「明日から姫と一緒に何日か家を空けるから、留守番よろしくね。せっかくだからのびのび遊んでくれていてもいいわ」
「え?」

 永琳の申し付けは唐突で、鈴仙は間抜けな声で返答をしてしまった。
 別に、返事の態度で叱られるようなことはないのだが、鈴仙は慌てて表情を引き締めて、言葉を選びなおす。
「何か、トラブルでもありましたか。私の知らないところで、月から何かメッセージでもあったとか」
「ウドンゲは偉いわねえ。そういう慎重さ、貴方の素敵な武器だと思うわ」
 永琳は、優しく微笑んで、鈴仙の頭に手を置いて、ゆっくりと、二度、三度、軽く撫でた。褒められた弟子は、くすぐったさに目を細めた後、少し頬を赤らめた。
「大丈夫よ。ただ遊んでくるだけだから。気楽にしていていいわ」
「あ……はい。でも」
 鈴仙の言葉には、まだ緊張感が残っていた。
 ぽん、ぽんとその頭を優しく叩いて、永琳は不安を解すように目を見つめて、頷いてみせる。不安になる理由はわからないでもなかった。この狭い閉ざされた幻想郷の中、数日も家を空けるとなると、一体どこまで出かけるのか――それこそ月にでも向かうのか、と考えても無理はない。
「あんまり深刻になられると言い出しにくくなりそうだから、早めに言っておくわね」
 くすくすと笑いながら、永琳は先を続けた。
「久しぶりに二人だけでゆっくり過ごしてきたいだけよ。貴方たちと一緒に暮らすのもとても幸せなんだけど、たまに、私たちだけの時間が欲しくなってね」
「……」
「違うわ。姫も私も、貴方のことはとても大好きよ。勘違いしないで。ただ、ただね」
 一度真剣な顔で鈴仙に言うと、頬の下を軽く掻きながら、困ったような、苦笑いのような表情に変えた。
「貴方たちから見れば、まあ、姫も私も好き放題遠慮なくやっているように見えるかもしれないけど、やっぱり、多少は違うというかね」
「……?」
「ほら、よく言うじゃない、子供ができたら母の顔になるって。少しはそんな感じもあったりしてね」
「……よく、わからないです」
「ええと、まあ、つまり」
 こほん。
 ひとつ、咳払い。
 そして、殊更に胸を張って、宣言した。
「色々溜まってるので思い切りべったりとデートしてきます」
 鈴仙の目は、結局冷たくなる一方だった。





「さんぽみち」





 ずっと歩いていこう、と提案したのは輝夜のほうだった。
 永琳は迷わずに賛成した。もともと、輝夜の言うことに反対することなど、ない。飛行禁止の原則はあっさりと決まった。お互い長距離を歩くことなどもちろん慣れてはいなかったが、体力そのものに不安があるわけではない。
 永遠亭は、竹林の奥深くにある。徒歩となるとまずこれを抜けなければならない。もっとも近い人里まで順調にまっすぐ行ったとしても、昼過ぎの今からの出発では、日は沈み始める頃になるだろう、そんな厳しい道だ。だからこそ、普通の人間が間違ってここまで迷い込むことは、まず、ないと言える。
「イナバたち、ちゃんとお留守番できるかしら」
 見送る鈴仙に手を振って、そろえた荷物をしっかり持って出発したのはつい先ほどだった。ちょっとした確認事項を除くほとんど最初の言葉がこれになった。
「大丈夫でしょう。しっかりしている子ですから」
「本当はついていきたいって顔、すごくしてたわよ。言わなかったけど。あの子、永琳にべったりだからねえ」
「言わなかった分、以前よりは成長したということですよ。そのうち、保護者がいなくても自分で生きていけるようになるでしょう」
「そうね。まあ、手放す気もないんだけど」
「同意です」
 二人、同時に小さく笑った。
 深い竹林の中の歩みは遅く、まだそれほど進んではいなかったが、振り返ればもう永遠亭の姿は見ることができない。
 空を飛んで移動するときは、もちろんこんな場所を歩くことはない。事実、今ここの土を踏むのは初めてか、千年以上ぶりだろう。とはいえ、それはこの二人にとってはの話であり、今は永遠亭に多くが住むウサギたちは毎日のように通る道である。ただ、人間が通るための「道」にはとてもなっていないというだけだ。
 そもそも、歩くのは久しぶりというどころか、ほんの少し前までこうして表に出ることもほとんどなかったものだ。千年もの間、隠れて生きてきた。ほとんどの期間は、二人だけで。最近数十年は、ウサギたちとともに。いずれにしても、人前に姿を現すようなことはしなかった。
 少し前に飛び回って、この幻想郷という世界を観光した。新鮮な驚きに満ちていた。ここでは、あらゆる生き物が存在を許容されていた。もはや誰から逃げる必要も隠れる必要もないことを知った。
 二人が見たこともない世界が広がっていた。どうせ、時間はいくらでもある。それならばゆっくり、少しずつその驚きを味わっていきたい。それが徒歩という原始的な手段を選んだ理由だろうと、永琳は推測していた。急いでいては見えないものもある。
「このあたり、見えにくい細かい凹凸があるようです。気をつけてください」
「うん。ありがと」
 荷物を持たない手を、お互いしっかりと繋ぎあう。
 輝夜は無数にある竹、地面に落ちている葉、土、石ころ、時折通る小動物など、繰り返し眺めていた。
「ふーん」
「面白いものでもありましたか?」
「んーん。虫でも妖怪になってるくらいなのに、そういえばこの竹林には何か住んでないのかなあって」
「どうでしょうね。このあたりはウサギたちの勢力が強いから避けているのかもしれません」
「ウサギしかいないならすごくいいエサ狩場になりそうな気がするけど」
「てゐがいますからね。敵に回したくはないのでしょう」
「ああ、あいつ、そういえば結構偉いのよね。いっつもオモチャにしてるから忘れてたけど」
「案外、昔から知らない間に私たちも助けられてるのかもしれませんよ」
「そう思っている割には、永琳も散々遊んでるじゃない」
「今後は、感謝の気持ちを込めて弄りましょうということで」
「永琳のいじめっこー」
「光栄です」
 うわあ、と大げさに引くような動作を見せてから、輝夜は笑った。
 そこでまた少しの間言葉を止めて、歩く。
「ああ」
 輝夜が、ぽつり、呟く。
「本当。変わったのは、世界だけじゃないわね。私たちもだわ」
 永琳は、その言葉には答えない。
 ただ微笑むことで、同意を返す。
「せっかく二人だけで旅を始めたのに、最初に出てくるのがあの子達の話題なんだもの」
「もう、大切な家族ですからね」
「家族。家族ね。あの子達が娘なら、私たち、どっちがパパでどっちかママなのかしら?」
「あえてそんな定義をする必要はないでしょう。私たちは、ただ、あるがままに」
「あ、逃げた」
 二人の新参者を迎えて、暮らしは賑やかになっていた。てゐは事情が異なるが、あとの三人はいずれも身を潜める生活を送る必要がある中、必然に利害関係を超える親近感が生まれてきた。
 つい最近になって、少なくとも幻想郷の中にいる限り、隠れて生きる必要はないことを知った。幻想郷は決して広い世界ではなかったが、竹林の中に篭っているよりははるかに世界は広がった。
 少なくとも鈴仙については、もう永遠亭に留まる必要はなかった。好きなように生きることができる。だが永琳はその事実に触れることはなく、鈴仙もそれを望む素振りもなかった。
 鈴仙は、永琳に強く依存していた。彼女は今でもまだ常に、月からの使者を恐れている。また、自分の中の重圧と戦っている。そのどちらもが、永琳の側にさえいれば安心だと深く信じ込んでいたし、少なくとも永琳は自らもそう主張した。
 まさしく彼女は、そして輝夜でも永琳でもなく鈴仙によく懐いているてゐもまた、二人の娘たちだった。まだ、巣立ちそうもない。
「でもね、永琳」
 少し二人の間の距離を詰めて、永琳の横顔を見上げて、輝夜は囁く。
「あの子達がいても、いなくなっても、私と永琳はずっといっしょだからね?」
「もちろんです、姫」
 優しい声で、永琳は迷わず即答した。
「ずっとここのままでも、外の世界に出ても、月でも、もっと遠くの星でも。私の生きる場所は、姫の側以外にありません」
「えへへ……」
 輝夜は目を細める。
 繋いだ手に少し力を入れて、嬉しい気持ちを伝える。
 永琳も同じように応えた。
「永遠に」
「永遠に」
 それは、二人の合言葉だった。


