「突然抜けられない急用が入ってしまったの。悪いけど夜はこれで適当に何か買って食べてくれるかしら。残ったらお小遣いにしていいわ」
 朝の食卓を、妙に切羽詰った――そんな表情は初めて見る――秋子の声が通り抜けた。小さな雑貨置き場に千円札を2枚、置く。
 一瞬、何とも言えぬ奇妙な沈黙が場を支配した。
 名雪、真琴、祐一。三者三様に不安の顔を覗かせる。何があっても――おそらくは突然ジョイを手に持った高田純次が乗り込んで来ても決して慌てないと思われている秋子が、先程の電話の後、若干とはいえ焦りの表情を見せているのだ。無理も無い。
「それじゃ、3人とも仲良くね」
 周囲のそんな様子も気にしているのかいないのか、秋子はそのまま小走りになるかのような勢いで支度を整えている。
 誰も声はかけられない。
 誰もが思っているが誰にも聞けない。
 ―――何があった?、とは。
 そもそも何の仕事をしているのかと聞いて答えが返ってきたことすらないのだ。こんな事態に返事を期待できるわけがない。おそらくはよほどの機密事項が関わっているのか、今回に関してはひょっとして国家予算並みの金額が動くような事態になっているのか――などと祐一は勝手に想像する。
 そういえばこの家に来てから色んな地方の特産物を食べる機会が多くなったな、などとふと思い出したりしながら。
 どうでもいい事を考えていると、玄関でばたん、と扉の閉じる音がした。
 誰か来たのかと思い顔を巡らせてみると、すでに秋子の姿もなかった。…どうやら、家を出た音だったらしい。凄まじい速さだ。
「…えーと………」
 何を言おうか微妙に困ってしまい、意味のない感嘆詞を漏らす祐一。
 あまりに気になる叔母の行動。恐らく名雪に尋ねても何も有意な情報は得られないだろう。
 きっと後ろで沈黙を続ける二人も同じような事を考えているに違いない――
「それじゃ学校終わったら一緒に買い物行こうね、祐一♪」
 違った。
 思わずかくっと頭を落としてしまう。
「真琴もーっ!」
 名雪の言葉に次いで、真琴も負けじと叫ぶ。
 …どうやら二人とも秋子の謎の事よりもとりあえずは買い物の事のほうが重要らしい。
「真琴は留守番お願いね、3人もいても邪魔なだけでしょ?」
 はしゃいだ声で参加表明した真琴に、名雪は努めて冷静な声でにっこりと笑いながら拒否する。
 邪魔、とはっきりと。
「な…何よそれっ!だったら真琴が祐一と一緒に行くわよぅっ」
「わたしは祐一と同じ学校だよ。真琴は保育園から遠くて大変だからね」
「学校終わってそのまま行くのは祐一だって疲れてて嫌に決まってるわよっ。カバンだって重いんだからっ!ね、祐一?」
「俺は別に構わないが…」
  が

