火曜日は舞踏会の準備のため、午後の授業がない。部活も全て休みとなる。
したがって必然的に、午後も学校に残るのは生徒会をはじめとする舞踏会の関係者のみとなる。
当然のように、今日は学食も休みである。ほぼ全生徒がいなくなるのに営業をする意味はない。となると、残る関係者で普段は学食を利用しているものは困る。この日だけは弁当持参が必須となる。
しかし、久瀬は今日も何も持ってきていない。やはり、少し頼りない感じがする。
加えて、向かう先は学食でもなければ生徒会室でもなかった。非日常の中でもさらに非日常の行為になる。こんな寒い季節だというのに、滅多に開けられることのない大きな扉を開けて、中庭の外れに出る。冷たい空気が肌を刺す。
こんな寒いというのに……彼女はもう、待っていた。
久瀬を見つけると、嬉しそうにベンチから立ち上がって彼を迎えた。
「こんにちは!」
つまり、こういうことだった。
「今度こそ一緒にお弁当食べられますね」
これが、前日帰る前からの約束だった。
せっかくの機会だからと、栞が申し出た。今日の昼、授業終了後、この中庭で。1週間ほど前に出会った、この大切な場所で。
「ちゃんと、二人きりで……」
言ってから、自分でえへへ、と照れ笑い。
久瀬は、黙って隣に立ち、ベンチに腰をかける。栞も少し遅れて、また座る。膝の上に重そうな鞄を乗せて。
「……どうやら、寒さに強いのは本当らしいな」
ベンチの冷たさに一瞬顔をしかめた後、耐えるような口調で久瀬が言った。
この中庭の冷えはかなりのものだ。陽がほとんど当たらないうえに人もまず来ないだけに、校内でもとびきりの寒冷スポットになっている。先程まで温かい校舎内にいた体には、かなり効く。
栞にしても今日は全く同じ条件のはずなのに、こちらは平気な顔をしていた。
「えっと……」
そんな久瀬の言葉に、栞は視線を少し落とす。
……しばらくそうして黙りきっていたのを不思議に思って久瀬が首を傾げると、栞の体が、すす……と右に動いた。久瀬のいるほうに。
そうして、腕と腕が、脚と脚がぴとりと触れ合う距離に。
衣服の上からではあるが、触れ合う箇所から熱が伝わりあう。
「こうすれば、ちょっと温かくなります」
さらに近くなった距離から、栞の声が聞こえた。見上げる彼女と、視線が合う。
その微笑は、ほんのりと朱に染まっていた。見ている間に、栞はすっと目を閉じる。栞の頭が、こて、と久瀬の肩に軽く乗る。
「……」
確かに、温かくなった。
栞の弁当は、やはり豪華だった。
主に、量が。
「ちょっと張り切りすぎました」
「前にも同じ言葉を聞いた気がする……」
思わず呆然としてしまうが、ここは気を取り直して目の前で手を合わせる久瀬。
いただきます。丁寧に一礼。
箸に手をかけて、まずはご飯に手を伸ばす。さすがに冷えて固まっている。弁当の宿命ではあるが、普通以上に固くなっている気がした。さすがに、この寒い中では仕方ない。口に運ぶ。冷たい。味は悪くない。炊きたての米に比るのはさすがに可哀想というものだが、確かに上手く炊けているということがわかる。
そして、おかず。野菜の味噌炒めと思われるものから。弁当特有のやや濃い目の味付けが、ごはんによく合う。
「やはり、美味い」
久瀬の口から、感嘆の声。前回はデザートだけだったが、普通の料理も十分な腕前であることがわかる。
「……嬉しいです」
そんな様子を横からじっと眺めながら、幸せいっぱいといった表情で栞は微笑む。
栞の表情と言葉のあまりのまっすぐさに、久瀬は箸を口に含んだ状態のまま、言葉を詰まらせる。今の一瞬で、血の巡りが激しくなった。危険を悟って、栞からさりげなく目を逸らす。
冷えた体を内側から温めようと、心臓が激しく動き出している。
ごくり。つばを飲み込む。ついでに、言いそうになった、らしくもない言葉を飲み込む。
「どうしたんですか?」
きょとんとした顔で、そんな久瀬に栞が問いかける。
