１／２ 「わがまま娘なんです」
栞は、待っていた。
今日はいつもより温かくて天気もいい。あくまでいつもと比較して温かいだけであって、季節が真冬であることに変わりはないのだが、それでも少しでも楽に立っていられるのはいいことだ。
気分もいい。ちょっと重い手荷物も苦にはならない。
こんな日は雪合戦でもして思いきりはしゃいでみるととても楽しいかもしれない。
そんな想像をして、うきうきする。
久しぶりの、楽しい気分だった。
それなのに、訪れた客は望んだ相手ではなかった。
複数の足音に振り向くと、見知らぬ女生徒３人がそこにいた。
青いリボンを見て、栞はかすかな記憶を手繰り寄せる。青は、３年生の証だったはずだ。
「ちょっと、あなた」
真中に立つ一人が、近づいてきながら栞に呼びかける。
詰問口調で入られるのは、久瀬のときと同じだ。ただ、あの時より遥かに厳しい敵意を感じる声。声だけではない。彼女らの表情には、憎しみさえ篭っている。特に声をかけた真中の少女は、栞を強く睨み付けている。
いきなりこうも敵対される覚えなどない栞は、少し戸惑う。
「こんにちは」
「あなた、一体何なのよ」
栞の挨拶を完全に無視して、彼女は言った。
言葉の内容そのものは、久瀬に会ったとき言われた言葉とそっくりだった。気圧されながらも、同じ返事をする。
「私は、美坂栞と申します。一応この学校の生徒で……」
「名前なんてどうでもいいのよ。生徒会とどんな繋がりがあるのかって聞いてんの」
「……生徒会？」
意外な単語に、目を丸くする。
彼女らは、栞の目の前、もう触れ合うこともできる距離まで近づいて、止まる。話すのは常に真中の一人だ。
「あの男は、今度は何を企んでるの？ 何を始める気なの？ あなたとあの男はどんな関係なの？」
あの男、と吐き捨てるように言うとき、彼女は酷く顔をしかめた。
栞には何が何やらまったくわからないが、生徒会と男という単語から、それが誰を示すものであるかは想像がついた。
それでも、言葉の内容はまるで理解を超えていたが。
言うべき言葉も見つからなくて黙っていると、突然ぐいっと胸倉を掴まれる。真中の彼女の顔が、憎しみに満ちた目で栞をまっすぐに睨み付けていた。小柄で軽い栞の体は、簡単に浮きかける。
「なんとか答えなさいよ！ 昼休みにこそこそ会ったりして、どんな取引してるの！？」
「……っ」
息苦しさに栞は顔を歪める。
「知りません……わかりません、私、そんな」
「とぼけないで。……ふん。どうせあなたもどこかの権力者の娘とかなんでしょうけど、あたしは恐れないわよ。あたし達にはあの倉田がついてるんだからね」
栞には、まったく訳がわからない。
生徒会がどうとか、権力者だとか、倉田だとか言われても何のことなのか全然わからない。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。彼女らは、久瀬を憎んでいる。
ごほっと咳き込みながら、一瞬失われかけた意識を必死に戻してくる。手足から力が抜けるのを、必死に堪える。大切な手荷物を落としてしまうわけにはいかない。ぎゅっと、右手に力を込める。
「メグ、そいつ何か持ってる」
「……！」
そのとき、右の女生徒が初めて口を開いた。
栞は、反射的に全身に力を込めて、拘束から逃れようとする。もがくことによってさらに気管が絞まる。常人なら余裕の程度でも、栞にとっては致命的になりかねない苦しみだった。
「怪しいな」
「やめ……てください、それ……はっ」
「大切なものらしいね。チェックさせてもらおーか」
右の女生徒が、栞が持つ包みに手を伸ばす。
栞は脱力しそうになる手に全力で力を込める。包みが引っ張られる。引っ張り返す。手放すわけにはいかない。絶対に。
と、その瞬間、ごんっと鈍い衝撃が右腕に走った。腕を殴られた、ということに気付くまで一瞬の時間がかかった。意識すると同時に、激痛が走る。
悲鳴をあげる余裕はもうない。そうこうしている間にも、急速に意識が閉ざされていく。酸素不足がもはや限界に達しようとしていた。
「ふん」
