「……あのね、あたしにも、触れられたくないことって、あるんだ」
 そう言って彼女は、寂しげに微笑んだ。




******

 むかしむかし、ある国に、好奇心旺盛なお姫様がいました。
 お姫様はある日、お城を探検しているときに、隠し部屋を見つけました。
 部屋の隅にあった小さな箱を開けると、中から小さな宝物が出てきました。
 箱の裏には、メッセージが残されていました。

 白いリボンにはこの世の全ての本当のことが、
 黒いリボンにはこの世の全ての嘘が書かれている

 お姫様は、こうして自らの運命を変えることになる二つのリボンを手にしました。

******



[1] すこし昔――ペットたちと、平和な日常


 地底にも、四季がないわけではない。地上ほど明確ではないというだけの話だ。四季もあれば、昼夜もある。
 冬になるとやはり、木の実、山菜、きのこ類など、食べられるものを入手するのが難しくなる。広い範囲を歩いて、数少ない食べられる植物類を採取することになる。
 ぶち、ぶち……
 栄養状態の良さそうな植物を選んで引きちぎりながら、さとりは森の中を歩いていく。朝はまず水汲みから始まり、それが終わるとこの食料集めだ。この季節になると、毎日、水と食べ物を集めるだけで三時間程度はかかる。小動物を捕まえることもある。狩りはあまり得意ではないが、それでも植物採集より効率はいい。ただ冬はやはりあまりそれを望めない。
 結局のところ、生命力の強い草花が中心となる。さとりは無言で、楽しそうでも辛そうでもなく、ただ黙々と草抜きを続ける。
 今日はもう少しにしておくか、というところになって、しゃがんで籠の中身をチェックしていたさとりは、ふと顔を上げた。
 森の中では普段耳にしない――正確には、脳で聞くことのない雑念が入ってきた。直後、近くで、がさという音が聞こえた。
「足跡、このあたりに……」
 少女の声が聞こえる。
「近いと思うんだけど。ついさっきって感じだし」
「うん……あ」
「あ」
 声も音も正確にさとりのいる場所に近づいてきていたが、何か動きを見せる前にもう二人の少女が目の前に姿を現していた。この時点でもう、二人のもう一つの声も聞こえている。
(籠……この子もやっぱり、食料確保かな)
(小さい女の子……美味しいかな)
「こんにちは、お嬢さん。大変そうだね?」
「この時期、奥までこないといいもの見つからな――」
「私はあまり肉付きがよくないので、美味しくはないと思いますよ」
 さとりがすっと立ち上がって振り返ると、二人の少女の表情が、ぴし、という音が聞こえるかのように明確に、固まった。
(……うわ、最悪)
(えー、なんでこんなところに、さと……あーあー本日は晴天なり晴天なり)
「あー、あ……これは失礼いたしまして」
 ずず。
 ひきつった笑いを浮かべながら、少女は後ろに下がる。
「ああ、いえ、お疲れ様です。私たちもう帰るところで。その、大変だと思いますけど頑張ってくださいまし」
「ではーっ」
 あっという間に二人は揃って飛び上がり、猛スピードでこの場を去っていった。
 ひらひらと手を振って、さとりはそれを見送る。冬の静寂の森への乱入者は、ほんの十数秒間で姿を消すことになった。
 ふう。小さくため息をつく。
 久しぶりに誰かと会話を交わした。結局キャッチボールをしたのは一度だけだったが、それはずっと昔からいつもどおりだった。自分よりもずっと力が強そうな見るからに恐ろしい妖怪であっても、さとりの姿を認めると恥も外聞もなく逃げていく。今の二人だって普通の少女に見えなくもないが、二人で本気でさとりを攻撃してくることがあればまずさとりに勝ち目などないだろう――もっとも、攻撃が来る前に逃げることができるからこそ、ある意味今まで生き続けることができているわけだが。
「そんなに恐れてくれるなら、ごはんくらい貢いでくれてもいいのに」
 小さな声で一人呟く。

 十分な食料を確保したところで、家に戻る。
 地霊殿。無駄に広い自宅だ。ただ広いだけではなく、地底世界のより下層への入り口を内部に含んでいる。当初この建物ができたときには、来客も少なくはなかったものだ。その頃であれば、複数ある客室も正しく活かされていた。
「ただいま」
 もう昼前という時間になっている。いくら遅くなろうとも、遅いと文句を言う声はない。おかえりという返事が帰ってくることもない。
 代わりに、飛び掛ってくるのは、まず猫。そして犬、狼、鴉、ねずみ、うさぎ……多種多様なペットたち。
 実際、さとり自身は別に何も食べなくても、水さえ飲まなくても、死にはしない。ただ食事という娯楽が失われると寂しいというだけのことだ。
 毎日食料集めに忙しいのはこれらたくさんのペットのためだ。ペットの中には自ら食べ物を採って皆に提供する者もいるが、それでも量はあわない。特に冬となるとさとりの負担が増える。
「はいはい、ちょっと待ちなさい。これからごはん作るんだから」
 それぞれの頭を撫でながら様子を見て、全員特にトラブルがなさそうだと確認すると、動き出す。
 いつもこの様子なので、疲れて帰ってきても体を休める暇などない。手と顔だけ洗うと、すぐに台所に向かうことになる。
 料理といっても調味料もそうそう揃わないため、味付けのバリエーションはそんなに多くはできない。とりあえず柔らかく茹でて、冷まして、出すだけだ。
 みーみー。
 いつも最初に催促してくるのは、猫だった。
「まだ熱いからだめ。もうちょっと待ちなさい」
 みー。
「大人しく待ってないと、あなたの分を減らしちゃうわよ?」
 みー。
 通じているのかいないのか、猫は変わらない鳴き声で、じっとさとりの足元に座っている。
「もう、甘えん坊ね、燐は」
 燐と呼ばれた黒猫は、みー、と嬉しそうな声で鳴いた。
 要するにこの猫は、さとりの足元に位置するのが好きなのだ。いつも、他の誰よりも側にいようとする。
 くす、とさとりは笑う。
 言葉を持たない生き物でも、単純化された意思くらいは読もうと思えば読める。例えば食事を欲しがっているのか、遊んでほしいのか。嬉しいのか、怒っているのか。それは言語ではなくイメージとして伝わってくるのだ。無論、言語情報に比べると極めて情報量は少ないのだが、ペットを相手するときには通常はあまり困らない。
 もっともわざわざ心を読まなくても、仕草を見れば喜怒哀楽くらいはつかめるものだ。
「はいはいお待たせ、ごはんですよ」
 食事時間となると、今度は奪い合いにならないように配分して、他者の取り分を奪ったりしないように監視しておかなければならない。まだ、気が休まることはない。
「こら、空。あなたの分はあるんだから落ち着きなさい」
 特に問題児はいつも同じものだ。
 猫、犬はいつも行儀がいい。残りは比較的気まぐれで、鴉はだいたい率先してトラブルを起こす。
「空、また勝手に食材持っていったりしてないわよね?」
 ばさばさ。羽ばたきで鴉の空は応える。
 空は食事を奪うだけではなく、よく隙を見てはさとりが持ち帰ってきた食材を盗んでしまう癖があった。たまたま一度現場を見つけたから気付いたものの、結局のところまだ防ぎきれてはいない。もともと行動範囲が地上に縛られない分、他のペットたちより有利な条件にあるのだ。空には厳しく対処しているつもりだが、懲りるような気配はいまのところなかった。
 一緒に暮らしていると、個性はすぐに掴めてくる。
 言葉がなくとも、行動で気持ちが伝わる。
 それで十分だ、とさとりは思う。

