「ねえ祐一、香里にアタックしたんだって?」


 あのデートの次の日から、もう香里と祐一はそれまでと何ら変わらないような友達生活を送っていた。と言っても、まだ4日目なのだが。
 祐一のほうは少し意識してしまうのだが、香里があまりに普通なのでそれに吊られているという格好になっている。ときどき思い出しては恥ずかしくて逃げたくなる時もあるのだが、香里の態度に助けられて気まずい思いはせずに済んでいるという状況だ。
 さて、この日の夜、食後にリビングでぼーっと休憩している時に名雪が切り出した一言は、祐一を凍りつかせるに十分なものだった。
「……どこから調べてきた」
「わたるちゃんから聞いたの」
「ああそうだよなそれ以外無いよな分かってたさちくしょー」
 投げやり。
 わたるちゃんというのは例の、デート当日待ち合わせの時にばったり出会ってしまったクラスメートの女の子の名前だ。少なくとも「アタックした」なんて情報を持っているのは香里と祐一の当人以外には彼女しかあり得ない。
 頭痛がした。
「あ、勘違いしないでね。わたるちゃんが言いふらしてたってわけじゃなくて……わたしがちょっと気になって聞いてみたら教えてくれただけだから」
 何をどう聞いたらそういう話になったのか。何が気になったのか。
 むしろどこをツッコめばいいのか却って悩んでしまう言葉だった。
「知らなかったよ。祐一が香里の事好きだったなんて……全然」
 それは知らなかっただろう。言わなかったし、名雪とはクラスも違うのだから。
 少し非難するような名雪の声に、別に報告する義務は無いと突っぱねたくなるが、それは出来なかった。
 名雪が気にかけてくれていることは、薄々気付いていたから。
 だからこそ、言えるわけが無かったのだが。
 なんとも返事が返せず、黙ってしまう。
「……それで、どうだったの? うまく行きそう?」
 上目遣いに、遠慮がちに目を覗きこんでくる。
 ……まあ、名雪の立場からすればそれは当然聞きたいだろう。聞かれたくないところなのだが。
 さあな、と軽くあしらうことも出来るのだが――
 覗きこんでくる目の真剣さに、祐一は苦笑してふう、と体の力を抜いた。
「フラれた」
 カッコつけても仕方ないだろう。これが事実なのだ。
 なんだかもう、一度言葉にしてしまうと、そんなものかと客観的に見ることができた気がする。
「え?」
 目をぱちくりさせる、名雪。
 予想外の言葉を聞いたという気持ちをそのまま顔に表している。
「フラれた」
 繰り返す。一度言えばあとは何度でも同じ。
「ほ、ほんと? 香里に?」
「そうだよ。そんなに驚く事か?」
「うん……祐一でもフラれる事ってあるんだね。びっくり」
「あのな。俺は別にそんなモテモテ君ってわけでもないぞ」
「わ。その発言はかなりたくさんの男の子を敵にしてるよ……」
 名雪が困った顔で苦笑いを浮かべる。
 祐一自身は実際、そんな自信を持てるわけではなかった。特に今なんて事実フラれたばかりなのである。
 加えて、香里ほどの才女なら今まで告白された事くらい何度でもあるだろう。それならフってきた数もそこそこにはなるはずだ。祐一が例外であるべきということもない。
 つまり、客観的に見れば祐一が香里にフラれることはそれほど驚く事ではないはずだった。
「でも……そっか。そうなんだ……」
 名雪が視線をずらして、呟く。
 何もない机の上を眺めているようなその目に浮かぶ感情は、祐一は読み取れなかった。
「……」
 もし、勝手な自惚れでなければ、祐一は名雪の想いにも気付いている。
 だから、こんな時には言葉に迷う。下手なことを言えない。
 名雪の気持ちを推し量ろうとしても、この状況は全く読めない。
「デートに誘ったんだよね? それで失敗しちゃったの?」
 先程までから一歩くらい遠慮したような声。
 目は合わせないまま。
「いや。上手くやった……と思う。デートは楽しかった。後悔していない。結局、まだ早かったってことだろうな」
「そっか」

 …………
 ……

 上手く言葉が繋がらない。まとまらない。浮かばない。
 名雪とこんな話をする機会があるとは思ってもみなかった。
「祐一さ、最近すごく勉強してるよね。……香里のため、だったんだね」
「ああ」