  び
   |
   |
   |
    ん
      。

           ばた。
「…いや、そんな器用な倒れ方しなくても。大丈夫か真琴?」
 思い切りゆっくり、マンガで言えば6コマほどは使ってショック倒れする真琴に一応声をかけて安全を確かめておく。
 ………
 …待つ。
 返事が無い。
「…おい?」
「ふ………ふふふふ…」
 真琴が何やら不敵に笑いながら、倒れた時よりゆっくりと――当たり前だが、起き上がる。
 ぱんぱんと、埃を払うような仕草。
「さ、祐一、早く学校行こ?」
「……無視ね…ここでも無視なのね…ふふ」
 名雪と、真琴。
 真琴の様子など気にも留めていないように…むしろ積極的に無視するように言い放つ名雪と、あさっての方向を向きながら不気味に笑う真琴。
 どちらにまず返事をしようか迷ってしまう。引きながら。
「えーと…そ、そうだな。別に3人で行ってもそんなに不便はしないだろうし、真琴も………ぅ」
 言葉の途中で、今話している相手とは違うほうから物凄い無言の圧力を感じて思わず言葉を止めてしまう祐一。
 殺気、というものが現実に確かに存在するものだと認識した瞬間。
 間違っても初めての経験というわけではなかったが。悲しいことに。
 何か見えざる刃に押し返されながら、ごくりと唾を飲んで、祐一は死を覚悟し、間合いを詰めた。
「…真琴も一緒に、行くか?」
「祐一……っ」
 俯いていた真琴がそっと顔を上げる。
 ぱあぁぁ………
 ちょうどタイミングよくカーテンの隙間から漏れ出てきた朝日が真琴の顔に射した。
 輝いていた。
「祐一…大好きっ!」
 そのまま夕焼けに染まった野原を駆け抜けるような勢いで(朝なのに)、真琴が祐一に向かって飛びつく――
 その一歩を踏み出す前に、ずてんと転んでいた。
 思い切り顔から床に激突する。
「ほら、急いで準備しないと遅刻しちゃうよ、祐一」
 本当にまるで何事も無かったかのように、名雪は。
「え…あ、ああ」
 確かに時間の余裕はそれほど無かった。それは間違いない。間違いないが。
 なんとなく名雪に気後れしながら、真琴に声をかける。
「だ、大丈夫…か?」
「…ぁし………」
「…え?」
 がばっ!!
 呟いた真琴に聞き返すと、真琴は全身のバネを使って今度は思い切りよく立ち上がった。
「何すんのよこのアホっ!どアホっ!今わざと足引っ掛けたでしょ!?何考えてんのよ真琴のこの大事の美貌がどーにかなっちゃったらどう責任取ってくれるつもりよあーなにそれとも真琴を傷モノにして自分が優位に立とうとか思げひゅっ」
「あ、ごめんね真琴。ちょっと上腕三頭筋が滑っちゃって。さ、行こ祐一っ。時間時間っ」
 今度は有無を言わせないようにぐいっと…遠慮のない思い切りの力で名雪が祐一の腕を引っ張る。
 いきなりの不意打ちに祐一はなすすべも無くずるずると玄関まで引きずられていった。今またスローモーションでゆっくり倒れていく真琴を心配そうに見つめながら。
 玄関までの、最後の扉をそのままくぐった。
 ばたん。
 完全にそこで世界が隔たれる。
 ばたん。
 ちょうど、真琴が倒れた。
 白い天井が見えた。
 言葉に上手く表現できないような空しさを怒りを胸に抱えて。
 小さな雑貨置き場が見えた。
「………ふ…………ふふ………」
 真琴は、笑った。
 そこに置き忘れられた千円札2枚を眺めながら…



