「寒いね…」
ぶるっ、と、小さく真琴が身を震わせる。風さえなければそれほどどうということはないのだが、時折吹く冷たい風が体感温度をぐっと引き下げている。短いスカートのためそのまま素足を出している真琴には特に厳しい。
「だから言ってるだろ。まだそんな格好じゃ寒いっての…」
何度も言ってきたことだ。まあ、実際こんな薄着でも耐えられている以上はある程度は寒さにも強いのだろうが。
どういう理由なのか、真琴はコートも着ようとはしない。確かに真琴用のは無いと言えば無いのだが、買ってあげようとした秋子の提示にもいらないと答えたのだ。無論間違っても名雪から借りようなどとは考えもしないだろう。
真琴は、隣を歩く祐一のその返事に不満そうに口を尖らせる。
「何よぅ。それが彼氏のセリフなの?優しさが足りないのよっ」
「あーあー、悪かったな。コート貸してやろうか?」
「だーめっ。…祐一の体で温めてくれなきゃ震えが治まらないもんっ」
ぴと。
頭を祐一の腕に預けて、もたれかかる。
「…歩き辛くないか?」
「祐一が…ぎゅーって抱きしめてくれないと温かくならないもん…」
すりすり。催促するように顔を祐一のコートに擦りつける。
「んな恥ずかしいコトできるかっての…さ、離れた離れた」
「…う〜〜〜〜〜ッ!してくれなったらこのまますりすりして町中の視線集めてもっと恥ずかしい思いさせてやるわよっ。そして祐一も気がつけば見られるのが快感っていうアブナイ性癖の持ち主に」
「やめんかっ」
さすがに慌てて、やや強めに真琴の顔を引き剥がす。
不満そうな瞳が祐一を睨みつける。
「む…愛も足りないわよ、祐一っ」
「……なんか今日はいつも以上にハイじゃないか…?」
それでもどこか楽しそうに言う真琴を不思議に思い、祐一は首をかしげながら尋ねる。
何かいい事でもあったのだろうか。…そういえば以前にもこんな事はあった気がする。
確か、そう、あの日は、お馴染みの店の肉まんがいつもなら100円のところを80円で売っていた日だ。あの時の真琴は…きっと、三途の川の向こうで大好きだったおばあちゃんが手を振っているのを見た時、人はああいう笑顔を浮かべる事ができるのだろう――そんな恍惚とした表情を浮かべていたものだ。
「え?決まってるじゃない。だって今日はなゆ―――っと、何でもないわよぅっ」
上機嫌に何か言いかけて、途中で自分の言葉に何か嫌悪するように顔をしかめて、言い直す。
だいたい、言おうとした事の検討はついたが。
ただ、まるでその名前を口に出す事自体が禁忌であるかのように真琴が不快そうな表情をしたのを見て、祐一は隠れてため息をついた。
「肉まんーーーっ」
「こら、無駄遣いはダメだぞ」
「えーー………」
歩きなれた商店街。真琴と二人で歩く事も珍しい事ではない。
例えば今の会話も過去にも幾度となく繰り返されてきたようなものだ。
真琴は悲しそうな目で、美味しそうな湯気を立てる蒸し器と保温器の中でさあ早く食べてくれと叫んでいる肉まんたちをじっと見つめる。
そのまま通り過ぎようとした祐一の腕をぐいっと引っ張って、止める。
「…ダメだ」
「でもお金、余裕あるんでしょ?こういう時だからチャンスなんじゃないっ」
真琴は引かない。今日はいつもより強気だった。
やはり目の前に千円札2枚を見ているのが大きいらしい。
「うーん…まあ、そうなんだけどな」
買うものを計算して、確かに十分にあまりの出る金額だという事は分かっていた。
今3人揃っていればそれほど悩まなかっただろうが。
「買うなら3人分買わないと不公平だろ?名雪は別に肉まん好きでもないしなぁ」
「何言ってんの祐一?肉まん嫌いな人なんているわけないわよぅ。それに名雪の事はただナイショにしておけばいいだけじゃない」
「そういうわけにもいかないって」
祐一は苦笑して、分かってくれよ真琴に視線で訴えかける。
