たまに、一人でいることが、とても寂しくなって、切なくなって、辛いときがある。
 魔法使いとして研究に専念する便利さを考えても、普段の付き合いからの煩わしさとは無縁で効率よく自分の時間を使えることを考えても、一人でいることは好きだった。誰の妨害も入らず、予定通り計画通りに一日を過ごすことができるのはとても快適だった。それは今でも変わらない。
 それでも。長時間誰とも会わないでいると、時折胸が張り裂けそうなほど重い孤独感に苛まれることがある。不意に涙が流れ出したかと思うと、そんな自分が情けなくなって連鎖的にどんどん落ち込んでいってしまうことがある。
 同じ魔法使いでありながら、一人の時間と騒ぐ時間を自由自在に使い分ける魔理沙が羨ましかった。騒ぎたい気分のときは遊びに行けばいい。単純な事実。でも私にはその単純な事実を実行することができない。
 魔理沙の家になんとなく様子を見に行くこともある。だけど、ドアを叩くことができない。魔法使いが特に用事もなく魔法使いの家を訪れるなんて、と思ってしまう。ならば、と用事を作ってしまうこともある。ちょっと魔法の材料が足りなくなったからわけてくれと言えばいい。思い切ってドアを叩いても、魔理沙は留守にしていることもある。買い物にでも行っているのか、誰かのところに遊びに行っているのか。もしかしたら私のところに来ているのかもしれないなんてあり得ない期待を持って、急いで帰ることもある。そこに魔理沙の姿を見ることは、ない。
 会いに行ったのに会えないと、どうしようもなく苦しくなる。ただ寂しいだけではなくて、どうしてせっかく私が行ったのに留守にしているのかと、魔理沙に不満を感じてしまう。どこかに遊びに行ったのかと思うと、遊びに行った先を色々と勝手に想像して、想像の中の相手を呪ってしまう。近くに私がいるのに、どうしてわざわざ遠くまで行くのか。理由はわかっている。せっかくたまに来てくれても、私が邪険に扱ってしまうから。きっともう嫌になって私のところには来てくれない。
 会いたい。魔理沙に会いたい。会って声が聞きたい。あの声で名前を呼んで欲しい。
 結局一人じゃ何もできないのかよ、なんて言われたこともあった。それでもいい。もう、何といわれてもいいからここにいてほしい。
 ――そんな気分のときも、ある。

 雪が降り始めた。
 ノックをして、反応を待った。反応が無いから、またノックをした。聞こえるわけないと思いながらも、魔理沙、と小さく呟くように呼んだ。
 今日も魔理沙はいない。せっかく、新しい薬品を作るのに薬草の一部が足りないという口実を作ってきたのに。肩を落とす。
「どうして私が来るといつもいないのよ、もう……」
 出てきたら最初になんて言おうか。どんな表情で挨拶をしようか。色々考えてドキドキしながらノックをしたのに、何も出てこない。一言、いつもより可愛いだなんて言って欲しくて、多少は動きやすさを犠牲にしたちょっとだけいつもより装飾の多い服でやってきたのに、何も出てこない。
「ふんだ。魔理沙のばーか」
 こん、と玄関のドアを蹴る。
 はしたないかな、と思うが、魔理沙の普段の行動に比べれば可愛らしいものだ。これくらいはいいだろう。
「魔理沙なんて……魔理沙なんて」
 なんて。
 そこから先の言葉を考えていたわけでもなく、何も続かない。
 くい、くい、と服の端を引っ張る弱い感触。
 人形が、私の顔を心配そうに見つめていた。
 私はそんな辛そうな顔をしていたのだろうか。本当に、情けない。それこそ、こんな姿なんて魔理沙には見せられない。私は、なんとか人形に微笑を返す。無理やりになってしまったかもしれない。
 人形は、笑顔を浮かべて、ぽんぽんと私の腕を叩く。かと思うと、私の小物入れの中にさっと潜り込んで姿を消してしまった。
「?」
 何をしてるんだろう、と思って、がさがさと動く革製の小物入れを眺めていると、人形はまたひょこんと顔を出した。
 頭の上に、ミニチュアの黒い魔法使いの帽子を被って。
 その状態で、胸を張ってなにやらえらそうな態度をとってみせる。
 ――いったい、誰の物まねだというのか。
「あ……はは。何よあんた、いつの間に私のポーチにそんなの入れてたのよ」
