冬に咲く花もないわけではない。
 いや、むしろ、結構多いのだ。
 冬は確かにほとんどの生き物にとって耐え忍ぶ季節でしかない。それでも、この季節にこそ、もっとも輝く命もある。
「不幸なことね、それを知らないのは」

 冷たい空気をいっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐く。
 私の隣で花を咲かせ始めているクリスマスローズを優しく撫でながら、空を見上げる。
 雲行きが怪しい。そろそろ雪が降りそうだ。
 あまりに雪が積もると、重みに耐え切れず潰れてしまう花もある。
 だけど、それを救う必要などない。
「無闇に自然の流れに逆らっても、変えようとしても、決してうまくはいかない」

 私は全ての花を愛している。どれだけ姿を変えても、どれだけ代替わりしても、どれだけ数が多くても、ひとつひとつ、本気で愛している。
 愛しているからこそ、全ての命を救おうなどとは考えない。
 自然の淘汰、命の選択を仮に全て拒んで、ひとつひとつの小さな命を救えば、その先に待つのは致命的な破滅だ。
 私は、枯れた花を生き返らせることもできる。
 だけど、無闇にはしない。
「わかっているのか……いないのでしょうね、彼女らは」
 この世のものではないあの二人の姿を思い浮かべる。

 片方は、まさしく浮世離れした、という表現が相応しい、何を考えているかよくわからないお嬢様。
 天人のような雰囲気でもあるが、天人になるにはあまりに欲が深すぎる。だからこそ亡霊になどなったのだろう。
 命を好きに弄べるような存在だ。自然の恐怖もあまりわかっていないのではないか。

 もう一方は、まだ子供だ。そもそも知っている世界が狭すぎる。経験が浅すぎる。
 こちらは、主人に従っているだけだ。それ以外の生き方を知らないから。
「物を知らないのに、真面目。……まあ、可愛がる気持ちもわかるわ」
 彼女の一挙一動を思い出して、くす、と笑う。
 あれは、愛でるべき存在だ。もちろん、花には敵わないが。
「あとは、もっと強くなってくれればね」
 今のまま、まっすぐなまま。
 そうすれば――
「遠慮なく、虐めてあげるのに」
 今回の件は、間違いなく彼女を大いに成長させるだろう。色々な意味で。
 彼女たちは、この季節が終わりに近づくあたりから、活動を開始するのだろう。
 その内容はあまり褒められたものではないが、私が助力になれるならなってやろう。
「花のため、というんだからね」

 大きな一本の桜の木を思い出す。
 私の干渉すら撥ね退けるほどの、頑固な木だった。あれは手に負えない。人の話など最初から聞く耳を持たないという障壁をありありと感じた。
 年を取ってもああはなりたくないわ、と思う。
 ……はあ。小さく、ため息をつく。
「無謀なこと、なんだけど」
 目を閉じる。色々なことを思い出してくる。
 彼女たちのことをこれほどまで気にしてしまう本当の理由も、わかっている。
 無謀に挑める、世界に挑める、怖いもの知らずの彼女たちが、うらやましいのだ。
 私も穏やかな日常に慣れすぎたかな、と思う。
 後先や大きなことを考えずに、目の前のひとつのことに夢中になれるのは、とても人間らしいことではないか。

 私は上から眺めてばかり。
 神にでもなったつもりなの?

 そうかもしれない。
 誰も訪れない、私だけの花の世界の神。
 ……
 別に、寂しいなんてわけじゃないけど。

 ほんと。

「ああ青春、青春」
 春には大きな騒ぎが起こるのだろう。
 そのときの主人公は彼女たちだ。私は間接的に関わっても、裏方でしかない。
 それなりに面白いイベントになるだろうと予期しつつも、結果が見えているからといって、傍観者の立場で満足している自分がいる。
 1と1/2ほど死んでいる彼女たちのほうが、生きている私よりも生き生きとしているように感じる。
 ああ。ハングリーさが足りないぞ、私。

 ……ぽたり。
 雪の結晶が一つ、頬に当たる。
「あらら」
 立ち上がる。
 今日はこれからますます冷え込みそうだ。
 さっさと小屋に戻ろう。
「こんな日は、サボテンとでもいちゃつくに限るわ」
 そろそろいい感じにトゲも復活してきた頃合だろうし。
 また、少しずつそぎ落として
「ふふ……こんなツルツルになっちゃって、恥ずかしい」
 なんて思う存分に楽しめるだろう。
「ふふ……ふふ……うふふ」
 じゅる。
 もう。想像するだけで濡れちゃう。



*********************************



「あっ……うん……ぅ……」
 体が、熱い。
 それが、冷たい空気に冷やされた体には心地いい。

 服の中に手を差し入れて、ぴんと尖って自己主張している乳首の先端を、軽く撫でる。それだけで、全身に甘い痺れが走る。
「あっ、あぁっ……んん」
 とろり……と、下の方、恥ずかしいところ、から、熱い液がふとももの内側を伝って落ちる。
 今日はまだ、そこは触っていないのに。触らなくても、もう、どうなっているかはわかった。
 毎日洗濯物が増えるだけの結果になることがわかっていたから、今日は最初から下着を履いてこなかった。単に、合理的な判断だと思っていた。
「んんっ……あ、ぅっ!」
 なのに。
 なぜか。
 まさか。
 いつもよりも、こんなに、敏感になってしまうなんて。

 ここが屋外だということを忘れてしまっているわけではない。
 誰も来ない、誰もいな居場所とはいえ、花畑だ。
 本来ならば、こんなところで耽る好意ではない。そのことを忘れたわけでもない。ただ、今は、自分の意思では、止めようもなかった。
「ふ、ぅ……ぃ、い……きも、ち、イ……っ」
 魔法の花。
 その香りは私の判断を狂わせていく。
 こんなもの。耐えられるはずだったのに。
 花の香りをかぐたびに、思い出す。頬に触れた、口唇の感覚。どうってことはないと、思っていたはずなのに。頬に残る感触が、私の体をおかしくしてしまった。

「あ、あ、くぅっ……!」
 こりこりと、固く固く立つ乳首をこねまわす。
 そこにもう私の意思はない。手が勝手に、自分の一番気持ちいいところを、一番気持ちいい行為を判断して、動いてしまう。
 背筋が、ふる、と震える。
 膝から地面にまで、恥ずかしい愛液が滴り落ちる。
 こんなところで。
 恥ずかしいのに。
 やめないといけないのに。
 止まらない。
 右手は胸をまさぐり続け、左手は頬を、口をぎゅっと押さえる。
 私は。私はこんな。
 こんな、変質的な――
「ふ、ぁああ、うううっ!」
 こりこり。
 ぞくり。
 震える。体が震える。
 足元から、ふわりと、甘美すぎる快感が全身を昇ってくる。
「う、そ、やだ、も、もう――も、あ、ああっ――!」
 ぐ。ぐぐ。
 腰が自然に浮く。
 ああ。すごく、恥ずかしい姿勢になってる。
 誰もいないとはいえ。
 ウソ。嘘だ。幽霊たちは、どこにだって、いる。気づかないふりをしているだけ。見られているのに、知らないふりをしているだけ。
 私は、こんなに、恥ずかしい。
 でも。気持ちよくて。
 ぞくぞく。ぞくり。
「――ッ!!」
 眼を閉じる。
 止まりようがなかった。慣れた、それでも慣れない、感覚。
「くっ、イっ……く、ぅ――!」
 ぎゅむ。
 強すぎるほどに、小さな胸を揉んで、乳首を摘む。
「あ、あ、ああ、あ――」
 震える。歓喜に震える体。
 そして、桃色に満たされていく脳。
「い、く……う、幽香――あ、あ、イっちゃ――あああああッ!!」

 跳ねた。
 腰を浮かせて、体がびく、びくと強く震えるままに任せる。
 強すぎる快楽に、一瞬、意識が、飛んだ。

「あ……ああ……ぁ……」
 うっすらと目を開けて、快楽の余韻を、しっかりと味わう。
 無意識のまま、右手はまだ乳首の先端をさわさわと撫で続けていた。
 こうすることで、快感が長続きすることを、体が知っていた。
 頬が熱い。まるで今も、口づけされているようだ。
 とてつもなく甘美な、口づけを。
「ふ……ぁ」
 脳にかすみがかかったかのように、思考が上手く回らない。
 頭のほんの隅っこだけが、この状況をしっかりと把握していた。
 この状況の危険さを。
 こんな。
 自慰行為は決して不慣れなものではなかったが――などと、言えてしまうこと自体が、問題ではあるかもしれないが――、行為の最中から、終わった後まで、こんな、満たされた気持ちになるのは、ついぞ経験がなかった。
 ただの快楽ならもう耐えられる。そう思っていたのに。
 あの人のせいで。
 あいつのせいで。
 質が、変わってしまった。

 ああ。それでも、耐えなければ。今度こそ。今日を最後にしよう。
 この満たされた気持ちだって、魔法が作った偽物だ。こんなものに、負けてはいけない。
 ……
 今日が、最後だ。
「んっ……!」
 ……くちゅ。
 もう、濡れているというより、溢れている、そこに手を伸ばす。
「あ、あ、はぁ……ッ!」
 ……
 今日が最後だから。



*********************************



 雪が降り続いている。

 冬なのだから当たり前だと言いたいところではあるが、今年の積雪量は例年よりはっきりと多い。雪だけではなく、寒さも酷い。厳冬と呼んで差し支えなかった。
 花畑のほうの様子も見に行ったが、ここ数日は完全に雪に埋もれていた。
 少しずつ積もっていったのなら雪を掃うこともできたかもしれないが、ある日一晩明けたら見事に雪景色が完成していた。これでは手が出せない。
 途方にくれているところにタイミングよく幽香が現れてくれて、雪は仕方が無いと慰めの言葉を置いていってくれた。
 あと、今植えてあるのは寒さには強いものばかりだから必ずしも絶望的な状況というわけではない、ということらしい。
 でも心配です、というと幽香は嬉しそうな顔で私の頭を撫でてくれた。……私も少し嬉しかった。
 とはいえ、手が出せないことに変わりはない。
 なんとかならないものか。