バカにするような声とともに、栞は右手の中から包みが奪い取られるのを感じていた。
そして、意識が失われかけると同時に、栞を拘束していた力が消える。真中の女生徒が、ようやく栞を開放したのだ。栞は、どさりと地面に倒れ落ちる――直前に、意識を無理矢理戻してきて、踏みとどまった。
「返してください……！」
視界に大切な包みを見つけると同時に、彼女に手を伸ばす。腕を掴む。
彼女が、ちっと舌打ちをするのが聞こえた。
「しつこいんだよ！」
力を振り絞った栞の突進も、彼女の手の一突きで簡単に遮られ、軽い栞の体はそのまま後方に跳んだ。
衝撃に、目の前が真っ白になった。
このまま倒れるわけにはいかない。雪の中に倒れればその時点でもう意識はないと自覚できた。
しかし、始まってしまった運動を止めることはできない。悔しさに、最後の力で歯を食いしばる。
そして……一瞬の後に背中に感じた衝撃は、雪にしては温かすぎるものだった。
目には何も映らなかったが、手には確かな温もりを感じていた。
「校内暴力を見逃すわけにはいかないな」
栞の背中をしっかりと抱きかかえながら、久瀬は目の前の３人を厳しい目で射抜く。相手が複数だろうと、上級生だろうと、臆した様子はない。
言った後、栞の顔を覗き込む。顔面蒼白で、かなり危険な状態に見える。目は開いてはいるが、そこに何も映っていないことはすぐにわかった。意識はある。だが、それもぎりぎりで保っているだけだろうと見抜く。久瀬は歯軋りをして、栞を抱く手の力を強める。
「久瀬……！」
彼女らは、悪意の篭った目で久瀬を睨み返す。こちらも、怯んだ様子はない。
「君らの処分は、後回しだ。ここは病人の手当てを最優先する。だがその前に、彼女から奪ったものを返していただこう。傷害に加えて強盗では、処分は厳しくなるぞ？」
「何が処分よ！ なんであんたにそんな権限があるわけ！？ だったらまずは処分されるべきはそいつを不法侵入させてたあんたのほうが先じゃないの！」
「――第一に」
久瀬は、表情を消して、話す。
３人の女生徒は、その形相と声にただならぬものを感じて、一瞬怯む。言葉が止まる。
「彼女はこの学校の生徒だ。不法侵入ではない。第二に、権限など関係ない。最終的に決めるのは理事長で、私は進言するだけだ。第三に――議論する気などない。手当てが最優先だと言ったはずだ。君らも目がついているのなら、このまま放っておけば傷害ではすまなくなると理解しろ」
「く……」
かつて彼女らが見たことのないほどの久瀬の迫力に、明らかに気圧されて、それでも真中の彼女は目で抗議する。
だが、確かに久瀬の言葉は無視できなかった。栞の容態が尋常ではないことは見て取れた。
彼女らが動けないでいる間に、久瀬はばっと手包みを奪い返す。抵抗は、なかった。
久瀬はもう彼女らのほうを見向きもせず、栞の様子を確かめてから、慎重に背を向け、その両手を自らの肩の上に乗せる。
手包みをしっかりと抱えながら、背中にぐっと力を入れる。栞の足が地面を離れる。久瀬は、予想していたよりも遥かに軽い体に複雑な気持ちになりながら、両腕で細い脚を持ち、支えた。栞の吐息がすぐ近くでリズムを刻む。
「ありがとう……ございます……」
恐らく久瀬にしか届かなかったであろう、細い声。
久瀬は厳しい顔で、ただその声に、小さく頷いて歩き出した。
栞は、白い幕の向こうで二人の話を聞いていた。
初めて入った保健室は、とても広くて清潔で綺麗で、栞の記憶にある、中学時代の保健室のイメージよりずっと居心地のいい場所だった。病院のベッドよりも少しだけ落ち着くのは、壁にかけてある絵のおかげかもしれない。知らない画家の知らない絵だったが、なんとなく気分が落ち着く。
二人の会話の中には、栞の容態に関するものだけではなく、栞の正体について、何があったかなどについて、久瀬が養護教諭から問い詰められている様子もあった。久瀬が、栞について知っていることを説明したり、ややこしくなりそうなところは適当に嘘を言ったりしているのが聞こえた。時折養護教諭から責められるような言い方をされているのが聞こえて、申し訳なく思う。