 問い詰めると、人形はただ得意げに小さな手でVサインを作ってみせた。
 この人形には、何度も魔理沙の格好をしてもらっている。なんて寂しいことをしてるんだろうと自分でも思うが、人形自身は喜んでいるからまあいいか、なんて、自分に言い聞かせてきた。
 まさか、こんなこともあろうかと、と、私が落ち込んだら慰めようと人形なりに考えて入れておいたのだろうか。まさか。まさか。
 ぴん、と人形の頭を人差し指で弾く。ぽん、とのけぞって後方に跳ね飛ばされる人形。
 すぐに顔を起こすと、何するのーと私を睨みつけた。
 私は、笑った。
「あなたは今魔理沙なんでしょ。ちゃんと私の怒りを受け止めてくれなきゃね?」
 私が人形の顔を見つめて言うと、人形ははっと真面目な顔になって、神妙にこくんと頷いた。
 その仕草がまた面白くて、楽しくなる。
 ぴん。また弾く。ぽん。飛んでいく。
「えい、えいっ」
 ぴん、ぴん。
「魔理沙なんてこうしてやるー」
 ぺちぺち。
 指で頬を軽くビンタしてみると、人形はオーバーリアクション気味にあうあうと痛がって見せたり、私を上目遣いで軽く睨んだりするのだった。ああ、さすが私の人形。なんて器用。
「うふふ。こうされるのが嫌だったらもっと私を大切にしなさい。えいえいっ」
 ぺちん。
 はうう。飛んでいく人形。
「魔理沙が私の思い通り。本物もこうだったらいいのに。つんつん」
 あうあう。
「あなたの運命は私の指先一つで決まるのよ――なんてね」
「いや、さすがに私も引くぜそれは」
「やーね、そんなこと言わないで……よ……」

 何やら。
 すぐ近くから。
 あれ?
 声が。
 遅れないで聞こえてくるよ?





「……で、わざわざそんな一人芝居を披露しに来たのか?」
「あ、あ、あ」
 振り向くと、そこは。
 雪国だった。
 なんてほど積もっているわけでもなく、ちょっと降っているくらい。ちょっとした粉雪。雪国の雪はもっともっと重い。そもそもこのあたりの人間は雪を甘く見すぎて――いや、現実逃避している場合ではない。問題は雪などではない。
 黒い魔女が、この館の主人が、私に狙いを付けているのだ。
 なんてかっこいい表現を使ってはみたが、要するに私があんなことやこんなことをしているそのすぐ後ろに魔理沙がいた。魔理沙が見ていた。まりみて。
 ああ。あんなに会いたかった魔理沙がいるというのに。
 こんなに近くにいるのに何故か遠く感じる不思議な雰囲気のマジック。
「ち、違うのちょっとたまたま通りがかっただけなのっ」
「……」
 私の言葉に、魔理沙は口を開いて、しかしそこから何か言葉が漏れ出てくることなく、口を閉じてしまった。
 右手を軽く額に当てて、悩ましい顔を見せる。
 ため息。
「すまん。ツッコミどころが多すぎてどう言えばいいか思い浮かばなかった」
「あーえーとねこれはね」
 パニックになっている私から視線をすっと外して。
 魔理沙は、私の後ろでおずおずと帽子を脱いでいた人形にびしっと指を突きつける。
「人形にいつもそんなことさせてるのか?」
「これはね!? べ、別に魔理沙がどうってわけじゃなくて、ただこういう帽子被せても可愛いからちょっとファッションでやってるだけなのよもう勝手に自意識過剰にならないでほしいわまったくっ」
「魔理沙って呼んでたよな?」
「あーええそうよ魔理沙ごっごよ何が悪いのよせっかく来たのに魔理沙がいないから暇だったんだから仕方ないじゃないえーそりゃこんな一人遊びなんて寂しいでしょうそうでしょうでもこの子だって一生懸命頑張ってくれてそれなのに魔理沙はこの子の全力まで否定するのねなんて可哀想ううん本当は私が悪いのよきっとこの子も本当は面倒なことばかり言う私に呆れてたりするのよごめんねごめんねいつもだけどこれからも」
「落ち着け」
 ぽん。
「はうっ」
 もうどうしようもなくて、開き直るしかなくて、魔理沙に嫌なことを言われる前に適当に喋りまくってしまおうとしていたら、魔理沙に頭を叩かれた。
 ぱん、ぱんっ。
 何度も叩かれる。
 痛……くはない。なんだか、叩かれてるような、撫でられているような、どっちとも言えるような叩き方。
「……?」
