[冒険]
人形は、記憶を頼りに森を進む。
空を飛ぶのはエネルギー消費が激しいため、最初は、できる限り歩いて進もうとする。しかし森を歩くのは人間でも難しく、まして人形の体ではほとんど不可能に近い。
結局時間の関係もあり、ほぼ飛び続けることになった。細かい枝や葉に気をつけながら、急ぎつつも慎重に歩を進める。
目指す先は霧雨邸。魔理沙が一人暮らししている家だ。
幸いにして、魔理沙の家は近いため、人形はアリスに抱きかかえられながら飛ぶことが多かった。そのため、だいたいの方向はわかる。ただし、通常アリスが飛ぶときは当然、森の木々より高いところを飛んで一直線に向かっていくため、森の中は通らない。人形は、アリスのサポートが無ければそんな高さで飛ぶことができないため、森の中を通らざるを得ない。当然道などできていないため、一度方向を見失うと目的地にたどり着くどころか二度とアリスの家にも戻れなくなる恐れがある。
人形が選んだ手段は、体を最初にまっすぐに目的地に向け、何があってもその方向がブレないようにするということだった。最初の方向が僅かでもずれていれば最終地点は大きく狂う。しかし、その調整には自信があった。正確な方向認識と制御は、アリスに何よりも徹底的に鍛えられてきたのだ。まさか、こんな状況でその成果を試されることになろうとは思いもしなかったが。
途中で顔を動かして周囲の障害物を確かめることはあっても、決して体の向きは変えずに飛ぶ。極めて難しいことだったが、するしかなかった。もちろん木があってそのまままっすぐは進めないところも多いが、その場合も体の向きを変えないまま移動した。
がさがさ。
時折葉が肌の表面を削る。幸いにして人間の皮膚よりはずっと丈夫に作られているため、まだ傷ついてはいない。傷ができてしまうとアリスに迷惑をかけることになるため、なるべく慎重に移動している。
最大の障害は、虫や動物たちだった。小さな虫でも、人形の体からすればかなりの脅威になるものも多い。体自体は死体のようなものなので興味を示さない生物も多く助かっているのだが、動いているというだけで襲ってくる動物は怖い。
できるならば怖いモノからは逃げ回りたいが、体の向きを変えないという原則から、そうもできない。
ふーっ。
きーっ。
手や表情だけでなんとか威嚇しようとするが、いかんせん吼えることもできないので迫力が出ない。可愛らしい顔で怒ってみせても可愛い顔にしかならない。それは動物には関係ないだろうが。
よくわからない鳥にやたらに突付かれたときが一番辛かった。痛い。痛い痛い。
痛くても思い切り振り切ることができない。必死に耐える。とりあえず食べられなければまだなんとかなる。
抵抗しないとわかると鳥も調子に乗って、突付いたり蹴ったり噛んできたりとやりたい放題だ。悔しい。本気で戦えばこんな鳥なんてすぐに蹴散らせるのに。だけど今は我慢。
何分間も耐え続け、飛び続け、ようやく飽きたのか鳥は去っていってくれた。
心の中で泣きながら、まだ飛び続ける。ぼろぼろになった服を手入れすることもできない。
アリスを助けるためと思えば。これくらいは耐えてみせる。
時間にして三時間半。森の中を進み続けた。
蛙に抱きつかれたりもした。悲鳴を上げることもできない自分を呪った。
すばしっこい動物の体当たりをまともに受けたこともあった。とにかく体の向きだけは維持するようにそれはもう死ぬ気で踏ん張った。
何やら白い液状の塊がまさに目の前に降ってきたこともあった。それが何であるかは考えないようにした。
日が沈んで暗くなってくると枝葉に体当たりする回数も増えてきた。真正面からぶつかるとなかなか悲しいものがあった。
やがて森が開けて、目の前、まさに真正面に家が見えたとき。
ほっとして、疲れが一気にきて、人形は地面にへたり込んでいた。
[伝心]
「お? なんだ、アリスの人形じゃないか。主人はどうした? 捨てられたのか?」
魔理沙がたまたま庭に出ていたのは、人形にとっては非常に幸運だった。
家の中にいれば、またそこから探したり訪問を伝えたりするのに苦労するところだった。それ以前に出かけていて家にいなければどうしようもない。
