1/2 「雪合戦は好きですか?」
実際のところ、久瀬が置かれた状況はよくなかった。
あの日、久瀬が栞を背負って校内を歩いていたのを目撃した者は多い。中には、二人が中庭で話しているのを見たという者もいた。
生徒会長である久瀬が、恋人を学校に連れ込んでいるという噂が流れた。その日の5時限目の授業を休んだのもまずかった。
久瀬政権の反対派は、格好の攻撃材料を見つけてここぞとばかりに叩きに走った。久瀬の厳しい統治にずっと大人しくさせられてきた自由奔放派の生徒達もこの流れに乗り、久瀬追放運動への流れへと繋がっていった。
久瀬は、ぎりぎりのバランスで積み上げてきた基礎が一気に崩れていこうとする様子に歯噛みした。こんな状況になってしまうと、仕事はうまくいかない。生徒会の活動は生徒の活動である以上、最低限形の上でも生徒自身が動いてくれなければ無力化してしまう。これまでは学外の権力を持ちこむことによって、力で支配を行ってきたが、それも限界がある。
ここに至って、自らの地盤の弱さを認識せざるを得ない。持ち合わせる地盤の強さに対して政策が強硬に過ぎるきらいがあることは自覚していたが、穏健政策では時間が足りなさ過ぎるとの思いからかなり無理をしてきた。そのツケがここにきた。
無論、この状況を脱する最短で最適な方法は、反対派が望むとおり、ここ数日の出来事、栞という少女について正式に説明を行い、自らが不当な行為を何一つ行っていないことを証明することだ。所詮は噂であるうえに、調べれば少女のことはすぐに証明できるため、この窮地を一気に脱することは不可能ではない。
それにもかかわらず、久瀬はそれができないでいた。
栞にも何の責もないのだ。そんな彼女を全生徒の晒し者にし、好奇の対象にしてしまうわけにはいかない。それこそ、復学への道を閉ざしてしまうことになりかねない。生徒のための生徒会活動としては本末転倒となってしまう。
何より、久瀬には、自分の保身のために栞を悲しませることになることなどできるはずもなかった。そこに公務の心を超えた個人的な気持ちが大きく作用していることは、もう久瀬自身も否定するつもりはない。
この窮地を乗り切る特効薬的な手段はない。耐えに耐えぬくしかない。
「僕は会長を信じてます。だから会長も僕を信じてどーんと背中をまかせてください!」
「……すまん。助かる」
仲間は、いる。
このおっとりした、今もにこにこと屈託の無い笑顔を見せる後輩は、今までもずっと久瀬の支えになってきた。仕事の上でも、精神的にも。強圧的な一方になりがちな久瀬政権において、生徒との間でのクッション役になってきた彼の業績は大きい。反発の大きい中で弱音も吐かず今までやってきた彼の凄さというのを、今になって久瀬は実感していた。
日常事務作業をこなしながら、隣で作業を進める彼にあらためて感謝する。
ただ仲間がいるというありがたさの意味だけではなく、久瀬に、自らの姿勢を見なおすきっかけをくれたことに。
「本当に構わないのか? 君までほぼ全生徒を敵に回すことになりかねないぞ」
「だって会長は、あの女の子を助けてあげようとしてるんでしょう?」
迷いの無い声で、彼は言う。
嬉しそうにほらほらー、と久瀬に1枚の紙を振ってみせる。それは、久瀬が最近学校側に提出した「復学支援のための授業プログラム提案書」だった。
「生徒会に助けてもらった僕が、生徒会や次の困ってる子を助けないなんて話はないでしょう」
こうやってまた次の世代がこの気持ちを引き継いでいくんです。彼の言葉だ。
強く信じる彼を、今の久瀬はそんなものは甘い幻想だなどと笑い飛ばせなかった。その気持ちの強さを、今まさに目の前の彼が見せてくれているのだから。
ごめんなさい、と栞は言った。
いつになく真剣なその表情に、まるで謝られる覚えのない久瀬は顔に疑問符を浮かべて、彼女を見返す。