「そ、それじゃ名雪には別に何か買ってあげればいいでしょ?ね、お願いっ」
真琴は今日はあくまで引き下がる気は無いらしい。今日という日がかなりのチャンスだという事を自らの言葉通りによく理解しているのだろう。
軽く肩をすくめて、祐一はため息をついた。
「…分かった分かった。あんまり食べ過ぎるなよ」
「わーーーーっ♪ありがと祐一だーいすきっ♪」
祐一の許可の言葉が出ると同時、真琴はぱっと表情を輝かせて、思い切り飛び掛って抱きついた。今回は邪魔をする者はいない。
ぎゅ、と。強く抱きしめる。
「お、おい、だからこういう人目のあるところで…」
祐一は慌てて、しかし真琴の負担にならないようにゆっくりと体を引き離す。これもまた、いつものように。
ただ純粋に楽しんでいる真琴と、相変わらず恥ずかしそうに(でも嬉しそうに)顔を赤らめる祐一と…そんな様子を見ながら「変わらないなあ、こいつら…」と、肉まん売りの店主は思うのだった。
「あのー」
祐一が店主に声をかける。まさか相手にそんな事を考えられているなど想像もせず。
「毎度。今日は何個だい?」
「んー…そうだな…」
「3つー」
「はいよ、300円」
真琴が即答していた。
祐一は反射的に反論しかけるが、何か言おうと思ってから特に何も言えることはないと気付いて、大人しく財布から千円札を取り出した。
程なくして、袋詰の肉まん3個が手渡される。蒸したての熱さを保ったままの。
あつつ、と小さく叫ぶ祐一。
「はい、真琴」
「ん〜〜〜♪温かいーっ」
受け取った真琴が嬉しそうにさっそく一つを手づかみで取り出す。一瞬顔をしかめる。熱かったのだろう。
「いっただきまーす♪」
「へぇ。美味しそうだねー」
「うん♪そりゃあもぉ………」
「………」
後ろから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声。もちろん祐一ではない。
そこにいるはずのない人間の、声。
可愛い声。
「あれ、名雪?用事があって帰ったんじゃ―――」
「用事…?そうだよ、お金取りに帰ってたんだよ。どうして待ってくれなかったの?お金も無いし……真琴はいるし」
祐一が素直に疑問をぶつける。ちょうど真琴の真後ろにいる名雪に。
真琴は冷や汗を思い切り流しながら、振り向かない。
「お金なら真琴が気付いて持ってきてくれたんだが…取りに帰ってたのか?」
「祐一がわたしに取ってこいって言ったんでしょ?」
「え?俺そんな事言ってないぞ…?」
「…へえ。わたしは天野さんっていう後輩の女の子の伝言でそう聞いたんだけど」
「天野?俺も天野に会って、なんか真琴が待っているから急げって言われて――」
「………」
「………」
二人の視線が、前から後ろから、肉まんを抱えた少女に集中した。
一つは純然たる疑問の視線、一つは刺すような鋭さを持った視線。
「………あぅ」
いつもより若干短いあうぅを漏らして、真琴は、あえてぐるっと振り返って名雪のほうを見た。
というか祐一の顔は見ていられなかった。
「も、元はといえば名雪が悪いんだからねっ!真琴の事を仲間外れにしてっ…」
振り向いた真琴が開き直ってまくし立てると同時に、名雪は鋭く手を伸ばして、その胸に抱いている紙袋を奪っていた。
あっ、と声をあげるも遅く、既に肉まんは名雪の手の中に収められている。
「…ああ、なるほど。仕返しってわけ」
名雪はそんな真琴を無視するように普通に歩いて、その側を通り過ぎる。近づいた瞬間真琴がびくっと体を震わせるが、気にせずそのまま祐一のもとまでたどり着いた。
「預かってて」
言うと、ばっと紙袋を持った手を祐一に差し出す。
考えず反射的に受け取る祐一。
「…何個買ったの?」
「え……あ、これか?3個だが…」
「そう。ちょっと真琴借りるね。5分で終わるからちょっと待ってて」