「うー」
 ……まあ、花畑の話はとりあえずさておくとして。
 寒いこと自体は、実際、たいした問題ではない。
 白玉楼に住んでいるのは、寒さには強い幽霊ばかりだ。
 私はといえば半分は人間なので、半分は寒い。
 なんともよくわからない表現だと思うが、私もよくわからない。まあ、とにかく半分寒いのだ。
「これは緊急事態なのよ」
 ともあれ、問題になるのは寒さそのものではなかった。
「緊急ですか」
「そう、緊急」
 むしゃむしゃり。
 味噌を詰めて焼いたおにぎりを両手に持って食べながら、幽々子さまは言った。
 いつもどおりの抑揚のない口調ではあったが、なんとなく、普段より少しだけ真剣な口調のような気もする。
 幽々子さまは、障子のほうに向かって手を広げる。私の視線は、自然と障子に向かう。
「世間は雪で生命線が絶たれて、例年にない食糧難。お金を積んでも食べ物は買えず」
「そのようで」
 本来冥界には縁のない単語が一気に飛び出てきた。
 まず、幽霊は普通ものを食べない。必要がない。お金も持たない。必要がない。商売もない。必要がない。
 何より生命線という概念が存在しない。冥界なのに生命線とはこれいかに、という話だ。
 幽々子さまの話は、もちろん、生きるものの世界の話だ。
 とはいえ、生きるものの世界と無縁でいられるわけでもない。厳しい環境になれば、まあ、なんだかんだあって、冥界の住民は増える。幽霊の管理はますます大変になる。

 ――なんてことを、心配しているわけでは、もちろんない。

「おかげでもう半月も米と味噌しか食べてないわ」
 ちなみに幽々子さまも別に何も食べなくても生きていける――いや、生きてはいないが、基本的に問題はない。
 2つ目のおにぎりを食べ終えると、むう、と幽々子さまは唸る。
「飽きた」
「お察しいたします」
 だが、それでも、幽々子さまにとって、食事という行為は生命線(あえてこの単語を使いたい)なのだ。ただの食いしん坊などと無知な者は言うこともあるが、私にはわかっていた。
 食事は、生きるということそのもの。
 幽々子さまはきっと、生きる人間と何違わぬ生活をずっと続けてきたのだろう。それが永遠の存在となった幽々子さまの心を支える最後の防波堤なのではないか。
 例えば食料品の買出しのために向こうの世界と冥界を行き来する専用部隊がいたり、必ず旬の食材を手に入れるよう特に教育されていたり、
 あらゆる世界の著名な料理人の幽霊はしっかりと雇っていたり、気分によって今日は魔界の郷土料理明日はイタリア料理だと幅広く食事を変えていたり、
 料理人が成仏しそうになると全力で食い止めたり、珍しいもの(生き物含む)を見かけてはまずは食べられるかどうか考えてみたり、本当に食べてしまったりするのも、
 全ては生きるものであれば当然そうするであろうことを実行することで、生きている気分を維持しようとする力強くも哀しい努力なのだ。
 たぶん。

「そうよね? つまり緊急事態よね?」
「どうでしょう。緊急とまで呼べるかどうかは」
「緊急事態よね?」
「ええもちろんです」
 幽々子さまは嬉しそうにうんうんと頷く。
 と思ったら今度は、何やら袖の中から何かをすっと取り出して、はい、と私の手にそれを押し付けた。
「?」
 見ると、それは折りたたまれた紙だった。
 幽々子さまは仕草で、それを開けろと示す。
 開ける。
 ……
 何やら、文章が書かれている。文章というかなんというか。
「……」
 ちら。幽々子さまの様子を伺う。
 幽々子さまは頷く。
 ならば、ご期待通りに。
「『状況は絶望的です。このままでは白玉楼の危機です。幽々子さま、幽々子さまのお力でなんとかなりませんか!』」
「どおれ」
 あ。
 すんごい楽しそう。

「妖夢がそこまで言うなら仕方ないわね――そう、今こそ扉が開かれるときがきたわ」
「扉?」
「これは古の約束。私に、西行寺家に、白玉楼に危機が訪れたとき、その名の下に未来を紡ぐための扉が開かれる」
 す――と、声が冷える。
 たまに、こういう本気モードの声になるときがある。普段とのギャップに、思わず背筋を伸ばしてしまう。

「かつてこの世界に、生きる者が攻め込んでくることも珍しくない時代があった。世界は幾度も危機を迎えた」
 凛とした声が。

「それ以外にも、なんかいろいろあった。うんたらかんたら以下省略」
 声が。

「別に私が撃退することもできたけど面倒だったから私はそのたびに扉を開いて危機を凌いできたの――」
「……」
 真面目に聞いていいのかツッコミを入れていいのか。
 どっちなのかとても反応に困る。
「さあ開きましょう。未来を切り開く扉を」
 幽々子さまは、ゆっくりと手を上げて、言った。
「私たちの――美味しいごはんのために!」
「すごくかっこよく言ったけどー!?」



「というわけで、ここ」
「え?」
 案内されて来てみれば、何のことはない。
 そこは幽々子さまの寝室の一角だった。
 この部屋自体は、たまに入ることがある。
 主に、朝食の時間になってもまだ起きてこないとき。
 何故か起こすのは私の役目になっていた。
 幽々子さまの指名があったわけではなく、いつのまにか自然にそうなっていた。
 あ。部屋の隅で、黒猫が丸くなっている。
 庭のあたりで最近よく見るやつだ。
 よく見るとたくさんの子猫たちが一緒にいて、寄り添っている。この寒い時期、一番暖かいところを求めてやってきて落ち着いた場所がここなのだろう。
 猫を部屋に住ませるとは、幽々子さまも優しいではないか。
 確かに、まだ生まれて間もないように見える子猫には今年の冬は非常に厳しいだろう。

 ……
 少なくとも猫は非常食の対象ではないらしい。

 さておき。

「隠し扉でも仕掛けてあるのでしょうか?」
「うん。似たようなもの。私以外には絶対に見つけられないけど」
 幽々子さまは、部屋の隅の掛け軸をぺらっと上げる。
 ……
 横から覗いてみるが、普通に壁以外は何も見えない。
「どこですか?」
「ふふん。私だけの扉だからね」
 得意げに、胸を張って言った。

「というわけで〜」
 幽々子さまは、手を上げる。
 壁に手をつける。
「えーい」
 ぐる。
 掌を90度ほど、回す。

 ……ぐにょり。
 壁が曲がった。

「えっ?」
「ひーらいた」
 幽々子さまが壁から手を離すと。
 そこに、裂け目ができていた。
 壁が割れたというようには見えない。
 まさに、裂け目ができたというか。
 というか。これは、見覚えが、ある。
「これ、もしかして……紫さまの?」
「ぴんぽーん」
「どうして幽々子さまが紫さまの<スキマ>を開けられるんですか?」
「私たちくらいの関係になると、合鍵を持ってるのは普通なのよ。ふつー」
 ふふん。
 とても嬉しそうだ。
「合鍵ですか……よほど、信頼されているのですね」
「そうそう。信頼」
 ううん。素晴らしい。
 いかなる苦境であっても、紫さまが仲間として動いてくれるならこれほど力強いことはないだろう。
 信頼というのは美しいものだ。
 きっと昔からお互い助け合い過ごしてきたのだろう。
 今日のように困ったときにも手を取り合って。

 ……

 あれっ。
 美味しいものを食べに行くだけの話だったような。



*********************************



「……真っ暗なんですが」
 何も見えない。
 <スキマ>の入り口というのは、こう、じっくり眺めたことなどなかったが、他の場所から浮いてそこだけが暗闇というのは、実に、怖い。
「大丈夫よー」
 ずい、と幽々子さまがその裂け目に手を入れる。
 手は境界線のところですっぱりと消えて見えなくなる――かと思いきやそのようなことはなく、境界線の向こう側の手も暗がりながらちゃんと見えた。
「ちょっと風変わりな扉があるだけだと思えば。普通に入れるわよ、中」
「入りたくはないです……」
 風変わりな扉だと思ったとして、その先にあるものが奈落の底だったとしたら当然開けようとも思わない。覗き込む限り、地面があるようにも見えなかった。
「んしょ」
 だというのに、幽々子さまは一切の躊躇なく、足から<スキマ>に入っていく。
 その体はあっという間に暗闇の中に消えてしまう。
「妖夢もー」
「うう……はい」
 怖いが、仕方ない。
 同じように足から入っていく。恐る恐る、ゆっくりと。
「ちょっと見えにくいわねえ。それ、もっと光らせて」
「それって」
 光らせられるものということは。
 ……もう一人の私のことか。
 強く念じて、半霊のほうに気を送る。ぼんやりと半霊が輝きだす。
 本気になれば私のこちらの姿と同じ状態になるまで力を送り込むこともできる。とっておきの技の一つだった。
「あ、いい感じ。壁が見えてきたわ。もうちょっと強くできない?」
「はい」
 さらに明るく。
 疲れる割には、言うほど明るくなるわけではなかったりもするのだが。
 頑張っても、目視しても眩しいとは感じないくらいにしかならない。
 ただ、確かに、壁があるのを確認できるようになってきた。
 幽々子さまは周囲を見渡してから、あ、と声を出して、ある一点を指差した。
「あった、あった」
 そういって、壁を押す。
 かち、という音とともに、急に周囲が明るくなった。

「わ!?」
「まぶしーい」
 深夜が急に昼になったような明るさだった。
 眩しさに目を細めながら上を見上げてみると、天井に備え付けられた何かが発光しているのがわかった。見たこともない形のランプだった。
「なんですか、これ」
 急に点灯したことも驚きだし、見たこともない形なのも興味深いが、何より、明るすぎる。とても日の光が届かない空間とは思えない。
「紫の隠れ家だからね。これくらいは普通よ。もっと凄いんだから」
「はあ……」
 この不思議な空間も、紫さまの仕業だということなら、まあ、納得できてしまう。
 ……
 って。
 紫さまの家? ここが?

