「さあみんな、張り切って勉強を始めるぞ!!」
家に入るなり、玄関先で叫ぶ男が約一名。
握りこぶしをびしっという音が聞こえるくらい勢いよく前に突き出して。
「一番何もしてない人が言わないで」
「何!?俺はちゃんと勉強してるぞっ!?」
祐一は心底ショックを受けたように大げさに驚いてみせる。両手を微妙に上げて、ショックという感情を全身で表現するかのように。
そんな祐一に、これ以上ないというくらい深いため息ひとつ。
「あたしには、邪魔をしてたか意味もなく頷いていたという記憶しかないわね…」
その言葉に、名雪がちら、と…おそらくは特に意図は無く反射的に、北川のほうを伺う。
視線を感じた北川が横目に名雪の目を見る。
軽く苦笑して、そして、頷く。
名雪も頷いた。
「…ほら、3人とも同意見よ?」
「ふ…。物事を表面上でしか判断できない奴らってのは困ったもんだ。香里はいいけど。いいか、俺はあれで常人の1.4倍は勉強していたんだぞ」
中途半端にリアルっぽい数字を出して祐一が反論する。
無論、誰も相手にしないが―――
「おかげで本当に頭良くなったと実感している。香里がノート書くときの姿勢とか癖とか視線の動きとか髪を掻き揚げる時の指とか首筋とか胸にうぇぐっ!?」
「北川君、名雪、悪いけどちょっとだけ先に始めてて」
「了解」
「うん♪」
「………っ!?…!……っ!!」
祐一が何やら叫んでいるようにも見えたが、気にせず北川と名雪は素直に言葉に従い先に居間に入っていった。
直後、ばたばたと大人しめに元気な足音が階段を降りてくる。
「いらっしゃい………わ。頚動脈…」
「………栞」




香里は、右手の指先で押さえていた既に紫色に変色しているモノからぱっと手を離す。
モノは1,2度ふらふらとよろめき…そのまま崩れ落ちた。
「後始末はよろしくね」
第3回の勉強会が始まった。




香里お姉さんの受験講座♪

〜 第3話 〜



「等式っていうのは」
香里が手にシャーペンを持ったまま、ジェスチャーを交えながら語る。
「左辺と右辺が等しい、っていう意味。当たり前の事なんだけど、重要なのよ。方程式を立てる時にはね」
残る二人は真剣にその講義を聴いている。実に模範的な生徒だ。
邪魔者も居ない。
「何か変化があった時とか二つの事象を比較するとき、その中で等しい、変わらないものは何かを考えるの。それを左辺と右辺に置いて等式を作るのよ。分からないものはとりあえず未知数にして」
机の上には、まだ温かい緑茶。前回と同じもの。
…3人分。
香里は右手を軽く振る。
「ま、実際にはこの方法でキレイに上手くいく問題っていうのはそんなに多くはないんだけどね。大抵の場合これより簡単な解法があったりするから。…でも、この考え方は万能。初めて見るタイプの問題に当たってどうしようもなかったらこれを考えればいい時もあるの」
二人はただ静かに耳を傾ける。香里が話していない間はエアコンの作動音だけが部屋に響く。
「話を戻すと、つまり、この溶解−析出の問題はこの”等式”の考え方がキレイに上手くいく一番の例なのよ」
今日の授業は、化学。