 ペットたちはいつも地霊殿の中で暮らしているわけではない。というより、大抵は外で適当に遊んでいる。食事や寝る時間だけ訪れてくると言ったほうが正解に近い。
 事実、さとりが動物たちの召使いかのような状態だった。生活の時間の半分かそれ以上がこれらの動物たちのために消費されている。
「ふう……」
 ペットたちが遊びに行ったのを確認して、ようやく一息をつく。薪が足りなくなっていれば、このあとは木を切りに行くこともあるが、今のところはまだ余裕がある。今日はとりあえず特に出かければいけない用事はない。
 毎日がこの繰り返しだ。いや、この繰り返しだけで済む日はまだ落ち着いている。特にトラブルがないということだからだ。
 椅子に腰を下ろす。目を閉じて、体から力を抜く。
 疲れも大きいが、この忙しさに不満はなかった。
 どうせ、余っている時間に、他にすることなど、何もないのだ。延々と静寂の世界の中で、ただじっと座っているだけの生活より、こうして忙しいほうがまだ満たされている。
 いや、正確には、すべきことはもっとたくさんある。広い家は掃除するだけでも大変だったし、定期的に補修をしないと家はだんだん壊れてくるものだ。家の中のことだけではなく、元地獄の管理がそもそも本来の仕事だ。その一切を、さとりは捨てた。一人でできることには限界がある。
 何人か雇って管理させるのが正しい姿なのだろうが、雇う余裕もなければ、あったとしても誰も応募に応じることなどない。都合のいい妖精たちでさえ、ここには近づきもしない。
 逆に言えば、管理を放置したところで、苦情を言ってくる者もいない。ならば、裏で何を言われようと気にする必要はない。
 気楽な生活だ。好きなことだけをして生きているという意味では、幸せなのだろうと思う。
 目を閉じて、うとうとしていると、みー、という鳴き声が聞こえた。
「……あら」
 目を開ける。
 足元に黒猫の燐が寄り添っていた。
 みー。
「どうしたの、燐。遊びに行ったんじゃ」
 みー。
 よく見ると、口に何かをくわえて、ちょこんと座っていた。
 白い帯のようなものが、口元から伸びてずっと地面を這っている。
「あら、どこでそんな……それ……」
 さとりは椅子から立ち上がって、猫の側にしゃがみこむ。
 近くで見るとよくわかる、それは白いリボンだった。
 そっと手に取る。さらりとした感触が肌を撫でる。
「……」
 じっと見つめる。
 破れたりはしていないが、少し色あせている。
 みー?
 燐の鳴き声に、はっとさとりは顔を上げる。
「燐、これ、どこで?」
 返事の代わりに、ちょいちょい、と爪先でリボンをつつく。
 みー、ともう一度鳴く。
「これが気に入ったの?」
 みー。
「そう、あなたにはよく似合うかもしれないわね」
 リボンを引っ張り、手の中に収める。
 燐の頭を優しく撫でて、ゆっくりと立ち上がる。
 部屋を移動して、棚からはさみを取り出す。
 少し迷うが、長さを感覚で定めて、軽くはさみを入れた。
「ちょっと、じっとしててね」
 大人しく腰を下ろす燐の尻尾をそっと掴んで、リボンを巻きつける。
 きゅ、と結び終えると、ぴくんと尻尾が動いた。
「はい終わり。どうかしら……って、自分では見えないかしら」
 ぱたぱたと尻尾を動かして、くるっと体を回す。
 二度、三度、それを繰り返して、みー、と鳴いた。
 見えたのか見えていないのかは定かではないが、満足そうだった。
 さとりもその様子を見て微笑む。
「喜んでくれて嬉し……きゃっ」
 ばさばさばさっ。
 燐の尻尾を改めて撫でようとすると、突如背後から何者かに襲われた。羽音からその正体は見るまでもなくわかる。
「こら、空!」
 ばさばさ。
 翼を広げた音で鴉の空は答える。
 さとりの意思を代弁するかのように、燐がふーっと低い声で唸って、空に対峙する。
 空は構わず、さとりの手元を足で突付く。残ったリボンを握っている左手のほうだ。
「もう、なあに、空。空もこれが欲しいのね?」
 がしがしと突付いてくる。痛い。
「わかった、わかったわ。空にもつけてあげるから、大人しくしていなさい」
 ぴた。
 言葉と同時に、空は暴れるのをやめた。
「……もう」
 ちょうど、先程切った残りの部分が適当な長さになっていた。
 くるりと先程までさとりの手を執拗に突付いてきた足に巻きつけて、結ぶ。
 終わると、空はばさばさとまた翼を大きく羽ばたかせた。
「嬉しい?」
 ふわり、浮かび上がって、一度空は鳴いた。
 すぐさま、飛び去っていく。
 飛び去っていったのを確認して、まず、燐が戦闘態勢を解いた。
 苦笑いを浮かべているさとりの足を、前足でちょんちょんと突付いてくる。みい、と少し小さい声で鳴く。
「……ありがとう、燐。心配してくれてるのね」
 そっと燐の頭を撫でる。
「大丈夫よ、空も悪い子じゃないわ。ほら」
 足で散々突付かれた手の甲を見せる。傷は残っていない。
「ちゃんと、怪我はしないようにしてくれたみたい」
 みー……。
 複雑な響きの鳴き声とともに、燐はさとりの手をじっと見つめた。
 頭を撫で続けると、やがて鳴き声は小さくなっていく。燐はそのまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。
「あらあら」

 さとりは、こんなペットたちとの穏やかな生活が、好きだった。
 地底に住む動物たちも、大半は地上より厳しいこの環境を生き残ることができる、妖怪たちだった。ここ地霊殿に出入りするペットも例外ではない。
 みんな長生きだ。寂しい別れを体験することも滅多にない。
 ペット同士でトラブルもあるが、仲直りさせることだってできる。出て行く者もいなくはないが、大半は居心地よく感じているようだった。

 この暮らしに変化が訪れることになるまで、時間はあまりかからなかった。



******

「ねえあなた、すぐ帰ってくるから、ここを通してくれないかしら?」
「は……ひ、姫様!」
「ね、お願い」
「い、いえ王様の許可がありませんと」
「何よー。通してくれないと、あなたがこの前お婆様の病気だって嘘ついて休んで賭け事してたことバラしちゃうわよ。困るでしょ、そういうの?」
「……な!? どうして……そんな」
「ね?」
「……すぐに、帰ってきてくださいね」
「うん!」

「あはは、これは便利ね。あたしにわからないことは何もないのよ」
 お姫様は満足です。
 何もかもが縛られた窮屈な生活を抜け出して、自由を謳歌する武器を得たお姫様は、好奇心の赴くままに街に飛び出しました。