「このあたりね。今の私が生まれたの」
 竹林の中を歩くこと数時間。竹は夕日で赤く染まっている。
 輝夜が立ち止まったそこは、他と何も区別されることのない、普通に竹が生えている場所だった。もちろん、輝夜が生まれたその竹がそのまま生き残っているわけではない。
「何か目印でも?」
「ううん。なんとなく、わかるの」
「なるほど」
 物理的な意味だけで言えば、ここが今の「輝夜」の故郷ということになる。
 善良な老夫婦によって育てられた場所は、もちろんここではない。少し歩いたところにある村だ。
「あの頃は本当に……ちょっとの間に、すごく色々あったわ」
「姫の武勇伝はたくさん聞かせていただいてますわ」
「もう、武勇伝なんて言わないでってば。私なりに必死だったんだから」
 輝夜は、近くの太い竹にもたれかかって、しゃがみこむ。
 ふう、と息を吐いた。
「足が痛くて泣いちゃいそう」
 永琳は、隣の竹を選んで、同じように座る。
「実は私もです」
「永琳もなの? 疲れなんて知らなさそうだけど」
「忘れられていそうですが、私も人間ですから」
「忘れてた」
 くすくす。
 足の痛みを和らげながら、輝夜は竹の隙間から空を見上げる。
 ここからでは、月は見えなかった。
「永琳がきてくれなかったら、私、今頃何してたかな」
「ちょっとしたことで運命は大きく変わるものだから難しいです――と、言いたいところですが」
「ん?」
「きっと、今とたいして変わってないと思いますよ」
「そうかなあ」
「そうです」
「どうして」
「場所がどこだろうと、私は姫と一緒に生きる選択以外考えるはずもありませんから」
 どんな道筋であれ。
 輝夜と永琳が二人で一緒に暮らすとなると、当然、逃げ隠れする生き方にならざるを得ない。たまたま今回の運命は、二人を地球上に留めただけだ。
 輝夜は、もう一度空を見上げて、息を吐いて、ぺた、と自らの頬に掌を当てた。
「……あー。参ったわ。永琳には敵わないわ」
 むにむに。
 頬を軽くつねる。
「ありがとね、永琳。……あの」
「はい」
「大好き」
「私もです、姫」

