かん。
 かつ……かつ……
 かっこーん。
 ……
「……」
「……」

 ……かん。
 すー……
 ぶんっ。
 かっこーん。
 ……

「……」
「……あのな、いくらなんでも、弱すぎ」
「う〜」
 7点ほど連続で決めたところで、祐一はエアホッケーのラケットをいったん手から離した。
 どれだけ優しく打ってもあっさり決まってしまう。面白くとも何とも無い。
 これは初めてだという名雪だったが、それにしても尋常ではない鈍さであった。
「……祐一がこっちに来て手取り足取り教えてくれたら上手くなるかも」
 ちらり。上目遣い。
 少し目をうるうるさせてみたり。
「それで、誰がこっち側打つんだ」
「……う〜〜〜」
 攻撃は通じなかったらしい。
「まあ、構えとある程度のコツくらいなら教えられないでもないが――」
 祐一は仕方ないな、と態度に表しまくりながら、ラケットを置いたまま台の反対側に向かう。
 名雪の目がきらーんと光った。
「ちゃーんす」
「あ、おまっ……」
 カンッ!
 カンカンカンカンッ
 ――かっこーん。
「……」
「……」
 パックは、美しい音と軌跡を残して何度か側壁や台の端で反射した後、見事に名雪側のゴールに収まっていた。
 すううぅぅぅん……
 何とも表現し辛い機械音と共に、台から噴出する空気が収まっていく。台上部のスコア表示が8−0で点灯していた。
 8ポイントゲームだった。
 ……名雪が、固まったまま冷や汗を流す。
 祐一はその場から動かないまま、じと、と睨みつける。
「――それでお前は、どういう風にオシオキしてほしいんだ?」
「は、はぅ……」


「おいし……♪」
 ぱくぱく。
 快調なペースで大きな甘さの固まりが消費されていく。
 どこまでも幸せそうだ。
 今日くらいは違うものを、と何分もずっと悩んだ挙句、結局名雪が選んだのはいつも通りのものだった。イチゴサンデー。
 だってこれが一番おいしいんだもん。頭を押さえている祐一に向かって笑って言ってのけた。
 無心に幸せそうにぱくつく名雪を眺めながら、祐一はマイペースに洋ナシのシャルロットにスプーンを伸ばしていた。
 一口。
 フルーツの自然な甘味が口の中に広がる。なかなかのものだ。
 それ以上細かい評価をできるような舌は持ち合わせていないが。
「祐一祐一」
「……2回呼ぶな。なんだ」
「イチゴサンデー、おいしいよ〜。祐一もちょっと、ほら」
「俺はいいって」
「遠慮しなくていいから。はい、あ〜ん」
 にこにこと、スプーン一杯に適当にすくい出した一部分を載せて差し出す名雪。
 スプーンも自分が使っていたものそのままだ。
「……」
 ぱく。
 何事も無かったかのように、自分のケーキをまた一口。美味しい。
 名雪が、空中に手とスプーンを伸ばしたまま固まる。
「ゆういち〜〜〜」
 ぶんぶん。手を振る。
「んな恥ずかしい事出来るかっ」
「えぇ? こういうのって恥ずかしいからこそするんじゃないの?」
「……それはそれで間違ってはいないかもしれんが、ともかく俺はしない」
「祐一、冷たい……」
 くすん。泣き真似しながら、しぶしぶとスプーンを自分の口元に運ぶ。
「おいしいのに……」
 ちら。
 ……特に反応無し。
「いいもん……一人でこの幸せ独占しちゃうもんー」
 なんだかんだ言いながら。
 1分後にはまた、幸せいっぱいの笑顔でサンデーを平らげている名雪の姿を見ることができた。
 祐一は、心の中だけで笑った。


 映画を見た。チョコレートを売る母子の物語だった。素直に面白かった。
 服を見に行ったりした。何も買わなかった。
 小さい頃行った電気の科学館に行ってみた。今でも楽しめる場所だった。


