悲鳴。歓声。
 ボールの弾む音、激しく交錯する足音。
 この、バスケットボールというゲームでは、しんと静まり返る瞬間というものがほとんど存在しない。常に「動」を維持する、いかにも西洋的なスポーツだ。例外といえば、フリースローを投げる瞬間くらいか。
 さて、高校内のイベントとしての球技大会である以上、どの競技であっても、結局のところ少数のヒーローまたはヒロインに注目が集まるのは必然といえる。時代が変わっても、プレイヤーが変わっても、この事実だけはきっと永遠に変わらないのだろう。
 ことに、バスケットボールというのはもっとも注目度の高い競技だ。単純に、見た目に実にカッコいいからだ。もちろん人気も高いため、大会直前に付け焼刃の練習をした程度ではなかなかヒーローにはなれない。
 では今日の主役は誰だろうか。もちろんこの僕、百瀬成美――は、応援席からぼんやりと眺める役だ。
「がんばれー! せなー!」
「決めろーー!」
「すっごおおおいっ! かっこいいーっ」
 きゃーきゃー。
 主に女子軍団が大盛り上がりだ。男子軍団のほうも歓声は上げているが、騒ぐよりは割と真面目に試合展開を気にしているか、そもそも試合ではない別のところに視線が集中しているかのどちらかのほうが多い。
 気になるのは、ちら、と確認した程度だが、明らかに敵視するような表情で試合を眺めており、低レベルだの、あのくらい初心者でもできるだの悪態をついている一団もあることか。
「うーん……美しい。やっぱり、こう、なんだ。健康美ってのはいいな。お前もそう思うだろ?」
 隣のこの男は、完全に千種ばかりを目で追いかけている少数派だった。
 別にそれは構わないけど、僕にあんまり振らないで欲しい。
「いや、僕にはよくわからないけど」
「見慣れてるからもう感動はないだって! なんて恵まれすぎた立場からの発言! 俺はお前と代わりたいぞ。よし今日から俺は百瀬だ。百瀬浩一だ!」
「養子にでもなるのか……」
 名字だけ変えてどうする。
 テンション高いこの男は、五十嵐浩一。まあ、友達だ。
「いいかルミ。慣れた仲だからといって寡黙になるのはよくない。今更照れくさいと思っても褒めるときはちゃんと褒めるんだ。可愛い、可愛いって言ってあげれば女の子はもっと可愛くなるんだ。本に書いてあったから間違いない」
「だから、別にそんな感じの仲じゃないんだって。姉か妹にいきなり可愛いよとか言うようなもんだよ? 想像してみてよ」
 僕が千種にいきなりそんなことを言ったとしたら……
 ……ひどい。なんというか、ひどい。想像がつかない。想像しろと言ってみたものの自分ではまったく想像できない。
「いいや違うね。千種さんは間違いなくルミの言葉を待っている! あとはルミ次第なんだ!」
「……」
 妄想乙。
 この男はいつもそうだった。何度否定しても、僕と千種が付き合っているか――少なくともそれに近い状態であるかのように断言して、もっとはっきりしろだとか大切にしろだとかそんな主張を押し付けてくる。
 今日に限らず、千種がいかに美しい/可愛い/性格もいいかを僕に教えてくる。今日のように千種が明らかに皆から注目を浴びている日となると、いつに増して強く押してきていた。ほら、こんなにモテる子なんだぞ、と危機感を煽るかのように。
 言われなくてもわかっている。試合が始まる前からわかっている。
 なんとなく居心地が悪くて、僕はあまり真面目に試合を見てはいない。見なくても、どちらがどれくらい勝っているかくらいはだいたいわかる。――声援を聞いていれば。
 女子バスケットボールとなると、千種瀬名の独壇場だった。校内イベントである以上、バスケ部員のメンバー入りは禁止されている。という意味で、「元」バスケ部員であるというのは事実上メンバーとして最高条件だろう。
 そうでなくても、千種は背が高い。背の高さというのは大抵のスポーツで有利に働く条件だ。バスケットボールなど、その最たるものだ。つくづく日本人には不向きなスポーツだと思うのだが、人気は高い。僕には不思議でならない。
 考え事をしている間にも、千種は相手からボールを奪ってドリブルを始めている。こうなるともう誰にも止められない。相手側にも経験者はいるようで、スコア的には善戦しているようにも見えるが、やはり流れとしては完全に千種のクラスが押している。