 恐る恐る魔理沙の目を見る。
 魔理沙は呆れ顔だった。
「雪積もってたからな。頭に。どれだけ待ってたんだ。この寒いのに」
「う……」
 どれだけ待っていたのか。
 実際のところ人形との遊びに夢中になっていて、よく覚えていない。
 魔理沙が払い落としてくれた雪の塊を見る。いつの間にこんなことになっていたのか。
 答えられなくて黙っていると、魔理沙は、やれやれというように手を軽く広げてみせた。
「なんか用があって来たんだろ? とりあえず、入ってくれ。私も寒い」
 言うと、私に背を向けて、玄関のドアを開ける。
 魔理沙はすっと家の中に入って、くる、とまた私のほうを向く。
「ほら」
 私が躊躇していると、魔理沙は手を伸ばしてきた。
 怒っている顔というわけでもなく、なんとも読めない無表情で。
 今行けばさっきのことについてまだまだ問い詰められるのではないかと迷っている私の代わりに、人形が先に魔理沙の側まで飛んでいってしまう。魔理沙の側にぴったりとついて、魔理沙と一緒に私をじっと見つめる。
 魔理沙は、人形のほうをちら、と見て、目を合わせて、にかっと笑う。
「こいつだけ置いて帰る気か? もしかしてこの人形をプレゼントしに来てくれたのか。嬉しいぜ」
「……お邪魔するわ」
 私がしぶしぶというように言うと、人形は小さくガッツポーズなんて作ってたりしたのが見えた。
 ああ。本当にこの子は、もう。





 どうして、こんなことになっているのだろうか。
 魔理沙のパジャマの中でも大きいものを探してもらって、きついのを我慢しながらなんとか着て、風呂上りの火照った体を、冷えない程度にゆっくりと落ち着かせていく。このパジャマというのが、これが本当に魔理沙の趣味なのかと疑ってしまうほどにお嬢様お嬢様していてドレスのようで、魔理沙がこれを着て寝ているのかと想像するとなんだかどこかがこう沸騰しそうになったりした。
 一番困ったのは下着で、魔理沙は、返さなくていいから適当なの使え、といくつか渡してくれたが、そんな躊躇いなくありがたく貰えるものではなくて。というか、サイズもまったくあわない。……仕方ないから、現在、パジャマの下はそのまま素肌だったりしている。上はいつものことだが、下も。
 すーすーと風通しのよさに違和感。いかんせん、このパジャマというのが、スカートになっているのだ。よりにもよって。
 ……もぞもぞ。
 ちら、と暖炉の前に干されている私の服と下着を見る。どうせ洗濯されたときにすでに見られているとはいえ、こうして魔理沙の家の中で干してあるのを見ると、とても恥ずかしい。早く乾いてほしい。
 用事が終わったらすぐ帰るから、と私は言ったのだが、魔理沙はちょっと強引なくらいに、ちゃんと服を乾かして温かくしてからにしろと私を引き止めたのだった。用事が何なのかさえ聞きもせずに。用事のことにも、さっきの人形遊びのことにも、魔理沙は何も触れないまま、とにかく着替えて風呂に入れと言った。
 ……たぶん、私がずっと雪の中待っていたということで、気を使ってくれたのだろう。嬉しかった。恥ずかしいけど、嬉しい。
 魔理沙は今入れ替わりでお風呂に入っている。私は、居間で待っている。

 以前にも一度、こんなことがあった。月の異変を一緒に解決しに行った日。一人では荷が重いと判断した私は、思い切って魔理沙を誘っていた。魔理沙の実力を目の前でしっかり確認できるいい機会だと思っていたのも事実だった。だけど、終わってみれば、それ以上に、一緒に行動して一緒に戦うということがとても楽しかった。結局異変は私たちの力では解決できなくて、それでも次の夜には唐突に直っていた。おそらく、どこかの巫女が重い腰を上げたのだろうと思っている。私にはもうどうでもいいことだった。解決できなくて疲れて帰った夜、私はこうして魔理沙の家に来て、そのまま泊まっていった。一緒に戦うという、今思えば夢のような貴重な体験をしたその帰りだ。疲れてはいたけれど、私たちの間に特別な結びつきができたみたいであの時は興奮していた。結局、その後も魔理沙は相変わらず、おそらくは巫女のところに遊びに行くことが多くて、私の存在感なんて以前と対して変わってないみたいだったけれど。