 まぶしさに目が慣れてきたところで周囲を眺めてみる。
 目の前に広がった光景は。
 なんというか、ちょっとした異世界だった。

 今いる場所から少し進んだところに一段の段差。
 その先に伸びている通路――おそらく廊下。
 廊下に見えるいくつかの扉。
 正面にも扉。
 家だということははっきりとわかる。
 どちらかといえば洋風の家ということになるだろう。
 ただ――

「ものすごく、綺麗ですね。だけど豪華というわけではなくて、むしろ淡白なくらいで……ただ整然としているという感じです」
「面白いのよね。私にもまだここは謎に満ちているわ」
「この綺麗過ぎる壁はどうやって作ったのでしょうか……」
「ま、ま、上がりましょ。お邪魔しまーす」
 迷いなく、幽々子さまは段差を上に上がる。
 上がる前に、きちんと靴を脱いで。
 家主が現れていないのに勝手に上がっていいのだろうかと思うが、きっと勝手知ったる他人の家ということなのだろう。
 いやまあ知っているからといって上がっていいかどうかは別問題という気はするが。
 などと思いつつも、私も靴を脱いで、上がる。

「お邪魔します」
 幽々子さまは迷わずに廊下を直進して、突き当たりの扉を開く。
 私は、木の板を敷き詰めたように見えるが、それにしても綺麗に平坦になりすぎている床を興味深く眺めつつ、ついていく。
 そして、幽々子さまに続いて扉をくぐって。
 もっと凄い、という幽々子さまの言葉を思い知ることになった。

「……」
 謎の設備が並んでいた。
 ……
 なんと表現すればいいのか、よくわからない。
 言うなれば、そう。武器庫。
 特に、目の前の――箱。箱?
 ぶーん……と、謎の音を立てる、四角い箱。
「これはいったい……?」
「さすが妖夢、目の付け所がいいじゃない。そこが宝の山よ」
「え?」
「ふっふー。中を見て驚くがいいわ……と、その前に」
 幽々子さまは箱に手を伸ばしかけて、引っ込める。
「?」
 私が首を傾げている間に、幽々子さまは持っていた手提げ袋から手袋を取り出して、両手にはめた。
「これで大丈夫」
「何かやはり、危険なものなのですか?」
「前回いつのまにか仕掛けがされていてね。不用意にそこの取っ手を触ると、ぴーぴーって警告が凄い音で鳴っちゃって」
 おおこわいこわい、と言わんばかりにおどけた表情で。
「でもあとからこっそり実験して、手袋をしてから触れば大丈夫だって気付いちゃった」
「仕掛けって……紫さまが仕掛けたもの、ですよね?」
「不思議よねえ。そもそもここに入ってこれるのは大親友の私くらいしかいないのに、いったい誰を警戒しているのかしら」
「……」
「というわけで、かぱ」
 幽々子さまがその箱の窪みに手をかけて引っ張ると、いかにも厳重そうに見える箱の蓋は、簡単に開いた。
「わあ。相変わらずしっかり詰まってるわ。さすが在庫の充実に定評のある八雲ブランドね」
「? いったい何が……わっ」

 私の位置からは箱の中が見えなかったので、少し移動してから私も中を覗き込んでみる。
 そこで見たもの、というよりまず、異様な冷気に驚いた。
 <スキマ>に降りてきてから、全体的に割と暖かくて心地よかったのだが、この箱の前に立つと、ここだけまた屋外に出たかのような冷たさを感じる。
「な、なんですか、これ」
「食べ物が詰まっている、箱」
「いえ、そういうことではなくて、この冷たさは何でしょうかというか」
「食べ物が詰まっている、冷たい箱?」
「あ、はい、そういうことで構いません……」
 これ以上突っ込んで聞いても、納得出来る答えが返ってくるような気がしなかった。まあ、質問する相手を間違えている。
 ……と、色々と諦めたところで、その言葉の持つ意味に気づく。
「……え。食べ物?」
 少し中にあるものに注目してみるが、食べ物と言われてもピンとこない。何かよくわからないものがたくさんあるという印象しか持たない。
「さあさあ、お宝発掘の時間よ」
 幽々子さまはぱっぱっと箱の中から色々と取り出していく。

 見る間にテーブルに積まれていく、謎の物体たち。
 わけがわからない私は手が出せず、ただ傍観。

 あっ。
 という間に、箱の中にあったものはほとんど外に取り出された。

「続いては仕分け」
「はあ」
「とりあえず私が選んでいくから、渡したものはすぐに箱に戻していって」
「わかりました」

 とりあえずはわけがわからないままに作業を進めて。
 実際に手渡されたものの冷たさに驚きつつ(というか凍っていた)、三分後にはもう全て終わっていた。

「ふっふーん。狙い通り〜」
 幽々子さま、何やら袋のようなものを持ってご満悦。
「これがきっとあるから、お米の準備はしなくても大丈夫だと読んでいたのよ」
「何ですか、それは?」
「すぐにわかーる」
 幽々子さまは袋を簡単に破って、いつの間に取り出していたのか二つの皿にその中身をわけていく。
「ごはん、ですか?」
「そうそう。味つきの」
「凍っているように見えますが」
「凍ってるのよ。だから溶かすの」
 まあ見ていなさい、と幽々子さまは皿を持って、今度は少し離れたところにある、これまた謎の黒い箱の中に入れた。
「えっと、五分……と。ぴ」
 ぴ。
 幽々子さまの言葉に続くように、そんな音が鳴った。
 ぶーん。また、変な音が聞こえてきた。
「ささ、待っている間におかずの準備をしていきましょう」
 聞きたいことは色々とあったが、何を聞けばいいのかわからないくらいわけがわからない状況だった。
 ちら、と黒い箱の中を覗いてみると、赤っぽい光が見えた。

「これとこれはまとめてー、と」
 幽々子さまは同じように袋を破っては皿の上に並べていく。
 ……見てみると、なるほど、食べ物に見えるものが並んでいっているのがわかる。
 揚げ物のようなものがあったり、団子のようなものがあったり、切りそろえられた野菜のように見えるものもあったり。
 ただ、全部、凍っている。ように見える。

 ぴー。ぴー。ぴー。
「わ?」
 急に高い音が響き渡る。
 どこからその音が鳴っているのか、すぐにはよくわからない。
「できたー♪」
 幽々子さまは黒い箱を開けて、中から皿を取り出す。
 皿からは、湯気がもわもわと広がっていた。
「熱いから気をつけてー」
「わ、わ、溶けてる」
 というか、湯気を見る限り、幽々子さまの言うとおり、熱そうだ。驚きだ。さっきまで凍っていたのに。
 見た目には炊きたての炊き込みご飯にしか見えない。
「この調子でどんどんいくわよー!」
 そうして、謎の黒い箱に皿を入れては待って取り出す作業が始まった。


「いただきまーす」
「いただきます」

 ずらり。
 広いテーブルの上には、たくさんのお皿が並んでいた。
 ……圧巻。
 見たこともない食べ物も多くて、どうしたものかと不安感もあったが、まったく躊躇なく口に運ぶ幽々子さまを見て、私も安心――
 ――できる理由にはまったくならない。わけではあるが。
「うーん。おいしーーー!」
 とはいえ、美味しそうに食べているのを見ると、まあ、大丈夫かなという感じはする。そんなに見た目に恐ろしいものがあるわけではないし。
 というわけで。
 まずは無難に炊き込みご飯のようなものを一口。

「……!」

 ――

 ……

 ……はっ。
 ちょっと、意識がどこか行ってしまっていた。

「……」
 もう一口。
 ぱくり。

「……!」
 お……美味しい……
 温かくて、塩気もちょうどよくて、ええと、何か海老? みたいなのがびっくりするくらいいい食感で、ええとええと。
「すごい……な、なんですか、これは」
 何か袋から取り出して、しばらくの間箱に入れておくという非常に簡単な手続きで、このような美味が生まれるとは。
 人生観が変わってしまいそうだった。
「あらあら。感動はいいけど、あんまりぼーっとしてると他のものがなくなっていっちゃうわよ?」
「はっ」

 そうだ。
 せっかく好きなだけ好きなものを食べていいという許可が出ているんだ。我を失っている場合ではない。
「このカツが柔らかくていいのよ〜。柔らかいのにしっかりとした重量感があってでも重過ぎずコクとかキレとかなんとかほにゃほにゃ」
「言葉が思いつかないなら無理なさらずとも……」
 他にも揚げ物のようなもの、肉団子のようなもの、真っ赤に染まった海老の炒め物などなど。適当に食べてみた。
 少しずつ。
「凄い……美味しい、です。これほどたくさんの、これほど美味しいものがあんなに簡単にできてしまうなんて、どういう魔法なんでしょうか」
「あむあむ。ごくごく。むきゅむきゅ」
 あ。もう聞いてない感じ。
 というか、気がつけば、ずらりと並んでいる皿のすでに大半が空になっていた。
 ……私は、少しずつしか手をつけた覚えがない。
 いや。しかし、もともと私はそんなにお腹に入る容量が大きいほうではない。
 美味しかったのでいつもよりもかなり食べてしまったが、美味しいとはいえ味付けはちょっと濃いかという感じもしたのであまり体にはよくなかったかもしれない。

 ……
 でも、たまにならいいか。

「んー。んむ、んむ。くうぅ、やっぱり紫のとっておきはなかなか美味しいわねえ」
 満足そうに、幽々子さまは息を吐く。
「さすがに、味は料理人に作らせたふるこーす料理には敵わないけど」
「そうなのですか」
 私は、食べたことがない。
「でも量がこれだけあるっていうのがいいのよね。うんうん」
「……」
 そういえば普通に食べてしまったが。
「こんな魔法のような料理、もしかしてものすごく高価なのではないですか……?」
「んー、詳しくは知らないけど。こういうのは半額せーるのときにまとめ買いするのよ、とか言ってたし、とりあえずは半額なのよ、うん」
 よくわからない。
 普通に買えるものなのか。
「ささ、でざーと、でざーと」
「!?」
 まだ入るとは。
 また白いほうの箱に向かう幽々子さまについていきながら、ひょっとしてものすごく紫さまに迷惑をかけているのではなかろうかと今更思う私なのだった。


「ふー。満足じゃー」
「……」
 テーブルにびっしりと山と積まれた空箱の山。
 私も少しだけおすそ分けをもらったが、これがまた冷たくて甘くて非常に美味しかった。
 ……ただ、どう頑張ってもここまで一気に食べられるような気はしない。すぐに舌が麻痺してしまったというのもあるが、そうでなくても、今日の食事は全体的に重かった。

「ふあぁ〜……」
「……」
「わふー。空腹が満たされると次は……」
 次は。
 ……こう、幽々子さまが何を言い出すかわからない瞬間というのは、いつでもハラハラするもので。

「……すぅ」
「わ!?」
 突然、寝息である。
「ちょ、待ってくださいよーっ。この状況で置いておかれると私どうしたらいいのか」
「くー……すー……」
「……」
 ええええ。
 幽々子さまは椅子に座ったまま、しっかりと眠りに落ちてしまった。
 残されたのは、皿と空箱の山と、私。
「……どうしたら」
 とりあえず。
 片付けることが仕事だろうか……と思いつつ。
 何をどこに片付ければいいのか、見当がつかない。
「とりあえず……空箱は集めておこう」
 その後どうすればいいのかはまったくわからないが。
「……ぅーん……もう食べられないのぉ……」
「わ」
 驚いた。
「幽々子さまらしからぬ人並みな寝言が」
 あの幽々子さまが。
 こともあろうに、もう食べられないなどと。
「だからもっと買い占めておきなさいって言ったのにぃ……」
「……?」
 ん?
 ……
「……あ、そっちの意味」
 とても納得。

「それはいいとして……本当この現状、どうしよう」
「どうしようもないわねえ」
「はい……考えてみれば帰り方すらわかりませんし、大変困った状況で――」

 ……
 うん?