 千種が上手いのは、ただ自分が独走して点を取りにいくだけではなく、ちゃんとクラスメイトにも活躍の場を渡しているところだ。上手いパスを渡して、リバウンドを完璧に処理することで気軽にシュートしやすい状況を作っている。こうすることで、皆の士気を維持するわけだ。器用なものだ。
 僕は横目で進行具合を見つつ、ちら、と体育館の時計を確認して、立ち上がる。
「ん、おい、どこ行くんだ」
「すぐ戻るよ」
「試合もうすぐ終わるぞ? 最後まで見てやれよ」
「勝負はもう決まってるし」
 なにやら不満げな五十嵐は、適当にあしらう。
 わっと大きな歓声が再びあがる体育館を後にして、一転して静寂に包まれた廊下に出る。体育館内の熱気がなくなって、さらに風も吹くため、急に寒くなったように感じる。手で全身を抱くようにして、体が冷え切らないうちにさっさと目的地まで早足で歩く。
 自販機の前にたどり着いたときにはもう掌の中に小銭が準備できている。
 冷たい風に吹かれて思わず温かいものに手が伸びそうになるが、違うだろ、と自分に心の中で突っ込んで、いつものオレンジジュースのボタンを押す。ぴ、という軽い音の直後に、がたがたんと音を立てて缶が取り出し口にまで落ちてきた。
「冷たっ」
 缶を摘んだ直後に、一度手を離す。……実によく冷えている。きんきん、という奴だ。そういえば僕は昔からなぜ冷たいときの表現がきんきんなのか不思議だった。確かにニュアンス的にはわからないでもないのだが。きんきん。こう、金属的な擬音。固い音。つまり氷の印象なのだろうか。それとも、カキ氷を食べたときによく生じるあの脳を突き抜けるような「きーん」という感覚からきているのだろうか。あの感覚をきーんと呼ぶのは何故だろうというループしそうな感じもしてきた。そういえば英語でkeenって鋭いって意味だ。やっぱりこれもきーんって感じからなんだろうなあ。えーとなんだっけ。ああ、そうだ。つまり冷たい。
「頑張りすぎだろ、お前……」
 自販機に向かってぽつりと呟いた。
 たまたま通りかかった女子生徒に不審な目で見られた。
 後悔した。
 しかし打たれ強い心の持ち主である僕は何も気付かなかった振りをして堂々と体育館へと足を運ぶのだった。
 体育館の床に一歩目の足が触れたのと、試合終了のホイッスルが鳴ったのが同時だった。
 ああ。ナイスタイミングだった。
 わあ、と一段大きな歓声が体育館に響き渡る。千種が小さくガッツポーズを作ると、すぐに他のメンバーがその周囲に集まりだして健闘を称えあう。
 コートの外に出てタオルを手にとって汗を拭く千種の前まで行く。
 千種は僕を見つけると親指をぐ、と立てて、僕が差し出したオレンジジュースの缶を自然に受け取った。ほとんど間を置かず、プルトップに手をかけて缶を開けると、ごくごくと勢いよく飲み始めた。
 ……うああ。やっぱり注目集めてるよ。そりゃそうだ。ずっと千種は注目の的だったわけで、そこに急に僕という異分子が乱入してきたわけだから、注目の一部が僕に移るのは自然な展開だ。
 とはいえ、誰だこいつ、というような視線はほとんどない。まあ、またおまえか、という感じが半分と、あと半分は優しさでできてきます。じゃなくて、それぞれに色々思うところがありそうな感じ、としか表現しようがない。
「冷たい」
 千種はといえば、かなりの勢いで飲んでから、平然とそんな言葉を吐く。
 注目を集めることなんて慣れっこなのだろう。
「注文どおり、買いたてだよ」
「次はもう少しくらい買ってから時間置いたほうがいいかもね。まあ、ありがとう。助かるわ」
 その言葉だけ聞くと、僕はすぐに下がって千種から距離を置く。
 それを待っていたかのように、というか待っていたのだろう他の女子メンバーが改めて千種のもとに集って千種を称えたり次の試合の話を始めたりする。
 自然にフェードアウトして自分の居場所に戻ると、五十嵐がニヤニヤした笑みを浮かべて待っていた。
 ああやだやだ。
「やるじゃん。ポイントゲットだな」
「……頼まれてなかったら、あんなことするもんか」
「そうやっていちいち照れ隠ししてこそルミだな。ああわかってるぞこのひねくれものめ。千種さんがお前以外の奴にあんな役を頼むものか」
