銀色の輝きが、反射した光を撒き散らしながら落ちてくる。
 実際は速い回転のせいで残像しか見えないはずなのに、そんな光景がまるでスローモーションのように目に飛び込んでくるような気がした。
 数秒にも満たないこの時間。頭の中には何も浮かんでこない。
 ただ、求めるように手を伸ばした。
 ただ、あの日の手品を再現したかった。








1/2 「お友達になりましょう」








 初めて見た彼女の顔は、ぼんやりと空を見上げる横顔だった。
 最初に持った感想は、危険そうだということだった。顔は青白く、とても健康体には見えない。見るからに体は冷え切っている。無理もない。こんな寒い中、もし最初に話を聞いたときからずっとそこにいたのだとしたら、もう2時間近くも立ち続けているのだ。雪も残る、風も吹く、陽もまともに当たらない中庭のはずれに。服装も決して温かそうなものには見えない。
 注意をしにきたつもりだったのだが、その顔を見て、それどころではないと気を改める。
「君」
 足音を殺して歩いていたつもりはないのだが、彼女は声をかけるまで彼に気づかなかった。それだけ消耗しているのだろうか。
 呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を下ろして、振り向いた。
 正面から見る顔はますます蒼白で危険そうに見えた。
「あ……」
 それなのに、表情は決して死んでいない。むしろ感情豊かに驚きを目で表現している。
 その驚きは、声をかけられたことによる一時的なものだったらしい。すぐに彼女は可愛らしい笑顔に切り替える。
「こんにちは。いい天気ですね!」
 声にも、十分な余力を感じる。意表を突かれて、今度は彼が驚く番だった。
 話し出すと、さっきまで見ていた姿が幻だったように、顔色もよくなっていっている。
「……いい天気ですね、じゃないだろう。ここで何をやっているんだ?」
 意外に元気そうな様子と、かけられた言葉の場違いさに、呆れ声になってしまう。
「あはは……手厳しいですね。いきなりまずは和気あいあい作戦が失敗してしまいました」
 やー、と困ったように頬に手を当てる。
 かと思うと、今度はうーんと目を閉じて考え込む。
 妙にコミカルなその仕草の変遷に、毒気を抜かれてしまいそうになる。
「うーん。難しい問題です。何やってるんでしょう、私……」
 何やら本気で悩んでいるようだった。
 難しそうな顔。
「……何なんだ、君は」
「あ、そうですね。まずは自己紹介からですよね。それなら任せてください。どーんと」
 ぱっと明るい表情に切り替わる。見ているほうが疲れそうなほど、アクティブだ。
 ますます、つい先程初めて見た顔のほうがもはや錯覚だとしか思えない。
「初めまして。私は美坂栞です。一応この学校の生徒で、1年生です。よろしくお願いします」
「あ、ああ。私は久瀬だ。2年。生徒会長をやっている。……」
 彼も――久瀬も、つられて自己紹介を始めてしまう。
 その言葉の途中で、先程聞いた単語を頭の中でリピートさせていた。すぐに、答えにたどり着く。
「みさか……しおり」
「はい! よろしくです、久瀬さん。生徒会長だなんて凄いですね」
「……そうか、君か。美坂香里の妹。入学してすぐに病気で休学して、もうすぐ1年になる」
「あ。ご存知ですか。お姉ちゃんのことも、私のことも」
 ぱちくり。
 びっくり、と目で強調する栞。
 ふう……。久瀬は深いため息をつく。
「知っている。第一に、私は生徒会長だ。生徒のことはだいたい把握しているつもりだ。第二に、君の姉のことは同学年なら誰でも知っている。とうとう2年間、彼女の総合学年一位を阻止するものは誰も現れないまま終わりそうだ」
「わあ……お姉ちゃんって、凄いんですね」
「姉のことなのに、知らないのか?」
 久瀬が言うと、彼女はあは……と困ったように頬を掻いた。
「お姉ちゃん、自分のことあまり話してくれませんから……」
「ふむ。まあ、色々あるだろう。それはいい。それより病気の君が何故こんなところで立っている? 今はそれほどでもなさそうだが、先程見たときは今にも倒れそうな病人そのものの顔だったぞ」
 正体を知ってしまえば、やはり第一印象が間違いでなかったことを確信する。
 もっとも、ずっと休学しているような病気にしては元気すぎるような気もする。完治直前なのだとしたら、ますます大事にしなければいけない体のはずだ。
「心配してくれてるんですか?」
 嬉しそうに目を輝かせる栞。
 はああ……。久瀬はさらに深いため息をつく。
「ここの学生だったとしてもだ。休学中に学校に来て、授業中もこんなところに立っているというのは褒められた行為ではない。先生方に見つかったら、間違いなく怒られるな」
「ぅ……それにつきましては、是非とも、内密に」
「それは君次第だな。生徒会は生徒のためにある。君が生徒である以上は無闇に通報する気はないが、もし君がここで問題を起こすようだったら話は別だ」
 もともと、それを見極めるために久瀬は単独でここに来た。
 学外生だったならば無条件で追い返し、あるいは先生や警備員に連絡して終わり。そうでなければ事情を聞いて、そこから判断する。
 いずれにしても、できる限り生徒会として処理をしたかったのだ。生徒による自治のために。それが生徒会の存在意義の一つであるが故に。だから、私服の女の子が授業中から中庭に立っているという話を聞いて、先生たちよりも先に「処理」を行いに来た。
 久瀬は、厳しい顔を意識して、彼女を見据える。
「それで、何しに来たんだ? 何をしていた?」
 詰問口調で責める。
 むむむ。そしてまた、栞は難しい表情を返す。しばらく考え込んでから、口を開く。
「夢を探しに来た、というのはどうでしょう」