「!?」
「あなたもいつも大変よねえ」
 振り向くとそこに。
 いるのである。
「同情だけはしてあげるわ。それだけだけど」
「紫さま! えっと……あの、おはようございます」
「おはよう」
 何を言えばいいものやらわからず、とりあえず挨拶を交わす。
 なんとなく間抜けな感じだ。
「この時期に起きてこられるのは珍しいですね」
「誰のせいだと思っているのかしら」
 素直な感想を言うと、紫さまから半目で睨まれた。
 ……ええと。
「あなた、じゃないけどね」
 紫さまは、冷たい声で言うと、テーブルで眠りこけている幽々子さまを見下ろした。
「こいつは本当性懲りもなく……」
「すぴー」
「あ、あの、紫さま、やはりこれは、大変ご迷惑をおかけしている状況なのでしょうか……」
「ああ。あなたはいいわ。状況はだいたいわかるから」
 おずおずと言うと、紫さまは抑揚のない声で言った。
 ……
 まずい。これは、怒っている。確実に。
「そうそう。警報だけど、私の寝室にだけ鳴るように変えたのよね。後で伝えてくれればいいわ」
「あ……はい」
「さて……悪いけど、片付けはそのままお願いできるかしら。お皿はとりあえずはそこのシンク……流し台に入れておいてくれればいいわ。ごみはそこの箱に」
 紫さまは、私の方を見ずに言った。
 ……もちろん、この流れで、私に拒否権などない。
「あ、あとそこの……棒、の部分を下から上にちょっと押し上げると水が出るから、手だけ適当に洗っておくといいわ」
「わかりました」
「まったく、面倒をかける奴だわ」
 紫さまの言葉とともに、幽々子さまの体はふわりと宙に浮かぶ。
「終わったら、私の部屋に……そこを出てから右に曲がって進んで左側の部屋に、来て。私はさきにこいつをベッドに運んでおくから」
「はい。ありがとうございます」

 おお。
 紫さまは優しいなあ。幽々子さまをちゃんとした場所で寝かせてあげようということか。
 口ではなんだかんだ言いつつも、やっぱり親友なんだなあ。
 ちょっと感動。

「よーし、運べ運べ」
 私は私の仕事を。
 空箱を全部指定された箱に集めて。
 皿を流し台に運んで。

 ……それにしても凄い量だ。
 そういえば紫さまだけの家ということなのに、どうしてこんなにたくさんの皿があるのだろうか。
 やっぱり幽々子さまのため? なのだろうか。
 ちょっと、面白い。

「さっささっと」
 手際よく終わらせる。
 運ぶだけなら簡単だ。一応、この手の雑用は昔からよくやっている。
 全部の皿を運び終えると、流し台のほうが圧巻の光景になっていた。
「終わり!」
 改めて積んでみると、異常な量だ。
 見慣れた光景ではあるのだが。
「水は……この棒? を、ちょっと下から上に……?」
 恐る恐る。
 ぐいっと。

 だばー。

「わっ」
 本当に水が凄い勢いで出てきた。
 どうなってるんだろう。

 疑問はさておいて手を洗う。
「よし」
「……」
「あれっ、これどうやったら止まるんだろう」

 棒を逆に下に下ろせば水が止まるということに気づくまでしばらく時間を無駄にしつつ。
 なんとかこれで全ての作業が終わりだ。
 よし。行こう。



「右行って、左側……この部屋かな?」
 扉が見える。開いているようだ。
 そっと、扉の中を覗いてみる。
 幽々子さまは、そしてひょっとすると紫さまももうお休み中だったりするかもしれないし、静かに。
 いや本当にそうだとするとますます私は途方にくれるしかなくなるわけだが。
「失礼します……と」
「いらっしゃい。待っていたわよ」
「あ、紫さま」
 よかった。起きているよう……だ……
 ……
「……!?」

 そこで私が見たものは。



「うみゃあ……」
「よし、一通り出したかな。そういえばまだこれは試してなかったわねえ……ちょうどいい実験になるかしら」
 そこで見たものは、全裸でベッドに眠る幽々子さまと、その前のテーブルで何やら呟いている紫さまの姿だった。

 幽々子さまの手首と足首は布切れで縛られて、しっかりとベッドに固定されている。そんな状況で、相変わらず安らかな寝息をたてていた。
 思い切り足を開かされた状態で固定されているため、
 つまり、その。

 色々とこちらからも丸見えだった。

「ああ、これこれ。評判よかったから買ってみたけどまだ試してなかったのよね」
 がさがさと何かテーブルの上で弄っている。
 ……テーブルの上。
 何か、色々と乗っている。
「ええと…紫さま、この状況は……どういう」
「ん? 見ての通り。縛り付けているの。私はおもちゃの選択中」
「いえ、今の状況そのものの説明ではなく、この状況に至った理由と今後について」
「幽々子が私の家を好き勝手に荒らしてくれたから、お返しに幽々子の体を好き勝手に荒らしてみようと思います」
「あー……よくわかりました」
 見事に簡潔かつ明快な回答だった。

「……その、やっぱりご迷惑をおかけしまして。ごめんなさい」
「ちなみに謝ったからってやめたりはしないし、あなたが代わりに罰を受けるなんて言い出しても聞く気ないから。展開の如何にかかわらず、やるから。これ」
「……はい」
 よくわかっています。
「まあ、そこで見ていなさい。酷いことはしないから、邪魔はしないように」
 紫さまの手元近く、テーブルに勢ぞろいした見慣れない多数の器具を見て、それでも一部はその形状からある程度使い方の予想がつくわけで。
 ……うわあ。

「さあて。何はともあれ、まずは滑りをよくしてもらわないと困るのよね。いきなりねじ込んじゃう鬼畜プレイもいいんだけど、それじゃ実験にはならないし」
 何やら物騒なことを呟いて、紫さまはまず手元の、先が球のようになっている、円筒状の器具を取り出した。
 ……腕ほどの太さがあるんですが、それ。
「あ、心配しないで。これは入れるものじゃないから」
「あ……はい」
 考えていることが読まれてしまった。
「何? あなたはそういうのが好きだったり?」
「違いますっ」
 あんなのが……その、ナニされたら、壊れてしまう。

「すぴー」
「よく寝てること」
 紫さまは微笑んで、それの球状になっている部分を、まっすぐ狙いを定めて幽々子さまの股間に当てた。
 紫さまがそれをくい、と少し押すと、んう、と幽々子さまは少し反応した。
 よし。と紫さまが頷く。
 あれ、ああやって押し当てるだけなんだろうか。
 見た目のゴツさの割に大人しいものなんだなあ……
 ……なんて思っていたのが間違いだったということを知るのは、すぐ後のことだった。
「いっきまーす」
 妙に可愛らしい紫さまの言葉と同時に、かち、という小さな音が聞こえた。

 ぶぃーーーーーー!

「ひゃっ!?」
 突然激しい唸り声のような音が部屋に響き渡る。
 思わず、悲鳴をあげてしまった。

「ん……んん……っ」
 幽々子さまの表情が苦しげに歪む。
 あれ、と思ってよく見てみると……
 なんだが紫さまが持つそれが、ぶれて見えた。
 集中して見てみるとすぐに、高速に動いている……振動しているということがわかった。
「えっ」
 感覚で測ってみる限り、とんでもない速度だ。
 紫さまにはあんな能力まで――
「あ、いけない。いきなり最大出力にしちゃった。まいっか。寝てるんだしちょうどいいでしょ」
「……」
 のんびりした声は、とても超人的な運動をしている最中には思えない。
 最大出力?
 ……勝手に動いているのだろうか、あれが。

「んんっ! うう……うっ」
「えいえい」
「んふ……う、あ、ああう、ん……っ!」
「あらやっぱり凄い。てこでも起きない子なのにすぐにここまで反応させるなんて」
「……」
 確かに。
 幽々子さまが本気で寝ているときは、その、何をやっても。
「うりうり」
 紫さまがそれを動かすと、ぶぃーという振動音は大きくなったり小さくなったりする。
「あっ……!? あ、あ、ああああぅあっ! あ、うあぁ……!!」
 がたん。
 幽々子さまの体が、急に激しく跳ねだした。
「おっと」
 紫さまは体を押さえつけながら、さらに強く押し当てていく。
 容赦ない。
「あ、あ、ああ、あ、あ!? うっ……あ、ああああああああああ」
「あはは、凄い凄い。もうイっちゃうのねえ。どんな無茶苦茶な夢を見ちゃってるのかしら」
「ああ、あ、うううう――ああああああっ……!!」
「ほらほらー……思い切り、イっちゃえ!」
「あっ……あああああああああああああああ――――――う、ううああ、あああああ――――――!!」

 がたんっ!!
 ベッドが、激しく揺れた。
 幽々子さまの声に紛れながら、ぎしっ、と支柱が軋む音まで聞こえた。

「あ……ぐ……ああああ、あうう――――ううっ!?」
「あら」
 幽々子さまの目が、ばちっと開かれた。
 ……が、それはすぐに、閉じられる。
 決して穏やかではない形で。