******



 暖かい季節になってきて、地底にも採集できる食材がまた増えてきた。
 いつもこうだと楽なのにと思いながらも、ほくほく気分で家路に着く。

 異変は始まっていた。
 帰るとまず真っ先に出迎えに来る黒猫、燐が現れなかった。
 飛び込んできたのは、同じく黒い鴉だった。けたたましく鳴いて、ばさばさと羽ばたく。意味は伝わらないが、何かを訴えかけようとしていることはわかった。
 犬たちもいつもより大人しい仕草で、さとりの顔をじっと見上げている。
「……燐に何かあったの?」
 ばさばさ。
 空が飛んでいく。さとりは、早足でそのあとをついていく。他のペットたちも、ぞろぞろと後をついてくる。
 案内された先は、いつもさとりが休憩している椅子のある場所だった。
 燐の姿はすぐに見つけた。椅子の足元で、ぐったりと手足を伸ばして横になっていた。
「燐!」
 そっと体毛に触れてみる。一瞬触れただけで、さとりはすぐに手を引いた。
 反射的に逃げてしまうほどの高熱だった。
 病気の発熱というレベルではない。生物が本来持ちうるエネルギーよりもはるかに大きな熱量だ。
 じじ……
 さとりの脳に、ノイズ交じりの信号が届く。
「え……」
 今まで、ペットたちと触れ合うときには経験したことのない信号だった。
 意識のない燐の姿を見つめながら、行き場のない手を宙に浮かせて、さとりは戸惑って首を横に振る。
 混濁した情報が流れ込んでくる。無意識の相手から情報が得られることは珍しいことではない。夢というものがあるからだ。だが、それにしても、今までとは明らかに違う、異質な情報だった。
 生気が失われていくような様子ではない。むしろ――
「まさか」
 考えられる可能性は、いくつかある。
 だが、その中の最有力候補を絞り込むのは簡単だった。
「……まさか」
 さとりは繰り返し呟く。
 自然、汗が流れるのは熱のせいだけではなかった。
「……ありがとう、大丈夫よ。燐の様子はしっかり診るわ。ごはんはもうすぐ作るから、少し待っていてね」
 立ち上がって、ペットたちに告げる。
 ペットたちは大人しく帰っていった。最後まで残ったのは、空だった。
「心配しなくても大丈夫よ。少ししたら、目も覚めるわ。……きっとね」
 空をあやす。
 それでもなお心配そうに飛び回っていたが、やがてどうしようもないことに気付いたのだろう、他のペットたちの後を追っていった。
 今日の食事はいつもより静かなものになった。


 初日はまだ、まさかという思いが強かった。
 二日目の朝になって発熱が少しずつ治まってくるのにあわせるように、燐から流れ込んでくる情報のノイズはますます強くなってきていた。
 混沌としてはいるが、明らかに情報量が増えようとしている。
「そう……」
 さとりは、目を伏せて呟いた。
「どうして」
 もはや、他の可能性は消えた。
 病気などではない。
 もっと、最悪のことが起きようとしていた。


 どうして。
 ずっと頭の中でぐるぐると回り続ける言葉は、そればかりだった。
 三日目、すっかり穏やかな顔で落ち着いて眠る燐の姿を眺めては、切なそうに眉をひそめて、体を撫でる。
「あなたは、一番私のことをわかってくれていると思ったのに」
 もう三日も、みーといういつもの鳴き声を聞いていない。あの声がもう懐かしい。
 なだれ込んでくる情報が一度、すっと落ち着いたとき、いよいよ来るときが来てしまったと覚悟を決める。
 椅子に座って、燐を抱いたまま、その時を待つ。

 変化は、一瞬だった。
 燐の体が光り輝いて、眩しくて目を閉じる。
 直後に、ずしりと重い感触を腕に、膝に感じた。
 光が弱まるまでは目を閉じたまま、ただ手に感じるその重みを手放さないように気をつけて力を込める。

 やがて光が収まるのを感じて、目を開ける。
「……そう。これが、あなたなのね」
 真っ赤な長い髪。
 真っ黒な服。黒いままの耳としっぽ。
 なるほど、よくイメージにあっているとさとりは思った。
 人の形をしてはいるが、見ればすぐにわかる、間違いなくこの少女は燐だった。髪はすでに括られていて、リボンで留められている。そのうちの一つが、先日尻尾に巻いたあの白いリボンだ。
 さとりは弱い微笑を浮かべて、優しく髪を撫でた。
「本当に、可愛らしい。本当に――」
 ぎゅ、と膝の上に乗せたまま、抱き寄せる。すう、という小さな寝息が聞こえる。
 ほんのりと体温を感じる。
 人のぬくもりだった。


 妖怪の中でも、人の形をとるのは特に力を持った存在である証だった。
 生まれつき人の形をする者は大抵が最上位級の妖怪だ。動物系の妖怪は、一部の者だけが後天的に人の姿になる力を得る。
 妖怪はそもそも人との繋がりを無視して語ることはできず、人との繋がりなくして存在することはできない。人の形をとるということには大きな意味がある。
 その最大のメリットが、言葉を得ることだった。言葉以外のコミュニケーション手段ももちろん多数存在するが、圧倒的に情報量が異なる。人間との情報のやり取りにもっとも便利というだけでなく、妖怪たちの間の中でも極めて重要な情報伝達手段となっている。
 動物系の妖怪の場合、自由に形態を変化させることができる。人の形をとることで数々の利点があるため、妖怪としては純粋に喜ぶべき能力だといえる。
 例え、さとりにとっては、そうでなかったとしても。


 人の形をとるということは、言葉を得るということだ。


 ばさばさ。
 翼の音で、さとりは我に返る。いつの間に現れたのか、空がさとりの側まで寄ってきていた。
 人の形になった燐を見て、混乱しているようだった。
「……そうよ。この子が、燐よ。今はまだ眠っているけど、すぐに目を覚ますはずよ」
 不安がる空に、優しく微笑みかける。
 燐は穏やかな寝息をたてていた。まだ、自分が人型になったことも知らずにいるだろう。
「ああ、そうね、そろそろ夕食の準備もしないといけなかったわね」
 さとりは、燐を抱いたまま立ち上がり――
「……」
 ――燐を、足元から地面に降ろして、そっと横たえてから、立ち上がった。
 人は持ち上げると想像以上に重いということを初めて学んだ日だった。



******

 お城の外の世界は、お姫様には驚きに満ちた場所でした。
 街はたくさんのたくさんの人に溢れていて、人の声、足音、馬車の音、とにかく経験したことのない喧騒がお姫様を待ち受けていました。
「すごい……!」
 中でもお姫様の目を引いたのは、たくさん並ぶ露店と、そこに並ぶ見たこともない商品たちでした。
 よく観察していると、みんな、物を受け取る前に何かを渡していることに気付きました。それがお金と呼ばれるもので、色んな種類があってもみんな同じものを使っているということがわかりました。
 もちろんお姫様はお金を持っていません。
「ねえ、おじさま。私、そのお菓子が食べたいわ」
 お姫様は、構わず店主に声をかけます。
 店主は、お姫様の、いかにもいいところ育ちな姿恰好にまず驚きました。しかし、さすがは商人ということで、すぐに確認します。
「お嬢さん、お金は持ってるかい?」
「ないわ」
「うーん、それじゃ売れないんだよ。パパかママを連れてきてくれれば大丈夫だと思うんだけど」
「ねえおじさま、このお菓子、王家御用達だなんて嘘を書いてるのはマズいんじゃないかしら。こういう嘘は重い罪なんでしょ?」
「……何を言うんだい、お嬢さん。こいつは本当に」
 は、と店主は言葉を止めます。
 お姫様の恰好と、顔を改めて眺めて、顔を青くしました。
「もしかして、あなたは」
「ちょっとだけくれたら、誰にも言わないわ。ね、お得でしょ?」
「あ、ああ。いえ。ええ好きなだけ持っていってください……」
「ありがとう、おじさま。大好きよ」
 お菓子はほんのり甘くて、お姫様には新鮮な美味しさでした。

