[A面]

 空高くまで響くような、力強い歌声。
 彼女は青空の下で一人、歌っていた。



[B面]

 先祖と話がしたい、と老人は言った。

 大木にもたれかかって休憩中だった小町は、顔を上げる。見知らぬ男の顔がそこにあった。顔や腕の皺、そして全面白くなった髪を見るに、既に相当な高齢と思われた。だが、背筋はぴんと伸びており、言葉もはっきりと聞き取れるものだった。腰に下げた刀はただの見掛け倒しではないだろう。
 当然だ、と小町は思う。こんな所まで一人で来る人間なのだから、それなりに腕に自信がある者に決まっている。
「できないよ。帰りな」
 誰だか知らないが、返事は最初から決まっていた。
 決してよくあることではなかったが、初めての経験というわけでもなかった。彼岸に来れば死者の声を聞くことができると思っている者は多い。
 小町は、その望みに声を貸すことはない。
「あんた、死神だろう」
「そうだよ。あたいは有名かい?」
「死神なら、死人と話だってできるはずだ」
「そりゃ、あっちに渡る前ならね。それが仕事なんだから。でも、渡っちゃったあとはどうしようもないよ」
 静かに答える。
 正確には、本当にどうしようもないわけではなかった。どうしても必要であれば、色々とツテを辿っていけば必ずしも不可能とは言い切れない。が、面倒だ。相当に面倒だ。他人のそんな望みを叶えてやる義理など無い。
「少しでいいんだ。頼みたい」
「できないものは、できない」
「俺が話ができないとしても、あんたか……同族なら、無理でもないだろう? 伝言を伝えて、返事を貰えるだけでもいい」
 ……ふう。
 腕を頭の後ろに回して、小町は溜息をつく。
「しつこいね。そういうの、モテないよ?」
「今更モテる必要があるように見えるか」
「……ははっ」
 適当にあしらうつもりだった言葉に、思わぬ真面目な返事が返ってきて、小町は吹き出す。

 改めて、男の顔を眺める。
 真剣そのものの表情だった。戦士らしい鋭い空気を纏ってはいるが、無駄な威圧感は感じさせない。基本的にまっとうな道を歩んできたのだろう、そう感じさせる。
「あんたみたいな、面白い奴は嫌いじゃないよ。でも、できないものはできないんだ。何回頼まれたってね」
「ならば、できる奴を紹介してほしい」
「なあ。あんたはなんでご先祖様と話がしたいんだい? ご先祖様が果たせなかった夢の達成の報告? 道を示す助言が欲しい? ただ声が聞きたい……って感じじゃあ、ないか」
「確信が欲しい」
「うん?」
 男は静かに言った。
「兄弟……子供たちが、一切の迷いと不安を捨てられるだけの確信が欲しい」



[A面]

 決して卓越した技術ではない。熟練したと表現できる歌唱力を持っているわけではない。
 だが、若々しく、伸び伸びと張りのある声は、生きる喜び、力強く生きるたくましさを歌うその歌にはよく似合っていた。何より、声に活力が溢れていた。この歌はこう歌うものだと強く主張するかのようだった。
 たとえ、彼女の存在にはあまり似つかわしくない歌だったとしても。



[B面]

「また来たのかい。無駄だよ」
「死神というのは、意外と暇なのか。今日も何もしていないように見える」
「死神が暇なのは、平和な証拠だよ」
 小町はいつもどおり木にもたれかかって座っていた。
 男は昨日と同じように、目の前に立った。
「死人ってのは、来るときにはまとめて来るもんだ。災害やら事件やら、そういうのでね」
「地震とかか」
「だね。飢饉やら戦争やら、そっちのほうがよほど酷いけどね」
「ふむ」
 男は神妙な声で軽く頷いたかと思うと、三途の川のほうに体を向け、両手をあわせ軽く目を閉じた。
「……ここは供養する場所じゃないよ」
「そうだな」
「変わり者だねえ、あんた」
「変わり者であることには、自信がある」