「う――ふぅ――!? あ、うああああ――――ッ!!」
 目が覚めてもまだ否応のない絶頂の最中。
 しかも紫さまは、まだあの振動を一切緩めていない。

「おはよう、お嬢様。ご機嫌いかが?」
「う、ああうううっ!? な、なに、あ、ぐ――うッ」
「さあ、一体なんでしょう? うふふ」
「う、ああぅっ……!! あついっ、あ、つ……う、うう」

「――ッ! あ、きゅう……ううっ!」
 幽々子さまはがくがくと全身を震わせる。
「な、なにこれえ……! や、つよ、すぎ……うううッ」
「さすがの幽々子もこういうのは未体験みたいね。存分に楽しみなさいな」
「あああ、あ、ううっ……いま、敏感すぎてっ、ひゃうう」

「や、やめぇ……ん、あううううっ!」
 ぶぶぶぶぶっ
 振動音は時折激しく乱れる。
「あやっ!? あ、うあ、ああああああああ」
 そのたびに幽々子さまの反応が若干変わる。
 少し、力を入れて押し付けているときなのかもしれない。
 ……
 あんな高速に振動しているものを押し付けられたら、どうなるのか。
 うう。
 想像はできないが、幽々子さまの反応を見る限り、とても私では正気を保てない……かもしれない。
「ひゃ、ん、いやあ……ああああっ、ま、また、きちゃう、う、あ、や、あああう」
「あら早いのねえ。さっきイってから一分も経ってないじゃない。もうちょっと我慢できないのお?」
 ぶ、ぶぶぶっ
 ぶぃーーーっ
 紫さまはのんびりした声で言いながら、ぐりぐりとそれを使って幽々子さまの股間を弄り回す。
「やめ、ええ、やあああっ! それ、すご、す……ぎ、あ、や、やあ、もう、だめだめっ、あうううっ」
 ぎゅっときつく閉じられた幽々子さまの目の端から、つつ、と一筋の雫がこぼれ落ちる。
「……!」
「あ、あ――や……ああああああああ、あうっ、あううっ」

 ほとんど悲鳴としか言いようのない声に耐え切れず私は、
「紫さま」
「だーめ」
「え」
 思い切って請願しようと思ったのも束の間、最初の呼びかけの時点で却下されてしまった。きっぱると。
「甘やかしちゃだめよ。あなたはまだよくわかってないかもしれないけど」
「あ、い、いっちゃ、だめ、いっちゃう、いっちゃう、いく、あ、あ、あ、イく、っちゃ、あ――」
 紫さまがのんびりと話す間にも、幽々子さまの声はまだまだ甲高く、そして切羽詰まっていく。
 ……ああ。この声は。
 また、もうすぐ、なのだろう。
「この程度のことで懲りる子じゃないのよ。……とっても、残念なことに。心配はわかるけど、黙って見てなさい。……さて」
 紫さまは、厳しい声で私に言い放つ。
 そして。
「さ、またイっちゃいなさいうふふ」
 紫さまが声色を変えて幽々子さまに語りかけたのとほぼ同時。

「うっ……が、ああああ――――――ッ!!!!」
 獣のような叫びとともに、幽々子さまはまた全身を激しく痙攣させる。
 体を押さえつけているタオルを引きちぎってしまいそうな勢いで暴れているが、よほど頑丈に結んだのか、実際にはびくともしない。

「あ、あ、あああ、あ、うう、が、ぅ……っ!!」

「う、あああうううう、あうう、うーっ!」
 目からは涙を。
 そして……その、場所からは、ぐっしょりと大量の液体を。
 腕から、大きな胸、お腹、脚、全てびくびくと痙攣させて、幽々子さまは、必死に歯を食いしばりながら、しかしまったく抑えられていない声を漏らす。

「あっさりと二回目。凄いわね。ねえどんな感じ? 私まだ試したことないの」
「あぐっ……あ、あ、あー……」
 幽々子さまの声は少しずつ落ち着いてきてはいるが、紫さまの問いかけは聞こえているのかどうかも怪しい。
「ああう……うう……、あ、く、うう……っ」
「え? 何? まだよくわからないですって?仕方ないわね、よくわかるまでずっとしてあげるわ」
「ひっ……あ、いや、いやあ、もう止めてっ! きつ、きつすぎて、あ、いや、イっちゃったばかりなのに、むちゃくちゃ、つよくて」
 聞いたこともないような、幽々子さまの本気の嘆願の声。
 思わず私は手を伸ばしてしまう――が、紫さまがすっと横に出した手で、あっさりと止められる。
「ううううあああああああまた、またああ、や、やだっやだやだほんとうに、止めてっ、つよす、ぎる、のっ!」
「そう。最大だと強いのね。ありがとう参考にするわ。引き続き試験に協力よろしく」
「あ、あぐ……ううううううううーーーっ! や、やっ……いやいやいやっ……いや、なのに、また、へんな、へんに」

 私は。
 私は――

「紫さま――」
「あなたも、うるさいわね」
「――!?」
 たまりかねて紫さまに近寄ろうとした途端、何かに両手を掴まれた。突然、後ろから。
 あっという間に手をバンザイの格好にさせられて、太い紐のようなものでぐるぐると巻かれてしまう――見えていないので、推測でしかないが。
 なんとか首を曲げて見上げると、案の定、<スキマ>から紐は伸びていた。

 ……<スキマ>の中でも<スキマ>は別に作れるのか。
 多重構造なんだなあ。

 ……
 いやいや。感心している場合ではなく。
 すっかり押さえ込まれてしまった。
「黙って見てろって言ったでしょう。あなたも、私に逆らえる立場じゃないの。理解しなさい」
「……!」
 紫さまは声を低くして、言った。
 本気で睨まれると……少し、怖い。
「……もう。こういうの、冷めちゃうから本当は嫌なのよ。二度と言わせないでね。――さってと♪」
 そしてまた脳天気な声に戻る。すぐに。
 もちろん、この間も決して振動を止めることはなく、幽々子さまは追い詰められていた。
「今はどんな感じかな? 教えてちょうだい」
「い……う、ぐ、ううううっ!」
 目を閉じて、歯を食いしばって、両拳を握り締めて、襲い来る衝撃を耐えようとしている。
「いや、いや、いやぁっ、のぼって、また、きて、いっ……あ……う、ううっ」
 しかし抵抗空しく、疲れを知らずぶぃーと規則的な音を鳴らし続ける道具の攻めに、いずれは屈服せざるを得ない。
 ……なんて、地獄。

「イ、いぐっ、いっちゃあああううううっ、があッ」
 とめどなく溢れては真っ白に泡立っていく液体が、気が付けばベッドをぐっしょりと濡らしている。
「い、く、だめ、ら、うう、らめッ! イっちゃ、い、いく、いくいくぐううううううううッ……!」

「がッ――アアアアアアアアア――――!!」

 がくがく。
 ベッドが揺れる。

「あ――う――ああああっ……!!」
「まだまだ……!」
「ううううああああ、ああ……っ、は、うぁうっ」
「あ、あ、ああ――! かはっ……、ああぅうう」
「あ――あ――あああ――――ッ!!!」

 がたんっ!
 ベッドの足が少し浮くほどに、揺れた。

「あら、また?」
「あー……ああ……あ……ッ!」

 荒い息、半ばかすれた声。
 ついには力が入らなくなったか、開きっぱなしになった口からはよだれが溢れている。

「あ……あ……あー……っ、ああっ!」
 それでも、びくんびくんと体は跳ねる。
 意識しているのかどうかは、わからないが。
「あ――う、あ――――――ッ!!」
「ああああああ――――――ッ!!!」
 精神がやられてしまったのではないかと心配になるほど。
 それは、壮絶な光景だった。



「あう、あううっ、うっ――あ、あ、あ、あ、あ、あ、う」

「あ――――――あっ!!」

「もういつイってるのかわからなくなってきたわ」

「ううっ、あ、あーーっ!!」

「あ……う……うー……あああ」

「あうっ、あ、ああ――――――あッ!」

「……」

 もはや幽々子さまの口から意味のある言葉が出てくることはなくなっていた。
 紫さまは、あーあ、と大きくため息をついた。

「つまんないの。じゃ、終わり」
 唐突に言い放つと、ずっと押し当てていたその道具を幽々子さまから遠ざけた。
「あっ……あ……あー……?」
「終わり、終わり。なによちょっと残念そうじゃない」
「あー……」
 かち、という音がしたかと思うと、ずっと続いていた振動音がぴたりと止んだ。
 ふう、と紫さまはもう一度ため息をついた。

「むう。もうちょっと楽しく遊べると思ったのに。強力すぎたかしら」
「うー……うー……」
 どう考えてもやりすぎです。
 ……紫さまが、恐ろしすぎる。
 この様子だと幽々子さまもしばらく立ち直れないんじゃ――

「あー……ああ…う……」
「ん……んん」
「あー………………すごかったあ……♪」

「……」
「……」
 幽々子さまの惚けたような顔は、どう見ても普通に正気だった。
 癖になるわ、うへへ、とか言った。

 あ。紫さまが、こっちを見た。
「ね?」って顔をした。

 ……
 こんなとき、どんな顔をすればいいかわからないの。



*********************************



「労働の後の温泉。天国ねえ」
「人の家を漁り尽くすのが労働か」
「……」

 亡霊が天国というのもどうだろう、なんて思ってみたりしつつ。

 ここは西行寺宅の近くにある小さな温泉。
 この近くだけは、さすがに積もっている雪も少ない。
 露天なので少々寒い思いをしたが、やはり風呂に浸かってみるとこの温かさは幸せなものだった。
 私たちと違って寒さに普通に弱い紫さまは温泉に来ることを非常に嫌がったが、幽々子さまが強引に連れてきたのだった。
「何が困るってフリでさえ反省するつもりがない奴がここにいることなんだけど」
「そうよ妖夢、ありがとうとごめんなさいはちゃんと言えないといい大人になれないわよ」
「酷い反面教師を見た」
「……」
 なかなか返答に困るというのもあったが、それ以上に私は疲れていて、温泉のちょうどいい温度に少しうとうとし始めていた。
 自然、聞き役に回ってしまう。