******



[2] すこし昔――黒猫、生活の知恵を学ぶ


 燐は、その日の夜、目を覚ました。
 猫の状態と違い体毛による保温がきかないだろうと思い、ベッドに横たえて毛布をかけておいた。本来はさとりが毎日使っている毛布だった。
 ゆっくりと目を開ける。まずは目だけをきょろきょろと動かす。
「おはよう、燐」
 さとりの呼びかける声のほうに、目と首を動かす。そのときに違和感があるのを感じたのか、下のほう――自分の体のほうに、視線を向けた。
 ぱちぱち。目を丸くする。
 さとりの脳にも、疑問の塊が投げつけられてきていた。まだ、言葉になってはいない。
 首をぶんぶんと振っている。口が開かれるが、あぁ、と言葉にならない声しか出てこない。
 当然だ。人の形になったからといって、その体をすぐに自在に動かせるわけでもなければ、勝手に言葉を覚えるわけでもない。少しだけ時間が必要だ。逆に言えば、時間が経てば、そのうち自然に覚えていく。
 ば、と両手を挙げる。わきわき、掌を動かす。
 毛布を跳ね上げる。上半身を起こす。
 今度は足を折り曲げたり伸ばしたり動かす。
 しばらく色々と体を動かした後、さとりの顔を真正面から見つめる。
 表情は、すぐに喜びに満ちていった。なー、という声で燐は叫んだ。
 足の力だけで飛び起きようとして、失敗してベッドの上に勢いよく落ちる。なー、という悲鳴。
 ころん、と今度はうつぶせの姿勢になる。今度は手も使って、ゆっくり、慎重に立ち上がる。
 初めて、燐が二本足で立った瞬間だった。
「なー♪」
 燐はすぐに、さとりに飛び込んできた。真正面から、抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと、もう……いきなりなんだから」
「おー……」
 まっすぐに、至近距離からさとりの顔を見つめて、口をパクパクさせる。
「おー、おー、ぅー」
 首を傾げながら、言葉にならない声を繰り返す。
「お・は・お・うー」
 次は、ゆっくりと一文字ずつ区切ったような言葉を発する。
 そして、満足そうににか、と笑った。
 ちょうどさとりに聞こえた心の声は、ちゃんと正解を教えてくれていた。まだ、うまく発音できないのだろう。
「……おはよう、燐」
「なー!」
 さとりは、いつも燐にそうしてきたように、頭を優しく撫でた。
 燐は、尻尾を振って、目を細めて、喜んだ。
 そんな燐の様を見るほどに、さとりの心は苦しく、痛くなる。愛しい、可愛い相手だからこそ、悲しい。
 もう彼女と一緒にいられないということが。

 言葉を持つということは、表と裏を持つということだ。
 人は、表をうまく使って表現し、交渉し、攻め、守り、生きている。さとりは、そこに隠された裏側を覗いてしまう。意図しなくても、聞こえてきてしまう。
 それはさとりにとっても、さとりと付き合う者にとっても、不幸なことだった。
 言葉を持つ者は、必ずさとりを敬遠する。言葉を持たなくとも思考は読まれるのだが、言葉という形をとった時点で流れ出る情報量は爆発的に増大するのだ。読まれたい情報と、読まれたくない情報のコントロールなど不可能だった。
 燐もやがて、完全に言葉を手にすることになる。その頃には、さとりの側にいることが苦痛になっているだろう。さとりは、もうそんな思いはさせたくないし、したくないのだ。
 ならば、別れは傷がつく前のほうがいい。

 人の形をとっても、燐は燐だった。
 もはやさとりよりも大きな体をしているのに、以前と変わらず甘えるように擦り寄ってくる。
「なー。なー」
「あのね、燐」
「ぃ……ぃーん。りん。りん!」
「ええ、燐。あなたは燐よ。あのね――」
「りん! りんー」
 ぱたぱた。
 尻尾がよく揺れる。自分の一言一言に感動しているようだ。
 しっかりと腕にしがみついて離れず、何度も自分の名前を呼び続ける燐に、さとりはため息をついた。タイミングがつかめない。
「りんー」
「えっとね」
「りんりん」
「ちょ、ちょっと、いいかしら、燐」
「な?」
 何度目かの呼びかけで、ようやく燐はさとりが何かを伝えたがっていることに気付いたのだろう、じっとさとりの顔を見つめて、声を止めた。
 まん丸の目で、至近距離から見つめられているという状況に、改めてさとりはドキッとする。ここまで人に近づかれた経験など、ほとんどない。
「ん、ん……えっと、大事な話をするから、聞いてね」
「?」
 通じるんだろうかと不安になりながらも、さとりはとりあえず続ける。
「あなたは、これからひとり立ちしないといけないの」
「……ぅー? お、れ、か、ら……ひ、と、に、た、ち」
「そう、汁物は沸騰させすぎると風味を損なうから――そうじゃなくて。ひとり立ち。あなたはこれから、ひとりになるの」
「ひより」
「本日もよい小春」
「ひとり?」
「……」
 こほん。
 一度、さとりは咳払いをする。遊んでいる場合ではないのだった。
「そう、つまり私たち、お別れしないといけないの。あなたはここを出て、新しい場所で、新しい友達を作るのよ」
「……なー?」
「……む、難しいかしら、やっぱり」
 無理もない。まだ言葉を理解するには早すぎるのだ。
 とはいえ、言葉をしっかり理解できるようになる頃まで待つというのも本末転倒というジレンマがあった。
 ぽん、と燐の頭の上に手を置く。
「〜♪」
 少しでも触れられることが嬉しいのか、疑問顔など一気に吹き飛んで、また燐は無邪気に笑った。
「……もう」
 自然と、さとりにも笑みが伝染する。
 覚悟は決めているというのに、あまりの愛らしさに、逃避してしまいたくなるのが最大の問題だったかもしれない。
 さとりは、ゆっくり時間をかけるほどに別れが困難になるということを感じ取っていた。
 だから、すぐに行動に出ることにした。