 ふと、小町は立ち上がった。
「仕事か」
「いや、座っているのに疲れた」
「なるほど」
「いや。あんたは何がしたいのさ。昨日あれだけ頼みごとをしまくっていたくせに、今日は黙って立ってる」
「ふむ」
 落ち着いた声。
 表情からも声からも、感情を読み取ることは難しい。一般的にはあまり話しやすい相手ではないのだろうが、無数の死者の魂との対話を繰り返してきた小町には、話せないタイプなど存在しなかった。とはいえ、得意苦手はやはりあるものだが。
「何をどこまで話せばよいかを考えていた」
「来る前に考えな」
「まったくだな」
 あまりにあっさりとした同意に、小町は脱力する。
 なるほど、変わり者だ。
 言うまでもなく、変わり者と話をするのは、嫌いではない。もっとも――
「話を聞いたところで、昨日の返事に変化はないよ」
「――今、我々の一族は秤にかけられている。運命を左右する巨大な秤だ」
「このタイミングで話し始めるんかいっ」

「秤が釣り合う頃には、俺はもうこの世にはいないだろう。だが、兄弟たちや、子供たち――孫娘も、その時を迎えるはずだ。結果がどうなるかは神が決めることだが、結果に関係なく胸を張ってその瞬間を迎え、その先を生きろと伝えたいのだ」
「雲をつかむような話だねえ。よくわからないけど、そいつはそう思っているあんたが伝えれば済む話じゃないのかい」
「俺は一族の中でも外れ者だ。俺の言葉など何の価値も持たない。もともと才能がなかった上に、剣にばかりやってたからな――気楽でよかったが、今となっては少しは信頼って奴を得ておくべきだったと反省はしている」
 淡々と語ったあと。
 男は珍しく、ふと表情を緩めた。
「嘘だな。真面目に反省などしていない」
「こう言っちゃなんだけど、苦悩している人間の顔には見えないねえ」
「苦悩しているのは、まっとうに一族の責任を果たしてる奴らのほうだからな。試練だと一言で言えば済むかもしれないが、まだ幼い子供たちまで得体のしれない不安に晒されるのは酷だな」
「可愛い孫娘とかかい?」
「わかるか」
「特別可愛がってなきゃ、わざわざ分けて言及はしないさ」
 その指摘に、男は微かに笑ったように見えた。
「あいつでさえ、不安な顔を見せる時がある。あいつは俺の言葉を聞いてくれるが、それでも周囲がみんな暗い顔をしていたら伝染するだろう?」
「そいつが一番の本音?」
「かもしれないな」



[A面]

 誰もいないような場所で彼女は歌う。
 誰に聞かせる歌でもないのだ。
 ただ、歌いたいから歌う。好きな歌だから歌う。
 その自由は誰にも邪魔をさせないという、強い意志を感じさせる。

 歌の最後。
 胸を張って生きろ、と彼女は歌った。



[B面]

「我々が仕えている方は、本当に偉大な方だ。誰もがあの方には敬意を抱いている」
 今日は小町は、川の一往復を終えたあとだった。
 船で戻ってきたところに、男は待ち構えていた。
 そして、語りだしたのが先の言葉だった。
「……あんた、状況を読むとか、系統立てた話の仕方とか苦手だろ」
「よくわかったな」
「わかるわ」

「だが、あまりに偉大すぎて、一族は皆自信を失っているように思える。自分達は真摯に仕え、手助けをしているつもりでいて、実はそうしていられるのもあの方の気遣いに過ぎないのではないかと。本当はあの方一人で全て何でもできてしまうのではないかと感じてしまうのだ。本当のところは、俺にも分からん」
「そりゃまた、凄い人なんだねえ」
「だが、俺は一族代々も、同じく偉大だと思っている。先代の働きは特に眼を見張るものがあった――先代の言葉があれば、一族は自信を取り戻せるだろう」
「なるほど」
 小町は歩く。歩いて、いつもの木に向かう。男は当然のように後についてくる。
 座る。
「少しはわかった。まだわからん事のほうが多いけどさ」
「ふむ」
「でも、どうしても先祖の言葉が必要な状況とも思えないね。結局、今の問題は今生きている奴らで解決するしかないのさ」
「俺にできることが、これだと考えた」
「間違いだ」
 すっぱりと斬る。
 目を閉じて、小町は続ける。
「出来もしないことにこだわるのは、奇跡を願って祈るのと何ら変わらないよ。他にできることを考えたほうがいい」
「だが、もっとも有効な方法だ。できないことだとも思っていない」
「できないこと、だよ。受け入れな」
 手にしていた鎌を地面にそっと置く。
 すう……と、ゆっくり息を吸う。
 そして小町は、歌い始める。