この日曜日は、遊ぶのにうってつけな晴天だった。もちろん、雪が溶けてなくなるほど温かいわけではなかったが。栞に案内されてやってきた公園は人気がなく静かで、中央にある噴水の音だけが定期的に聞こえてくるような環境だった。太陽を浴びて水面がきらきらと輝いている。久瀬は生まれてからずっとこの街で育ってきているが、こんな公園のことは知らなかった。
雪も真っ白で、ここに人が来ることはめったにないことを示している。動き続ける噴水だけが、少なくとも誰かがこの公園を保守運営しているのだという事実を証明していた。
こんなに晴れやかな日にこんなに美しい場所だというのに、栞の表情は落ち込んでいる。
「やっと、お姉ちゃんと話すことができたんです」
二人、ベンチに腰をかける。
間の距離は、拳一つ分。
「なんだ、明るい情報じゃないか。おめでとう」
「その一言目で言われたんです。私のせいで生徒会が大変なことになってる、って……」
ごめんなさいともう一度謝る。辛そうな声で。
「……」
久瀬は、苦々しい思いで、あの日見た香里の顔を思い返していた。冷たい表情。
何も、よりにもよって。
久瀬さえ何も漏らさなければ、栞に余計な負担を与えることなどないはずだったのに。
「……歩み寄ろうとする妹に対する一言目が、それか。何考えてるんだ、まったく。他には何か言っていたか」
「責任は、ちゃんと自分でとれって」
「ふん。君に責などない。余計な進言だな」
「あと……本当に大切な人だったら、助けてやれって」
「……バカな。つくづく、余計なことを……」
心の中で香里を罵る。
ただでさえもう無関係の争いに巻き込んでしまって、危険な目にあわせているのだ。現状では、こうして休日に会うことさえ注意を払わなければならない。妹を思いやる気持ちなどないのだろうか。
「でも、お姉ちゃんの言うことは、正しいです」
栞は胸に手を当てて、視線を上げる。
「なんだと」
「あ、久瀬さんが言いそうな言葉はわかりますよ。でも、無駄ですから。知ってしまったからにはもう後戻りは出来ません」
「……む」
言おうとした言葉を先に遮られては、口を塞ぐしかない。
栞は、訴えかけるように久瀬に顔を近づける。
また見た。決意のこもった目。
「私、お医者さんに、1週間だけ学校に行く許可を貰いました」
「え……」
「これでやっと、久しぶりにあの制服を着ることができます。久瀬さんも楽しみにしててくれますか?」
「ちょっと待て。ずっと休んでいたのは体の問題があるからだろう? 治ってもいないなら、危険じゃないのか?」
「危険なら、お医者さんの許可は下りませんよ」
えっへん。
少し誇らしげに胸を張る。
だが、久瀬はそんな栞を見ても、不安が大きくなるばかりだった。
「だが安全なら今までずっと休ませるなんてことはなかっただろうし、1週間という制限をつけることもないだろう」
「……もうっ。久瀬さんはいつも、心配性すぎます! それともそんなに私が学校に通うのが嫌なんですか?」
「く……殺し文句だな、それは……つくづく。無論、嫌なわけではない。ただ、無理をしているのではないかと思ってな」
困った顔で、それでもなるべく引かないように栞に対抗する。
問題は、いきなり学校に通うと言い出した理由だった。話の流れから考えると、久瀬が安心できるはずもない。
香里から生徒会の現状を聞いているのなら、栞ももちろんもっとも早い解決策は知っているだろう。自らが犠牲になることで生徒会に報いようなどと考えているのではないかと、不安になる。
「嫌じゃないのなら、喜んでくれると嬉しいです。もう決まったことですし、私ももう明日の準備をしてます」
「……まあ、そうだな。本当に、無理をしているのでなければいいのだが」
「それで、久瀬さんにお願いがあるんです」
ああ。
きた、と久瀬は思った。何かが来る。
ここが守らなければいけないラインになる。そんな覚悟を決める。
心の盾を固めて身構えていると、栞もまたそれを感じ取ったのか、視線の鋭い矛で真っ直ぐに突いてくる。
「私に、生徒会のお手伝いをさせてください」
