「…ん?」
「わ…」
放課後、HRが終わって北川が真っ先に教室を出ようとすると、ドアを開けたところに少女が立っていた。急に出てきた北川にびっくりして小さな悲鳴(?)をあげる。
「栞ちゃんじゃないか。どした?姉さんに用事か?」
北川は、見知ったその姿が目の前にあった事にも特に驚く事もなく、落ち着いて話し掛ける。
その様子に、栞もほっとしたように息をゆっくり吐く。
ともかくも最初に出てきたのが北川だったのは幸いだった。やはり上の学年の教室を訪れるというのはさすがの栞でも大変に緊張するものだったから。
「いえ…祐一さんに…」
口から漏れた名前は、姉の名前では無かったが。
それを聞いた北川は、分かったとそのままターンして祐一のもとに戻ろうとしたが……ふと、ぴたりとその動きを止める。自分が一番最初に教室を出たという事もあり、もう一方のドアから数人がすでに出て行った以外はまだ教室にはほとんどの生徒が残っている。
何か少し考え込むような北川の様子を見て栞が小さく首をかしげる。北川はニヤリと、少し邪悪な笑みを返してみせた。
すっと、息を吸い込む。
「おい、相沢ー。栞ちゃんが来てるぞー!」
教室中に確実に聞こえる声で。
何人かは祐一本人より早く、声の出所を振り向く。最終的には例外なく、その場にいた全員が。
(「栞ちゃん」…?)
(なんだ、1年生じゃないか。相沢のやつ本当に見境無しだな…)
(……かわいい…)
(1年にこんな可愛い子いたんだなー…ところで電車代貸してくれ)
一気に話題の中心に。ひそひそ話しているつもりだろうが、確実に聞こえてくる。
「わ、わ……」
「……北川…」
狼狽した栞の声、呆れと怒りが混ざったような祐一の声をバックにしながら、北川はフっと得意げに笑って、カッコよく身を翻して教室を後にした。
しようとした。
「潤くんーーっ!校門に4時だよ、忘れないでねー!」
ずざざざざっ!!
勢いのままコケて廊下に滑り込む。
その名雪の声は、先程の北川の声の2倍は大きかった。
教室がまた違った意味でどよめく。北川は振り向きもせず、そのまま廊下を逃げるように走り去っていった。
名雪が誰もいないドアに向かって手を降っている。
「…ラブコメね」
呆れた声でぽそりと呟いた香里の言葉は、誰の耳にも届かなかったが、今この教室の状態を表現する最高の言葉だった。
「………」
「………えーと…栞、用件は何だ?」
微妙に注目を集める中(幸いに、注目の半分は別のところに向かったが)、控えめに祐一は尋ねる。栞、と呼び捨てにしていた事に関してまた一部の生徒がざわついたようだが(「またかよ…」)。
「…あ。そ、そう。用事です。大切なんですっ」
少し言葉も慌てながら、栞は一言、続けて言ってのけた。
「祐一さん、久瀬さんと仲直りしてください!」
確かに、重大な一言を。