 数分じっと座って、一緒に空を眺めた。
 今度は座っているのが痛くなってきたところで、輝夜が先に立ち上がった。永琳も、すぐに続く。
「村に向かいますか?」
「永琳」
 輝夜は、名前を呼ぶと、顔を少し前に出して、すっと目を閉じた。
 それきり、動かない。永琳は淀みなく姿勢を下げて、肩に手を置いて、自然な流れで唇を合わせた。
「ん……♪」
 数秒ほどで離れる。
 見つめあう。
 今度は輝夜から距離を詰めて、もう一度重なり合った。
 一度目より強く、深く、長く。
 輝夜の手が、永琳の首筋に伸びる。そっと撫で下ろしていく。首から、肩へ。さらに下へ。
「っ……」
 愛撫の手が脇から胸元にやや強く食い込んだとき、永琳は表情を歪めた。
 唇を離して、もう一度、お互いの目を覗き込む。
 熱い呼吸が重なる。
 潤んだ声で、永琳の耳元に囁く。
「ねえ、永琳。……ここで、しちゃいましょ」
「……もう、人里は近いですよ」
「こんなときに倫理の授業?」
「いえ、私は構いませんが。姫は声が大きいから大変ではと」
「う、それは……仕方ないじゃない……別にいいじゃない、誰か来たなら見せ付けてやりましょ」
「困った姫ですこと」
「こんな私に誰がしたのかな?」
「人のせいにするのは感心できません」
 永琳は、輝夜を正面から抱きしめた。
 あ、と輝夜がため息を漏らす。
 お返しとばかりに永琳が背中に手を伸ばして、指先で、つつ、と線を描くと、輝夜はふあぁ、と切ない声で鳴いて、ぶる、と震えた。
「……姫、すでにすごいことになってませんか?」
「だ、だって」
 ぎゅっとしがみつきながら、息を整える。
 こみ上げてくる感覚を伝えようとするかのように、小さく震えるたびにきゅっと永琳の体を締め付ける。永琳が指を動かすたびに、強く反応する。
 細く、高い、小さな悲鳴が断続的に漏れ出てくる。
「だって?」
「ぅー……」
「さっきまで妄想していたからですか?」
「ふ、ふえ!?」
「ああ、すみません。私、姫のことなら何でもわかってしまうもので。あ、これはえっちなこと考えてるなあと優しい目で眺めさせていただきました」
「う……うぅ。気づいてるなら、襲い掛かってくれてもよかったのに……」
「姫のほうからおねだりの言葉を聞きたかったものですから」
「永琳の、いじめっこー……」
「光栄です」
 抗議の声もすっかり甘い色に染まっていては、何の攻撃力もなかった。


 村に着いたときには、すっかり暗くなっていた。
 風が吹くと寒さを感じる。二人は腕をしっかり組んで、温めあって歩いた。
「急に行って泊めてくれる家なんてないわよねえ」
「普通にありそうですが、まあ、予定通り近くの神社に向かいましょう」
 それなりに広い部屋が確保されて、困っているんですと頼めばまず助けてくれる便利な場所として、最初から神社に目をつけている。各地に大抵小規模なものならあるので、位置は把握しておいていた。
 人がいるかどうかはわからないが、いなければいないで勝手に借りればよい。むしろ気楽だというつもりでいた。
 さて今回はというと、気楽なほうだった。
 村の中にごく普通に紛れているような小さな神社だった。外から声をかけてみたり、少し上がって声をかけてみたりしたが反応はない。というわけで、勝手に上がる。
 一通り見て回ったが、生活感のある部屋は見当たらなかった。ここには誰も住んではいないのだろう。
 暖炉がないのは寂しかったが、さほど困るわけでもない。食べるものがないのも寂しいが、別に何も食べなくてもやはりさして困らない。風呂は……あれば入りたかったが、我慢はできる。
 部屋だけがある、まさに素泊まりだったが、それで十分だった。敷布団は服で代用、掛け布団は準備してきていた。
「じゃじゃーん」
 輝夜が自慢げに取り出したそれは、銀色の薄っぺらいシートだった。確かに大きさは布団と呼んでいい程度ではある。
「これがね、こう見えてすっごく温かいんだって」
「ふむ。見覚えのない素材ですね」
「かっぱから買ってきたのよ。最先端のテクノロジー、らしいわ」
「なるほど」
 布団の準備はまかせて、と自信たっぷりに言って荷物の確認をさせようともしなかったのは驚かせたかったのか、と永琳は冷静に判断していた。
 冷たい木の床に適当に着替えの服を敷いて、二人、寄り添って横になる。
 銀色の掛け布団は、最初ひんやりした感じを受けたが、そのうちに体温をしっかり繋ぎとめて暖かさを感じるようになった。
「うふふ」
 永琳の手をしっかりと握り締めて、輝夜は楽しそうに笑った。
「こういうのって、わくわくするわね。冒険って感じで」
「逃避行なら散々体験しましたけどね」
「お互い、隠れることは慣れっこだったものねえ。あ、永琳、覚えてる? 秘密の合図」
 輝夜は指先で自分の肩の下、胸の上あたりをちょいちょい、と軽く叩いた。
 ……きょとんと。
 永琳は少し固まって、目を丸くする。ぱちぱちと何度かまばたきをする。
「あ、もしかして、忘れてるの?」
 むう、と輝夜が不満そうに口を尖らせると、永琳は口元を手で押さえて、少し目の焦点をずらして、いえ、と、笑いを堪える声で言った。
 ん、ん、と胸を押さえて自分を落ち着かせてから、永琳は言葉を続ける。
「覚えてますよ。何度も使われましたから」
 そう言って、永琳は自分の頬の下あたりを掻く仕草を見せた。
 輝夜の仕草は、「部屋に来て」の合図。
 永琳の仕草は、「OK」の合図。
 確認して、輝夜はにこりと笑顔に戻った。
「やっぱり永琳は素敵だわ」