「僕は、あんまり人前で千種と並びたくはないんだけどな……」
 自分自身はそれほど気にしているわけではないが、周囲から何度も言われるとどうしても意識せざるを得ない、身長差の問題。
 千種の身長は男子の平均とほぼ同じくらいだ。つまり単純に言えば男子の約半数は千種より高くて、残り半数は低い。僕は、後者のほうに属する。2〜3センチの差とはいえ、不等号の向きは絶対だ。
 そのうち千種に男子生徒も声をかけ始める。千種が明確に見上げるほどの背の高さを持つ奴もいて、そのたびに、ああ、普段はみない角度の顔だな、なんて思ったりする。
「ま、変なことは気にするなって。千種さんほどの子が誰とも付き合ってないし付き合いそうにもない理由を考えてみろよ。わかるだろ?」
「財布の中身で決まるような気がしないでもないんだけど……だいたいそれなら、五十嵐が彼女作らない理由はなんなのさ」
 五十嵐は、はっきり言って、千種よりもモテる要素は満載だ。入学当初から全科目で学年上位をキープし続ける頭脳よし、背も高くて顔も……まあ、普通にカッコいいし、言動にも嫌味がなくて、性格も僕が知る限り少なくとも僕よりは間違いなくいい。
 だというのに、五十嵐は僕のことばかり構っていて、自分はさっぱり恋人を作る気配がない。
「ん? 俺は3次元には興味ないからな。時代は4次元だぜ?」
「次元上がるのかよ! どんな存在なんだよ!」
「下がるほうなら普通だと言わんばかりのそのツッコミ……嫌いじゃないぜ……」




 ――実際問題として、実のところ、千種と一緒のときに「そんな空気」になったことは今まで一度もない――というと、嘘になる。
 小学校からの付き合いとなると、黒歴史の一つや二つはあったりするものだ。
 今はあえてそれを思い出して語る必要もないだろう。千種は忘れてくれているといいんだけど。




 大いに盛り上がった試合が一つ終わって、次の試合の準備が始まる。
 千種も五十嵐ももう体育館を後にしている。僕はまだここに残っている。……いや、そんなにバスケが好きなわけではなく。
「ねえね、百瀬君」
「ん?」
 後ろから名前を呼ばれて振り向くと、女生徒が僕の顔を見上げていた。
 声をかけた女の子から少しはなれて後方に二人いる。……どうして女の子というのは三人組で行動するのだろうか。こう、三すくみ的な何かが成立しているんだろうか。……たぶん、たまたま今までよく見たグループが三人組が多かったというだけのことだろうけど。
 三人とも、女の子にしては背が高い。千種ほどではないけど。
「瀬名、どこにいったか知らない?」
 ああ。
 友達でもない、学級委員繋がりでもクラス繋がりでもない女生徒が僕に声をかけるとしたら9割くらいは用件は決まっている。
 千種について。
 高校生活ももう半年を過ぎて1年になろうかというところだったが、千種のことは僕に聞け、という定説は既に広まっているようだった。困ったことに、僕自身もさほどその状況を疑問に思うこともない。中学時代も小学校時代でさえもそうだったのだから。つまり、慣れている。
 とはいえ、さすがに千種がいつ何をしているかを常に把握しているわけではない。というか、むしろ実は知らないことも相当に多い。長い付き合いなのにそんなことも知らないのか、と千種と知り合って一年目レベルの人に言われたりすることも多い。それでも、まあ、よく一緒にいるんだから居場所を聞くには一番真っ先に当たってみる相手だろう、と思われている節がある。
 そして僕の答えはだいたい簡単なものだ。
「ごめん、今はわからない。少し前までここあたりにいたんだけど」
「そう。また戻ってくるの? 百瀬君は戻ってくるの待ってるんじゃないの?」
 僕は別に千種のハチ公じゃない。
「すぐに着替えて、あとはぼーっとしてるんじゃないかな。体育館には戻ってこないと思うよ」
「そ。一緒じゃないのね。わかったわ」
 くる。
 女の子は後ろの二人に、行こ、と声をかけてそのまま去っていった。
 ……一人だけ、去り際にちら、と僕の目を見て、申し訳なさそうな目で少し頭を下げてから、残りの二人の後について行った。
 体育館から出て行くところまで見届けて、僕は一人呟く。
「うーん」