 生きること。
 苦難に抗い、苦難を乗り越えること。
 手を尽くすこと。
 それらをただ、まっすぐに歌う。

 歌い終わると、彼岸にまた静けさが戻る。
 男はいつもどおりに、ふむ、と呟いた。
「死神が歌う歌とは思えんな」
「残念ながら、あたいも変わり者でね」
「そのようだ」
 突然歌い出した死神に驚きもせず最後まで静かに聞いていたあんたも相当にね、と小町は心のなかで続ける。
「だが、最後はなんだ? あんな半端な終わり方をする歌なのか」
「気づくか。まあ、気づくだろうね。最後はあんたの好きな言葉を入れるんだ」
「む?」
「これは、あたいからの贈り物だよ。だいたい、どんなメッセージも、それがどれだけ正しくても、正しいからこそ何の力も持たないのが当たり前なのさ。そんな時は、歌に乗せればいい」
 男は、静かに小町の言葉に耳を傾ける。
 しばらく無表情で黙っていた男は、小町の目をじっと見つめながら、言った。
「……俺が歌うのか?」
「……いや、確かにあんまりイメージできないけどさ」
「俺もだ」
「まあ、あんたが例の一族の前でいきなり歌ったところで、不審に思われるだけかもしれないけど」
 小町は遠慮無く指摘した上で。
「でも、聞いてくれる相手もいるんだろう? 一人は」



[A面]

 彼女の歌を、小町は聞いていた。
 不思議なところで知った顔を見かけたため、なんとなく追いかけてみたところ、歌声が聞こえ始めたのだ。
 それで、声をかけそびれて、結果的に盗み聞きしているかのような状態になってしまった。正確に言えば、声をかけそびれたという状況の問題でもなかった。小町は、聞こえてきたその歌に驚き、衝撃を受け固まっていた。
 久しぶりに聞いた歌だった。
「なんだ」
 彼女の姿を、横から眺める。
「元気そうじゃないか」



[B面]

 小町は、ふい、と鎌を上げた。
 きぃん、と鋭い金属音が鳴り響く。
 突如振り下ろされた剣を、鎌の刃で受け止めた音だ。
「うん。速さは悪くないけど、奇襲するにゃ気配が丸出しすぎるね」
 両手で剣を持った、まだ幼い少女の姿を見る。少女は鋭い目で小町を睨みつけ、すぐに剣を引いた。
「お前がおじいちゃんを虐めてる死神だな! 覚悟しろ!」
 少女は叫ぶ。
 剣を構え、突き出してくる。小さな体を考えると、かなり速い。訓練された動きであることは明らかだった。
「判断も悪くない」
「でやっ!!」
 小町は体をひねって、突きをかわす。ぐるりとそのまま回転して、少女の背後を取る。少女はすぐさま振り向きながら剣を横に振る。距離を取って、避ける。
「避けるな!」
「無茶言うなあ。別に当たっても死にゃしないけどさ」
「ふんっ」
 踏み込んでくる。剣はまっすぐに、胴を狙って突き出される。胴と言っても、少女からすれば顔の高さよりも高い。これでは力も十分に込められないだろう。誰が見ても、体格差は如何ともしがたい。
 小町は後退しながら、剣を避け続ける。少女は何度でも斬りかかる。重そうな剣を持って振り回す体力はかなりのものだと、小町は感心する。
 この技量のまま体格が備わっていれば、小町も余裕ではいられなかっただろう。だが、少女は幼すぎた。初めから、勝負にならない。