ぼろぼろになった体で、人形は魔理沙に飛びついて、しがみつく。
「お、おい。なんだいきなり。本気で捨てられたとかじゃないだろうな」
戸惑う魔理沙に、人形は一生懸命首を横に振る。
ぶんぶん。振りすぎて痛いほどに。
「あーあー。落ち着け、落ち着け。ってか、よく見ると酷い有様だな。もしかして森の中を一人でここまで来たのか?」
ぶんぶん。
今度は強く首を縦に振る。
「そいつは大変だったなあ。よくここまで来られたな。偉い偉い」
えっへん。
魔理沙の褒め言葉に、いつものように胸を張ってみせる。ちょっと癖になっているようだ。
今にも泣き出しそうだった顔が、これだけのことですっかり明るくなっている。よほど褒められるのが嬉しいらしい。
人形は手をぶんぶんと振って、羽ばたくような仕草を見せる。
そして口で手をついばむジェスチャー。
「ほほう。鳥に襲われたと」
うんうん。
見事に通じたジェスチャーに、人形の表情がさらにぱあっと輝く。
魔理沙もだんだん乗ってくる。二人のメッセージのやり取りは続く。
つんつん。
かじかじ。
「『突付かれて、噛まれて』」
ふらふらふら。へろりん。
「『それでも飛び続けました』」
さめざめ。ぐしぐし。
「『ああ健気なワタシ』」
がおー。
うきききき。
「『その鳥というのがまた目つきも悪くて凶暴で』」
ふらふら。げし。
ふらりん。げし。
「『しつこくストーキングしてきては蹴ってきたのです』」
ぐっ。めらめら。
しゃー。
「『ワタシが本気を出せばあんな奴なんてぺろりんぷーですよ』」
びしっ! きらきらきら。
ばん、ばん。
「『次に会ったらワタシをいじめた事を後悔させてやるですよ、ミスマリサ』」
ぐっ。
……はっ。
ぶんぶんぶん。
がっしゃーん。
「『って、ンなことはどうでもええねんー!』」
ぶんぶんぶん。
人形はここで何度も何度も頷いてアピールした。
とりあえず以心伝心は完璧のようだった。必要以上に。
腕を振って、アリスの家の方向を指差す。
「ん? あっちのほうに宝の山があるって?」
何故かいきなり通じなくなった。
むきーっ!
人形が腕を振って必死にアリスの家の方向に指を向けたまま何度もぐいぐいと魔理沙を引っ張る。
服が伸びそうなくらいの勢いで引っ張る。
「ああ、まあ、あんまり遊んでる余裕はなさそうだな。行くぜ」
魔理沙は人形の調子を見てあっさりと言うと、すぐに箒を持ち出して跨り、人形を抱いてふわりと浮き上がった。
最初からとっくに言いたいことは伝わっていたらしい。人形は不満そうな目で魔理沙を睨む。
「遊んでいたのは、お互い様だろ?」
その魔理沙の言葉に対しては、とりあえず視線を逸らして逃げた。
[論理]
アリスのベッドの側に立って、寝顔をじっくりと見つめる。
うーんと唸る。
人形の視線の問いかけに対して、魔理沙はとりあえず笑顔を返した。
「よく寝てるな」
ずるっ。
丁寧に、空中でコケるような動作をしてみせる人形。無駄なところで器用になっていっている。
人形は気を取り直し姿勢を元に戻して、もっと何かないのかと手を広げて催促する。
うーんと魔理沙は再び唸る。
「こいつ、黙ってると割と可愛いな」
ずさーーーーっ。
丁寧に、空中で――説明略。
人形はがばっと起き上がって、両手をクロスさせて大きなバッテンを作ったあと、右手でVサインを作ってみせた。
「『間違いが二つあります』」
こくこく。
ぶんぶん。わきわき。にぱ。
「『いつでも可愛いし、割とじゃなくてす・ご・く可愛い、でありますよ』」
こくこく。
えっへん。
「お前よくそこまで堂々と身内びいきできるな……ある意味で感心するぜ……って、私もいい加減脱線させすぎだな。まあ、なんだ。わかるところから状況説明してくれ。見ただけじゃさっぱりだ。別に病気でもなさそうだし外傷もないし。ただ寝てるだけにしか見えん」
人形は魔理沙の言葉に大きく頷く。
そして、ジェスチャーで、前日の様子などをしっかりと伝えた。
魂の契約、命の享受といった話は、人形のジェスチャーではとても伝えられない。
ただ、アリスが自らの体を削って人形の体を維持しているということだけは魔理沙にも伝わった。
「あんとなく状況はわかったが……」
