「緊急事態なんだよっ!」
机を思い切り叩く音が教室中に響く。隣接した机はおろか、そのさらに向こうの机までもが連鎖的にがたんと揺れる。局地的に震度3弱程度。
びっくりして振り返る周囲の生徒たち―――あるいはちらっと反応したもののその声の主を確認するとすぐに軽く苦笑を浮かべながらまた自分達の用事に戻る生徒たち。この教室の生徒は皆、ちょっとした騒ぎには慣れているのだ。
特に、その発信源がある一組のカップルであった場合。
いきなりとんでもない勢いで机を叩かれた祐一は椅子ごとのけぞりながら、自身を落ち着かせるように心臓のあたりを手で押さえている。
「き、緊急事態ってナンデスカ名雪さん…」
思わず敬語になってしまうほどに。
ホームルームが終わってからしばらく机からじっと動かなかった名雪が突然に祐一の机を叩いたのだ。名雪の突飛な行動には慣れているからといって、驚かないものでもない。
…隣で祐一と世間話していた香里は表情一つ変えなかったが。
「決まってるよ―――」
祐一の机に載せた右手に力を込める。
大きく息を吸って、間をとって。
「これだよっ!!」
左手に持ったわら半紙の冊子を目の前に大きく掲げた。
―――表紙に「修学旅行のしおり」と書かれた冊子を。
ええと…と、数秒間色々考えて祐一が口を開く。
「…実は名雪は枕が変わると眠れないタイプ、だとか?」
「違うよっ!わたしは学校の机でも雪の積もった道路上でもスーツケースの中でもどこでも寝られるよっ」
「自慢げに言われても」
よく分からないが、名雪の興奮はかなり激しい。
…スーツケースは根本的に無理だろと思った。幾何学的に。
「だって、見てよコレ!?自由時間すっごく少ないよっ!夜なんて9時以降は部屋の移動も禁止だよっ」
はあ、と祐一は生返事を返す。しおりは簡単に目を通したが、まあ一般的な修学旅行というのはこんなモノだろうと思った。特に厳しいというわけでもないだろう。
だいたい名雪は9時といったらもう寝ている時間だ。
「…それで?」
「それでって…酷いよ祐一っ…だってコレじゃ、祐一と二人っきりになる時間が全然ないんだよ!?」
「ふ、二人っきりって…お前な………」
周囲では数人の女生徒がくすくすと笑っている。一部の生徒は「またか…アイツらは」みたいに呆れた視線を投げかけてくる。
すぐ隣…名雪よりもむしろ近い距離にいる香里は特に興味も無さそうに無表情に二人を眺めている。
「いいじゃないか、修学旅行くらい…こういうのはみんなで楽しむものだからさ」
なんとなく名雪と周囲と両方に気後れしながら、祐一は無難な答えを返しておく。
「そんな…っ!祐一の愛はその程度のものだったんだ…わたしは授業中も家でもベッドでもお風呂でもずっと祐一のコト想ってて」
「あああストップ!つ、続きは家で話そう、な?」
だんだん深い話になりそうな気配だったので慌てて傷が浅いうちに止める。
「…うん。分かった。ゆっくり、話そうねっ」
この時にも既に少しだけ、嫌な予感は感じていた。
そして、悟っていた。もう「名雪」に巻き込まれている、と。
祐一は名雪に引きずられるように―――否。引きずられて、教室を後にした。香里は適当にひらひらと手を振って見送る。
「――ふーん?」
と、その隣で、上のほうから声がした。香里の隣、見上げるとクラスメイトが立っていた。
”歩く増幅伝達関数”――相沢祐一は彼女のことをそう呼んでいたか。その彼女。
目がきらん☆と光ったように見えた。
「…どう思う?なかなか面白い事になりそうな予感濃縮果汁還元80%だと思わない、かおりん?」
「かおりんって呼ばないで…」
香里はむしろその目の前の彼女の言葉に、別の気配を読み取っていた。どうも、ロクなことになりそうにない…そんな予感。
あと果汁80%は中途半端なのでいっそ100%にすべきではと思った。どうでもいいが。