香里お姉さんの受験講座♪

〜 第8話 〜




「僕はただ、この学校をよくしようと思っている」
その話を始めた久瀬は、それまでとは別人のように表情を厳しくした。丁寧語を捨て、一人称も変わっている。スイッチが切り替わった――そんな表現がまさにぴったり合う豹変振り。
栞は思わず圧倒され、ごくりを唾を飲んだ。
「学校は、勉学を勤め、部活や学校行事で人同士の交流や団体行動の仕方を学んでいく――そんな場であるはずだ。それが出来ないばかりか、その目的の邪魔になるような学生は容赦なく退学にしてしまうべきだと考えている。今の学校は甘いんだ」
淡々と語っているようにも聞こえるが、言葉の中には確かな情熱を感じる。
心の底からの言葉なのだろう。ほとんど久瀬との面識もない栞にも良く分かった。
「どれだけ素行が悪くても、勉強なんて全くしなくても、ただ規定日数出席していればまず誰でも進級して卒業できるんだ。――逆に君みたいな優秀な学生が、病気で出席日数が足りないという問題だけで、ほとんど無意味な留年を要求される。おかしいだろう?」
話すうちに、だんだんとその熱が強くなってきている。そんな気がする。
久瀬は、じっと栞の目を見つめて話す。
「本当に真面目にやりたい学生だけが残ればいい。害になる奴はいらない。それでこそ初めて学校は本当に本来の目的を遂行できるはずだ。最適な環境はここからしか生まれない」
「………じゃ、じゃあ…っ」
この話になって以降では、栞は初めて口を開いた。
声がかすれて上手く出なかったが。
「…祐一さんの大切な人が、権力の道具として利用されたって話は……」
「―――倉田さんのことか」
わずかに久瀬の表情に動揺が走る。いや…動揺と呼ぶのは少し違ったかもしれない。
それは―――
「…当然だ。僕みたいな普通の学生がいくら理想論を叫んだところでどうなる?上から押さえつけられて終わりだ。いや、案外一部の学生の反発で足元が緩むかもしれない。現実は、この理想を叶えるために必要なのは、権力だ。そうだろう?」
間違った事は言っていない。いや、倫理的には間違っているのだろうが、その考え方はある意味で極めて現実的であり、正しい判断であるとも言える。
生徒会長が久瀬に変わってから生徒会の権力が急激に強くなっていった…という話はクラスで聞いていた。おそらくは「倉田」を手に入れることは、生徒会が学校を統治するという体制の完成を意味するのだろう。
だが。
「でも…祐一さんと仲が悪い理由も、分かってしまいました。久瀬さん…倉田さんの名前呼んだとき、またちょっとだけ優しい目をしていました…」
「………」
反射的にその言葉に反発しようと思ったが、栞があまりに澄んだ目でじっと見つめてくるのに言葉が全て飲み込まれてしまう。
「へえ…」
と、それまで特に話に加わっては来ず、隣で何やら事務処理のようなものをしていた男の子――副会長が、感心したような声で言った。
「大したものですね。表向けの久瀬さんからその表情を読み取るなんて。…ふふ、そうなんですよ。久瀬さんったらもぉプライベートモード入るとよくため息ついて物思いに――だっ」
久瀬が、好調に話し出す副会長の耳をつまんで引っ張る。無言で。
「いたたたっ…もぉ、やめてくださいよぅ…あ、美坂さん、えーと、見てのとおり久瀬さんはこーゆー不器用な人なんで、好きな子に対しても態度ぎゃあああっ!?いいいい痛いですってばぁっ!ちょっとそれ引っ張りすぎですっ!!」
「――失礼しました。美坂さん、続きはまた、今度。――試験、頑張ってください」
久瀬は、表情を消したまま、静かに言った。
もっとも言葉の中には明らかに怒りが混ざっていたうえに、何より右手は男の子の耳を強く引っ張ったままだったが。
栞は、少し前までの緊張感もどこへやら、すっかり何もかも分かったように優しく微笑んでいた。
「では、失礼します」
大丈夫。
それなら、祐一なら、仲直り出来る。



