「ねえ、名雪の事は、本当にいいのかしら?このままだと北川君に取られちゃうわよ?」
「北川がまだOKするとは限らないだろ」
「…バカね。名雪に好かれてそれを突っぱねられる男なんてまずいないわよ――アナタ以外はね」
香里は呆れたような声で祐一の顔をしっかりと見据えて言う。
いかにもその反応が不思議だというように、首を横に振る祐一。
「それは悪かったな。俺のハートは香里だけで予約済みなんだ」
「安全確実でしかも男にとって文句無し。そんな名雪を蹴ってまであたしを選ぶ理由は、一体何なのかしらね」
「――恋愛に論理も合理性もないさ。気が付けば惚れていた…そういうものだろう?」
「あたしはそういうのは、分からないわね」
「だったら俺がこれから分からせてやるさ」
「………へえ?」
香里は、少しだけ笑った。純粋に面白そうな顔。
こういったちょっとした仕草すらやけに魅力的で美しい。…そして、それこそが恋というもの。
美人だからとか、頭がいいからだとか、そんな事ではない。ただ、相手の事を想うから輝くのだ。そこにどれだけ強大な第三者が参入しようと、心のベクトルの向きが決まっている以上は何も影響しない。そういうものだ。
「本当に分からせてくれるって、保証する?」
挑発、なのだろうか。
長い前髪を手で軽くかきあげながら、香里は薄い、妖しい笑みを浮かべて。
「保証する」
迷わず、祐一は答えていた。
柔らかい陽がカーテンの隙間から零れた。
香里と祐一の手元を繋ぐように伸びた日光の道はまるでこれからの二人を祝福してくれているようだ―――祐一はそんな事を思った。
…そこで、目が覚めた。
香里お姉さんの受験講座♪
第6話
「はっきり言って」
意識を取り戻したばかりでまだ状況をつかめていない祐一が視線をざっと見渡しているうちに、香里は口を開いていた。
香里だけではない。名雪、北川、栞。いつものメンバーが揃っている。
そう言えばここは勉強会に使っている香里の家のいつもの机―――
確か…何だったか。とても幸せな事があった気がする。いや違う。そんなものは偽者だって事は、目が覚めればすぐに分かってしまう。
つまり、夢だと。
視線を動かすと、香里と目が合った。夢の中の笑みが、ほんの一瞬の煌きであったように。ただ夢でしか見られない光景だったのだと思い知らされるかのように…
「邪魔なの。出てって。そして二度と来ないで」
冷え切った声。
祐一の頭が完全に復活する前に、その声の残響が何度も何度も脳裏に木霊する。
一言言い終えると香里は何事も無かったかのように下を向いてノートに計算式を書き始めた。かりかり…数人分のシャーペンの音が不規則に鳴る。
「………目が覚めたばかりで俺は混乱しているようだ。何やらあり得ない言葉を耳にしたような錯覚に囚われて」
「うるさい。静かにして。出てって。邪魔。帰れ」
「ああ、香里がこんな乱暴な言葉遣いするなんて、やっぱりまだ夢―――」
ぐぼ。
全く、カケラすらも容赦のない正拳が祐一の顔に真正面からヒットした。明らかに、骨を砕き肉を陥没させる不快な音がした。
あたかもゲームセンターにあるあのパンチ力測定器かのように、正面から押し込むように叩きつける。
たっぷりスローモーションで…マンガでいえば3コマほどは使って、ゆっくりと祐一が床に倒れた。
「お、お姉ちゃん…そこまでしなくてもっ………大丈夫ですか祐一さ―――」
意識が消える直前、そんな声が聞こえたような気がした。
そういえばいつも、そうだった。
目が覚めた時、側にいてくれたのは―――
「…今まで…礼も言わなかったな。ごめんな。ありがとう、栞―――」
少しずつ晴れていく頭、夢に出た香里ではない彼女…目覚めると同時に祐一は小さな声で、しかしはっきりと口に出した。