 実際のところ、千種の行動パターンからすると、誰もいなくなっているはずの教室か、さもなくば屋上だろう。
 別に、教えてやる義理はない、とニヒルに決めたかったわけではない。屋上の件は、千種にとって、そして僕にとっても落ち着ける安住の地というポジションでもあるので、わざわざその場所を教えることで聖域を壊してしまうつもりはないのだった。
 ただ今回の場合はそれだけの問題ではなかった。
 記憶違いでなければ、声をかけてきた女の子は、さっきの大会で千種を批判していた声の持ち主だ。素人の大会で云々と。
 そして、女の子たちは、三人とも長身だった。言葉などから察するに、バスケ部員ではないか。
 さて、試合中に千種に悪態をついていたバスケ部員の三人と、試合でヒーローになっていた元バスケ部の千種。
 ……それこそ、場所を教えてやる義理はないだろう。部員としてかつての仲間にアドバイスでもしてあげようなんて話では、絶対に、ないだろう。
 まったく、ヒーローになるというのも大変なことだ。僕には縁のない話でよかった。人生、目立たないほうが得をするんだ。たぶん。
 体育館では次の試合までの間、僕のクラスのチームが練習を行っていた。割と真面目に練習してきていたのか、それなりにまともな動きをしている。と言っても千種のプレイを見た後ではどうしても物足りなさを感じてしまう。実際、応援団は両チームのクラスの関係者だけになって、先程よりはずいぶんと熱気は治まっていた。さしたる興味もないが、僕も一応自分のクラスは応援するつもりだ。
 つもり、だった。
 ちら。練習の光景から目を離して、再び体育館のドアを見る。少しずつ、僕のクラス、相手のクラスの応援にやってきた生徒が増え始める。
 僕は無言で立ち上がった。応援は、とりあえず今くらいの人数いれば十分だろう。もともと勝とうが負けようがそんなに興味はない。興味のないものを見るために時間を費やす必要はない。単純な理屈だ。
 ……別に、心配になったわけじゃないんだぞ。ちょっと喧騒を抜けて一人になりたいだけなんだ。
 誰に言うでもなく心の中で呟きながら、僕は体育館を後にした。


 屋上に向かう階段は、いつも人気がない。にんき、じゃなくて、ひとけ、だ。まあ、にんきも特にないだろうけど。今クラスで大人気の階段! なんて話は聞いたことがない。踏まれても蹴られても泣かずじっと僕らの道を支え続ける階段たん萌え! とかそういう発想はできないわけでもないか。あ、今、手すりを持って滑り降りる生徒に対して「そんなに私は面倒な子ですか? バリアフリーじゃないんだってあなたも私を責めるんですね……?」って悲しい顔するカイたん(略称)の姿が見えた気が。大丈夫だよ君は悪くない。どんな時代になっても君はまだ必要なんだ、絶対。
 何でも愛せる日本人万歳。
 何だっけ。ああそうだ屋上に行くんだった。まったく、ただ向かうだけなのにこんなに思考を奪うような罠があるなんて学校とは恐ろしいところだ。お前が勝手に妄想してただけだろ! はいそうです異議なし。
 鉄のドアを開ける。屋上への扉というのは、重い。まるで半端な覚悟で足を踏み入れることを拒否するかのように――あるいは警告するかのように。なんてことはなくて、要するに鉄だから重いというそれだけのことだ。強い風をまともに受けるドアだから強度が必要なんだろう。
「ってか、寒っ!」
 まさしくその強い風がいきなり体を直撃した。
 ダメだよ北風くんそれじゃ僕の服は脱がせない……さあ手本を見せてくれ太陽くん。
「さすがに、ここじゃないか……」
 そろそろ屋上に出るのは辛い季節だ。まだまだあと1ヶ月は粘れると思うが、まだ僕はこの高校での冬というものは経験したことがないので自信をもって断言はできない。実際のところ真夏でも非常に辛い場所なわけで、屋上で快適に過ごせる季節というのは実に短いものなのだ。
 千種も別にこれくらいの寒さを耐えられないわけではないだろうが、運動した直後にこの寒さの中に身を置くこともないだろう。とにかく、結果としては、千種はいなかった。
 それなら、自分のクラスの教室だろう。ふむ、と引き返しかけて、気づく。
 あれ? 僕は落ち着くために一人になりにきたんじゃなかったか? 千種がいないなら好都合なんじゃないか?