 普通、ペットと別れる――もっと直接的な表現を使えば、ペットを捨てるときに、家の中で「さあ出ていけ」と別れを告げることなどないだろう。
 さとりは、燐を連れて外に出た。通常ペットたちを散歩に連れて行くということはない。燐などはさとりの後を追ってついてくることはよくあったが、連れ出されるという経験は初めてということもあってか、目を輝かせて興奮していた。――当然、その目的はまったく理解していない証だった。
「りんー」
 気持ち良さそうに自分の名前を呟きながら、相変わらず燐はさとりの腕をぎゅっと掴んで歩いていた。二本の足で歩くということに不安があるわけではないようで、歩みそのものはすでにしっかりしている。単に甘えているだけのようだった。
 これから捨てるというのに、あまりべったりされても困る、と思うのだが、さとりもそれを振り払えないでいた。
 高い視点で外を歩くのは初めてということもあってか、慣れている場所であろう辺りを歩くときにも、時折興味深そうに周囲を眺めては、ぉーと感嘆の声を漏らす。
「りん。りん」
 くい。
 燐がさとりの袖を引っ張る。
「私は燐じゃないわ。燐は、あなた」
「あなた?」
 きょとんと目を丸くする。
「あなた。あなたー」
 くいくい。
「団地妻ですかあなたは」
「なー?」
「……いえ。私は、さとり、よ。古明地さとり」
「こめ……こめ」
「奥さん米屋です。団地妻ですかあなたは」
「……な??」
「ごめんなさい今のは私が悪かったと。さとりでいいわよ。さ、と、り」
「さとり」
「そう、さとり」
「さとり!」
 さとりの名前を呼んで、またはしゃぐ。
 そういえば悪いニュアンスを込められずに名前を呼ばれたのはどれだけ昔以来になるだろう、とさとりはぼんやり振り返りながら、また燐の頭を優しく撫でた。
 いつも食材を求めて入る森の側の道を抜けて、いつもは近づかないところまで歩いていく。さとりは、燐がどのあたりまで行ったことがあるのかは知らない。相変わらず、きょろきょろと周囲を見渡していた。
 ちゃんと整備された道だとこんなに歩きやすいものか、と少し感心もした。普段は人が通るような場所は意図的に避けているため、歩きやすい道など歩くことはない。
 もちろん空を飛べば道など関係ないのだが、無闇にエネルギーを消費するような日常生活を送る余裕はなかった。何も食べなくても死にはしないが、エネルギー消費が激しいと疲れはするし、お腹はすく。場合によっては病気になりやすくもなる。基本的に寿命のない上位妖怪たちにとって、死因は外傷か病気かの二択だ。長生きしたければ、おとなしくしているに限る。
 ちら、と燐の顔を横目で窺う。こっそりとのつもりだったが、しっかりと目が合った。
「?」
「いえ。燐は可愛いわね」
「なー♪」
 可愛い、という言葉はよく使っていたからだろうか、意味はなんとなく通じるようだった。燐は喜んで、ぎゅっとしがみつく腕に力を加えた。
 長いこと飼われていたとはいえ、本質的には野生だ。燐はひとりにしても何の問題もなく生きていけるだろう。むしろ、地霊殿を離れたほうが行動範囲が広がる分、さとりよりもずっと余裕のある生き方ができるはずだ。地霊殿に縛られている限り、人付き合いは広がらないし、まともな食事はできない。
 なんといっても、旧都に出ることができるという利点は大きい。飼われる生活のほうが性に合うということであっても、街ならいくらでも飼ってくれる主人が見つかるだろう。

 全て、自分を納得させるための理屈だと気付いていながら、それでも結論を変えることなどできないのだから、とさとりは改めて自分に言い聞かせ続ける。ここでお別れなのだと。



******

 商店街に、怒鳴り声が響きました。
 驚いたお姫様が声のほうを見ると、いかにもガラの悪い男たちが二人、果物屋の店主に詰め寄っているのを見つけました。
「おうおう、どうしてくれるんでい! お前のとこのりんごが腐ってたせいで弟がこんな目にあってるだよぉ!」
「うう、痛い、痛いよー兄貴ぃ」
「そ……そんなはずはありません。鮮度はちゃんと毎日確認して」
「うるせえええ! 実際こんな苦しんでるんだろうが!」
「助けてくれよぅ」
「おお、可哀想に、弟よ。病院に行く金さえあれば」
 大げさな仕草で「弟」に抱きついた後、「兄貴」は、だん、と一歩詰め寄ります。
「わかってるんだろうなぁ? 治療費と慰謝料だけ出せば今回の件は見逃してやらぁ」
「しかし……」
「あぁ!? お前のせいで弟が死んでもいいってのかぁ!?」
「嘘つきは泥棒の始まりよ、お二人さん」
 言い争いに、お姫様は突然乱入しました。
 リボンの力で、真実は全て見抜いています。堂々たる佇まいに、二人組の男も、果物屋の店主もぽかんと口を開けてお姫様を見つめました。
「なんだあ?」
「安心して、おじさま。お店の果物は腐ってもいないし、この者が苦しんでいるのも嘘よ」
「おいおい、お嬢さん。どういうつもりか知らねえが、人を嘘つき呼ばわりたあ感心しねえな」
「嘘まみれの者達に言われたくはないわ。何よ、兄弟だってのも大嘘じゃない。血縁の偽りは重い罪に問われるんじゃなくて?」
「……」
 二人の男は、同時に、急に真顔になりました。二人で顔を見合わせて、兄貴と呼ばれたほうが頷きます。
 どしどしとお姫様の前まで歩いてきて、その腕を捕らえました。
「ちょっ……何するのよ! 無礼者!」
「行くぞ」
「へい」
 二人組は静かな声のまま、短いやりとりを済ませると、お姫様を引きずるように歩き出しました。
「離しなさい! この……誰か、この罪人たちを捕まえなさい!」
 街の人たちは、ざわざわと事の成り行きを眺めるだけで、誰もお姫様を助けようとはしません。
 お姫様は、どうして、という思いでした。
 誰でも嘘を指摘されると弱気になって思うままに操れると信じていたのです。こんな状況は、想定していませんでした。
 お姫様は、小さな汚い小屋に連れて行かれました。

******



「さて」
 見下ろせば、旧都。
 普段は入るどころか、ここまで近づきすらしない場所だ。
 燐は、しげしげと目下に開けた平原と街を見つめる。
「燐。ここで、お別れよ」
「おかわり?」
「いただきます。……いいえ、お別れ、よ。サヨナラ、グッバイ」
「おわかれ」
「旧都に行くのも、このあたりで気ままに生きるのも自由よ。旧都の向こう側なら、確か果物だって手に入るはずよ。行ってみるといいわ」
「きゅーと」
「今、あなたが見ているものよ。色んな子たちが住んでいるわ。……きっと、楽しいわよ」
 どこまで話が通じているのかはわからないが、燐の目は好奇心に輝いている。
 街というものは、誰でも憧れる場所だ。そこには人――この場合は妖怪も物も溢れている。
「じゃあね。今まで仲良くしてくれてありがとう、燐。強く生きなさい」
 絡みつく腕をゆっくりと外して、逆に一度燐の手をきゅっと握って、見送りの言葉を贈る。
 これ以上余計な言葉を重ねる必要もない。さとりは、手を離すとすぐに、くる、と身を翻す。