「それより紫、ちょっと太ったんじゃないの〜? ぐーたらしすぎよ、きっと」
「究極までぐーたらしても体型変わらない奴がここぞとばかりに上から目線で……!」
 幽々子さまを睨みつけながらも、紫さまは少し視線を自分の体に落とした。少し厳しい顔を見せるが、ふん、と言うだけで、特にそれ以上何もコメントしなかった。
「だいたい、普通なら今は寝てるのよ。こんなところで心労を重ねてるとストレスで体型が変わってしまいそうだわ」
「だからそのツンツンした心を解きほぐすために温泉に連れてきたんじゃないのー」
「心労とツンツンの根源がいけしゃあしゃあと……」
「あらあ。その言い方だと私が悪いように聞こえてしまうわ」
「それ以外の聞こえ方したなら耳鼻科にかかることをオススメするわ。あんたが悪い。以上」
「ぽん。反省するフリのポーズ」
 にこにこ笑顔で、右手を頭の上に乗せる。
「そのまま手で頭を押し付けて自分で沈んでしまえ」
 温泉の温かさとは裏腹の、冷え切った声で紫さまが言った。

 ううん。
 紫さまと幽々子さまの会話というのは、それほど聞く機会が多いわけでもないが、だいたいいつもこんな感じだった。
 なんだかいつも喧嘩しているようなのに、それでいて本当に喧嘩になっているところは見たことがない。
 紫さまもいつも困っているようでいて、それでも今の状況を本気で嫌がっているようにも見えなかった。
 不思議だった。
 幽々子さまは何を考えているかわかりにくいが、紫さまはもっとわからなかった。

「よーむー」
「ひゃ!?」
 突然、隣から肩を揉まれた。
 ぼんやりと話を聞いて考え事をしていた私には不意打ちで、いつものごとく変な悲鳴をあげる羽目になってしまった。
「もう、なにぼうっとしてるのよ。黙ってるばかりじゃ、おっぱいだって大きくならないわよ」
「か、関係ありませんっ」
 半ば湯に浮いている幽々子さまの胸をちら、と見る。
 幽々子さまだって普段からそんなに喋るほうではない。
 だったらその、それはどういうことなのかと。
「せっかく気持ちよさそうに浸かってたんだから、そっとしてあげておいてもいいじゃない。あんたはすぐ、人の安息の邪魔をする」
 紫さまが、半目で睨みつけるように言う。
 もちろん、幽々子さまはまったく意に介した様子はない。
「安息しているばっかりじゃ、だんだん世の中見えなくなっていくわよ〜。こうしてはしゃぐ時間だって大事なんだから」
「……」
 紫さまは、珍しく黙る。
 何やら考え込むように、目を閉じた。
 ……はあ。と、小さくため息をついているのが見えた。
「……まあ、ね。認める」
「そうそう。紫にとってみれば冬の温泉なんてすごく貴重な体験でしょ? 楽しんでおかなきゃもったいないじゃない」
 嬉しそうに、幽々子さまはにこにこ笑顔で言う。
「もしかしたら試験のとき『あ、あの温泉で話したのと同じ問題だ!』なんてことになるかもしれないんだし」
「何の試験よ……」
「……はは」

 なんとなく、二人の会話が楽しくなって。
 笑みをこぼす。

「そうそう。ぐっすり休むのは家に帰ってからでもできるのよ。というわけで妖夢、紫のおっぱい揉みなさい」
「は?」
「え?」

「今後のためにも、色んな人の色んな大きさを体験しておかないと」
「今後の何ですか!?」
「……やっぱり出る」
「にーがーさーんー!」
「にゃ!?」
 がし。
 幽々子さまの手が伸びて紫さまの手をしっかりと掴む。
 そしてあっという間にこちら側に引きずり込んで、後ろから両手で胸を捕まえたのだった。
 神速の業だった。

 むにゅ。むにゅ。

「ちょ、ちょ、あんたねっ!?」
「おお、おお。まだまだ張りがあってええですのう。ぐふふ」
「変態だー!」
「ささ、妖夢も。どうぞどうぞ」
「え!? わ、私は……遠慮しておきます」
「あら? 妖夢は揉まれるほうが好きかしら〜」
「その二択しかないんですかっ!?」
「温泉は――戦場なの」
「かっこよく言われましてもっ」
「あ、紫の、先っちょ固くなってきた」
「や、め、な、さ、いって、ばっ……はうっ」
「わわわ」

 幽々子さまが暴走し始めると、誰にも止められない。
 かくして温泉は見事に戦場となっていくのであった。

 ……

 結局3人でのぼせてしまって、疲れを癒すどころかもっとへとへとになったという結末については言うまでもない。



*********************************



 降り止んでからもなかなか融けなかった雪が、ようやく融け始めていた。
 庭の植木の枝からはすでにほぼ雪を落としている。もう半分以上は、白以外の色で彩られた庭が戻ってきた。
 木はいい。雪に耐えられる力を持っているから。
 この庭の世話を始めてから幾度の冬を過ごしてきており、積雪も経験しているが、だいたい平気だとわかっていた。

 花畑に向かう。
 こちらも、雪は前の晩でかなり融けたはずだ。
 昨日はまだ雪景色そのものでしかなく、状況確認などできなかった。今日こそは。
 冷たい風を肌に感じながら、早足で歩く。

「あっ」
 少し、草の色が見える。
 小走りになって、畑の中に向かう。
 背の高い草は、まだ雪を被ってはいても、その姿を確認できるようになっていた。
 一つの草の前でしゃがみこんで、じっと見てみる。
「……これは、ダメだ」
 しおれている。
 力を失って、ぐったりとしていた。
 日照不足のせいなのか、雪の重みにやられたのか、凍ってしまったせいなのか、原因は私にはわからない。
「他は?」
 ダメなものは仕方が無い。
 失われた命を悼むのはまだだ。
 すぐに立ち上がって、他の場所を確認する。
「……」
 隣に見えた草も、同じ様子だった。
 ざっと近くを見渡しても、状況は変わらないように見える。
「全滅……?」
 まだ、雪の中に埋もれているものも多い。
 判断するには早い。
 だがそれでも、あまり希望的観測は持てないように思えた。
 そもそも埋もれているということは、見えているもの以上にしおれているか折れているかだと考えられるからだ。
「厳しい現実か……」
 立ち尽くして、まだほとんどが白い世界を見渡す。
「……」
 しばらく眺める。
 吐く息も白い。この寒さでは仕方が無いだろうか。
 顔を上げる。
「いや、まだわからない。他の花も見ないと」

 この一帯は、積雪の直前くらいまで綺麗な花を見せてくれていた、ウィンターコスモスを育てていた場所だ。
 他にも複数の花を育てている。
 ウィンターコスモスが厳しくても他は大丈夫かもしれない。
 ワスレナグサもあまり強そうには見えなかったが、背はあまり高くないぶん折れにくいかもしれない。
「……むう」
 しかし、背が低いだけあって、ワスレナグサはまだ雪に埋もれていた。
 場所を正確に覚えているわけではないので、掘り返すのは大変だ。下手なことをすると傷つけてしまうかもしれない。
 こちらはもう少し雪融けまで待たないと無理か。
「仕方ない、今はこっちは後回しだ」

 踵を返して、またウィンターコスモスの畑に戻る。
 見えているあたりから、片っ端に、そっと雪を払い落としながら、様子を眺めていく。
 払い落とすといっても、固くなっている雪だ。そう簡単ではない。気をつけて作業をしなければ、私が命を奪ってしまうことになりかねない。

「これも……ダメか」

「これも」

「これも」

「これも――ん……いや」

 ぐったりとしていたように見えた一つの草が、雪を落とすと、ぐぐ、と体を少し起こした。
 単に若干の弾性が残っているだけかもしれない。生きている証拠なのかどうかはわからない。
 だが、他と違う反応を見せたということは、大きなことだ。
「生きている――かもしれない」
 かもしれない。生きていないかもしれない。
 いや。希望を持てただけで十分だ。
 ペースを早めて、ウィンターコスモスの雪をどんどん落としていく。
「可能性があるなら」
 やってみると、いくつかは同じように弾力のある反応を見せた。
 ひたすら、夢中になって雪を落とす。
 全ての雪落としが終わったとき、弱々しく立つウィンターコスモスの花の群れがそこに復活していた。
「……ふう」
 息を吐く。
 じっと眺める。
「……」

「生きているといいな」

 世話というほどの世話はしていないと言えど。
 庭の植木に比べてもまったく手がかかっていないという程度であっても。
 それでも、一つの季節を一緒に過ごしてきた花だ。
 生きているものならば、力になりたかった。
「……今できることは、このくらいか」


「ん?」
 周囲をもう一度見渡したとき、この一帯以外にまだ、白に染まっていない場所があることに気付いた。
 ウィンターコスモスの畑の雪落としに夢中になっていて気付いていなかったが、あのあたりは、確か。
 駆け足で向かう。
 まだ見ていなかった一帯。
「……! 葉っぱが出ている」
 雪の隙間から、固そうな葉が見える。
 こちらでも雪を払い落とす。
 さすがに手は冷え切っていて少し痛みを感じてきていたが、ちゃんとまだ動いてくれた。
「あ……!」
 雪の中から、しっかりと伸びた葉と茎が現れた。
 そして、葉の中に、僅かながら花弁が見えた。
 それはまだしっかりと閉じていて、開花には程遠そうに見えたが、それでも、明らかに、しっかりと生きていた。
「よかった。これなら大丈夫かもしれない」
 ほっとする。
 少なくとも、全滅という恐れはなさそうに思えた。
「でも、ここまで雪に埋もれていたのに、凄いな」
 この花は、雪の中でもしっかりと育っていたのだろうか。
 少し、驚いた。
「幽香の言っていた通りだ。強い花もあるんだ」
「雪中花」
「わっ」
 また。
 また、彼女は、いつも通りに、唐突に。
「幽香、来てたんですか」

