「千種先輩…私、いつかあなたを超える事を目標にここまでやってきました。今日の勝負…私の全てを出します」
ラケットを持つ手にも自然、力がこもる。緊張のそれではない。驚くほど自然に力が出ている。体が軽い。
私に初めて卓球を教えてくれた先輩。
初めてレギュラーメンバーに選ばれた時も、初めて県大会まで出た時も、初めて個人優勝を果たした時も―――ずっと私の目標は先輩だけだった。
いつか、超える。
もし神様がいるのなら、今、こうして、今度は本物の試合ができる事を感謝しよう。そして…勝つことによって恩返ししよう。
この試合で、私の真剣を大好きな先輩に。
「僕も嬉しいよ。”スレイバーの魔術師”熱田瑞穂と戦えるんだからね」
千種先輩も本気だ。まるで闘気が目に見えるかのように伝わってくる。
間違いなく、今まで戦った中で最大の相手だ。気を持っていかれたら、やられる―――
ぱしん、と両手で自分の頬を軽く叩いて渇を入れなおす。
「練習は3球です―――」
「いらない」
「…え?」
試合前の練習球を渡そうとする審判の言葉を遮る。
「練習はいりません。最初から始めましょう―――いいですよね、先輩?」
先輩は不敵な笑みで答える。受けて立とう、と目で語る。
そして、私に最初の1球が渡された。
最初にサーブ権があるこの第1セットは極めて重要だ。5球のうち、最低4点取るつもりで行く―――
見ていて下さい、先輩。
そして受け取って下さい。
これが私の本気です。
「…ラヴオール!」
開始の声を聞くと同時に、無心で球を軽く投げ上げた。
これが私の究極のサーブ―――
全ての想いを乗せて。
12巻に続く
「…ぐあ」
手元には11巻までしかない。それだけしか置いてなかったからだ。
気が付けば夕食の時間すら惜しむくらい夢中になって読んでいたらあっという間に手持ちの最後まで来てしまった。
「つ…続きが気になるっ!」
苦悩する。
まだ出ていないのだろうか。それとも持ってないだけなのか。真琴の部屋に行けば置いてあるのか。
少し腰の浮きかけた自分に気付き、祐一ははっとして頭を振る。
「真琴に、続き貸してくれって頼むのか…?」
それは恥ずかしい。かなり。
恐らく思い切り笑われるうえに、今までさんざんバカにしてきただけにかなり勝ち誇られるのは目に見えている。
他の選択肢は…
自分で買う?
一瞬思いついた自分の思考を激しく否定する。本屋で買うのはさらに危険だ。
同級生に見られたらどうなる?明日には知り合いみんなに伝わっていることだろう。
加えてこういう田舎の本屋だと3,4回も通えば顔を覚えられているものだ。その後その本屋に行くのが妙に気まずくなったりしかねない。
極力避けなければいけない事態だ。
そうすると…
諦める。
「ぐおおおおおおぉぉぉっ!!こんな状態のまま俺の中でエンディングを迎えろとでも言うのかっ!?」
却下。
となると―――
「あ、真琴なら今お風呂入ったとこだよ」
これだ。
心中にやりとしながら、そうかとだけ告げて再び2階に向かう。
躊躇無く真琴の部屋のドアを開けた。
「過去のデータに基けば真琴の風呂時間はおよそ25分…それが勝負に与えられた時間だ」
いざ勝負のゴングが鳴る。
床に散らばっているだけでも結構な量のマンガがある。今求めているものは真琴自身おそらくかなりのお気に入りのものであろうから、こういうすぐ手元に届く場所にある可能性が高い。意外にすぐ見つかるかもしれない。
まずはそういった所に狙いを絞って探索を始める。
枕の隣、机の上、布団の上。
隠れている本を次々に発掘する。
次々に―――
「………にしても真琴、こういういかにもラブラブしてますっての随分好きなんだな…」
試しに一つ、目的のものとは違うが、少し絵が目を引いたので開いてみる。
「うわ、なんてタイミングで現れやがんだこの女はっ」
「賢治も賢治だ、こういうヤツにははっきり言ってやらないといつまでも何にも気付かないままだってのに…」
「え!?も、もしかしてこの手紙書いたのって…っ」
「ああ、誤解なのにっ!違う、お互い勘違いしてるんだってっ!」
すっかりハマっていた。
少し読んでみたのが運の尽き、さっそうと最初の目標は後回しにこの本の第1巻を探し出して最初から読んでいた。今、2巻に入ったところである。
「く…ちょっと考えれば気がつきそうなものなのに…」