「う………うぅん……スーパーあずさ…………」
「………」
もう10分以上うなされたまま、祐一は目を覚まさない。よほど本格的に死の直前までやられたのであろう事実が、こうして見ているとはっきりと分かる。
居間の隣の和室。栞は畳の上で寝ている祐一をぼんやりと眺めていた。
「祐一さん―――」
「…う、くっ………は、犯人は……左利き…」
「私もなんだかその夢、一緒に見てみたいんですけど…」
寝ている祐一の隣に腰を降ろして。
時間は静かに流れてゆく。
時折苦しげに手を伸ばす祐一に手を重ねて、落ち着かせながら…
「ちょっと、都合いい事考えてみたりするんですよ」
小さな声で、一人呟く。
「もしかしたら祐一さん、こうやって私に会うためにわざとお姉ちゃんを怒らせているんじゃないかなって―――」
握る手に自然に汗が浮かぶ。
ふ、と微かに自嘲するような笑みを浮かべて。
「自惚れもいいとこですよね。私、どうかしてます」
「…ん……栞………?」
「っ!?ゆ、ゆゆ祐一さんっ!?起きてたんですかぁ!?」
いきなりの呼びかけに栞は慌てまくって手を離して、体全体を一歩引かせる。
全身からばっと汗が流れたような感覚。かああっと顔が熱くなる。
「んん…今目が覚めた…」
「きっ、聞いて、ました…?」
「確か―――自惚れがどうとか、血痕がどうとか、釣り針…」
「…それ途中から夢が混ざってます」
心臓に、悪い。
はあぁ…と大きくため息をつく。どうやら一番聞かれたくない部分はセーフだったらしい。
「…ふうん。何か聞かれたくない事を言っていたわけだ」
「そ、そんな、別に何もっ。―――あ、そうです、ほら、祐一さん、どうして勉強会来てるんですかっ?」
祐一の…寝転んだままの鋭い指摘にぶんぶんと首を強く振って否定しながら、誤魔化しついでに疑問を口にしてみる。
「…どうしてって、そりゃ勉強するために」
「でも、してないじゃないですか…」
「………栞にまで言われるとは思わなかった」
痛む喉を気にして押さえながら、祐一は上半身を起こす。
「こんな痛い思いして、ほとんど勉強出来なくて…それでも来るような一体何があるんですか?」
「ふ―――」
続いて、両手をついて、さっきまで半死状態だったとは到底思えない身軽な動きで体全体を起き上がらせる。
そしてきらんっと歯を輝かせる。意味は無い。
「痛い思い、だって?ふっ…こんな痛みなど病気のうちには入らん」
「そりゃまあ病気じゃないですし」
ある意味病気かもしれないが。
「痛みなんて関係無い。全ては俺の………」
びしっ!
どことも知れない虚空を指差す。
「香里への愛だ!!!」
「はあ。そうですか。隣なのでもうちょっと小声で言ったほうがいいと思うんですけど…」
「………冷めてるな、雪少女…」
人差し指をまっすぐに伸ばしたポーズで固まったまま、祐一は呟いた。
何にせよ。
祐一は、性懲りも無く、元気だった。



「さて、それじゃ問題。飽和食塩水の冷却と蒸発による析出っていうこの問題で、状態の変化前と後で変わらないものは何?」
二人に、課題。
ちょっとしたクイズのようなもの。北川と名雪はそれぞれに考える。
「水の温度も重量も変わるんだろ…?」
「うー………」
香里は「=」と紙の真中に大きく書いて、その両辺に薄く大きなマルをつける。
「そんなに難しい事でもないのよ。この2段階で状態そのものは大きく変わってるけど、確かに変化前と等しいもの」
さらさらと、簡単に図を書いていく。
「そう、変わらないもの。それは―――」
『香里への愛だ!!!』
「………」
「………」
「………」
「…正解は、食塩の総量。つまり(最初の飽和食塩水に溶けている食塩) = (析出した食塩) + (残っている飽和食塩水に溶けている食塩)って事」
隣の部屋からの妙な叫びは完全に黙殺。
「あ…なるほど」
「食塩は蒸発しないわけだ」
「そうね。それで、この問題の場合―――」



「よし、快調。さあ勉強するぞっ!」
「あ…はい。いってらっしゃい」
栞は立ち上がって祐一を見送る準備をする。
「…と。そういえば思ったんだが、栞は勉強会に混ざらないのか?」
今気づいたというように、祐一が首をかしげる。
え、と驚く栞…すぐに笑う。
「私は1年ですよ。祐一さんたちの勉強についていけるわけないじゃないですか」
「ああ…そうか。悪い、そうだな」
「4月からは2つ先輩になっちゃうんですね…」
和室を出かかった祐一の足がぴた、と止まる。
「…何?」
「ほら、私来年からもう一回1年生ですから」
「…なん………」
「ヒマなときに自分で勉強は出来ましたけど、出席日数ばかりはどうしようもないですから」
「…そう、か。そうだったな…ごめんな、余計な事言っちまったみたいだ」
栞は静かに首を横に振る。
小さく微笑んで。
「でも、誘ってくれてすごく嬉しかったです」
居間に戻る祐一を見送った。



ばたんっ!
「ただいまっ!!さあ、始めようぜ香里!」
「それじゃ、休憩時間ね」
「さんせーい」
「おう」
「………………俺、もしかしてひょっとして、思うんだが、邪魔者扱い?」
ひゅるる…と風が強く当たったような気がした。
エアコンの風だった。



続く。



【なかがき】

ああ………
特に書くこともないです(^^;
今回は栞の状況および心情の簡単な描写、あと小ネタがメインですから(笑)

ホントに栞が主役ですねー………