 振り向くと、真後ろに、いた。
 ううむ。まったく気付かなかった。
 気配も足音もまったくしなかった。

「さっきね。雪が少し融け始めているから、こっちの様子はどうかなと思って」
 私は立ち上がって、幽香に向かい合う。
「……やはり、弱りきっているものが多かったみたいです。できれば、あとで幽香に見て欲しいです」
「常識で考えて――」
「え?」
「私は花を見に来たのであって、あなたに会いに来たわけじゃないの。話しかける前に、当然状況は確認してるわ」
「……ごもっともです。しかし、全然気付きませんでした」
「あなたももう少し気配を消した相手を察知する能力を身に付けないと、週代わりにやってくる暗殺者に立ち向かえないわよ」
 ……ええと。
「できればそのような状況に追い込まれない人生を送りたいです」
 というか、わざわざ気配を消して来なくても。
 そんなに私に気付かれたくなかったのだろうか。
「幽香はむしろもっと友達を作るべきでんでぁっ!?」

 蹴られた。
 無言で。

 サイドから左足で攻められたのはせめてもの手加減――というわけではなく、私が転がる位置が花のない位置になるように調整した結果なのだろう。
 などと、雪に半分顔を埋めながら、私は冷静に思うのだった。
 ……
 痛い。
 とりあえず立ち上がる。
 無言で。

「あら雪まみれで楽しそう。子供は雪遊びが好きね」
「割と好きかもしれません」
 教訓。
 触れられたくなさそうなところに触れてはいけない。

「……それで、花の様子はどうなんでしょう」
「だいたいあなたの見立てどおりね。可哀想だけど、ウィンターコスモスは半分以上死んでるわ」
「そうですか……では、残りは」
「天気次第ね」
「まだ元気になる可能性はあると」
「十分に」
「よかった」
 嬉しい。
 生き延びれるものなら、生き延びて欲しい。
「あなたが頑張ってくれたからね」
 ……ああ。
 この人は本当に、時々すごくいい顔を見せる。
 いつもこうなら友達だってもっと……
 ……いや、いや、また余計なことを言ってしまいそうだ。
 自重。
「ワスレナグサは私にもまだわからない。けれど、全滅ということはないでしょう。シャクヤクはもとから休眠中だから関係なし」
 幽香の口からは、明るい情報が次々と飛びててくる。
 よかった。
 幽香が言うのなら、間違いない。何よりも安心できる。
「――そして、それ」
 私の足元に咲く花に、幽香の視線が向く。
「見てください。これはなかなか元気そうです」
「雪の中からでも春の訪れを告げる花。その花は別名雪中花とも呼ばれているわ」
 幽香は、ふわりと、花のように微笑んだ。
「スイセンはこの季節に一番輝くの」

「言ったでしょう。決して絶望的な状況ではないと」
「そう、ですね。……いや、私だったらこんな雪の中に埋もれていたら生き残る自信はありません」
「さすがにそれは私も」
 幽香は呆れ顔で言った。
 ……
 そんな変なことを言ってしまっただろうか。
「ただ、やっぱり雪に埋もれすぎだったみたいね」
「え?」
「日当たりが足りてないみたい。もう咲いていけないといけない時期だから、まだつぼみのままなのは辛いわね」
「咲かないんですか?」
「そうね。多分、だけど」
「……」
 足元のスイセンを見つめる。
 せっかく生き延びたというのに、何も出来ないまま終わることになるのか、この花は。

 それは、悲しいことだ。

「どうすれば咲きますか?」
 幽香は、少しの間、私を観察するようにじっと顔を眺めてきて。
 そして、優しい笑みを浮かべた。
「なるほど」
 ゆっくりと、噛み締めるように、幽香は言う。
「やっぱりあなたは、そうなのね」
「え?」
「手段は当然あるんだと、最初から信じてるみたい。主人に似たのか、最初からそうなのか」

 ぽん。
 幽香は私の頭の上に手を置いた。
 くしゃ、と髪を軽くかき混ぜられる。
 ……くすぐったい。

「花を咲かせたい?」
「はい」
「雪が降るのも自然の摂理。今年咲かなかったのならそれも自然の必然。それに歯向かうほどの理由はあるかしら」
「やれることがあるのなら、やるべきです」
「……」
 ふふ。
 幽香は、楽しそうに言う。
「単純明快ね。猪突猛進というほうが正しいかしら。答えになってないんだけど、そう、魅力的ね」
 さわさわ。
 幽香の手は、髪だけを撫でるように動く。
「いいわ。私も気分がいいし、力になりましょう」
「本当ですか!」
「やるのは、あなただけどね」
「はい」
 幽香は私の頭から手を離した。
 つい、と首を上げて、空を眺める。
 私もつられて空を見上げる。

「足りないのは日照時間。簡単に言えば、それを補ってあげればいいのよ」
「昼の時間を長くしてしまえばいいということですか。太陽の動きを止めて」
「さすがにそれができると思うのはポジティブすぎるけど」
 また呆れられてしまった。
 ……いや、私だってできると思ってはいない。
 そんなことだってできそうな人に心当たりはあるが。
「でも、前半はだいたい正解ね。何も太陽の光でなくてもいいから」
 幽香は、すっと、まっすぐ空に手を伸ばす。
 掌をいっぱいに開く。
「わ」
 幽香の掌の上に、光が集まっていく。
 瞬時にして、そこに強力なランプがあるかのように、眩しい光の塊が現れていた。
「こういうのは得意かしら?」
「……あまり」
 目を細めて、少し背ける。
 とてもまっすぐに見ていられない眩しさだった。
 いったい何がどうなっているのか私にはわからない。
 なるほど確かに小さな太陽みたいだ、と思う。
「ちょっとしたきっかけで魔法の勉強をしてみたことがあったんだけど、結構便利なのよ」
「……松明の光で代用できますか?」
「やめたほうがいいわね。光には当てないといけないけど、暖かくしてはいけないわ。春が来たと勘違いしてしまうから」
「うぐ」

 つまり、冷たい光が必要なのか。
 すぐに思い当たることは、あるわけだが。

「……これくらいで、なんとか」
 念を込めて、半霊のほうを光らせる。
 青白くぼんやりと光って――いる、はず、だった。
 昼間で、しかも幽香の灯りが近くにあるということもあって、自分でも光っているかどうかよくわからない程度に。
「……」
 幽香の顔が、ダメさ加減を語っていた。
 ……まあ、夜だと半霊自体を目印とするには使えるという程度のもので、夜でも光源としてはほとんど役に立たない。
 無念なり。
「でも、数がまとまればなんとかなるかもね」
「数?」
「幽霊がいっぱいいれば」
 ……

 想像する。
 幽霊を集めて、束ねて、みんなに光ってもらう。
 いや束ねただけではまだ弱い。もっとぎゅっと濃縮して光を集めて……こう、幽霊たちでびっしりと詰まった巨大な球を……

 ……
 怖っ

「それは少し無理がありそうです」
「でしょうねえ」
 幽香は、光を消して、手を降ろす。
 途端に周囲が暗くなったように感じた。
「ねえ、幽霊は物を透過することもできるんでしょう?」
「はい、だいたいは」
「それ、内部なら結構明るそうだし、花を1つ1つ包んでいけば効果はあるんじゃないかしら。それでもたくさんいないとやってられないけど」
「なるほど! それならできそうに思います」
 見た目にかなり怖い光景であることに変わりはないが。
 幽霊たちに協力してもらうのは、幽々子さまにお願いしないといけない。私の言うことは聞いてくれないものだ。
「日が沈んでから、そうね、毎日2時間くらいは光を当ててあげればいいんじゃないかしら」
「2時間」
「できる?」
「できます」
「いい返事ね。好きよ、そういうの」
 夜となると、もともと仕事は特に無い。
 早朝と同じく、自己鍛錬の時間だ。
 幽香は私の手を取って、軽く握った。
 冷え切った手に、じわりと暖かさが伝わってくる。
「頑張って。応援してるわ」
「はい。……幽香。ありがとうございます」
「言ったでしょう。頑張るのはあなたよ。それじゃね」

 幽香は握っていた手を離して。
 素早く顔を近づけてきて、私の頬に軽く口付けをした。

「……!」
 ……またしても。
 不意打ちで。

「……だから、子供みたいな扱いはやめてくださいと」
 なんとか、口を開いて、
 出てきた言葉は、いかにも適当に今思いついただけの言葉だった。
 幽香はくす、と小さく笑っただけで私の抗議には答えず。
 すぐにふわりと浮いて、軽く右手を振って、飛び去っていってしまった。

「……」
 頬に手を伸ばす。
 微かな熱が残っている――だけ、のはずなのに、何故だかそこはとても熱くなっていた。
 ……ぶんぶん。首を横に振る。

「……頑張らないと」



*********************************



 結局、幽霊の数は足りなかった。
 花の数が多すぎた。
 とりあえず、花の数の半分は超えているのだが。
「ということは、2時間を2回か……」
 ……
 頷く。
「やるだけだ」



「つ……か……れ」
 幽霊たちは素直に従ってくれた。
 それは非常にありがたかった。
 よくよく見てみると、集まってくれた幽霊というのは、いつぞのプールの、つまり好き勝手やってくれた顔ぶれだった。
 従ってくれるのは、負い目もあるのだろう。
 おかげで私も遠慮なく従わせることができた。
 こういう状況になるのだったら、あの酷い目にあったプールもいい思い出に――うん、それとこれとは別だ。うん。
 だが、体を光らせるというのはなかなかに疲れるもので、幽霊たちがどうしても途中でへばってしまう。
 そうなると少し私が力を貸してやって補助することになる。あちこちで。
 それでも途中で何度か休憩してからのやっとノルマ達成となった。

「できたのか、できていないのかよくわからない……」
 花の様子を見ても、始める前と比べて何か変わったというようには見えなかった。
「……まあ、当然か」
 昼の間ずっとちゃんと日光を浴びていて、そこに2時間ほど弱い光を追加しただけだ。そんなすぐに目に見える効果が現れるものでもないだろう。
 少し寂しい気もするが、仕方が無い。
 何事も実を結ぶまでは時間がかかるものだ。
「よし、また明日」