「断る」
「わ……その即答は、早すぎますっ」
「迷うフリでもすればよかったか? 悪いが、迷う点などまるで無いのでな」
抗議する栞を、涼しい顔でざっくり斬る。
「いいか。繰り返しになるが、制限つきで行動を許す以上は体力等の面で無理があるということだ。おそらく毎日終わったあとちゃんと病院に行くことを条件にされているんだろう? 不要なことで消耗しないほうがいい」
今度こそ、言い負かさなければいけない場面だ。
もう、言葉のマジックに惑わされない。
「それに、どうせ学校に通うのなら、平穏無事に、幸せに日常を満喫したほうがいいに決まっている。今生徒会の手伝いなんてしたら、せっかくの学校に嫌な思い出しか残らないぞ」
手伝いの具体的な内容にもよるだろうが、いずれにしても現状では生徒会の味方をするというだけでも風当たりは極めて強いだろう。生徒会内部でさえもともと結束は弱く、久瀬が信頼できる仲間はたった1人だった。つまり、それ以外のほぼ全員を敵に回すことになりかねない。
強く説得する久瀬に対して、しかし、栞もまた一歩も引かずに突き進む。
「限られた時間だからこそ、やりたいことをやって後悔しないようにしたいんです」
「君はわかっていない! いいか、今下手なことをすると、その後本格的に復学する機会にも悪影響を与えるんだ。君にとっては1週間だけの問題では済まない」
「久瀬さんこそわかってません。私は本当に、楽しみにしてるんです。何も久瀬さんや生徒会のために私が犠牲になろうなんて思ってるわけじゃありません。私も久瀬さんも一緒に楽しみたいって言ってるんです。面白いから一緒にどうだって誘ってくれたのは久瀬さんじゃないですか」
「楽しめる状況じゃないんだ。それがわからないわけではないだろう」
「状況なんて変えられます! 変えるんです!」
ばちばちと火花が飛び散る。
「だから、変えようとすることが、君に悪影響を」
「悪影響なんてありません。久瀬さんは、自分がやってきたことに自信が持てないんですか? 久瀬さんがやってきたことは生徒たちを敵にして、恨まれるだけのことだったんですか? 生徒会を手伝うということは、生徒全員を敵にするということと同じなんですか?」
「――もしかしたら、そうだったのかもしれないな。最近、思ってきた」
「そんなのダメです! 今まで生徒のために久瀬さんはずっと頑張ってきたはずです! やり方に間違いがあったのなら修正していけばいいんです。私にそのお手伝いを……させてください」
「……ダメだ。それなら、体が完全に治ってからだ」
「……久瀬さん、強情です」
「ふん。とにかく無理はさせない。わかってくれ」
「嫌です。少しでも久瀬さんと一緒にいたいんです」
「……」
「……」
栞は、久瀬の目に浮かんだ動揺と迷いを見逃さなかった。
「それなら――」
栞は、ベンチから立ち上がる。
「久瀬さんにも私にもまったく譲る気がないというのでは、決着がつきません」
だから神様に聞きましょう。
そう言って栞は、ポケットから一枚のコインを取り出した。
「神様?」
久瀬が不審げに眉を顰める。
まったく信用の出来ない単語だったが、栞の真剣な表情を見ると、いきなり突っぱねることはできなかった。
「はい」
栞はそのコインを、久瀬に突きつける。見たことの無いデザインだった。誰だかわからない人の顔が彫ってある。
「私が迷ったとき、いままでずっと頼りにしてきた、神様の奇跡です」
その言葉に現れるとおり、決して新しいものではない。輝きは失われてはいないが、すでにかなり鈍くなっている。
いったいどのような力があるというのか。
「一回で決めます。表か裏か、選んでください」
栞は、コインを一度くるりと回転させて、顔の描いてあるほうを表だと説明して、親指と人差し指で持つ。
要するに、コイントスということだ。久瀬は拍子抜けして、肩の力を抜く。
「久瀬さんが勝てば、私も大人しく諦めます。その代わり、私が勝ったら、文句はなしですよ」