 永琳は輝夜が幼い頃から長い間専属の家庭教師をしていた。家庭教師でいる間はもちろん問題なく部屋に出入りできていた。
 家庭教師の役割を終えてからでも、輝夜の家――いわゆる王宮に他ならないのだが、に出入りすることはできた。本業である薬剤師としての信頼が高かった、というより、絶大だったためだ。薬屋として決して王族に専従していたわけではないため、そこに働く重鎮たちにも重宝がられた。営業を行うことさえ許された。
 とはいえ、病気でもなければ、輝夜の部屋にまで入ることは公には許されなかった。輝夜は呼びたがったが、あまりにいつまでも永琳と個人的な繋がりが強すぎるのはよくないと思われたらしく、主張が通ることはなかった。
 だがそれで諦める輝夜ではない。本来であれば王族にとって秘中の秘であるべき隠し通路を永琳に教えた。そして、そこが安全に使える状況であることを確認すると、秘密の合図を永琳に送った。永琳は合図を受け取ると、あらゆる手段を尽くしてでも必ず輝夜の部屋まで忍び込んだ。
 部屋では、以前より時間が減った分、たくさん話をした。最近の話をした。一緒に遊んだ。そして、愛し合った。
 部屋に忍び込んでしまえば安全というわけではない。何度も危機があった。永琳はこのときに、とっさに隠れるスキルをずいぶんと磨くことになった。ただ遊んでいるだけのときはまだしも、コトの真っ最中にドアをノックされたときなどは非常に厳しい状況に追い込まれた。そもそも輝夜の声を抑えるのが大変だったものだが。
 このときから既に二人とも逃げ隠れる生き方を始めていたのだ。はるか大昔から。輝夜がまだ輝夜ではなかった頃から。その後、隠れる場所が、ベッドの下から竹林の中に変わっただけだ。

 その「合図」が、今では、正確にはこれもずっと以前からだが、輝夜の無意識の癖に変わっていることを、永琳は指摘しないでいた。言葉にはしないが永琳に何かを求めるとき――あるいは、永琳を求めるとき、輝夜はその仕草を見せるのだ。永琳が輝夜の心を読む際に非常に重要な情報源の一つとなっている。
 まさに先程、竹を背に座っていたとき、輝夜は小さく何度か同じ仕草を見せていた。あとは、輝夜の性格を知っていれば、要求していることを読むのは容易だった。
 輝夜の先程の言葉は、癖になっている仕草のことをまったく自覚していないことを証明していた。永琳は笑いを堪えるのに必死だった。
「永琳、おやすみのキス」
 ん、と輝夜が顔を近づける。
 言葉もなく、永琳は軽く唇を重ねる。
 満足そうに、んふ、と笑って、輝夜は大人しく離れた。
「おやすみなさい、姫」
「おやすみなさいー」
 疲れもあって、この日はすぐに眠りについた。



******



「留守? 珍しいな」
「珍しいわよ。それも、数日帰らないって」
「そっか。せっかく薬貰いに来たのにな」
 魔理沙は言葉ほどは残念そうでもなさそうに軽く言った。
「姫は寂しがってるんじゃないか?」
「ああ。違うわ。姫と師匠と二人で出かけたのよ」
「へえ? そりゃつまり旅行ってことか」
「そうみたい」
「そうか。じゃ、お邪魔しますっと」
「どうぞ……って、なんでよ」
「いや、物色するチャンスかと思って」
「あれ? 私舐められてる?」
 鈴仙の隣をすり抜けて、さっと家に上がってしまう。
 鈴仙は慌てて追いかける。
「ちょっと、勝手に上がらないで」
「そうだ、ウサギは寂しいと死んでしまうって本当か?」
「何よ唐突に。そんなわけないじゃない」
「そうか。安心した」
「……別に、私、そんなに寂しいわけじゃないわよ」
「これから何日もだろ? 大丈夫か?」
「だからなんであんたにそんな心配されないといけないのよ」
「寂しくなかったらあれはしないと思う」
 ちょい。
 魔理沙が指差す先に、プレイ中と思われるオセロの盤。
 今は誰もそこにいない。
 ……かあぁ、と、鈴仙の顔がみるみる赤くなった。
「師匠に勝つための練習よ……って、人の家に勝手に上がってそんなこと探るなんて酷いじゃない」
「私が常識人だとでも思ったか」
「威張られた……」
「いや、しかし白黒というのはいい。わかってるじゃないか」
「何その価値判断基準」
「中盤戦か……よし、私が黒で続きをやってやろう」
「……あんた、強いの?」
「将棋はダメだが、オセロ、囲碁、チェスは自信がある」
「へえ」
 鈴仙が答える前に、もう魔理沙は座り込んでいた。
 やれやれとため息をついて、鈴仙は対面に腰を下ろす。
「白の番だったから、先にやるわね」
「いいぜ」
 ぱち。
 ぱち。
 ……ぱち。
「で、実際大丈夫なのかね」
「何が?」
 ぱち。
「姫さ。実はお前に黙って月に帰るなり攻め込むなりしてたりして」
「ないない」
「お、慎重派にしては珍しく即答だな」
「私も師匠のことはちょっとはわかるからね」
 ぱち。
「そうかい」
 ぱち。
「……ありがとうね」
「ん?」
「心配してくれて」
 魔理沙は何も言わず、軽く肩をすくめた。



