「で、椋のどこが不満なわけよ?」
「だからな、そういう問題じゃないだろ。いきなりそういうこと言われてもな」
「何よ。一回付き合ってみて相手のこと知ってから考えたっていいじゃない」
「そりゃそれで正論だろうけど、俺の意思のこと考えてくれてもいいだろ」
「あ? ……あんた、まさか、彼女もち? ……まさかね。ごめんね、そんなことあるはずないのに……」
「哀しい目をするなっ」

 校庭を歩く二人組。
 誰もいない静かな庭を、言い争う声が響き渡る。
 不満げな顔で詰め寄る杏と、うんざりした表情で受け流し続ける朋也。最近になって見られるようになってきた光景だ。
 会話自体はあまり周囲に聞こえないような声で行われている。話題の中身が第三者を含むものであるだけに、そのあたりは二人とも気を遣っている。

「あんたね、最近になって妙に女の子が近寄ってるからって選びたい放題なんて思ってるんじゃないでしょね?」
「誰がそんな――」
『――天は人の上に人を作らず』

 そこに、二人の会話に割り込むような、よく澄み渡る声。
 二人は同時に、足を止める。
 顔を見合わせる二人。

「……? なんか、誰かの声が聞こえなかった?」
「ああ。確かに……」
『――人の下に人を作らず   夏目漱石』

 声はすれど、姿は見えず。

「誰……?」
「卑怯な……っ。10倍違うじゃん! って上手くツッコみたいのにその対象が目の前にいないこのもどかしさを突いてくる攻撃か……!」
『――だけど私は今あなたの上に。人は自力で上に登ることを覚えました』

 ばっ。
 二人で同時に上を見上げる。
 そこに――

「……」
「……」
『こんにちは。見つかってしまいました』
 彼女がいた。

「……なんで、木に登ってる?」
「えーと……あれ、朋也の知り合い?」
「いや……まあ、知り合いっていうか……」
『お元気ですか、朋也さん。今日みたいないいお天気の日はまた一緒に公園でのんびりしたいですね』
 上方から微笑む彼女。
 どこまでも爽やかな声は、どんな季節にも相応しく、心地いい。
「また? 一緒に?」
 隣から聞こえる声は、その爽やかさを濁った方向に中和してくれた。
 ついでにねっとりとした視線で湿度を上げられる。
「……彼女?」
「違う」
『程よい陽気ですから、膝枕でも前より気持ちよく眠れると思いますよ。またお誘いしてくださいね』
「膝枕!?」
「い、いや――」
『でも、この前みたいに、覗くのはダメですよ。恥ずかしいんですから。……嫌というわけでは、ないですけど』
「覗いた!?」
「ま、待て――」
『甘えん坊な朋也さんもいいものですけどね。頭撫でたときの反応はとても可愛くて。くすくす』
「くすくす!?」
「いやそこ驚くところ違う」

「なあ、宮沢」
「はい、朋也さん」
「もう一度聞くが、なんで、木の上に?」
 正確には枝の上に。
 ちょこんと可愛らしく座っている。
 彼女は、宮沢有紀寧は、この当然の疑問に対して、ある一冊の本を取り出して答える。
『友達がケンカをしているときに仲直りさせるおまじない』
 ぱらぱら、とページをめくりながら。
『その人が歩いているときに、高いところから格調高い名言を聞かせてあげましょう。なお、この際少しアレンジを入れてあげるとより効果的です』
「……」
「……」
「……そのために、木に登ったのか?」
「そうです。あの、効きましたか? 仲直りはできましたでしょうか、お二人は」
 心配そうに彼女が聞く。
 お二人、に対して。
 杏と朋也はお互い顔を見合わせて。
「……できたか?」
 朋也が言う。
 ぎろり、と睨み返された。
 空を見上げる。
「すまん、逆効果だ、そのおまじないは」
「あれれ……おかしいですね。失敗してしまったのでしょうか……あ」
 有紀寧は、本を読み返しながら、はたと手の動きをとめる。
 そして、照れ笑い。
「すみません、ページを間違えてました。これは、好きな人の恋敵に対して一歩リードするためのおまじないでした」
 思い切り上を見上げたままの朋也が、バランスを崩してそのまま後方に倒れそうになる。
 ……隣からの視線が、ますます冷たい。
『それでですね、正しい仲直りのおまじないは……まずデパートで出来る限り高級な菓子折りを購入して自宅にお邪魔して、玄関で土下座――』
「それ、おまじないじゃないからな」
 深く深く深く、ため息。
 青空がまぶしい。
 なんて――いい天気。
『えっと……すみません。それでは代わりに場を和ませるとっておきのおまじないをひとつ』
 こほんと、咳払いひとつ、彼女。

 ああ。
 もうやめておいたほうがいい。
 というかやめてください――
 そんな、朋也の祈りも空しく、その瞬間は、やってくるのだった。
 彼女はゆったりとした動作で片手を上げ。
 頬に指を伸ばし。
 指で輪を作って、頬をつまみ――