「運試しじゃないか……そんなので決めていい問題なのか」
「話し合いでは決まらないことはわかりましたから」
すっと、顔の高さまで掲げる。
日を浴びて、雪の反射の光も浴びて、銀色が光る。
「久瀬さん」
「表だ」
「――いきます」
ぴん、と高い音と立てて、コインは空に舞った。
高く舞った。
「今日から1週間お世話になります、美坂栞です。よろしくお願いします。最近はちょっと体調がよくて、学校に通うことも許可していただきました。本当はもう少し前から大丈夫だったんですけど……なんとなく勇気がでなくて、授業中に学校に来てたりして遠くから眺めてました」
そこは、確かに栞のクラスだった。
友達も誰もいないし、顔に覚えがある人さえほとんどいなかったが、栞の名前は確かに名簿に残っていた。
「そんなとき偶然生徒会の方に見つかりまして、私は相談にのっていただきました。私のこの復学には色々と協力してくださいました。……休学中なのに授業中に学校に来てるなんて感心しない、って怒られてしまいましたけど。それに、さすがに寒くて倒れてしまいまして、それでもまた迷惑をかけてしまいました」
栞の自己紹介に、全員が興味深く耳を傾けている。
彼女が噂の女の子だということを知っている者もいれば、知らない者もいる。
だが、誰一人として、噂の女の子が最初だけは自分と同じクラスだった女の子だとは知らなかった。
「私のこの1週間は、色んな人に支えられたおかげです。私は、この学校に来られたことを、幸せに思います。皆さんにもご迷惑をかけてしまうこともあるかもしれませんが、私も皆さんのために力になれたらと思います。……勉強のほうは、助けられっぱなしにしかならないと思いますけど」
自己紹介は、ここで終わり。
拍手が起こった。
「失礼しますっ!」
一応、ノックをして、返事を確認してから、ドアを開けた。
開け方は控えめに、挨拶は元気よく。
先客は、おなじみの久瀬と、もう1人、知らない男子生徒だった。知らない彼のほうが先に、笑顔で挨拶を返してくる。
「いらっしゃい。はじめまして、美坂さん。あなたのことは、会長から聞いてます。生徒会はあなたを大歓迎します」
彼が立ち上がって、お辞儀をする。
全体的にゆったりとした動作で、柔らかいひとだな、という印象を受けた。あまりに綺麗に整理された部屋に漂う緊張感を、彼の存在が緩和している。
「はじめまして。今日からよろしくお願いします。ちなみに、久瀬さんからは何と聞いてますか?」
とりあえずは、ドアを閉めて。
彼を見上げる。
「今日から1週間だけ手伝ってもらうことになった、と言ってました。それくらいですー」
「それだけですか? 無理させないように適当に簡単な仕事だけ任せてみたり適当に帰らせたりしろ、とか言ってそうですけど」
「……わぁ。かいちょー。バレバレじゃないですか〜〜」
それはもう傑作だと言わんばかりに手を振って、彼は笑った。
ここまで終始無言でそっぽを向いていた久瀬は、彼の言葉に頭を抱える。
「……バカか。そこはそんなことはない、と否定しておけばいいのに」
栞は、やっと口を開いた久瀬に向かって、不満いっぱいの顔を向ける。
「久瀬さん! いい加減、堪忍してください! 決まったことに反抗するのは男らしくないですよっ」
「しかし――」
「却下です。神様が言ったことなんですから、逆らってはいけません」
「……横暴だ」
そんな二人の会話を、彼は横からにこにこと眺めていた。そして、久瀬のほうに向き直る。
「かいちょー、まずは言わなければいけないことがあるでしょう? さっそく他の誰にもできなかった大きな仕事をやってくれたこの子に」
「む……」
久瀬は、複雑な表情で、複雑な相槌を打った。
栞の挨拶は、すぐにまた学内の噂として流れた。