 …………
 ……

「ね、祐一。それじゃわたしとデートしよ」
 とても長く感じられる間があった後、久しぶりに名雪と祐一の目が合った。
 にっこりと、笑顔がそこにあった。
「……え?」



 何よりも、まず試験だ。
 今週の日曜日は例の全国統一模試で潰された。学校単位で申し込んでいるので学生は全員強制受験だ。
 3年生になると人によっては受けない科目も出てくるため、その日の大変さは人それぞれとなる。一般的に、香里や祐一あたりまでを含む成績上位組は全科目受験が基本となるため1日中拘束される事になる。
 祐一は、最後の科目、英語を終了時間10分前に見直しまで終わらせてぼーっと考え事をしていた。これで全て終了。終了の合図があるまでは開放感を味わう事は出来ないが、ひとまずは脱力してのんびりとする。
 出来としては、悪くないだろう。さすがに最近から急に頑張り始めたところで1年の頃からコツコツと蓄積してきたような相手にすぐに勝てるわけではないだろうが、自分なりにはかなり出来たと思っている。
 結局、結果は返ってくるまで分からないのだが。
(名雪とデートたってなぁ)
 余裕が出たところで、考えるのは名雪の事だった。
 正直なところ、あまり想像がつかなかった。最近は話す機会自体減っていたとはいえ、何度も街を一緒に歩く機会もあったし帰りに百花屋へ寄っていくことも1度や2度ではない。一緒に買い物をすることもよくある。面白そうな映画があれば必然的に名雪と一緒になる事が多かった。
 デート、となった時にそれらとどれくらい違うものになるのか分からないのだ。
 新鮮味も何も無い。結局普通に遊ぶだけになるのではないだろうか。
 ……むしろ、そのほうが気楽なのだ。そう望んでいるのかもしれない。
 なるほど、少し先日の香里の気持ちが分かるような気がした。わざわざデートという単語を使うと確かに普通の事にも意味を持ってしまう。名雪の誘いに軽く、まあいいかと返事した事をまだ時々悩む。
 香里に対する罪悪感のようなもの。
 正しくは、自分の中の香里への気持ちに対する、罪悪感。
 フラれている以上、何も気にすることはないじゃないかという思いと、自分の気持ちへの疑問。
 祐一は、名雪の気持ちを知っている。そこが問題だった。
(キープ……してるのかな。これは)
 名雪の魅力も知っていた。香里とは全く違うタイプだが、恋人の選択肢として名雪に不満があるなんて言おうものならそれこそ恋愛の神様さえ敵に回してしまいそうだ。
 香里の魅力が普段から溢れていて遠くから眺めるだけでも惚れてしまいそうな強力なものであるのに対して、名雪のそれは近くにいればいるほどもっと引き寄せられるような性質のものだった――それは磁石のような。
 だから、名雪にあまり近づきすぎるのは危険だと分かっている。祐一は名雪に惹かれてしまうだけの素地は既に持っているのだから。ただそれが育たないのは香里への気持ちがあったからこそ。
 香里への想いには自信があるつもりだ。とは言っても、フラれた後という状況で名雪に誘われて気持ちがぐらつかないほどタフだとも思えない。
 名雪はあの時ここまで考えてデートしようなんて言ったのだろうか?
 それともまた別の――
「はい、終了5分前です。名前受験番号等の書き忘れがないか確かめて下さい」
 ――と。
(考えるのは、後だ)
 思考中への割り込みで完全に意識が現実に戻された。
 残った時間で、もう一度誤字などの単純ミスがないかを調べにかかった。


「お疲れ様」
「おう、お疲れ」
 試験が終了して、答案用紙がすべて回収されるともう試験会場内――いつもの教室なのだが――はそこらじゅうで小さなグループに分かれて感想や先程の試験の解答について話し合っていた。
 香里は真っ先に祐一に近づいてきた。
「どう? 自信は」
「結構できた……と思う。俺にしては、だけどな」
「やるじゃない。1週間かなり無理したんじゃない? かなり疲れが溜まってそうに見えたから」
「無理ってほどじゃないな。これくらいはしないと俺はスタートが遅れているんだし。それで、香里のほうはどうなんだ?」
「ほぼ完璧よ」
 ぶい、とVサイン。
 相当な自信だ。一度は言ってみたい台詞である。
「ま、今の時期はまだ浪人生がかなり強いから全国順位は厳しくなるんだけどね」
「それなんだよなぁ……」
 祐一も頑張りはしたが、1年もしくはそれ以上のアドバンテージがある浪人生達も含むトップ組達と競うのは相当厳しい。成績上位者に名前を載せるという目標はやはり難しすぎたかもしれない。
 結果が出るのは、約1ヵ月後。夏休み直前になる。
「とりあえず相沢君。覚悟はしておいてね。今の間に何してもらうか考えておくから」
「へーい……」