 わかっている。魔理沙にとってみれば、あの日のことはあくまであの日たった一日のことで、私よりもずっと昔から付き合いの深い巫女のほうが当然重要な存在だろう。こうして上がらせてもらったり、お風呂に入ったりできるのはとても嬉しいけれど、あの時とは違って、自分が魔理沙の中で特別なんだと思ったりはしない。もう、思えない。
 結局のところ、私のこの性格が、魔理沙から私を遠ざけている原因なのだろう。友達の一人、では満足できないから。私だけを、もっと特別なものとして見てほしいから。魔理沙のほかの友達に対して、巫女に対して、魔理沙自身に対して、こんな嫌な気持ちを抱いてしまうことになるのなら、あの夜なんてなかったほうがよかったのかもしれない――とは、考えたくはないから、たぶん、私に求められているのは、あの日のことを素敵な思い出として、過去のこととして整理してしまうことなのだろう。
 でも、それができなくて私はまだ夢見ている。私はここにいる。

 ぼんやりと暖炉を眺めながら色んなことをぐるぐると考えていると、いつの間にやらすぐ目の前から人形が私をじっと見つめていた。
 じー。と。
 私は柔らかく微笑んでみせる。いけない。また心配をかけてしまった。
「大丈夫よ。ちゃんとここにいられるのは、嬉しいから。あなたのおかげでね」
 むー?
 私の言葉に、真意を探るようにぐいっと顔を近づけて目を覗き込んでくる。
 そこまで心理を読めるほどのスキルは、さすがにこの人形にはないはずなのだが、それでもこうして見られると何もかも見透かされているようで、ドキッとしてしまう。
 でも、大丈夫。確かに今こうして魔理沙の家にいること自体は、嬉しいのだ。私が求めているものが、もっとずっと贅沢なものだというだけで。嘘はついてはいない。
 この子にはいつも助けられている。ちょっと塞ぎこんだらずっと側にいてくれるし、何かと持ってきては新しい芸を披露して私を楽しませようとしてくれる。私に似て器用なもので、気がつけばいつの間にやらこの人形は一芸で生きていけるのではないかというくらい芸達者になっていた。
 感謝の気持ちを込めて、指先でそっと頭を撫でてあげる。
 人形は少し頭を引っ込めてくすぐったそうに小さく頭を振る。すぐに、嬉しそうににこにこと笑顔を見せてくれた。
 ふと思う。この子にとって私は何なのだろうか。
 私の望みに全て答えようとするかのように一生懸命になってくれるこの人形は、私が魔理沙に対して抱いている複雑な気持ちも、よく知っている。私が魔理沙ともっと近づけるように応援してくれている。
 ――それで、いいのだろうか。この子は。
「どうして、私を応援してくれるの?」
 撫でる指の動きを止める。
 人形は、きょとんと私の顔をまた見つめる。
「ねえ、もし、私が今より魔理沙と仲良くなったりしたら、あなたと遊ぶ時間は減ってしまうかもしれないのよ?」
 もし。もし私がこの子の立場なら。
 例えば魔理沙が、もっとあの巫女、博麗霊夢に近づきたいと願っていると知っていたならば、それを応援してあげることはできるだろうか?
 ありえない。即答できる。そんなことより、もっとあなたのことを見ている人が近くにいるじゃない――なんて、言えるものなら言っているだろう。
 どうして私を応援してくれるのか。どうして、自分のことだけ見てくれていればいいと私を引き止めたりしないのだろうか。この子こそ、本当に、私がいなければ一人になってしまうのに。……そう思うと、不安になる。私は、この子に対してとても残酷なことをしているのではないか。私がいないと生きていけないような生命として創られているのに、私自身は違う方を向いているのだ。そんな寂しい思いをするために生まれてきたくはないだろう。誰も。この子は、この子の意思に関わらず、私の身勝手に振り回されている。本当は、もっと私に怒ってもいいはずなのだ。私がこの子のことだけを見つめ続けるよう責任を問うだけの権利をこの子は持っているはずなのだ。それこそ、私が魔理沙に対して持っている勝手な感情とは違って、正当なものだ。
 ……だけど。
 人形は、私の言葉に、ふるふると頭を横に振って答えた。
 否定。
 ――何に対して?