「そうだよね――3泊4日。愛する事を知ったばかりの若い二人にはあまりに長く耐え切れない期間……やんっ、愛するだなんてーっ♪もう、何ヘンな事言わせんのかおりんったらっ」
何も言わせていない。
彼女は勝手に一人で盛り上がって頬を染めて手をばたばたさせている。
「かおりんはやめて…」
「ね、ね、ところでさ、やっぱりあの二人の場合、名雪が上なのかなっ」
「………上?」
「えと、つまり、こういうふうに」
きゃああっと小さく悲鳴をあげて、今度は香里が慌てて彼女の動作をストップさせた。
机に手を乗せた状態のまま、彼女はぴたりと動きを止める。
「り、理解はしたからジェスチャーはいいわ…」
「きゃ♪今想像した?想像した?やーもうっ、学年一の優等生さんもやっぱり実は結構」
「あああああっ」
教室に悲鳴が響く。
頭をかかえて顔を伏せる香里。反撃のしようもない。
まあまあ、と彼女は笑った。
「それより…絶対何かやってくれるよ、あの二人。楽しみだねかおりんっ」
「かおりん……」
名雪と祐一―――その二人の裏側で、もう一つの事態が始まろうとしていた。
何から話したら落ち着いてくれるだろうか。
お茶を軽く啜りながら考えてみる。
「こうやってさ、家でも学校でもいつでも顔を合わせてるんだから…少しくらいガマンできるだろ?」
色々考えた結果、最も単純な言葉を発していた。
「何言ってるの!?言っておくけどわたしは5分も祐一の顔見ないともう大脳皮質あたりにあるわくわく祐一ランドにれっつごーだよっ」
ずずいっ、と名雪の顔が真正面の視界を埋め尽くす。
近年稀に見る大迫力だ。
「い、いや、俺だってそりゃ出来ればいつだってこうやって二人でいたいよ。でもこういう時くらいはちゃんと友達関係も大切にしないと」
精一杯の正論のつもりだった。
納得させる自信もあった。
名雪でさえなければ。
「女の友情なんて…祐一との愛に比べたらそんなの、剣道で面じゃないほうの決め手と解く」
「………………そのココロは?」
「どうでもいい」
数秒、静寂が場を支配した。
祐一はむぅ、と深く唸った。
「…篭手かも知れないじゃないか」
「ああもう祐一っ!ああ言えば上祐!」
「いやそんな懐かしいネタを」
「あと中学生までは突きは反則なんだよ!」
「知らんっ」
ぜーはー、ぜーはー。
息の荒い哺乳類ヒト科が、二匹。
「―――というわけで、脱走だよ」
息が落ち着くと間もなく、名雪は言った。唐突に。
「…え?」
「夜に抜け出して二人で会うのっ。そう二人だけの秘密の逢瀬―――二人の愛は規則という名の鎖を断ち切ってどこまでも広がる青い空へと羽ばたくの」
「い、いやそんな比喩的表現はどうでもいいんだが脱走はマズいだろっ」
「愛のためには何でも許されるんだよっ!」
間違い。
「それとも何、祐一はわたしが3日間も寂しい夜を過ごすのを黙って見ているっていうの!?」
「いや見てはいないと思う」
「比喩表現にツッコまないでっ!」
「………」
確かに。
今のツッコミは祐一的にもどうかと思った。
「うぅ………祐一がそんな…そんな放置プレイ好きなヘンタイさんだったなんて…」
「誰がっ!?」
「でも口ではこう言いながらもきっと祐一はちゃんと夜這いをかけてくれるだろうと信じて待ってみたりしたい乙女の本音」
「………」
もはやどうツッコむべきか。
とりあえず「乙女」という単語に物申したかったが、そんな命知らずな事は堪えておく。
「さ、この予定表見てじっくりと脱走計画を決めようっ」
「だあああぁぁかーらーっ!!やめとけっつーにっ!!」
張り切って「修学旅行のしおり」を机に広げる名雪に精一杯の拒否を示す。ここで止めておかないとエラい事になるだろう。言わば今の祐一は、修学旅行が平穏に過ぎていくために必要最低限な条件を保守する役割を担っているのだ。
とは言え―――過去を振り返って考える。
過去にこのような状況で、祐一が名雪の暴走を止められた事があっただろうか?