 目の前で香里が笑っている。
 やっぱりいいな、と思う。何がいいのとは明確には言えないのだが。
 ただこんな話をしているだけで気持ちが落ち着いてゆく。
 香里が誰より先に自分に声をかけてくれた事も嬉しかった。子供じみた独占欲のようなものかもしれないが、ただ素直に嬉しかった。

 そして――例えば恋人同士になったとしたら、こんな心地よさは消えてしまうのだろうか?

 香里はその事を感じ取っていたのだろうか。
 変わってしまうかもしれない。何も変わらないかもしれない。
 香里の言う通り、先の事は分からない。
 今、幸せな気分で満たされる事が出来るなら、何も無理に先に進める必要はない……のだろうか。
 そう考えると、受験生という難しい時期にそんなリスクのある賭けをする意味はないように思える。もっと落ち着いてから考えればいいのだろう。
 あの時の香里の判断は、きっと正しい。
 確かに二人は、お互いを伸ばしあうことのできる、最高の――友達だった。

 その考え方が理屈に過ぎない事は知っていても。


「あーいざーわくーんっ」
 ぽん。
 祐一の後ろから声をかけて同時に肩を叩く者がいた。
 教室で香里と分かれた矢先である。この後祐一は別クラスの名雪を迎えに行くつもりだった。
 顔だけで振り向く。
 そこに、肩に手を置くのも結構無理しているのではないかと思える小さな体があった。右手をかなり伸ばしている。そして顔には営業用スマイル。
「……お前か」
「お前ってゆーな。わたるちゃんだ」
「はいはい」
 適当にあしらう。言葉も、肩に置かれた手も。
 まともに相手していたらキリが無い事は過去の付き合いから学んでいた。
「んで、この前の事をきっちり名雪にバラしたお前が何の用だ」
「あ。聞いたんだ」
「ばっちり聞いた」
「あっはは」
 まるきり悪びれの無いお返事。
 祐一は、がっくりと肩を落とす。
「まー、仕方ないっしょ。名雪ってば真剣なんだもん。偶然食堂で会った時に聞かれたんだよ。”ねえ、祐一って今誰かと付き合ってたりするの? クラスに仲のいい子とかいない?”……あれだけマジメに聞かれるとそりゃたまたまそれに答えられるあたしが協力しないわけにはいかないって」
「……そうなのか」
 これで、数日前の疑問の一つは解消された。
 なぜいきなりそんな事を聞きだしたのかは不明のままだが。
 しかし、これがもし名雪が偶然会っていたのが香里だったら――香里は何と答えただろうか。想像してみると少し怖くなる。
 それはそうと彼女の名雪真似は似ていなかった。
「それでさ、どうなの? かおりんと名雪とのドキドキ三角関係ライフはばっちり上手くいってる?」
 ずる……
 力が抜けそうになった。
 周囲にはまだ何人か他の学生も残っている。まあ、聞いてはいないだろうが。
 そんな事を全く気にせずこういう事を平気で言うから彼女は怖いのだ。
 冷や汗が流れる。
「まあ、ちょっと人のいない所で話そうか」
 別に何も話す義務は無いのだろうが――なんとなく、第三者の相談相手が欲しかったのかもしれない。
「……とりあえずあたしで欲求不満解消? 襲われる?」
「ああああああっ。お前いいからとりあえず現場まで黙れ。黙っとけ。頼むから」
「目立つと目撃者が増えちゃうからだね」
 なぜ彼女はにこにこ笑顔でそんな事を言えるのだろうか。
 くらくらする頭を抱える。
 相談相手を明らかに間違えていることに、相談前から気付いてしまった。