「…できれば私を巻き込まないで欲しいものです」
 ため息とともに、静かに美汐は呟いた。
 今日は雲が多く、いつもの中庭は全面に影で埋まっていた。
 いつもの噴水の堀に座っていると唐突に藪から目の前に現れた真琴に一方的に言葉を投げつけられ(いつもの事なので慣れている)、そしていつものようにため息をつく。
「何よぅ。いい?これはあの悪魔を退治するための正義の戦いなのよっ!そのためにどうしても美汐の力が必要だって言ってるのっ。ほら、例えれば真琴が剣士で美汐が賢者のお婆さんってコトよ!?」
 その例えがかなりケンカ売っている感じだが。
 普通に賢者だとだけ言っておけばいいのにと思うのだが。
 わざとだろうか。美汐は少し頭を抱える。
「ほら、今日もこうやってここに来ただけで会えたって事自体が運命ちっくなのよっ。だったらこのまま運命に身を任せるほうが物語的にも自然で」
 今日ここで会えたというのも何のことはない、美汐が昼休みはいつもこの場所で座っているからそこに来れば会えるというのは当然の事で。
 というか誰にも言っていないが真琴に会うために毎日そこで座っているという思わずちょっと泣けてしまいそうな理由だったりもするのだが。もちろん真琴が来る事はそれほど多いわけではなく、来たとすれば9割は祐一に会いに来ているわけで。
 ああなんて健気な美汐。
 みっしー、ふぁいと♪
 …とは誰も言ってくれないので自分で思ってみたりする日常。
 ますます泣けてきた。
 大丈夫、信じていればきっと真琴だって私のほうを見てくれる。
 そのためだったら昼休みを何回潰したって構わない。
 ていうか友達いない証拠?
「誰が友達いない寂しい奴ですかっ」
「………へ?」
「……………あ。…いえ、失礼しました。思わず心の声に答えてしまいました」
 まずい。美汐は焦る。
 これではひとり言の多い変わり者か、そうでなければ「見えない物と話しているあっち方面の人」だと思われてしまうではないか。
 いけない、いけない。
「ふーん。まあ、美汐がヘンなのは今に始まった事じゃないからいいけど」
 ぐさ。
 その一言が真正面からクリスナイフのように美汐のガラスハートに突き刺さった。
「それより、協力してくれるでしょ?ね?真琴の敵は美汐の敵って事で利害は一致するはずよっ」
 どういう理屈なのか全く意味不明だったが。
 本音を言えば、こと祐一の件に関しては心の中では名雪のほうに味方をしたい気分だったりもするが。
 いや、理由は言うまでもなく。
「…ですから、真琴の頼みでも出来る事と出来ないことがあります。いいですか、人を騙すような事は――」
「お願い、美汐。真琴には美汐しか頼れる人、いないの…」
「………ぅ。い、いえっ、そんな目で見たって惑わされたりしませんからね。こういう事のけじめというのはしっかりしておかないと。ですから、こういう勝負はあくまでお互いフェアに戦ってこそ」
「だって…真琴、美汐がいなかったら…もう、誰も…。真琴には美汐しかいないから……」
「…………」
 人として正しい行動とは何か、と。
 考える。
 人の幸福には5段階が存在するという。その中で最も満たされるべき重要度の高いものはいわゆる三大欲求と呼ばれるものであるらしい。
 …だからどうという事でもないのだが。
「…お願い………美汐」
 どうという事もないのだが。



「中庭で真琴が呼んでいました。用事があるからすぐに来てほしいという事です」
 放課後。
 美汐はHRが終わるとすぐに3年9組の教室――相沢祐一のいる教室の前に行き、祐一を捕まえて問答無用で言い放っていた。
 声が少し冷たくなってしまうのは、彼をライバルと認識している以上仕方ないものか。
「真琴が?ああ、今日の買い物の事だな。分かってるさ、名雪を迎えたらすぐに――」
「いえ、すぐにお願いします。急いでいたみたいですから」
「…?あ、ああ。分かった。すぐ行く」
 真剣な顔で美汐が急いでと念を押すと、祐一は一瞬疑問を顔に浮かべたものの、すぐにどこか心配そうな表情に変わって、慌てて教室に戻ってカバンを持ってきた。
「ありがとな、天野」
 顔に不安を覗かせたまま、美汐に頭を下げて、走るように急いで階段を降りていく祐一。
 たん、たん、と。その足音を聞きながら。
「…愛、なんですね」
 ため息をついていた。



 さて。
 単純で「いい人」な祐一はこれでいい。
 問題はこっちだ。



「…なんで?」
 怖い。
 素直な感想がそれだった。
 言葉は疑問系だが、表情は完全に攻撃態勢だ。
「ええと…ですから急用ができてしまったので、相沢さんはたまたま近くにいた私に伝言を頼まれたという…わけです」
「お金忘れてたのはミスだったけど…うーん。わたしが一人で家に戻るの?祐一は??」
「……手放せない用事だそうです」
「ふーん……」
 警戒されている。確実に。
 名雪は、美汐が真琴の友達であることは知っているのだ。もともと美汐と名雪はそれほど穏やかな間柄とは言い難い。ケンカをするという事もないのだが。言わば冷戦に近い状態だ。ただし、名雪のほうから一方的な。
 感情を表に出さない事にはかなりの自信を持つ美汐も、思わずほんのかすかに怯えの色を顔に出してしまいそうになる。恐ろしいまでの無言のプレッシャー。
「分かった。わざわざありがとうね」
 しばらく考えたような仕草の後、名雪は小さく頷いた。
 ありがとう。
 同じありがとうでもここまで別の含みを持つ言葉になるものか、と。
 軽く微笑みながらも笑っていない名雪の目を見ながら、美汐は一つ新しい知識を身に付けていた。