 歩き出す。ペットとの別れは初めてではないが、自ら手放すという経験は今までにはなかった。
 心が痛まないわけではない。それが、決して罪悪感や同情といったものではなく、ただ単純にこの別れが辛いものだからだということもわかっていた。
「でも」
 少しずつ早足になりながら、俯いて小さく呟く。
「でも、どうしろっていうの」
 今度こそ。燐となら、ずっと仲良くやっていけるなんて、そんな期待など持てるはずがない。昔はもしかしたらとも思っていたが、やはり例外はないのだと思い知らされてきた。
 妖怪も、人間も、怨霊でさえ、さとりを恐れる。そのような目で見られること自体はとっくに慣れていたが、やはり仲がいい――少なくともさとりがそう思っている相手から敬遠されるというのは、痛みが違うのだ。あのような思いはしたくない。
 だから、これは自衛手段だった。
 早期治療と言ってもいい。同じ痛みが伴うならば、小さいほうがいいに決まっている。
 決意を新たにするために、聞こえるはずのない言葉を、もう一度贈る。
「……ありがとう、燐。あなたと過ごした時間は忘れなうぐぇっ!?」
 服が後ろに引っ張られて、喉に軽く食い込んだ。
 強さそのものはたいしたものではなかったといえ、予想外の衝撃に思わぬ悲鳴が漏れてしまった。
 首だけでなんとか振り返ると、燐はそこにいた。向こう側を指差している。
「きゅーと」
 じーっとさとりの顔を見つめている。
 行きたいようだ。
「え、ええ。街に興味があるならいってらっしゃい。でも、私は行かないの。わかって」
 手をなんとか振り払って、なるべく燐の顔を見ないようにして、また歩き出す。
「なー」
 後方の声は気にせず、歩く。早歩きで歩く。

 ひたひた。足音が近づいてきた。
 さらに速度を上げる。

 すたすたすた。なお近づいてくる。
 小走りになる。

 たったった……。むしろさらに距離は縮まっている気配がする。
 駆け出す。前傾姿勢になって、本格的に速度を出す。

 足を前へ、前へ。次々に前へ。
(大丈夫……私は、走れる。走れる!)
 風が体を撫でる。猛烈な空気抵抗に襲われる。だが、いまのさとりを止められはしない。地面は味方をしてくれる。何より挫けない心がある。強い思いさえあれば、どんな困難だって。今走らなければいつ走るというのか。人間はよく人生をマラソンに例えるという。そんな走り続ける生き方などごめんだと思っていたが、走るのも案外気持ちのいいものだと気づく。少しずつ体が風と一体化していくかのようで、
 などと考えているうちに、燐は隣を段違いの速度で抜き去っていった。
「……っ」
 燐は、しばらく走ったあと、こちらに振り返る。振り返って、大きく手を上げた。それくらいの余裕があるほどの差があった。
「く、は、はぁ、はぁ……」
 完敗を認めざるを得ない。さとりは、息が上がっていた。
 燐のもとにたどり着いたときには、足が軽くふらつくほどだった。
 がく、と一度体を折る。手で膝を押さえる。
「ふふ……さすがね、燐」
 同じように手を上げて、腕同士をがしっとぶつけあう。
「なー!」
「見事、あなたの勝ちよ」
 人型になったばかりの体で、見事な走りだった。才能とはこのことなのかもしれない、と思う。
 ふらつく体を、燐に預ける。燐は喜んでそれを受け止める。
「ありがとう、燐。本当――」
 さとりは、目を閉じる。
「本当、何で青春ドラマやってるんでしょう、私は……」
 このあたりで、ようやく我に返った。

 結果的に壮大に無駄なエネルギーを消耗したところで、森のあたりまで戻ってきていた。今日は燐と別れてからそのまま帰り道の途中で食料採集を行う予定だったため、少し予定と違っていようと、このまま帰るわけにはいかない。
 とりあえずは燐を振り払うことは諦めて、日課に戻る。あまり遅れると他のペットたちに心配をかけてしまう。
 水は、もっと自宅の近くで手に入れることになる。今日は一度帰ってから改めて出るつもりだった。今から集めるのは、もっと軽くてすむ食料だ。
 この季節はさほど苦労はしない。秋に比べると寂しいものではあるが、食用に向いているきのこ類や草花がそれなりに多い。
 適当に収穫が多そうな場所を見繕って、しゃがみこんで採集を始める。燐は、黙ったままさとりの隣にしゃがむ。じっと、作業の様子を見つめる。さとりが移動すると、ぴたりとそれについてくる。
 食べ物を集めるのは時間のかかる作業だ。延々と移動と採集を繰り返す単調な作業だ。燐は、時折なーと鳴く以外はじっとさとりの動きを観察している。飽きないのだろうかと少し心配してしまうが、あえて話しかけたりはしない。飽きてどこかにいってしまうのであれば、それはそれで本来の目的どおりだ。
 などと思っていると、燐は今度は採集の真似を始めた。さとりと同じようにして、きのこや植物を引き抜こうとする。当然のようにそううまくはいかず、うまく抜けなかったり、先端で切ってしまったりする。
「……うー?」
 ちら、と横目でその様子を眺める。
 さとりの手元を見てずっと学習していたのだろうか。色々コツのある作業で、しかも人の手をまだ手に入れたばかりという身ではそううまくはいかないだろう。さとりは、不思議そうにぷちぷちと草の先端をちぎり続ける燐を見て、ため息をついた。
「力の入れ方が違うの。こう」
 燐の手に手を重ねる。
「どこに力をかけるのかをイメージするの……って、そんな難しいこと言っても通じないかしら」
 言葉より実践。
「植物はね、根元が一番強いの。だから、持つならここ」
 手を導いて、ぐっと握らせる。
 握る力は強く、ただし茎や葉を傷つけない程度に。その力加減を教える。
 少しずつ土から根を剥がしていくように、ゆっくりと回転させながら引っ張りあげる。
 そろそろ、というタイミングを見計らって、あとは一気に引き抜く。
 ずぼ、と綺麗に根元から抜けた野草を見て、なー、と燐は喜んだ。
「こんな感じね。ただ、力加減とかは種類によって違うから」
 燐は続いて近くにある草を抜きにかかろうとする。
「それは手だけじゃ難しいわ。スコップがないと。あと、それは食用には向かない」
 同じようにやっても抜けそうにないのを確認すると燐は首を傾げて、さとりに助けを求める。
 やれやれ、とさとりは苦笑いを浮かべる。
 今日の食料採集に、新しい仕事が一つ増えた。

 そろそろ十分な量が揃ったかという頃、燐がくいくいと袖を引っ張った。
「どうしたの?」
 燐の飲み込みは早く、三種類程度の草花やその抜き方をもう覚えていた。とりあえず覚えたものだけ抜いてもらっていると、気がつけばかなりの量になっていた。
 先程までたくさんの草を両手で抱えていたのだが、今はそれを土の上に全部置いている。
 代わりに、右手に何かを持っていた。掌の上に、小さい白い石のようなものがちょこんと置かれている。
 にあー、と燐は笑って、それをさとりに差し出した。
「ぷりせんとー」
 さとりは、その石の名前だろうか、と少し考える。
 少なくともそんな名前の石は知らない。宝石のような響きを感じないでもないのだが。
「……もしかして、プレゼント、かしら?」
「ぷれ……ぷれせんと!」
「それを私にくれるのね」
「な」
 さとりが手を伸ばすと、燐は嬉しそうにその石を手渡した。
 白い、きれいな星型をした石だった。
 自然のものではないだろう。森の中に普通に落ちている石としては綺麗すぎる。誰かの落し物と考えるのが自然だった。
 それほど高価なものには見えない。いわくつきのものでなければ、森の中で落としたとなると諦めがつくものだろう――つまり、もらっても問題なさそうだ。
「ありがとう、燐」
「♪」
 それを小さなポーチに収める。
 ついでに頭を撫で……ようとして、土まみれになっていることを思い出して、手を引っ込める。
 燐が改めて置いていた野草を拾い上げたところで、さあそろそろ帰りましょうと伝える。歩き出すと、喜んでついてきた。
 燐に色々と教える時間がかかったとはいえ、今日はそれでもいつもと同じくらいか少し早いくらいで作業を終えることができた。人手というのはこれほどありがたいものなのか、と実感する。
 何より一人で淡々と草を抜き続けるより、楽しいものだと気付いた。
 綺麗な贈り物まで貰ってしまって、気分はいい。

