睨みつける。
「何よ。用事ってこの女に会うことだったの? それで真琴が邪魔だったって事!?」
……この女、ときた。
というか、これもしかしなくても、ヒジョーにマズい展開?
「落ち着けってっ。……まあ、確かにその通りではあるんだが……っぎゃっ!?」
ビクっと彼の体が跳ね上がる。そして悲鳴。
あたしが見ていた限りでは何があったのか分からないけど、女の子が何かやったのだろう。
本気で痛そうな顔をしている。
「祐一の浮気者っ! 名雪だけじゃなくて学校でもこうやって女の子に手を出しまくってるの!?」
「話を聞けって! つーか女に会うだけで浮気にされたら俺は学校行けないだろがっ」
「行かなきゃいいのよっ!」
「無茶言うなっ!」
……ちょっと。
目と耳から入ってくる情報に、あたしの脳の処理が追いつかない。
今聞いた言葉には二つ問題点があった。
ひとつ。
浮気?
ということは彼はこの女の子と付き合ってる?
ひとつ。
名雪……水瀬部長が、何、と?
完全に蚊帳の外にされながら、必死に頭を働かせてみる。
あ、また彼と目が合った。
目でごめんな、と伝えてきているのがよくわかる。
「ごめんな、騒がしくて。コイツのせいでこんな状態になっちまって」
とか思ってたらちゃんと言ってくれた。
「何よぅ」
「話は、また今度な。申し訳ない。とりあえず今はコイツの世話しなきゃいかん」
「……あ。い、いえ、あたしこそ、こんな時に呼び出しちゃってすみませんでした」
反射的に出た言葉だった。
もちろん本心を言えば、そりゃないよあーた、と神様にでも文句を言いたいところだけど。
ただ、今は何よりもまだ思考がまとまらなかった。混乱している。
ちなみに女の子は今もずーっと抱きつきっぱなし。
その子は誰?
聞きたいけど、なんか、怖い。でも聞きたい。
と思う気持ちと同時に、あまり深入りしないほうがいいような気がしていた。
あたしが彼に興味示す素振りを見せただけで、間違いなくこの子の中で憎むべき敵として認定されるだろう。刺されたくない。靴に画鋲を入れられたくない。ピアノの鍵盤にカミソリを仕込まれたくない。
弱気になっていては恋はできないと言うけれど。
なんかそんな次元を超えてるような予感がした。
今一番賢い選択肢は、適度に愛想笑いでも浮かべながらこの場を穏便に立ち去ることだろう。
「ほら、真琴。帰るぞ」
「うんっ」
……彼がため息をついてから一言女の子に声をかけると、その子はコロっと態度を変えてそれはもう嬉しそうに返事を返したのでありまして。
もうあたしの存在なんてまるで気にしていないように思い切りごろごろと甘えている。
ツワモノだった。
……
まあ、いっか。
考えるのは後でいい。今は、帰ろう。大人しく。
待ち伏せとかされませんように。
今日が平穏無事に終わりますように。
お母さんの「ただいま」の声が今は待ち遠しい。
――でも。
「祐一ーっ。一緒に帰ろ♪」
聞こえた声は、お母さんの声じゃなかったわけで。
ある意味でお母さんの声よりも聞きなれている声だったわけで。
その声を聞いた瞬間ビクっと全身が硬直した。
なんだろう。この違和感。
いつもの部長の声のはず……なのに、何故か怒られているような気分になる。
「一人で帰れば?」
あたしの後ろから聞こえた部長の声に、即答したのは女の子だった。氷点下の声で。
彼は……頭を抱えて大きなため息をついていた。
振り返れないあたしをあっさりと抜いて、部長は彼の側にまで到達する。
にこにこといつもの素敵な笑顔を浮かべながら。
……いつもの、素敵な、笑顔、のはず。なんだけど。なんだろう。
「もう、祐一、教室まで迎えに行ったのにいなかったから探しちゃったんだよ。まだ帰ってなくてよかった」
カンペキに女の子の言葉を無視して、部長が彼の手を取る。
「ちょっと、祐一は真琴と一緒に帰るって言ったのよぅ。邪魔」
「ん? どうして学校にいちゃいけない子がいるのかな? 見つかったら怒られるよー?」
「名雪こそ今日は”りくじょうぶ”はいいの? サボリ?」
「今日は練習お休みなんだよ。誰かと違ってわたしは練習も仕事もサボったりしないもん」
にこにこ。
ああ。陸上部のアイドル、水瀬部長の値千金のスマイル。
あたしは――あたし達はこの笑顔に憧れてきた。辛い練習も乗り越えてきた。
その笑顔が、どうして今こんなに怖いんだろう?