…それが疑問ではなくて反語になる辺りが悲しい現実だった。
「…なあ………マジで、マジなのか?」
悲壮な表情を漂わせて祐一が尋ねる。
名雪は、さらりと答える。
「マジだよ」
「本気と書いてマジか?」
「東雲と書いてしののめだよ」
「むぅ……」
いまいち分かりづらいが、本気らしい。
「―――ここだね」
ふと、見開きで印刷されている地図上の一点を名雪が指差した。祐一は何も考えずその指先を追って、首をかしげる。
「…?代々木公園?」
「そう、代々木公園。略してY2K」
「いやその略はさすがにどうかと」
「いい―――?」
名雪は祐一の言葉を完全に無視して、今度は指をつつっと動かして別の一点で止める。そこは初日に宿泊する予定になっている旅館。地図上で見る限り代々木公園からは十分に近い――
「…って、まさか、おい」
「抜け出してここで会おう♪」
「却下だ!」
「それで時間とタイミングが問題なんだけど…」
最初からカケラほども祐一の意見を聞く気は無いらしい。
真っ向から否定意思を示す祐一に気付かないかのように、もう作戦の次の段階に頭を移している。指をこめかみに当てるしぐさで考え込む。
「点呼の後が安全かなぁ?」
「却下だって」
「それとも自由時間から点呼までの間に抜けだしたほうがいいのかな」
「抜け出さないっての」
…と、名雪は顔をあげて、寂しげにふっと笑った。目を伏せる。
祐一の顔を…じっと、正面から見据える。
じっと。
祐一は唐突なその表情の変化に思わずどきりとする。
「わたしね…祐一がいないとダメなんだ。カラダもココロも、いつも祐一だけでいっぱい。まるで麻薬みたい…少しでも抜けちゃうと辛くて辛くてたまらなくなっちゃう。こうして祐一が目の前にいるだけで―――」
話しているうちに、名雪の表情が溶けるように柔らかくなっていく。酔ったような、とろんとした目。瞳の輝きが増していく。…ネコにまたたびを与えたらこういう感じになるのだろうかと、そんなイメージ。
名雪は、いつの間にかぽーーーっと赤く熱を帯びている顔をゆっくりと祐一に近づけて…
――一気に、押し倒していた。
「…って、おいっ!?」
「祐一……大好き」
床に思い切り押さえつけながら、体全体で密着するように覆い被さる。熱い息が祐一の頬にかかる。すっかり熱くなっている名雪の全身の体温を体に感じる。
さらに熱くなるように、名雪がゆっくりと体全体を擦りつける…
「や、やめろっておいっ…はぅっ………」
「祐一…祐一は、わたしのこと、好きだよね?」
少し息を荒くしながら、潤んだ目で名雪が尋ねる。
真正面からその目を覗きこんでしまった祐一は、一瞬で…魔法にかかってしまう。
油断しているともう、気が遠くなりそうだった。こんな状態で好きなんて言われたら…言ってしまったら、すぐにでも、もう。
「4日間もこうして祐一の体温を感じる事ができないなんて………やだよっ…絶対に…」
耳元に響く声。零れ落ちてくる髪の香り。体の熱。
全てが祐一の感覚を麻痺させて…あるいは鋭敏にさせていく。
どくん―――という心臓の音は二人、どちらのものだったか。
「……俺だって…辛いよ」
「わたしは、もっと辛いんだよっ」
祐一は、薄れゆく理性の中で、今ここで流されてしまう事の危険性を感じていた。
感じていたが。
何にせよ、今はもう止まりそうになかった。
「名雪―――好きだ。俺だって本当は離したくない」
「…うん」
名雪がもうほとんど寝ているような、酔っ払っているような顔で祐一の顔を真正面に捉える。
話し合いの時間は、終わりだ。
名雪がゆっくりと顔を下ろして…
「あらあら」
―――がちゃりというドアの音とともに、第三者の声が聞こえた。
そして思い出す。
ここがリビングであることを。
「あああ秋子さんっ!?」
「ぅんっ………ゆういちぃ…ぁ………」
「こ、こら名雪っ!!気付けっ!!!」
今の状況…名雪が祐一に覆い被さって、全身を擦りつけている。見ようによっては、非常に―――
「名雪」
名雪の母は、静かに娘の名を呼んだ。
「んぅ………?…!?お、お母さんっ!?」
「気付くの、遅すぎ…」
祐一はぐったりと脱力して嘆息する。
慌てる二人を傍目に、母は、にっこりと微笑んだ。
「ほら、この床じゃ祐一さん、痛いでしょ。気遣ってあげないと」
「……………いえ…秋子さん何かこう、違いませんか…」
「あ…う、うん、そうだね……ごめんね祐一っ」
「いや、だから」
祐一はまだこの期に及んで水瀬家の常識を理解しきっていなかった。
微妙に―――もといあまりにズレまくっている二人の会話にパニックする。
母はいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、部屋を去っていった。ぱたん。ドアを閉じる音が静かに響く。
「………………」
「…ごめんね祐一、気付かなくて」
「…いや、だからそうじゃ」
「うーん………」
名雪は少し考えるように、首をかしげた。ちなみに体はまだ乗りかかったまま。
少し間を置いてから、名雪がゆっくりと体を離し、立ち上がる。
祐一はまだドキドキしたまま―――体はそう簡単には治まらない―――、なんとか後を追って立ち上がる。微妙に気まずい空気。
からからに喉が渇く。水でも飲もう―――
「ねえ、祐一」
名雪が、静かに呟いた。
また真剣な表情。祐一は意味も分からず動揺してどきりとする。
コップに注いだ「南アルプスの水」を口元に運び、こく…と一口飲んだ。
「公園のベンチも、この床くらいの固さだよね」
ぶーーーーっ!!
思い切り勢い良く吹きだした。
続く。