 久瀬は、しばらく無言で空を見上げていた。
 数秒以上の間を置いて、手で頭を支えて、めまいがしたというようなジェスチャーをしてみせる。
「……なるほど。よくわかった。君は変なヤツだ」
「わ。直球で酷い言葉ですよっ。言葉のバイオレンスですー」
「病気だから仕方ないか……大変だな君も」
「ますますいじめられてる気がしますっ!?」
 むー。
 頬を膨らませて抗議する。
 その表情は、怒っているというよりは拗ねているといったほうが正しく、迫力などまるで無い。
「わかった、わかった。とりあえず大人しく帰って休んで病気を治すことだ。いいな?」
 子供をあやすような口調。
「うー……酷いです。祐一さんも久瀬さんも、みんな私を追い返そうとするんですっ」
 めそめそ。
 今度は泣き真似。
 かと思いきや、今度は何やらずっと握りこんでいた左手を久瀬の目の前に突き出してみせる。ずいっと。
「こんなもので私を買えると思ったら大間違いですよ!? 寂しくて遊びに来たのにお金渡されて帰れと言われた私の気持ち、わかりますかっ」
 掌には、何故か小銭がたくさん。……たいした金額ではないということは、すぐにわかる。
「よくわからんが……何だ、祐一さんとやらに会いに来たのか? 恋人か? 学校にそんな目的で来るというのは認められる話じゃないな」
「そういうのじゃないです……けど。ずっと一人で寂しくて、やっとお話できる人ができたのに、祐一さんってばお金を投げて追い返そうとするんですよ。酷いと思いませんか?」
「聞かれても困る。言えるとしたら、その祐一さんとやらの判断は賢明だということだが」
「うう。私の味方はいないですか……」
 しゅんと落ち込む。
 ちら、と上目遣いで久瀬を見つめてみたりする。
 また俯く。
 繰り返し。
 ……ちら。
「あー、うっとうしい。君の体を心配してくれたんだろう、彼も。君もそれくらいわかるだろう。だから早く帰ってとにかく温まることだ。いいな」
「あ、そうです。何か食べればきっと温まりますよ。ほら偶然にもここにお金が。お昼休みならまだ何か売ってますよねっ。久瀬さんはもうお昼は済んでますか? もしまだでしたらせっかくの縁ですし」
「……第一に、私はもう昼食はとっている。第二に、昼休みはあと数分で終わる。第三に、君は私服で構内に入って食事を取る気か? えー……あと、第四。帰れ」
「……さすがの私も泣きそうですよ? 久瀬さん、いじめっ子って言われたことないですか!?」
「警備員を呼ぶか」
「それでは私は失礼しますね。久瀬さんはお昼からもたっぷり授業頑張ってくださいね♪ お元気でー」
 しゅたっ。
 敬礼のような挙手のような、微妙な手の位置でびしっと。
 とても可愛らしい声で、言うのだった。
 久瀬は最後に大きく一度、ため息をついた。