魔理沙は困った顔で、頭を掻く。
「悪い。私は何もできそうにない。要するに普通以上に疲れて寝てるってことだろ。ほっといたらそのうち起きるんじゃないか、としか言えない。こういう状態を魔法で回復するのは不可能だ」
人形は、その言葉に、ショックを受けてうなだれる。
魔理沙は申し訳なさそうに頭を下げる。
「わざわざ来てくれたのに、すまない」
アリスの額や頬を軽く撫でる。少し、冷たい。
「無茶して倒れて弟子にこんな心配かけるなんて、魔法使い失格だぜ」
小声で、言った。
加減を忘れて過剰な訓練をしてしまうなど、初心者でもあるまいに。
このところ少し疲れているのかとは感じていた。暑さに弱いタイプなのかとあまり気にしていなかったが、まさか倒れてしまうほどの戦闘訓練を行っていたとは想像もしていなかった。
少しでも早く目を覚まして、この頑張りやの弟子を安心させてやれよ、と呟いて、髪を撫でた。
……つん、つん。
「ん?」
横から、人形の手が魔理沙を突付いてきていた。
人形のほうを見てみると、何やら紙切れを持っている。
紙切れには線で何か……絵が描かれていた。
人の顔のようだ。見覚えのある帽子やアクセサリーが目に付く。
「あいつか? いや、絵上手いなお前。凄いぜ」
こく、こく。
勢い込んで頷く人形。
「って、つまり、これを連れてこいってことか……今から」
こくこく。ぶんぶん。
肯定。
魔理沙は窓の外をちらっと眺める。もう、どこをどう見ても、真っ暗だ。
人形が魔理沙の家に着いた時点で既に暗かったのだから当然ではある。
今から紅魔館とここを往復するとなると、とても、美容と健康にいい時間帯に眠ることはできそうにない。
人形の頭をくしゃりと乱暴に撫でる。
「お前がこんなに頑張ったんだもんな。私もやってやるぜ」
魔理沙は言うと、嬉しそうに目を輝かせる人形を近くにあったポーチに誘う。
いつもアリスが人形を入れて運んでいるポーチそのものだ。
「これ、お前の家だろ? 前もこれに入って移動してたもんな」
人形はぱちぱちと瞬きをして、魔理沙に目で疑問を投げかけた。
「ん? ああ、これくらいはいつでも観察してるさ。魔法使いだからな」
魔理沙は、アリスのポーチに人形を収納して、飛び立つ。
紅魔館まで一直線。いつもよりずっと速く速く、飛んだ。
[命題]
「来たぜ」
がちゃり。
唐突な挨拶とともに、魔理沙はいつものようにドアを開ける。
「だからノックを――いえ、それよりも、随分な時間に来るものね。人間は寝る時間じゃないかしら」
魔女は、いつものように魔理沙を迎えた。
「こんなところにいても時間なんて気にするんだな」
「気にしているわけではないけど。無頓着でもないわ」
「ま、もちろん、用事があって来たわけだ。こんな時間にな」
そう言って魔理沙は、ポーチから人形を取り出す。
人形はぐるぐると目を回した状態でふらふらとそこからゆっくり出てきた。いつもアリスと飛ぶときより遥かに速い速度に、すっかり酔ってしまったようだ。
「そう、アリスに何かあったのね」
人形を見た瞬間に、パチュリーは悟っていた。
魔理沙がアリスの人形を連れてやってきた。その事実だけで事件性は理解できる。
言い終わるともう、読んでいた本をたたんで立ち上がっていたりする。
そんなパチュリーを、魔理沙は不思議そうな顔で眺める。
「お前ら、いつの間にか随分と仲良くなってるんだな」
「そうかしら」
「や、うん。いいことだ。不思議な感じがしただけだ、なんとなく。この調子でさっきみたいに私のことも名前で呼んでくれよ」
「泥棒ねずみは『黒いの』で十分だわ」
「なるほど。逆を言えばそう呼ばれているだけで本を略奪していくことが容認されるわけだ。お得だぜ」
「変な理屈言わないの。……急いで出発するわ」
パチュリーは、机の引き出しから必要最小限の身の回りの道具だけ集めて、袋に詰める。
出発準備はすぐに整った。
ふらふらと浮かんでいる人形を両手で優しく抱きとめると、しばらく迷った後、魔理沙からポーチを借りてそこにまた入ってもらうことにする。ごめんね、と一言呟いてから。
突っ立っている魔理沙に声をかける。