どうして今まで、こんなにも世話になっておきながら、その存在に気づかなかったのだろう。深い反省と、それでも遅れながらも今になって気付けたという安堵感と。
うっすらと、目を開く。
誰もいない薄暗い和室が目に入った。
「………………」
誰もいない。
「………え?」
誰もいない。
「…あー、あー。さあ、大人しく銃を捨てて出てきなさい。母親が泣いているぞ」
手で拡声器の真似をしてみても、誰もいない。
きっぱりと、いない。
「………ああ、そうか…」
そういえば、と思う。
「栞も大変なんだよな。進級かかってて…」
言っていた。進級できるかもしれない、と。ただし、試験の結果次第。英数国は今のままで何の問題もない(それどころか、学年トップさえとれる)状態だが、さすがに社会理科は厳しい。1年間で勉強する事を2週間弱で全部勉強しないといけないのだ。少しでも時間が惜しいのは当然だろう。
とは言っても、じゃあちゃんと1年間学校に通っていた人はみんな1年分の勉強が出来ているかと言えば全然そんな事はないわけで、現実的なハンデは1年と2週間というほどの大きさでもない。
「…考えようによっちゃ、恩返しのチャンスだよな」
そんな事、考えもしていなかった。まるで栞の存在など最初から脳裏になかったかのように。
今までも散々世話になっているのだから、やはりこういう時こそ何かすべきではないだろうか。
あと…本音を言えば、栞の手伝いをする事によって姉のほうの印象アップを狙うという意味もあったり。
しかし。しかし。
悲しいかな、祐一の学力では何も教えられる事などないかもしれない。というより、無いだろう。
せめて1学年上として何か出来る事があったとして、それなら栞にはもっと身近に完璧な味方がいる。
ならば1年生の時の試験問題の傾向くらい教えようかとなっても、祐一は転校してきたばかりなのでこの学校の1年の試験を知らない。
「…俺の出番、無しっ」
結論。
………涙が出た。
数分後。
栞に関して何も出来ないとなればもはや今までどおり香里に直接アプローチ…するのはさすがに本格的にマズそうなので、せいぜい自分もマジメに勉強するしかない。
というか、最も常識的で当たり前の選択肢なのだが。
「そうだ…忘れていたが、俺にも試験はあるんだ」
忘れるなよ、とツッコむ人は誰もいないため割とシリアスな感じの言葉にも聞こえる独り言。
その言葉が空気中に消えると同時くらいのタイミングで、ふすまがすっと開いた。
「…あ、祐一さん。起きてました?」
栞の声。栞が立っている。
何故か、妙に懐かしく感じる―――
「え…ああ。割と前に目が覚めてた。ちょっと頭を冷やしていた所だ」
「大丈夫そう、ですね。相変わらず頑丈でうらやましいです。普通ならさっきのでも3日は入院ですよ?」
「おう。俺は頑丈人間コンテスト高校生部門で天白区大会第2位の実績があるからな」
「わ。凄いです。名古屋市大会はどうだったんですか?あ、トップじゃないと進出できないんでしょうか」
「……いや…その」
分かりづらいボケを素で返されてしまった時というのは実に対処に困るもので。
しかもマイナーな名古屋の一区まで知っていたらしい。
…こういう時は気まずいのでさらりと流してしまうに限る。無難な言葉を考える。
「えーと。あ、そうそう。勉強のほうは大丈夫なのか?俺なんかに構っている場合じゃないだろ?」
「いえ、休憩時間ですから、気にしないで下さい」
そして素直にさらりと流されてくれる、栞。
「それで…祐一さんに、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど」
とことこと歩いて、祐一のほうに歩み寄る。
しゃがんでいる祐一の隣にちょこんと腰を降ろす。
この様子からすると、ちょっとというよりはそこそこの長さになりそうな気配だった。祐一は「ん?」と軽く促す。
「え、ええと……あの」