 戸惑っていると、人形は机の上の私の小物入れにさっと潜り込んで、また何かをまさぐり始めた。
 しばらくして、小物入れの中から、くしゃくしゃになった紙切れを取り出してくる。あと、限界まで短く削った鉛筆。
 机の上に紙切れを広げて、人形は両手で鉛筆を抱えて、紙に何かを書き始めた。
 絵。たまにこの人形は、意思を伝えるために絵を描くという手段を取る。そのうち、文字を書くことを教えてもいいかもしれない。この子なら意外に簡単に覚えてくれそうな気がする。
 絵が出来上がった。見る。3つの顔が描かれていた。
 ちゃんとそれぞれに特徴をわかりやすく抽出していて、どれが誰だかはすぐにわかった。カチューシャに帽子にリボン。明快。
 左に私、右に魔理沙、その中間くらい、下のほうにこの子自身。
 そして私と魔理沙が一本の線で結ばれていて、その線の真ん中からT字になってこの人形自身の絵に繋がっていて……
 ……って。
 これって……
「おお、お前が描いたのか、これ? さすがアリスの人形だけあって、器用だなあ」
「きゃあああああっ!?」
 ああ。あああ。
 いつもいつもいつもいつもいつも。なんでこの人間はタイミングを狙ったように唐突に後ろから現れるのか。
 慌てて紙を取り上げて隠そうとするのだが、人形は私の手をさっと避けて、あろうことか、胸を張って魔理沙にそれを見せ付けるのだった。
 魔理沙も、顔を寄せてそれを注視する。
 魔理沙の顔がぐっと近くなる。どきっとする。
「おお、これはアリスに私だな。下のは――」
 そこで。
 言葉が止まった。
 すぐ隣で紙を見つめている魔理沙の顔が赤くなっているのは、きっと、風呂上りだからだけではないだろう。ああ。さすがの魔理沙もやっぱり、その意味には気付いたようだ。慌ててももうどうしようもない。
 魔理沙は、横目で私を見る。
「……これ、アリスが描かせたのか?」
 ぶんぶんぶんっ
 一生懸命首を横に振って否定した。
 魔理沙が次に何か言い出す前に、もう遅いとは思うけれど、とりあえず人形から紙を取り上げ。
 取り上げようとして。
「ぁっ」
 慌てていて、躓いた。
 倒れる。人形がいる、テーブルの上に。人形はさすがに潰されないようにとささっと逃げる。
 ごふん。テーブルの縁に思い切りお腹をぶつける。顔から転げ落ちないように、なんとか手でテーブルの端を捕まえる。テーブルからさらに落ちるという失態だけは防ぐことができた。テーブルの上に這うような姿勢に。
「あ……あはは……」
 気まずくて、適当に空笑いしながら、ゆっくりと、何事もなかったかのように装って起き上がる。
 いやあ失敗失敗と軽いノリで行こうと魔理沙に声をかけようと、ちらっと魔理沙を見ると、魔理沙の顔はさっきよりもずっと真っ赤になって、手で顔を押さえながら視線はあらぬほうを見ていた。天井のほうを。
 そんなに恥ずかしい光景だっただろうかと思いながら、とりあえず予定通り適当に――
 ……
 ……うああ。
 下着穿いてないんだった。スカートなんだった。思い出した。
 そりゃあ、そんな状態で、あんな倒れ方したら。
 やっと気付いてとんでもない悲鳴を上げてしまいそうになる私を、ぎりぎりで遮るように、魔理沙のほうが口を開いた。
「と、とりあえず、そろそろ用件を聞こうか」
 ああ。
 何もなかったことにしてくれるらしい。目はあわせてくれそうにないけれど。
 とりあえず、私のほうも、このまま普通に会話に戻れるかどうかはとてもアレだった。





 さて。用件。

 気まずい雰囲気を、人形が二人の間を往復してぴとぴととくっついて少しずつ和ませていった。魔理沙は、最初の人形遊びのことも、さっきの絵のことも、さっきおそらく見たものについても、何一つ触れようとしなかった。少しずつ自分自身を落ち着かせながら、私に、とりあえず落ち着いて座れと言った。
 ……なんでこんなに弱みをたくさん見せに来てるんだろうか。私は。
 テーブルに向き合って座る。人形は、テーブルの端のほうにちょこんと座っている。
 用件。なんだったか。色々ありすぎて頭から飛んでしまっていた。