「もう遅いから、貴女は今日はここで泊まっていってもいいわ。ここまで来るのも大変だったでしょうし。この奥に私のベッドもあるから好きに使って」
「お。そいつはラッキー。助かるぜ。風呂があるとなお嬉しい」
「それは我慢して。私がすぐに許可出せるものでもないし」
「ちえ」
魔理沙は残念そうな顔をしながらも、喜んで奥にある扉に向かう。
……ぴたり。
その足が途中で止まる。
くるっとパチュリーを振り返る。
「いや、やめだ」
「?」
魔理沙は箒を構えて、座る。
少しだけ飛んで、パチュリーの隣で箒の後ろ側を向けて、止まる。
「乗れ」
「は?」
パチュリーの、ちょっと間抜けな声。
「お前一人で飛んだら、時間かかって仕方ないだろ。ってか、途中で倒れてそうだ。このほうが速い」
「……貴女なんかの世話にはならない」
「知るか。このほうが合理的な判断だろ。そいつのためだ」
「……」
魔理沙は、パチュリーの手の中にあるポーチを指差す。
実際、パチュリーが飛ぶより、魔理沙が飛んだほうが遥かに速いのは事実だった。たとえ二人乗りになったとしても、この差はまだ十分にあるだろう。
パチュリーは、魔理沙の目をしっかりと見る。
「つまり、アリスが心配だから急ぐってことかしら」
「あ? 別にあいつは心配するような状態じゃない。多分な。私はそいつに、お前を連れて来いと頼まれたから来ただけだ。それ以上の義理はないぜ」
「それは合理的なのかしらね。矛盾しているような気がするわ」
「何がだよ」
「いえ、別に。いいわ、ありがとう。今回だけはお世話になるわ」
「だからお世話とかそんなのじゃない。合理的な判断ってやつだぜ」
「どっちでもいいわ」
パチュリーは、魔理沙の箒の後ろに跨る。
慣れないため箒につかまって姿勢を維持するなどという難しいことはできない。魔理沙の体にしっかりとしがみつくことになる。
最初はかなり躊躇していたパチュリーも、いざ飛び始めるとその未体験の加速とスピードの恐怖に、ただ必死に抱きつき続けることになった。途中、腕が疲れて辛くなったあたりで魔理沙が何度か休憩を入れたため、最後までなんとか耐え切れた。
いつもこんな速度の世界を生きているのかと、魔理沙にまた別の畏怖を抱くことになる、それは短くも濃いフライトとなった。降りてから、なるべく平気な顔をしてみせたものの、平然としている魔理沙の顔に、言い知れぬ畏れと、そして嫉妬を感じていた。
[人間(二) - The Pseud -]
無事にアリスの家に着いたところで、魔理沙とは別れた。
パチュリーはポーチから人形を出して、二度目の訪問となるアリスの家の玄関をくぐる。
人形の案内でアリスの寝室に向かう。ここに入るのは、さすがに初めてだった。パチュリーが以前にこの家で世話になったときは別の部屋を使用していた。
部屋に入ると、人形ははやくはやくとパチュリーを急かす。アリスの上でふわふわと飛びながら。
ひとまず人形はテーブルの上で休ませて、パチュリーはベッドの横に立つ。
眠るアリスの顔を眺めて、熱などがないことを一応確かめる。問題ない。
「寝たきりになるのが好きな子ね……」
パチュリーは、アリスの寝顔に向かって言った。
大きくひとつ、ため息をついた。くるりと身を翻して、テーブルの前に座る。
人形を見つめて、切り出した。
「簡潔に言うわ。命の削りすぎよ。若いから放置しておいても少しずつは回復するけれど……この様子だと目覚めるまでに何日かかるかわからないわね」
人形は、それを聞いて、悲しそうに目を伏せた。
驚きは特にないようだった。推測はできていたのだろう。
このままでも命に別状は無い。それは素晴らしい知らせではあったのだが。
パチュリーも人形も、互いに沈黙したまま。重い空気が場を支配する。
「自分で、わかるかしら? ……どれくらいか」
ぽつり。
ゆっくりと間を取ったあとに、言った。
人形はこくんと頷く。
そして、指を一本立てて、そのあとに両腕で×印を作った。
「……一日ももたないのね、もう」
……こく。
人形はもう一度、ゆっくりと、しかしはっきりと首を縦に振った。
パチュリーは目を閉じてもう一度ため息をついた。
それはつまり、このまま放っておいてもアリスは回復するが、アリスが目覚めたときに再びアリスと人形が今の状態で顔を合わせることは不可能に近いということを意味している。