二人に後ろ姿を見せたまま固まっていた真琴が、再び体をビクつかせる。
一瞬後には逃げる構えを見せるが、その瞬間にはもう名雪が肩を掴んでいた。
祐一が呆然と眺めている間にも、名雪は抵抗して暴れる真琴の体を事も無げに引っ張り、祐一の声が届かなくなる所まで連れて行った。
追いかけないと危険だ、助けよう…とも思ったが、まあ見える範囲にいるのなら危険な事はしないだろう、何かあったらその時止めに入ればいい…余計に事を荒立てる必要はないと祐一は判断した。
二人は何か話し合っているようだった。
真琴の表情は見えないが、若干焦っているようではあった。酷い事をされているというわけでも無さそうだ。
名雪が何やら近くの自動販売機を指差して説明でもしているように見えるのが疑問だったが。
しばらくすると、名雪が一人で歩いて戻ってきた。真琴はその場を動かない。
「お待たせ〜」
「な、なあ名雪。一体何を…」
「祐一も甘やかしちゃダメだよ。これはみんなのお金なんだから勝手に使わせちゃダメ」
「………う。ごめん…」
それを言われると痛かった。
分かってはいた事なのに、つい、お願いされると弱いのだ。相変わらずの悪い癖だと思う。
少し沈む祐一に、名雪はにこりと微笑みかけた。
「だから真琴にはお金の大切さを勉強してもらおうと思って」
「…真琴はまだ帰ってないのか」
「もうちょっとかかるんじゃないかな?」
「なあ名雪、いったい真琴に何を――」
「ちょっと社会勉強させているだけだよ。それにしてもあそこの肉まんってこんなに美味しかったんだね。今まで知らなかったのもったいなかったなぁ」
結局あの肉まんは「3人分でしょ?」と言って名雪が一つ食べてしまった。祐一にも勧めたのだが、祐一は真琴の事を気にしてか「俺はいい」の一点張りだった。
どん、と疲れたように祐一がソファに崩れ落ちる。
必要以上に疲れたような気がする。座った途端に体から力が抜け落ちていくような感覚がした。
名雪が、そんな祐一の前にすっと立つ。例えようの無いほど晴れやかな笑顔で。
「そんなに心配しなくたって大丈夫だよ。ね…それより祐一…ウチに二人っきりって久しぶりだね…?」
すとん。
「って、お…おい、名雪…っ?いきなり何――っ!?」
慣れてしまうと、通行人の視線にもまるで鈍感になってしまった…気がする。
すでに暗くなり始めた街の中、服も土煙で汚れ、地面に直についている膝はもう黒っぽくなっている…そんな少女が一人、真っ赤なジュースの自動販売機の前で跪いていた。
特に手の汚れが酷い。見るも無残な状態になっている。
何をしているかは見れば一目瞭然ではあった。自動販売機の下に出来る隙間を必死になって覗き込んだり、手を入れて探ったりしている。短いスカートのため下着までほとんどマトモに見えるポーズだったが、それさえも気にしている様子は無い。道を通る人が次々に視線を投げかけてゆく。
「あっ…」
少女が一瞬心から嬉しそうな声を出す。隙間に入れた手を小刻みに、必死になって動かす。努力の甲斐あって、右手の先に触れたものは少しずつ出口に向かい、最後に思い切り突いて、とうとうこの空の下の世界へと姿を現した。
それを見た少女の表情が、喜びから一気に失望に変わる。そこに現れた10円玉。ほとんど半泣きになりながらも、それをポーチに収めた。
「あぅ……あと…いくらだろ…寒いよぅ………冷たい…」
あと100円玉一つさえ見つかればクリアだということはずっと前から分かっているのだが。
「終わったら絶対名雪のヤツ…酷い目にあわせてやるわ……」
この寒さの中、体を燃やしているのはその思いのみ。
どうしてくれよう。
例えば…そう、名雪の愛用の猫のスリッパを片方だけ虎に換えてしまおう。帰ってきたらびっくりだ。猫だと思って育てていたら実は虎だったという罠。恐ろしい。
………
「…何か間違ってることくらい分かってるわよぅ」