会話が止んだ。
そして足音のあと、カーテンが開く。
久瀬の顔が見える。栞の様子を見て、安心した表情を見せた。
「回復しているようだな」
「ええ。本当に、ありがとうございます」
栞は柔らかく微笑む。
温かい部屋に戻って柔らかいベッドで横になっていると、すぐに体調は回復してきた。迅速な久瀬の行動のおかげだった。
「……ごめんなさい」
布団で顔を少し隠しながら栞が呟いた。
なぜだか、寝ている姿を見られているのが、少し恥ずかしく感じた。
「何故謝る？」
「だって、もうチャイムとっくに鳴ってますし……授業、サボっちゃったんですよね。生徒会長なのに」
「……なかなか痛いところを突く発言だが、心配には及ばん。ちゃんと連絡して、正式に休ませてもらっただけだ。正当な理由があれば問題はない」
「それに、私を背負って運んできてくれたわけですし……その、目立って恥ずかしかったでしょう？」
「……」
「あ、今、目を逸らしました。酷いです」
くすくす。
正直な久瀬の反応が面白くて、つい笑ってしまう。
「謝るのは私のほうだ。無関係な君を生徒会の争いに巻き込んでしまった。……すまない」
久瀬は、頭を下げる。
あ……と、栞は色々と思い返す。
「あの方たちは、久瀬さんとはどういった関係なのですか？」
「……面白い話にはならないんだがな。私が入る前まで生徒会役員だった者だ。生徒のための生徒会だというのに、仕事は適当だ、生徒会室で遊びにふける、仕舞いには生徒会予算を色々理由つけて私用しているといった腐敗しきった者たちだった。それを告発して追い出したのを、未だに恨んでいるらしいな」
彼女たちが久瀬のことを語るときとは対照的に、久瀬は落ち着いた口調で話す。
「だが、今回のこの事件で奴らも終わりだろう。卒業も目の前だというのに、愚か者たちだ」
「そうだったんですか……あ、でも、あの方たち、自分には倉田がついてるから大丈夫とか……」
「――そんなことを言っていたのか。……倉田さんのことは、確かに頭の痛い問題だが、彼女らは倉田さんとはそんな繋がりはないだろう。名前を勝手に利用しているだけさ」
うーん……と、栞が目を閉じて唸る。
「難しい話ですねー……生徒会って大変なんですね」
「困ったことに、生徒会として本来すべき仕事以外の部分がなかなかにね。わかってくれるなら、君も復学したら是非我々を手伝ってくれると有難い。大変だが、面白い部分もあるぞ」
「あ、そういえば、イベント開催とかも生徒会がやってるんですよね。面白いこといっぱいやりたいですよね。全生徒入り乱れて大雪合戦大会なんて燃えそうです！」
「……斬新な発想だが、あまり高校生にもなってやることじゃないだろう。この学校最大のイベントといったら、舞踏会だな。高校のレベルではない本格的な催しとして有名で、新聞にも載ったことがある。テレビの取材も来た事がある」
誇らしげに久瀬が語る。
自信に満ちた言葉に対し、栞はしかし、不満そうに膨れる。
「雪合戦のほうが面白そうです」
「……まあ、趣味は、人それぞれだしな」
久瀬は少し悲しそうだった。
そうして話し込んでいるうちに、時間はどんどん経っていく。
「……っと。忘れてはいけないな。例の荷物は今、机においてあるから、帰るときに持っていけ」
「あ」
栞は、いけないという表情で目を見開く。
「久瀬さん、取り返していただいてありがとうございました。嬉しかったです……」
「ああ。大切なものなんだろう」
「はい、久瀬さんに喜んでもらおうと思って、とっても気持ちを込めましたから」
「……む？」
栞は布団の中に顔をさらに埋めながら、穏やかな笑顔を見せる。
「お昼はきっととってから来ると思ってましたから、デザートだけ、ですけど。頑張ったんですよ？」
「――私に？」
「そう、言ってるじゃないですか……」
語尾が、恥ずかしそうに消える。
そんな栞の様子を見て、むむむ……と久瀬が複雑に表情を歪める。焦ったような表情が見える。
「……迷惑、ですか？」
「い、いや、違う。なんだ……そういうのは初めてでな、慣れてないのだ。嬉しい……ぞ、ああ。ありがとう？」
