美坂香里は、1年の頃から学年1位を常にキープしている事で全学年にその名を轟かせている。

 年3回の実力試験では、掲示板に科目別に成績上位者の名前が発表される。そして総合では上位50人までがそこに名を残すことになる。
 上位陣の名前は自然に有名になっていくものだが、特にその中でも1位というのは特別である。2,3回も続けて1位を取ったとなればもう学年でその名を知らないものはいない程になる。
 1位と2位との差はあらゆる意味で大きいもので。
(……まただ。くっそ……コイツさえいなきゃ俺が1位取ってるのになぁ……)
 掲示板を見ながら心の中で悔しがる男がここにいた。
 僅差とは言えず、かなりの壁を感じるあたりがある意味でまだ落ち着いていられるのだが。
(美坂香里――どんなヤツなんだ。噂ばかり聞こえてくるが……会ってみたいもんだ)
 噂。曰く、才色兼備とは彼女の事だと。その程度のものではあるが。
 同じクラスにならず、クラブ活動も別となると知り合う機会はそうそうないものだ。おそらくは何度もすれ違った事はあるだろうが、その事には何の意味も無い。
(いつか、勝ってやるさ)
 ぐっと拳を握り締める。
 悔しがらせてやろう。自分の名前を覚えさせてやろう。
 打倒、美坂香里。まだ見ぬ頂点。
「――それにしても、本当に狙ったみたいな結果ね……」
 と。燃えているうちに、いつの間にか隣に男女2人が立っていた。二人して掲示板を見上げている――いや、どちらかと言えば角度的には見下ろしている、に近い辺りを見ているようだが。
 邪魔にならないようにと気を使って少し横に避ける。
 女子のほうが、呆れたような目でそれを眺めていた。
「ちょうど50位なんて。何か裏工作でもしたのかしら?」
「ふ。まあこれが俺の本当の実力ってことだな」
「……大したもんだわ、本当に」
 50位。
 なんとなくその言葉に吊られて、隣で会話を聞いていた男も視線を下ろしてみる。
 順位表は科目ごとに複数あるが、50位まで表示されているのは全科目総合だけである。
(――50位 61.6 相沢祐一……か)
 会話から判断すれば、この男女の男のほうが相沢祐一なのだろう。
 とりあえず、自分の敵になるような相手ではないようだ。
「というわけで、約束は果たしてもらうぞ」
「そんなに意気込まなくても分かってるわよ。全く、時々こういうわけわかんない事してくれるんだから」
「愛の力だな」
「欲の力、でしょ」
 はいはい、とため息をつきながら女の子は適当に話を受け払っている。
 恋人同士なのだろうか? それとも幼馴染?
 そんな事を想像させるような親密な雰囲気を感じさせる二人だった。
(まあ、どうでもいいか)
 あまり立ち聞きしているのもいいものではないだろう。とりあえずこの掲示板にもう用はない。
 二人組に背を向けて歩き出す――
「ホントに頑張った甲斐があったなー。これで香里とデートできるなら俺はいくらでも頑張れるぞ」
「……もうっ。こんなとこでそういう事言わないの」
「嬉しいからな。今すぐにもこの喜びを数式で表したいくらいだ。残念ながら余白が狭すぎてそれを表現することはできない」
「なんでフェルマーなのよ」
(――かおり?)
 ぴた、と彼は足を止めた。
 振り向く。
 二人はもう歩き出していた――自分とは反対方向に。男女とも、後姿しか見えない。何やらまだ妙な会話を続けているが、声はだんだん遠くなっていき、やがて聞き取れないほどになっていった。
 しばらくそれを眺めて……
「……まあ、珍しい名前じゃないしな」
 こつんと自分の頭を軽く突いて、またゆっくりと歩き出した。