金曜が終わる。
土、日を挟めば、いよいよ学年末試験の開始だ。
進路を決める基準として2年生にとっては非常に大切な試験だが、栞にとってはこの学年末試験と、その後の特別試験で進級がそのまま決まるのだ。直接的な意味は誰よりも重い。
「分からないわね……ホント」
香里がしみじみ、と呟いた。
物凄いペースで勉強を進める栞は、しかし、昨日と打って変わって、どこか楽しそうだった。
「ほら、相沢くん。それだけ頼りにされてるんだからちゃんと少しくらいは役に立ってあげなさいよ。ただ座ってるだけじゃバナー広告より邪魔よ」
「…っても、俺にはついていけないレベルなんだが」
「いいんです。祐一さんがいてくれるって思うだけで十分やる気になれますから」
「言っておくけど今のは相沢くんが傷つかないようにっていう栞の心遣いよ」
「………」
いつもの勉強の部屋には、今日は3人しかいない。香里と栞と、祐一。あとの二人は遅れて来る予定になっていた。二人とも短い用事があるらしい。…いや、おそらくは本当に用事があるのは北川だけなのだろう。名雪はそれに合わせただけという可能性が強い。…3人にとっては、そのあたりはどうでもいい事ではあったが。
祐一は心の中で泣きながら、自分の勉強を再開した。
「…香里、質問」
「何よ」
「この問題が…解答を読んでもさっぱり分からん」
「………はぁ?こんなのでわざわざ呼ばないでよ。これが分からないの、相沢君?馬鹿?馬鹿よね?馬鹿に決まってるわ」
「………………」
人生とは、かくも厳しき。
「お姉ちゃん〜」
「はいはい、何かしら?あ、これ?あたしも昔ここで悩んだのよねー。これはね、変数を置き換えて…」
「わ。お姉ちゃん、やっぱり頭いい…」
「ちょっと学年が上なだけよ。わからないことがあったら何でも遠慮なく聞いて♪」
「………………………」
人生とは、かくも不条理なものか。
実際、一年生の範囲に限定してしまうと、祐一が栞に教えられる事など何一つないのだ。英国数の基本科目は実力差的に論外として、社会等の暗記科目はただ暗記しただけの人間が「教えて」も何の意味もなく、そうとなれば栞が独学ではあまりやってこなかった理科――化学だけが唯一のターゲットとなりそうなものなのだが、これも決して得意とは言えない祐一は、ここ1週間くらい必死に勉強した栞にはとっくに抜かれていたのだった。
改めて、根本的に才能が違うのだと思い知らされたばかりだ。もちろん、勉強の必死さが全然違うのだろうが。
それでも、まあ。
実際、いるだけでも嬉しいと言ってくれているのなら、それでもいいだろう。今朝の香里の話からすると、栞のその言葉は必ずしも社交辞令でもないらしいから。
…それが香里は実に気に入らないようだが。
………………
…ふと、祐一は、ある考えに思い至る。香里の態度。今朝の言葉。
もしかして。
「香里――まさか、俺と栞が仲いい事に嫉妬しているのか!?心配しなくても俺は香あぎゃーーーーーーーっ!!」
祐一の言葉が終わる前に、何の前フリも無く香里はすとん、と、シャーペンの先を祐一の指先に突き立てていた。ちょうど爪と皮膚の間に出来る溝にはまる。
過去最高クラスの悲鳴が部屋に響き渡った。
「うるさい」
指を抑えて悲鳴をあげる祐一の顔面を、右手だけでがっしりと掴む。尋常ならざる握力で「絞める」。
「栞………相沢君は、ここに『いれば』問題ないのかしら…?」
ぎりぎりという音が聞こえてくるかのように祐一の顔が歪む。
口はしっかりと抑えられていて、悲鳴は漏れない。
「あ、え、ええと、出来ればちゃんと時々はお話してくれたり…できるほうが…」
「喉は潰すなってことね。分かったわ」
そうじゃなくて。
思わず左手でチョップ式ツッコミのジェスチャーをしてしまうが、それを声に出す勇気が出なかった。
ぎりぎり。
さらに力を込めると、すでにもう祐一は顔面蒼白になっていた。そろそろオチる兆候だ。
ぱっと、手を離す。
がくんと祐一の顔が前に倒れた。ごん。そのまま横向きにテーブルの上に落ちる。
「…祐一さん………大丈夫、ですか…?」
既に目がイっちゃいかけている祐一に、心配そうに声をかける栞。
「勉強の邪魔はするなって言ったでしょ。次やったら手加減しないわよ」
「て、手加減してこれ…」
栞はおろおろと祐一の顔を見つめる。何度この「死にかけ」の顔を見てきたことだろう。
それでもいつも通り数分もすれば復活するのだろうが…
香里は、祐一の視線の反対側から、静かに言った。
「相沢君。聞こえるでしょ。もう一回はっきり言っておくわ。あなたはフラれたの。あたしに。完全に。…いつまでも、みっともないわよ。そんなつまらないことで――」
ぐっと、一度躊躇って、ここで止める。
あまりに唐突な香里の言葉に、栞は驚いて言葉を失っていた。フッたなんて話も初耳だった。
祐一の態度に変化があった時など、あっただろうか?覚えは無い。
「…そんなつまらないことで、栞を悲しませないで。なんで栞の目の前で平気でそんな事言ったり出来るのよ。とっくの前から分かってる事でしょ…?」
香里は、立ち上がった。
呆然と栞が見送る中、すたすたと歩いて、そのまま部屋を出て行った。
祐一は、消えそうになる意識の中、ふっと薄く笑った。




続く。




【なかがき】

お待たせしました〜〜〜。第8話でございます♪
これだけ待たせた割に、書き始めて見れば4時間で一気に終わるとは不思議なものです。
…ああ、小ネタが全然無いせいですね、速く出来たのは……(爆)
なんだかんだで小ネタを考えるのがいつも一番時間食っているわけで(^^;

でも小ネタを入れないおかげで話の遅れを取り戻す事が出来ました〜
これで次回ちゃんと最終回に持ち込めます♪
ああ、でも、笑えるトコないですね今回…うう。ごめんなさい。
最終回はちゃんと笑わせてみたいと思いますっ

ではでは。またです♪