……あ……やっと、あたしに気付いたみたい。
部長があたしを見て、ぱちぱちと瞬きをしている。
「あれ、あいるちゃんだ。どうしたのこんなところで?」
「あ、い、いえ、たまたまっ、通りかかっただけでっ」
声が震えまくった。
声だけじゃない。体もガタガタ震えている。
「ふーん。そか。じゃあ、気をつけて帰ってね」
にっこり笑って手を振る部長。
ああ。
つまり、さっさと立ち去れと言っているのだ。”気をつけて”。
「し、失礼しました……」
触らぬ神に祟りなし。
ぺこぺこと頭を下げて、あたしは、極力自然さを装って体をくるりと反転させる。
最後にちらりと彼の顔を伺う。
彼は、軽く手を上げて、本当に申し訳なさそうにあたしに目で謝っていた。
要するに彼にはこの場の空気を決める決定権がない、わけだ。
分かる気がした。
「ねえ真琴、先生に見つかるとすっごく怒られちゃうんだよ。何回もやってるとお母さんも呼び出されちゃうかもしれないんだよ。お母さん怒らせると……分かってるでしょ?」
「……ぅ。……な、なによぅ。脅そうったって無駄なんだからねっ」
「後悔って、先にできないから後悔って言うんだよね」
「あぅ……」
「ほら、喧嘩するなって……真琴にはまた俺からしっかり言っておくから」
「うん、喧嘩なんてしてないよ? ねー真琴? だからとりあえずその手を離して」
「名雪こそ離しなさいよぅ」
……ゆっくりと、歩き去る。振り向かない。
見なくても、彼がまた頭を抱えている様子が想像できた。
――そうか。
可燃物と、油。
それじゃ足りないなと思っていた。ずっと。
答えは、ここにあった。
火種だ。
あたしには、好きな人がいた。
彼は、3年生。ちょっと変わった、でも素敵な男の子。
水瀬部長は最後の大会の後、予定通りに退部した。新しい2年生の部長はまだちょっと頼りない。あたしたちもしっかり支えてあげないと。
あの告白――未遂から2ヶ月。
衝撃的な初失恋を経験してしまったのも、まあいい思い出というかいいネタというか。
相手が悪かった。それだけははっきりしている。
で、今日もこっそり中庭に来ているのであった。
最近見つけたいい場所。周囲から見えにくくて、自分からは結構広範囲に見渡せる。
今日も……いた。
「だいたい祐一も祐一だよ。わざわざここに見に来たりするから真琴も来るんだよっ」
「でもな、もし来てて俺がいない間に誰かに見つかったらマズいだろ?」
「1回そうやって反省させて分からせたほうがいいよ」
「どうして名雪にそんな事言われなきゃいけないのよぅ」
「ルールも分からないといい大人になれないよ? 祐一が困ってるのも分からないの?」
「困ってないわよ。ダメだって言ってても本当は喜んでるの知ってるんだから」
「……いや、俺は」
「その身勝手な考え方が子供っぽいって言ってるの。どうして分からないの」
「何よ。子供子供って。処女のくせに」
「……っ! なっ、ま……っ!」
「ちゃんと日本語喋らないと分かんないわよーだ」
「おい、真琴。言いすぎだ。謝――」
「祐一は関係ないよっ!」
「祐一は関係ないわよぅっ」
「……」
「そ、そんなね。カラダの関係だけで大人になった気になってるのがお子様の証拠だよっ」
「対等の立場になって初めて言える言葉よねー」
「……だ、だいたい話が逸れてるでしょ!? 真琴が学校に来ていい理由には何にもならないじゃない――」
最近、あたしには新しい楽しみができた。
放課後は、観戦タイム。
今日も用意してきた水筒のフタを開けて、よく冷えたお茶を喉に流し込んだ。
【あとがけ。】
もぉ何も考えてないよーな頭悪いコメディを久しぶりにやってみたかったのですが。
喧嘩してるだけですねー。あははー。
ラブ萌えを排除するとこんなに寂しいのね……(/_;)
というわけで名雪vs真琴の短編連作しりーず、次も予定しております。
出番だ美汐♪
ではでは失礼致しました〜