なるべくそんな顔も見ないようにしているつもりが、視界の端に入ると意識して逆にもっと見たくなってしまう。どうやら、変な病気がこんなタイミングでやってきたらしい。
栞のこういった言動にはある程度耐性がついていたはずなのに、食事でふと心が緩んだ隙に、それは一気に襲い掛かってきた。
「……いや」
箸を下ろす。
一呼吸入れる。まずは、時間を置くことだ。何かしゃべりだす前に。
意識しだすと、隣の顔も、触れ合う体も、耳に心地いい声も、すべてが一つの方向に意識を向けさせるようになる。気がつけばもう、抜けられない悪循環の中。
「変な味、しました?」
その沈黙に、栞は不安そうな顔で尋ねる。少し顔を寄せて。
詰めた距離自体は「少し」だが、もともとが近いだけにそれは決して誤差の領域ではなく。久瀬はさらに取り乱す。
「全然、そんな、ことは、ない。本当に美味い。……その、なんだ。そういえば、君は食べないのか?」
「あ、もちろん、いただきます。まずは久瀬さんの感想が聞きたかったですから」
「……そうか、それなら、食べるといい」
「はい」
にこりと微笑む栞の表情を見ると、久瀬は、もう自分の動揺が顔に出まくっているのではないかと不安になる。すべて見透かされているようで。
手を温めるフリをして、頬の温度をそっと確かめてみると、それはもう低温火傷するのではないかというくらい火照っていた。なるほど、これは病気だった。
箸でおかずを口に運ぶ。味がしない。
隣では栞が、いただきますと久瀬と同じように手を合わせている。そんなさりげない仕草でさえ、何故か――
「……」
「……」
二人とも、食事を口に運ぶ。そんな、わずかな間、訪れた沈黙の時間。
「――さっき、な」
言葉は勝手に飛び出ていた。
「?」
言葉に振り向く栞以上に、久瀬自身が驚く。何を言おうというのか。
何を言おうというのか――
そんなものは、決まっていた。
「君が……どうしようもなく、可愛いと思った」
その直後、余裕がなかったのは、言った久瀬のほうだったか、言われた栞のほうだったか。目を丸くしながら、みるみる間に顔を真っ赤にしていく栞を見ながら、久瀬が思ったのは、自分も同じような状態になっているんだろうなということだった。
どこよりも寒い中庭は、どこよりも温かかった。
1/2 「恋人らしいこと、しませんか」
舞踏会の準備は大変だった。
ただでさえ生徒会の中では最大のイベントである。内装は例年、さらに本格的にと毎年凝りに凝りまくっている。
加えて、今年は、作業者が足りない。生徒会の内部分裂による影響が直接的に出る場面だった。臨時の助っ人である栞の存在は、必然に非常に大きいものとなる。久瀬はなるべく負担の小さい作業しか与えないように細心の注意を払うが、基本的に体力仕事にならざるを得ないのはどうしようもない。
久瀬自身も決して力仕事向けの体格ではなく、むしろ完全にデスク派で、もう1人の男手も標準程度の水準でありそれ以上ではなく、結局――
「おら、どいたどいた。轢くぞ」
がらがらがらがら……
パワフルに運搬設置作業を進める副会長の姿を、栞は時折ほけーと眺めるのだった。常に、栞の3倍のものを持っている。実に頼りになる姿だ。
彼女と、後輩の男子生徒が実作業のメインを勤めていく。体格でも彼女に負ける男子生徒は、必死にそのペースについていくのだった。凸凹コンビに見えるが、不思議と気はよく合うようで、作業中に談笑している姿も見られた。
栞は細かい作業が中心になる。テーブルクロスをかけたり、飾りつけを行ったり。
久瀬は全体の指揮や今回の舞台のデザイナーとの打ち合わせやらで忙しい。自然に栞は1人になることが多かった。寂しい。
ちら、と久瀬のほうに視線を送ると、久瀬が振り向く。目が合う。すると久瀬は申し訳なさそうに軽く手を上げてごめん、とジェスチャーを送る。なんだか、冷静に作業を進めている久瀬がそんな仕草を見せるのが面白くて、密かに笑う。