「いや…やっぱり思い込んでいる時ってのはこういうものなのか…?」
「それにしても、間が悪すぎだな…。たまたまドア開けた瞬間、だからなぁ」
がちゃ。
「こういう時ってどんな言い訳しても却って怪しいだけだから困るんだよな」
「…ゆ、祐一っ!?何してんのよっ!」
ぴた。
祐一は、ゆっくりと、ゆっくりとゆっくりと後ろを…ドアのほうを振り向く。
真琴の表情に表れていたのは、その時は純粋に「驚き」だった、と思う。
不思議と冷静に観察している自分がそこにいた。
「えーと。例えば部屋があまりに汚かったから片付けようとしていたんだというのはどうだろう」
彼女に言うというよりは、自分に問うつもりで小さく呟く。
「例えばって何よっ!」
当然の反撃を食らう。
真琴は部屋に入り、大またで祐一のほうに近づいていく。
「だいたい思い切りマンガ読みながらそんな事言ったって説得力―――マンガ?」
ふと、真琴の顔から一瞬表情が消える。思案顔、というべきか。
「あー…そ、そういえばそろそろ”人気者で行こう!”の時間だな―――」
底知れない嫌な予感を感じた祐一は静かに立ち上がり、そのままごく自然に部屋を立ち去ろうと歩き出す。
いわゆる「じゃ、そういうことで」作戦だ。いかに自然さを装う事が出来るかが勝負の要である。
結果は。
2歩歩いた時点でそれは断念せざるを得なくなる。
一瞬何かが体に触れたような感覚がした後、急激に体に過重がかかったためだ。
真琴が後ろから両手を回して羽交い絞めに…否、抱き付いてきていた。
「く、やめっ!離せっ!」
「ねえ祐一〜、真琴の部屋で何してたのかなぁ〜?」
後ろから耳元で、猫なで声で囁いてくる。
顔の前にふわっとシャンプーの匂いが広がってくらくらした。
思わず意識がのまれそうになってしまい、慌てて首を振って我を取り戻す。
「…離さんとこのまま背負い投げ一本かけるぞ」
意識して低い声で脅しをかけると、しかし、体を拘束するその力は強くなった。
「照れてる〜可愛いーっ♪」
躊躇せず真琴の右手を逆に掴みとり足を素早く払う。
つもりだった。
気が付けば体が浮いていたのは…祐一のほうだった。
「…は?」
自分の間抜けな声を聞いた直後、激しいショックが肩と後頭部を襲った。
ずだんっ!!と派手な音が上がる。
「受身の練習くらいしたほうがいいわよ〜」
すぐ目の前に、逆さ向きの真琴の顔のアップがあった。
「お…お前、いつの間にこんな技………ぐっ」
「マンガ見て真似してみたんだけど、上手くいったみたいね♪」
ある意味天才的な才能だ。
祐一は完全に降参して、眼を閉じる―――
一つの戦いが今、幕を引いた。
「読みたいならちゃんと言ってくれれば見せてあげるのに〜」
「………別に」
「いい加減正直になりなさいよぅ…あ、これも面白いよ♪はいっ」
真琴は部屋を適当に弄り、手に取った本をどんどん祐一の前に積んでいく。
それは既に20冊近くを数え、ちょっとした壁を形成しつつあった。
「…こんなに一気に読めると思うか?」
「大丈夫よっ。ちゃんと真琴が一緒に読んであげるから」
言うと同時、壁にもたれかかるように座っている祐一の隣にぴったり張り付くように真琴も座る。
えへん、と何やら誇らしげに胸をそり返して言い放つ。
「二人で読むから半分の時間で大丈夫よ♪」
「お前やっぱり小学校から勉強してこい」
「?」
祐一は何やら深い絶望感を感じて隠さずため息をついた。
しばらくきょとん、とその様子を眺めていた真琴だが、すぐに気にしない事にしたのか一つの本を手に取って笑いかける。
高々と掲げて。
「じゃーんっ!これが祐一が泣いて読みたがってた12巻ですー♪」
べこ。
「むぎゅ」
とりあえず顔面に裏拳を入れておく。
手が痛かった。
「…読むか」
「うん♪」
そして何事も無かったかのように、二人で最初のページを開いた。
祐一は部屋の真中に大の字になって寝そべっている。
真琴はその隣で同じように寝そべっている。
祐一は疲れてぐったりしている。
真琴はずっと緩みっぱなしの表情で幸せそうにごろごろしている。
「にぁ…」
「…何がそんな楽しいんだ」
「祐一と一緒だもん…」
何の躊躇もなく、答える。
先程からずっと、側にいることをしっかりと実感するためなのか、右手で祐一の手を握りつづけていた。
「………そうか」
祐一は少し複雑な表情で返事を返す。全ての感情を、この一つの表情にまとめあげたような。