******



 この村は、輝夜が育った家もある村だったが、当然もう家は残ってはいない。見えない家に簡単に別れを告げると、朝のうちに次の目的地にすぐに旅立った。
 ここから半日も歩けば、大きな街がある。山を一つ越えることになるが、高さはそれほどでもなく、道もある程度整備されているので徒歩でも大きな問題はない。
「本当、薄いのに温かい布団でしたね」
「でしょ!」
「見る目がありますね、姫」
「もっと言って!」
「お買い物のプロです」
「さすが私ね」
「観察力が並外れてます」
「うんうん」
「消費者の鑑です」
「それは違うような」
 冷静なツッコミが入りつつ、山越えは特に問題なく終えることができた。
 やはり途中で足が痛くなって何度か座り込むことになったのは、当初から織り込み済みだった。


 店の中から美味しそうな揚げ物の匂いがしてきていた。
 街についてまず探したのが、どこか食事を提供している店だった。
 食べなくても死にはしないとはいえ、食事はやはり主に精神的な回復の意味で重要だった。食べることは、やはり楽しいのだ。疲れも取れる。
 ちら。輝夜が永琳の横顔を見上げる。
「ここにしますか?」
「しましょ」
「……」
「……」
 すぐに決まったものの、二人とも動かない。
 永琳はこころなしか、少し冷や汗をかいていた。
「ね……やっぱり、タダじゃないよね?」
「ああ、いえ、お金は持っています。相場はある程度わかりますので足りないということもないでしょう」
「じゃあ、問題ない?」
「ええ、問題ないです」
 永琳は勢いをつけるように、暖簾をくぐる。いらっしゃい、の声に少しどきっとしながらも、まずは落ち着いて店内を見渡した。先客が何人かいた。永琳は胸をなでおろす。
 しばらくその場に立ち止まっていたが、いらっしゃいと叫んだ男性が不審げな顔をしたのを見て、慌てて席を探して移動しようとする。
「姉さん、見ない顔だけど、このあたりは初めてかい?」
「……え、ええ」
「慣れてなさそうだな。そのあたりの席に座ってくれよ。注文はお品書きを見てゆっくり決めてくれ」
「ありがとう」
 二人で、とりあえず店員に近い席に座る。
 ああ、と輝夜が大きな仕草で頷いた。
「そうよね。私がこういうお店で食事するの初めてなんだから、永琳も初めてよね。こっちでは」
「……すみません」
「謝られても。いいじゃない、これだけ長く生きて今になって初体験することがあるなんて、素敵だわ」
「お品書きはここだよ。選んだら教えてくれ」
「ありがとう」
「いやいや。どこかのお嬢様たちかい? こんな店に来てくれて嬉しいよ」
「ごめんなさい、手間をかけさせてしまって」
 落ち着いた声で言いながらも、永琳は相変わらずまだ、固いままだった。
 輝夜が不思議そうに永琳のそんな様子を見つめていると、永琳は、お品書き、と呼ばれた木の板をゆっくりと指差した。
「姫……その、わかりますか、あれ」
「……む」
 とりあえず食事の名前と値段が並んでいるのだろうということはわかったのだが、肝心の食事の内容のほうがまったくわからなかった。
 輝夜はじっとそれを、ゆっくりと眺めて、うん、と大きく首を縦に振った。
「全滅」
 むしろ、晴れやかに。
「ああ、ごめんよお嬢様たち。うちのお品書きは初めての人にゃちょっとわかりにくいよな。なんだったら適当に食べたいもの言ってくれれば適当に作るよ」
 一度奥に引っ込んでいた店員が戻ってきてすぐにフォローしてくれた。
 永琳は、それでも、しばらく迷った。
「おすすめを適当にお願いするわ。……あ、それと、確認したいんだけど」
「なんだい?」
「少し」
 ちょちょ、と店員を側まで呼ぶ。隣に来たところで、荷物の袋から財布を取り出して、中身をそっと見せた。
「……足りる?」
 店員はさすがに驚いた顔をしていたが、すぐに落ち着いて頷いた。
「十分だよ、お嬢様方」
 お嬢様たちがお嬢様方にレベルアップしていた。


 温かい食事はやはり心を生き返らせる。
 店員の丁寧なフォローもあって、永琳の緊張も最後のほうは解けて、しっかりと味を楽しむことが出来た。輝夜はずっとのんびりとしたものだった。
「面白かったねー」
「私はずっとドキドキでした」
「永琳の貴重な姿を見ることができたわ」
「醜態を見せてしまってすみません」
「むしろどんどん見せて欲しいくらいだったわ。次からは落ち着いて行動できてそうだからもっと他のこと探さないといけないけど」
「うう」
「いいじゃない。これだけ一緒にいるのに相手の珍しい側面をまだ見つけることができるなんて、幸せなことだと思わない?」
「……ええ。世界が広がったということが、実感できますね」
「何事も体験よー」