言葉は白い息とともに虚空に消えた。
そうだ。名雪が目覚ましに使っているあの録音目覚し時計に、自分と祐一との「愛の営み」を録音してしまうというのはどうだろう。ここぞとばかりに祐一に恥ずかしい言葉をいっぱい言わせてしまおうか。名雪は起きるなりそれを聞くはめになるのだ。恐ろしい。
………
「…別に真琴の趣味ってわけじゃないわよ?」
手は、休まずに動かしつづけていた。
名雪が出した条件は簡単だった。
勝手に使った300円を「稼いで」帰ってくること。
もちろん今すぐに働かせてくれるところなどないので、手っ取り早く収入を得る手段として名雪が紹介したのが、つまり、これだった。
稼げずに帰ってきた場合は真琴の無駄遣いを秋子に報告、3ヶ月一切お小遣い抜きにしてもらうという名雪の脅しつきで。
普通なら名雪に何を言われたところで気にするものでもない。ただ秋子の名前はお互いにとって絶対的だった。もしまかり間違って敵に回してしまったなら、その時点で人生の敗北だ。おそらくは家に居場所がなくなるどころかいつの間にか学校でも「あなた誰?」とか言われて、新聞や雑誌に訴えても「その件は我々の手には負えない。諦めてくれ」と黙殺されて、ふと気がついてみればどこを見ても自分という人間が存在した形跡すら完全に消えているのだろう。大好きなあの人が目の前を歩いていても、横断歩道でそのまますれ違ってしまうのだろう。…というのが少なくとも真琴のイメージだった。
…実際に報告されたところでそんな事をされるはずもないのだが、まだ真琴はその事には気付いていなかった。
もしかしたら10円玉でもあと3,4個くらいで足りるかもしれない。
そう期待してポーチの中を覗き込む。暗くてよく見えない。
手を差し出して、ポーチを振る。いったん手の上に出して数えよう。
…ちゃりりーんっ
想定したところからずれた場所から小銭が零れ落ちて、ほとんどが掌を掠める事すらなく派手な音を立てて地面に着地した。中でも一際目立つ100円玉と50円玉が…一つはそのままころころと転がり自販機の下へと隠れ、一つは落下防止用の金網で覆われているどぶの中へと落ちていった。
「あ、あう………あうぅーーーーーーっ…」
慌てて金網に手をつっこもうとしても、指の一本さえ入る隙間は無い。そうこうしている間に他の小銭もばらばらに散って、金網の僅かな隙間からまた一つ二つ落ちていった。
「…あ………ぅ…」
さすがにどうしようもないと諦めて、今度はまだ救いのありそうな自販機の下に手を突っ込む。慣れた手つきでサーチを行う。………一つも引っかからない。どうやら手の届かない奥まで行ってしまったらしい。
泣く泣く、今地面に落ちているものだけ数える。
50円玉が1枚、10円玉が3枚、1円玉が1枚。
81円。
切望的な数字を見た。
”天使様”100円玉が2枚出てもまだ届かない。”奇跡の救世主”500円玉の登場でも願わない限り、あまりに果てしなく遠い道――
がっくりと、両手を地面に落とす。
真琴は…泣いた。
地面は容赦なく冷たかった。
名雪の狙いどおり、確かに、思っていた以上にお金の価値というものを身にしみて知った。
だからもう―――
「真琴…」
…その、優しい声は、ちょうど真上から聞こえた。
聞き間違えるはずも無い。
「…ゆ………祐一…っ」
ゆっくりと、涙に腫れた顔を上げる。
すぐに立ち上がろうと思ったが、力が出ない。
祐一は黙って手を差し伸べた。
すぐに手を伸ばそうとして、自分の手が汚れている事に気付いて一瞬躊躇って、そんな顔を見せると祐一は気にするなと笑って、身を屈めて真琴の手を取ってぐいっと引っ張って立たせた。
「ゆういち…」
「ったく、お前らなんでこんなに仲悪いんだか…名雪もここまでさせなくてもいいのにな」
すっかり冷え切った体を、祐一がしっかりと抱いて温める。いつもなら街中でそんな事するなと言っている祐一が、今ばかりは関係なく背中に手を回して抱きしめていた。