 火曜日。今日は雪が降った。こんな日は熱く濃い緑茶に限る。
 ずず……ストーブの前でお茶をすすりながら、久瀬はいつものように生徒会室で新聞を読んで昼休みを過ごしていた。温まる。この時間は幸せだ。難しいことを考える必要も無い。わずかな昼休みが、学校にいる時間のなかで唯一安らげる時間だった。
 生徒会室は、綺麗に整理整頓されている。久瀬が就任する前はもっと書類に埋もれ、お菓子の袋や空き缶などにも埋もれ、はるかに乱雑としていた。今のような綺麗な状態は「偏執狂」とさえ言われるほどの久瀬の”秩序”への徹底したこだわりの産物の一つである。
 この部屋は、久瀬の「内側への」働きかけの体現そのものだった。当然、居心地は彼にとっては最高だ。

 学内全体をこのような居心地のいい静寂、落ち着き、秩序の世界に変えるのは、生徒会室を変えるよりはるかに難しいことを知った。久瀬の政策は強引で一方的であり、生徒の了解を得ようという姿勢はない。生徒の大半は無知で愚鈍であるという見解に基づいているため、多くの生徒の共感を得るということに意義を見出さない。
 久瀬の生徒会論は、以下の三つに集約されている。
 第一に、生徒会は生徒のための議会である。ただし、ここで守るべき生徒とは、まっすぐに勉学に励み、あるいは部活やその他活動に青春を注ぎ込むような、真面目な生徒のみを指す。
 第二に、生徒会は生徒自治の実現を目指す組織である。ただし、ここで言う自治は、あくまで生徒会主導による自治であり、それ以外に権力を持つ組織の存在は認めない。
 第三に、生徒会は学内の秩序を保つための行政府である。平穏な学校生活の維持のため、秩序を乱す全ての要素を徹底的に排除する。

 敵は多い。久瀬に共感する人間のほうが圧倒的少数だった。久瀬政権を支持するのは、平和と落ち着きを大歓迎する、もともと真面目にやってきたごく限られた生徒だけだった。そういった彼らの中にさえ、あまりに強引な彼のやり方に反発するものはいる。
 この事実に対して彼がとった行動路線は、一つだった。すなわち、文句など気にする必要のないほどの強大な権力を手に入れること。久瀬は、集権化と独裁こそが迅速に正しい行動を取れる最高の手段だと信じている。一時的に嫌われることは上に立つものの使命であり、結果が出てから満足させることが正しい行政だと信じている。
 久瀬の目標は、平穏な学園生活といった平和なものだ。その実現に、学校生活の全てを注ぎ込む覚悟でいる。
 久瀬は、物思いにふけりながら、新聞から目を離す。雪が降り続けるガラスの向こうを、ぼんやりと眺めていた。

 と、がらりと入り口が開く。ちら、とそちらに目をやると、いつもの姿がそこにあった。
「む。今日は遅かったな」
「かいちょー」
 のんびりと声をかける久瀬に対して、彼は慌てた口調で……それでも普通の人にとってはのんびりしたくらいの口調で、言った。
「あの女の子、また来てます〜。雪、降ってるのに……」
 ごと。
 久瀬は無言で湯のみをテーブルに置き、新聞をテーブルに置き、眼鏡をくいっと触った。
 そのまま立ち上がる。そして一言だけ、言った。
「後片付けは任せた」
「あ、はい〜」
 生徒会室を一歩出た途端、空気が一気に冷える。
 それでもなお、屋外の比ではない。久瀬は眉をしかめる。