 食後のゆっくりとした散歩を続けて、時折日用品が売られている店などを覗いてみたりして、のんびりとした時間を過ごした。
 何の目的もなく、ただ道を歩いている中、子供たち数人が目の前を横切っていった。
 子供たちが珍しいわけではないのだが、永琳の目を引いたのは、子供たちが持っていた画一的なカバンだった。明らかに遊びに行く装備でも、仕事道具が入っていそうな雰囲気でもない。
 昼食と夕食の合間ほどの時間だった。子供たちは賑やかに明日の試験がどうとか、終わったら今度は大会の準備だとか、話し合っていた。
「ああ、学校の帰りですね。今はこのあたりはどんなことを教えているのでしょう」
「学校……今は、こっちの世界でも、あんな普通そうな子でも行くのね」
「平和の証ですわね。幻想郷、ですか……ここは月よりも住みやすい世界かもしれませんね」
「平和な世の中でも、やっぱり試験はあるのね」
 時折苦い顔を見せながら話を続ける子供たちを見送って、輝夜はくす、と笑った。
「時代、場所が変わっても変わらないものね。どんな世界でも試験は嫌なものみたい」
「姫も試験と聞くと露骨に不機嫌な顔をしたものでした」
「だってー、点数悪いと遊ぶ時間減らされるんだもん」
「試験とはそういうものです」
 輝夜にとっても、永琳にとっても、それははるか、はるか昔の話だった。
 住む場所も環境も立場も今とは全然違う。それでも、子供たちを見て、こうして共感できるものがあるというのは驚くべきなのか、嘆くべきなのか、ただ笑えばいいのか――輝夜は、まあ、そんなもんでしょ、と一言で済ませた。
 この十字路でちょうど道が別れる子供たちもいた。
 子供たちに混じって、大人も一人いた。装いからして、保護者というよりは教師なのだろう。十字路の手前で、子供たち全員に別れの挨拶を送っていた。
 なんとはなしに眺めていると、その教師の前で立ち止まっている少女を見つけた。熱心に話しかけては、わかりやすく頬を赤らめ、可愛らしい笑顔を見せ、そして他の子供たちに囃されて、慌てて取り繕ったりしていた。教師のほうは少し困った顔を見せつつ、やんわりと微笑んでいた。見るからに、優しくて人気のありそうなタイプだった。
「ふうん」
 ちらり。輝夜は永琳の横顔を見上げる。
「こういうのも、時代文化を問わずなのねえ」
「禁断の恋、ですね」
「あの先生なら、どこかの家庭教師と違って生徒に手を出したりはしなさそうだけどね?」
 にひひ、と輝夜はからかうように笑う。
 しかし、永琳はいたって平然とさわやかな笑顔を返す。
「私は生徒に手を出したりはしていませんよ?」
「えー。永琳、イナバの嘘つきがうつっちゃった。よく言えるわそんなこと!」
「いいえ、嘘はついておりませんわ、姫。誓って」
「むう。だって――」



******



「嫌よう……、そんなの、絶対、っぐ、永琳が、だって、私……」
 永琳は、ずっと輝夜を胸元で抱きしめていた。乾く間もなくあふれ出てきていた熱い雫を、ただ優しく受け止めていた。輝夜はひたすら泣いては、時折断片的な、文章にならない言葉を発して、また、泣いた。
 可愛らしい声がすっかり枯れてしまっていた。
 永琳が家庭教師をやめるということは、半月前から伝えていた。
 そのときは、そしてそれ以降も、ただ怒って絶対に許さないと喚いていたものだが、いざ、最終日、最後の授業が終わり、未来を変えられないと知ると、たがが外れたように泣き出した。
「どこにも、いかないで、私、私に……」
 それでも、漏れ出る言葉は、あくまで拒否のみを伝えていた。
 そっと頭を撫でながら、永琳は同じ言葉を繰り返す。
「お別れというわけではありません。いつでも会えますから」
「じゃあ、毎日、きてよっ、今までみたいに教えてよっ」
「姫、それでは……」
「永琳のわからずや……っ!」
 同じような会話を何度も何度も繰り返していた。
 ただの平行線のようだったが、永琳は構わず、頭を撫でながら穏やかな口調で語りかけ続けた。
「姫、姫はもう十分に成長なさいました。これからの姫に必要なものは、家庭教師ではなく、社会を、世界を知ることです」
「知らないもん。私、まだ、子供だから必要なんだもん……っ」
「私だけでは、力が及ばないことなのです。今でなくても、もう近いうちに、私の役割は終わらないといけないのです。それが、生きる、ということです、姫」
「何よ……っ! どうせ、もっと、割のいい仕事見つけたんでしょっ。永琳が、残ってくれるなら、倍だって出させるわよっ」
「姫。我侭を言ってはいけません。本当は、もう、理解できているでしょう?」
 あくまで穏やかな口調で、しかし、はっきりと。
 教育者の声で、永琳は伝えた。
「永琳に何がわかるっていうのよっ!」
「私が教えた、たった一人の大切な姫のことなら、何でも」
「嘘、嘘よ! だったら、ずっと、いてくれたって、いいじゃないっ」
「一生付きまとう家庭教師なんていませんわ、姫。次の段階は、必要なのです。姫も理解はしている……ただ、認めたくないだけ、でしょう」
「そんな大人の理屈なんて理解したくないもんっ」
「大人の理屈だとわかっている時点で、合格ですわ」
 輝夜はそこでまた、言葉を捨てた。
 もう涙は、溢れて出てくることはなかった。枯れた嗚咽を繰り返す。
 永琳はいっそう強く抱きしめて、ずっと、落ち着くのを待った。

「もう、大丈夫ですね?」
 俯く輝夜は、永琳の呼びかけに、数秒ためらったものの、こく、と首を縦に振った。
 必要以上に言葉を重ねる意味はなかった。時間だけが必要だったのだ。
「姫。今まで、ありがとうございました。私は、姫と一緒に過ごした時間を幸せに思います」
 差し出した永琳の手を、輝夜は、やはりためらった後、弱く握り返した。
 永琳は、両手で輝夜の手を包んだ。
「では、家庭教師としての私から、最後の訓示を送ります。いつでも、この言葉を思い出してください」
 ここで一呼吸を置いた。
 輝夜の手も、緊張で少し固くなる。
 そんな輝夜の目をしっかり覗き込んで、はっきりと、永琳は口にした。
「困ったときは、逃げるが勝ち」
 ……数秒、十数秒の沈黙の後。
 輝夜の表情から、固さが抜けて、代わりに、大いなる戸惑いを目に浮かべるようになった。
「……え?」
「はい、私はもう家庭教師ではありません。質問は受け付けません」
「え、えっと、いや、永琳、最後の教訓って、もっとこう、カッコいいものじゃないの?」
「あいにく私は教育者ではなくなってしまいましたのでわかりかねます」
「……え……あ、そ、そう」
 語る永琳の口調は明るく晴れ晴れとしており、先ほどまでの真剣さは欠片もなかった。あまりのトーンの変化に呆然とする輝夜を他所に、永琳はにこやかに喋り続ける。
「ああ、姫、少しお願いがありまして」
「お願い? 何?」
「そうですね、ちょっとまっすぐ立っててください」
「……う、うん」
「目を閉じてもらえますか?」
「……?」
 素直に目を閉じる。
「最後、怒らないと約束してくれますか?」
「え? え? 何――」