「ぐっ……は……はぁ……っ!」
 延々と避け続ける小町の前に、さすがに剣を振り回し続けた少女の動きは鈍り始めていた。
 それでも、小町が動きを止めると、すかさず斬りかかり、あるいは突きを入れてくる。いくら差を見せつけられても、諦めるつもりはないようだった。
「なあ、そろそろやめておきな。無駄だってわかったろ? 力尽きて帰れなくなっても送ってやったりはしないよ」
「うるさいっ!!」
 幾分遅くなった斬撃が、小町の前の空気を切る。
 やれやれ、と小町はため息をついた。
「まあ、そういうあたいも結構楽しんでたよ。ちょっと遊びすぎたかな」
 少女の剣が空を切った直後、小町は一気に距離を詰めた。
 初めて近づいてきた小町に驚き、戸惑い、少女が目を丸くするのが見えた。小町は鎌を軽く振る。鎌の柄が、少女の剣を叩く。剣はその手を離れ、どさりと草の生えた地面に落ちた。
「……っ!」
 少女は慌てて剣を拾おうとする。その体が宙に浮く。小町は、片手で少女の体をつまみ上げていた。
「離せっ」
「嫌だね」
「こ、この……っ」
 暴れようとする少女の前に、ぬっと鎌の刃が現れる。
 胴体を包囲するように。
「……!」
「お嬢さん。あんたは死神を殺そうと挑んできた。当然、自分も死ぬ覚悟はできてるんだろう?」
「っ」
「今あたいが少しこの刃を引けば、あんたは死ぬ。剣をやってるんだ、それくらいはわかるはずだ」
「お……お前が悪いんだ! おじいちゃんを虐めるから!」
「ほう」
 この状況で、なかなか気丈なものだ。小町は心の中で感心する。
「まあ、おじいちゃんってのが誰なのかはわかるけどね。虐めた覚えはないよ。むしろ、あたいは相当親切にしてるつもりだけどね」
「嘘だ!」
「おじいちゃんが、自分が虐められてるって言ったのかい?」
「……言わないけど。でも死神に会いに行くって言って帰ってきたときはいっつもなんか考え込んでる顔してるもん! うまくいってないときの顔だもん……」
「やれやれ」
 小町は鎌を引いて、少女を降ろす。
 剣を拾い上げて、渡す。
 少女はまた驚き、今度は警戒するように素手で戦うような構えを見せる。
「戦っても無駄なのはとっくに悟ってるだろ? 今日はもう帰りな」
「……」
 不満そうな顔を見せながら、しばらくためらった様子を見せて。
 少女は、ふん、と不満を漏らしながら、剣を受け取った。
「お嬢さん。あんたは例えば空からお菓子が降ってきて欲しいと願って、その願いが叶わなかったら、自分は神様に虐められてるとでも思うのかい?」
「? 何変なこと言ってるのよ」
「あんたがあたいを恨むのは、それと同じレベルの話だってことさ」
「わけわかんない。私だったら、自分で空からお菓子を投げるわ」
「……」
 小町は絶句し、そのあと、苦笑いを見せた。
「なるほど、血筋だねえ」
「とにかく。これで勝ったと思わないことね!」
 一方的に言い放って、少女は走り去る。
 途中、ふらりと体が横に揺れ、倒れそうになるが、それをぎりぎりで踏ん張ってなお走り続けた。少なくとも、小町の視界から消えるまでは。
「……おじいちゃん。あの子の心配は必要ないんじゃないかい」



「どうやら、孫娘が迷惑をかけたようだ。すまない」
「ん? いいよいいよ。ちょっとは遊べたし」
「ふむ」
 男はいつもどおりの、意図の読みにくい返事を返す。
 今日は、川に向かって立つ小町の隣に立った。向かいあわないのは、これが初めてだった。
 並ぶとはっきりとわかる。男よりもなお、小町のほうが上背はある。
「あいつは俺と同じだ。小さい頃から、何より剣に興味を示した。結果として、よりによって俺に一番なついてしまった。このままだと外れ者一直線だな」
「嬉しそうだね」
「認める。ああ、嬉しい。まったく、俺は反省などしていないな」
「小さいが、しっかりした戦い方ができていた。ずいぶんと鍛えているじゃないか」
「まあな」
 心底嬉しそうな声で、男は表情を緩める。
 本当に可愛がっているのだろうと想像させるに十分なほどに、今までで一番元気な声だった。
「あのお嬢さんなら、何があっても強く生きていけそうな気がするけどねえ」
「そう願いたいものだが。実のところ、孫娘と呼んでいるが、正確には俺の孫じゃない。というか、俺は子もいない。ただ、俺たちの一族はあまり区別しないんだ、そういうことを。とはいえ、あいつにとっちゃ不幸なことに――」
 ここで、男は一度言葉を切る。
 ふむ、といつもの言葉を間に挟む。
「不幸とか言ったらいかんわな。まあとにかく、あいつは本流の、しかも長女に生まれてしまった。俺なんかになついてることを不愉快に思う奴も多いさ。何かと責任もつきまとう立場だからな」
「大変なこって」
「俺も、いつまでも守ってやれないからな。この際言うが、俺はもうここまで往復するだけでも結構辛い。体が言うことを聞かんというのはもどかしいな」
「どこから来てるかはしらないけど、普通の人間はそもそも来れやしないよ。あんたも、お嬢さんも、十分に強者さ」