作業は、予定のペースよりは遅れながらも、少しずつ、順調に進んでいった。
「うし」
副会長が、気合を入れた声で。
「休憩すっか」
気がつけば、もう4時。作業を始めてからあっという間に3時間経っていた。
「疲れました〜〜〜」
くたくた、といった声で彼が続く。見るからに消耗しまくってる。よく頑張ったものだ。
「あ、でも、久瀬さんが……」
久瀬だけはまだ何やら偉いさんのような人と対話中で。色々と指示を受け取っているようで。
栞は、視線で彼女に訴えかける。
「気にすんなって。そのうち来るさ」
あっさりとかわされた。彼女は近くのテーブルの椅子を引っ張り出して、豪快に座る。肩をぐるぐるまわしたり、体操をしつつ。
疲れた顔のまま、彼も続いた。彼女の隣に腰を下ろす。
ちらりと久瀬のほうを覗いてみるが、今は栞たちに背中を向けているため気付かれない。
しばらく迷ったが、疲れていたのも事実なので、栞もまた同じテーブルの椅子に座ることにした。
ふう……と、小さなため息が漏れる。座ってみると、一気に疲れを自覚する。
と、その頭をくしゃくしゃと撫でる手があった。顔を上げると、副会長がにかっと笑っていた。
「お疲れ、栞ちゃん」
「あ……いえ、お二人こそ、お疲れ様です。私は、そんな大変なことしてませんから」
「なんのなんの、適材適所ってヤツさ。あたしには細かい作業は無理さ。ほんとに苦労するのは、どこでも適所になるけどどこでも適所じゃないタイプだな。なあ?」
「……あはは……」
疲れた顔で苦笑いの、彼。
微妙な社会の縮図。
「んで」
まじ、と彼女が栞の顔を覗き込む。
ぽん。
頭の上にあった手を、栞の肩にまで下ろして、彼女が一言。
「久瀬とは結局、どこまでの仲なんだ?」
窒息しかけた。
「えと……つまり、やっぱり、いい人だと思うんですよ。久瀬さんに自覚はないかもしれませんけど、とっても助けられてますし」
話を聞きながら、時折嬉しそうに頷くのは彼。久瀬が褒められると自分のことのように喜ぶ。
「いいひと、ねえ。久瀬の原理は善意じゃなくて使命感さ。そのうち、嫌でもわかるだろーけどな」
「いえ、だいたいわかりました。今までのこととかも色々聞きました。でも、おかげで私は助けられて、今ここにいます」
「ふん。そうだな。久瀬は、行動の結果自体はちゃんと出すんだよな。やり方がへたっくそなだけで」
彼女は、両手を頭の後ろにやって、天井を見上げる。
やり方については、おそらく今までにも色々と衝突があったのだろう。不満そうな顔で遠い目をしていた。
「助けられたってのは、何なんだ?」
今度は、さっきから飛び出している単語に疑問が降りかかる。
「それは……」
栞は迷って、言葉を止める。
一言で答えられる質問ではない。むむむ、としばらく考え込んで。
「拾ってもらった捨て犬……といったところです」
「ほほう」
その言葉に、彼女の目がきらり。
「つまりアレか。フラれたところに優しい声をかけられて、という」
「違いますっ! ふ……フラれたわけじゃ、ないです……よ、たぶん?」
「そう言うんだよなあ」
「あ、何ですかその優しい目は! なんかこう、わかってるよみたいな!?」
「久瀬め、上手いことやったな……」
ち、と何故か悔しそうな舌打ち。
「いいか、久瀬に騙されるなよ。表裏は全然ないバカ正直な人間だからわかりやすいが、そのぶん躊躇なく人を利用したり切り捨てたりするぞ。久瀬にとっちゃ大切なのは学校とか生徒とかで、個人じゃない。そこを忘れてると泣きを見ることになる。せめて外見だけでも人を大切にしてます、てなパフォーマンスしておけばあんなに叩かれることもないだろうに――」
「――批判なら、いつも通り正面からやってくれていいぞ?」
「噂をしたら本当に来るヤツってのは、本当は立ち聞きしてたりするんだよな」
「……ふん」
いつの間にか彼女の背後まで来ていた久瀬が、憎まれ口を叩きながら、栞の隣の席を選んで椅子を引いた。