 目を閉じる輝夜の後ろ頭を、永琳の手が包み込んだ。
 あ、と輝夜が思ったときには、ぐい、と少し前に引っ張られる。動いた顔面のすぐ先に、何かの気配があった。驚いて目を開けようとした瞬間、唇に柔らかいものが触れた。鼻の頭にも何かが当たっている。輝夜は混乱したが、そこにあるもの、今輝夜に触れているものが何なのかは、すぐに把握できていた。この行為について、知識はあった。
 輝夜は、もはや目を開けようとせず、じっとそれを受け入れた。永琳の手が、輝夜の頭を撫で始めた。輝夜も、自然と、そこにあるはずの永琳の頭の後ろに手を伸ばした。
「ん……ふ……」
 弱い鼻声を時折漏らしながら、それは、何分も続いた。
 永琳はどこまでも求め続けた。輝夜もまた、求めた。
 何度も角度を変えながら、決して離しはしない。
 髪を撫でる永琳の手が少し前に出て、耳に掛かる髪をそっと払う。指が耳に少し触れた瞬間、びく、と輝夜は小さく体を震わせた。
「ん、ぁ……」
 ぎゅ、と永琳の頭を引き寄せる。
 すがるように。あるいは、漏れ出る声を堪えるために。
 指が頬に達したところで、ようやく、永琳のほうから、顔を離した。
 輝夜はそっと目を開ける。乾いたはずのその目はまた、熱いもので潤いを帯びていた。
 しばらく、言葉はなかった。永琳も、輝夜が言葉を発するまでは何も言わないでいた。
 やがて、急に顔を真っ赤にした輝夜が耐え切れず、沈黙を破った。
「……生徒に手を出すのって、禁忌よね」
 永琳はまだ輝夜の髪を撫でながら、微笑んだ。
「もう私に生徒なんていませんよ?」
「……詭弁だわ」
「あら、姫。教えていませんでしたか」
 こつん、と額を軽く当てる。
 また、顔の距離が近づく。
「建前も重要なのですよ、世の中」
「何でもない他人だったらもっと犯罪じゃない……」
「同意がなければ、ですよ」
「私がいつ同意したかしら……?」
「今からです」
 永琳は、指をつつ、と走らせた。耳元に到達すると、ふぁ、と輝夜は可愛らしい声を漏らして、慌てて口をふさいだ。
 にこり、と微笑む永琳を、輝夜は精一杯睨みつける。
「私を訴えますか、姫」
「……永琳の、意地悪」
 ぷい、とそっぽを向く。
「覚えてなさいよ……仮にも姫に、こんなことしたんだから……」
「ええ。忘れません、決して」
「……! と、とりあえず……今すぐ、私に恥ずかしい思いをさせたぶんの償いは、してもらうわよ……」
「はい、姫。なんなりと」
「……」
 物怖じすることのない、からかうわけでもない、真面目な永琳の目と声。
 輝夜は胸元を押さえて、目を伏せた。
 俯いて、苦しそうに息を吐いて。
 そして、ふ、と体から力を抜いた。
「私、こんなの、初めてだったのよ」
「初めてでなければ、驚きます」
「だから……こんなの、知らなかった。でも、もう、知っちゃった」
 輝夜は、永琳の胸元にそっと飛び込む。
 ぎゅ、と体を引き寄せる。
「顔が、体が、すごく熱いの……ドキドキが止まらないの。痛いくらいなのに……でも、嫌じゃない。永琳に撫でられると、びりびりって、きちゃうの。ねえ、永琳、私、これは、変なの? ちょっと触られるだけでこんななっちゃうのは、おかしいの?」
「いいえ、姫。――私も、同じです」
「よかった……嬉しい」
 顔を上げて、永琳と、目を合わせる。
 永琳。永琳。
 2回、名前を呼んだ。
 はい、姫。永琳は微笑んだ。
 あのね。
 あのね――
「もう一回……して」
 そこからは、もう、言葉は一つもなかった。



******



「はて、姫、顔が赤いですが、熱でもありますか?」
「……ひゃわ!?」
 びくん。
 声をかけられて、輝夜は回想モードから帰ってきた。
「ななんでもないわ、気のせいよっ」
「そうですか。てっきり事実関係をしっかり思い出そうとしてうっかり余計なところまで思い出してしまったのかと」
「うう、永琳がいじめるー……」
 気がつけば子供たちの姿はとっくに消えていた。
 赤くなって俯いて歩き出す輝夜に、ゆっくりと永琳がついていく。輝夜の手はしっかりと永琳の袖を握っていた。

 ここは大きな街ということで、宿泊施設もあるようだった。ここでも手続きに戸惑う永琳だったが、なんとか無事切り抜けて泊まり場所を確保した。
 まずは少し休憩、ということで、夜にはまだ早かったが一度部屋に入る。
 入った途端、輝夜は床の上に永琳を押し倒していた。
「……永琳〜」
「姫は、えっちです」
「いいもん。お互い様なんだから」
 ふ、と永琳は笑った。
「そのとおりです」
 今日も少し早い夜を過ごすことになった。