「そうよぉ…名雪ったら悪魔なのよぅ…」
「こら。真琴もあんまり人のことばっかり言えないぞ。名雪が怒るのも当然なんだからな」
「…あぅ………」
祐一は軽くため息をつく。なんとか仲良くなってくれないものか。
とりあえず、ポケットから持ってきたものを取り出した。
「これ、持っておけ。これで帰れるだろ」
100円玉が2枚、50円玉が2枚。
300円。
「……ゆ…いち………」
「あーあー、泣くなって。金使った事に関しては俺も同罪だ。気にするな。名雪にはナイショだからな?」
うんうんと、大きく縦に首を振って頷く。目に涙をいっぱいに溜めながら。
改めて、祐一の胸に顔を埋める。
「………………」
「………………」
そのまま、お互い無言で抱き合って。
夜の風が吹く中、二人じっと動かない。
真琴の体が小さく震えている。まだ寒いのか、それともまた泣いているのか―――
心配になって大丈夫かと聞こうとすると。
「……名雪の匂いがする」
先に沈黙を破ったのは、真琴の一言だった。
震えた声で。
「………え?」
「この体から!服からっ!あの名雪の匂いがするってのよ!!それもコレはただ一緒にいただけって匂いじゃないわ。何秒かは抱き合っていないとこうはならないわよっ!?」
「…す、凄いな、お前………っじゃなくて、ああ」
祐一は狼狽して一歩下がる。
「祐一――」
「い、いや、別にそんなやましいことはしていないって。俺だってやっと逃げて…」
「分かってるわよぅっ。祐一からそんな事出来るわけないんだから。真琴が言ってるのは、名雪と二人になった時はちゃんと襲われないように気をつけてなさいってコトよっ!祐一は無防備すぎるのっ!」
ずるっ。
ごん。
もう一歩引いた拍子に、たまたまそこに落ちていたバナナの皮で足を滑らせた祐一が、たまたまそこにあった電柱で頭をぶつけていた。
「………お…俺っていったい…」
何やら哲学的な悩みを抱えつつ、頭も抱える。
真琴はそんな様子も気にせず、ずいっと前に出て再び祐一に顔を近づける。
くんくん。匂いをかぐ。
「…脱出まで20秒ってとこね。名雪が目の前にいるっていうのに力を抜いてリラックスしていた証拠だわ。そんなの、襲ってくださいって誘っているようなものよっ」
「……………真琴、探偵にでもなるか…?」
「話逸らさないのっ。…でも、もう大丈夫よ。真琴がついてるから安心して家に帰れるわ。感謝しなさい」
何かが違う。
自信たっぷりに言い放つ真琴を見ながら、祐一はとてつもなく間違ったコトを言われているような気がしていた。そもそも助けに来たのは祐一のほう…
痛む頭を抱えながら真琴をじっと見てみる。さっきまで泣いていた形跡などまるで残っていない。
守るべき者を見つけた時人は強くなれると言うが。
今、目の前で胸を張る彼女は、実に男気溢れる顔をしていた。
…もう何故か脳が既に考えることを放棄しているかのようで―――
「………はい」
虚ろな目で、祐一は返事を返していた。
その日の主な出来事は、概ねここまでで終了である。
後は帰ってから若干一波乱があったり(慣れた事だ)、美汐から「匿名で掲示板に荒らしが来ている。メールボムを送られた。なんとかしてくれ」という内容の憔悴しきった文章のメールが届いたり(何故祐一のところに言ってくるのかと思ったが、理由はすぐに見当がついた)、その日の夜は真琴がやたらに「愛してるって言って。ちゃんと名前を呼んで」と迫ってきたり(他にも色々思い出したくもない言葉を言ってしまった気がする)―――という程度で。
ただ、今後しばらく続く事件を引き起こすきっかけとなった一言がある。
「しばらく忙しくなりそうなの。ごめんなさいね。あと2週間くらいは今日みたいに夜は遅くなりそうで――」
その一言の瞬間、名雪と真琴の目が同時に光ったのは言うまでも無い。