 で、結局、非常階段。
「あら。フラれちゃったんだ。やっぱり全然気付かなかったなぁ。見てても。まさかもう告白した後だなんて見えなかったよ」
 むむむ、と眉をひそめる彼女。
 祐一も、そう言われて改めて自覚する。自分達がいかに上手く「友達」を維持しているかを。
 喜んでいいのかどうか複雑なところだった。
「友達ねー。あたしの見る目が狂ったかな? あの時のかおりん、ただ友達と会うだけって感じじゃなかったんだけどなー。デートだからそういう雰囲気だっただけかなー。むー」
 指をこめかみに当てて唸りながら悩む。
「ま、結果が出たんなら今更考えてもしょーがないか。それで相沢君としてはこれからの方針は?」
「俺は……香里が好きだ」
「分かってるってば。それでどうするの? 名雪は……こっちは間違いなく相沢君のこと好きだよ、色男くん」
「……気付いてる」
 名雪本人は何も言っていないが、自分以外の意見としてその推測を聞かされると、やっぱりと思う。
 いっそ早く本人の口からそれが聞けたら、ここまで迷う必要も無かったのかもしれない。そんな勝手な事を思ってしまう。
「本命にフラれちゃったなら、早く諦めて名雪とくっつけば――なんて簡単なコトじゃ無さそうだねぇ。はぁ。ヤヤコシイのは嫌いだなー」
 やれやれと彼女は肩を竦める。
「とりあえず相沢君から見て名雪はどんなトコ?」
 祐一が返事の言葉を探す間にどんどんと彼女は言葉を投げかけてくる。考える間を与えられない。
 なんだか尋問を受けている気分だった。
 しかも、いきなりとびきりの難問を渡された。
「兄妹みたいな感じ……ってヤツかな」
 友達、ではない。こっちは違う。
 もっと、いつでも近くにいるのが当然のような存在。実際に、兄妹ではないにせよ近い血縁がしっかりあるのだから当たり前ではあるのかもしれない。
 友達とテレビのチャンネル争いをする事は滅多にないだろうが、兄妹ならよくあることだ。簡単に言えばそんな違いである。
 ――ただ、自分のこの言葉には魔法がかけてあることを知っている。
 祐一は、自分がいつ名雪に恋に落ちてもおかしくないような、一歩手前の状態にまで行っている事を分かっていた。それを留めるための言葉の魔法。
<だって、兄妹なんだから>
 この魔法は強力に働いていた。香里への気持ちがある限り、ずっと不滅のはずだった。
 だけど――香里は、友達。
 フラれたこと、名雪に誘われたこと、重ね合わせてこの心のバランスを崩そうとするかのように。
「俺……正直言って分からないんだ。香里の事が好きだ。だけどそれも実は友達としてだったのか。今もまだ上手く話が出来るのは結局友達として好きだったからなのか」
「あー、ストップ。そういう難しい話はあたしはわかんないから。ま、でも、そうだね。今の時点で決着をつけやすいほうからとりあえず何とかしてみたら? 名雪のほうをさ」
「……ああ、悪い。お前に言う事じゃなかったな。すまん」
「そうそう。頑張りなってさ。贅沢な悩みなんだしー」
 にひひ。いやらしい笑いを見せる彼女。
 ふ……と祐一も肩の力を抜く。確かに、言われてみればその通りだ。
「――ありがとな。人生のうち3度までしかないお前に感謝する機会の1回目をここで使うことになりそうだ」
「それは至極光栄」
「基本的に褒めてないんだが……」
 苦笑いを浮かべる。
 結局解決には程遠い状態のままであることに変わりはないのだが、幾分はポジティブになれるような気がする。
「あたしは別にどうなろうといいんだけどね。二股だろーが3Pだろーが」
「……。……まあ、今更お前が何を言い出そうが俺は気にしない方向性にしておくが、とりあえず教室とかでそういう事いきなり言い出すのだけはやめれ」
「はいな了解。じゃ、そーゆーことで、さらばっ」
 返事が早すぎて聞いていたのか聞いていないのかも分からないまま、びしっと手を上げてすたたたたと彼女は走り去っていった。
 ひゅるり、と強い風が舞った。
 祐一もなんだか何もかも騙されたような気分になりながら、非常階段を後にした。


 さて。
 当面の一番の問題は。
 ――迎えに行くのをすっかり忘れていた名雪に、どれだけ平身低頭すれば良いかであった。



続く。