 正しい理屈。ドアに伸ばした手が止まる。
「……いや……寒いからな」
 そうだ。
 落ち着くにも場所は選ばないとな。わざわざこんな寒いところを選ぶ必要はないだろう。
 そして屋上を後にした。


 廊下が女の子だったとして、ローカちゃんなのか、ロウカちゃんなのか、それが問題だ。
 前者のほうがなんとなくお嬢様ぽい。なんとなくフランス南部の香りがする。後者はまったく逆に、アクション系の気の強そうなヒロインという感じだ。中国っぽい。ロウカの場合、老化という漢字も連想してしまうのが難点か。
 ここはひとつもう一歩踏み込んでルゥカ、というのはどうだろうか。小さいゥが可愛らしさのアクセント。ただでさえ短い名前なのに普段はさらに略されてルゥとばかり呼ばれてるのを気にしてそうだ。この名前の場合、小さな女の子、という印象を受ける。ような気がする。
 暇つぶしにそんなことを考えながら廊下を歩く。外と違って風がないから寒さは感じない。どう考えても静かに過ごすにしても屋内だな。うん。
 ちら。教室の前の表札を見上げる。1−8。千種のクラスはこの次だ。
 ……少し、歩みを遅くする。すでに、微かに誰かの声が聞こえてきている。あまりいい印象を受けないトーンの声が。
 足音を抑えるような歩き方に変えて、1−7の教室の前を歩く。
「――で、いいよねえ、あんたは」
 今度は言葉の内容まで聞き取れた。途中からになったが。
 ぴた。少しドアを通過したあたりで、足を止める。驚いたような顔を作って、何か大切なことを思い出したかのように目をきょろきょろさせながらこぶしを軽く握ったりする。何かを考え込んでいるようなフリだ。――廊下には他に特に誰もいないのに、無意味に演技をしてしまった。
「あんたは恥ずかしくないの? あんなお遊びバスケで張り切って目立ってきゃーきゃー騒がれたりしてさあ。そんなにモテたいわけ?」
 ……これはまた。
 いい方向に考えようもないくらい直球な悪態が聞こえてきた。
 声の感じはかなり違うように感じたが、おそらくさっき千種の居場所を聞いてきた子なのだろう。
「全力で、楽しくやってるのよ。どう見られているかなんて興味はないわ」
 こちらは馴染み深い千種の声。いつもどおりに冷静な声を聞いて、安心する。この様子だとせいぜい愚痴のようなことを言われている程度で、我慢して適当にあしらえば済むくらいの問題か。
「部活でやると目立てないから楽しくないけど素人相手なら通用するから楽しいって? はん」
「つまり、部活内でやればいいってこと? そういうことなら、私はまた戻るわよ」
「ジョーダン。あんたの居場所なんかありませんよーだ。バッカじゃねーの」
「でしょうね。でも、私はバスケをやる機会があるならやりたいの。あなたたちの邪魔にはなっていないでしょ」
 うわ。きっつい……
 なんなんだ。千種がバスケ部をやめたということは知っていたが、理由は特に聞いていなかった。この様子からするとどう考えても喧嘩別れに近い感じだったんじゃないか。
 ここまで露骨に挑発されても落ち着いている千種は凄いかもしれない。
「頭悪いなあもう! わからないの? あんたのたいしたことないレベルのプレイでいかにも凄いことをやったかのように騒がれると不愉快だって言ってんのよ。バスケに対する冒涜なのよ」
 一方で、こちらはヒートアップしてきている。声ははっきりと響いてくる。
「お遊びバスケ、てあなたが言ったんじゃない。そんなこと言い出したら校内の大会は全部結局部員だけが戦う大会にすべきなんてことになっちゃうでしょ」
「あんたは中途半端に元部員だからサイアクなの! はっきり言って、中途半端だから、気持ち悪いんだよね。これ以上さ恥かくまえにやめなよ。素人集団に混じっていい気になってるのって、ほんとかっこ悪い」
「私だけが経験者なわけじゃないわ。中学時代にやっていた子もいるから、そんなに低レベルでもないし」
「ごちゃごちゃうるさいわね! とにかくウザいからもう次から出るなって言ってんのよ」
「嫌。出る」
「このっ……!」
 ――ぱぁん。
 乾いた音が響いた。
 ああ。これはまずい。もう、まずい。
「あんたっ……!」
「はーいーーーえーと……ちょおっと待ったー!」
 がらがら。
 引き戸を開けながら、叫んだ。
 決め言葉になる第一声が思いつかなくてちょっとアレになってしまったことが悔やまれる。
 真っ先に千種の姿を確認する。手で左の頬を押さえているところからすると、やはり今の音は叩かれた音なのだろう。僕が入ってきたのを見て、少し目を丸くしている。
「あ? なんだっ……ああ、あんたか。なんだよ、盗み聞きかよ、変態」
 うわあ。うわあうわあ。
 千種以外の女の子に初めて変態って言われちゃったよ! 千種には割と言われてるけど!