人形は、契約で受け取った命を糧に生きている。まだ、自力で自分の命を育てる能力は無い。アリスから命を受け取れなくなれば死を迎える。単純な話だ。
一度失われた命を取り戻す手段もない。これも単純な話。アリスはもう一度魂の契約で新しい命を生み出すことはできるかもしれないが、もちろんそれはここにいるこの人形が生まれ変わるわけではない。
「いえ……そうなれば、もう新しい命を生み出すこともできないかもしれないわね」
契約で生み出した命に、命を与えずに死なせてしまうことがあったならば、それは立派に債務不履行だ。契約魔法は、債務不履行に対して非常に厳しい。一度契約を破ってしまうと、同じ契約が二度と結べなくなることは珍しくなく、それどころか他の契約魔法にも影響を及ぼすことがある。
もっとも、そんな制約とは関係なしに、心理的にもう命を生み出すなどという行為ができなくなる可能性のほうが高いだろう。これほどまでに可愛がっている子を失って平気でいられるはずもない。
人形は、パチュリーの服の袖にぎゅっとしがみつく。
パチュリーは、そんな人形の頭を、優しく撫でた。
そもそも、もっとゆっくり時間をかけて育てるならば、こんな事態にはならなかったのだ。
アリスのやろうとしていたことは、やっていることは、通常何年もかけて育てる命を一気に一ヶ月ほどまで短縮してしまうということだった。その負担は全て、アリスの命に圧し掛かってくる。
「馬鹿な子」
アリスの寝顔に手を触れながら、話しかける。
「いつもそうなのね。貴女は自分の命を捨てすぎている」
顔を、ゆっくりと近づけていく。
「そう、誰かが早く教えてあげないといけなかったのね」
口をアリスの耳元にまで寄せて。
「いくら命を削って、早い時間の中を生きようとしても、決して貴女は人間にはなれないということ――」
アリス・マーガトロイドは魔法使いだ。
魔法使いとしてこの世界に生み出され、存在している。
その生き様は、まさに存在としての魔法使いのものそのもののはずだった。少なくとも途中までは。
霧雨魔理沙、人間の魔法使いに出会って、自らの究極の魔法を破られるまでは。
パチュリーには、アリスの存在は、魔理沙と同じくらい奇妙なものに映った。
魔力は、パチュリーはもちろんのこと、魔理沙にも劣る。
体術はパチュリーよりはずっとこなせるが、やはり魔理沙には勝てない。
決して魔法使いとして劣った存在というわけではない。標準くらいだと言ってよい。むしろ、標準くらいの腕でありながら、パチュリーのような突出した存在とほぼ対等に渡り合っていることが何よりも奇妙だった。戦ってみて初めて、その秘密が明らかになる。弱い自分を、しかし最大限に生かすために常に緻密な計算と実行の慎重さと大胆な発想でカバーしているのだ。
まるで、人間のように。
戦っているときだけではない。話しているとますます違和感が強まってくる。
会話の一つとっても、行動の一つとっても、アリスにはいつも違和感が付きまとっていた。
例えばあの美味しかったケーキ。魔理沙が美味しいと言ってくれた、とアリスは喜んでいた。あらゆる生き物の中でもっとも雑食であると同時に、もっとも繊細な味覚を持っている人間が美味しいと喜ぶようなものを作ったというのだ。妖怪であるはずのアリスが。人間向けの食事を作る意味などどこにもないはずなのに。
家の前で別れるときの会話もそうだった。あれは決して魔法使い――妖怪同士の会話ではなかった。
「ほんと、人間みたい」
だから、別れの前に、そう呟いていた。聞かせる気は無かったが。
自らの味覚ではとっくに理解できなくなっているはずの領域までこだわった食べ物を作ることも。
まるで早く死のうとしているかのように命を削って早い時間を生きようとしていることも。
理由は、単純なことだった。
アリスは、人間になりたかったのだ。
おそらく、魔理沙のように。
「あの黒いのよりは、貴女のほうがよほど人間らしいとは思うけど」
それでも、存在を変えることは、誰にもできない。
アリスだってもちろんわかっているはずだった。