火花が散るようなこの会話が、この二人の日常であることは、栞ももう昨日と今日の二日間だけで理解していた。本当は久瀬が聞いているのをわかってて話していたのではないかとさえ思う。
実際、久瀬が入ってからも特に雰囲気が悪くなることはなく、休憩時間はしっとりと過ぎていった。
正直を言えば、迷っていると。
久瀬が言い出したのは、舞踏会当日、その直前だった。
結果さえしっかり出してくれば自然に政局は安定してくるものだと思っていたが、その様子はなく。生徒会内部でさえしっかりと維持することも出来ず。先日の事件では、絶体絶命の危機にまで追い込まれた。
誰に何を言われようと自分の道を曲げなかった久瀬が、ここで初めて皆の前で迷いを口にした。間違っていたのかと。しかし実際いい反応も得られているから全てが間違いだったとは思わないと。どうすればいいのかと。
その反応は――
「前から言ってるだろ、んなこと。ようやく気付いたか、バカ」
これだった。
さすがの久瀬も面食らう。
「人の話を聞かないできてるからこんなことになってんだ。ちゃんと耳を持て、以上」
「むむむ……」
久瀬の頬には、伝わる汗。
とりあえず残りの二人は静観モード。
「……本音を言うと、他のやり方を知らないんだ。江戸川、そうだ、いっそ君が会長になって建て直しを――うぇぶ!?」
久瀬のその言葉は最後まで言われることはなく、彼女の容赦ない横っ面への肘打ちで中断させられた。
傍目にも一切の遠慮なくやったというのがよくわかる一撃で。
「おおおおお……!」
かなり深く入ったのか深刻に悶え苦しむ久瀬を横目に、当の彼女は涼しい顔。
とりあえず栞が慌てて手当てに入る。といっても、撫でて痛みを和らげる程度しかできないが。栞が動き出したのを見て、後輩の彼は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「だからバカだってんだ。あたしには久瀬みたいな仕事はできないっつーの。あたしに学校の偉いさんたちの相手もしろってのか? 言っとくが、大変なことになる自信があるぞ」
「ぐ……そ、それは正論だ……が、そのために殴ったのか……?」
「すまん、肘が滑った」
「く……ぐふ」
「あのな。いつでもムカつくくらい冷静やってるのが久瀬の数少ない強みだろ。弱気でんなバカなこと言ってんじゃね。久瀬にしかできないこといっぱいやってるんだよ、今も。悔しいけどな」
ふん、とまっすぐ前を見ながら彼女が言い放つ。
「あとは、ちゃんとあたしとかコイツとかのアドバイスも聞いてりゃ大丈夫だ」
反対側の隣を歩く彼の肩を叩いて。
彼がにこっと笑顔で答える。
「ふむ」
真剣に、久瀬が頷く。……頬を撫でながら。
廊下を、こつこつと横並びで歩いていく。暗くなりつつある廊下を、今の生徒会メンバー全員で歩く。
静かに歩いていく。
会場に着いたとき、久瀬の服の袖がくいくいっと引かれる。
久瀬が横を振り向くと、栞がじっと見上げていた。
「久瀬さん、迷ったときは、神様に聞くんです」
栞の逆の掌には、あのコインが乗っていた。神様。
今彼女がここを歩いているのは、神様の意思による。少なくとも彼女はそう主張している。
「これ、貸してあげますね。今の久瀬さんに必要なものです」
「いつも持ってるのか」
「はい。大切なものですから」
「……いいのか、そんな大切なものを?」
「大切なものだから、お渡ししたいんです。今は久瀬さんに必要なものだと思いますから」
はい、と久瀬の手を取って。
手を開いて、しっかりと握らせる。
「迷いが無くなれば……うまくいったなと思ったら、そのとき返してください」
触れ合う栞の手は、相変わらず冷たくて。
それが気持ちよくて、このままずっと握っていられたらと思う。
「わかった。ありがとう」
彼女の幸せに満ちた笑顔を見ると、本当にそう思う。
「次のイベントを雪合戦にするかどうか迷ったときも、これで大丈夫です!」
「いや、それはない」