「暗くなっちゃったね」
「なかなか、いざとなるとする事結構あるもんだな」
「……うん」
 デートの一日の時間は、すぐに過ぎていった。
 結局名雪は名雪で、あまり意識する事も無かった。普段と違うような事を特にやっているわけでもないのだから、当然なのかもしれないが。
 緊張する事もなく、気を使う事もなく、ただひたすらに安心な相手。前日は妙に緊張してしまったものだが、始まってしまえばどうということは無かった。
 何も難しく考える必要はなかったのだ。やっぱり名雪は「違う」――
 ――と。
 祐一の腕が、柔らかい温かさに包まれた。
 名雪が腕に抱きついてきたのだ。全身を使うような勢いを持ちつつも、そっと。
 むにゅ……と、微妙な感触さえ感じられる距離。
「名雪……?」
「ダメだよ祐一、まだ今日は終わってないんだから」
 反射的に一瞬身を固くして押しのけようとする祐一に対して、名雪はほんの少しだけ力を加えて抵抗した。
「暗いからね。はぐれちゃったら困るから」
 かろうじて街灯はついている。
 ただ、商店街から少し外れた場所なので実際足元がなんとか見えるか見えないか程度のものだ。
 もっとも、近くを歩いていれば、はぐれてしまうというほどの暗黒ではないのだが。
「ったく。子供じゃあるまいし」
 祐一は苦笑する。
「――うん。子供じゃないよ、わたし」
 その声が真剣なものだったから。
 ハッとした。
 腕に感じる名雪の体の重みが、少し重くなったように感じられた。
「……それなら」
 また、腕を外そうとする。
 決して不快なわけではない。ただ、居心地が悪かった。そして……怖かった。
 それでも名雪は、離そうとしない。しがみつく。
 そして、ぴたりと立ち止まった。
「今日はね」
 仕方なく祐一も足を止めると、名雪はすぐに語りだした。
 地面を見つめて。
「ずーーっと、待ってたんだよ。祐一がちゃんとわたしの顔をまっすぐ見てくれるの」
「……え?」
「どうして避けるの?」
 そんなつもりは無かった。いつも通りのはずだった。
 だから、どうしてなんて聞かれても分からない。
 祐一は混乱する。
「……ね、祐一。前の祐一だったらわたしがこうやって抱きついても、恥ずかしがったりはしてもそんな難しい顔はしなかったよ。――香里のこと、考えてたんでしょ?」
「……」
「今日は、楽しかった?」
 祐一が答えられないでいると、今度は名雪は繋がりの無さそうな質問をぶつける。
 こっちには、自信を持って答えられる。
「楽しかった」
「それじゃ、香里のときとわたしのときとどっちが楽しかった?」
 厳しい。
 予想される質問だったのかもしれない。面接のように予め解答を準備しておくべきだったのだろうか。それは今すぐ答えるにはあまりに厳しい追及。
「どっちも、だ」
「ダメ」
 そして、最も簡単な逃げ道は塞がれる。
 ……祐一は、目を閉じた。なんとなくの行動だ。意味は無い。
「今日は、楽しかった。香里のときは――」
 息を一度止める。
 焦らないように、ゆっくりと、吸う。季節柄のやや湿った空気が肺に流れ込む。
「――嬉しかった」
「相変わらず、ずるいね。……まあ、特別に許してあげるよ」
 歩き出す。腕は抱いたまま。
 祐一も黙ってついていく。
「最後にもうひとつ質問。デートって、何のためにすると思う?」
「……さあな」
 考えた事もなかった。
 したいと思うからする、それだけのものだ。
 祐一が香里を誘ったのは、一歩前進するためのアプローチとして。
「お互いの心を確認しあったり、もっと知ったり、知ってもらったりするためなんだよ」
 名雪から得られたのは、言われてみればそうも言えるだろう、という程度の解答のような気もする。人によって全然違う考え方があってもいいだろう。
「だからね。今日のはデートじゃない。祐一に、わたしに近づく気が全然無かったから。わたしも、今日はただ祐一のほうから壁を崩してくれるのを待ってただけだから」

 祐一が望んでいたのは、ただ、今の距離を維持する事だけ。
 これ以上近づく事は避け、だからといって遠ざける事も無い。
 近づけばもう止まらないだろう。おそらく香里の事はもう関係なくなり、何も問題なく名雪と付き合う事になるかもしれない。――それが、どうしても、嫌だった。嫌だった。
 だけど、名雪とは仲良くしていたいのだ。距離を置くなんてことも考えたくなかった。
 わがままかもしれないけれど。


 そして、ハっと気付いて、脳にショックが走った。
 どうして今まで考えもしなかったのか。
 今の心情は、香里があの時祐一に言った言葉そのものではないのか。
 だとしたら――