 男は、小町と同じように、川の向こう側を見つめていた。
 無限の幅を持つように見える川は、途中から霞がかかっていて、その先が本当にどこまで続くのかはわからない。
「俺も自分の意思以外でここに来る日は、近いな」
「誰しも来る日さ」
「それでも、抗ってみたくなるのが人間というものだ」
「いいことさ。精一杯抗ってくれ。あたいは応援するよ」
「ああ」
 三途の川は、水音を立てず静かに流れる。
 虫も住まない彼岸は、いつでも恐ろしく静まり返っていた。
「すまない」
 唐突に、男は謝罪を口にした。
「うん?」
「なに。先に謝っておけば言いやすくなると思っただけだ。どうも、俺も、我慢がきかない」
「へえ?」
 男は、真剣な顔で、小町のほうを向いた。
 小町も、男を見つめ返す。
 変化した空気から、次に出る言葉を、小町は予想できていた。
「俺と、戦ってくれ」
「今?」
「ああ」
「あんたの本来の目的はいいのかい? 可愛いお嬢さんの顔がもう見れなくなるかもしれないよ」
「なに、勝てばいいだけのこと」
 男は、すっと体を引いて。
 初めて、剣を抜いた。
「まだ答えてないんだけどねえ」
「気配が、答えてくれていた」
「いいよ。相手になろう」
 小町は、にやっと笑って、死神の鎌をすっと前に構えた。
 川の前で、二人が向きあう。
「感謝する」
 男の周囲に、風が吹いた。
 鋭い空気が、静寂を貫く。
 男の目、構え、気配が、戦士のそれに変わっていた。
「――比那名居四郎、参る」



[A面]

 盛大に拍手を贈ろうとして、小町は思いとどまる。
 当時――もう何百年前のことだろうか。あの頃は趣味と暇つぶしを兼ねて、よく歌を作っていた。今になってその一つが蘇った驚きと喜びを、拍手一つに込められる自信がなかった。
 歌い終わって、静かに胸に手を当てて空を見上げている彼女に、何か伝える言葉はあるだろうか。小町は思う。――ないか、今更。お互い再会に気づかなかった程度なのだから。
 小町は、ここに来る前に立ち寄った町で買った、飴玉を一つ腰に下げた袋から取り出す。都合のいいことに、個別包装だ。
 それを、思い切り、思い切り、空に向かって、投げた。


「ひゃわあっ!?」
 ぽとり、と唐突に空から降ってきた何かに、天子は驚き素っ頓狂な悲鳴をあげる。反射的に腰に下げた剣に手をかけていた。
 目を凝らして、落ちてきたそれが何かの小さな包であることを確かめた天子は、眉をひそめる。それは、どう見ても人工物だった。こんな人里離れた、妖怪すらほとんど住まないような辺鄙な山奥に、急に降ってくるようなものではありえない。
「そいつは、いい歌を聞かせてくれた礼だよ」
「! 誰!」
 声の方に振り向き、離れた木陰に佇む小町と目が合う。
 天子はその姿を確認すると、次の瞬間には地面を蹴り、鞘から抜いた剣を振り、斬りかかっていた。
 ぎん、と重い音を響かせ、小町は鎌の柄で剣を受け止める。
「死神――!」
「いきなりすぎるじゃないか。あたいは喧嘩しにきたわけじゃないよ」
「何度来たって無駄よ! 死神風情に与えてやる命などない!」
 叫びながら、剣を高速に振る。小町は能力で距離を取りながら、少しずつ後退して、なんとかその刃を受け止め続ける。
「話を聞かない子だねえ」
 ぎん、ぎん。
 次々に繰り出す剣撃を、小町は全て受け止める。だが、そのたびに後退を余儀なくされた結果、二人の位置は十数秒の間に遥か離れたところまで移動していた。
「逃げるな!」
「無茶言うなって」
 少しだけ重い一撃を、不意に差し込む。それを受け止め、ぐ、と表情を歪めた小町が、バランスを崩す。勝機と見て、天子は突きを入れる。まっすぐに、胸元を狙って。
「!?」
 がん、という衝撃とともに、剣が下がる。小町は突きを、鎌の刃で振り落としていた。素早すぎる反応に、天子は驚愕する。
 まるで、この攻撃を予想していたかのような、決め打ちの防御だった。
 少し荒い息を吐いて、小町はまた距離を取る。
 ち、と軽く舌打ちしてから、天子は剣を振り下ろす。今度はまた、しっかりと防がれる。
「だから、あたいは船頭だって前に言ったろ。こんなのに勝ったって自慢になりゃしないよ」
「む……?」
 天子は剣を振るのを、止める。
「……むむむ」
「思い出したかい」
「そういえばつい最近にも見たような……?」
 ぎりぎり。
 剣で鎌を押しながら、小町の顔を見る。
「へえへえ。最近会ってますよ。あたいはしがない船頭でございやして、天人さまに手を出すなんて恐れ多いことはできませんだ」
「……ふん」
 天子は、しばらく小町の様子を眺めて、確かに戦意などまるでなさそうな顔を確認してから、一度睨みつけ、剣を引いた。
「なるほど。ちゃんとモノがわかる死神みたいね。今回は見逃してあげる」
「へーへー」
 小町は、こっそりとため息をついた。