「かいちょー、ずっとそれ眺めてますねぇ」
「む……」
金曜の昼休み。
まったりとした日常は、にこにこと嬉しそうな――いつでも嬉しそうな、彼の言葉で始まった。
久瀬は、バツが悪そうに、手に持っていたそれをポケットに収める。
誰とも知らない人の描かれたコイン――神様。
「会長がそんな幸せそうな顔してるの、初めて見ました」
「……気のせいだ」
生徒会室の昼休みは、今日も二人。栞はあの火曜日以外は、教室で昼食を取っている。
1日のうちで生徒会室が一番平和になる時間だ。放課後になれば仕事が始まる。それはそれで好きだったが、ただこの部屋にいてくつろぐ時間も大切なもので、久瀬は大好きだった。
ポケットに入れた後も、ポケットの中でコインをまさぐる。凹凸の大きいコイン。
――こん、こん。
そんな静かな時間が、ノックの音で遮られる。
「あ、はい〜」
後輩の反応は早かった。すぐに立ち上がって、ドアに向かう。
久瀬は首をひねる。昼休みに、ノックをして生徒会室にやってくるような者などあまりいない。最初に思い浮かんだのは、栞の顔だった。今日も何か思い立ってやってきたのだろうか。もしかして、会いに来てくれたのだろうか……などと一瞬期待が脳をよぎる。
「失礼します」
ドアを開けたとき、そこに見たのは――意外な姿だった。
平和で幸せな日常は、彼女の登場とともにあっという間に終わりを告げる。
「美坂――さん」
「お久しぶりね、会長さん。ちょっと失礼するわ」
美坂香里。
かつての久瀬のクラスメイト。そして、美坂栞の姉。学年主席。
生徒会長として、久瀬個人として、彼女に対する情報がいくつか頭の中を駆け巡っていく。
「伝言を頼まれたわ。あの子は、今日は体調が悪くて学校は休み。明日は必ず行く。内容は以上よ。……まったく、どうしてあたしが……」
やれやれ、とため息をつきながら、彼女はその言葉を一気に言い切った。
言うだけ言うと反応も待たず、それじゃね、と立ち去ろうとする。
久瀬は慌てて席を立つ。
「待て。待ってくれ。体調が悪いって……大丈夫なのか?」
「――大丈夫か、ですって?」
久瀬が尋ねると、香里は一瞬、険しい表情になって久瀬を睨みつける。
……それもすぐに、無表情に戻る。
「あなた、あの子から、病気のことはなんて聞いてるの?」
「私が知っているのは、入学直後から入院していて、学校はずっと休んでいたということだけだ」
「そう」
「……もし、何か知っているのなら、教えてほしい。頼む」
真正面から向き合う。
香里のポーカーフェイスから何かを読み取ろうと、久瀬はしっかりと目を覗き込む。
「あなたにとって、あの子は、栞は何なの?」
香里は、やや目を伏せ気味にして、聞いた。
「恋人だ。大切な人だ」
問われて、躊躇することなく、久瀬の口からは今まで表に出ることの無かった単語が現れていた。迷いの無い、自信に満ちた口調で。
顔を上げた香里と目が合う。
「なるほど。あたしより、よっぽど立派ね。いいわ」
ちら、と横目でその会話を聞いていた男子生徒を見やる。
気付いた彼は、ぺこりと頭を下げる。
「それでは会長、また放課後に――」
「待った」
「……え?」
即座に立ち去ろうとした彼を、久瀬は引き止める。香里を見つめたまま。
香里に、頭を下げて。
「彼も一緒に聞いていていいだろうか。彼は……誰よりも、信頼できる。私が保証する」
香里は、びっくりしたように目を瞬かせる。
「あなたも、人を信頼することなんてあるのね」
「そうみたいだな。私も知らなかった」
「ええ、それならあたしもあなたの言葉を信頼するわ」
香里は頷いて、後ろ手でドアをゆっくり閉めた。
「あの子はきっと、大変な状況になってるあなたに心配かけたくなくて黙っていたんでしょうけどね。どっちにしてももう時間の問題だから、あたしの口から言わせてもらうわ」
香里が最初に、椅子をとって座る。
久瀬が続く。男子生徒も続く。
彼女は、単刀直入に言い出した。