「あ……久瀬さん。今日も久瀬さんのほうでした」
 歩いて近づく久瀬を見つけた栞は、嬉しそうに手を振って迎える。
 相変わらずしんしんと降り続く雪の中で。
 久瀬は、ただ無言で歩いて、歩いて、すぐ目の前まで行って、出来うる限りの厳しい目で睨みつけた。
「君は……死にたいのか」
 いったいいつからこんなところで立っていたのか。彼女の頭にも、肩にも、しっかりと雪が積もっている。正気の沙汰とは思えない。昼間であっても、気温は氷点下かゼロかといったところだ。
 久瀬の声の調子に、さすがに栞も息を呑む。真剣な怒りを感じた。
 だから、栞は、真剣に言葉を返した。
「違います。――生きたいんです」
「……意味不明だ。生きたい人間の行動じゃない。だいたい、医者や家族は何をしてるんだ。君はどうして自由に出歩いているんだ。いや――」
 目を細める。
「そうだ。そもそも何の病気なんだ? 1年近くも学校を休むとなれば、相当なものだろう。もう治っているのか?」
 そこまで言って、久瀬は、自分の言葉にはっと気づく。
 1年近くの休学。考えてみれば、想像してみれば容易いことだった。
「そうか……治っても、ずっと休学していたとなればいきなり復学は無理か。気持ちや周囲の環境が対応しきれなくて孤立している……のか、君は」
 何故、昨日のうちにその可能性に気づかなかったのか。
 もしそうだとすれば、それはまさに生徒会の出番だ。生徒の復学を全面バックアップするのが、生徒を代表して生徒を支援するための生徒会の役割だ。
 ……栞は、ふっと表情を緩める。
 微笑む。首を、ゆっくり横に振った。
「久瀬さん、優しい人なんですね。……でも、残念ながら、治ってないです。私はまだ病人ですよ。病名は……難しくて、忘れちゃいました」
「そうか……残念だ。生徒会と言えど、病気を治す手伝いは無理だからな」
 久瀬は一度肩を落として……そして、はっとすぐに顔を上げて、また厳しい顔に戻る。
「だったら何をしてるんだ。こんなことをしていたら健康でも一気に病人になるぞ」
「うーん。大丈夫ですよ、きっと。私、こう見えても寒さには強いんです。昔から雪が似合う女の子だって評判なんですよ」
 ほらほらー、と元気さをアピールするように手を上げる。
 にっこりを笑顔を見せてみたりする。確かに、必ずしも無理をしているという感じではなさそうだった。極めて不可解なことに。
 もしかして彼女の病気とは神経系の異常なのだろうか、などと久瀬が思ってしまうほどに不可解なことに。
 そして……ぱしっと、栞の手を掴む。
「あ……」
 その手は異常なほどに――状況を考えれば極めて正常に、冷たかった。血が通っているようには思えない。壊死しているのではないかと疑うほどに冷え切っている。
 冷ややかな目で、栞を見つめる。
「もう一度聞く。何をしに来た。死に場所を学校に探しに来たのだとしたら、迷惑だ。帰ってくれ」

 ぱさりと、彼女の頭から雪の塊が落ちた。
「……」
 ぽそり。
 一瞬、雪が落ちたかすかな音に栞の言葉はかき消される。
 久瀬が目で聞き返すと、きっと強い目で彼女は見上げてきた。
「……病気背負ってる人に、死ぬなんて単語を連呼するのって、無神経だと思いませんか?」
「む……」
 じっと、栞の目が久瀬とぶつかり合う。
 ……見つめあううちに、じわり……と、栞の目に涙が溜まっていく。どんどん、溜まっていく。
 ぽろぽろと溢れて、零れはじめていく。強い意志を持った目で久瀬を見つめたまま、涙だけがどんどん流れていく。
「むむむ……すまない。申し訳ない」
 慌てる久瀬。
 こういったことには、慣れていない。目の前で泣かれたのは初めてだった。彼は何も対処法を知らなかった。
「謝るなら、ちゃんとした言葉があると思います」
「……ごめん」
 対照的にきっぱりとした栞の言葉に、押されるように久瀬の口からそんな言葉が漏れ出ていた。
「よろしい」
 ふわり。彼女は、微笑んだ。
 頬を伝った涙は、雪に落ちた。