これが生徒会の評判を上げるなどという単純な状況ではなかったにしろ、反対派にとっては大打撃となった。栞がこの学校の生徒であり、確かに今は復学許可が正式に出ているという状況から考えても、その言葉を嘘として否定することはできない。反対派は公的な攻撃材料を失ってしまったのだ。無論、まだ細かい部分を叩くことは不可能ではないが、存在感のある大スキャンダルには程遠い。
こうしてまた状況は激変した。
「そうだな。助かった。本当は君を巻き込みたくなかったが」
「もう私は関係者です。そういうのはやめてください」
「ありがとうございます、美坂さん。やっぱり、会長のこと、誤解されたままでは、悲しいですから」
「はい。私も悲しいです。だから、放っておくわけにはいきません」
さっそく仕事ができたと、栞は喜ぶ。
もちろん、あの挨拶は、決してそのためのパフォーマンスなどではなく、本当に感謝の気持ちを込めて言ったものだった。
「お姉ちゃんが教えてくれなかったら今頃、何も知らないまま久瀬さんを苦しめ続けていたのかもしれません。お姉ちゃんにも感謝しないと」
「……そうだな」
「……まあ、お姉ちゃん自身は、いい気味ね、とか言ってました、けど」
「……言いそうだ」
「ところで、生徒会ってお二人だけなんですか?」
周囲を見渡しながら、栞が言う。
どこかに誰かが隠れているとか、見えないところにいるとか、まだ奥に部屋があるとか。色々と探しながら。
「……」
黙ったまま、さりげなく目を逸らしたのが久瀬。
「いえ、会長に副会長、会計に書記、その他役員の皆さんがいますよ。今日はまだ来られてませんけど」
普通に答えたのが、彼。
久瀬は、苦い顔で反論する。
「今日はまだ、じゃないだろ。もう3日、私と君以外誰も来ていない。もう来ないんじゃないか」
「大丈夫ですよ〜。みんなわかってくれてますってー。生徒会を愛するみんなですから」
「そうかな……」
栞はそんな会話を聞きながら、だいたいの事情が読み込めてきていた。
生徒会が大変なことになっている、というのは内部的な問題にもなっていたらしい。
ちょっと軽率な質問だったかと反省しているところで、後方でがらりと戸が開く音が聞こえた。
「……ちーす」
「ほら」
えへん、とタイミングよく彼が威張ってみせるのが先に見えた。振り返ると、背の高い女性が立っていた。
彼女は少しばつの悪そうな顔で入ってきていたが、栞の姿を見ると、きょとんと目を丸くする。
「おお、噂の少女じゃないか。なんだ久瀬、さっそく拉致ってきたのか? やるなー」
ぱぱっと、軽快な言葉がでてきた。
栞に対して、迷わず手を差し出す。
「あ、よろしくお願いします……」
とりあえずノリに流されて、栞は手を出してしっかりと握手を交わす。
体格差のせいで、手のサイズも大人と子供以上の差だった。
「……紹介しよう、副会長の江戸川だ。なんというか、こういうヤツだ」
「おう。紹介された、こういうヤツだ。よろしく」
「は、はい……きゃ!?」
ぎゅ。
何の前触れもなく彼女は、栞を思い切り抱きしめていた。
可愛い悲鳴に、満足そうに目を細めながら、栞の頭をなでる。ひたすらなでる。
困った顔でとりあえずされるがままになる栞に対して、例の彼はいつもどおりにこにことそれを眺めるだけで、久瀬は呆れ顔(そして諦め顔)でため息をつくだけで。
栞がふらふらになりながら開放されたのは、1分以上後のことだった。
「それで、久瀬さん。今日クラスで色んなひとと話をしました。生徒のみんなは、そんなに久瀬さんや生徒会を嫌っているわけではないみたいでした」
この学校における生徒会の立場については、香里から話を聞いていた。
そして久瀬からもたくさん聞いていた。
実際、1年生のクラスの中に混じって聞いてみると、確かに一部生徒会に激しい嫌悪感を持っている者もいるようだったが、今の生徒会を歓迎する声も少なくはなかった。実際、久瀬が会長に就任して以来、学校は見違えるほど綺麗になり、安心して気持ちよく過ごせる環境になっていると、ほぼ誰もが実感しているようだった。それを認めたうえで、しかしあまりに強圧的な態度や学校外の権力を持ち込むやり方などは強く批判する者が多かった。