「あの子の病気は、治らないの。もってあと数日とも言われたわ――生きていられるのは」
放課後、生徒会の仕事は全て終わり。
栞の最後の仕事も終わった。学校に通う1週間もこれで終わり。
前と同じベンチで、栞と久瀬は寄り添って座る。ぴっとりと、肌を寄せ合って座る。
「悪いとは思ったが、美坂さんから――君の姉から、病気のこと、聞かせてもらった」
「そうですか」
栞は目を閉じて、ころんと頭を傾けて、久瀬にもたれかかる。
穏やかな声、ゆったりとした仕草。
「落ち着いてるんだな」
「予想できてましたから」
「そうか」
久瀬は、栞の頭を優しく撫でる。指の間を、髪が通り抜ける。
くすぐったそうに時折、栞が首を振る。
「君は」
「久瀬さん」
「……ん?」
久瀬の言いかけた言葉を、遮って。
その手に、そっと触れて。
「栞って呼んでください」
胸に、手を当てて。
「……栞」
「はい……♪」
「栞は、自分では、どう思うんだ。今の栞を見ていると、とても命に関わる病気を抱え込んでいるようには見えない」
「……私も、そう思います。調子いい日は本当に健康だった頃みたいです」
顔を上げて、目を見つめる。
「今なら、雪合戦だってできますよ?」
「好きなんだな……」
「はい。大好きです」
なで、なで……
久瀬は、すっと一度、大きく深呼吸をした。
「するか、雪合戦」
彼女は、今までで一番大きく、頷いた。
「はい!」
雪球を投げ合って。
寒いから、手の感覚もなくなって。制服は汚れ放題で。冷え切った肌に雪球は痛くて。それでも、体力の続く限り続けた。
久瀬は本心から楽しんでいた。学校に来て、こんなにバカみたいに遊んだのは初めてだった。眼鏡を外すと彼女の姿も周囲もよく見えなくて、彼女の投げる雪球も見づらくてやられる一方になったが、それでも気持ちよかった。
栞も元気にはしゃぎまわる。その手から投げ出される雪球は意外なほどに強力で、実戦慣れしていることも伺わせる。
「雪合戦、好きになれそうですか?」
「栞と一緒なら何でも好きになれる」
「……恥ずかしいこと、言ってます」
嬉しそうな栞の声。それを聞いて、久瀬も幸せになる。
「そろそろ決着つけますよー!」
どうなれば決着がつくのか、ルールが決まっていないままに。
栞ははりきって雪球を固めまくる。
距離を詰める久瀬から逃げ回りながら――
「あ……後ろ、危ない」
「きゃ……!?」
どん。
栞の背中が、中庭の大きな木にぶつかる。
その衝撃で、木に積もっていた雪がいっせいに降ってくる。
「栞……!」
久瀬が駆け寄る。
すでに雪は栞の上に大量に落ちていて、今更急いで駆け寄ったところで何もできないのだが、とにかく走った。
久瀬がたどり着く頃には、栞はぶるぶると顔を振って、雪を払い落としていた。
「大丈夫か?」
栞の肩に積もった雪も払い落とす。
背中に手を回して、そっと抱きしめる。冷たい体。久瀬も似たようなものだ。
「平気です」
「そうか……」
冷たい水がじわりと染み込んできて、全身をさらに凍らせていく。体が触れ合うほどに、雪が溶けて、逆に冷たくなる。
「……」
「……」
そのまま二人、動かない。
久瀬は、ぎゅっと栞の頭を持って、肩で顔を受け止める。
「そういえばこうやって、ちゃんと抱き合うのって初めてでしたね」
「……そうだな」
「私たち、恋人同士ですよね?」
「ああ。恋人同士だ」
「それなら……恋人らしいこと、しませんか」
耳元に、擦れるような栞の声。甘えるような声。
栞もまた、久瀬の背中に手を回して、自分のほうへと抱き寄せる。
久瀬は栞の頭にまわした手を緩めて、少し距離をとる。お互いの顔が見えるように。
栞が見上げて、できる限り背を伸ばして視線の高さの差を埋めて、目を閉じて。
久瀬は、しっかりと小さな体を抱き寄せて、顔を下げて。
何秒とも、何分ともわからない間、初めてのキスに溺れていった。
日曜日――その次の日。
香里の電話で、栞の入院を知った。