『たこやき』

 ぱきん。
 枝が折れる、綺麗な、それはとても綺麗な音が響き渡った。
 有紀寧の乗る、まさにその枝が根元からぽっきりと。
「あら?」
 そののんびりとした一言を残して、彼女は頬をつまんだまま、スローモーションで視界の向こう――藪の向こう側へと落下していった。
 直後に、ぐぉ……っ、という野太い声が聞こえた――気がした。


 ……残されたのは、ひたすらに置き去りにされた朋也と杏、二人。
 目で疑問をひたすら訴えかける杏。
「素敵な彼女ね……?」
「いや、公園の件は、なんとなく、ノリというか勢いで……」
「あのねぇ……彼女でもないのになんとなくで膝枕までする子がどこにいるのよっ」
「……さっきまで、そこに」
「……」
「だからその目をやめんかっ」
 杏は頭を抱える仕草を見せながら、ため息をつく。
 そして、くるっと背中を向ける。
「膝枕、ね……」
 歩き始めながら。
「朋也は膝枕がお好き、と――二重丸」
 ぼそりとそんなことを言いながら、そのまま去っていった。
 朋也はそれを止めることも出来ず、ただ見送るのみ。
 手を微妙に伸ばしながら。
「なんなんだ、ったく」
「朋也さんっ」
「にょわっ!?」
 唐突に背後から呼び声。しかもま近くから。
 一瞬、心臓が思い切り飛び出しかけた。気がした。本当にそんなことになったらおそらく入院だろうが、とにかくそれくらいの勢いで驚いた。
 ばくばくばく……
 心臓が踊ったまま、ゆっくりと、振り向く。
 彼女が、そこにいた。
「み、みみ宮沢おおおお驚かすな思わずキャラか変わりまくったぞ!?」
「ごめんなさい。今度は前にまわってから声かけますね」
「お、おう……って、さっきあの高さから落ちたばっかりじゃないのか……大丈夫なのか?」
 見た目、外傷はないようだ。
 というか、どこにも汚れもない。
 まるで最初から何事もなかったかのような完璧クリーニング。
「はい、お友達に助けていただきました。凄いんですよ、落ちる前にさっと移動して、平然と受け止めてくれました。とっても完璧な騎士さんです」
「いや、悲鳴が聞こえた気がしたが。ぐおっ、とか」
「平気みたいでした。わたしが大丈夫ですかごめんなさいって聞くと、『はっはっは、こんなの超余裕っすよっ』って笑いながらぷらぷらと両手を下げたままの新しいガッツポーズを生み出すくらいの余裕でした。かっこいいですねっ」
「折れてるからな、それ」
「まあ」
「まあですか」
 冷や汗。
 ちゅんちゅんと鳴くすずめ。
「いえ、ありがとうございます。朋也さんに言われなければ気付かないところでした。わたしに心配かけまいと彼は平気な演技をしていたのですね。あまりに完璧な隙の無い演技に、わたし、すっかり騙されてしまいました……」
「超隙だらけですが」
「ごめんなさい、朋也さん。わたしは行かなければいけません。本当なら朋也さんの仲直りに失敗してしまったフォローもしなければいけないのですが……またの機会でよろしいでしょうか」
 有紀寧が訴えかける。
 久しぶりに見た気がする、ちょっと真剣な顔で。
 朋也は、ぽんと彼女の肩を軽く叩いて。
「ああ、まあ、こっちのことはいいから、行ってやれ。たぶんこっそり泣いてるから」
「ありがとうございますっ。それでは、しっかりとなでなでしてあげないといけませんね。朋也さん、またですっ」
「いや、病院連れていってやれよ」
 とたとたと走り出す彼女の背中に、ツッコミを入れておいた。

 彼女の背中が見えなくなるまで、少し、長めに見送ってから、振っていた手を下ろした。





「友情は幸福感を高め、惨めな気持ちを柔らげる」
 一字一句、言葉の中身を確かめるように言う。
 よく晴れた風景に向かって。
 周囲にも通るほどの声で。
 ――彼女は、すぐに、こちらのほうに振り向いた。声から簡単に場所を割り当てたようだ。
 玄関先にいる彼女が、2階の教室のベランダに立つこちらの姿を、すぐに認めた。
 彼女は、朋也の顔を見ると、にこりと微笑んで、言った。
「喜びを2倍にし、悲しみを2つに分かち合うことによって」
 朋也がさらに続けた。
「ついでにギャグの切れを5倍にすることによって」
 彼女が頷いた。
「名言ですねっ」
「なかなかだろ」
 微笑みあう。
 2階と1階、遠い距離を隔てながら。
「ふふ……例のおまじない、ですね。この前わたしもしたばかりだから覚えてますよ。あの――確か、自販機の下で500円を見つけるおまじない」
「ちゃうわっ」
「あ、すみません、それは昨日試したおまじないのほうでした」
 やったんかい。
 ……というツッコミは、とりあえず、心の中だけにとどめておく。
「えっと、それは。今度こそ間違いないです。恋敵に――」
 そこで彼女の言葉は止まった。
 朋也の顔を見つめてから、きょとんと首を傾げる。
 そして、きょろきょろと周囲を見渡して。
「朋也さん、恋ですか? しかも敵つきですか?」
「秘密です」
「あらあら。それは失礼しました」
 彼女は、楽しそうに笑った。
 よく晴れた日だった。