 ここからさらにどこかに行くとなると、どこも遠くなる。まっすぐ北に向かえば広い湖の中央にぶつかる。東に進めば深い魔法の森の中に入ってしまう。湖を東側に回りこんで歩くと1日休憩なく歩き続けてもどこにもたどり着かない。西側に回り込めば――
「あの吸血鬼のお城、ね」
「予定通り、最後の目的地はそこにしましょうか」
「美味しいもの出るかしら」
「出してくれるでしょうかねえ」
 まずは北上して、湖の側まで向かう。
 ここまで歩くこと自体が目的の旅という側面が強かったが、ここでちょっとした観光気分を味わう。実際、空から湖を見下ろしたことはあったが、隣を歩いたことなどない。
 3日目ともなると、特に輝夜のほうが、疲労の蓄積を感じるようになってきていた。歩みの速度を幾分遅めて湖までたどり着いて、そこですぐに休憩を取った。
「ふぃー」
「大丈夫ですか、姫」
「ちかれたー」
 草の上に腰を下ろして、んん、と一度前屈したあと、ばたんと後ろに倒れて寝転んだ。
 永琳は輝夜の顔を見て、とりあえず疲労以外の問題はなさそうなことを確認すると、同じように隣で横になる。
「さすがにこれだけ歩くと大変ですね」
「うゆー」
「お城まではまだ半日ほど歩かないと着きませんが、もうこのあたりまでにしましょうか?」
「えーりんが、ちゅーしてくれたら治る〜……」
「あらあら、姫ったら」
 ごろん。
 永琳は体を起こして、ぐったりしている姫に負担をかけない程度に覆いかぶさり、優しくキスをした。
「♪」
 輝夜は目を閉じたまま微笑む。
「えーりん、だいすきー」
「私も愛していますわ、姫」
「えいえんに」
「永遠に」
「えへ」
「……姫、少しだけお待ちくださいね」
 優しい笑顔を見せたまま、ゆっくりと、流れるような動作で永琳は体を起こす。
 くるり、と反転して、空に手を伸ばす。その手の先から瞬時に爆発的なエネルギーの塊が、空に向かって飛んでいった。
 レーザー弾と呼ばれるそれは、そのまま空の彼方へと消えていった。一瞬、その通り道から黒い塊が飛び出したのを確認する。
「あ……あややや……」
 かなり離れた距離だが、永琳にはその姿も声もすぐ近くにいるのと変わらないほどに見え、聞こえていた。カメラを構えたまま硬直して冷や汗をかいていることまでわかる。
 天狗は、すぐさま体を翻して、猛スピードで飛び去る。
「姫、破壊しますか?」
「にゅう……?」
「撮られました」
「あいつがほんきで逃げるなら、もうまにあわないでしょ〜」
「なんとでもなります」
「さすがえーりんだわー……」
「……姫」
「くー」
 寝ている。
 行動に少し迷う永琳だったが、輝夜を一人にして置いておくわけにはいかない、と、再び腰を下ろした。
 髪を撫でて、癖にならない程度に整えてから、永琳も隣で横になった。
「おやすみなさい」
 帰り道まで徒歩で、というのはとても無理そうだった。一度だけの旅というわけでもないしこのあたりでもよいだろう、と永琳は評価する。
「お城は、また次回ですね」
 いきなり一週間ほども家を空けたりすると、ウサギたちは寂しくて死んでしまうかもしれない。最初は短めにして帰ったほうが平和に迎えてくれるだろう。
 そんなことを思いながら、永琳はゆっくりと目を閉じた。



「よかった。ちゃんと生きてたわね」
「だから、師匠までそんな迷信信じないでください」
 帰りはやはり飛行になった。長い時間をかけて歩いてきた距離をわずかな時間で踏破できるという威力を改めて思い知ることになった。
「でも、思ったより早かったですね」
「予定ではもう少し行くつもりだったんだけどね。次はもう少し体を鍛えてから行ったほうがいいみたい」
「デートは楽しかったですか?」
 鈴仙は、少し不満そうな声で言う。
 表情をごまかそうともしないあたり、やはり寂しかったんだろうなあと永琳は苦笑する。
「まあ、それなりにね」
「いいんですよ私に遠慮しなくても、もっと好きにしてくださっても」
「言ってくれるわねえ。でも、ある程度は、制約があるほうがいいのよ、きっと」
 永琳は困ったような笑顔で、頬の下を掻いて言う。
「そうですか。ところで、師匠が留守の間に魔法使いが来ましたよ。何か薬が欲しかったようです」
「あら、魔理沙来てたのね。姫が聞いたら残念がりそうだわ」
「伝えましたよ。それでは」
「はいはい」
 ああ、これは機嫌悪そうだなあ、ともう一度苦笑して、鈴仙を見送る。
 さて、後片付けの準備をしようと歩き出そうとすると、くるり、と鈴仙が振り返った。
「師匠、嬉しいとき、わかりやすいですよ」
「え?」
 きょとんとする永琳に対して、鈴仙は真面目な表情のまま、頬の下のあたりを指で掻く仕草をしてみせた。
 そして、ふ、と笑った。
「おかえりなさい、師匠。今度は私といっぱい遊んでくださいね!」
 だ、と鈴仙は走り去った。
 呆然とした永琳が、一人そこに残された。
「あー……」
 しばらく脳内で色々な情報を整理するのに時間がかかった。
 やがて永琳は、思い切り大きな声で、笑い出した。
「ああ、もう。いい家族だわ」
 頬の下を掻きながら、そう、呟いた。