「あれ?」
 帰り道を上機嫌で歩きながら、さとりはふと気付く。
 燐の前で、プレゼントなどという言葉を使ったことがあっただろうか。
 ちら、と燐の横顔を覗いてみるが、もちろん答えが返ってくるはずもない。
 まあ、どこか遊びにいっているときにでも偶然誰かの会話を聞いたのだろう、と、あまり気にしないことにした。



******

「何するのよ!」
 お姫様は乱暴に地面に投げつけられました。
 今まで経験したことのない暴力にも、恐れずにきっと男たちを睨みつけます。
「おいガキ、お前何者だ?」
「何で俺たちのことを知っている……?」
 二人の男は、怒りを込めながらも真剣な声でお姫様に詰め寄ります。
「なんでって……嘘つきは顔を見れば分かるのよ!」
 リボンのことは教えるわけにはいきません。リボンの力を知っているお姫様は、それが他の誰かの手に渡ることの恐ろしさを知っていました。
「いいか、確かに俺たちは本当の兄弟じゃない。だが、もう何年もそうして生きてきたし、俺たちのことをよく知ってる奴らでもみんな信じてんだ」
「なんでお前みたいなガキが――」
 そのとき、「弟」のほうが、じりじりと近づく動きをぴたりと止めました。
 目を丸くして、驚いて口を開いています。
「? おい、どうした」
「あ、兄貴。俺、こいつ……見たこと、ある」
「なんだと」
 冷や汗をかきながら、「弟」はじっとお姫様を見詰めます。お姫様は、苦々しい表情で目を逸らします。
「鷲だ……」
「あん?」
「服の胸のところ……鷲の紋章」
「なんだと……ち、まじかよ。王室の印じゃないか」
「ま、間違いない。王女だぜ、こりゃ」
 なんてことだ、と「弟」は頭を抱える。
「けっ、なんで王女様がこんな街中をほっつき歩いてるんだよ。ついに捨てられたんじゃねえか?」
「お、おい、兄貴、まずいって」
「じゃなかったら、なんでこんなところにいるんだよ。いよいよ本当の子供が生まれたから邪魔になったんじゃないか」
 ここまでの会話を黙って聞いていたお姫様は、その言葉にはっと顔を上げます。
「なんですって……?」
「この反応、図星かもしれねえな? お前、王様の子供じゃねえんだろう?」
「……!」
 お姫様は、衝撃を受けました。
 自分の父親は間違いなく王様です。このような男の言うことに動揺する必要はないと思いながらも、まず、世間でそのような噂が流れているということ自体がショックでした。
「何を……馬鹿なことを」
「誰でも知ってることだぜ。未亡人になったばかりのレオン姫を迎えて、何ヶ月かで生まれた子供だろ」
「父を……母を侮辱するな!」
「事実だろ? 信じられないんなら、帰ったらお父様に聞いてみたらどうだ。私は誰の子なんでしょうか、ってな。おっともう帰る場所はないんだったか?」
「……っ」
 きっ、とお姫様は男を睨みつけます。飛び掛ろうと思ったのは、すんでで留まりました。
 こんな男の相手をしていても仕方がないのです。
 そんなことより、もっと大事なことがあります。
 俯いて、袖に隠した黒いリボンをちら、と覗きます。
 そこにきっと書かれているはずだからです。お姫様は王様の子ではない、という嘘が。それさえ確認すれば、余裕の態度で反論できるのです。
 それさえ――

「……嘘」
 ありません。
 お姫様は、男の言葉を最初に聞いたときよりもはるかに大きな衝撃を受けました。
 ありません。
 何度探しても、ありません。
 リボンは不完全なものに違いない、と思い、今度は白いリボンを見ます。
 その文章は、すぐに見つかりました。見つけてしまいました。
「……うそ……」
 何度読んでも、何度読み返しても、確かに今男が言ったとおりの内容が、白いリボンに書かれていました。
「間違いよ……これは、間違いよね……」
 リボンをぎゅっと握り締めます。指で文字を擦ります。文字は、消えません。
「嘘……なんだから……」
 じわり。涙が浮かんできます。
 父の、母の、優しい笑顔を思い出します。声を思い出します。ずっと、何も疑わず、本当の親子だと思って過ごしてきました。
 ぽたり。ぽたり。
 涙は溢れ出て、頬を伝い、床に落ちていきます。
 男が何か囃し立てるような言葉を発しましたが、お姫様にはもう聞こえませんでした。
「う……うあ……ああああああっ!」
 お姫様は立ち上がって、リボンを思い切り引っ張って引きちぎろうとしますが、びくともしません。
 何度も引っ張りましたが、まったくの無駄でした。
「お、おい、こいつ、大丈夫か?」
「あ、う……あ、なた……何かっ! ぅ……書くものを、貸しなさい……!」
「お? おう」
 男が差し出したペンをひったくると、お姫様は白いリボンに書かれた文章の上に、めちゃくちゃにペンを走らせて見えなくしてしまいました。
 それだけではなく、震える手で、文章を書き足していきます。
 私は、お父様の、王の本当の娘です、と。

 途端に、リボンはみるみる変色していきました。
 白いリボンも、そして黒いリボンも、同じように灰色に変わっていきます。
「あ……あ……」
 書かれている文章も、勝手にめちゃくちゃになっていきました。どちらにも、科学的な真実から適当な都市伝説まで混ざり合った、何も判断のしようのないものに変わっていきました。
「あ……は……はは……」
 リボンを見つめながら、涙を流して、お姫様は乾いた笑い声を漏らします。
 これでもう、何も真実はわからなくなりました。