「始めよう」

 ……

 ……

 ……

「……ふう」
 昨日よりも、今日のほうが疲れた。
 睡眠時間が削られたぶん、昨日の精神疲労が残っていたのかもしれない。
「これはこれで修行になるな……」
 瞬発力は普段から鍛えているが、この手の継続的に削られるような感覚は不慣れだった。
 戦いは短期決戦が至上という立場を取っている以上ある程度は仕方ないとのだろうが、それにしてももう少し修行したほうがいいかなと思う。
 幽霊たちに礼を言って解散させる。
 彼らも昨日より明らかに疲れていた。
 ということは、明日はさらに私が補助しないといけないかもしれない。
 ……少し、眩暈がした。
「ちゃんと元気に花開いてくれよ……」
 花の様子は、昨日とそれほど変わったようには見えなかった。
 ……いや、少しだけつぼみが開いているような気はする。
 希望的観測でなければ。
「よし、また明日」



「……」

 ……

 ……はっ。

 寝ていた。
 ……かなり、疲れが溜まっているのが実感できる。
「しっかりしないと」
「お疲れねえ。倒れないようにね」
「わっ!?」
 背後からの声に、悲鳴をあげる。
 ……
 毎度のパターンなのに、成長していない私だ。
「幽香……いつの間に来てたんですか」
「心配しないで。あなたの寝顔はばっちり確認させてもらったから」
「ううう」
 見られていた。
 なんか、もう。ちょっと油断した隙にやってくるんだ。この人は。
 どうせなら。もっとかっこいいところを見てくれればいいのに。
「見なかったことに……」
「嫌。可愛かったもん」
「うーーっ」
 可愛いなんて言われたって。
 そんなこと言われたって。
 ……そんな。
「……と、ともあれ、来ていただいたのは嬉しいです。様子を確認していただきたくて」
「ええ確認したわ。よく頑張ってるわね。花の喜びの声が聞こえてくるわ」
「では、この調子で問題ないと」
「さあ。自然は思い通りにいくものじゃないから、保証できるものじゃないけど」
「……ですか」
 安心させてくれたかと思いきや、すぐさま否定される。
 幽香と話をするのも、なかなか難しい。
「幽香はいつも慎重ですね」
「普通のことを言っているだけのつもり、なんだけど」
「もっと自信家で、何でも自分の思い通りにしてしまう人だと思っていました」
「ああ」
 ふと。
 ……ふと。
 幽香が、寂しそうな表情を見せた、ような、気がした。
「実際の私は、弱気に見える?」
「い、いえ、そこまでは」
「当たっているかもよ、結構」
 うっすらと微笑みながら、幽香は。
 私の目を見つめて言った。
「あなたのほうが、ひょっとしたら強い心を持っているかもしれないわね」
「そんなことはないと思います。私は未熟者ですから」
「まあ、どっちでもいいわ。こんな話よりも花のほうが大事だから」

 この会話は花よりも価値がないらしい。
 ……ちょっと悲しい。

「他の生き残った花も、ちゃんと育っているじゃない。よく世話ができてるわね。偉いわ」
「ありがとうございます。私も嬉しいです。死んでしまった花も多いのは残念ですが……」
「そういうものよ。まあ、幽霊になってまたここに戻ってくる花もあるでしょう」
「そうですね」
「スイセンも、きっと大丈夫よ。あと一歩だから」
 ぽん。
 幽香は、私の頭の上に手を置いて。
 くしゃくしゃ、と、ちょっと強く撫でた。
 ……
 また、そうやって、子供扱いを。
 そりゃあ、これだけの身長差があるけれど。
「でも、無理しすぎて倒れないようにね。あなたの体のことはどうでもいいけど花が可哀想だから」
「……気をつけます」
 あえてツッコまない。
 ……間違いなく普通に本心そのものだろうから。
 でもそんな素敵な顔で言わなくても。

「大丈夫よ。あなたなら咲かせられるでしょう。愛があればね」
「また愛ですか。いまいちよくわかりません」
「理解しようとしてできるものじゃないからねえ。そんな難しく考えなくても、あなたはもう近いところまで来ているように見えるわ」
「そうですか」
 あまり、この話は楽しくはなかった。
 意味がよくわからないから。
「春になる前に、何か掴めるといいわね」
「? はい」
 春になると何かあるのだろうか。
 少し疑問に思ったが、追求はしないでおく。
 愛の話はどうにも苦手だ。

「それじゃ、頑張って。ちゃんと咲かせてあげてね」
「もちろんです」
「うんうん、いい返事。お姉さん嬉しいわ」

 本当に嬉しそうな声で言うと、幽香は飛び去っていった。
 今日は、大人しく。

「……」



 その日から、つぼみは少しずつ開いていった。
 疲れは溜まる一方だったが、こうなると俄然やる気も出てくるもので、連夜の4時間耐久ほたる祭りも挫折せずに続けることができた。
 幸い、好天にも恵まれた。
 また雪が降ってきたら全てが水の泡になるところだった、かもしれない。

 3日目。一部のスイセンが開き始めた。

 4日目。ほとんどのスイセンが開き始めた。

 5日目。半開きになってきた。

 6日目。しっかりと開いてきている。

 7日目――



「やった……」
「やった」
 繰り返し呟いて、実感を得る。

 一面ずらりと並ぶ、白く黄色く咲いたスイセンの花。
 雪がしぶとくまだ残る中、それをものともせずに、堂々と咲き誇る。
 報われた。
 しっかりと生き延びたこの花の命が。
 こうして眺めてみると、冷たい雪にまだ周囲を囲まれながらその生涯でもっとも美しい姿を見せるスイセンは、ちょっとした奇跡のように思えた。

「綺麗」
 ただただ、立ち尽くした。
 やり遂げた花たちを遠くから眺めた。
「……うん。凄い」
 不思議な感覚だった。
 例えば春、満開になった桜。
 秋に見た、無数のコスモス。
 どちらと比べても、特に間隔が開いているスイセンの群れは、華やかさではまるで敵わない。
 桜のように、哲学的な格好よさを感じるでもない。
 それなのに、えもいわれぬ感動があった。

「……そうか。そういうことなんだ」
 今になってやっと、幽香が花のことを「この子」と呼ぶ気持ちがわかった。
 なるほど、手をかけて育てた花だからこそ、咲いたときの感動も大きい。

 しばらく眺めた後、一輪の花の前にしゃがみこむ。
 茎を撫でで、葉を軽くはじく。
 元気に反発してくる。
 花びらをつつく。
 やわらかな感触が指にかえってくる。
 ゆっくりと息を吸い込む。
 穏やかな香りが胸を満たす。
 ほんの少しの後押しをした程度に過ぎないかもしれないが、それでもこの花は、私が育んだ命だ。
「私と同じ」
 死に満ちたこの世界で生きるということ。
 心を強く持たないと、死に引っ張られてしまう。
 私はこの花たちに自分を重ね合わせていたのかもしれない。
 この世界でも、小さな命でも存分に生きることができるということを証明したかったのかもしれない。
「……うん。でも、理由は何でもいい」
 確かなことは、ひとつ。
 この花が愛しいということだ。

「……」

 それにしても。
 いつもなら、こういうちょうどいいタイミングで現れそうなものなのに。
 早く報告したいのに。
 早くこの喜びを伝えたいのに。
 きっとこのスイセンを見て、喜んでまた長い長い話をしてくれることだろう。

 ……
 今なら、聞いてあげられる気分なのに。

 幽香はいつも朝にやってくる。理由は聞いたことはない。
 今日は少しだけいつもより寝坊してしまった。
 もしかしたら、私が来るより先にこの光景を見て満足して帰ってしまったのかもしれない。
 私を待つ理由などないだろうから。
「……もうちょっとだけ」
 もし、本当にそうなのだとしたら、さすがに一言くらいは後で文句を言わせてもらおう。
 笑われるか蹴られるかどちらかだろうが――

 ……きゅむ。

 背後で、雪を踏む音が聞こえた。
 私は、ほとんど反射的に振り返って、叫ぶ。
「幽香! やりました、ほら、みんなちゃんと咲きました! すごく綺麗で――」
「おめでとう〜」
「ひょわ!?」
 確かに、そこに、いた。
 幽々子さまが。
 ……
 あ。ダメだ。
 赤くなる。顔が。
 なんなの。恥ずかしい。
「す、し、失礼しました、幽々子さまっ」
「うむ、苦しゅうない」
 しどろもどろになる私に対して、幽々子さまはいつも通りほよほよと手を振る。……何を思っているのかわからないぶん、ますますいたたまれなくなる。
「珍しいですね、幽々子さまがこちらにお出でとは」
「今までと違う体験をさせることが目的なのに、私がいると邪魔になっちゃうからねえ。控えてたのよ」
 なるほど。
 やはり、幽々子さまは私のことをしっかりと考えてくれている。
 ……そんなことも言われないとわからないなんて、私はやはり未熟だ。
「聞いたわよ。初めて最初から自分で育てた花が咲いたんだってね。幽霊たちが飛んで教えに来てくれたわ」
「はい! ご覧の通り、スイセンが」
「素敵ね。雪の画用紙に絵を描いたみたい。それに、いい香り」
「はい。……嬉しいです。とても」
「よくやったわね。おめでとう」
「ありがとうございます!」
「どう? 乙女心、掴んだ?」

 そういえばそんな話が。
 すっかり忘れていた。

「……乙女心というのはよくわかりませんが」
 少しだけ考えてから。
 素直な今の気持ちを、伝える。
「ふわふわするという感じじゃなくて……穏やかで、幸せな気持ちです」
「うんうん」
「私の力が結局どれくらい役に立ったのかはわかりませんが、充実感があります。やり遂げたと思います」
「妖夢が咲かせた花よ。胸を張っていいわ」
 うん、と、幽々子さまは大きく頷いた。
「それに、もう魔法の花もすっかり平気みたい」
「あ、そういえば」
 ウィンターコスモスに混じってまだその花が残っていることは覚えていたが、このところはもうそれが特殊なものであるということを意識することはなかった。
「何もかもが順調。やるわね、妖夢。予想以上だわ」
 なでなで。
「……ありがとうございます」
 こんなに褒めて頂けるとは。
 幸せに幸せが重なって、舞い上がってしまいそうだった。
「おかげで、ちょうどいい時期に話ができて助かるわ」
「話、と言いますと?」

 幽々子さまは、こく、と静かに頷く。
 そして、くるっと私に背中を向けた。

 少し間を取ってから、両手をいっぱいに広げる。
「さあ」

「次は、もっと大きな花を咲かせましょう」
 その視線の先に私が見たものは、一本の大木だった。





 Next "4.春は愛、また会いに行きます"