 そうだ。薬品の精製だ。材料が一つ足りないから貰いに来たのだ。
 遊びに来るための口実だったとはいえ、足りてないこと自体は事実だ。来たからには貰って帰りたいところだ。いや、今日は色々あったからまた今度でいいと言っておけば同じ用件でもう一度来るということも可能なのか。なんて、無意味なことはやめておこう。
「ちょっと、分けてほしいものがあるのよ」
「なんだ?」
 ――ああ。
 普通に聞き返されるなんて。
 いつもの魔理沙だったら、金や貴重品なら断る、とかまず先手を打ってくるところだろう。魔理沙も、落ち着いた様子を装ってはいるものの、まだ動揺は残っているようだ。たまに目が合うと、お互い同時に目を逸らす。
 少なくとも今日の間は、この空気を払拭はできないだろう。いっそ、触れないように扱うより真正面からあの失態たちについて話しておいたほうがよかったのかもしれない。何を言えばいいのか見当もつかないが。
「暖房草、10グラムくらい」
「げ」
 私の要望に、魔理沙は即座に苦い顔をした。
「よりにもよって、それかよ……」
「それなのよ。いずれ補充しないといけないんだけど、とりあえず少し欲しくて」
 魔理沙の反応も無理はない。暖房草は、疑いようもなく、かなりの貴重品だ。市場で買ったりすれば一気に財布が貧しくなるだろう。そもそも、滅多に出回るものではない。
 暖房草はその名の通り、暖房道具の材料としてよく使われる。暖房草とその他鉱物などを決まった割合で配合すると、空気に触れて発熱する性質を持つ物質が出来上がる。うまく作れば極めて長時間にわたって一定温度を保つことができるため、単純に携帯用懐炉として使用しても、一般的な仕組みのものよりはるかに優秀な性能を示す。ただし、当然のように値段も飛び切りなものになる。
「ただでとは言わないわ」
「いや。残念ながら、売ることもできない。というか、こっちも、ない」
「あら」
 性質上、どうしても冬に無くなることが多い材料ではある。私も実験するうちに使いきってしまったわけで、魔理沙も同じように使ってしまったというのは無理のない話だ。
 通常ならば。
「……あんなにたくさんあったのに?」
 少し前に魔理沙の研究部屋にお邪魔したとき、暖房草のストックの多さに驚いたものだ。これ全部売ったら半年くらい暮らせそうだと思うくらい、あった。
「……全部、使った」
 魔理沙はバツが悪そうに言った。
 ……この様子だと、何か大掛かりな実験でもして、そして成果がでなかったというパターンだろう。まあ、魔法使いなんてやってると、大金を捨ててしまうことは、よくあることだ。
「それなら、仕方ないわね」
 ちら、と暖炉を眺める。
 触ってみないとわからないが、そろそろ下着くらいは履いても問題ないくらい乾いているだろう。
 用件が満たされないとなれば、早めに退散したほうがいい。いつもなら少しでもゆっくり話をしていたいところだったが、今回はあまりに状況が悪い。魔理沙もこんな状況で私とずっと顔を合わせていたくはないだろう。
 ちら、と魔理沙の顔をさりげなく眺める。
 魔理沙も私を見ていた。目が合って、また、同時に目を逸らす。
 ああ。こんなに恥ずかしがっている魔理沙なんて、今まで見たことがない。いったい、今魔理沙の頭の中ではどんな思考が繰り広げられているのだろうか。さっきまで見たものがぐるぐると脳内でフラッシュバックを続けているのだろうか。……私が、ひとりで時々魔理沙の笑顔を思い出すときのように。
「わ、私、もう、帰るわ。もうちょっと温かいものだけ羽織っていけば大丈夫でしょ。どうせ魔理沙以外に見られることはないんだし……」
「あー……ああ、そうか。悪いな、無駄足にさせてしまって」
「いいのよ別に。私が勝手に分けてもらいに来ただけだし……それなのに謝るだなんて、魔理沙らしくないわ」
「そ……そうか? いや、そうだな」
「うん……」
 ――そして、重い沈黙。
 相変わらずお互いに俯いたままで、人形だけが私たちの顔を心配そうに交互に眺めている。
 ほら。用件の話が終わってしまうとこうなるから。