 その女生徒はやはり、先程千種の居場所を聞いてきた子で間違いなかった。ついでに、残り二人も、いた。声は一人分しか聞こえてこなかったところからすると、いつもこの子が一人喋りまくっているのだろうか。
 いきなりのきつい言葉に少し身を引いてしまいそうになるが、相手のほうもやや気まずい顔を隠しきれなかったことに気づいたおかげで、まだ割と冷静になれた。
「歩いてたら聞こえてきたんだ。あんだけ大きい声だと廊下までしっかり聞こえるっての」
 強気に、強気に。
 ここは多少威嚇するくらいの気持ちでいかないと、気圧されてしまったら負けの場面だ。こういうシチュエーションは慣れていないのでできれば避けたかったが、飛び込んでしまったものは仕方がない。切り抜けないと。
「いや、実際、話の中身は、まあどっちの主張もわからんでもないというか、どっちもそれなりの理はあるような気がするんだけど」
 これは、本音だ。現実問題として、千種がいるチームに勝つのは至難の業のような気がする。勝敗の行方自体を盛り上げるためには千種は出ないほうがいいのだろう。ただ、当の参加者たちも勝敗自体にそれほどこだわりを持っているわけではなさそうだが。女子大会のほうは、特に。
 というわけで、別に僕は無条件に千種の味方というわけではない。
「けど、殴るのはいけない」
 そうだ。言うことを聞かせるのに暴力に訴えるのは、絶対にダメだ。
 僕だって千種に色々と横暴なこと言われてるけど直接的暴力を受けたことは一回もないぞ! けんかしたら絶対勝てない自信があるというくらいの力の差があるのに!
「んだよ、うっさいな。体育会系じゃこれも言葉なんだよ、覚えとけ」
「絶対違う。教育のために多少殴ることはあるかもしれないけど、対等な対話の状況での力の行使は、ただの暴力だ」
 うわあすんごい睨んできてるよ。
 怖いって。怖いって……
「じゃあさ、あんたが言ってやってよ。素人の試合になんか出るなってさ」
 そうきたか。
 いや、そうくるよな、流れ的に。
「でもさ」
 うあん。
 でもって言った瞬間に物凄く睨まれた。やめてよ。落ち着かなくなるからやめてよ。とりあえず大人しく聞いてくれよー。お願い。うー。
「千種も言ってたけど、実際、他に経験者も多いみたいだし。千種も高校では半年くらいしかやってないんだから、条件としてはそんなに変わらないんじゃないかな」
 たまたま千種が実力で一つ抜けているから、どうしても目立ってしまうけど。
「やっぱり瀬名の味方なんじゃん。もういいよ、あたしたちの問題なんだから、あんた消えて。邪魔」
 敵とか味方とかじゃなくてさあ。うう。
 どう話せばいいんだろう。ここまで完全に聞く耳持たない相手に対して……
 い、いや弱気になるな自分。引いたら負けなんだ、この状況。いくらなんでも、はいそうですかと帰るわけにはいかない。冷静さを保つんだ。そうだ、理性的になるべく客観的に意見を書いたのに本人乙の一言で終わらされたことなんて何回でもあったじゃないか。それを思い出すんだ。
 ……
 思い出したら悲しくなっただけで、解決策は見つからなかった。
 まてまて。悲しくなっている場合じゃない。諦めたらそこで試合終了だよ。こういうときはとりあえず「ゆさぶる」んだ。心のLボタンを押して……
「バスケ部の問題、というのは、違うよ。球技大会の問題、つまり、球技大会の参加者のみんながどう思ってるかの問題だよ。僕が見た限りじゃ、千種のクラスはもちろんだし、相手側も楽しんでやっていたから問題ないと思うけど」
「あたしらの問題なんだよ! はっきり言って、不愉快なの、キモいの、目障りなの、わかる?」
 わかりません。
 泣いていいですかもう。ダメですか。そうですか。
「例えばさ、百瀬君」
 わ!