 今度の実力試験で学年50位以内に入ったらデートしてくれ。
 それが、相沢祐一が、勉強会の途中に二人きりになった機会を狙ったようにとりつけた約束だった。
「それがちょうど50位なんてね。出来すぎよ」
 絶対に無理だと思っていたわけではなかった。過去の実績と現在の伸びを考えれば――厳しいが、本番で調子が良ければあり得る数字だとは睨んでいた。
 もちろん、その読みがあるうえで、約束を受け入れたのだ。
 つまり……嫌な気はしなかった、のだろう。少なくとも。
 認めるのは少々癪ではあるが。
 だからこそ、思わず今まで着た事のないようなちょっと気合入れた服を選んだりもしたのかもしれない……と、自己分析してみる。なんとなく、何も考えないでいると恥ずかしかった。
 しかし、この立場になってみて初めて気付いたものだが、待っているというのは妙に気恥ずかしい。なんとなく注目を浴びているような気がする。いかにも慣れないデートの待ち合わせ、という雰囲気が出ていたりはしないだろうか。
(まったく……なんであたしがこんな事で緊張しないといけないのよ。早く来てよ……)
 何の事はない、デートとは言えどもただ仲良しの友達といつものように遊ぶだけだ。デート、なんて言葉に祐一がこだわるから、気にしてしまうのだ。
 それだけのこと。
 ただ、祐一が、あんなに嬉しそうにデートだとはしゃぐものだから――
 意識するなというほうが無茶というものだ。
 その時は呆れて軽く流したものだが、落ち着いて反芻してみるととても照れくさいものである。どれくらい本気なのか分かったものではないが……いや、そんな事はない。相沢祐一という男の事はもう十分に分かっている。彼はいつも冗談のようで、そしていつでも本気なのだから。
 そっと、胸の前で手を合わせる。確実に脈拍が上がっている。……悔しいことに。
 決してそれが恋心からくるドキドキではない事は自信を持って言える。ただの緊張を恋愛と勘違いするほど純真なわけでもなかった。ただ、不慣れなだけ。
 こんな自分の姿を祐一に見せるつもりはない。少しでも緊張していたり恥ずかしがったりでもしようものならあの男は喜んでそこを突いてくるだろう。行動の予測が全くつかない相手だけに、隙は見せたくなかった。
 ともあれ、落ち着こう。
 ゆっくりと、ゆっくりと、深く息を吸う。
 目を閉じる。
 胸元を押さえながら、少しずつ空気を吐き出す……
「あ、かおりんだ」

 ぶほっ。
 咽た。

 肺から脱出しようとする空気と驚いた拍子に一気に吸い込んだ空気が見事に気管で激しい抱擁を交わしていた。早い話が、呼吸が一瞬止まって苦しい。
 けほ、けほ、と咳をしながら呼吸を整えているうちに、元凶たる声の主はあっという間にすぐ側まで来ていた。
「わぁ。かおりん可愛いー! 凄いー! ねえねえ、デート? デート?」
「……」
 挨拶も何もない。初球から全力込めたストレートをど真ん中に放ってきた。
 くらくらする頭を押さえながら、香里は小さくため息をつく。
 そこにいたのは、クラスメートの一人。最初に名前を呼ばれた時点で、見なくても誰かは分かっていた。香里の事を”かおりん”と呼ぶのは、他に誰もいない。
 さて。どうしたものか。さっそく悩みが増えてしまった。
「どうしたのかおりん? 元気ない?」
「……世の中上手くいかないものねと思いに耽っていたところよ」
「ありゃ。なんかヤな事でもあったの?」
 ついさっき出来たのよ、と言ってしまいたいものだが。
 目の前にいる彼女は、決して――控えめに言っても口が堅いほうではない。今ここで適当に追い払ったりしても、次の日に思い切り教室の中で「昨日結局誰とデートだったの?」と聞かれかねない。
 難題である。
 しかし答えは一瞬で出さなければならない。
「えーと……ね。別にあたしはデートとかそんなのじゃなくて。そう、友達と待ち合わせしてるだけよ」
 最も無難な言い訳を一つ。
 もっとスラスラと言えなかったあたりが減点要素である。嘘をつくのは不慣れではなかったはずなのだが。どうも今日は調子が悪い。
「そうなんだ。残念……かおりんの彼氏って見てみたいなぁ。かおりん頭いいから男の子も大変そうだよね」
「べ、別にそんな事無いわよ」
「また1位だったっしょ。まーちゃんが悔しがってたよー。アイツにだけは勝てそうにない、って。あたしからすれば3位で十分凄いんだけどなぁ。まーちゃんがそこまで言うんだからやっぱりかおりん凄いんだよ」
 まーちゃんというのが誰だか知らないが。まあ、1位を取りつづけている時点でそれくらいの順位の人からライバル視されている事は予想に難くないわけで、特に知らない人からどう言われようと気になるものでもなかった。正直、相手には悪いが、興味は無い。
 そんな事より今は少しでもこの会話を早く終わらせたい。香里の頭の中はそれだけだ。
 でないと。
「それにしても可愛いなぁ……これなら男の子が放っておくワケないと思うんだけどな。って、あれ、相沢君だ」
「え!?」