「で、何。あんた、盗み聞きしてたってわけ」
「結果的にはね。知った顔を珍しいところで見たからさあ、ちょっと追いかけてみただけなんだよ。そしたらいい声で歌ってるから、声をかけそびれて」
「いい声……?」
「ああ、いい声だね。伸びがあって、気持ちいい。聞き惚れてたよ」
「……ふん」
 天子は、ぷい、と横を向く。
 そして、ごそごそとカバンの中から桃を一つ取り出した。それを、小町のほうに差し出す。
「食べる?」
「……天人は、褒めると桃が出てくるのかい」
「勘違いしないで。私だけよ」
「否定するのそっちかい」

 桃は、味は特に地上のものと変わらないようだった。
 かぶりつきながら、小町は隣に立つ天子に言う。
「にしても、天人があんな元気な歌を解するなんて意外だねえ。もっと、なんていうかね。だらだらしたつまらない音楽が流れてる印象があったよ」
「正解よ。あいつらにこの歌なんて理解できないわ。あいつらはね、なんでもふわふわ浮いてるものしか受け入れられないのよ。地に足の着いたものを馬鹿にするの。自分が理解出来ないか、目を背けたいだけのくせに、こういうものを見下すのよ」
「天人ってのは、あれじゃないのかい。修行を積んで、そういう醜い感情も捨てたとかそういう存在じゃなかったかな」
「……そういうのも、いるけどね。どこも一緒でしょきっと。どこまで行ったって外れ者がいて、外れ者を虐めることでしか自分を保てない奴がいて、それに関わらないようにする奴がいるのよ」
「外れ者、ねえ」
「何よ。何でそこで笑うのよ」
「いんや別に。桃は普通に美味しいね」
「もっと食べる?」
「もう一個いただくよ」

「死神は、今の歌みたいなのは好きなの?」
「……あー。あたいにゃ答えにくい質問だねえ」
「何でよ」
「いや別に。そうだね、自分では好きな方だよ」
「そ」
 天子はそっけなく答えてから、地面を見つめ、そして小町の顔を覗いた。
「ねえあんた、昔からこのあたりで渡しやってるの?」
「長いね。昔は暇な仕事だったもんだよ」
「今も暇そうに見えるけど」
「お前さんも結構生きてるんだろう? 人も妖怪も昔から見たらずっと増え続けてる。死人も増え続けるってわけさ」
「でも暇そうに見える」
「言うなって」

「ねえ。死んだ奴って、こっちの世界のこと見えてるの?」
「ん? 知らないよ。見てる奴もいるだろうさ。未練があるなら、なおさらね」
「そう。じゃあ、見てたかもね」
 遠くを見つめながら、呟く。
 昼を過ぎて、太陽は少しずつ下がり始めていた。
「誰の話だい」
「別に」
 ふい、と横を向いて、小町の視線から顔を外す。
「あと二年が堪えられなかった根性なしのことなんて、知らないわ」



[B面]