 初めて三人組のいつもの一人以外の声を聞いた。こっちはまだ割と話が通じそうな顔をしている……ように見える。
「百瀬君の友達がいきなり小学生向けのテスト受けて一番取ってさ、それで周囲から天才だの凄いだの騒がれていい気になってたら何か言いたくなるでしょ?」
「それしか受けるものがなかったなら、いいんじゃない。それで自分が天才だなんて思ってたら問題だけどさ」
「思ってんのよ、こいつは」
 またいつものほうの発言に戻った。ああ。名前が分からないと面倒だ。とりあえずこっちのほうの子はA……アルファベットだとまだわかりにくいからアーリマン(仮)としよう。
「思ってるのか、千種?」
「そんなわけないでしょ」
「というわけだが」
「はっ。あんなにチヤホヤされてさぞかし気分はいいことでしょうよ。見てるほうが気持ち悪いわ」
 ……話が通じない。
 どうしたらいいんだ。
 今は千種の気持ちが問題にされてるんじゃなかったのか? また堂々巡りしてないか?
 ぐるぐる。えーとなんだ。どうしよう。
「――なんだ、つまり嫉妬してんだろ?」
「……んあ?」
 え、違う。
 今のは僕じゃない。あれだ。廊下から聞こえてきた。ていうか五十嵐の声だ。
 僕も急なことにびっくりしたが、アーリマン(仮)の声もずいぶん間抜けなものだった。
 振り向くと、五十嵐がちょっとポーズを決めて立っていた。
「よ」
 僕と目が合うと、右手を軽く上げる。
 ああ。救世主だ。すばらしいところに現れてくれた。
「なんて言った?」
「嫉妬だ、ってね。本当は自分のほうが上手くできるのに自分にはその場が与えられなくて悔しい、私だって活躍したい……そういうことだろ」
「っざけんな! あたしはこんな低レベルな戦いでやりたくはない!」
「だろ? だったら君はもっと高レベルな戦いに身をおいて、そこで活躍して、本当に意味のある賞賛を受ければいい。自分より下のことなんて構ってないでさ」
「……」
 アーリマン(仮)の表情に明確に動揺が見て取れた。
 何か数秒ほど迷った挙句に、千種を睨みつけて、ち、とあからさまに舌打ちをした。
「男はあんたの味方か。いい身分だよ、瀬名」
「……」
 千種は相変わらず冷たい目でそれを受け流すだけ。
「行くよ! これじゃ、話にならない」
 そして、アーリマン(仮)は残りの二人に声をかけて、一人で先に歩き出した。教室の出口、五十嵐が立っているほうとは別の戸に。
 先ほど一言だけ喋った女の子のほうが、黙ってそれに従ってついていく。
 最後に、いまだに一言も声を聞いていない一人が、他の二人に見えないように密かに千種に対してごめんね、と言わんばかりに手を小さく合わせて、僕のほうにも少し頭を下げて、ぱたぱたと小走りで教室を出て行った。
 ……うーん。なかなか色々ありそうな人間模様だ。
 静かになった教室で、最初に口を開いたのは五十嵐だった。
「体育会系ってやつは、面倒だな。やっぱり静かに星を眺めるに限るぜ。千種さんもそう思わないか?」
「あんまり」
「うっは。1パーセクくらいの距離を感じるお返事を頂いたぜ……」
「でも、ありがとう。助かったわ。百瀬もね」
「や……別に、助けようと思っていたわけじゃないし」
「いいじゃない、お礼くらい素直に受け取りなさい。……あんたほんと、『別に』って言うの好きね」
「え? 別に、そういうわけじゃ……うぐっ」
 一本取られた。というか自爆か。千種は、くす、と微かに笑った。
 くそう。
 なんで二人ともそんなに落ち着いているんだ。僕なんかやっと緊張感から解き放たれたところで割と心臓もドキドキし続けているというのに。千種なんてまともに当事者じゃないか。僕が来るまで三人に集中して詰め寄られていたんじゃないか。しかも殴られていたりして――
「って、そうだ! 叩かれてたみたいだけど、大丈夫?」
 放置してしまっていたが、廊下まで結構いい音が聞こえてきたからには、遠慮ない一発だったはずだ。平手とはいえ、口の中が切れていないとも限らない。
「何? 手まで出してたのか、あいつら」
 五十嵐の表情が急に固くなる。こちらのほうは、さっきまでの余裕の表情や声は消えた。
「平気よ。百瀬と違って、鍛えてるからね」
「いやそこは鍛えてないだろう……」
「あー……ちょっと赤くなってるな。一発だけか?」
「ええ。まだ続くようならやり返してやろうかとも思ったけど、まあ私は寛大な清純派美少女だからこれくらいは笑って許してあげるわ」
「美少女関係ないだろっ! あと誰がせい」
「いいや関係あるね! ルミはそこが甘い!」
 ええええ。
 ツッコミにツッコミ返しをされるというレアな経験をしてしまった。しかも途中で遮られてまで!