 よりにもよって。
「……やあ」
 こんなタイミングで。


 まずった、と思った。祐一は苦い顔で奥歯を噛み締める。
 遠目には香里の隣にいるのが誰なのか分かっていなかった。栞と一緒なんだろうか、となんとなく思っていた。それなら心配することはない。
 近づいて、それがクラスの女子だと気付いた時にはもう引き返せる距離ではなかった。
 先に発見されてしまったからには。
「や、相沢君」
「……こんにちは」
 びしっ、と敬礼のように手を上げて挨拶する彼女と、祐一と同様かける声に困って切れ味の悪い香里。
 ……不思議な沈黙が、一瞬場を襲う。
「ん?」
 彼女は見逃さなかった。
 不自然な二人の態度を。
 きょろきょろ。首を大きく動かして、二人の顔を交互に眺める。思わずとっさに目を逸らしてしまう香里。
(……アホ)
 祐一は心の中で呟くが、もう遅い。香里の態度は全ての言葉よりも事実を的確に表現していた。
 こんな時でも冷静さを装うくらいは得意だろうに――
 このシチュエーションは香里の計算機が処理できる範囲内ではなかったようだ。本人も一瞬遅れて自分のミスに気付いたのか、表情を後悔に歪める。
「なるほど」
 うんうん、と小さい体を全身使って頷く彼女。
 ばっ、と左手を祐一のほうに、右手を香里のほうに、指を思い切り広げて伸ばしてみせる。
「いや、邪魔して悪かったね。二人が密かにそんなカンケイだとはあたし見抜けなかったよ。学校ではあくまでいいお友達を装って休日にヒミツのデート。なるほど、あたしはかおりんの格好を見た時点ですぐに気付いて気を使って帰るべきだったね。ごめんね。まああたしの事は気にせずいつも通り二人きりの、学校では抑圧されて凝縮された濃厚な愛を存分に発散して、ねっとりと今日のデート楽しんできてね」
 長い。
 彼女の言葉は余計な修飾語が入ることが多いため、長い。それを一息で言うのだ。
 そしてふふ、と笑みを浮かべてさっと立ち去ろうとする――
「いや、待てって」
 危うく勢いに飲み込まれそうになったが。
 祐一は慌てて歩み去る彼女を引き止める。ここでこのまま帰すと完全にこの誤解をずっと引きずることになりそうだ。
 にこにこ顔のまま、振り向く彼女。
「いいか。確かに俺たちがここで待ち合わせていたのは事実だ」
「わかってるってば」
 にこにこ。
「あのね、桃園さん。別にで……デート、ってわけじゃないし、あたし達付き合っているわけでもないの。ただの買い物の手伝い……なのよ」
「そういう設定なんだよね。うん、大丈夫、ちゃんとあたしの心の中だけに仕舞っておくから♪ あとわたるちゃんって呼んでね」
 にこにこ。
 ああ。まるでわかってない。
 案の定。
 二人揃ってため息をつく。ばっちりタイミングが合った。

「……分かった。本当の事を言う」
 数秒の沈黙のあと、祐一が切り出した。
 はっと香里が顔を上げる。それを祐一は手で制する。
「ほんとのこと?」
「そうだ。このまま勘違いされると、俺はともかく香里に迷惑がかかるからな。しっかり聞いとけ。今日は俺が無理言って香里を誘っただけだ。ちょっとした勝負の結果で、香里は断れないんだ。俺たちは間違っても付き合ってはいないし……その予定も無い」
 情報の全てではないが、今必要なものの全て。
 大事なところの、全て。
 紛れも無い真実だけを語った。
 言葉の途中で一瞬祐一が表情を歪めた事には、誰も気付かない。
「分かったか?」
「ふーん」
 反面、返ってきた言葉は実に単調なものだった。
 彼女は首をかしげながら、もう一度祐一と香里の顔、両方を交互に見る。探るように。
 香里は目が合った瞬間、一瞬戸惑いながらもこくんと小さく頷いていた。
 彼女も軽く何度か頷き返す。
「ふーん……」
 もう一度、同じ言葉。
 ただし今度は一つ前とは語調が違っていた。そこには確かな納得の意思がある。
「分かったよ。まあどっちにしても邪魔しちゃってごめんね」
 分かったのか分かってないのが微妙な言葉。
「……」
 判断に迷ってどう言葉をかけたらいいのか悩む祐一に、彼女はちょいちょいと手を振ってみせた。
 サヨナラではなくて、コイコイの合図。
「?」
「相沢君、ちょっと耳貸して」
 なんだろう。
 迷うのはやめて、素直に彼女の側に寄る。身長差がかなりあるので中腰にならないといけない。
 小さな手が、祐一の耳元に添えられた。彼女の口が近づいてきて、息がかかる。くすぐったい。
「頑張ってね。結構脈アリだと思うよ」
 ……固まった。
 彼女は、にこにこと微笑んでいる。
「また明日ちゃんと聞かせてもらうよ。あたし応援してるからさ。あ、でも、あんまり焦っちゃダメだよ、うん。段取りはちゃんと踏まないといけないしまずは心を落ち着かせて、ベッドの上でも優しく声をかけるのを忘れないで。もちろん責任持ってちゃんと避にンきゅっ」
 がつん。
 祐一の拳が彼女の脳天に激しくヒットした。星が飛んだ。
「……帰れ」
「うぃーっす」
 ぴょこん、とすぐに復活する。ひひ、と品の無さそうな笑みを浮かべたまま。
 祐一にグッと親指を立ててみせてから、跳ねるように走り去っていった。
 すたたたたた。
 祐一は、大きくため息をついた。