 帰るということはもう宣言したわけで、いつまでも座っていては進まない。
「……もう、乾いてるわよね」
 私は言うと、立ち上がって、干されている下着に手を伸ばす。
 触ってみるとまだ少しだけ湿っぽい感じもしたが、穿くにはさほど問題はなさそうだった。
 魔理沙に背中を向けたまま、声をかける。
「適当に羽織るもの……そうね、ローブ持ってない? それがあれば、とりあえずこの上に着て帰れるから」
「あ……わかった、待ってろ。いや……風呂場においておくから、着ておいてくれ」
 後ろで、魔理沙が立ち上がって歩く気配。
 私は振り返らないで、音が消えるまでそのまま暖炉を眺めて待つ。
 はあ……
 魔理沙の気配が消えたのを確認して、ため息をつく。
 ひょこり、と人形が肩越しに顔を出す。そのままちょこんと私の肩に乗る。
 私は、壁に手を着いて、もう一度、深く深くため息をついた。
「……恥ずかしい……」
 ぷしゅー。
 今更ながら顔から蒸気が吹き出てくる。
 とにかく。魔理沙が今どう思っているのかを想像するとパニックになってきそうだった。魔理沙も、私と同じようにドキドキしているのだろうか。見た感じ、ただ引いているという様子ではなかった。それは救いだった。もしかしたらちょっと私のことを意識してくれたりなんかして、と微妙に期待を持ったりもする。ああでもそれは恥ずかしいところを見られたからであって私自身に対してどうという問題ではないかもしれない。
 ぐるぐる。
 本当に、あんな魔理沙を見たのは初めてで。
 魔理沙もやっぱりかっこいいだけじゃなくて、普通に女の子みたいなところもあるんだなあって……いや、それはわかってはいたことだけど、また再認識させられて。
 どうしよう。どうしよう。
 こんなに、恥ずかしいのに。恥ずかしいのに。
 魔理沙がいなくなればいなくなったで、さっきまでの魔理沙の顔や仕草を思い出して、目の前にいたときよりもずっと強烈に私の脳を直撃してきて。
 胸を押さえる。心臓が、ばくばくと跳ねていて、言葉どおりに張り裂けてしまいそうだった。せっかく魔理沙がいなくなって落ち着くかと思えば、完全に逆だった。
 助けて。
 少しでもいいから鎮めてくれないと、このまま倒れてしまいそう。
 はあ、はあと息を荒げながら壁にもたれかかる。
 魔理沙の家。魔理沙の匂い。魔理沙の幻影。
 人形が、私の髪を撫でてくれる。気に障らない程度に、慎重にやってくれる。
 私は、人形を両手で捕まえて、胸元できゅっと抱きしめた。
「魔理沙……魔理沙……」
 目を閉じる。
 恥ずかしくて居心地の悪い時間だったはずなのに、このまま帰って、何事も無かったかのようにまた明日会うのは、嫌だ。どんな理由であれ、魔理沙が私のことを意識してくれている。今はきっと、私のことで頭がいっぱいになっている。恥ずかしいことは忘れてほしいけれど、今のまま私への意識だけは残して欲しい。
 帰る前に何を言い残そうか。
 どうすれば、魔理沙の気持ちをこのまま私に向けることができるだろうか。

 下着を着て、風呂場でローブを羽織る。
 私には小さかったが、とりあえず足元以外は冷えないようにできる。
 居間に戻る。魔理沙が座っていた。魔理沙はぼんやりとテーブルを眺めていたが、私が戻ると顔を上げて、もう落ち着いたような顔を見せた。
「やっぱり小さいか。こうして体格差を見せつけられると、なかなか悲しいな」
 落ち着いてなどいない。見ればわかる。
 魔理沙もきっと、私みたいにまだ、ぐるぐるしている。
「十分よ。ありがとう、魔理沙。明日には返しに来るわ。そこに干してあるのと交換で」
「ああ」
「お世話になったわね。……帰るわ」
「ああ――」
 別れの挨拶。
 最後に一言残したいのに、何も思い浮かばなかった。何を言えばいいというのか。変なところばかり見せてごめんなさい、忘れてと言えばいいのだろうか。言いたいけれど、それは困る。何事もなかったかのように扱われるのも嫌だ。都合の悪いところだけ忘れて、意識だけは私に残して欲しいのに。
 沈黙。もう、耐え切れない。
 私は魔理沙に背中を向けて、一人で玄関に向かう。