床を見るような視線の向きで、少し言葉を濁す。…栞にしては、珍しい。
一瞬だけ、間があった。
「久瀬さんって、知ってますか?」
その言葉に、ぴくりと。祐一が一瞬厳しい表情になった事を、下を向いている栞は気付かない。
「…生徒会長の、久瀬か?」
「あ、知ってるんですね。お姉ちゃんも名前くらいはって言ってましたけど…転校してきてまだ短い祐一さんが知っているって事は結構有名な方なんですか?」
「さあな」
「………?」
栞はそこで顔を上げて、祐一の顔を見る。何か、今まで聞いたことのないようなとても冷たい声に聞こえたから。
祐一は栞のほうは見ていなかった。つまらなそうな顔で下を向いている。
「…祐一さん?」
「アイツがどうしたんだ。栞、何か嫌がらせでもされたのか?長期欠席したような生徒は邪魔だとか言われて―――」
「え………な、何言ってるんですか、祐一さん?どうして久瀬さんの事そんな…」
「違うのか?」
「違いますっ!わ、私が進級できるようにって頑張ってくれたのが久瀬さんなんですっ」
若干声を張り上げて、祐一に迫るように。必死に。
祐一がどうしてそんな事を言うのかは分からないが、少なくともこれは事実として主張できる。恩人を悪く言われたまま放っておくことは出来ない―――
「…へえ。そりゃあどういう気まぐれなんだろうな。なんか裏があるんじゃないか」
突き放すような祐一の言葉に、ぐっと強く手を握り締める。
あまりの態度に今すぐにでも怒鳴り散らしてしまいそうだったが―――ぐっと、堪える。
「祐一さん。久瀬さんと、何かあったんですか?」
「……あった。アイツが栞のことで何を企んでいるか知らないが…俺の大切な先輩が、一人は退学にさせられそうになったし、一人はアイツの権力の道具として使われそうになった。事実だ」
思い出したくもない、と不機嫌な顔。
祐一はゆっくりと立ち上がった。軽く立ちくらみがしたが、首を振って無理矢理抑えこむ。
あまりこの話は続けるつもりはない…そんな意思表示。
「…でも、久瀬さんが頑張ってくれたから私にチャンスが出来たのも、事実なんです」
目を伏せて…
「………そうか。まあ、栞みたいな優等生は好きなのかもな。仲間につけておいて損は無い――」
祐一はもう嫌だとばかりに、ふすまに向かって歩き出す。
………すくっと。小さな体をばっと開いて、栞がその前に回りこんだ。
視線は下がったまま―――
「祐一さん…」
「なん………」
ぱぁんっ!!
…派手な音が、部屋中に響いた。平面的な乾いた音。
「そんな事言う人―――嫌いです」
それだけ言うと栞は、部屋を走り去ってそのまま階段を駆け上っていった。どたどたと、派手な音を立てて一気に上りきって、ばたんっ!とドアを閉める激しい音が聞こえた。
残された祐一は…思い切り平手を受けて熱く痺れている頬を片手で押さえる。
「…言い過ぎだったか………」
軽く、目を閉じた。
だんっ!!!
…と、激しい足音が目の前で鳴ったので、すぐに目を開いた―――
瞬間に、正拳とボディブローとミドルキックと肘鉄とハイキックとアッパーがほぼ同時のタイミングで飛んできた。
ぼぎゃぐふぶぇうがべべびょぶしっ―――
何とも形容し難い音を発しながら、祐一は反対側の壁まで吹っ飛んだ。ごん、と最後にどうしようもないくらい致命的な音を脳で直接聞いた。
「…栞っ!」
本日2度目、意識を失う直前に聞いた声は、香里のものだった。
続く。
【なかがき】
ごめんです。
なんか今回は笑いを入れてる余裕があんまりなかった〜〜〜〜〜
あうあう。実力不足ですごめんなさい…
笑えなければ香里お姉さんの価値無し!という方、ホント…ごめんなさい(3回目)
北川×名雪に期待してた方も…ごめんなさい(4回目)
ああああ。
このエピソードだけで1話分食っちゃいました。えへ。
…つ、次をよろしくですっ(汗)