 落ち込んだ様子の久瀬を見て、今度は栞はもっと笑ってみせる。ほらほら、もう元気ですよとアピールする。
「ね、久瀬さん」
「……む?」
「私の手、気持ちいいですか?」
 栞の視線が、ゆっくりともう少し上に向く。そして右にずれる。
 しっかりと繋がれたままの栞の右手に、視線が注がれる。
 ……ばばっ!
 久瀬の行動は、早かった。気づくとすぐに手を振り解いて、そのままポケットに入れた。
「すま……ごめん」
 目をそらしながら、言う。
 うふふ、と栞がわざとらしく笑ってみせた。空いた手で涙を拭いてから。
「久瀬さんって、きついかと思ったら結構可愛いところあるんですねー。意外性があって素敵ですよ」
「……くっ……いいから、早く帰れ! そして健康体になってから戻って来い!」
「わかりやすい照れ隠しも、いいですね。私、そういうの結構好きです」
「黙れ……! 話題を逸らすな! そもそも君は何をしに――」
 ぱっ。
 久瀬の言葉と同時に、栞は久瀬のほうを向いたまま、一歩だけ下がった。
「人に会いに来ました」
 可愛らしい笑顔で、一言。
「……なんだ。結局また例の……なんだ。なんとかさんか。そういうのは駄目だと言ったはずだが」
「久瀬さんに会いに来た、のかもしれませんよ。だとしたら、どうします?」
 不意を突かれて。
 久瀬の言葉が、止まる。
「……理由が、ない。私に直訴することでもあるのなからもっと他にやりようがあるだろう」
「理由は、ありますよ。私たち、ほら、友達じゃないですか。友達だったら、一緒に遊びたいじゃないですか」
「まあ、待て。誰と誰が友達だと?」
「私と、久瀬さん」
「すまん。まったく記憶に無いのだが。そういった流れになるような事実が」
「それなら今からお友達になりましょう! とっても名案です」
 にぱー、と嬉しそうに笑って手を差し出す、栞。
 久瀬は、しばらく頭の中を整理しながらその手をじっと眺めて。まずは色んな言葉の混乱を整理して。深呼吸して。
 ため息をついて。
「君は変なヤツだ」
「わ。今日も言われてしまいました……やっぱり、いじめっ子ですか?」
「一つ聞きたい。例のなんとかさんもそういう”友達”なのか?」
 不満そうに唇を尖らせる栞に、呆れ声で久瀬が尋ねる。
 栞は首を軽く傾げて。
「祐一さんですか? そうですね、お友達です。久瀬さんももう祐一さんと同じくらいお話してますから、お友達です」
 そして嬉しそうに言った。
「……同じくらい、か。確か昨日は追い返されたと言ってたな」
「そうなんですよー! 酷いと思いませんか。寒い中来てるのに、会いにきてもくれないで、教室の窓からお金だけ投げてくるんですよっ」
 はああああ。
 大きく、再度、ため息。
「なんだ。つまり君は、フラれたってことか」
「う!?」

 栞の周辺の世界が、ネガポジ反転した。
 その固まりようからすると、触れてはいけない一線だったようだ。

 よろよろとよろめく。
 ああああ、と、何やらよくわからない声が半開きの栞の口から漏れ出ている。
「く……久瀬さん!」
「何だ?」
 落ち着かない栞の挙動を冷静に眺めながら、久瀬は何を言い出すのか少し楽しみに待ってみた。
 びしっと突き出された人差し指が、ぷるぷると真正面から久瀬の顔を捉えていて――
「え……えーと」
 ――ごーん。
 そして。
 狙ったかのように、そのタイミングでチャイムが鳴った。午後の授業開始5分前の予鈴だ。
 ――ごーん。
「……とりあえず、もう誰も来ないと思うから、早く帰ったほうが寂しくなくていいと思うぞ?」
 久瀬は細眼で栞を見てから、くるりと身を翻した。もう話している時間はない。
 ……と。ちらり、と横顔だけで彼女に一度振り向く。
「まあ、何だ。早く健康になって、もっとちゃんと成長したらフラれずにすむかもしれんし」
 それだけ言って。
 一瞬だけ、あっけに取られたような彼女の顔を視界に納めると、すぐに歩き出す。
 肩に、頭に積もった雪をぱんぱんと振り払っていると、後方から可愛らしい叫び声が届いた。
「……そんなこと言う人、嫌いです!」



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