その、わかりきった指摘を、誰かがもっと早くしなければいけなかったのかもしれない。
「そこの人形さん」
パチュリーは、テーブルの上でずっと俯いていた人形に声をかける。
はっと顔を上げる人形。パチュリーは、優しい声で言った。
「大丈夫、あなたが貴重な体力を消耗してまであの黒いのと私を呼んでくれたのは、間違いじゃないわ」
人形には背中を向けたまま。
手を、アリスの胸元にかざす。
「お願いが一つ。今から起きる出来事は、この子には絶対話さないで」
人形は、きょとんと目を丸くするが、パチュリーにはその表情は届かない。
話さないでも何も、もう二度と話をする機会などないということを先程確認したばかりではなかったか。人形は目でそう訴えかける。
パチュリーは、振り向かないまま、無言の疑問に答えた。
「そのまま放っておいたらそうなる、って言ったのよ」
ぶわ……と、手の中に紫色の光が生まれた。
命の回復を手助けするような都合のいい魔法は存在しない。
ならば、手段は一つ。
「――アリス・マーガトロイド。貴女と、魂の契約を結びます。私は貴女に魂を捧げ、引き換えに貴女の支配権を頂きます。具体的命令は暫く猶予。緊急状況につき、同意なしで契約を結びます」
魂の契約。悪魔の契約。
これを、パチュリーとアリスの間で結ぶこと。
人形に直接魂を与えることはできない。同じ契約の重複は禁止されているからだ。しかし、魂を与える側であるアリスを受け手側とする契約ならば成立する。
これが、人形の死を回避する、唯一の手段だった。
「契約よ、成れ」
呪文はこれで終わり。
パチュリーは、ベッドサイドに中腰になって、再びゆっくりとアリスの顔に、自分の顔を近づけていく。
ここで一度だけ動きを止めて、覚悟を決めて、あともう少しというところですっと目を閉じる。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと。
唇を、重ねた。
命のやり取りは終わった。契約はこの瞬間から有効となる。
少しだけふらつく頭を抑えながら、パチュリーは立ち上がった。
テーブルのほうに振り向くと、人形が真っ赤な顔であたふたと動き回っていた。きゃーきゃーと叫びださんばかりだ。もちろん実際には叫ぶことは無いが。その様子を見て、あまりそういうことは考えないようにと努めて平静を装っていたパチュリーも、急に恥ずかしくなって赤面していく。
「い、言っちゃ駄目って言ったわよ。いいわね」
ぶんぶんぶん。
人形は思い切り力強く首を縦に振りまくった。
パチュリーは視線を微妙に逸らしながら、言葉を続ける。
「もうちょっと、一時間もしないうちに目が覚めると思うわ。すぐに補充してもらいなさい。この子の命は今は十分余裕があるから。あと、あまり無理させないようにちゃんと言ってあげて。できれば」
ぶんぶんぶん。
ちゃんと聞いているのかいないのか。
人形は舞い上がりまくったまま、とにかく首を振りまくる。
それだけ言うとパチュリーは、帰り支度に入る。支度と言ってもちょっとした荷物を持つだけだが。
「じゃあね。また会いましょう」
なるべくアリスの顔も人形の顔も見ないように、そっぽを向いて別れの挨拶。
人形の様子を見ていると自分まで妙に舞い上がってしまいそうで怖かった。
すぐに部屋を出ようとすると、人形が後ろからひしっと腕にしがみついてきた。
ちらりと眺める。人形は、腕に抱きついて体をすりよせた後、体を離して、ぺこりと頭を下げた。
それを見て、笑う。
「――やっぱり主人に似て、礼儀はできてるわね」
手を振って、改めて別れを告げて、家を後にした。
行きは少なくとも飛行の体力は使わなかったおかげで、今からでもなんとか帰れそうだった。
行きも自力で飛んできていたら、命を分け与えたときに力尽きてここで眠ってしまっていたかもしれない。
――まさか、魔理沙がそんなことまで読んでいたとはいくらなんでも思わないが。結果的には、大いに助けられてしまった。
なんとか、三人の魔法使いは、夜が明ける前までにはそれぞれがあるべき状態に戻れそうだった。
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