 真琴は、中庭で待っていた。
 祐一が小走りに駆けてきた。
「…真琴、何かあったのか?」
 不安そうな声で祐一が尋ねる。
「もう、祐一っ。お金忘れてちゃダメでしょーっ!はい、これっ」
 真琴はポケットから2千円を取り出して祐一に差し出す。
「え………?あ、ああ。そうか、忘れてたな、そういえば」
 正確には忘れていたというか回収する余裕も無かったというか。
 祐一は用事ってそれのことか、と胸を撫で下ろす。
「……って、別にそんなに急ぐことでもないだろ?名雪と一緒に来た後でも」
「あ、聞いてない?名雪は何か用事があって先に帰っちゃったの」
「………へ?そうなのか…それで俺に何も言わないってのも珍しいな…」
「急ぎの用事だったんでしょ。さ、祐一、お買い物ー♪」
 ぐいっと、祐一の腕を取る。暖かい腕。抱きかかえると、自分の腕より大きいことに気付く腕。
 これで二人きり。舞台は整った。
 真琴は、幸せそうに目を細めて笑った。



 何も、冷静になって考えるまでもない。
「…早くて水瀬さんが家に着いたとき、遅くても相沢さんが家に帰ったとき」
 いずれにせよ、すぐに確実にバレる作戦なのだ。
 それを覚悟のうえで、とにかく二人きりになりたかったというのなら、ひとまずは成功と言っていいだろう。後でどうなるかは知ったことではなく。
 …真琴の話を聞いている限りでは、名雪と真琴の対立というのはいつでもこのレベルのものらしいが。今回に関してはこれでもおそらく頭を使ったほうなのだろう。
 まあ、それならそれでいい。何も「こうしたほうがより効果的ですよ」などと教える必要もない。

 ――自分が巻き込まれているのでなければ。

 思わず真琴の言う通りに行動してしまったが、考えてみればこれで完全に名雪を敵に回してしまったわけだ。さすがに軽率すぎたと後悔せざるを得ない。もし名雪が真琴がよく言っている通りの少女なのだとしたら――
 ぞくり、と背筋を寒気が通り抜けた。一瞬の不快感と圧倒的な恐怖が美汐に襲いかかる。
 意味もなく周囲を見渡す。きょろきょろと。
 無論、「いる」わけも無かったが。
 何かあったら…その時は真琴が助けてくれるだろうか?

<やめて名雪っ!美汐は悪くないの…全部真琴が無理言って頼んだ事だから、美汐を責めないで!>
<……真琴…>
<何も言わないで、美汐。ゴメンね辛い思いさせて…>
<そんな事、気にしないで下さい。私はただ真琴が喜んでくれるなら…幸せです>
<…ありがと。ねえ美汐、真琴は何も持ってないから…こんな事でしかお礼できないけど…>
<……ぁ…っ>

「………はぅっ」
 何を想像したんだか。
 脳内に展開された深夜枠気味なシチュエーションにくらくらと一瞬眩暈を感じた。
 ふらっ…と壁に寄りかかる。
 壁紙の程好い冷たさが頬に当たる。火照った頬には気持ちいい。
 壁に体を預けたまま、薄く目を開いて考える。名雪を敵に回すことになったとしても(というか確定なのだが)それで真琴が少しでも振り向いてくれるならそれでいい。もしかしたら真琴は本当に自分にとって大切な人に(もちろん自分のことだ)気付いてくれるかもしれない。だったら名雪だろうが世論だろうがマイクロソフトだろうが、何だって敵に回してみせよう。
 ああ、なんて健気なみっしー。みっしーけなげ。みしなげ。
 こんなことを考えながらも外見はあくまで、まるで国連東ティモール暫定統治機構の将来性について考察しているかのようなマジメな顔が出来るのもまた美汐の才能だった。本当にそんな事を考えていたらそれはそれでかなり怖い女子高生だが。
 美汐は密かに決意する。
 …名前だけ変えて、さっきの想像の続きを小説にしてHPにアップしておこうと。


続く。