「祐一、わたしにもチャンスを欲しい。もっと、わたしに近づかせてほしい」
 ぎゅ、と、掴む腕に力が篭った。
 名雪の声は少し震えていた。
「……名雪。もう少し、待ってくれ。俺はまだ確認しないといけないことがあるんだ」
「え……?」
 祐一の表情が変わっていた。目に強い意志が戻っていた。
 すっ……と腕が抜かれる。
 今度は名雪も引き留める事が出来なかった。
「今日はごめんな。でも本当に楽しかったから」
 ああ。何てことだろう。
 この言葉まで、あの時と同じではないか。
 まさか、という思いがどんどん膨れ上がる。
「わたしは何を待てばいいの? 待っていれば何があるの?」
 自由になった自分の腕を反対側の手で抱きながら、名雪が投げかけた。
「俺の、気持ちの整理だ」



 2度目となると、人のいない場所を探すのは簡単だった。
 昼休み中、昼食が終わった後、祐一は香里を非常階段まで連れてきていた。
 話がある、と。
「香里、好きな男いるか?」
「唐突ね」
「俺はいつだって唐突だ」
「またどっかで聞いたような台詞を……」
 いきなりな祐一の言葉にも、香里は特に慌てたり驚いたりもしない。極めて平静だ。
「もちろんあたしは、相沢君のこと好きよ?」
「……っ。い、いや、それは、嬉しいんだが、そうじゃなくて、だな」
 条件反射のようにその言葉に顔を朱に染めてしまうのを必死に堪える。
 今はこんな事で喜んでいる場合ではない。それが望んでいる言葉ではないのだから。
 ふふ、と何やら嬉しそうに笑む香里。
「好きの意味が違う、でしょ? 心配しなくてもいないわよ。どうしたの、いきなり」
 本来欲しかった返事も、あっさりと返ってきた。
 それどころかもう逆に質問されモードに入ろうとしている。
「えーと。本当に?」
「ええ。何、もしかしてあたしが誰かといちゃいちゃしてるところでも見た?」
「……してたのか?」
「してないわよ」
 心配そうな顔で尋ねる祐一に、可笑しそうに香里が笑う。
 それを見て祐一も、自分がどれだけ情けない顔をしているかに気付く。……俯く。
「いや……俺と同じなのかと思ったんだが……外れたらしい」
「へえ。詳しく聞かせて欲しいわね」
「……少し、言い辛いんだがな」
 目を合わせづらい。
 必ずしも話す必要の無い事だと思う。だけど、確認はしてみたかった。
 だから、言う。
「昨日、名雪とデートしたんだ」


 一瞬、香里の目が鋭く細められた。
 その目の冷たい輝きに、祐一はぞくりと体を震わせる。理性ではなく、本能的にこの瞬間に今の言葉を後悔した。
 しかし次の瞬間にはもう、普段通りの余裕のある目つきが香里に戻っていた。
「いい事じゃない。あの子、相沢君の事前から気にしてたから幸せだったんじゃない?」
「……あ、ああ。……いや、そうじゃなくてな」
 もう香里の心は読み取れない。なんだか怖い。
 ごく、と唾を飲み込む。
「だけど、何も感じなかったんだ。名雪は可愛いし恋人としてもきっと凄くいいんだと思う……だけど全くその気になれなかった。香里の事がどうしても頭に浮かぶから――楽しめるラインを無意識に設定してそこからはみ出さないように行動していた」
 そう、言いながら、一つずつ、自分の心の中も整理していく。
 言い間違いの無いように。自分で勘違いしないように。
「だから、香里も同じなんじゃないかって思った」

 恋愛感情を伴わないデートは、ただ遊ぶだけと何も意味が変わらない。
 だから、純粋に楽しい。余計な要素が存在しないから。
 ただ遊ぶだけなのだから、例えば恋人がいても、好きな相手が別にいても、気にせず楽しむ事が出来る。
 あの時香里は楽しかったと言った。
 昨日の祐一も楽しかったと言った。
 同じではないのか。
 問題は、本当に最初から全くその気が無かったのか、それとも昨日の祐一のように――無意識のうちに壁を作っていたのか。
 祐一にとっての壁は香里だった。だとしたら、香里にも――