「あ……あはは。落ち着いてください、久瀬さん。ますます可愛いですよ」
「くっ……」
久瀬が悔しそうにそっぽを向く。
頬が高潮しているのが、もはや抑えられそうになかった。
「だがどっちにしても、いただく時間はもうないぞ。せっかくなんだが」
「そうですね……だから久瀬さん、もしよかったら、帰ってからでも食べてみてください」
「帰るのは遅くなるぞ。生徒会の活動があるからな」
せっかくの好意とはいえ、生徒会室で食べるという発想は久瀬には絶対にない。その厳格さが久瀬が厳しい行政を行うことの出来る力の原点であり、この場合においては久瀬の限界でもあった。
「それくらいはもつと思います。大丈夫ですよ」
「……わかった。ありがとう」
言って。
「それじゃ、もう行くぞ。次の授業があるからな。よくなったら、気をつけて帰る事だ」
「はい。ありがとうございます」
「で、わかってると思うが、もう来ないほうがいい。もともと体の事を考えても危険なことだろうし、こんなトラブルに巻き込まれることになる」
「……はい。久瀬さんにも、迷惑をかけてしまいました」
寂しそうながらも、栞は今度こそ肯定の返事を返す。
久瀬もまた、一瞬とはいえ、辛そうな表情を見せた。
――そして、このタイミングで、チャイムが鳴った。５時限目終了の合図。
「お大事に」
久瀬がぺこ、と頭を下げて、カーテンに手をかける。
「久瀬さんも、頑張ってください」
「ああ」
カーテンを閉める。
二人の間が、白い布で遮られる。温かい時間の終わりを告げる、真っ白な印。
栞は、ぎゅっと手を握る。何かを逃さないように。
遠ざかる足音。
言葉は、その音が３つ聞こえたあとに、届いた。
「……ああ。弁当箱と包みは、返さないとな。私は、平日は５時３０分には仕事を終えている。いつも４０分ごろには校門を出ているくらいだ」
そんな声が、届いた。
栞は、誰にも見えないところで目をぱちくりさせたあと、誰にも見られない笑顔を浮かべた。
カーテンの向こうに、気持ちを届ける。
「……はい♪」
「――私はこれを、今から教室に持って行くのだろうか……」
最後にそんな声が聞こえてきたりして、栞は吹き出していた。
「可愛いですか？」
一言目に、そうきた。
校門を出るなり久瀬を迎えた女の子は、にっこりと笑顔で手を広げてみせた。
「……私は、そういうのはよくわからなくてな」
「むー」
久瀬の淡白な返事に、栞は不満をあらわにして唇を尖らせた。
せっかくの久しぶりのおしゃれも、これではまったく張り合いがない。特にこの帽子には自信があっただけに。
気にした様子もなく、久瀬は鞄から包みを取り出す。
「ありがとう。素直に、美味かった。……ただ、デザートだけの割には重いなと思ってはいたが、もしかして２人分だったか？」
「いえ、久瀬さんのぶんだけですよー。ちょっと張り切ったら作りすぎてしまったみたいです」
「そうか。いや、美味かった。たいしたもんだ。……わざわざ回収させにきてしまったな。すまん」
久瀬は言いながら、それを栞に差し出す。
栞はゆっくりと受け取ってから、何言ってるんですか、と見上げる。
「もちろん、これからデートなんですよね？」
――久瀬の動きが止まった。
左右を見る。
栞を見る。
上を見る。
「……誰と、誰が？」
「私と、久瀬さんが」
「マジか」
「超マジです。久瀬さんは、私となんかデートするのは嫌ですか？」
「……その言い方は、卑怯だ」
「卑怯でかまいません。私はしたいんです」
「ぐ！？」
完全に打ち負かされる。
勢い余って眼鏡が落ちそうになるのを押さえなければいけないくらいのダメージを受けた、久瀬。
顔や体が熱くなっていくのを抑えられそうにない。
「……だ、だが、もう遅い。すぐに真っ暗になるぞ」
「そんな時間に私を呼び出したのは、久瀬さんじゃないですか」
「……む……」
そろそろ、久瀬も気付いてきていた。何を言ってもムダであることに。
結局今までも、そういう展開だったのではないか。思い返しながら、心の中で頭を抱える。
「両親は心配しないのか？」