「当然だな。生徒会にはあたしがいるんだ」
自信たっぷりに、江戸川副会長は言う。
「ま、正直な話をぶっちゃけりゃ、あたしは久瀬はあんまり好きじゃない。仕事でも対立ばっかりさ。だけど、この生徒会の方針は凄く気に入ってる。ここにゃあたしの大嫌いな似非平等主義や似非人権主義なんてものがない。機会の平等化ってやり方で、結果的に弱い者から助けようとなってるシステムがお気に入りでね。久瀬がやった唯一のいい仕事だ」
「……この副会長は、とりあえず実力行使役といったところだ。いわば暗い部分担当だな。直接的には私よりも恨んでる者は多いんじゃないかと思っている」
「ひでー、悪党扱いかよっ」
噛み付く彼女。
そして彼は相変わらずにこにこスマイル。
「ま、栞ちゃんも幸運にも生徒会に関わるんだったら、すぐにでもわかるさ。余計なことを気にせずに正義を揮える気持ちよさが……ふふ……」
「いや怖いから。彼女、泣かすなよ」
「お。さっそく彼女は俺のもの宣言? かっこいいー」
「……」
久瀬は、うんざりした表情で首を横に何度か振った。
こんな会話をしながらも、本気で喧嘩になるような気配はまるでない。実は仲がいいというパターン――ではなく、おそらくは久瀬のほうが争いになるのをなるべく避けている、といった感じだった。
「ともかく、今はそっちのほうはしばらく封印だろう。今の仕事といえば一つに決まってる」
久瀬は、栞に向かって言う。
栞に向かって言ったのだ、と強調するように言う。
ここからは生徒会としての活動の話に入る、と気持ちを改めて、一度全員を見渡してから、もう一度栞に向かう。
「というのも、以前にも話したが、今週」
「水曜日が舞踏会なんだよな」
「……くっ……」
肝心のところを先に言われ、悔しがる久瀬。
隣では、彼女がにやにやと勝ち誇っていた。
「……ふん。まあ、そういうことだ。しばらくはその準備で手一杯になる。そんな状況だというのに、特にここ数日は人手が足りなかったからな?」
久瀬の視線が動くと同時に、彼女の視線がつい、と天井に逸れる。
……沈黙。
さて、と栞に向き直る、久瀬。
「まあ、準備もそうだが、せっかくの機会だ。君も舞踏会に出てみたらどうだろう」
「えと……せっかくですけど、私はそういうのは向いてませんから」
栞は首を横に振ると、今度は両手にぐっと力を入れて、拳を突き上げる。
びしっと。
「せっかくイベント主催するなら、やっぱり大雪合戦大会です! 絶対そっちのほうが面白いですよっ。ね、江戸川さん、雪合戦は好きですか?」
明後日の方向を向いたままだった彼女を、呼び戻す。
彼女は栞の言葉に、ふむ、と言って考え込んだ。
「雪合戦っつーと、アレだな。雪という自然の道具を極限まで圧縮硬化させて凶器を生み出すバイオレンスバトルか」
「……その表現は、歪めすぎだろう」
「それです。石を入れるとさらに破壊力が上がるんですよ」
「君もかっ」
栞の言葉に、久瀬は何やら衝撃を受けている。
よりにもよって、石。
「ずいぶん長いことやってないな……ま、確かにあたしは、舞踏会なんて退屈なだけなんよりはそっちのほうがよっぽど好きだな」
「ほら! 久瀬さん、ほら! 雪合戦派の躍進ですよ!」
「――まあ、趣味はそれぞれ、だろうが……どっちにしても、今更開催イベントを変えるなんて無理なのはわかるだろう。提案があるなら、まずは議会に提出して、来年度予算に組み込」
「何とでもなります、きっと。ほら、例えば……雪合戦式舞踏会、とか」
久瀬が、天井を仰ぐこと数秒。
「……すまん。まったく想像がつかん」
「だから、つまり、みんなで雪を持って音楽にあわせて投げ合うんです! 二人でタッグを組んで闘って、最後まで勝ち残れば二人に素敵なプレゼントが」
「……雪合戦じゃないか。どこに舞踏会の要素があるんだ」
「全員ドレス姿です!」
「死ぬわ!」
賑やかな生徒会生活は、あと5日間。