「……相沢君、顔赤いわよ」
「気のせいだっ」
 静けさが戻った空間にぽそ、と香里の一言。
 言われなくても分かっていた。
「そうかしら。まあ、彼女の事だからだいたいどんな事言ったか想像つくけどね……言っとくけどあたしの事変な目で見たりしたら蹴るわよ。上段で」
 上段だと思い切り「見えそうだ」。
 なんて事は思っても言ってはいけない。
 祐一は心をなんとか切り替えるように首をぶんぶんと振る。激しく振る。
 振りすぎてちょっとくらっとした。
「……大丈夫だ」
「返事に随分と間があったような気がするけど。まあ、いいわ。それじゃ、今日はよろしくね」
 改めて、挨拶。
 はっと祐一は跳ねる。
「ああ、そういえば、ちょっと遅刻してしまった。待たせたな。悪い」
 言い忘れるところだった。想定外のトラブルで有耶無耶になってしまいそうだったが、実際自らが指定していた時間を数分オーバーしていたのだ。もしかするとあと10分早く来ていれば彼女と会う事もなかったかもしれないと思うとますます申し訳なく思う。
「あら。ちゃんと謝れるのはいい事だと思うけど、悪いっていうのは謝る言葉じゃないわね」
「……ごめんなさい」
「よくできました」
 香里が薄く微笑む。遅刻自体はそんなに気にしてはいないようだった。
「それとなっ」
 香里の言葉から間髪置かず、祐一は少し視線を下げたまま続ける。
「さっき……付き合う予定もないとか言ったけど、俺は本当にそう思ってるわけじゃないからな」
 気にしていたのだろう。それは祐一にとって大切な事だった。
 香里はしばらくきょとん、として祐一の言葉を耳の中で何度もリピートさせる。
 実際のところ、件の発言に関して香里は全く気にも留めていなかった。だからしばらく何のことか思い出せなかった。
 気付いて、ああ、と特に感動もなく呟く。
「――ふふ」
 笑う。
「なんだよ、その反応は」
「んー。まあ、今のところ付き合う予定が無いのは事実でしょ。先の事はあたしも知らないわよ」
「それは……そうだけどさ」
「まあまあ。……ふふ。相沢君って、結構可愛いとこあるのね」
「……うっさい」
 ふい、と祐一がそっぽを向く。
 まだつい先程の彼女の言葉が耳に残っているせいだろうか――動きが固い。
「あら拗ねちゃった。なでなでしてあげよっかー?」
「うわー。なんかこう物凄い屈辱というか殺意というか」
「本当はして欲しいくせに」
「……少しはな」
 くすくすと、今日一番の笑顔を見せる香里。
 最初の緊張はとっくに消えていた。デートなんて気にする事は無かったのだ。目の前にいる男が相沢祐一であることに違いはないのだから。
 むしろリードさえしてあげられるのではないかという余裕さえ出てくる。
「あと、もう一つ言い忘れていた」
 と。
 祐一が、少し表情を真剣にする。
 まだ紅潮している顔で香里と真正面に向かい合う。
 香里が目をぱちくりさせて言葉を待つ準備ができたのを確認して――
「今日の香里、今までで一番可愛いぞ」

 ――この不意打ちは、ずるい。
 せっかく一度いつもの緊張の無い関係に戻ったというのに、一気に雰囲気を変えるなんて。
 一瞬で頭に血が上って――もちろん、怒りの意味ではなく――、返す言葉が見つからない。
 風が吹いた。
 漆黒のワンピースが、ぱたぱたと揺れた。



続く。