祐一としてはそれよりも、秋子がその後かかってきた電話で「――市の市長さん?――投資の件に関してはもうお断りしたはずです――それより自宅への電話は反則ですよ――私としても断固とした処置を―――」などという会話が断片的に聞こえてきた事のほうがよほど気になったのだが。
「…あたしを巻き込まないで」
「うーっ、そこをなんとかっ。ね?香里の頭脳が味方につけばあんなお子様コンビなんて敵じゃないよ!」
「まるであたしの頭脳にしか用は無いって言い方ね…」
「うん。他はいらない。あ、ごめん嘘帰らないでっ。香里大好き愛してるっ」
「………」
「そういえばさ、美汐は好きな人とかっていないの?なんなら真琴が相談にのってあげてもいいわよっ」
「………それは…」
何と酷な質問であろうか。
ああ。いつでも近くにいすぎる人の気持ちというのはかえって気付かないもの。
こんなにも想っているというのに。
日記は真琴の名前でびっしり埋まっているというのに。
空想の中ではすでにゴールインした仲だというのに。ちなみに新婚旅行の行き先はメキシコだというのに。
「それにしても祐一来ないねー。もぅっ、せっかく迎えに来てあげたのにっ」
「………」
考えている間にもうその話題は真琴の中で終わっていたらしい。
悲しかった。
というかむしろ祐一来るな。とか思ってみたり。
「……な、なあ、香里、まだあるのか…?」
「何よそわそわしちゃって。まるで誰かと待ち合わせでもしてるみたいね?ふふ」
「ああ。実は―――」
「あたし一人じゃとてもこんな重いもの運べないわ…ああ、北川くんが急に倒れちゃったりしなければこんな事にはならなかったのに。…相沢くん、あなたはこんな困っているあたしを放ってはおけない人だと信じてるわ…」
「………う」
なんだかんだ言ってお人好し超Aクラスの祐一くんは、こんな状況で帰れたりはしないわけで。
真琴に心の中で謝りながら、ひたすら重い紙束を運ぶのだった。
………………
………
「お、終わったぁ…くぅ」
「お疲れ様。ごめんなさい手伝わせちゃって」
「あ、ああ。気にするなって。香里も大変だな…っと、それじゃ俺は―――」
腕時計を気にしながら祐一は慌てたように歩き去ろうとする。
…と。
「――はぅっ…」
「…?…って、お、おい、香里!?大丈夫かっ!?」
突然小さな悲鳴をあげて、香里がふらっと倒れかかる。
「あ…ダメ…ちょっと無理しちゃったみたい…ふらふらするわ」
「……くっ。ほら、捕まれっ。保健室に連れて行ってやるから―――」
ここから保健室までは、遠い。
そもそも祐一はちゃんと保健室の場所を分かっているのだろうか?
香里は妹の姿を見て研究した辛そうな演技の下で、ちらっと祐一の表情を覗いた。真剣に心配している表情。
(ああ―――なるほどね。名雪の気持ちもやっぱりよく分かるわ…ふふ)
弱々しい動作で祐一の肩につかまる。華奢な体格だが、香里を支えるには十分のようだ。
香里は、ことさらに祐一に体を密着させる。
むぎゅ、と。
「…っ。な、なあ…香里………」
「…何かしら?」
「い、いや…その………何でも無い」
ドキドキという、心臓の速い鼓動が体を直接通して香里に伝わってきた。緊張している。意識しているのがアリアリと分かる。
祐一は、保健室に向かって歩き出す。
(…悪いわね―――名雪。どうやら親友は今日限りのようね)
ニヤリ、と誰にも見えない小さな笑みを。
新たなるステージのが開幕した瞬間だった。
FIN.
【あとがき】
…えと。
なんともまとまりのない………
ま、まあ言い訳するのも見苦しいのでしませんが。名雪がさすがに可哀想かと思ったり…
30kBオーバーしてこんなものしか出来ないのかと思ったり(;_;)
出直してきます。すみませんでした。
ところでやっぱりトマトジュースはカゴメが一番美味し(後略)