「千種さんはさすがだな。けど、あの様子だとまだあいつら納得はしてなさそうだからな……また同じことがないとは限らん」
「そうね。……面倒だわ、ほんと。放っておいてくれればいいのに」
「当分一人にはならないほうがいいかもな。と、いうわけで、ルミ、頼んだぞ」
 ……
 え?
「何を?」
「たぁけ! 千種さんを守る役割はお前しかおらんだろ! 今日から当分の間ルミは責任もってちゃんと千種さんを守り通すように。千種さんもそのほうが安心だろ?」
 そんなばかな。
 僕がいても結局たいして役に立たないことがさっき証明されたばかりじゃなかったか。
 というか、守ると言ったって何かあったらすぐかけつける! なんてヒーローみたいなことができるわけじゃあるまいし。そもそも千種のほうが精神的にも身体的にも強いのに僕に何をしろと。千種だってこんなのいても邪魔だと思うに決まってる。
「そうね。できる限り一緒に行動するようにするわ」
 ほら! 邪魔だって!
 ……
 ……うぇ?
「ちょ、ま、待ってよ。それなら五十嵐のほうが向いてるんじゃないか。僕はさっきだって結局役に立ってないし」
「急に俺が千種さんにべったりしだしたら不自然だろ? ルミならその点は何の問題もない。今にしても、お前がいたから直接的な暴力は控えられたんじゃないか」
「僕は別に、何も……」
「『別に』?」
「……ぐう」
「まあ、百瀬がそんなに嫌がるんならいいけどね。私は一人でもなんとかするわ」
「いやいやいやいや千種さん。こいつのことは、もちろん千種さんのほうがよく知ってるだろうけど、単に照れくさいのと面倒がってるのが混ざって消極的になってるだけだ。――なあルミ、お前だってさ、今回みたいに心配だから探し回ったりするの、嫌だろ?」
「べ、別に探し回ってたわけじゃ……! たまたま、通りかかっただけで……って、五十嵐が僕がどうしてたかなんて知るわけがないじゃないか!」
「まあな。そうやって赤くなってムキになるところが答えだ」
 う。うう。
 赤くなってなんかいないぞ。ムキになってもいないぞ。
「っはは、もうっ」
 千種はこらえきれなくなったとばかりに笑い出した。
 さっきの微笑とは違って、もう、楽しくてたまらないというくらいの笑いだ。
 うう。なんだろう。なんだかいたたまれない。
 じ。椅子に座った千種は、立ちっぱなしの僕を見上げて、言った。
「百瀬。私はあなたにお願いしたいの。私を守って」
「ぅ……」
 まさか千種の口からそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。
 な、なんだろう。そんな微笑みと声で頼まれると、まるで本当に、千種が守ってあげないといけない女の子かのように見えてしまう……
「わかった……できるかぎり」
 これが雰囲気に呑まれるということなのか。
 僕は目を逸らしながら答えていた。
 隣では五十嵐が例によってニヤニヤと――あれ?
 不思議な違和感に囚われているうちに、五十嵐もまた笑い始めていた。
「よかったなルミ! これからが勝負だぞ!」
「何のだよ……」
 ううん。なんかさっき、一瞬だけ見えた表情、見たことないような複雑な感じだったけど……
「ありがとう、百瀬。お礼にさっきのジュース代は払うわ」
「それは文脈関係なく当然だからー!?」
 ……おお。
 おお。
 自分でも驚くほど元気な声が自然に出た。我ながらNice Tsukkomi.




→後編