 せめて最後に、一言だけでも。人形が作ってくれたこの時間を無駄にしないためにも。
「私――」
「暖房草さ」
 言葉が、被った。
 ゆっくりと、振り向く。魔理沙は明後日の方向を向いていた。
「なくなってるのは、私も困るんだ。そろそろ、採りに行こうと思っていた」
「そう」
「アリスも必要なんだろ? ……私にだけ働かせて、そこから分けてもらおうなんて話はないと思わないか?」
「え……?」
「明日だ。そのローブを返しに来たときにもう、準備しておけ。私はあくまで自分の分しか採らないからな。自分に必要なものは自分で稼ぐ。魔法使いの鉄則だろ」
「……」
 混乱して。しばらく、理解できなかった。魔理沙の言おうとしていることが。
 ただ、魔理沙の顔を眺めて。私が黙って見ているだけでみるみる赤くなっていく魔理沙の様子に気付いて、やっと、言葉の意味を悟った。
 ああ。ああ――
 言葉が出ない。心の中はよくわからない悲鳴で埋め尽くされていたが、何一つ言葉にはならなかった。
 ぐるぐる。
 魔理沙なりのフォローなのかもしれない。今日のことは気にしていないというメッセージで、落ち込んでいるだろう私を励ましてくれるためだったのかもしれない。もっともっと舞い上がった解釈をすることもできたが、私だって現実は知っている。
 それでも。
 素直に、嬉しい。嬉しい。嬉しい。
 フォローのつもりだとしても、魔理沙が、一緒にどこかに行こうと私だけを誘ってくれたのはこれが初めてなのだから。言葉だけを聞くととても誘われているようには思えないが、この言い方もきっと、魔理沙の優しさ。
 だから、私は答えた。
「仕方ないわね。本当は私は手を汚すような作業はしたくないんだけど、そうまで言われたら受けて立つしかないじゃない」
 きっと。魔理沙の期待通りの答えを。
 魔理沙は、やっと、私のほうを向いてくれた。
 恥ずかしそうにしながらも、柔らかく微笑んでいた。
「温室育ちにはきついかもな。倒れるなよ?」
「都会派と言いなさいって言ってるでしょ。残念ね、暖房草の採り方くらい知ってるわ。大変だったこともね」
「本で読んで知ってるのか? 楽しみだな。乾燥10グラムの重みを知って泣くアリスの顔が目に浮かぶぜ」
「あてが外れて悔しそうにしてる魔理沙の顔の間違いじゃないかしら」
「そうかそうか。そんなに実力差を見せ付けて欲しいか。あー明日が楽しみだ」
「ええ、楽しみね」
 本当に。
 今からもう明日が待ちきれないくらいで。
「覚悟ができているならいいが、一日で終わるとは思うなよ」
「ふん。それくらい――え? そうなの?」
「やっぱり何もわかってないじゃないか。覚えておけ。アリスの仕事は、草集めと、よく暖房を効かせた宿の提供、夕食と風呂の準備だぜ」
「――!」
 それはつまり。
 つまり、私の家に、魔理沙が――
「……し、仕方ないわね。まったく、強引なんだから!」
「お、本当にいいのか。それは助かる。言ってみるもんだ」
 ああ、もう、こいつは。
 どこまでも魔理沙だ。
「ていうか、あなたの仕事は何なのよっ」
「暖房草の採れる穴場の紹介と採り方のレクチャー、監督役。授業料の徴収」
「勝手に言ってなさい、もう」
「承認が下りた」
「下りないわよ!」
 叫んで。
 心の中で、ありがとうと言った。

 重かったものがすっと消えて、気持ちいい動悸と幸せで満たされる。
 いつもどおりの私たちだけど、一歩近づいた私たち。
 今日はなかなか寝付けそうになかったが、それは魔理沙も同じはずで。
 魔理沙もベッドに入ってからあんなこととか思い出して悶々とするんだろうな、なんて思うとわくわくしてしまう。あんなに恥ずかしかったのに、忘れて欲しかったのに、でも魔理沙は今までどおり、それ以上に付き合ってくれるとわかれば、もうたいした問題ではない。
 明日から、一緒にいられる。二人だけで。

 帰ってからにふにふと。にやにやと。
 二人だけで、を強調していたら、珍しく人形が不満そうに私の腕をぺちぺちと叩いて、むーっと睨んできたというのはちょっとしたおまけ話。
 ああ。もちろん、この子も一緒で。

(つづく)