「久瀬さんとデートするから今日は遅くなるって伝えてきました」
そして、咽る。
「な……なんでそれが認められるんだ？ いいのか？ そういう家なのか？」
「わがまま娘なんです」
「……君は、本当に美坂……美坂香里の妹なのか？」
「あ、もしかして酷いこと言ってますか？ ほらほら、よく見てください。お姉ちゃんほどじゃないかもしれませんけど、昔から二人とも可愛いねーって評判だったんですよ？」
にこにこ。
可愛らしい笑顔は、確かに間違いなく可愛いものに違いはなかったが、久瀬は改めて眺めてみて、結論付けた。
似ていない姉妹だ。
もしかしたら、久瀬が知らないだけで、姉もこんなキャラクターなのかもしれない……と、ふと思ってみたりもする。
ふう。久しぶりに、ため息をつく。
「わかった。ただ、私もあまりゆっくりはしていられないのでな。今日のところは、とりあえず君を家まで送らせてもらうということで許してくれ。こんな暗い中に呼び出した私の責もあるしな」
「――『今日のところは』？」
「……聞き返すな」
「はぁいっ」
元気よく栞が頷く。
そして甘えるように隣に寄り添って立つと、あっちです、と家までの方向を指差した。
横から久瀬を見上げる顔は、幸せに満ちていた。
栞の家は近く、１５分ほど歩けばもう着くほどだった。
その短い間に、色々な話をした。体調のこと、昨日のこと、弁当のこと、生徒会のこと。何故だか、無関係の他人に話すべき内容ではないことまでずいぶん話してしまったような気がして、久瀬はそんな自分に滅入ってしまう。どうかしている、と思う。しかし、悩みを話すたびに彼女なりに色々考えてくれて何か言葉をくれることで、気分が楽になるという事実は否定のしようがなかった。
「久瀬さん、私、少し嘘ついてました」
そんな会話の中、栞がぽつんと言い出した。
「ん？」
「お姉ちゃんのこと」
栞の表情は寂しそうでもあり、何かの決意を込めているようでもあった。
「本当は、お姉ちゃんとはもうずっと、一言も話してません」
「……そうなのか。仲、悪いのか？」
「そんなこと……ないと、思うんですけど。私はお姉ちゃんのこと、大好きです。お姉ちゃんはすごく優しくて、私がよく倒れるといつも真っ先にかけつけてきてくれて、励ましてくれて……」
その震える声で、栞の言葉が過去を向いていて、過去を思い返して話しているということはすぐわかる。
なんだかややこしそうな話に、久瀬は眉をひそめる。
「どうしてなんでしょうね。……ただ私も、もう仲直りするのを諦めてました。まるで私がもういないみたいに振舞うお姉ちゃんを見て、もう届かない距離に行ってしまったんだって……諦めてました」
栞の手が、すっと横に伸びる。
その手が、久瀬の手を捕まえる。
驚きに少し身を硬くする久瀬だったが、何も言わずそのまま歩き続ける。
「今、久瀬さんから力を貰いました。私、もう一回頑張ってみます。悔いを残したままだなんて、嫌ですから」
「……ああ。頑張れ」
「はい」
そして、ちょうど家に着いた。美坂と書かれた表札が目の前にある。
久瀬は、このとき、栞の言葉の微妙なニュアンスを聞き逃したことに気付いていなかった。
「今日はありがとうございました」
「礼を言うのは私のほうだ。……ありがとう」
「いえ。久瀬さんも、帰りはお気をつけて」
ぺこり。
頭を下げた後、手を振って玄関のドアに手をかける。
今しばらくその姿が見えなくなるかと思うと、久瀬は急に寂しい気持ちになる。思わず声をかけたくなるのを、なんとか抑える。
ドアの向こうに栞の姿が消えたとき、久瀬は小さくため息をついた。
なんとなく空を見上げる。
――その瞬間、２階の窓の向こうの少女と、確かに目が合った。
遠くて見えづらかったが、それが香里であることはすぐにわかった。１年のときは同じクラスだったのだ。あの顔を見間違えるはずもない。
彼女は目が合ったことに気付くと、すぐに窓の死角に消えていった。結局、顔を見ることができたのは２秒にも満たない時間だった。
そんな短い間だったが、久瀬は彼女の中に潜む冷たい血液に触れた気がしていた。