「……だと、思ったんだけどな。違ったか」
 違うとすれば、ただ単純にやはり恋愛可能対象として見られてないだけとなる。
 もしそうなら、なるほど、今は絶望的だろう。
 ただ、「彼女」の言葉を思い出していたのだ。
 あまり信用のできる相手ではなかったが、彼女の一言が「もしかして」の発想に繋がったのは紛れもない事実だった。
『頑張ってね。結構脈アリだと思うよ』
『あの時のかおりん、ただ友達と会うだけって感じじゃなかったんだけどなー』
 何か壁があるのなら。
 祐一にとっての香里の存在のように、香里にとって何かがあるのなら。
 もう一度全部取り払ってから勝負をかけたかった。
 それは微かな希望。

「なるほどね」
 そう呟く香里の表情は上手く読めない。
 いつも余裕を持って堂々としているところに今は真剣さを少し加えたような顔、声。
 全ては祐一の推測に過ぎなかった。「何自惚れてるのよ」と一蹴されてしまわないかが一番怖かった。
「あたしも少し間違ってたわ」
 しかし、返ってきたのは、もっと分かり辛い言葉だった。
「……? 何が?」
「言葉通りよ」
「わからんっちゅーに」
 聞き返しても、お馴染みの――ちょっと久しぶりの言葉ではぐらかされるのみ。
 そう思う間にも、香里から少しずつ緊張が抜けていく。
 気がつけばもう余裕のある笑みを浮かべていた。
「今度の試験の結果のご褒美、何をしてもらうか決めたわ」
「へ?」
 かと思ったら全く繋がりのない話。
 今この場面で出てくる言葉ではないはずなのだが。
 全く、何を考えているか分からない。
 香里は口元にそっと指を当てた。
「もう1回、デートしましょ。今度は全部あたしに任せてくれればいいわ」
 目を細めて、言った。
「……え? あれ? え? えーと」
「落ち着いて」
「……む。コホン。……それが、香里の要望なのか? それでいいのか?」
「ふふ。嬉しそうね」
 指摘されるまでもなく、あまりに意外な展開に祐一の心は激しく躍っていた。今は見た目落ち着かせているだけ。
 もちろん願ったり叶ったりだ。異存などあるはずもない。
 考えている事が分からないのは少し不安ではあるが。
「それと、もう一つ。まだ結果出たわけじゃないからお願いの前借りになっちゃうけど、いいかしら?」
 そう言う香里の口調には既に自信が溢れていた。
 おそらく、試験の結果にも、そして次の祐一の返事にも、絶対的なほどの確信があるのだろう。
「もちろんOKだ」
 デートをさせてもらえるなら本望。この時点でさらに1つ分の借りができたようなものだ。
 だったらそれと別に何か要求があるのなら当然聞くべきだろう。
「そう。勝手なお願いだって思うから、無理なら無理でもいいんだけど」
「おう、何でも言ってみろ」
「難しい事じゃないわ」
 香里が挑戦的な笑みを浮かべる。
 ……どくん。
 今まで一度も見たことの無い表情に、祐一の心臓は一度大きく跳ねた。
 驚き。困惑。魅了。
 それは、すっかり小悪魔にとり憑かれてしまったような体験だった。自ら望んで堕落した、生贄。
「その日まで、名雪と付き合わないで欲しいの」
 香里の目は魔力を持っている。



 第1回全国統一模試の解答用紙、及び成績表と解答解説/成績優秀者リスト冊子が配られた。
 祐一は緊張しながら成績表を開く。
 4科目総合順位――8642/92794。
 ため息をつく。敗北。全国の上位10%に入る好成績とはいえ、3000位には程遠かった。学内順位では41位と、実力試験の時よりさらに上がっているのだが。
 現実は、厳しい。
 気を取り直して、次に開けるのは無論、成績優秀者リスト。
 理系型4科目総合のページを探して開く。学校名から自分の学校で載っている人を探す。
 ――ほとんど、探す必要も無かった。
 思わず叫んでしまいそうだった。いや、既に教室内はざわついていた。祐一が叫ぶまでもなく。
 話題になっているのは、もちろんただ一人の女生徒。
(マジか……)
 香里の成績表を見て、約束が果たされているかどうかなど確認する必要は無かった。
 香里が祐一のほうを振り向いた。
 にっこりと、笑った。

 国立理系型(英数国理)
 ミサカ カオリ
 偏差値 84.9
 3/92794



続く。