 がん、という衝撃とともに、剣が下がる。小町は突きを、鎌の刃で振り落としていた。
 必殺の突きを防がれ、男は剣を落とす。それで、勝負あった。


 地べたに仰向けになり、空を見上げる男は笑う。
 はあ、はあと苦しそうに呼吸をしながらも、はは、と笑う。
「こいつは、地獄で修行の続きだな」
 小町は、その隣りに座る。
「あんたの体力が落ちてなかったら、危なかったね」
「よしてくれ。今のが、俺の頂点だ」
 目を閉じる。
「なに。この世の最後の相手が死神だとなれば、地獄でも自慢の種になるさ」
「前向きなんだか違うんだかよくわからんね、それ」

 小町は歌う。
 生きろと歌う。しっかりと歌う。
 男は眠ったように目を閉じたまま、じっと、聞く。

「いい歌だ」
「あたいの歌を二回聞いた人間は、たぶんあんたが初めてだよ」
「光栄だな」
 一瞬、強い風が吹いた。
 ああ、と小町は呟く。仕事の時間みたいだ、と。
「ちょっとくらい待たせても問題ないんだけどね」
「なんだ。俺を運ぶのかと思った」
「まだ早いよ」
 あんたはまだ早い。
 小町は繰り返す。
「反則だけどね。特別に教えてやるよ。あんたはもうちょっと生きる。あとは、生きている奴の力だけで、やるべきことをしっかりやりな」
「……ああ。こんな我侭まで聞いてもらったんだ、言うことを聞かんわけにはいかんな」
「歌が聞きたいなら、何回だって聞かせてやるさ。そういう用件なら、歓迎してやるよ」
「あんたはアレだな」
 男は、いつの間にか目を開いていた。
 ふう、と吐いたあと、ゆっくりと上体を上げる。
 笑う。
「お母ちゃんみたいだ」
「……」
「あ、いや、そんな本気で傷ついた顔しないでくれ。……すまん。アレだ。死神なのに生の象徴に例えられるなんて、珍しくて面白いじゃないか、なあ」
 慌てた男が、珍しく口早に言葉を紡ぐ。
「しかし、想像はできるな。亭主や子供がいても、あんたには絶対に勝てないだろうからな。子供たちが喧嘩してると、ばしっと頭を殴ったり、ついでに何故か亭主も殴ったりとかな。そんな情景が、あだっ」
 ……ごん。
 小町は、無言で、男の側頭部を軽く殴った。
「調子に乗るな」
「すまん」

「さ、そろそろ仕事行きますかね」
「邪魔したな」
「まったくだよ」
 小町は、にやっと笑って憎まれ口を叩く。
「じゃあね、ご老人。悔いの無いように生きてくれ」
「心得た」

 死神は歌う。
 伝えたい言葉を伝えるために。



[A面]

 小町は尋ねる。
「お前さんは、天人になってよかったと思ってるかい?」
 問われ、彼女は少し驚いたような顔を見せた。
 少し迷ってから、答える。
「半分」
「半分?」
「長い時間を得たのは、よかった。考える時間があるのは、よかった。力を得たのも、よかった。だけど、縛られているのは、嫌」
「なるほど。正直な意見だ」
「つまんないのよ、実際。あんたも天人になってみればわかるわ」
「あたいに言われてもなあ」
 空は少しずつ赤く染まり始めていた。
 随分と長い時間話し続けていたらしい。
「でも、あんたはずっと死神を退け続けて、天人を続けてる」
「当たり前でしょ。わざわざ死んでやる義理はないの」
「違いない」
「……でも、死神が来なくなっちゃったりしたら、それはそれで困るのよね」
「へえ?」
「こう見えても、あんた達には結構感謝してるのよ」
 空に向かって手を広げる。
 遠くまで届きそうな、澄み渡る声で天子は言った。
「死神と戦っていると、ちゃんと私も生きてるんだって実感できるから」

「なあ」
「何」
「また、さっきの歌、歌ってくれないか」
「なによ、そんなに気に入ったの?」
「ああ。気に入ったんだ。また聞きたい」
「……」
 ふい、と。また天子はそっぽを向く。
 夕焼けを受けて、頬は少し赤く染まっていた。
「ん」
 袋から三個目の桃を取り出して、小町に渡す。
「ありがとう」
「ふん。それでも食べながら、大人しく聞いてなさい」

 天人は歌う。
 生きる証を示すために。

 歌い終わった彼女に、小町は盛大な拍手を送った。