そこにあるのは、嬉しさ、切なさ、寂しさ、もどかしさ―――
「ねえ…」
真琴が、呼びかける。
沈黙をもって次の言葉を促す。
「祐一って、モテモテなんでしょ?」
「…なんじゃそりゃ」
「名雪が言ってたもん。祐一の周りは女の子がいっぱいいるって」
心持ち、握る手が強くなった気がした。
祐一は苦笑する。
「あのなぁ…だからってモテモテだとは限らないぞ。まあ確かにやたらに縁が多いのは認めるが…みんないい友達、さ」
真琴は祐一のほうを向いていた顔を上げ、天井をじっと見つめる。
「友達って、どういうことなのかな」
次に来た言葉が、意外なものであるか、あるいは予想できていた事か…ただ祐一は一瞬体を強張らせる。
「女の子同士とか、男の子同士だったらわかるんだけど…。やっぱり男の子と女の子の間で友達っていうのはわからないわよ」
その言葉に何か特別なものが篭っているわけでもない。ただ純粋な疑問。
祐一にはそれが、少し寂しそうなものに聞こえた。
「男女間だって、友情はあるさ」
「それは恋人なんじゃないの?どう違うのよ?…好きじゃなかったら、友達なの?」
祐一が答えると、たたみかけるように一気に疑問を浴びせ掛ける。
「…違う。好きじゃなかったら友達でもない」
「何よそれ。それじゃ変わんないじゃない」
「好きの質が違う」
じっと、見つめてくる。この説明では不満げの様子だ。
(………そりゃ、そうだろうな)
祐一自身、綺麗に説明できる言葉を持たない。
「それじゃあ…」
真琴は、ここで言葉を止めて、ゆったりと体を起こす。
まだ寝ころんだままの祐一の顔を真上から覗き込む。
「真琴と祐一は………友達?」
来ると思っていた、覚悟していた質問。
祐一は真剣な眼差しでしっかりと目を合わせる。
「なあ…真琴は俺のこと、どう思っている?どう感じている?」
はっきりと、確認するために。
だから、沈黙が続いても、何秒も、何十秒も待った。
「真琴は…」
静かに口を開く。
「祐一と…一緒にいたい。いつも一緒にいたい。こうして隣にいて、手を握っているとすごく安心できるよ…」
真琴が少しだけ表情を歪めて、目を細める。
「少しでも離れてるとすごく不安になって、寂しくて、すぐ会いたくなる…」
「好き、だと思うか?」
「………わかんない。好きだなって思う時もあるけど、大嫌いだって思う時もいっぱいあるわ」
祐一は、静かに頷いた。
「そうか。わかった」
「…祐一のほうは、どうなのよ」
間髪を置かず、今度は反対に言葉を引き出そうとする真琴。
「大切な、家族だ」
真琴はすっと片手を動かし、祐一の首の上に押し当てる。
「本気でそれ以上の事言う気がないんだったら首締めるわよ」
「まあ待て。そうすぐ暴力に訴えるのは良くない」
「誰かさんの間違った教育のおかげよ」
からかうような言葉とは裏腹に、表情は真剣そのものだった。
「…特別に大切な女の子だよ」
「好きだと思う?」
ほんの少し前に祐一が真琴に対して与えた質問を、そのまま繰り返す。
「好きだと思う」
時間がしばらく止まった。真琴は何も行動を取らない。
祐一も、ただ、待った。
やがて、手がゆっくりと離されていく。
「………祐一らしいわね」
そのまま体ごと祐一から離れ、再び前のようにごろんと地面に寝転がる。
「結論は出たか?」
「少なくとも今の祐一は大嫌いだって事はわかったわ」
「そうか」
入れ替わるように祐一が立ち上がる。
「なあ…多分、お前だけじゃない。誰だって悩む事なんだ。どれだけでも悩んでいいんだと思う」
一言だけ残して、部屋を出て行こうとする。
あっ、と真琴が小さく声を上げる。
祐一は振り返らない。振り返れば、また、いつもこういう時は一緒の、あの寂しい目を見る事になるから。
だからいつもこのままただ無言で部屋を出る。
「あっ、ねえ、祐一…今日はここで一緒に寝ようよ?」
ただ、それだけがいつもと違った。
振り返らない。
「あ、ほら、マンガもまだまだいっぱいあるよ。一緒に読んでたら夜もきっと楽しいよ」
「………そういうわけにもいかないんだ」
「一緒に寝たほうが、寒くないよ?暖かいよ…」
祐一は、ほんの小さく首を横に振った。
「ごめんな」
ぱたん、とドアが閉まる。
あ…ともう一度、部屋に小さな呟きが響いた。
「むー…」
枕を、壁に向かって投げつけてみる。
「結局、どっちの”好き”なのよぅ………」