******



 燐は、食事を作るところもじっと観察していた。
 今までの低い視点からではまったく見えなかったところということもあってか、なお一層凝視して一つ一つの動きを追おうとしている。
 つい先ほど、帰ってきてすぐのときには、両手いっぱいに今日の収穫を持った燐が空に襲われていた。撃退するために両手を使ったため、そのとき持っていた食材は全て一度は床に落ちている。正確には、空が奪っていったもの以外は。
 さとりに掃除などまともにする気がない以上、床の不衛生さは保証されている。が、さとりは少しも慌てることなく、少し洗えば問題ないと言った。どちらにせよ食べるペットたちは細かいことは気にしないのだ。
「熱いから気をつけて」
 燐は直接火には近づかないものの、火にくべた鍋やその中身もまた熱いという知識はないのか、中を覗き込もうとして蒸気に襲われて、驚いて悲鳴をあげる。
「あつい」
「そう、熱いの」
「さとり、あつい」
「私はどちらかといえば冷たい」
「??」
 そういえば燐の食事は今までどおりでいいのだろうか、と少し悩む。本来の予定であれば、この時点で燐とは別れているはずだったのだ。食事問題は先送りというより問題なしと想定していた。
 とりあえずの結論としては、今までどおりでいいということにする。なんにしてもいまさら作り直しなど面倒だ。
「そういえば、燐。すぐに猫型に戻れるの?」
 ふと疑問に思う。
 動物系の妖怪が人型を取る場合、人型ともとの姿の間を自由に、またはなんらかの制限つきで、変化できることが多い。中にはずっと人型で過ごし続けた結果戻り方を失う者もいるらしいということはさとりも知っていた。
 果たして燐はどうなのか、となると、それは今は知る由もない。
「ねこがた?」
「つまり、燐の昔の形に、また変化できる?」
「なー……?」
「……うーん」
 まだまだコミュニケーションは難しい。言葉を覚えていくにも、やはりある程度の時間は必要ということだ。
「って」
 ふるふる。
 さとりは首を軽く横に振る。
「だから、そうなる前にさよならしないといけないんだって」
 一度失敗したからか、どうにも意識が弱くなりつつあることを自覚はしていた。
 そろそろと時間を見計らって、火を止める。
 あとは人数分の皿に取り分けて、よく冷ますだけだ。料理と呼べるほどのものではないが、ペットたちにはこれで十分であるし、何より凝ったものを作るだけの調味料や材料がない。
「お皿に入れてもすぐは熱いからね。冷めるまでしばらく待つの」
 相変わらず様子を眺めている燐に、一応注意をしておく。
 しばらくは待つだけの時間になる。さとりは、近くの椅子に腰掛けて休む。
「燐、あなたも座る?」
「すわる?」
「こう」
 さとりは一度立ち上がって、もう一度腰掛けてみせる。
「♪」
 にこ、と燐は笑った。
 嬉しそうに、同じ動作で腰掛ける。
 さとりの上に。
 ぽむ。柔らかいお尻の感触を、膝の上に感じる。
「あ……うん。その、間違いじゃないんだけど、こうじゃなくて」
 重い。
 前が見えない。
「燐、立って。とりあえず」
「?」
 なんとなく困っているということには気付いたのか、燐はすんなりと立ち上がった。
 振り返って、さとりの顔を覗き込む。
「えっと、惜しいんだけどね」
「!」
 わかった、ともう一度にこり微笑んで、先程と同じように座る。
 今度はさとりに正対して、股を開いてさとりの膝の上にしっかりと乗る。
「なー♪」
 燐の首がちょうど目の前にくる。あと数センチというところまで。燐が背を曲げて首を下げる。顔が真正面から向き合う。
 近い。
 重い。
「……不正解」
「?」
 少し顔が赤くなるのを自覚しながら、さとりは目を閉じて燐の体を押しのけた。

 食事は、他のペットたちには今までどおり出してみる。
 燐も人の姿のまま四つんばいになって皿に口を伸ばそうとしたので、とりあえず燐の皿は取り上げた。
「なー!?」
 取り返そうとするように燐が手を伸ばしてくるが、ダメ、と手でサインを出す。
 このあたりも教えないといけないようだ。
 椅子に座らせて、箸を持たせて。
「うー……」
 目の前に食事を出されているのにありつけないという状況に焦れて唸る燐に構わず、箸の使い方を教える。ぽろぽろ落とす。握らせる。動かせない。
 速攻で諦めた。
 仕方ない、と呟いて、さとりは自分で箸を持って、食べ物をつまむ。
「はい、口開けて」
「なー!」
 目の前に差し出されたきのこを一つ、待ってましたとばかりに勢いよく口に入れる。
 美味しそうに食べる。とりあえず今までどおりであまり問題はないようだった。味覚は違うはずなので、おそらく本当はちゃんと味付けを行ったもののほうがより好むのだろうとは思うが、今までどおりですむならそのほうが楽だ。
 ひとつひとつ手にとって、燐の口元に運んでいく。
 燐は嬉しそうに全部食べきった。いつもと同じ量なのだが、まだ少し物足りないようで、なくなったのを知ると少し悲しそうな顔をした。

 食事後は、とりあえず箸の持ち方と使い方の練習時間となった。
 丁寧にひとつひとつ教えていく。燐は真剣になって覚えようとする。
 途中、空がやたらに二人の周囲を飛び回ってちょっかいをだしてきたのでそれに注意するのに時間をとられてしまったが、やはり燐の飲み込みは早かった。
 教えながら、ふと我に返る。
「少しずつ、この家で暮らすための知識を身につけさせていってしまってる……」

 さて、寝る場所の問題だ。
 昨日はとりあえず自分のベッドを提供したが、これから毎日さとりの代わりに燐がベッドを使うというわけにもいかない。
 部屋自体はいくらでも空き部屋はある。ただ、布団の余りはない。
 さとりの布団以外にあるのは、滅多に帰ってこない、普段どこにいるかもよくわからない妹の分だけだった。どうせここで寝ることはないのだからと提供してしまう手もなくはないのだが、やはりそれはそれで気が引ける。
 となると、現状ベストの答えは、こうなる。
「狭いけど、我慢してね」
「せまい?」
 同じ布団に二人。
 さとりが誘うまでもなく、布団の準備を見ると燐は喜んで潜りこんできた。
 きらきらと輝く目で、寝転びながらさとりの顔を真正面から見つめてくる。近い。
「狭いっていうのは、こういう状態」
「せまい!」
 とても楽しそうに、燐は繰り返した。
「ちょっと寝苦しいかもしれないけど、許してきゃっ!?」
 唐突に燐がさとりに抱きついてきた。
 燐のほうが長身という関係上、さとりのほうの全身が包み込まれる状態になる。燐は気持ち良さそうに、んーっと鼻声を漏らす。
「ちょ、ちょっと、燐」
「さとりー」
「え? 何?」
「さとり、さとり」
 きゅー。
 名前を呼んで、抱きつく力を少し強める。痛いほどではないが、割と本気で押し返さないと脱出できなさそうな程度の力。
「あなたー」
 とりあえず名前を呼んでいるだけのようだった。
「あなた、さとり、せまい」
 というより、単語を羅列しているようだった。
「私の何が狭いと」
 心かもしれない。
 ……もちろん、意味があって何か言ってるわけではないのはわかったうえで、つい心の中でのってしまっているだけだ。
 燐の腕の中でもぞもぞと動きながら、思う。
「……柔らかい」
「な?」
 人の体とはこうも柔らかいものかと、ぼんやりと思う。
 柔らかさという意味ではペットたちの普段の姿でも十分に柔らかいのだが、こうして包み込まれるように抱かれるととてもよく実感できるということがわかった。
 それに、暖かい。
 多少息苦しいが、なんだか安心できる。
 振りほどこうという気にはなれなかった。
「おやすみ、燐」
「おやすみ!」
 おやすみは通じるんだなあ、とどこか上の空で考えながら、さとりは急速に眠りに落ちていった。



後編へ